中山道旅日記 19 美濃・関ケ原(INTERMEDIATE)

日本史上最大のイベントといえる関ケ原の合戦は、徳川家康の「野望」と石田三成+直江兼続の「義」の戦(いくさ)であったというべきである。

しかしながら「絶対的な力」と「正義」の戦いは「絶対的な力」が勝つ。

司馬遼太郎は、小説「関ケ原」において「正義などというものは秩序が整っていれば秩序維持のために必要だが乱世においては人も世間も時勢も利害と恐怖に駆り立てられて動く。幼君秀頼につくのが利か、第一の実力者である家康につくのが利か、それのみを考えて動いているのである。自家を存続させたいという欲望が恐怖につながる。判断を誤れば自家は滅んでしまうという恐怖の前には正義など何の力ももたない。つまり特に乱世において人は強弱で動く、善悪では動かない。」と書いている。

謀反の疑いをかけられた前田利長前田利家)の嫡男・五大老の一人)は、家康の力に屈し、五奉行の中で最も親徳川であった浅野長政までも同じ嫌疑をかけられ引退に追い込まれている。つまり、家康はあらぬ難ぐせをつけ、豊臣政権の中枢にある五大老五奉行の一人一人を力で屈服させていったのである。

当然のことながら利を見るに敏な武将たちはこぞって家康に媚びた。

さらに家康は、高台院(秀吉の正室・ねね(北政所))を抱き込み、「三成憎し」に凝り固まる秀吉子飼いの武闘派諸将を味方にすることに成功した。

竹中半兵衛と共に秀吉の軍師を務めた黒田如水黒田官兵衛)の嫡男・黒田長政は小早川調略に動き、西軍の総大将・毛利輝元一門の吉川広家は、黒田長政を通じて家康に内通し、毛利領安堵の密約を取り付けている。

さて、福島正則宇喜多秀家の銃撃戦で幕をあけた関ケ原の合戦は最初、西軍が優位に立っていた。しかし小早川秀秋の裏切りで一気に形勢は逆転し、家康が勝利を収めた。そして薩摩・島津義弘の敵中突破で幕を下ろす。

司馬遼太郎の小説をドラマ化したTBSドラマ「関ケ原」の終盤で「歴史は時として最もふさわしくない者に重要な鍵を預けるものである」といったようなナレーションがあったように思うが「最もふさわしい者に重要な鍵を預けた」というべきである。

なぜなら、この戦で西軍が勝利を収めていれば世は再び乱世へと逆戻りしたに違いない。西軍には「絶対的な実力者」がいなかったからである。

ともあれ、「応仁の乱14671477)」以降100年以上続いた乱世はここに終わりを告げる。

日夜、戦に明け暮れた時代を「戦のない世」に導いた家康の功績は大きいと言わざるを得ない。

ただ、いわば主家である豊臣から権力を奪い取った後ろめたさは、家康を正当化するために三成を徹底して「悪人」にする必要があった。

徳川氏は、その治世二世紀あまりを通じて石田三成を肝心(かんじん)とし続けた。(中略)ただひとり、水戸黄門で知られている徳川光圀のみが、その言行録「桃源遺事」の中で「石田治部少輔三成は憎からざる者である。人おのおのその主人の為にはかるというのは当然なことで、徳川の敵であるといっても憎むべきでない。君臣共に心得るべきである」と語っているのが唯一の例外と言っていい。(中略)ただ、三成とともにその朋友知古家臣としてこの一挙に加わった三人の人物については、徳川幕府の禁忌(きんき)はおよんでいない。三人とは太谷刑部少輔吉嗣、島左近勝猛、それに直江山城守兼続である。この三人男は、いわば快男児の典型として江戸時代の武士たちに愛され、その逸話がさまざまの随筆に書かれ続けた。」(司馬遼太郎・小説「関ケ原」より)

徳川幕府下において幕府はもちろん諸藩も三成を「肝人」以外の評価をしなかった。

史実が勝者の都合のいいように書かれるのは世の常である。

直江山城守兼続

上杉は直接、関ケ原の合戦に参加してはいないが、上杉家の家老・直江兼続石田三成は以前から連携していて、家康が上杉討伐軍を東へ進めたことにより三成挙兵が実現した。

上杉討伐に向かう家康を三成と兼続が西と東から挟撃するという逸話もあるようだが真偽のほどは定かではない。ただ三成が真田昌幸にあてた書状には家康との戦について兼続と密接に連絡を取り合っていたことが明白に受け取れる。

家康に会津上杉討伐を決意させ「関ケ原の合戦」の引き金になったのが世にいう「直江状」である。「直江状」は、家康が直江兼続と親交があった禅宗の高僧・西笑承兌(さいしょうじょうたい)に、書かせた詰問状に対する返書である。

詰問の内容は「上杉とトラブルを抱えていた越後の後任領主である堀秀治による上杉謀叛の讒言を契機に家康は「上杉に謀反のうわさがある。武器を集めているのは謀反の証、会津領内の新城の築城、道や橋の整備は謀叛の準備である。上洛して叛意が無いという誓紙(起請文)を差し出せ」ざっとこんなところである。

これに対して、兼続は「直江状」で以下のように答えている。

会津謀反の噂について内府殿(家康)が不審に思うのは勝手だが、京と伏見くらいの距離でさえも噂は立つもの。ましてやここは遠国(おんごく)、堀秀治などの讒言を信じて調べようともしないのは内府殿(家康)こそ表裏のある人間である。」

「誓詞(起請文)を出せというが昨年から数回出している。提出した起請文が反故になってしまうので重ねて起請文は差し出さない。」
「北国越前殿(前田利長)に謀反の疑いをかけ、思い通りになったということだが、あなたのご威光はさすがである。(上杉はそうはいかないぞとも読み解ける)」
「武具を集めていることは、上方の武士が茶道具を集めるのと同じく田舎武士の風習であり、ご不審には及ばない。景勝に似合わないものを集めているわけではない。そんなことを気にするとは天下を治めるにふさわしくない。」

「道を作っているのは、越後口だけではない。堀監物(秀治)のみが恐れて騒ぐのは弓矢の道を知らない無分別者のようだ。もし景勝が謀反を起こす気があれば、道を開くよりも国を閉じて道を防ぐはず。堀秀治は是非に及ばざるうつけ者である。それでもご不審あれば、使者を送って検分すればいい。」

この返書に家康は激怒し、上杉討伐を決意したといわれている。

関ケ原の合戦後、上杉に対する処分は会津百二十万石から米沢三十万石への減封であった。

百二十一万石から三十七万石へ減封になった毛利輝元とほぼ同等の厳しい処分といえる。

島左近勝猛

島左近島清興)は大和城主・筒井順慶を支える筆頭家老で合戦の天才であった松倉右近と共に「筒井の左近・右近」と呼ばれた名将である。しかし順慶の死後、家督を継いだ定次に疎まれ筒井家を去る。その後、蒲生氏郷豊臣秀長に仕えるが長続きはせず、浪人として放浪した後、近江・江南の高宮の近くに草案を結んだ。

その噂を耳にした石田三成は自ら草案を訪れ自分の知行の半分(約一万五千石)を差し出して家臣とした。三成は左近を召し抱えることにより、自らの弱点を補うことに成功したのである。

その後三成は佐和山城十九万四千石の大名になった時、左近は自らの加増の代わりにより多くの兵を雇い入れることを三成に進言した。石田軍の強化を望んだのである。

関ヶ原では、三成は敗れ左近は命を張って三成を逃亡させた。自ら先頭に立って田中吉政黒田長政勢と戦い、一時はこれを退け家康の旗本近くまで迫ったが黒田勢の鉄砲を全身に浴び、壮絶な討ち死にを遂げた。

石田治部少輔三成

彦根・長浜(201699日)

慶長五年(1600年)の関ケ原の合戦における主役は紛れもなく石田三成である。

豊臣時代「三成に過ぎたるものが二つある 島の左近と佐和山の城」とうたわれた。

佐和山城は、五層の天守閣がそびえる堂々たる巨城であった。

島左近は、上述のように当代きっての名士である。

佐和山城島左近も小碌の三成には分不相応ということだろう。

さて、彦根駅から案内に従って行くと「佐和山城跡上り口1.3キロ」の表示が立っている。

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矢印の方向へ歩いていくと清凉寺の案内が出ている交差点を右折してしばらく行くと「龍譚寺」があるが途中の「佐和山会館」の駐車場の横に佐和山城を復元したデプリカが置かれている。

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その先に「龍譚寺」がある。山門をくぐった所が「佐和山城跡」への上り口である。寺の境内には石田三成の像が置かれている。城跡への急坂を上り始めると「佐和山城跡に最近、野猿の群れが出没いたします。十分ご注意ください」の立て札が立てられていた。ここは野猿か!

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急な坂道を、汗を拭き拭き息をきらせながら上って行くと「西の丸・本丸」「鳥居本」の道標があり本丸を目指してさらに上って行くとすぐに「西の丸(塩櫓)」の看板が目に入る。

佐和山城の大手門は中山道鳥居本にあった。彦根側は「搦め手(城の裏側)」である。

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急坂を上り切った所が「本丸跡」である。佐和山城跡からの見晴らしは非常に素晴らしく彦根の町と琵琶湖が見渡せる。鳥居本側は山が深い。

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龍譚寺の横が「清凉寺」で、ここは徳川家の家臣・井伊家の菩提寺である。

滋賀県百科事典」によると佐和山城をほろぼした井伊直政がこの地に封じられ、死後この地を墓所として法名の文字をとり、祥寿山清涼寺と称して開基とした。

尚、庫裡(くり)のあたりは佐和山時代、三成の名家老といわれた島左近の邸跡といわれている。

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彦根駅に戻り、米原経由で北陸本線長浜駅へ。

三成「三献の茶」で知られる「観音寺」へ行くべく駅の観光案内所立ち寄った。案内所の方の話では駅から56キロの所だという。時間の関係で駅のレンタルサイクルを借りることにした。

駅前ロータリーには、いきなり「秀吉公と石田三成公 出会いの像」が立っている。

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長浜駅から県道509号線を行くとすぐに「従是東長濱領」の碑が道路の左わきに置かれている。さらに先20分ぐらいで「石田」というバス停があり「石田治部少輔三成屋敷跡」の碑が立っている。

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そこを右に入ると石田会館があり三成にまつわる資料が展示されているそうだが休館日で入館できなかった。(事前の調査不足のためこのようなことが多々ある。)

会館前には三成の銅像吉川英治の句碑、西郷隆盛の石碑などが置かれている。

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吉川英治の句碑
吉川英治がこの地に来た時に詠んだ句だそうである。
- 治部殿も 今日冥すらむ(くらすらむ) 蝉時雨 -

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西郷隆盛の石碑には、
関ケ原軍記を読む 西郷隆盛
東西一決 関ケ原に戦う鬢髪(びんぱつ) 冠を衝き(つき)烈士憤る成敗存亡 

君問う勿れ(なかれ) 水藩の先哲 公論あり」

と彫られている。

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石田会館の東側に石田神社があり三成直筆の歌碑や三成の辞世の碑が置かれている。

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「残紅葉」

- 散り残る 紅葉はことにいとおしき 秋の名残は こればかりとぞ -

(おおかた散ってしまってわずかに残っているもみじ葉が秋の名残をわずかに残していていとおしいことだ)自分の身の上を重ね合わせているのだろうか。

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石田三成辞世の歌」

- 筑摩江(ちくまえ)や 芦間に灯すかがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり -

筑摩は現米原市、芦は琵琶湖のヨシだとのこと。

(芦の間に灯っているかがり火と共に我が身の命もがやがて燃え尽きてしまうのだな-)

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石田神社をあとに県道508号の緩やかの坂を上って行く。自転車なので結構きつい。

左手に「石田三成公出生地」の碑がある。その先のトンネルをくぐりヘアピンのようになっている道を行きすぐに右手に入れば「観音寺」である。

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山門をくぐって案内通りに行くと「石田三成水汲みの井戸」があり説明版が添えられている。

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山門に戻り階段を上がっていくと「本堂」である。

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三成については様々な逸話が残っている。ここに二つ挙げておこう。

「三杯の茶(三献の茶)」

石田三成はある寺の童子也。秀吉一日放鷹に出て喉乾く。其の寺に至りて「誰かある。茶を点じてきたれ」所望あり。石田、大なる茶碗に七八分に、ぬるくたてて持ちまゐる。秀吉之を飲み、舌を鳴らし、「気味よし。今一服」とあれば、又たてて之を捧ぐ。前よりは少し熱くして茶碗半にたらず。秀吉之を飲み、又試みに「今一服」とある時、石田此の度は小茶碗に少し許なる程熱くたてて出る。(今度は小さな茶碗に熱く煮立てて出した。)秀吉之を飲み其の気の働きを感じ、住持にこひ、近侍に之を使うに才あり。次第に取り立て奉行職を授けられぬと云えり。」(武将感状記・巻八)

(この話は、子供のころ何度か聞いたものである。)

「葭の運上銭」

「秀吉が三成に五百石を与えると言ったとき、三成はその代わりに、宇治川や淀川に生えている荻や葭の刈り取りに運上(税金)を取り立てる権利をほしいと申し出ました。

三成はその権利をいただければ、一万石の軍役をつとめると約束しました。
果たして、秀吉が織田信長の先手大将として波多野右衛門太夫秀治(丹波、丹後、但馬三州の守護職)追討の時、団扇(うちわ)九曜に金の吹貫をつけた旌旗を真先に持たせ、武具、馬具、華やかに鎧(よろ)うた武者数百騎がやって来た、それを見た秀吉が「見なれぬ旗じるしよ」などと言って使番を走らせてみると、河原の雑草の運上で人数をそろえた石田佐吉の隊であった。」(古今武家盛衰記より)

古今武家盛衰記の巻第一が「石田三成」そして巻第二が「太谷刑部少輔吉隆(太谷吉嗣)」である。

さて、観音寺を後に来た道を帰る途中に「やくし堂道」の碑が立っていて祠の横に「宇喜多秀家」についての説明版が置かれている。

「もう一人の西軍首脳(宇喜多秀家)・備前・美作を統一して城下町岡山を建設した宇喜多尚家の嫡子。早くから秀吉の毛利攻めに協力し、その後も秀吉の天下統一戦に参加した。秀吉晩年には五大老として、政権重鎮の一人であり、秀吉没後は前田利家と共に反家康の中心人物であった。関ケ原合戦では、三成に並ぶ西軍首脳と目された。戦後は島津義弘を頼って薩摩に逃れた後、八丈島に流され、半世紀余りに及ぶ流人生活のまま没した。」(説明版)

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関ケ原の合戦以前に「石田三成襲撃事件」がある。加藤清正をはじめとする武闘派七人は朝鮮・蔚山(うるさん)の戦いなどの評価を不服として文治派、特に三成に深い憎しみを持っていた。特に清正の憎しみは人一倍深い。第一次朝鮮出兵の時、小西行長との「京城」への一番乗り争いで清正は遅れをとったが「京城に入った」旨の秀吉への報告は行長より先んじた。秀吉は、清正が「一番手柄」と勘違いし清正に感状を与えた。三成はその間違いを正すと共に手柄争いに走り統率を乱していると清正を糾弾した。秀吉は激怒し清正に処分を下す。この時以来清正は三成を憎み続けることになる。

司馬遼太郎は、「小説・関ケ原」の中で「三成の異常な正義心と弾劾癖(だんがいへき)が、ここでもしつこくあらわれている。」と書いている。

さて、武闘派諸将(加藤清正福島正則細川忠興、浅野幸長(長政の嫡子)、黒田長政(官兵衛の嫡子)、蜂須賀家正、藤堂高虎)の七人は、三成屋敷襲撃を企てるが秀頼の侍従・桑島治右衛門の通報で屋敷を脱出し事なきを得る。この時、三成は家康の屋敷へ逃げ込んだとドラマに描かれることが多いがその真意は定かではない。(確かにドラマチックではある。)

この事件は、家康が仲裁に入り三成は隠居、蔚山城の戦いの評価の見直しという裁定で収まった。石田三成失脚の時である。

しかしこの事件で豊臣政権の武闘派と文治派の対立は表面化し、その対立を家康に利用される結果となる。

もっとも豊臣政権の武闘派=尾張派=高台院(寧々=北政所)派対文治派=近江派=淀派の対立の構図は遅かれ早かれ豊臣政権を自滅へ向かわせたに違いない。

石田三成をはじめとする文治派と加藤清正達武闘派が文武両面から秀頼を支えていたら事態は違ったであろうがそうはならなかった。時間は前にのみ進む。舞台は真田幸村が主役の大坂の陣へと移っていくのである。

中山道旅日記 18 赤坂宿-垂井宿-関ケ原宿 1/2

 29日目(4月22日(金)) 赤坂宿-垂井宿-関ケ原宿

岐阜駅7時20分発、大垣経由で美濃赤坂へ。今日は昨日とうって変わっていい天気になった。

第56宿 赤坂宿・本陣1、脇本陣1、旅籠17

(日本橋より110里1町8間 約432.1キロ・美江寺宿より2里8町 8.7キロ)

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4月21日付で書き忘れたのだが、赤坂宿入り口に東の「赤坂宿御使者場跡」の碑が立っている。「御使者場」とは、大名や公家など偉い人物が通る時、宿役人や名主が出迎えに来た場所のことである。

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さて、JR美濃赤坂駅からすぐのところに「御茶屋跡」がある。慶長十年(1605)関ケ原の合戦で勝利した徳川家康は天下統一を果たすと東海道中山道に将軍専用の宿泊施設「御茶屋屋敷」を造った。ここは現在残っている数少ない「御茶屋跡」だそうだ。

「史跡 お茶屋敷跡・ここは慶長九年(1604)徳川家康織田信長の造営した岐阜城御殿を移築させた将軍専用の休泊所跡である。
お茶屋屋敷は中仙道の道中四里毎に造営され、周囲には土塁、空濠をめぐらしその内廓を本丸といい厳然とした城郭の構えであった。現在ここが唯一の遺構でその一部を偲ぶことができる交通史上重要な遺跡である。 大垣市教育委員会)(説明版)

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御茶屋跡を出て、赤坂宿入り口まで戻る。美江寺宿からくると「杭瀬川」を渡り赤坂宿に入る。昨日、雨の中を急ぎ足で通り過ぎた所だ。杭瀬川は、古くは平治の乱に敗れた源義朝が柴舟でこの川を下ったのだそうだ。

杭瀬川を渡ると常夜灯があり「赤坂港跡」の碑が立っている。その横には「赤坂港会館」と呼ばれる資料館がある。

赤坂港は、杭瀬川の水利を利用して物資などを輸送する目的で設けられた。

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先に進み、線路を越えた左手に「本陣跡」の公園がある。皇女和宮もこの本陣に泊まったそうで、約二百四十坪の立派な本陣であったそうだが残念ながら今は残っていない。

公園には、和宮の「碑文」も置かれている。

「本陣跡・当所は、江戸時代、大名・貴族の旅館として設置された中山道赤坂宿の本陣であった。間口二十四間四尺、邸の敷地は二反六畝二十九歩、建物の坪数は、およそ二百三十九坪あり、玄関・門構えの豪勢なものであった。寛永以降、馬渕太郎左ヱ門に次いで、平田又左ヱ門が代々本陣役を継ぎ、天明、寛政のころ暫く谷小兵衛が替ったが以後、矢橋広助が二代に及んで明治維新となり廃絶した。

文久元年十月二十五日、皇女和宮が、ここに泊した事は余りにも有名である。

昭和六十年八月 大垣市赤坂商工会観光部会」(説明文)

「碑文・和宮は弘化3年仁孝天皇の皇女として誕生された。万延元年幕府は公武合体により朝幕の融和を図ろうと皇女和宮の降嫁を請願した。孝明天皇は憂慮され、殊に和宮は、有栖川宮熾仁に親王との婚約があり、近く婚儀が実現されることになっていたので、その奏請を却下されたが、時局の困難が相次ぐので、やむなく許可されることになった。
かくて翌文久元年10月20日京都出発、道を中山道にとり25日、ここ赤坂本陣に宿泊され、11月15日江戸に到着、十四代将軍家茂の夫人となられた。時に家茂は和宮と同年の16才であった。
- 惜しまじな君と民との為ならば身は武蔵野の露と消ゆとも -
和宮は、江戸城大奥の生活に耐え、よく夫君家茂に仕えられたが、長州征伐の陣中で、夫君は不帰の客となった。その時和宮は21才、悲涙に咽ばせられながら詠まれた歌に
- 空蝉の唐織ごろもなにかせむ綾も錦も君ありてこそ -
明けて慶応3年の大政奉還、鳥羽伏見の戦い、江戸城攻撃と相つぐ動乱の中で婚家のため世のため民のため心魂を砕かれた生きざまは、まさに女性の鑑である。
その遺徳を偲び、降嫁の折り宿泊されたこの地に碑を建立し、永くその生涯を語り継ぐも

のである。 日比野仙三 識 平成元年10月25日 皇女和宮保存会」(皇女和宮碑文)

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本陣跡公園の先は少し「桝形」になっていて交差点には「たにくみ道道標」が置かれている。ここには、西国三十三カ所「谷汲山華厳寺」へ向かう「谷汲街道」、伊勢に向かう「養老街道」そして中山道の追分である。華厳寺は、江戸時代から西国三十三カ所の「満願成就の寺」として信仰があつくここから多くの信者が寺へ向かったのだという。

ここには「中山道赤坂宿」の碑や「谷汲観音常夜灯」も置かれている。

「東 美江寺へ二里八町 西 垂井へ一里十二町

近世江戸時代、五街道の一つである中山道は、江戸から京都へ百三十一里の道程に六十九次の宿場があり、美濃赤坂宿は五十七番目に当たる。大名行列や多くの旅人が往来し、また荷物の輸送で交通は盛んであった。町の中心にあるこの四ッ辻は北に向う谷汲巡礼街道と、南は伊勢に通ずる養老街道の起点である。東西に連なる道筋には、本陣、脇本陣をはじめ旅籠屋十七軒と商家が軒を並べて繁盛していた。

昭和五十八年三月 史跡赤坂宿環境整委員会 大垣市赤坂商工会 大垣市」(赤坂宿・説明版)

交差点の向こう左角に立派な古民家があるが、ここは最後の本陣を務めた「矢橋家」で「有形文化財」に指定されている。

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矢橋家のすぐ先が「脇本陣跡」である。今は「榎屋」屋号を掲げ旅館を営んでいるが当時は「問屋」も兼ねていて本陣の予備的役割を果たしていたのだという。

「江戸時代、中山道赤坂宿の脇本陣は、当家一ヶ所であった。大名や、貴族の宿舎である本陣の予備に設立されたもので、本陣同様に処遇され屋敷は免税地であり、領主の監督を受けて経営されていた。当所は宝暦年間以後、飯沼家が代々に亘り脇本陣を勤め、また問屋、年寄役を兼務して明治維新に及び、その制度が廃止後は独立し、榎屋の家号を用いて旅館を営み今日に至っている。昭和六十年八月 大垣市赤坂商工会観光部会」(脇本陣・説明版)

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脇本陣の一軒先には「五七」と大きな看板を掲げた休憩所があるが営業時間は11時からでまだ開店前であった。(今は9時15分)

「五七」の隣が「嫁入り普請探訪館」と呼ばれる建物である。和宮降嫁(こうか)の際、平屋だけの宿場を見て随分田舎に来てしまったと嘆くのではないかと急遽二階建て風に普請したのだそうだ。和宮の降嫁は中山道のあらゆる宿場に多かれ、少なかれ(たぶん大きな)影響を与えたようである。

「お嫁入り普請とは、文久元年(1861)の和宮降嫁のとき、大行列一行が宿泊しましたが、赤坂宿ではそのために54軒もの家が建て直されました。それを「お嫁入り普請」と言います。短期間での建築工事であったため、街道沿いの表側だけが二階建てという珍しい家であり、数は少なくなりましたが、現在も残っている家があります。」(中山道赤坂宿まちづくりの会・説明版より)

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「五七」からしばらく行くと西の「赤坂宿御使者場跡」の碑があり横に「兜塚」の説明版が立っている。このあたりが赤坂宿の出口である。

「兜塚・この墳丘は、関ヶ原決戦の前日(一六〇〇年九月十四日)、杭瀬川の戦に笠木村で戦死した東軍、中村隊の武将の一色頼母を葬り、その鎧兜を埋めたと伝えられている。以後、この古墳は兜塚と呼ばれている。 大垣市教育委員会」(兜塚・説明版)

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「続膝栗毛」では、赤坂宿の茶店で弥次喜多は、旅の男に銅銭と二朱銀の交換を頼まれる。茶店のおやじの話ではこのあたりの相場は、二朱銀は銅銭で八百七十文だという。(当時、金、銀、銭の交換率は相場でかなり変動する。)男が二朱銀を九百五十文で買うというので二朱銀を渡してやると「これは、銅脈(地銀を銅で作って金や銀で鍍金したもの)の偽銀貨だという。弥次さんは別の二朱銀を男に渡すと、男は九百五十を置いてそそくさと立ち去った。喜多さんが先に渡した本物の二朱銀を偽銀貨とすり替えられたことに気付いて男の後を追うがもう影もかたちも見えなかった。

― 一貫の銭おば棒にふりもせで われに動脈かつがせにけり -

赤坂宿を出て15分程行くと「昼飯町」と呼ばれるところがある。「昼飯」とは変わった地名だと思っていると先にある「如来寺」の入り口にその由来の説明版が立っていた。

「昼飯町の由来・むかし、善光寺如来という仏像が大阪の海から拾いあげられ、長野の善光寺へ納められることになりました。
その仏像をはこぶ人々が、青墓(あおはか)の近くまで来た時は五月の中頃でした。近くの山々は新緑におおわれ、つつじの花が咲き乱れ、すばらしい景色です。善光寺如来を運ぶ一行も、小さな池のそばで、ゆっくり休み、美しい景色にみとれました。一行はここで昼飯(ひるめし)をとりました。
それからこの付近を昼飯(ひるめし)と言うようになりましたが、その名が下品であると言うので、その後、飯の字を「いい」と音読みにして、「ひるいい」と呼ばれるようになりましたが、「いい」は言いにくいので、一字を略して「ひるい」と呼ばれるようになりました。又、ここの池は一行が手を洗ったので、「善光寺井戸」と言われ、記念に植えた三尊杉の木も最近まで残っていたということです。(大垣市史 青墓篇より)」

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如来寺」からJRの高架をくぐり10分ばかり行き案内通りに左手少し行くと「照手姫水汲井戸と刻まれた碑が立っている。その後ろに井戸があり説明版も添えられている。

伝承地 照手姫の水汲み井戸
「伝説 照手姫・昔、武蔵・相模の郡代の娘で照手姫という絶世の美人がいました。この姫と相思相愛の小栗判官正清は郡代の家来に毒酒を飲まされ殺されてしまいました。照手姫は、深く悲しみ家を出て放浪して、青墓の大炊長者のところまで売られて来ました。
長者は、その美貌で客を取らせようとしますが、姫は拒み通しました。怒った長者は一度に百頭の馬にえさをやれとか、籠で水を汲めなどと無理な仕事を言いつけました。
一方、毒酒に倒れた正清は、霊泉につかりよみがえり、照手姫が忘れられず、姫を探して妻にむかえました。この井戸の跡は、照手姫が籠で水を汲んだと伝えられるところです。大垣市教育委員会」(説明版)

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街道に戻ると右手に「小篠竹(こざさだけ)の塚」と呼ばれる塚がある。

「青墓にむかし照手姫という遊女あり。この墓なりとぞ。

照手姫は東海道藤沢にも出せり。その頃両人ありし候や詳ならず。(木曽路名所図会より)

また、「青墓」は美濃路の歌枕でもある。

- 一夜見し人の情にたちかえる 心に残る青墓の里 -  慈円

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また、ここには傘をかぶったお地蔵さまが祀られており、横に「青墓の芦竹庵(よしたけあん)」の説明版が立っている。さらに源義経が詠んだという歌碑が置かれている。

- 挿しおくも(さしおくも)形見となれや後の世に 源氏栄えば芦竹(よしたけ)となれ -

「青墓の芦竹庵(よしたけあん)

 牛若丸(後の義経)が、京都の鞍馬山で修業を終え金売吉次をお供にし、奥州(今の東北地方)へ落ちのびる時、円願寺(円興寺の末寺)で休み、なくなった父や兄の霊を供養し、源氏が再び栄えるように祈りました。その時江州(今の滋賀県)から杖にしてきたあしの杖を地面につきさし、「さしおくも 形見となれや 後の世に 源氏栄えば、よし竹となれ」の歌を詠み東国へ出発しました。
 その願いが仏様に通じたのか、その後、杖にしてきたよしが、大地から芽をふき根をはりました。そしてみごとな枝に竹の葉が茂りましたが、しかし根や幹はもとのままのよしでした。このめずらしい竹はその後もぐんぐんと成長し続けました。それでこのめずらしい竹を「よし竹」と呼び、この寺をよしたけあんと呼ぶようになりました。(青墓伝説より)」

「圓願時・芦竹庵」の碑の横に置かれている碑には以下のように彫られている。

美濃國青墓里長者屋敷

照手姫の汲給ひし清水

 源義経の挿給ひし芦竹

 照手姫守本尊千手観音

    昭和五年木山書

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「芦竹庵」のすぐ先の橋のたもとに「中山道・青墓宿」と書かれた碑が立っている。

これは、古く平安の時代から東山道の宿場があった所で「保元物語」や「平治物語」にもその記述がある。この碑は東山道時代の名残である。

さらに10程行くと右手に「国分寺道」「薬師如来御寶前」と彫られた道標が立てられている。その先10分程の処に常夜灯があり「中山道一里塚跡」の碑が立っている。百十九番目の「青野の一里塚跡」である。

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一里塚跡をあとにしてしばらく行くと「平尾御坊道」と彫られた碑が置かれている。そこから15分ほど先には「喜久一九稲荷神社」がある。そのすぐ先が中山道美濃路を通って東海道へ抜ける追分で「中山道」「美濃路」と彫られた木の碑の後ろに「是より右東海道大垣みち 左木曽海道たにぐみみち」と彫られた道標が立っており説明版が添えられている。

「「垂井追分道標」垂井宿は中山道東海道を結ぶ美濃路の分岐点にあたり、たいへんにぎわう宿場でした。追分は宿場の東にあり、旅人が道に迷わないように自然石の道標が建てられた。道標は高さ⒈2m、幅40cm、表に『是より 右東海道大垣みち 左木曽海道たに ぐみみち』とあり、裏に『宝永六年己丑十月 願主奥山氏末平』と刻まれている。

この道標は宝永六年(1709)垂井宿の問屋奥山文左衛門が建てたもので、中山道にある道標の中で七番目ほどの古さである。また、ここには高さ2mの享保三年(1718)の角柱の道標もあった。 平成二十一年一月 垂井町教育委員会」(説明版)

追分には、表に「追分庵」と書かれた店があるが今も営業しているのだろうか。

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中山道から美濃路に入り「美濃路の松並木」を30分程歩くと「小学校」の道標が目に入る。そこを左にはいると「東小学校」がありその横が古墳時代の末期の円墳といわれる「綾戸古墳」である。この古墳は、「日本書紀」や「古事記」その他古記に書かれている大和朝廷初期に活躍した「武内宿禰」の墓であると伝えられているようだが真偽のほどは定かではない。

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芭蕉や谷木因(たに・ぼくいん=芭蕉の友人)の句碑も置かれている。

- わるあつく ふくやひと木の 松の音 - 芭蕉

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- 大切の 名をぬすまるゝ ゆきの松 - 谷木因

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さらに、ここは平安時代の大盗賊「熊坂長範・物見の松伝説」の場所でもある。

平安時代に熊坂長範という大盗賊がいて、この古墳の松の木から、東山道鎌倉街道を行き交う獲物の旅人を狙っていたことから、「物見の松」と呼ばれていたのだそうだ。

この熊坂長範は、鞍馬から奥州へ下る金売吉次一行を襲い、同行していた牛若丸(のちの義経)に返り討ちにあったという伝説が残っていて「謡曲「熊坂」と長範物見の松」の説明版が立てられている。

「熊坂長範(張範とも)は平安末期の大盗といわれ美濃国赤坂で、鞍馬から欧州へ下る金売吉次一行を襲い、同行していた牛若丸(のちの義経)にかえって討たれたという伝説的な人物ですが、これを脚色したのが謡曲「熊坂」です。牛若丸が強盗を切ったことは「義経記」などにも書かれていますがこれ等を参考にしてえがかれたのが謡曲でしょう。

その長範がめぼしい旅人を物色するため様子をうかがっていたというのが、この一本松で「物見の松」といわれています。松のある所は中仙道と東海道が左右に走る中間にあり、昔は草ぼうぼうの青野ヶ原だったといわれていますが、今も当時の面影を残しています。付近は古墳で、かって濠があったといいます。」(説明版)

説明版の「中仙道と東海道が左右に走る中間」は「中仙道と東山道」の間違いか?

熊坂長範は続膝栗毛にも登場する。垂井宿を早立ちした弥次喜多は道の辻堂で夜を明かそうとする。その後で逢引の男女がこの辻堂に入ってきて弥次喜多に気付き一目散に逃げていく。

「ここ(辻堂)をすぎて、青のがはらにいたる。ここにくまさかがもの見のまつのあとあり。」

- 熊坂は名のみ残れり松枝を さしてのぼれる月の輪の照る -

この狂歌は、熊坂長範と虎視眈々と獲物を狙う月の輪熊をかけている。

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中山道に戻り、追分を後にして相川に架かる「相川橋」を渡れば「垂井宿」だが橋を渡った所に「相川の人足渡し跡」の説明版が立てられている。

「相川は、昔から暴れ川で、たびたび洪水がありました。そのため、江戸時代初期には人足渡しによる渡川が主でした。川越人足は垂井宿の百姓がつとめ、渡川時の水量によって渡賃が決められていました。一方、姫宮や朝鮮通信使など特別の大通行のときには木橋がかけられました。 垂井町」(説明版)

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第57宿 垂井宿・本陣1、脇本陣1、旅籠27

(日本橋より111里13町8間 約437.3キロ・赤坂宿より1里12町 5.2キロ)

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「垂井宿」は、中山道美濃路の分岐点であり、古くから交通の要衝として栄えた。

宿場は、西町・中町・東町の3町からなり、本陣は中町にあった。問屋場は3か所で、毎月5と9の日に南宮神社鳥居付近で開かれた六斎市は大いに賑わったそうである。文化年間に建てられた油屋宇吉家跡などの旧家が現在もその姿をとどめ、宿場町の趣を感じることができる。

木曽路名所図会」には「駅中東西六十七町許相対して巷をなす。其余散在す。此辺都会の地にして、商人(あきんど)多し。宿中に南宮の大鳥居あり。」と記されている。

宿場に入ると垂井宿案内マップ、垂井宿碑、東の見附説明版が立っている。

「東の見付・垂井宿は中山道の始点、江戸日本橋から約四四〇キロメートル、五八番目の宿になります。

見付は宿場の入口に置かれ、宿の役人はここで大名などの行列を迎えたり、非常時には閉鎖したりしました。

この東の見付から約七六六メートルにわたり垂井宿が広がり、広重が描いたことで知られる西の見付に至ります。垂井町」(東の見附説明版)

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宿場に入りしばらく行くと「紙屋塚」があるということで案内に沿って左の路地を入ってみたが路地の奥でなかなかわかりにくいところにあった。

「古来紙は貴重品であり奈良時代には紙の重要な生産地を特に指定して国に出させた。国においては、戸籍の原簿作成に重要な役割をはたした。ここの紙屋も府中に国府がおかれた当時から存在し、室町頃まで存続したと考えられる。

 又当初は国営の紙すき場と美濃の国一帯からあつめられた紙の検査所の役割をはたしてものと考えられる。一説には美濃紙の発症地とも言われている。垂井町教育委員会」(説明版)

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その先は桝形になっており右手に「旧旅館・亀丸屋」があり、説明版が立っている。

「亀丸屋西村家は、垂井宿の旅籠として、二百年ほど続き、今なお、当時の姿を残して営業している貴重な旅館である。

 安永六年(1777)に建てられた間口五間・奥行六.五間の母屋と離れに上段の間を含む八畳間が三つあり、浪花講、文明講の指定旅館であった。当時は南側に入口があり、二階には鉄砲窓が残る珍しい造りである。 垂井町」(説明版)

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すぐ先が「問屋場跡」向かいが「海渡屋」「本陣跡」が並んでいる。

「本陣は、宿場ごとに置かれた大名や公家など重要な人物の休泊施設です。

 ここは中山道垂井宿の本陣があったところで、寛政十二年(1800)の記録によると、建物の坪数は一七八坪で、玄関や門、上段の間を備える広大なものでした。垂井宿の本陣職をつとめた栗田家は、酒造業も営んでいました。

 本陣の建物は焼失しましたが後に再建され、明治時代には学習義校(現在の垂井小学校)の校舎に利用されました。 垂井町教育委員会」(本陣跡・説明版)

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さらに、美濃国一宮「南宮大社」の大鳥居が左手にある。

「寛永十九年(1642)徳川家光将軍の寄進により南宮大社が再建された中で、明神型鳥居は約四〇〇両の金で、石屋権兵衛が建てた。横幅(内側)454.5cm、頂上までの高さ715cm、柱の周り227cm。一位中山金山彦大神の額は、延暦寺天台座主青蓮院尊純親王の筆蹟である。垂井町」(南宮大社大鳥居・説明版)

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大鳥居をくぐり左手に行くとそこには「垂井の泉」と呼ばれるところがある。

ここは、美濃国の歌枕でもある。

木曽路名所図会に「この清水は特(こと)に清冷にして味ひ甘く、寒暑の増減なし。ゆききの人、渇をしのぐに足れり。浅々(せんせん)たる清泉鏡(せいせんかがみ)に似るという梅聖愈(ばいせいゆ)が詩のこころに近し」と記されている。

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「垂井の泉」を題材にした歌には、以下のようなものがある。

- あさはかに 心なかけそ 玉すたれ たる井の水に袖もぬれなむ - 一条兼良
- 昔見し たる井の水はかわらねど うつれる影ぞ 年をへにける - 藤原隆経朝臣
- 我が袖の しずくにいかがくらべ見む まれにたる井の 水の少なさ - 参議為相卿

- 小夜風のつもる木の葉の下くぐる 水のたる井の うす氷かな - 尊海僧正

- 里人もくみてしらずやけふ爰(ここ)に たる井の水の 深き恵みを -飛鳥井雅世

芭蕉もここで一句詠んでおり句碑が置かれている。

- 白く(ねぎしろく) 洗いあげたる 寒さかな - 松尾芭蕉

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ここには、大ケヤキがあり説明版が添えられている。

「垂井の泉と大ケヤキ・この泉は、県指定の天然記念物である。大ケヤキの根元から湧き出し、「垂井」の地名の起こりとされる。「続日本紀天平十二年(740)十二月条に見える、美濃行幸中の聖武天皇が立ち寄った「曳常泉」もこの場所と考えられており、古くからの由緒がある。近燐の住民たちに親しまれる泉であっただけでなく、歌枕としても知られ、はやく藤原隆経は

   昔見し たる井の水は かはらねど うつれる影ぞ 年をへにける 『詞花集』

と詠んでいる。のちには芭蕉

   「葱白く 洗ひあげたる 寒さかな」

という一句を残している。岐阜県名水五十選(昭和61年)に選ばれている。

 この大ケヤキは、樹齢約八百年で、高さ約20メートル、目通り約8.2メートル。このようなケヤキの巨木は県下では珍しい。この木にちなんで、木が堅くて若葉の美しいケヤキを垂井の「木」とした。」(説明版)

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街道にもどるとすぐ先に旧旅館「長浜屋」がある。ここはお休み処になっている。

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その先には「本龍寺」がある。この寺の山門は西町にあった脇本陣門を玄関と共に明治初期に移したものだそうだが脇本陣自体は、今は残っていない。また、高札場跡は山門左前にあり、人馬賃、キリシタン禁止などの告知板がかけられていた。

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松尾芭蕉はこの寺の住職「玄潭」と親交が深く、住職の招きにより元禄四年にこの寺に冬籠りをした。境内には芭蕉の句碑を初めいくつかお句碑が置かれている。

- 作り木の庭をいさめるしぐれ哉 - 芭蕉

- 木嵐に手をあてて見む一重壁 - 規外(玄潭の俳号)

- いささらば 雪見のころぶ処まで - 翁

句碑群の横には芭蕉の木造が収められている「時雨庵」があるが、これは獅子門美濃派の俳人・国井化月坊が江戸時代末期に建立したもので芭蕉が冬籠りをしていた場所ではない。

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本龍寺の向かいには、「江戸時代の商家・油屋」がある。

「この商家は、文化末年(1817年頃)建てられた間口5.5間、奥行6間の油屋卯吉(宇吉)の家で、当時は多くの人を雇い、油商売を営んでいた。明治以後、小林家が部屋を改造し亀屋と稱して(しょうして)旅人宿を営んだ。

 土蔵造りに格子を入れ、軒下にはぬれ蓆をかける釘をつけ、宿場時代の代表的商家の面影を残す貴重な建物である。 垂井町」(説明版)

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この先は緩やかな上り坂となり、坂を上ると「西の見附跡」がある。

「垂井宿 西の見付と広重の絵

一、西の見付
  垂井宿の西の入口で大名行列を迎えた。非常事態発生の時、閉鎖した。

二、安藤広重の垂井宿の絵

  広重がこの付近から西を見て、雨の降る中山道松並木の中を、大名が行列をつくり、西より垂井宿の西の見付へ入ってくる様子や本陣からの出迎え、茶店の様子も左右対称的によく描いた版画の傑作である。 垂井町」(説明版による)

その横に地蔵堂があり「八尺堂地蔵尊道」の碑が立っている。

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西の見付を後にして前川橋を渡り、5分程行くと「松島稲荷神社」がある。

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先の東海道本線の踏切を渡り、国道21号線の歩道橋で越えて旧道に入り少し行くと道の傍らに「南宮近道八丁」の碑が置かれている。

その先に日守の茶所があり説明板が添えられている。

「日守の茶所・江戸末期に、岩手の美濃獅子門化月坊が、中山道関ヶ原山中の芭蕉ゆかりの地(常盤御前墓所)に秋風庵を建てた。それを明治になって、一里塚の隣りに移し、中山道を通る人々の休み場として、昭和の初めまで盛んに利用された。

 また、大垣新四国八十八ヶ所弘法の札所とし、句詠の場としても利用された貴重な建物である。 垂井町」(説明版)(ここでいう岩手は垂井町岩手)

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茶所の隣には見事な一里塚が残っている。「垂井の一里塚」と呼ばれる百十二番目の一里塚で説明版が添えられている。説明版には「浅野幸長陣後」の説明も併記されている。

「垂井一里塚・徳川家康は、街道整備のため、慶長九年(1604)に主要街道に一里塚の設置を命じた。これにより、江戸日本橋を基点として一里(四キロ弱)ごとに、五間(約九メートル)四方、高さ一丈(約三メートル)、頂に榎を植栽した塚が道を挟んで二基ずつ築かれた。垂井一里塚は、南側の一基だけがほぼ完全に残っている。

 旅人にとっては、人夫や馬を借りる里程を知り、駄賃を定める目安となり、その木陰は格好の休所となった。

 国の史跡に指定された一里塚は、中山道では東京都板橋区志村のそれと二か所だけであり、交通史上の重要な遺跡である。」

「浅野幸長陣所跡 関ヶ原の戦い

 幸長(よしなが)は、五奉行の一人であった浅野長政の嫡男で、甲斐府中十六万石の領主であった。

 関ヶ原の戦いでは、豊臣秀吉恩顧でありながら石田三成と確執があったため東軍に属し、その先鋒を務め、岐阜城を攻略。本戦ではこのあたりに陣を構え、南宮山に拠る毛利秀元ら西軍勢に備えた。戦後、紀伊国和歌山三十七万六千石を与えられた。

平成十八年十一月 垂井町教育委員会」(説明版)

浅野幸長の父・浅野長政織田信長の弓衆で叔父の浅野長勝の婿養子。既に長勝の養女になっていた、ねね(寧々)(秀吉の正室・のちの北政所、高台院)の義弟である。

関ヶ原後、論功行賞により清洲より安芸・備後二ヵ国を有していた豊臣恩顧の大名・福島正則の失脚により紀州藩より入封したのが長政の次男・浅野長晟(あさのながあきら)で江戸・元禄時代のビッグイベント「忠臣蔵」の播州赤穂・浅野はその分家に当たる。

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一里塚を後に後に国道21号を横切って歩いていくと「ここは中山道垂井宿」の立て札と続いて「ここは中山道 関ケ原」の碑が立っている。

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その後、関ケ原宿に入り古戦場、「石田三成の陣跡・笹尾山」へ行ったが、関ケ原については次回とする。

昨日の雨と古戦場、笹尾山などでかなりの時間を使ってしまったので当初の予定を変更し、JR関ヶ原駅から帰宅した。(柏原宿まで行きたかったのだが)

 

番外 (2016年9月2日)

ところで垂井と言えば、秀吉の軍師「竹中半兵衛」ゆかりの地である。

9月2日(金)に垂井を再訪し、竹中半兵衛ゆかりの地を訪ねてみた。

秀吉が三顧の礼を以て迎え入れた竹中半兵衛は、戦国時代を代表する軍師で、中国・三国志の蜀の軍師・諸葛孔明を連想させる。羽柴秀吉旗下では黒田官兵衛とともに「両兵衛」「二兵衛」と称された。外見は「その容貌、婦人の如し」と史料に書かれているほどの美男子であったという。そのためか智略に長けた文の武将というイメージが強いが武術においても非凡な才能を持っていた美丈夫というべきである。

竹中半兵衛は、稲葉山城主斎藤竜興に仕えていた永禄7(1564)年,竜興の酒と女におぼれた政治にたまりかね、わずか十数名で稲葉山城を乗っ取ったことは有名な話である。

その後、城は竜興に返したがそのまま蟄居し,隠棲しているところを秀吉に迎えられる。

竹中半兵衛に関しては、軍功に関する逸話が多く残っている。

中山道・垂井宿の北、菩提山城の南に「五明稲荷神社」がある。

天正六年(一五七八年)岩手城主、竹中半兵衛公が三木城攻略中、摂津有岡城主、荒木村重織田信長に反旗を翻した。半兵衛公の親友である黒田官兵衛が説得にあたったが、かえって石牢に幽閉されてしまった。主君である織田信長は官兵衛も寝返ったかと思いこみ人質にしていた官兵衛の嫡男・松寿丸を殺すように命じた。半兵衛公は官兵衛に二心はないと信じて松寿丸を五明にかくまった。その後、有岡城から官兵衛が助け出されると、松寿丸も許され岩手を去るとき、境内に銀杏の木を植えたと伝えられている。
現在もここには銀杏の巨木があります。言い伝え通り樹齢は420年以上だと思います。」
と説明版に記されている。これは「秀吉」を扱った物語、ドラマには必ず出てくるエピソードである。

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垂井駅前にある観光協会でもらった地図に従い20分程あるくと「菁莪記念館(せいがきねんかん)がある。ここは、竹中半兵衛に関する資料等が展示されている。(入館は無料)入り口には「国井化月坊」の句碑が置かれている。

美濃派一五世 - 月の後 残した藪の梅白し - 春香園(化月坊の号)

(国井化月坊は竹中家の家臣だそうである。)

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菁莪記念館の隣が岩手公民館で入り口に珍しい「さざれ石」が置かれている。

国家・君が代の「千代に八千代にさざれ」のさざれ石である。

公民館のすぐ先には、「竹中氏陣屋跡」がある。

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そこから5分弱あるくと「竹中氏菩提所 禅幢寺」がある。寺の裏には竹中半兵衛の墓がある。」説明版が立っており「豊臣秀吉公の軍師として活躍した竹中半兵衛重治公は、天生七年(一五七九)播州三木の陣で病没。当時の重治公の墓は、天生十五年(一五八七)父の菩提を弔うため長男重門公が三木から移葬したものである。」と書かれている。

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今回は、ここまで。

中山道旅日記 17 加納宿-河渡宿-美江寺宿-赤坂宿

28日目(4月21日(木)) 加納宿河渡宿美江寺宿-赤坂宿(コンフォートホテル岐阜)

今日は、空模様が怪しいのでコンフォートホテルに連泊することとし、空身での街道歩きである。

岐阜と言えば岐阜城が頭にうかぶが日程の関係で、岐阜城観光はまたの機会としよう。

さて、7時30分にホテルを出発し中山道に戻り次の宿場・河渡宿を目指す。

しばらく行くと左手に「秋葉神社」がありその先には「中山道加納宿西番所跡」と彫られた碑が立っている。このあたりが加納宿の出口であろう。加納宿には秋葉神社がいくつかあるが、これは火事が多発した時代、防火の神様として信仰したものと思われる。

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資料によると、このあたりに「鳥屋の一里塚」と呼ばれる一里塚があったようだが、今は、それらしきものは何もない。

西番所跡から20分ばかり行くと鳥居の横に「秋葉神社(西)八幡神社(中央)天満神社(東)」と書かれた立て札があり三社を合祀したお社がある。境内には「夫婦銀杏」があり「神歌碑」が置かれている。

神歌碑には- 千早振る神の御徳の尊とけれ四方の真人も心揃いて -と彫られている。

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先へ進もう。約30分ばかりで「鏡島弘法入り口」の標識があり、そこを右に入れば「乙津寺(おつしんじ)」である。乙津寺は、「鏡島弘法」とも「鏡島の弘法さん」ともいわれ別名「梅寺」として慕われている。縁日は毎月21日、まさに今日で、まだ朝の9時前だというのに多くの野師が店を出し、多数の人々が参詣に訪れ、大いに賑わっている。本尊は、「十一面千手観音」・「不動明王」で「十一面千手観音像」は「行基(ぎょうき)」(奈良時代の僧)の作と言われている。境内には、「日本三躰除厄弘法大師 瑞甲山 乙津寺(梅寺)」の碑や「弘法大師梅の杖」の碑が置かれている。

弘法大師梅の杖」

弘法大師がここにさし立てた梅の錫杖が芽ぶき聖なる力をもつ霊梅と言い伝えられています。

弘法大師御自詠歌 -さしおきし 杖も逆枝て 梅の寺 法もひろまれ 鶯のこえ-

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乙津寺の山門前を右折して観音寺の墓地の端に小紅の渡しの説明板が立っている。案内に沿って行くと渡し場に着く。ここでは、美人の女船頭さんが渡しをやっていて対岸から渡ってきた人たちがいたので向こう岸まで渡してもらうことにした。女船頭さんの話によればこの長良川の舟渡は、県道扱いでいつでも無料で渡してくれるのだそうだ。舟は常時対岸につながれていてこちら側(乙津寺側)からは備え付けの旗を振れば迎えに来てくれる。

「ここには、江戸時代から長良川の対岸とを結ぶ交通路として「小紅の渡し」が設けられています。この小紅の渡しは、古くから鏡島弘法(乙津寺)への経路として、約1km下流にあった中山道の河渡の渡しとともに栄えていました。現在では県道文殊茶屋新田線の一部になっています。近代的な橋の施工技術が発達する以前は各地に渡しがありましたが、現在では、小紅の渡しが岐阜市内で現存する唯一の渡しとなりました。

 なお、小紅の名の由来については、様々な説があり、お紅という名の女性の船頭がいた、川を渡る花嫁が水面に顔を映して紅を直した、紅を採る草が生えていた、等の言い伝えがあります。 平成十五年三月 岐阜市教育委員会」(小紅の渡し説明版)

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ということで、街道に戻ることなく長良川を渡ったので対岸を土手道沿いに歩き中山道に戻ることになる。土手道を行くと長良川に架かる河渡橋の河渡側の道を横切りしばらく行って右へ下る道が中山道である。当時、中山道を行く旅人は、河渡橋近くにあった「河渡の渡し」で長良川を渡っていたが明治期に橋が架けられ渡しは終了した。

中山道に合流するとすぐに「馬頭観音・観音堂」がある。

「観音堂縁起」

 聖徳より天保年間にかけて徳川幕府太平の記録に中山道六十九次之内第五十四河渡宿大概帳に本陣水谷治兵衛問屋久右衛門 八兵衛庄屋水谷徳兵衛とあり本陣一軒旅籠屋大四軒中九軒小十一軒あり酒屋茶屋豆腐屋煙草屋など建ち並び西國諸大名の江戸幕府への参勤交代時には御転馬役歩行役の命令あり東へ加納一里半西へ美江寺一里七丁この荷駄の送迎旅人の往来宿泊に賑わいこの荷駄役の人達が天保十三年に銭百文づゝ寄進し道中と家内安全五穀豊穣祈願し愛染明王を奉祀す地元では馬頭観音さんと仰ぎ猿尾通稱お幕場に六間四面の堂宇を建立毎年九月十七日を祭日と定め祖先は盛大に賛仰護侍し来れりその後明治二十四年十月二十八日午前六時三十七分濃飛大震災に倒壊同二十九年九月大洪水に本堂流失す堤外中段渡船場右側に再建昭和二十年七月九日大空襲に戦禍を免る同二十二年四月新堤築造により堤内に奉遷安置同五十六年本川拡幅に伴ふ遷座となる島川東洋子氏御一家の篤志を受け現聖地三十七、三坪に奉遷新築す町民の総意と協力により工事費金壱千壱百六十五万七千円にて完成 昭和五十九甲子年九月吉日 河渡町内中」(説明碑)

観音堂の前には、木製の常夜灯が立っている。

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観音堂から堤防沿いの道をしばらく歩き右折をすると「河渡宿」の入り口である。

 

第54宿 河渡宿・本陣1、脇本陣0、旅籠24

(日本橋より106里22町8間 約418.7キロ・加納宿より1里18町 5.9キロ)

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江戸時代、江戸と京都を結ぶ重要な街道として中山道が整備され六十九の宿場が設けられた。河渡宿は江戸から百六里二十七町、五十五番目の宿場であった。

加納宿へ一里半、美江寺宿へは一里六町を経て、長良川の渡しを東に臨み、大名行列や旅人が往来宿泊して大いに繁盛した。

ここはかつての一里塚でもあった場所である。塚は道の両側に夫々あり榎が植えられて、塚の大きさは五間四方であった。 平成五年五月 中山道河渡宿文化保存会 記 (碑文)

河渡宿に入るとすぐに「松下神社」の小さな祠の前に正面に「中山道河渡宿」側面に「一里塚跡」と彫られた碑が立っている。この一里塚は、当時「河渡の一里塚」と呼ばれていた106番目の一里塚である。松下神社についての碑も置かれている。

中山道河渡宿は、東に長良川、西南に糸貫川、北に根尾川があり土地も低く、白雨雪舞の折には泥沼となった。特に文化十二年六月には、未曾有の洪水にみまわれ、このままでは宿も絶えるのではと時の代官松下内匠が、宿中を五尺あまり土盛をして、その上に家屋を改築し、文化十五年に工事を完成させた。この功績に村人は、松下神社を建立し、碑を刻んで感謝をした。碑は太平洋戦争の戦災で焼きこわれ、今は一部しか残っていない。

平成五年五月 中山道河渡宿文化保存会 記」(松下神社・碑文)

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先へ進んで、糸貫川に架かる糸貫橋を渡ると左手に「延命地蔵」の祠がある。

「この地蔵は、高さ九十センチメートルの石仏坐像で掘りが美しく優雅な面相である。背面に「石工名古屋門前町大坂屋茂兵衛」、台座には「文化六巳巳歳(1809年)八月二十四日建立濃州本巣郡上本田村」と刻まれている。

 毎年八月二十四日に盛大な地蔵祭が行われる。かつては、尾張・美濃・江州の三国素人相撲が行われたが、現在は子供相撲が行われている。

 江戸時代この中山道を往来した旅人はここで一休みして、このお地蔵様に旅の安全を祈ったのであろう。 瑞穂市教育委員会」(延命地蔵・説明版)

すぐ先には「中山道の町並」の碑が立っている。河渡宿の町並みは、静かなたたずまいを見せている。

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その先には小さな「秋葉神社」がある。防火の神様はどこの宿場も欠かすことはできない。さらにその先に「本田代官所跡」の説明版が立てられている。

「江戸時代の一時期、このあたりに幕府直轄地の代官所があったが、詳細は定かでない。しかし、古文書等から推測すると、寛文十年(1670)、野田三郎左衛門が初代代官に任ぜられ、この地に陣屋を設けたと思われる。本田代官は後に川崎平衛門定孝(十一年間在任)という名代官を迎えるなど、この地の人々に大きくかかわった。明和七年(1770)大垣藩に預けられるまで続いた。今も「代官跡」「御屋敷跡」「牢屋敷跡」という地所が残っている。 瑞穂市教育委員会」(本田代官所跡・説明版)

そのすぐ先には、「高札場跡」の立札が立っている。もはや、このあたりが宿場の出口のようである。河渡宿は、全長わずか三町(330m)の小さな宿場である。

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高札場跡を過ぎ、大きな道路を横切ってしばらく行くと踏切がある。その踏切を越えれば「美江寺宿」である。

 

第55宿 美江寺宿・本陣1、脇本陣0、旅籠11

(日本橋より107里29町8間 約423.4キロ・河渡宿より1里7町 4.7キロ)

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宿場としての美江寺の歴史は、豊臣 秀吉によって問屋場が設けられたことに始まる。寛永14(1637)年に正式に開設された美江寺宿。しかし、開設当時は本陣どころか旅籠や茶屋もなく、道筋の小さな農村にすぎなかった。のちに通行者が増加し、宿場開設から32年後の寛文9(1669)年、加納藩により本陣が置かれると、徐々に旅籠や茶屋が建ち、少しずつ宿場らしくなっていった。美江寺という名は、「美しき長江のごとくあれ」と祈念されて美江寺という寺院が建てられた事に始まる。

さて、美江寺宿に入るとすぐに「左北方谷汲ニ至ル」「右岐阜加納ニ至ル」と彫られた道標が置かれている。さらに5分ほど先に「美江寺一里塚跡」の碑が立っている。

美江寺大門裏交差点を右折してしばらく行くと「瑞光寺」があり芭蕉句碑が置かれている。

- 旅人と我が名呼れん初時雨 芭蕉翁 -

先ほどから降り出した雨がだんだん強くなってきた。街道に戻り先を急ごう。

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すぐ先には「美江寺観世音道」と彫られた道標が置かれている。その先が「美江神社」である。そこには「高札場跡」の立て札や正面に「美江寺宿」右側面に「東 河渡宿」左側面に「西 赤坂宿」の道標が立っている。雨が強いので神社の境内には入らず先を急ぐことにする。

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道は、桝形になっていて桝形を右折すると「美江寺宿本陣跡」の碑が立っている。    中山道は次の桝形で右折だが角に「右・大垣赤坂ニ至ル 左・スノマタに至ル」と彫られた道標があり屋根のある休憩所がある。この雨なので実にありがたい。このままホテルに帰りたいところだが静かな宿場町には人っ子一人見かけない。当然タクシーなどはなく一番近い駅「JR美濃赤坂駅」まで歩くしかなさそうだ。

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休憩所で一休みした後、桝形を右折するともはや宿場はすれである。

雨の中、意を決して再び歩き始めるとすぐに「美江寺千手観音堂」がある。

「千躰寺は、浄土宗西山派に属し、現在、養老郡円満寺の末寺である。千躰寺には高さ12センチメートルから23センチメートルの桧材一木像の阿弥陀如来立像、千体が八段に並べまつられている。

 仏像は、千躰仏と呼ばれ、寺の名の由来となった。千躰仏は、禅僧、自然居士の作で、仏像の姿・形から鎌倉時代後期~南北朝時代のものと伝えられている。自然居士は、和泉の国(大阪府)に生まれ、京都の東福寺大明国師のもとで修行したが、奇行遊行僧のようである。遊行の途中、自然居士は美江寺の地にとどまり千躰仏を造立した。

瑞穂市教育委員会」 (説明版)

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千手観音堂から5分ばかり行くと「神明神社」さらに「揖斐川(いびがわ)(呂久川(ろくがわ))」に架かる鷺橋を渡り45分ほど先には「良縁寺」と「白鳥神社」が並んでいる。

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白鳥神社のすぐ先が「蓮生寺」で2軒隣に馬淵家・長屋門があり、その前に明治天皇御小休所跡の碑が立っている。

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その先には「小簾紅園(おずこうえん)」があり、公園内には「和宮歌碑」「呂久(ろく)の渡し」「呂久渡船場跡」などの説明版がある。皇女和宮一行は、呂久川を御座船で渡ったという。その時和宮は東岸にある馬淵家の紅葉に感動し「落ちて行く身と知りながらもみじ葉の人なつかしくこがれこそすれ」と詠んだのだそうである。和宮の歌はいつも悲しげである。

天正時代織田信長が岐阜に在城し、天下統一のため京に近く交通の要衝である近江の安土城に居所を移した頃から美濃と京都の交通がひんぱんとなり赤坂-呂久-美江寺-河渡-加納の新路線が栄えた。これが江戸時代の初期に整備されて五街道の一つ中山道となり、この呂久の渡しもそれ以来交通の要所となった。

慶長十五年(1610)頃、この呂久の渡しの船頭屋敷は、十三を数え、中でも船年寄馬渕家には、船頭八人、助務七人が置かれていた。その頃の川巾は、平水で九○メートル、中水で一二○メートル、大水では一八○メートルに及んだといわれている。

文久元年(1861)には、皇女和宮親子内親王中山道をご降嫁の折この呂久川を渡られ、その折船中から東岸の色鮮やかに紅葉した楓を眺めこれに感懐を託されて「落ちてゆく身と知りながらもみじ葉の人なつかしくこがれこそすれ」と詠まれた。」(呂久の渡し 呂久渡船場跡の説明分より抜粋)

呂久渡船場は、大正14年に河川付け替え工事が行われ、長い歴史を終えた。

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小簾紅園(おずこうえん)から10分程歩くと「左・木曽路」「右・すのまた宿へ」の道標が立っている。さらに15分ほど先には「中山道三回り半」そこから20分程先に「中山道七回り半」の碑が立てられている。「三回り半」「七回り半」?どういう意味だろう。ただの地名か? 「七回り半」の碑から10分ぐらいの処に祠があり「加納薬師如来 これより北八丁」と彫られた石碑が立っている。薬師如来から20分程行くと「中山道一里塚跡」の碑が立っている。「青木小金橋の一里塚」(百九番目の一里塚)である。

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止み間なく降り続く雨足はだんだん強くなってきた。近くに近鉄養老線の「東赤坂駅」があるようだが「JR美濃赤坂駅」まで頑張ろう。「駅までは後30分ぐらいか。」と思いつつ歩いているとなんと「そば屋」がある。ありがたい!ここで昼食を取ることにしよう。もう午後2時である。

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ゆっくりと食事を取った後、足を速め、赤坂宿の入り口をかすめて「美濃赤坂駅」へ着いたのが午後3時、次の電車は4時7分発大垣行きである。駅舎以外には何もないローカル駅で電車を待つこと約1時間、コンフォートホテルにたどり着いたのは午後4時45分であった。

中山道旅日記16 太田宿-鵜沼宿-加納宿

27日目(4月20日(水)) 太田宿-鵜沼宿加納宿

今日も早立ちである。午前7時5分の電車で「坂祝駅」へ。

坂祝駅から国道に出て土手を上がって「ロマンチック街道」と呼ばれる木曽川沿いの遊歩道を歩く。大きな庚申塔が立っていて木曽川の流れや奇岩が楽しめる。

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「勝山」の交差点で国道に戻りしばらく行くと「坂祝町 東太田宿 西鵜沼宿」の道標がある。そこからが旧道で右手に入り坂を上ると「巌屋坂の碑」が立っている。調べてみると、この碑は文化十三年(1816)に建立されたもので「何地無山秀、何処無水流、借間東西客、有此山水不」とある。「いずれの地にか山の秀でたるなからん、いずれの処にか水の流るるなからん、借間す、東西の客この山水有り無しや」と読むのだそうだ。

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その先には、「巌屋観音堂」がある。この観音は、推古天皇の時に勧請されたものと伝えられていて巌屋の中に観音像が安置されている。

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巌屋観音から階段を下って再び国道に出る。しばらく行くと今は営業していないドライブインやレストランがありその横に「中山道 下りる」の道標があり、そこを下りると小さなトンネルが国道をくぐっている。トンネルを抜けると旧道である。

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旧道は「うとう峠」へと続くが、上り口には「中山道の説明版」が立っている。

中山道は、太田宿から現在の国道21号線の坂祝・各務原(かがみがはら)境までは木曽川に沿ってありました。しかし、この先鵜沼までが大変急斜面の危険な場所であったため、ここから山合いに入りこみ、うとう峠を越えて鵜沼宿につながっていました。」(案内板)

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「うとう坂」とよばれる峠道を上って行くと休憩所があり一休みすることができる。休憩所の先は石畳になっていて10分程行くと「うとう峠の一里塚」がある。江戸からちょうど百番目の一里塚である。(日本橋を出たから約400キロを歩いたことになる。)

「うとう峠一里塚と中仙道・江戸時代につくられた「鵜沼村絵図」(寛政5年6月)・「中仙道分間延絵図」(寛政12年7月~文化3年)によると鵜沼宿の東側にある一里塚より、東の坂を「乙坂」「長坂」とかうとう坂」と呼んでいました。「鵜沼の東坂」とか「うとう坂」という呼び方は昭和になってからです。

 「うとう坂」にある一里塚、江戸(東京)から、一里ごとにつけられた目印で、旅人にとっては距離のめやす、馬や駕篭の乗り賃の支払いのめやすとなり、日ざしの強い日には木陰の休み場所ともなっていました。道の両側に直径9mほどの塚をつくり、榎か松が植えられていました。ここでは片側だけ残り巾10m、高さ2.1mあります。塚の上には松が植えられていました。

 江戸時代に、各務原(かがみがはら)を治めていた旗本坪内氏の「前渡坪内氏御用部屋記録」を見ると、天保3年の文書に、この坂を通って10日ほどかけて江戸屋敷へ到着する計画が残されています。それによると1日の歩く距離は9里(36km)から10里(40km)が多く、関東平野に入ると14里(56km)という場合もあります。1日の旅の距離数から、当時の交通事情が推定できます。」(説明版)

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一里塚からは下り坂で、すぐのところに「日本ラインうぬまの森」の大きな碑がありそこから10分ほど行くと「赤坂の石塔群」がおかれていて、さらに10分程さきには「赤坂神社」がある。

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赤坂神社からさらに下っていくと小さな「地蔵堂」があり「東の見附跡と地蔵堂」の説明版が立っている。

「東の見附跡・江戸時代、宿場の入り口には宿内の防御と街道との境界を示すため見附(みつけ)がありました。鵜沼宿の東の見附はこの案内の少し西にありましたが、現在その遺構を見ることはできません。東からうとう峠を下ってきた中山道は、この見附で鋭角に曲がって鵜沼宿に入り、西へ七町半八間(約八百三十九米)の町並みを経て西の見附に至ります。

地蔵堂・地蔵堂には「宝暦十三年(一七六三)・女人中に講中」と刻まれているほか、左右には「左ハ江戸、せんこうしみち(善光寺道)」、「右ハさいしょみち(在所道)とあり道しるべを兼ねたようです。江戸時代から地元の皆さんにより大切にお守りされています。」(説明版)

地蔵堂から5分程行くと「ここは鵜沼宿 これよりうとう峠 左」の道標がある。

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第52宿 鵜沼宿・本陣1、脇本陣1、旅籠25

(日本橋より100里30町8間 約396.00キロ・太田宿より2里 7.85キロ)

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鵜沼宿は江戸の日本橋から数えて五十二番目の宿場である。宿の東側の出入り口にあたる赤坂見附には、道標を兼ねた「地蔵堂」がある。 宿内の全長は東西約840m。道路は幅員5mほどの舗装がされているものの、江戸時代にかかれた家並図に見られる地割はほぼ残っており、往時の面影を偲ぶことができる。

 また、ところどころ歩道に石張り舗装がしてあったり、大安寺川に架かる「大安寺大橋」には常夜灯や木製の欄干が整備してあって、当時の風情も楽しめる。木曽川の南には、国宝犬山城を望むことができる。 (パンフレットより)

鵜沼宿の入り口には、「高札場跡」が復元されている。

「高札場由緒・高札場とは、法令や禁令を書いた高札を掲げた場所で、多くの人目につきやすい場所に立てられていました。鵜沼宿では、東の見附と天王社(現、赤坂神社)の間に南向きにありました。

この高札場は「中山道宿村大概帳」の記録に基づいて、ほぼ当時のままに復元しました。

また、復元の際に読みやすい楷書に書直しました。」(説明版)

宿村大概帳とは幕府の道中奉行が、五街道とその脇街道を調査したときの記録である。

さらに、「尾州領傍示石」が交差点をはさんで2本立てられている。

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尾州領傍示石 由緒・ 中山道鵜沼宿尾張藩領)から各務村(幕府領)を経て、再び鵜沼村に入りました。尾張藩は村境を明示するため「是より東尾州領」「是より西尾州領」の2本の傍示石を建てました。

 この傍示石は明治時代以降に街道から移され、その後、鵜沼中学校に建てられましたが、中山道鵜沼宿再生整備に当たり市が中山道にもどしました。

 各務原(かがみがはら)市の大切な歴史遺産の一つになっています。」(説明版)

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また、「鵜沼宿問屋場跡」の説明版も壁に掛けられている。

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交差点を渡ると大安寺川に架かる「大安寺橋」を渡ることになる。橋の手前左側には、常夜灯と「太田町二里八丁」とほられた道標が置かれていて、橋を渡った右にも常夜燈と足元に「岐阜市ヘ四里十丁」の道標が立っている。

 

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このあたりが宿場の中心地であったのだろう。雰囲気全体が昔風に整えられている。

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橋を渡って右手にあるのが「中山道鵜沼宿町屋館」(旧武藤家住宅)で各務原(かがみがはら)市の重要文化財に指定されている堂々たる古民家である。

中山道鵜沼宿町屋館由来・当館は、江戸時代に「絹屋」という屋号で旅籠を、明冶の初めから昭和三十年代まで郵便局を営んでいた旧武藤家の住宅です。平成十八年、各務原市が建物の寄付を受けて公開しています。屋敷は中庭を囲むように、主屋、東側の付属屋、西側の離れの三棟からなります。主屋は、明冶二十四年の濃尾震災で倒壊し、その後、再築されたもので、江戸時代の旅籠の形式を残しています。付属屋は、大正から昭和初期に建築されたものと考えられ、養蚕小屋として利用されていました。離れは、建築部材から昭和初期に建築されたものと見られ、太田宿から移築されたものと伝えられています。

三棟とも、登録有形文化財に登録され、景観重要建造物に指定されています。(説明版)

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町屋館の裏庭に、「ふぐ汁も 喰えば喰せよ(くわせよ) 菊の酒」の芭蕉句碑があり
町屋館の向かいには、鉄板で作られた「旧大垣城鉄門」が立っている。

「由来・当門は、大垣城本丸の表口に建てられていた鉄門で、明冶九年に払い下げられた後、安積家(各務原市蘇原野口町)の自邸の門として維持されてきたことから、「安積門」と呼ばれています。各務原市へ寄付され、平成二十一年に当地へ移築されました。

規模は、間口約七.五メートル、高さ四.五メートルあり、構造形式から高麗門と称されます。高麗門とは、左右二本の本柱上部に小振りな切妻造の屋根を架け、さらにその後方に控柱を立て、本柱から控柱に渡して小屋根を架けた門のことで、主に城門として用いられてきました。当門のもう一つの特徴は、正面の木部を全て鉄板で覆い、軒下を白漆喰で塗籠めている点で、これらは火矢による攻撃から門を守るためと考えられます。

当門と同様に高麗門に鉄板を張った遺構は、名古屋城表二之門、大坂城大手門(二之門)の二例が現存しています。」(説明版)

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鉄門の先には「鵜沼宿本陣跡」の説明版があり以下のように書かれている。

鵜沼宿の本陣は、江戸時代を通じて桜井家が務めていました。江戸時代初期、この地に鵜沼宿が整備されて以来桜井家は本陣・問屋・庄屋の三役を兼ねていたと伝えられています。寛延二年(一七四九)十代将軍家治に輿入れした五十宮がここに宿泊したのをはじめ、多くの姫君が華やかな入輿の行列をともなって宿泊・休憩したりしました。

分化六年(一八〇九)伊能忠敬ら測量方も宿泊しています。

中山道宿村大概帳」天保十四年(一八四三)に、「本陣凡そ建坪百七拾四余り、門構え・玄関付き」と記されています。御上段・二之間・三之間・広間・御膳間・御料理間・勝手上段・納戸・台所などが配置され、御上段の北には築山や泉水が設けられていたといわれています。」

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そのすぐ先が「脇本陣・坂井家」である。脇本陣の処に「芭蕉句碑」三つ並んでいて、説明版が添えられている。

左から「汲溜の水泡たつや蝉の声」「おくられつ送りつ果ハ木曾の秋」「ふく志るも喰へは喰せよきく之酒(ふぐ汁もくらえばくわせよ菊の酒)」

鵜沼宿芭蕉・貞享二年(1685)、「野ざらし紀行」途中の松尾芭蕉は、鵜沼を訪れ脇本陣坂井家に滞在したと伝えられています。

その後、貞享五年(1688)七月頃、芭蕉は再び脇本陣坂井家を訪れ、

 汲溜の水泡たつや蝉の声

の句を読み、さらに同年八月頃、再度訪れた脇本陣坂井家で菊花酒のもてなしを受けた折には、主人の求めに応じて、楠の化石に即興の句を彫ったと伝えられています。

 ふく志るも喰へは喰せよきく之酒

 その後、木曽路を通って信濃へ更科紀行に旅立つ芭蕉は、美濃を離れる際に、

 おくられつ送りつ果ハ木曾の秋

と詠み、美濃の俳人たちと別れを惜しんだといわれます。」(説明版)

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鵜沼宿脇本陣は、現在無料で公開されている。

管理人の方によると、脇本陣は宿駅制度が廃止された後もその姿をとどめていたが明治24年(1891)の濃尾震災で倒壊した。平成になって江戸時代末期の鵜沼宿各家の間取りを描いた「鵜沼宿家並絵図」をもとに完全な形で復元されたとのことである。

「由緒・鵜沼宿脇本陣は、坂井家が代々これを勤め、安政年間に至って坂井家に代わり野口家が勤めました。坂井家の由緒は古く、貞享ニ~五年(1685~88)に松尾芭蕉が当家に休泊し句を詠んだと伝えられています。

史料によれば、江戸時代中後期の「鵜沼宿万代記」に脇本陣坂井半之右衛門と記され、「中山道分間延絵図」には街道に南面する切妻屋根の主屋と表門が描かれています。また「宿村大概帳」天保十四年(1843)には、脇本陣坂井家、門構玄関付き建坪七十五坪と記され、その間取りが「鵜沼宿家並絵図」元治元年(1864)に詳細に描かれています。

なお、当施設は「鵜沼宿家並絵図」に描かれた幕末期の脇本陣坂井家を復元しています。」(説明版)

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脇本陣のすぐ先に黒塗りの立派な建物「菊川酒造」があり、さらにその先には、「国登録有形文化財」に指定されている古民家が4軒(坂井家、旅籠であった茗荷屋梅田家梅田家、安田家)が軒を連ねている。

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古民家の先には、「鵜沼宿 東・坂祝町 西・加納宿」の道標があり、さらに先の交差点を渡った左側には「鵜沼宿」の碑が置かれている。

その先、5分ばかり行くと「西の見附跡」の立て札が立てられている。立札には以下のように書かれている。

「西の見附跡・見附とは、宿場の入り口と出口に備えた簡易な防御施設のことです。台状に土手を築いたり、周りを石垣で囲んだり、盛り土をして木の柵を立てたりしました。鵜沼宿には、東の見附と西の見附がありました。鵜沼宿の見附は、江戸時代の「鵜沼宿家並絵図」(中島家文書)に描かれています。家並図と現在の地図を照らし合わせると、西の見附は概ねこの看板の辺りと考えられます。具体的な構造は分かっていません。江戸時代の参勤交代では、西から鵜沼宿へ入るときは、途中、人家の少ない道を通ってきますので列が乱れており、このすぐ西にある空安寺あたりで隊列を立て直し、「したに―、したに―」と大声を上げて、恰好を付けながら宿内に入っていったと思われます。鵜沼宿の人々は、おそらく下座をして迎えたのでしょう。」

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見附跡を後にして5分程行くと、「空安寺」の手前に「衣裳塚古墳」が見えてくる。

「衣裳塚古墳は、各務原台地の北東辺部に位置する県下最大の円墳です。墳丘の大きさは直径が52m、高さが7mあり、周囲は開墾のためやや削平を受けていますが、北側はよく原形をとどめています。また、墳丘表面には葺石や埴輪は認められません。

衣裳塚古墳は、円墳としては県下最大規模の古墳ですが、ここより南西約300mのところに、県下第2位の規模を有する前方後円墳の坊の塚古墳が所在することや、本古墳の墳丘西側がやや突出する形態を示していることから、本古墳も本来前方後円墳であったものが、後世に前方部が削平されて、後円部が円墳状に残された可能性もあります 。

衣裳塚古墳の築造年代については、本古墳の埋葬施設や年代が推定できる出土遺物が知られていないため、正確な判定は出来ませんが、おおよそ古墳時代の前期から中期にかけて(4世紀末から5世紀前半)の時期に坊の塚古墳に先行して築かれたと推定されます。(各務原市教育委員会説明版)

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衣裳塚古墳から10分程歩くと「島津神社」がありその境内には、「皆楽座」があり説明版によると「客席を持たない舞台のみの農村舞台ながら、廻り舞台、奈落、セリ、太夫座などを備える。公演時は舞台前面にむしろを敷いて見物席とし、花道は仮設で設けられた。」のだそうだ。

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街道は程なく国道21号線に合流し、しばらく行くと車道は上り坂の陸橋となるが、側道を中程まで行くと「播流上人碑」がある。このあたりに当時「各務原(かがみがはら)一里塚」(江戸から101番目の一里塚)があったと思われるが今は何も残っていない。説明版、碑の類もないので定かではない。

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この先は、これということもなく国道21号を淡々とあるき「蘇原三柿野町(そはらみかきのちょう)」の交差点で再び旧道に入ってしばらく行くと「六軒一里塚跡」の碑が立っている。百二番目の一里塚である。このあたりは「六軒茶屋」と呼ばれた立場で当時はかなり賑わっていたのだろう。その名の由来は茶屋が六軒並んでいたからだそうだ。その先には、「神明神社」がある。

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さらに旧道を進み「那加橋」を渡り、「新加納町」の五叉路を右手に入るとすぐに「日吉神社」があり、その先が「新加納の立場」である。鵜沼宿から次の加納宿までは四里十町(約16.8キロ)もあり中山道で二番目に長い距離であった。従って中間地点に「間の宿(あいのじゅく)」を設ける必要があった。「新加納の立場」は、かなり賑わっていたようでやがて「間の宿」に発展していったのであろう。

新加納の立場跡から桝形に入る両側に一里塚があったようで「一里塚跡」碑が対で置かれている。百三番目の「新加納の一里塚」である。

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桝形を真っ直ぐ進んだ突き当たりは御典医の今尾家」である。

中山道は、ここを右へ行くのだが今尾家の塀に沿って左へ進むと突き当たりが岐阜県指定文化財の「東陽英朝禅師塔所」の「稲荷堂」がある。

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今尾家の前を右折して旧道に戻り、すぐ左折するとそこから先は殺風景な通りを30分ばかり行くと火祭りで有名な「手力雄神社(たじからおじんじゃ)」の入り口の鳥居がある。鳥居をくぐれば神社だが先を急ぐことにする。すぐそばに「左・木曽路」の道標も置かれている。すぐ先の出会いの道を右折すると浄慶寺がある。浄慶寺の横には「切通陣屋跡」の碑があり「中山道」「右キソミち・左京ミち」の道標、中山道の碑と「切通の由来」の説明版が立っている。ベンチも置かれていたのでここで一休みである。

「切通の由来・切通は境川北岸に位置し地名の由来は岩戸南方一帯の滞溜水を境川に落としていたことによると言う。文治年間(1185)渋谷金王丸が長森庄の地頭に任ぜられこの地に長森城を築いた。延元二年(1337)美濃国守護二代土岐頼遠土岐郡大富より長森に居を移し長森城を改修し美濃国を治め天下にその名を知らしめた。江戸時代に入るやこの地は加納藩領となり以後幕府領・大垣藩預り地と変わり享保三年(1802)盤城平藩の所領となるに及びこの地に陣屋が設けられ幕末までこの地を治めた。

切通は古来東西交通の要路にあたり江戸初期中山道が開通されるや手力雄神社前から浄慶寺付近までは立場(休憩所)として茶屋・菓子屋・履物屋等が設けられ旅人の通行で賑わいを見せ各地の文物が伝来し文化の向上に大きく寄与した。」(説明版)

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さらに10分ほど進むと伊豆神社の手前の祠があり馬頭観音が祀られている。そのすぐ横には「右 江戸ミチ、左 京ミチ」道標が立っている。

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伊豆神社から20分ばかり歩くと「細畑の一里塚」と呼ばれる百四番目の一里塚がある。

中山道は江戸時代の五街道の一つで、江戸と京都を結んでいた。一里塚は一里(約三.九キロメートル)ごとに設置され、旅人に安らぎを与えると共にみちのりの目安となるように置かれたものである。街道の両側に五間(約九.一メートル)四方に土を盛って築かれ、多くはその上にエノキが植えられた。

細畑の一里塚は慶長九年(1604)、中山道の他の一里塚とともにつくられた。東方の鵜沼宿から三里十四町(約一三.三キロメートル)西方の加納宿まで三〇町(約三.三キロメートル)の位置にあり、中山道の風情を今に伝えている」(説明版)

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一里塚のすぐ先がY字路に延命地蔵堂があり、左脇には道標も立っている。ここは、伊勢道との追分で道標の表面には「伊勢 名古屋ちかみち笠松兀一里」、右側面に「西 京道加納宿兀八丁」、左側面に「木曽路 上有知道」裏面に「明治九年一月建之」と彫られている。中山道は右の道を進むことになる。

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追分から20分程歩くと中山道は、東海道線の高架をくぐることになる。さらに名鉄「茶所(ちゃじょ)駅」横の踏切を渡ったすぐ左側に「中山道加納宿」の碑が立っていて、すぐその横に「鏡岩の碑」がある。鏡岩とは、江戸時代の相撲取りの四股名だそうで岐阜市教育委員会の説明版が添えられている。

「ぶたれ坊と茶所・この、ぶたれ坊と茶所は、江戸時代の相撲力士「鏡岩浜之介」にちなむものです。伝えによると、二代目鏡岩は父の職業を次いで力士になりましたが、土俵の外での行いが悪かったことを改心して寺院を建て、ぶたれる為に等身大の自分の木像を置いて罪滅ぼしをしました。また、茶店を設けて旅人に茶をふるまったそうです。

 ここの少し北にある東西の通りは、昔の中山道であり、加納宿として栄えていました。江戸時代には多くの人たちが訪れたことでしょう。現在では、歴史的な町並と地名等に当時の様子を伝えていますが、ここにあった妙寿寺は廃寺となり、「ぶたれ坊」の像は岐阜駅南口に近い加納伏見町の妙泉寺に移されています。」(説明版)

鏡石の横には正面に「東海道 伊勢道」右側面に「江戸 木曽路」と彫られた道標が立てられている。

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第53宿 加納宿・本陣1、脇本陣2、旅籠35

(日本橋より105里4町8間 約412.8キロ・鵜沼宿より4里10町 16.8キロ)

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中山道は山谷沿いの険しい道が多く、参勤交代の大名行列東海道に集中。交通量が少なかったことから婚礼行列によく使われ、通称、姫街道ともいわれた。また、伊勢参詣ルートなど庶民の道としても利用された。江戸から京都までを結ぶ544キロの行程には宿場町が全部で69宿。岐阜市には加納宿河渡宿がありました。加納宿は美濃にあった16宿のうち最大の宿場町。城下町にある唯一の宿場として、また商工業が盛んだったことから遠く江戸や大阪まで人や荷役の往来が激しかったといわれている。(岐阜市観光情報より)

さて、鏡岩の先は桝形になっていて「だんご屋」さんを直角に右折する。加納大橋を渡り「右 岐阜 谷汲路、左 西京路」と彫られた道標がある桝形を今度は左折である。

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秋葉神社を過ぎ、次の桝形の手前には、「東番所跡碑」が立っている。このあたりが宿場の入り口だろうか。

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「東番所跡碑」の先の桝形を左折し突き当りの「善福寺」の桝形を右折すると左手に「伝福寺」があり、その先に「岐阜問屋場跡」の説明版が立っている。

「岐阜問屋場跡・加納新町の熊田家は、土岐、斉藤時代からこのあたりの有力者で、信長が岐阜にあったころには加納の問屋役を務めていました。江戸時代に入ると、全国から岐阜へ出入りする商人や農民の荷物運搬を引き受ける荷物問屋に力を注ぐようになり、「岐阜問屋」と呼ばれるようになりました。江戸時代、岐阜問屋は岐阜の名産品であり、尾張藩が将軍に献上する「鮎鮨(あゆずし)」の継ぎ立をしており、御用提燈(ごようちょうちん)を許されていました。献上鮎鮨は岐阜町の御鮨所(おすしどころ)を出発し、岐阜問屋を経由し、当時、鮨街道と呼ばれた現在の加納八幡町から名古屋へ向かう道を通り、笠松問屋まで届けられました。岐阜問屋には特権が与えられていましたが、それは献上鮎鮨が手厚く保護されていたことによるものでした。」(岐阜市教育委員会説明版)

先ほど、「御鮨街道」の道標を見かけたが、御鮨街道とは尾張藩が将軍家へ献上する岐阜名産品の「鮎鮨」を、笠松問屋まで届けた街道のことであった。

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さて、先へ進んで中山道は次の桝形で左折だがそこには「左 中山道」(正面)「左 西京道」(左側面)「右 ぎふ道」(右側面)と彫られた道標に説明版が添えられている。

中山道の道標・この道標は、江戸中期(1750年頃)新町と南広江の交わる四ッ辻東南隅にたてられ中山道を往来する旅人の道案内の役目を果たしてきました。最初は「左中山道」「右ぎふ道」の道標でしたが、明治初年に「左西京路」「右東京道」の標識が追加されました。この四ッ辻は中山道と岐阜道の分岐点で、かつては交通の要衝でありました。

昭和五十九年三月 中山道加納宿文化保存会」(説明版)

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桝形を左折し、清水川に架かる橋を渡った所に「加納宿高札場跡」の立て札が立っている。

「ここは江戸時代、加納藩の高札場があったところです。高札とは藩が領民に法度(法律)や触(お知らせ)を知らせるために人通りの多い通りや辻や市場などに立てた板で作った立札のことです。

 加納宿では、加納城大手門前の清水川沿いのこの場所が高札場で宿御高札場と呼ばれていました。この高札場は加納藩の中でも最も大きく、石積みの上に高さ約三・五メートル、幅六・五メートル、横ニ・二メートルもあるものでした。正徳元年(1711)に「親子兄弟の札」が掲げられて以後、明治時代になるまで、何枚も高札が掲げられました。平成十ニ年三月 岐阜市教育委員会」(説明版)

すぐその先には「中山道加納宿 右 河渡宿」の道標と共に「加納宿大手門跡」の碑が立っている。

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桝形を左折し、清水川に架かる橋を渡った所に「加納宿高札場跡」の立て札が立っている。

「ここは江戸時代、加納藩の高札場があったところです。高札とは藩が領民に法度(法律)や触(お知らせ)を知らせるために人通りの多い通りや辻や市場などに立てた板で作った立札のことです。

 加納宿では、加納城大手門前の清水川沿いのこの場所が高札場で宿御高札場と呼ばれていました。この高札場は加納藩の中でも最も大きく、石積みの上に高さ約三・五メートル、幅六・五メートル、横ニ・二メートルもあるものでした。正徳元年(1711)に「親子兄弟の札」が掲げられて以後、明治時代になるまで、何枚も高札が掲げられました。

平成十ニ年三月 岐阜市教育委員会」(説明版)

すぐその先には「中山道加納宿 右 河渡宿」の道標と共に「加納宿大手門跡」の碑が立っている。

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そのすぐ先に「当分本陣跡」の碑が立っている。当分本陣とはどういうことか調べてみると文久三年(1863)から当分の間補助的に置かれた本陣のことだそうだ。さらにほとんど並ぶように「本陣跡」の碑が立っている。碑には「中山道加納宿本陣跡」側面に「皇女和宮御仮泊所跡」と彫られている。また、和宮の歌碑が置かれている。

-遠ざかる 都としれば旅衣 一夜の宿も 立うかりかり- (和宮

加納宿脇本陣跡もすぐそばにある。

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脇本陣跡の先には「加納天満宮」が見えてくる。この天満宮は古くから氏神様として信仰されていたのだそうだ。

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ところで十返舎一九の「続膝栗毛」で弥次喜多は赤坂から加納へ向かう途中、加納宿の手前で身なりの悪い浪人と道ずれになり、宿も相宿になる。(弥次喜多は、京から江戸へ下っている。)浪人者を盗人と勘違いした喜多八は、問屋役人の宿改めに盗人の巻き添えになるのはごめんと寒さをこらえ裸で縁の下に隠れるが、実はその浪人は宿場の人々に慕われている剣術の先生であった。

-定九郎(さだくろう)と思いし人はさもなくて 縁のしたやにわれは九太夫-

忠臣蔵の悪役の定九郎と思った人はそうではなくて縁の下に隠れていた自分の  ほうが悪者の斧九太夫であった。)

次の交差点を右折すれば岐阜駅。今日の泊りは岐阜駅前のコンフォートホテル岐阜。ホテル内にあるコインランドリーがありがたい。

中山道旅日記 15 細久手宿-御嵩宿-伏見宿-太田宿

第48宿 細久手宿・本陣1、脇本陣1、旅籠24

(日本橋より92里30町8間 約364.59キロ・大湫宿より1里18町 5.89キロ)

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馬頭観音から15分程行くと、「高札場跡」の碑が建てられており右手に「庚申堂」がある。境内には中に役行者像が祀られている石窟や石仏、石塔などが置かれている。このあたりが宿場町の入り口のようである。

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江戸時代初期(慶長年間)大井宿から御嵩宿の間の八里には、宿場はなく難渋していた旅人のために大湫の宿が設けられたが、それでも大湫宿御嵩宿の間は四里半(17.7Km)の坂道であった。そのため美濃国の奉行・大久保長安に細久手に新しい宿を造るように命じられた国枝与左衛門は、既存の旅籠に加え自力で七軒屋と呼ぶ仮宿を設けた。それが山間の小さな宿場町・細久手宿である。

公民館の先にある瑞浪市の説明版には「標高約四百二十メートルにあって、江戸から四十八番目(距離約九十二里)、京から二十二番目(距離約四十二里)に位置する宿場です。中山道の開設当初、東の大湫宿から西の御嵩宿までの道程が四里半(約十七・七キロメートル)もあったことから、尾張藩によって設置されました。慶長十一年(1606)の開宿当初は、七軒屋と呼ばれる小さな仮宿で、その後放火により全焼し、慶長十五年(1610)に正規の宿場として再整備されています。宿場の規模については、天保十四年(1843)の記録に「町並み三町四十五間(約四百十メートル)、家数六十五軒、旅籠屋二十四軒、総人数二百五十六人」の記録があります。 細久手宿は、仮宿の全焼のほか、寛政十四年(1802)、文化十年(1813)、安政五年(1858)の三度にわたって大火に見舞われ、大きな被害を受けました。現在の町並みは安政の大火以降に形成されたものです。」とある。

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公民館の向かいが「大黒屋」、本日の宿である。

大黒屋は尾張藩の定本陣で、脇本陣が狭いことに加え、他の大名との合宿を嫌った尾張藩が特に問屋酒井吉右衛門家を専用の本陣にあてたものだそうだ。

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26日目(4月19日(火)) 細久手宿御嵩宿-伏見宿-太田宿(ビジネス旅館いろは)

一夜明けて4月19日、今日も太田宿まで6里(約23.5キロ)の行程である。

午前7時30分に大黒屋さんに別れを告げて先へ行くと右手に「本陣跡」(大山家(屋号・日吉屋))の碑が立っている。その向かい「仲町」のバス停あたりが、脇本陣があった所か。なんの表記もなく草がぼうぼうと生えているだけなので定かではない。

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さらに先へ行くと「細久手口」のバス停があり、このあたりがもはや宿場の出口である。

旧道は広い道路とんなり、先へ進むと右手に「細久手の穴観音」と呼ばれる馬頭観音が祀られている。この馬頭観音は、観音様の縁日にお参りすると九万九千日のご利益があると信じられており「九万九千日観音」とも呼ばれている。

穴観音から10分程先に行くと「旧中仙道くじ場跡」の碑がある。くじ場とは当時の日雇い人足などが休んでいた小屋で、人足が運ぶ荷物の順番を「くじ」で決めていたことから付たれた名だそうである。

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この先は下り坂になり、坂を下り「平岩橋」を越えると上り坂になり、やがて「左・中山道西の坂」と彫られた碑がある。

その対面には「瑞浪市内旧中仙の影」の碑が置かれている。内容は、以下の通りである。

瑞浪市内仲山道の影」

之より先千三百米一里塚迠瑞浪市日吉町平岩地内旧幕当時に開いた仲山道は昔其侭の姿を今尚残して居り此間に次の様な地趾が残って居る一里塚より先は可児町に通じて居る

一.道が東西南北に向て居る珍しい所

一.石室の中に観音像三体祭る

一.旧鎌倉街道へ行く分岐点日吉辻

一.切られヶ洞

一.一里塚京へ四十一里、江戸へ九十三里

    路上及び一里塚附近よりの眺め

一、東に笠置山恵那山駒ケ岳

一、西に、伊吹山鈴鹿連峰

一、北に、木曽の御嶽山加賀の白山

一、南に、遠く濃尾平野尾張富士又快晴の日には尾張熱田の海を見る事ができる

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道標にしたがって左の急な上り坂に入ると、道は昔のままで3分程上って行くと右手に「秋葉三尊」が祀られていて「秋葉坂の三尊石窟」と題した説明版が立っている。

細久手宿御嵩宿の間は三里(約11.8km)。細久手宿から中山道を西へ、平岩の辻から西の坂道を登ると三室に分かれた石窟があります。

 右の石室に祀られているのは、明和五年(1768)の三面六臂(頭が三つで腕が六本)の馬頭観音立像。中央には一面六臂の観音坐像が、左の石室には風化の進んだ石仏が安置され、石窟の右端に残る石灯籠の棹には、天保十一年(1840)の銘があります。

 なお、ここは、石窟のすぐ上に秋葉様が祀られていることから、秋葉坂とも呼ばれています。 瑞浪市

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すぐその先には、「鴨之巣道の馬頭文字碑」があり5分程行った辻には「鴨之巣辻の道祖神碑」、「右・旧鎌倉街道迠約一里余」の碑が立っている。

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その先、下り坂を下っていくと「切られ洞」の碑が置かれている。これは、「昔、牛を追ってきた村人が盗賊に切られた処」なのだそうだ。

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ここからは、少しの間上り坂ですぐに下り坂になるが坂の途中に「鴨之巣の一里塚」がある。江戸から九十三番目の一里塚である。

「江戸へ93里、京へ41里という道標の中山道鴨ノ巣一里塚です。一里塚は道の両側に一対づつ築かれましたが、ここの場合地形上北側の塚が16m東方にずらされているのが特徴です。ここからは鈴鹿、伊吹や北アルプスの山々が一望できます。」(説明版)

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一里塚を過ぎると旧道は昔のままの峠道が続く。25分程歩くと「山内嘉助屋敷跡」の碑がある。山内嘉助は、江戸時代に酒屋を営んでいた豪商でここはその屋敷跡だそうだ。そのすぐ先に「鴨之巣一里塚」と「御殿場」の道標が置かれている。さらに、「百番供養塔」と刻まれた供養塔を過ぎ、御殿場へ向かって竹林を歩くことになる。

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道は「諸ノ木坂」と呼ばれていた急な上り坂で、峠は「物見峠」と言われていた。

ここは、皇女和宮が休憩を取ったことから「御殿場」と呼ばれるようになったのだそうだ。「馬の水飲み場」と呼ばれている水飲み場、右手には見晴らし台があり「笠置山」がきれいに見える。説明版も添えられている。

「御殿場・文久元年(1861)、皇女和宮の行列が中山道を下向し、十四代将軍徳川家茂公のところへ輿入れしました。その際、一行が休憩する御殿が造られたことから、ここを御殿場と呼ぶようになったといいます。

 和宮の行列は姫宮としては中山道最大の通行といわれ、四千~五千人にも及ぶ大行列でした。近隣では十月二十八日の早朝に前日宿泊した太田宿(現美濃加茂市)を出発し、昼には御嵩宿にて休憩、そしてここ御殿場でも再び休息をとったのち、大湫宿(現瑞浪市)で宿泊しました。中山道が別名「姫街道」と呼ばれるのは、こうした姫宮の行列が多く通行したためです。瑞浪市」(説明版)

「馬の水飲み場・ここは物見峠といい、道路の両側に計五軒の茶屋があり、十三峠前後のこの地であれば往来の馬もさぞかしのどが渇いたであろう。

存分のみなさいと北側に三カ所の水飲み場が設けてあった。」(説明版)

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御殿場跡を過ぎると旧道は、下り坂に変わり15分程下ると「唄清水」と呼ばれ、清水が湧き出ている場所に出る。「馬子唄の響きに浪たつ清水かな 五歩」の句碑が添えられている。当時は、ここを通る人の喉を潤したのだろうが今は飲めない。

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昔のままの旧道が舗装道路になったところに和宮も飲んだといわれている有名な名水「一呑みの清水」が残っている。説明版には以下のように記されている。

中山道を旅する人々にとって、一呑清水は喉の渇きを潤し、旅の疲れを癒す憩いの場所でした。江戸時代末期、将軍家降嫁のために江戸へ向かった皇女和宮は、道中この清水を賞味したところ大層気に入り、のちの上洛の際、永保寺(現岐阜県多治見市)にてわざわざここから清水を取り寄せ、点茶をしたと伝えられています。 岐阜県 名水50選のひとつ。」

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一呑の清水から一旦車道を歩くとすぐに「左・左舳五山茶園 右・中山道石畳」の道標があり、右の旧道に入ると「中山道・十本木立場」の人説明版が置かれている。

「宝暦5年(1756)刊の「岐蘇路安見絵図」にも記載があるこの十本木立場は、もともと人夫が杖を立て、駕籠や荷物をおろして休憩した所から次第に茶屋などが設けられ、旅人の休憩所として発展したそうです。一方で古老の話しでは、参勤交代の諸大名が通行する際にはここに警護の武士が駐屯し、一般の通行人の行動に注意が払われたそうです。」(説明版)

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五分ほど歩くと復元された一里塚が復元されている。「一里塚(謡坂十本木)」と刻まれた説明版が添えられている。江戸から九十四番目の一里塚である。

「慶長九年二月、徳川幕府東海道中山道北陸道に江戸日本橋を基準として、道の両側に五間四方(約16メートルほど)の塚を築造させました。これが一里塚です。

 一里塚は、一般的に一里ごとに榎、10里毎に松を植えて旅人に里程を知らせる重要なものでした。現在の御嵩町内にその当時四ヵ所あった一里塚は、幕藩体制崩壊後必要とされなくなり、明治四十一年にこの塚は二円五〇銭で払下げられ、その後取り壊されました。

 この一里塚は昭和四八年、地元有志の手でかつての一里塚近くに復元されたものです。」(説明版)

その先右手に「十本木の洗場」の木札が立っている。木札に書かれている文字は剥げて読めないが、御嵩町観光協会によれば「慶長九年二月、街道の両側に一里塚が造られ、その付近に十本の松の大木があったことから、此処を十本木の立場と呼ばれるようになった。道中の人足が駕籠や荷物をおろして休息した所から発展して茶屋や木賃宿が設けられ旅人の休息所となった。この池は当時の共同洗場である。安藤広重の木曽街道六拾九次の内 “御嵩宿” の画はこの場所がモデルとも云われている。」だそうだ。

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十本木の洗場の隣に安藤広重「木曽海道六拾九次之内 御嶽」の説明版が立っている。

「江戸時代、浮世絵の世界で名を馳せた人物に安藤広重(1797~1857)がいました。その作風は、情緒性を高め静の中に動を表現する独特の手法で風景画に新境地を開きました。代表作に「東海道五拾三次(全五十五枚)」のほか、この「木曽海道六拾九次(全七十一枚)」があり、御嵩宿では当時の庶民の旅で多く利用された「木賃宿」を中心に、囲炉裏を囲んだ旅人たちの和やかな会話が聞こえてきそうな様子を見事に描写しています。そして、作品のモデルとして選んだ場所がこのあたりだといわれています。

 広重の作品のなかに「木賃宿」が登場する例は非常に珍しく、軒下にいる二羽の鶏もまた、作品に描かれることはごく稀です。御嵩町」(説明版)

その向かい側に「十本木の茶屋跡」の説明版が立てられている。

「十本木茶屋跡・謡坂一里塚のすぐ近くにあって、「新撰美濃志」にも「十本木茶屋は、木曽路通りの休み茶屋なり。数十株の松樹立ちたる故、かく名づくという。」と記されている。西方からは、急坂を登りつめた所にあって、ここで汗を拭き拭き一ぷくした茶屋であったといわれている。」(説明版)

 

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茶屋跡から5分ぐらい歩くと旧道は石畳になる。「謡坂石畳」と呼ばれている石畳で「謡坂石畳」の碑も立っている。

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石畳を歩いていくと「左・江戸へ九十四里八丁 右・京へ四十里十三丁」の道標がありそこから5分程先に「耳神社」と呼ばれている小さな神社がある。説明版には、「全国的に見ても珍しい耳の病気にご利益があるといわれる神社です。平癒の願をかけ、お供えしてある錐を一本かりて耳にあてます。病気が全快したらその人の年の数だけ錐をお供えしました。奉納する錐は本物でも竹などでまねて作ったものでもよく、紐で編んだすだれのようにしてお供えしました。小さな祠には奉納された錐がいくつも下げられ、人々に厚く信仰されていたことがうかがえます。また、戦前には遠く名古屋方面からの参拝もありました。元治元年(1864)、武田耕雲斎尊皇攘夷を掲げて率いた水戸天狗党中山道を通った時、耳神社ののぼりを敵の布陣と思い、刀を抜いて通ったと伝えられています。

御嵩町御嵩町観光協会」と書かれている。

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先へ行くと「左・御嵩宿四一〇〇米 右・細久手宿七七〇〇米」の碑がありその先5分程歩くと馬頭観音が石窟に納められている寒念仏供養塔がある。御嵩町教育委員会のパンフレット「中山道往来」によれば「石窟におさめられている三面六臂馬頭観音像は、台座正面に「寒念仏供養塔」、左側には「維持明和二酉年」、右側に「八月彼岸珠日」と刻まれている。寒念仏は一年で最も寒い時期に、村人が白装束で集まり、鉦を叩いて念仏を唱えながら村中を練り歩く修行のことで、心身を鍛え願いを祈念したという。」だそうだ。

すぐ先には「牛の鼻かけ坂」の碑が立っている。

 「牛坊(うしんぼ) 牛坊 どこで鼻かいた 西洞の坂で 鼻かいた」という言葉が残るように、ここ西洞坂は牛の鼻欠け坂とも呼ばれ、荷物を背に登ってくる牛の鼻がすれて欠けてしまうほどの急な登り坂でした。中山道全線を通してみると、ここ牛の鼻欠け坂あたりを境にして、江戸へと向かう東は山間地域の入り口となり、京へと続く西は比較的平坦地になります。したがって地理的には、ちょうどこのあたりが山間地と平坦地の境界線になっているのも大きな特徴といえます。御嵩町」(説明版)

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急な牛の鼻かけ坂を下ると舗装道路に出るがしばらく行くと国道21号線に出会い国道を歩くと和泉式部の廟所がある。自らの出来事を三人称で日記にした「和泉式部日記」宮中の恋愛を歌にした「歌集」知られる平安中期の歌人で、古くからこの付近で没したと伝えられている。説明版が添えられていて、以下のように記されている。

「泉式部(いずみしきぶ)は、平安時代を代表する三大女流文学者の一人といわれ、和歌をこよなく愛し数多くの歌を残した一方で、恋多き女性としても知られています。

 波乱に富んだ人生を歩んだ彼女は、心の趣くままに東山道をたどる途中御嵩の辺りで病に侵されてしまい。鬼岩温泉で湯治していましたが、寛仁3年(1019)、とうとうこの地で没したといわれています。」墓所に置かれている石碑には

「ひとりさへ渡れば沈むうき橋にあとなる人はしばしとどまれ いずみ式部廟所 寛仁三己未天」と刻まれている。

下諏訪宿の「銕焼(かなやき)地蔵と和泉式部伝説」の説明版にもこの廟所のことが書かれている。

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先には、「右・中街道」と彫られた道標が立っている。中街道とは、東山道の名残で大井宿から下街道を抜けて中山道御嵩宿へ入るルートだそうである。

「中街道」の道標から15分程歩くと「左・細久手宿 右・御嵩宿」の道標がある。

ここから旧道に入りしばらく行くと御嵩宿である。

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第49宿 御嵩宿・本陣1、脇本陣1、旅籠28

(日本橋より95里30町8間 約376.37キロ・細久手宿より3里 11.78キロ)

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「慶長五年(1600)九月、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は直ちに宿駅伝馬制へと着手し、慶長七年(1602)には中山道筋でもいち早くここ御嶽宿に「伝馬掟朱印状」を下したことから、重要な拠点とみなしていたことがうかがえます。

 御嶽宿は江戸から四十九番目の宿場にあたり、天保年間の『中山道宿村大概帳』には、宿内町並四町五十六間(約五百四十メートル)、家数六十六軒(内旅籠屋二十八軒)、このほか本陣・脇本陣が各一軒、問屋場、高札場などの存在が記載されています。

 宿場は西端の天台宗の古刹大寺山願興寺から鉤の手を抜けて東へと続き、大名や公家あるいは一般庶民の通行とともに、情報や文化の交流する場所として大いに賑わいました。

御嵩町御嵩町観光協会」(説明板)

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御嵩宿に入ると左手に「正一位秋葉神社上町組」と刻まれた碑が立っていてその後ろには井戸がある。用心井戸と呼ばれる防火用の井戸で普段は飲料用として利用されていた。

宿場の町並みは左右に旧家が並びそれなりに趣がある。

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続いて、商家「竹屋」があり隣に「御嵩宿」の碑が立っていて右側面に「東・細久手宿」左側面に「西・伏見宿」と記されている。また「天保13年(1842)頃の御嶽宿の家並み図」も掛けられている。

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そして、その隣が「御嵩宿・本陣跡」「みたけ館(脇本陣跡)と続き「江戸より98里38町」と刻まれた大きな碑も立っている。

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「みたけ館」の先の唐沢橋を渡りしばらく行った交差点の所が「願興寺」山号は「大寺山(おおてらさん)」で「蟹薬師」として知られている。御嵩町観光協会のHPには、「天台宗祖「最澄」が東国巡錫の砌、この地に布施屋を建立し、自刻の薬師如来を奉納安置したのが起源とされる。その後、一条天皇の皇女とされる行智尼(ぎょうちに)が最澄自刻の薬師如来を朝夕と礼拝されていたところ、南西の尼が池から数千の沢蟹の背に乗った一寸八分の金色の尊像が顕現したという。これが天聴に達し、勅命により七堂伽藍が建立された。その後、多くの僧、権力者、そして何よりも民衆に支えられて現存している。現在、本堂並びに、本尊薬師如来及び日光月光両脇持、四天王像、十二神将、釈迦如来三像、阿弥陀如来立像、坐像の24体が国指定の重要文化財に指定されている。」と記されている。

また、願興寺は、瞽女(ごぜ)(盲目の女芸人)を庇護していたため瞽女たちの聖地にもなっているのだそうだ。大寺瞽女については、次のような逸話が残っている。「行智尼が京都から連れてきた3人の侍女が金色の薬師如来像をぜひ拝んでみたいと、決して開けてはいけないと行智尼から戒められていた厨子の扉を開けてしまった。金色の薬師如来像のあまりのまぶしさに思わず閉ざした3人の目は、それっきり開かなくなってしまい、行智尼が念仏を唱えてもかなうことはなかった。行智尼は目の見えなくなった3人の侍女に、楽器の演奏を教え、3人の侍女は、薬師様を讃える歌をうたいながら三味線を弾き、近くの村の家を回った。彼女たちはこのあたりでは大寺瞽女(おおてらごじょ)と呼ばれ、瞽女の始まりと言われている。」

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街道は、願興寺で桝形に曲がっていて先に行くと国道(21号)に変わり、しばらく行くと「鬼の首塚」と呼ばれている祠があり、説明版が添えられていて内容を要約すると「西美濃不破の関の生まれで関の太郎という凶暴で悪行三昧の男が鬼岩の岩窟に住み着き乱暴狼藉を極め、「鬼の太郎」と呼ばれていた。鬼の太郎は住民を大いに悩ませていたが「蟹薬師」のお告げにより捕らえられ、首をはねられた。検分のため首を桶に入れ都へ運ぼうとしたところ急に首桶が重くなり一歩も進むことができなくなった。すると首桶を縛っていた縄が切れ中から首が転げ落ち、落ちた首も動かすことができなくなったため、首をこの地に埋めた。」とのことである。

この下りは、十返舎一九の「続膝栗毛・五編下巻」の最初に書かれている。

「此所(このところ)は、むかし関の太郎といへる鬼の首を桶に入れて都におくるに、か

の首次第に重くなりて数十人の力に及ばず、此所に桶のまゝ埋めたるゆゑかくは名付けしと言傳ふるよしをききて、

- 桶縄手 今もその名は朽ちざりき 塩漬けにせし 鬼の首かも -」

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鬼の首塚の横には、正岡子規の歌碑が置かれている。

- 草枕むすぶまもなき うたたねの ゆめおどろかす野路の夕立 子規 -

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子規の句碑から20分程歩くと右手に旧道が復活するが旧道に入った所に「中山道・比衣一里塚跡」の碑が立っている。さらに10分ほど先に「左・伏見宿 右・御嶽宿」の道標が立っている。旧道は再び国道21号に合流し、上り坂を上り切ったところが「伏見宿」である。

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第50宿 伏見宿・本陣1、脇本陣1、旅籠29

(日本橋より96里30町8間 約380.30キロ・御嵩宿より1里 3.93キロ)

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伏見宿は、元禄7年(1694)の立宿である。慶長7年(1602)の御嶽宿に対しては、新しい宿場といえる。御嵩宿から太田宿間は3里あり、途中に木曽川の渡しがあったために新設されたものであろう。御嵩宿からは西1里にあり、まわりからは高台になっている。この高台の東からの坂を上ったところに高札場があった。宿内は6町あまりで、本陣、脇本陣と旅籠を29軒有していた。宿の西側の木曽川岸に新村湊があり、尾張方面への川下げが行われていたようである。(御嵩町観光協会HPより)

現在は、国道21号が宿場を貫いているため、昔の風情はない。

宿場に入るとすぐに「伏見宿・本陣之跡碑」が置かれており、「是よ里東尾州藩領」と彫られた大きな領境碑が立てられている。

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その先、「伏見」の交差点に「一本松公園」があり四阿や、きれいなトイレもあるので一休みするにはちょうどいい。「宿場行灯」も置かれていて心休まる思いである。街道脇には「右・御嵩 左・兼山 八百津」と刻まれた道標も置かれている。ここは斉藤道三の養子、斉藤正義が築いた兼山城へ至る兼山道との追分でもある。

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交差点を左に100メートル程入ると「洞興寺」があり境内には、伏見宿の飯盛り女たちの亡骸を葬った「女郎塚」がある。「死後引き取り手のなかった彼女たちのそれぞれに表情を凝らした墓石群は哀愁を漂わせている。隣には子安観音が奉られている。」(御嵩町観光協会HPより)

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街道に戻り、先へ行くと左手に旧旅館「三吉屋」がありその先には正岡子規の歌碑が置かれている。 - すげ笠の 生国名のれ ほととぎす -

正岡子規の)「かけはしの記」に依れば明治二十四年(1891)五月末日、木曽路を経て故郷松山への道中、伏見宿に泊った正岡子規は、「朝まだほの暗き頃より舟場に至って下り舟を待つ。つどい来る諸國の旅人七・八人あり。」と記している。

新村湊にて「すげ笠の 生國名のれ ほととぎす」の一句を残し小舟にて木曽川駅までの舟旅を楽しんだ。御嵩町観光協会

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このあたりは、もう宿場の外れのようである。「上恵戸」の交差点の所に「右 太田渡ヲ経テ岐阜市ニ至ル」「左 多治見及大山ニ至ル 約四里」と彫られた道標が立っている。

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「中恵戸」の交差点には新しく作られた「一里塚跡」の碑が置かれている。江戸から九十七番目の「恵戸の一里塚」である。右面は「江戸・伏見宿」左面は「京・今渡の渡し・太田宿」裏面に「中山道開宿400周年記念事業 可児市可児市観光協会

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この先は、特にこれということもなく淡々と歩いていくとやがて旧道は国道と別れ

JRの踏切を渡りしばらく行くと「住吉」の交差点があるがその先が「今渡(いまわたり)立場」である。当時は中山道の難所と言われた太田の渡しを控えて随分賑わったのだろう。立場の入り口には「今渡神社」がある。その先の「龍洞寺」に「龍の枕石」なるものが祀られている。これは、雄と雌の「龍神の寝枕」だそうだ。さらに5分程行くと「富士浅間神社」があり旧道はここで直角に右に曲がることになる。

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さて、いよいよ木曽川に架かる「太田橋」を渡ることになるのだが、橋の手前に「木曽のかけはし太田の渡し碓氷峠がなくばよい」と彫られた碑が置かれている。当時の木曽川は流れが急で、かなり深かったため渡し舟で渡るしかなかったようである。また、「今渡渡し場」の碑に説明版が添えられている。説明版には以下のように書かれている。

今渡の渡し場

 中山道の三大難所の一つ「木曽のかけはし 太田の渡し うすい峠がなくばよい」と詠まれた、現可児市今渡地区に残る木曽川の渡し場跡です。(この対岸の呼称が太田の渡し)。木曽川が出水する度に「船止め」となったので、今渡地区には、旅人のための宿屋や茶屋などが建ち並び、湊町として繁栄したと伝わります。

 明治三四年三月には両岸を渡す鉄索を張り、それに船を滑車でつなぎ、川の流れを利用して対岸へ船を進める「岡田式渡船」となりました。その頃には、渡し賃も無料となっていたようです。乗客がほどよく乗り合わせると出発し、一日に何回も往復しました。夜でも対岸の船頭小屋へ大声で呼び掛けると、船を出してくれたといいます。

 昭和二年二月、このすぐ上流に見る太田橋が完成し、渡し場は廃止されました。

渡し場の移り変わり

 鎌倉時代に起こった承久の乱の記録によれば、当時の官道である東山道は、この下流にある市内土田地区から木曽川を渡り、「大井戸の渡し」と呼ばれていました。

 江戸時代に入り、この官道は中山道として再整備されました。当時の絵図などから見ると、江戸時代の中頃までは同じ土田地区の渡り付近(土田の渡し)から渡っていたようですが、後期頃からはここ今渡地区へ移されています。

 土田の渡しは、中山道の正式な渡し場でなくなりましたがその後も続き、昭和五年頃に岡田式渡船を採用し、昭和三五年頃に廃止されました。

市内渡し場の渡船料金(明治14年)

 

今渡の渡し

川合の渡し

土田の渡し

1銭2厘

1銭

1銭

牛馬

2銭4厘

2銭

2銭

1銭2厘

1銭

1銭5厘

荷物

2銭4厘

1銭5厘

 

 『可児町史』(通史編)1980より 平成十七年九月建替 可児市教育委員会

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太田橋を渡り、木曽川の堤防沿いを歩いて旧道に出ると太田宿である。

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第51宿 太田宿・本陣1、脇本陣1、旅籠20

(日本橋より98里30町8間 約388.15キロ・伏見宿より2里 7.85キロ)

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太田の渡しは、十三世紀以前から存在していたと考えられるが、ここが宿場のひとつとして定められ、繁栄するのは、徳川家康によって伝馬制が整備されてからである。慶長五年(1600年)に関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、政治・軍事上の必要から伝馬制を拡充し、伝馬を提供する所として宿を定めた。中山道は慶長7年(1602年)に伝馬制ができ、宿のひとつが太田宿であった。万治元年(1659年)に五街道東海道中山道・日光道中・奥州道中・甲州道中)が定められ、太田宿は中山道69宿の一つとして栄えることになったのである。江戸からは51番目の宿場にあたり、本陣・脇本陣・問屋・旅籠屋・遊女屋などで賑わいました。太田宿の大きな特徴は、木曽川を渡る「太田の渡し」。木曽川が増水すると川止めとなり、旅人は木曽川を越えることができなかった。(中山道・太田宿HPより)

さて、旧道に出ると「中山道太田宿・明水神公園」の行灯が立っている。その先には「法華経塚」が祀られていて「法華経塚と飛騨街道追分」の説明版があり、以下のように書かれている。

法華経塚は、埋葬地(墓地)の入口に建てられた石碑だったと言われています。

 ここから少し東に行くと、飛騨高山へ向う飛騨街道の追分があります。

 現在、ここから東に進んだ神明堂の交差点付近には、明治時代に伊藤萬蔵により建立された中山道と飛騨街道の道標が残っています。 美濃加茂市商工観光課」

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しばらく歩いていくと「太田稲荷神社」があり、その隣が「祐泉寺」である。祐天寺境内には太田の地で生れ育った明治の文豪坪内逍遙が述懐の念をこめて詠んだ「椿の歌」の碑、北原白秋が祐泉寺を訪れ茶席でしたためた歌の碑、松尾芭蕉の門弟となった脇本陣3代目の林由興(冬甫)が師を悼んで建てた芭蕉の句碑が残されている。

- やま椿さけるを見ればいにしへを 幼きときを神の代とおもふ(逍遥)-
- この木の実ふりにし事のしのばれて 山椿はないとなつかしも(逍遥)-

- 細葉堅秋雨ふれり うちみるや 石燈籠のあを苔のいろ 白秋 -

- 春なれや 名も無き山の 朝かすみ 芭蕉 -

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街道は、祐泉寺の先で桝形に曲がっていて、角を曲がったところに旧旅館の「小松屋」(吉田家)がある。小松屋は、お休み処になっていて無料で入場できるということだが本日は定休日(火曜日)で入場はできなかった。このあたりの町並みはなかなか趣がある。

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松屋から5分程先には、「脇本陣」林家がある。これは見事な建物で国の重要文化財に指定されているのもうなずける。

「旧太田脇本陣林家住宅は明和六年(1769)に建築された主屋と、天保二年(1831)に建築された表門と袖塀、それに裏の二棟の土蔵から成っています。
 江戸時代に太田宿は、中山道の宿場町として栄え、大名や地位の高い人が泊まる本陣と脇本陣が各一軒あり、林家は脇本陣としての役目のほか太田村の庄屋や、尾張藩勘定所の御用達をつとめた旧家であります。

この建物を見ますと、主屋の両端の妻に卯建が建ち、ひときわ目を引きますが、これは防火壁の役目を果たすと同時に脇本陣の権威を象徴するものであります。

又、この建物は中山道において脇本陣としての遺構を当時のまま残している唯一の建物であり、昭和四十六年に国の重要文化財に指定されています。
 今でも脇本陣の前に立つと「したにー、したにー」と声をはりあげながら通っていった当時の大名行列や旅人の行き交う姿が目に浮かんできます。

昭和六十一年一月 美濃加茂市」(説明版)

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脇本陣の向かいが「本陣」(福田家)だが今は門だけが残っている。

「旧太田宿の中心にあった旧本陣は、宿場の中町の現在位置にありました。明治時代になると旧本陣には太田町役場がおかれ、町の中心的な存在でした。現在、旧本陣の面影はありませんが、この門は当時をしのばせる貴重な遺構です。

 「旧太田宿本陣門」は、文久元年(1861)仁孝天皇の皇女「和宮」が十四代将軍徳川家茂に嫁ぐため、江戸に向かう時に新築されたものです。このときは、旧中山道中の家並みなども新築・修繕されたといわれています。

 この門は、一間の薬医門(本柱が門の中心線上から前方に置かれている門のこと)で、両袖に半間の塀が付く、格式のある端正なつくりです。昭和の初め頃に現在の位置に移築されたと言われています。建築以来、長い年月を経て痛みが激しくなったため、平成14年10月に美濃加茂市教育委員会が解体修理しました。」(説明版)

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すぐ先に「中山道分間延絵図」「加茂群太田村家並み絵図」、「中山道会館」がある。

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街道は、その先桝形に曲がり角に「高札場跡」の立て札と「高札場跡と郡上街追分道標」の説明版があり「右・関上有知 左・西凶京伊勢道」と彫られた道標が置かれている。

「江戸時代、幕府・大名が法令や禁令を公示するため、墨書した高札を掲示した所を高札場といい、宿場等人の目につきやすい所に設置されました。

 太田宿か、次の宿までの人馬の駄賃やキリシタン禁令等の高札が掲げられていました。」(高札場跡立札)

「高札場跡と郡上街道追分・高札は、法度・禁令、犯罪人の罪状などを記し、交通の多い辻などに掲げた板の札です。一般の人々に知らせる目的で立てました。弘化2年(1845)の「加茂郡大田村家並み絵図」には、下町の西福寺入口付近に高札場が描かれています。「濃州徇行記」には「毒薬、親子、火付、切支丹、荷物貫目、駄賃高札」が書かれた高札と船高札があったとされます。また、ここは郡上へ向う「郡上街道」との追分でもあります。左手にある石の道標は明治26年(1893)に名古屋の塩問屋、伊藤萬蔵が建立したもので、郡上街道追分の道案内をしています。 美濃加茂市商工観光課」(説明版)

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桝形を左に曲がり、次の桝形を右折すると虚空蔵堂があり「虚空蔵堂と承久の乱 古戦場跡」の説明版が立っている。

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さらにその先には太田小学校があるが、ここが太田代官所のあった処である。

尾張藩天明年間になると藩政改革として領内の要所地を一括支配する所付代官を配置しました。太田代官所天明2年(1782)に設置され、当初の代官は井田忠右衛門でした。慶応4年(1868)、太田代官所は北地総管所と改名され、田宮如雲が総管に任命されました。このとき一緒に勤めていたのが坪内逍遥の父平右衛門です。

美濃加茂市商工観光課」(説明版)

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代官所跡の隣に「坪内逍遥ゆかりの妙見堂」がある。明治の文豪・坪内逍遥は太田代官所の役人・坪内平之進の末子である。

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代官所跡の隣に「坪内逍遥ゆかりの妙見堂」がある。明治の文豪・坪内逍遥は太田代官所の役人・坪内平之進の末子である。

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この先は、車通りの多い無味乾燥とした国道をひたすら歩くことになる。今日の泊りはJR「美濃太田駅」のすぐそばなのでJR「坂祝駅」から一駅戻り「美濃太田駅」へ。

ビジネス旅館「いろは」は、料金も安く、食事もボリュームがあるので結構込み合っていた。

中山道旅日記 14 大井宿-大湫宿-細久手宿(大黒屋)

25日目(4月18日(月)) 大井宿-大湫宿細久手宿(大黒屋)

今日は、細久手宿まで5里、約20キロ弱の行程ということで午前7時30分の出発とする。旧道に戻り、商店街を行くと左手に「中野村庄屋の家(本酒屋)」がある。説明版が添えられており、以下のように記されている。「中野村庄屋の家で、屋号を本酒屋といいました。文久元年(1861)、皇女和宮が降嫁し、中山道を通って江戸へ下ることになりました。その準備に中山道の各宿場はおおわらわでした。当時、大湫宿助郷村であった野井村が、和宮が通行するということで岩村藩代官より強制的に賄役(まかないやく)につかせられました。このことを不満に感じた野井村百姓代表熊崎新三郎は、和宮の通行が終わったあと、中野村庄屋宅に滞在していた岩村藩代官吉田泰蔵に斬りつけました。これは後に事件となりましたが、代官による強制的な賄役の負担が野井村の今後の慣例となることをおそれた野井村は、岩村藩相手に裁判に訴えました。最終的には野井村の勝訴となり代官は罷免され、野井村に金25両が下付されました。」

その横に「中野観音堂」があり傍らに中野村高札場跡の碑が立っている。

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永田川に架かる長嶋橋を渡ると国道19号線に出会う。この信号を右折し、国道をしばらく行くと左手に旧道が復活する。旧道に入ると「西行硯水公園」がある。「文治二年(1186)西行は二度目の奥州の旅に伊勢を出発した。鎌倉で源頼朝に会い、平泉で一年滞在した後、木曽路を経てこの地を訪れ、三年暮らしたといわれる。歌人である西行は、多くの歌を詠み、こんこんとわき出るこの泉の水を汲んで、墨をすったと伝えられている。

道の辺に清水ながるる柳かげしばしとてこそ 立ちどまりつれ   西行

 陽炎やここにもふじ見の筇(つえ)の跡   奚花坊

奚花坊(本巣郡)の句は、天保十四年(1843)馬籠新茶屋の芭蕉句碑建立句会に来訪したときに、ここで詠み、地元の弟子に与えたものである。」(恵那市教育委員会による)

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西行硯水公園を後に先へ行くと「西行塚」「中山道・中野村」の碑があり、JRの線路を越えて旧道を行くと「是より西十三峠」の碑が立っていてここからは厳しい峠道である。当時は「十三峠におまけが七つ」といわれ実際には二十の峠があるといわれている。まずは「西行坂①」と呼ばれる坂から十三峠は、始まる。

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西行坂を行くとすぐの細い道を上がれば「伝西行塚」がある。西行は、この大井宿付近で亡くなったといわれている。塚の上の五輪塔室町時代末期のものだそうで、西行法師の供養のために造られたものだそうだ。小高い丘の上は、恵那山の山並みや恵那の市街地が見渡せる展望台になっている。ここには、芭蕉西行の句碑が置かれている。

― 西行のわらじもかかれ松の露 - (芭蕉

- 待たれつる入相のかねの音す也あすもやあらば きかむとす覧 - 西行(新古今和歌集

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街道に戻ろう。石畳の道を上り切ると「西行の森」と呼ばれる公園があり、ここには一里塚が残っている。「槙ヶ根の一里塚」(江戸から八十八番目)である。

「一里塚は、一里(約四キロ)ごとに街道の両側に土を盛り、その上に榎を植えて旅人たちに里程を知らせた塚である。戦国時代の末(十六世紀後半)には、山陽道の備中の河辺から北九州肥前名護屋のあいだに築かれていたといわれるが、一般的には、慶長九年(1604)、徳川幕府が江戸日本橋を起点として、東海道中山道などの主要な街道に設けさせ制度化したものをいっている。しかし、百八・九十年後の天明年間(1780年代)のころには、姿を消したものがかなりあったという記録が残っている。県内の中山道には、全部で三十三か所あったが、現在はそのほとんどがとりこわされ、現存しているのは、当市内のこの槙ケ根一里塚と紅坂一里塚のほかに瑞浪市内の権現山一里塚など五カ所の合わせて七カ所にすぎない。また、全国的にも現存する数はきわめてすくなく、一里塚は江戸時代の街道の面影を今に残す貴重な文化財である。

この槙ケ根一里塚は、北の塚が高さ約3.5m、幅は9.9m、南塚は北塚より少し大きく高さは3.9m、幅は10.1mある。塚の頂上に植えられていたといわれる榎は両塚とも残っていない。近年の土地開発が進む中で、この附近の中山道は開発から免れており、この槙ケ根一里塚のほかに西行塚や西行坂なども原形をとどめ往時の中山道を偲ぶことができる。」(恵那市教育委員・会説明版)

西行の森」公園は桜百選にも選ばれており桜の名所である。花の盛りの頃は、多くの人出で賑わうのだろう。

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やがて「槙ヶ根坂②」と呼ばれる緩やかな上り坂を行くと車道に出会うがすぐに再び旧道に入っていくことになる。旧道に入ると「茶屋槙本屋跡」「茶屋水戸屋跡」「茶屋松本屋跡」の小さな杭が立っている。このあたりは、槙ヶ根と呼ばれたところで「槙ヶ根立場」や「伊勢神宮遥拝所」もあり、当時はずいぶん賑わっていたのだろう。

「槙ヶ根立場の茶屋」「伊勢神宮遥拝所」の説明版がある。

槙ヶ根立場の茶屋(説明版)

「江戸時代の末頃ここには榎本屋・水戸屋・東国屋・中野屋・伊勢屋などの屋号を持つ茶屋が九戸あった。そして店先にわらじを掛け餅を並べ、多くの人がひと休みして、また旅立って行ったと思われる(旅人の宿泊は宿場の旅籠屋を利用し、茶屋の宿泊は禁止されていた)。これらの茶屋は、明治の初め宿駅制度に変わり、脇道ができ、特に明治三十五年大井駅が開設され、やがて中央線の全線が開通して、中山道を利用する人が少なくなるにつれて、山麓の町や村へ移転した。そして今ではこの地には茶屋の跡や古井戸や墓地などを残すのみとなった。」

伊勢神宮遥拝所(説明版)

「京都から江戸へ旅をした秋里離島(あきざとりとう)は、その様子を文化二年(1805)に「木曽名所図会」という本に書いた。そしてその挿絵に槙が根追分を描き、追分灯籠の横に注連縄を張った小社を書いている。ここにある礎石は絵にある小社遺構であろう。伊勢神宮参拝の人はここで中山道と別れて下街道を西へ行ったが、伊勢までの旅費や時間のない人は、ここで手を合わせ遥拝したという。」

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ここは、名古屋道との追分にもなっていて「右西京大坂・左伊勢名古屋道」と刻まれた道標が立っている。「下街道」と書かれた説明版も立っている。

下街道(説明版)

「中仙道を上街道といい、ここで分かれて下る道を下街道と呼んだ。下街道は、竹折・釜戸から高山(現土岐市)・池田(現多治見市)を経て名古屋へ行く道である。

この道は途中に内津峠の山道があるが、土岐川沿いの平坦地を進み、付近には人家も多い。そのうえ名古屋までの距離は上街道より四里半(約十八キロ)近かった。そのため下街道は一般旅行者に加えて商人や伊勢神宮の参拝者も多く大変にぎわった。しかし幕府は中仙道の宿場保護のため下街道の商人の通行を禁止し、尾張藩も厳しく取り締まったが徹底することができず、幾度も訴訟裁定を繰り返した。」

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そこから先は、下り坂になっており、「祝坂③」の杭が立っている。少し行くと傍らには馬頭観音があり、すぐ先の階段の上に「姫御殿跡」の碑が立っている。説明版には以下のように書かれている。

「ここを祝峠といい、周囲の展望がよいので、中仙道を通る旅人にとってはかっこうの休憩地だった。この近くに松の大木があり、松かさ(松の子)が多くつき、子持松といった。この子持松の枝越しに馬籠(孫目)が見えるため、子と孫が続いて縁起がよい場所といわれていた。 そのためお姫様の通行のときなどに、ここに仮御殿を建てて休憩されることが多かった。文化元年(1804)十二代将軍家慶のもとへ下向した楽宮(さぎのみや)のご通行のときは、六帖と八帖二間の仮御殿を建てた。文久元年(1861)十四代将軍徳川家茂のもとへ下向した和宮のご一向は、岩村藩の御用蔵から運んだ桧の無節の柱や板と白綾の畳を敷いた御殿を建てて御休みになった。地元の人たちは、この御殿は漆塗りであったといい伝え、ここを姫御殿と呼んでいる。」

すぐ横に「祝峠」の杭がある。

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五分ほど下ると「首なし地蔵」と呼ばれるお地蔵さまが祀られており、次のような伝説が残っている。「昔、二人の中間(ちゅうげん)が、ここを通りかかった。夏のことで汗だくであった。「少し休もうか」と松の木陰で休んでいるうちにいつの間にか二人は眠ってしまった。しばらくして一人が目覚めてみると、もう一人は首を切られて死んでいた。びっくりしてあたりを見回したがそれらしき犯人は見あたらなかった。怒った中間は「黙って見ているとはなにごとだ!」と腰の刀で地蔵様の首を切り落としてしまった。

 それ以来何人かの人が首をつけようとしたが、どうしてもつかなかったという。」(説明版より抜粋)。

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その先は急な下り坂で「中山道・乱れ坂④」と刻まれた石碑が置かれている。江戸側からは下りだが、京側からの旅人はこの坂を上ってくるのだからどれだけ大変だったか想像に難くない。坂の途中に「下座切場跡」の杭が立っているが、下座切場とは、ここを通行する偉い役人を地元の役人が袴を着て土下座をして迎え入れたのだという。その先には、「乱れ橋」と呼ばれる橋があり、「乱れ橋」と書かれた杭と「乱れ坂と乱れ橋」の説明版が立っている。説明版には「大井宿から大湫宿までの三里半(約14Km)には、西行坂や権現坂など数多くの坂道があり、全体をまとめて十三峠という。乱れ坂も十三峠の一つで、坂が大変急で、大名行列が乱れ、旅人の息が乱れ、女の人の裾も乱れるほどであったために「乱れ坂」と呼ばれるようになったという。このほかに「みたらし坂」とか「祝い上げ坂」ともいう。坂のふもとの川を昔は乱れ川といい、石も流れるほどの急流であったという。ここに飛脚たちが出資して宝暦年間に長さ7.2m、幅2.2mの土橋を架けた。この橋は「乱れ橋」あるいは「祝橋」といい、荷物を積んだ馬(荷駄)1頭につき2文ずつを徴収する有料橋のときもあったという。」と書かれている。

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乱れ橋から5分ほど行くと「うつき原坂(お継原坂)⑤」の杭が立っておりすぐ先に「四つ谷無料休憩所」がある。一休みとしよう。このあたりは、「四つ谷立場」があったところで当時の旅人も一息入れたのだろう。

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さて、休憩所から10分ばかり行くと「かくれ神坂⑥」の杭がありすぐ先に「妻の神」が祀られている。調べてみると、夫婦和合、子宝」の神だそうだ。

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上り坂を上っていくと「中山道・平六坂⑦」と彫られた石碑があり「平六茶屋跡」の杭が立っている。

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平六茶屋跡あたりで上り坂は終わり田園風景が広がる農道を10分ばかり行くと、一里塚が見えてくる。江戸から八十九番目の「紅坂一里塚」である。

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一里塚の先は、石畳になっていてすぐに「うばヶ出茶屋跡」の杭、「ぼたん岩」、「中山道・紅坂⑧」の石碑が置かれている。ほたん岩は、上から見ると大きな牡丹の花びらのように見えるのでそう呼ばれているのだそうだ。

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石畳の下り坂を行くと、右手に「ばが茶屋跡」左手に「馬茶屋跡」杭が立っていて、アスファルトになった下り坂を下っていくと「中山道・黒すくも坂⑨」の石碑が置かれている。

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先へ行くと左手に「佐倉宗五郎碑」、奥に佐倉宗五郎を祀った小さな神社(佐倉宗五郎大明神)や二十二夜塔がある。佐倉宗五郎とはどういう人物か調べてみると「下総印旛郡公津村(現千葉成田市)の名主で佐倉藩領主堀田氏の重税に苦しむ農民のため、将軍への直訴をおこなって処刑されたという物語が歌舞伎などで上演され広く知られるようになった」とのことであるが、何故ゆえにここにその碑が置かれているかというと、「元禄年間(1700年頃)、岩村藩で農民騒動が起きそうになった時、竹折村庄・屋田中与一郎が将軍に直訴して農民を救ったが、本人は打ち首になった。この話が佐倉宗五郎事件に似ていることからこの名前で祀ったのではないかと云われる。」

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その向かいに「三社灯篭」があり横の石段の上が「神明神社」で芭蕉の句碑が置かれている。

- 山路来て何やらゆかし寿美連草 - 芭蕉

この句は、芭蕉が大津から京へ至る逢坂山越えの道を歩いている時に詠んだ句で、「のざらし紀行」の中に収められているが、この句を刻んだ句碑が中山道の数か所に置かれている。ここに置かれているわけは「「美濃派」の俳人たちが、松尾芭蕉を「祖師」と称して尊崇し、句碑を建立し、俳聖を偲ぶ縁とした。」のだそうだ。

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芭蕉句碑を過ぎると「よごれ茶屋跡」の杭を右手に見て、永久橋を渡ると県道418号にでる。そのすぐ先を右手に入ると再び旧道で高札場跡、庚申塚があり「恵那市恵那市教育委員会の高札場の説明版に「定め書」の内容が記されている。

 

  定

一、きりしたん宗門ハ年御制禁たり、自然不審成もの有之ハ申出へし、御褒美として、

   えてれんの訴人    銀五百枚

   いるまんの訴人    銀三百枚

   立帰者の訴人     同   断

   同宿・宗門の訴人   銀百 枚

 右之通下さるへし、たとひ同宿宗門の内たりといふとも、申出る品により銀五百枚下さるへし、かくし置他所あらハるゝにおゐては、其所之名主并五人組迄一類共に可罪科者也、

  正徳元年五月日

     奉行

 

     定

一、火を付ける者をしらハ早々申出へし、若隠置におゐてハ其罪重かるへし、たとひ同類たりといふとも、申出るにおゐてハ其罪ゆるされ、急度御褒美下さるへき事、

一、火を付ける者を見付は、これをとらへ早々申出へし、見のかしにすへからさる事、

一、あやしき者あらハせんさくをとけて、早々御代官・地頭へ召連来るへき事、

一、火事の節、鑓・長刀・刀・脇差等ぬき身にすへからさる事、

一、火事場其外いつれの所にても、金銀諸色ひろひとらは御代官・地頭へ持参すへし、若隠し置他所はらハるゝにおゐてハ、其罪重かるへし、たとひ同類たりといふとも、申出る輩は其罪をゆるされ、御褒美下さるへき事、

 右條々可守之、若於相背む可罪科者也、

  正徳元年五月日

     奉行

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このあたりは、「深萱立場」と呼ばれていた処で、「深萱立場」説明書きには、「深萱立場・立場とは、宿と宿の間にある旅人の休息所で、「駕籠かき人足が杖を立てて、駕籠をのせかつぐ場所」と言われている。深萱立場は大井宿と大湫宿の中間にあり、茶屋や立場本陣、馬茶屋など10余戸の人家があって、旅人にお茶を出したり、餅や栗おこわといった土地の名物を食べさせたりしていた。立場本陣は、大名など身分の高い人の休憩所で、門や式台の付いた立派な建物である。馬茶屋は馬を休ませる茶屋で、軒を深くして、雨や日光が馬に当たらないよう工夫されていた。(恵那市教育委員会)」

その先、右手に「山形屋」と刻まれた石碑が置かれており、さらにその先には東の「下座切場」から西の「ばばが茶屋跡」までの道案内(絵地図)の案内板が立てられている。

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その先の「西坂」と呼ばれる厳しい上り坂を上っていくと「中山道」の碑とともに「馬茶屋跡」お杭、「西坂⑩」の杭が立っている。このあたりから道は石畳になっていて5分歩だ先に「みちじろ坂⑪」、「みちじろ峠」、「ばばが茶屋跡」「茶屋坂⑫」などの杭が立っている。

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このあたりから下り坂になり、坂を下り切ると「中山道」の大きな碑が右手に置かれている。

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先へ行くと、道は二手に分かれていて右手の旧道は上り坂になっている。やがて坂を上り切ると「大久後の向茶屋跡」の白い碑が立っている。標識が小さな杭から白い碑に代わっているのは、恵那市から瑞浪市入って管理する自治体が違うからであろう。茶屋跡を過ぎると「新道坂⑬」の碑があり、さらに5分ほど先に「灰くべ餅茶屋跡」の碑が立っている。

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先へ行くとまだ大きな桜の木がまだ花を残していた。桜の木の下には、ベンチとテーブルが置かれているのでここで昼食をとることにしよう。

ここで一句。

- うす曇り花吹雪舞う峠道 - 

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さくらの花が舞い散るベンチに座り、前に広がるのどかな風景を楽しみながら、握り飯をほおばった後は、再び街道歩きである。

「大久後の観音堂と弘法様」を右手に見て厳しい「権現坂⑭」の先に「鞍骨坂⑮」の上りが続く。

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その先には、「灰焼立場」で「灰焼立場跡」の説明版が立っている。

「立場というのは、馬のつなぎ場を備えた休憩所のことです。小さな広場と湧水池があり、旅人や馬の喉を潤しました。太田南畝(蜀山人)が享和二年(1802)に著した『壬戌紀行』に「俗に炭焼の五郎坂といふを下れば炭焼の立場あり左に近くみゆる山は権現の山なり。」という記述があります。十三峠の中では特に旅人に親しまれた立場でした。(瑞浪市)」

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しばらく歩いていくと「吾郎坂⑯」の碑「樫ノ木坂⑰」の石碑が置かれている。石碑には「十三峠の内中山道樫ノ木坂・一里塚を過ぎ、樫ノ木坂を下りて俗に灰焼の吾郎坂と云うを下れば灰焼の立場あり。左に近く見ゆる山は権現のやまなり。しばし立場に輿立てて憩う。 大田南畝(おおたなんぽ) 壬戌紀行(じんじゅつきこう)」と彫られている。(大田南畝は、大坂から江戸へ向かっていたので、向きの表現は逆になる。)大田南畝は、江戸時代の文人狂歌師である。唐衣橘洲(からころもきっしゅう)、朱楽菅江(あけらかんこう)と共に狂歌三大家と言われる。南畝は号で別号を蜀山人(しょくさんじん)という。狂名は四方赤良(よもの あから)、「壬戌紀行」は、大坂から木曽路を経て江戸に着くまでの紀行である。

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坂の途中に一里塚が残っている。「権現山の一里塚」で「樫ノ木坂の一里塚」ともよばれ、江戸から九十番目の一里塚である。

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一里塚を後にすると道は再び「巡礼水の坂⑱」と呼ばれる厳しい上り坂になる。ここには「巡礼水と馬頭様」の説明版が立っている。

大湫宿と大井宿の三里半(約十三、五km)は「十三峠におまけが七つ」と呼ばれ、二十余りの山坂道をいい、中山道の中でも難所の一つでした。十三峠は、大湫宿東端の寺坂から、巡礼水の坂、権現山の一里塚、観音坂を過ぎて恵那市へと続きます。

 この地には、お助け清水・巡礼水と呼ばれる小さな池の跡が残り、その上段には、宝暦七年(1757)銘の馬頭観音が祀られています。その昔、旅の母娘の巡礼がここで病気になったが、念仏によって目の前の岩から水が湧き出し、命が助かったと言い伝えられています。 瑞浪市

さらに、「中山道 巡礼水・坂を下りゆくに 左の方の石より水流れ出るを巡礼水という

 常には さのみ水も出ねど 八月一日には必ず出するという

 むかし巡礼の者 此の日此所にて なやみ伏しけるが この水飲みて命助かりしより今もかかることありといえり 太田南畝 壬戌紀行」と彫られた石碑が置かれている。

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巡礼水を後に先へ進むと下り坂となり「ぴあいと坂⑲」の碑が立っており、さらに「曽根松坂⑳」の石碑が置かれている。

石碑には、「少し下りて また芝生の松原を登りゆくこと四 五町 あやしき石所々にそば立ちて赤土多し 曽根松の坂という(壬戌紀行より)」と彫られている。

 

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曽根松坂の先に「阿波屋の茶屋跡」の碑と「三十三観音」の祠があり、説明版には以下のように書かれている。

「十三峠の三十三所観音石窟・大湫宿と大井宿の三里半(約十三、五km)は険しい山坂の連続する「十三峠」と呼ばれる尾根道で、中山道を行き交う人馬が難渋した場所でした。ここには、道中安全を祈って天保十一年(1840)に建立された観音石窟があり、三十三体の馬頭観音は、大湫宿内の馬持ち連中と助郷に関わる近隣の村々からの寄進です。なお、石窟前の石柱には、大手運送業者の定飛脚嶋屋・京屋・甲州屋を始め、奥州・越後の飛脚才領、松本や伊那の中馬(ちゅうま)連中が出資者に名を連ね、中山道の往時を偲ばせる貴重な史跡です。 瑞浪市

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三十三観音」の祠から先は下り坂で、坂を下ったところにお地蔵さまが祀られているところから「地蔵坂(観音坂)㉑」と呼ばれているそうである。このお地蔵さまの後ろからは清水が湧き出しているところから「尻冷やし地蔵」と呼ばれている。石碑が置かれていて「中山道尻冷やしの地蔵尊・地蔵坂という坂を上れば右に大きな木ありて地蔵菩薩たたせ給う」と刻まれている。また説明版があり「十三峠尻冷やしの地蔵尊・昔の旅人にとって道中の飲み水は大切でした。山坂の多い十三峠では特に大切であり、ここの清水は大変貴重とされました。この地蔵尊は、そんな清水に感謝して建てられてものですが、ちょうど清水でお尻を冷やしているように見えることからこんな愛称で親しまれてきました。」と書かれている。

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尻冷やし地蔵尊の先の広い道路を横切り右手の厳しい坂が「しゃれこうべ坂㉒」で坂の途中に「中山道しゃれこうべ坂(八丁坂)」の石碑が置かれており「八丁坂の観音碑」が立っている。石碑には「曲がりまがりて登り下り猶三、四町も 下る坂の名を問えばしゃれこ坂という右の方に南無観世音菩薩という石を建つ向こうに遠く見ゆる山は かの横長岳(恵那山)なり 太田南畝 壬戌紀行」と刻まれている。

そこから5分ばかりで「山之神坂㉓」さらに「童子ヶ根」の碑がある。

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童子ヶ根から数分の所に「寺坂㉔」の石仏群を見ることが出来る。

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石仏群から数分の所に「これよりいわゆる十三峠とやらんを越えゆべきに 飢えなばあしかりなんとあやしきやどりに入りて昼の餉す 庭に石桶ぐさの盛りなるにも わがやどの花いかがならんとしのばし 道の右に山之神の社あり例の輿より下りて歩む輿かくものに委しを問いて十三峠の名をもしるさまほしく 思うにただに十三のみにはあらず 詳しくも数えきこえなば 二十ばかりもあらんと 輿かく者いうはじめてのぼる坂を寺坂といい 次を山神坂という 太田南畝 壬戌紀行より」と刻まれた「是より東 十三峠」の碑、「左 江戸へ九十里半 大湫宿 右 京へ四十三里半」の碑が置かれている。

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長く厳しい峠道であった。いくつもの立場、多数の茶屋がその厳しさを物語っている。立場や茶屋は、当時の旅人の心を慰めたのであろう。尚、表示を頼りにカウントした峠は24であったが一つの坂の呼び名が複数あったり坂の下と上の呼び名が違ったり、また気づかなかったものもあるかもしれないので24の数は、極めて不正確である。

さて、この先は、いよいよ「大湫(おおくて)宿」である。

 

第47宿 大湫(おおくて)宿・本陣1、脇本陣1、旅籠30

(日本橋より91里12町8間 約358.7キロ・大井宿より3里18町 13.75キロ)

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中山道大湫宿」の碑が見事な枝垂れ桜の下に置かれている。碑には「中山道の宿駅にて京の方細久手宿より一里半余江戸の方大井宿より三里半の馬継ぎなり 尾州御領 名古屋まで十六里あり 十三嶺は宿の東方大井宿との間 琵琶坂は細久手に至る大道の坂を云う 西に伊吹山も見えて好景なり 新撰美濃志」と刻まれている。

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江戸時代に入り、中山道が整備された当初は東山道を改良したものが多く大井宿から御嵩宿の間(八里)に宿場はなく旅人はとても難渋していた。従ってその途中に宿場を作る必要があり「大湫宿」と隣の「長久手宿」が設けられたのだそうだ。

さて、宿場に入るとすぐに「大湫公民館」があるがその裏の小学校の校庭が「大湫・本陣」で、街道添いに本陣の説明版が立てられている。

大湫宿本陣跡

大湫宿本陣は現小学々庭にあり間口二十二間(約四十メートル)奥ゆき十五間(約二十七メートル)部屋数二十三畳数二百十二畳、別棟添屋という広大な建物で公卿や大名、高級武士たちのための宿舎でした。

 また 此ノ宮 (享保十六年・1731年)

    眞ノ宮 (寛保元年・1741年)

    五十ノ宮 (寛延二年・1749年)

    登美ノ宮 (天保二年・1831年)

    有 姫 ( 同 年       )

    鋭 姫 (安政五年・1858年)

などの宮姫のほか皇女和ノ宮が十四代将軍徳川家茂へ御降家のため(文久元年・1,861)十月二十八日その道中の一夜をすごされたのもこの本陣です。」(説明版による)

説明版の矢印に沿って坂を上がると「大湫小学校」があり、校庭には和宮の歌碑が置かれている。

「皇女和宮

- 遠ざかる都と知れば旅衣一夜の宿も立ちうかりけり -

- 思いきや雲井の袂ぬぎかえてうき旅衣袖しぼるとは -」

説明版の奥には、皇女和宮他2体の陶製人形が置かれている。

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すぐ先には、以前は旅籠屋だったが今は無料休憩所になっている「おもだか屋」がある。

厳しい十三峠を越えてきたところなのでここで一息、ありがたい!!

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おもだか屋の隣は、問屋場だったようで今は説明版のみがある。

問屋場とは問屋役、年寄役、帳付役、人馬指図役などの宿役人が毎日詰めていた宿役所のことで、公用荷物の継立てから助郷人馬の割当て大名行列の宿割りなど宿の業務全般についての指図や業務を行っていた。」(説明版より)

その先には、珍しい「虫籠窓の家」があった。「虫籠窓」は、京町家特有の低い二階にある塗り壁の窓のことで、その形が「むしかご」似ているのでその名が付いたのだそうだ。

京が近いということか。

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そのすぐ先が、「脇本陣・保々家」で説明版も立っている。

「本陣、脇本陣は大名や公家など身分の高いものの宿舎として建てられたものです。この大湫宿脇本陣は部屋数19、畳み数153畳、別棟6という広大な建物でした。今は壊されて半分程度の規模になっていますが宿当時を偲ぶ数少ない建物の一つとして貴重です。」(説明版)

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続いて「神明神社」があり境内の大杉は、県の天然記念物になっている。

「大湫神明神社の大杉・この大杉は大湫宿のシンボルで宿時代から神明神社の御神木として大切にされてきました。推定樹齢千二百年、まさに樹木の王様といったところで、蜀山人の旅日記にも「駅の中なる左のかたに大きなる杉の木あり、木のもとに神明の宮たつ」とあります。」(説明版)

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さらに「大湫宿観音堂」があり説明版も立っている。

大湫宿観音堂・道中安全、病気全快の観音様として知られ、宿内、近郷はもちろん旅人からも厚い信仰を受けて賑わってきた観音堂です。現在の建物は、弘化4年(1847)に再建されたものですが、境内に並んでいる数多い石造物とともに盛大だった宿当時を偲ぶことができます。」(説明版)

大湫宿観音堂の絵天井・市指定 この絵天井は、虎の絵で著名な岸駒に師事した現恵那郡付知町の画人、三尾静(暁峰)の描いたものです。花鳥草木を主に六十枚描かれており、出来も色彩もうよく百年の歳月を感じさせない逸品です。この大湫観音堂は、宿の大火で類焼して弘化四年(1847)に再建されましたが、難病平癒の霊験があり近郷近在の崇敬を受けています。 瑞浪市教育委員会」(説明版)

ここには、芭蕉句碑も置かれている

- 花盛り山は日ごろのあさぼらけ -

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ここも人通りのまばらな静かな宿場である。

ところで、この「大湫宿」は十返舎一九滑稽本「続膝栗毛・五編下巻」に登場する。「かくて大久手(大湫)の駅ちかくなりければ、此のあたりの宿引きみな女にて、ばらばらと立ちかかり、二人を取り巻き・・・」弥次さん喜多さんが客引き女の声に騙されてここに宿を取る。喜多さんが部屋にきた女を口説こうと、その女が畑を荒らす猪の見張り小屋にいることを聞きつけ、小屋に近づき猪落としの穴に落ちてしまう下りである。ちなみに「東海道中膝栗毛」で江戸から伊勢詣、京、大坂と旅をした弥次喜多が「続膝栗毛」では金毘羅詣、宮嶋(宮島)、中山道木曽路、洗馬宿から松本へかかり善光寺詣、草津温泉へと旅をするのである。

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街道に戻ろう。観音堂から5分ほど行くと「中山道 大湫宿」の碑とともに高札場が復元されている。このあたりは、もう宿場の西の外れである。

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宿場を出ると左手に「紅葉洞の石橋」碑、「小坂の馬頭様」を見ることが出来る。道は、県道と旧道に分かれていて、右の旧道を行くとすぐ先には四阿のある休憩所がある。ここでひと息入れることにしよう。

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休憩所のすぐ先に、「中山道大湫宿 大洞・小坂」と刻まれた碑があり、「大洞の馬頭様」の碑とともに馬頭観音が祀られている。「中山道大湫宿 大洞・小坂」の碑には「安藤広重画木曽街道六十九次の大湫宿の絵はここから東方を描いたものである」と刻まれている。

旧道は、すぐに県道に合流するがその先に「大湫の二つ岩」と呼ばれる大きな岩が二つ並んでいて、その間に以下のように刻まれた「中山道二つ岩」の碑が置かれている。

「道の左にたてる大きなる石二つあり 一つを烏帽子石といふ 高さ二丈ばかり幅は三丈にあまれり また母衣石といふは高さはひとしけれど幅はこれに倍せり いづれもその名の形に似て 石のしましまに松その外の草生ひたり まことに目を驚す見もの也  大田南畝 壬戊紀行」

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二つ岩を過ぎ、5分ほど行くと右手が石畳の旧道で「琵琶峠を中心とする中山道」と刻まれた碑や「琵琶峠の説明版」が立っている。説明版には「琵琶峠の石畳 岐阜県史跡 

中山道は、岐阜県内でも改修や荒廃などにより江戸時代当時の原状を残すところが少なくなっております。こうした中で、瑞浪市内の釜戸町・大湫町・日吉町にまたがる約13kmの中山道は、丘陵上の尾根を通っているため開発されず、よく原形をとどめています。

特に、この琵琶峠を中心とする約1kmは、八瀬沢一里塚や馬頭観音などが現存し、当時の面影を残しています。昭和45年には500m以上にわたる石畳も確認され、峠を開削した時のノミの跡を持つ岩や土留め・側溝なども残されています。歴史の道整備活用推進事業の一環として、平成9年度から平成12年度にかけて石畳や一里塚などの整備を行い、江戸時代当時の琵琶峠に復元しました。 岐阜県教育委員会 瑞浪市教育委員会

またすぐ先に「これより坂を下ること十町ばかり山には大きなる石幾つとなく 長櫃の如きもの 俵の如きもの数を知らず 大田南畝 壬戌紀行より」と刻まれた「中山道・琵琶峠東上り口」の碑が置かれている。

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石畳の道を上っていくと10分程で琵琶峠頂上で、「琵琶峠頂上の馬頭様」の碑と共に馬頭観音が祀られていてその横に「皇女和宮の歌碑」が置かれている。

- 住み馴れし 都路出でて けふいくひ いそぐもつらき 東路のたび -

わずか16歳の 和宮の深い悲しみが読み取れる歌である。

ところで峠道付近の道幅は、わずかに1メートル程しかない。大行列はどのようにしてこの峠を越えたのであろう。さぞかし難儀なことであったろう。

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峠を下り始めるとすぐに一里塚が見えてくる。江戸から九十一番目の「八瀬沢一里塚」である。「琵琶峠の石畳と一里塚」の説明版には、以下のように書かれている。

「大湫(大久手)宿と細久手宿の間は一里半(約6Km)。琵琶峠は、美濃十六宿で一番高い所にある峠(標高558m)で長さは約1Km、古来より中山道の名所の一つです。

 ここにには日本一長いとされる石畳(全長約730m)が敷かれ、峠開削時のノミ跡を残す岩や、峠頂上の馬頭様(宝暦十三年・1763)東上り口の道標(文化十一年・1814)等の石造物があります。

 なお、「八瀬沢一里塚」はほぼ完全に残っており、江戸へ九十一里、京都へ四十三里を示す道標です。 瑞浪市

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一里塚から15分ばかり下ると「中山道・琵琶峠西上り口」の碑が置かれていて、句が三首刻まれている。

- 琵琶峠 足の調子は あわれなり -

- ゆく春の うしろ姿や 琵琶峠 -

- 雲の峯 加えつ 四っの 糸にしき -

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このあたりで「琵琶峠」は終わり、旧道は県道に合流したあたりが「八瀬沢立場」と呼ばれていた処で峠を越えた当時の旅人は、このあたりで一息ついたのであろう。

さて、県道を淡々と県道を歩いていくと1時間ほど歩くと「弁財天の池」が見えてくる。

「山丘上にありながらいつも水をたたえているこの池は、古くから旅人に愛されてきました。大田南畝の「壬戊紀行」にも「小さき池あり杜若(かきつばた)生いしげれり池の中に弁財天の宮あり」と記述され、小島には天保七年(1836)に再建された石祠があります。」と書かれている。

「続膝栗毛」には、それより八瀬沢の弁財天を拝し、琵琶峠にさしかかりて、

- やせ沢に弁財天のあるゆゑか霞ひくなるびわの山坂 -

弥次喜多細久手宿から大湫宿へと歩いている。)とある。

「弁財天の池」から15分ばかり歩くと「男女松の跡」の碑があるがどうゆうものなのかはわからない。

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さらに5分ほどで「奥之田(瑞浪)一里塚」が見えてくる。江戸から九十二番目の一里塚である。説明版が二つあり以下のような説明文が書かれている。

「奥之田一里塚」

「江戸へ92里、京都へ42里という中山道の奥之田一里塚です。一里塚は道の両側に築かれ、高さ4m、直径12mあります。

この一里塚は、ほぼ、完全にもとの姿をとどめています。」

瑞浪一里塚」

中山道の一里塚は、大湫宿が開宿した慶長九(1604)年から整備が進められ、岐阜県内には三十一箇所の一里塚が築かれました。一里塚には榎や松が植えられ、松並木も整備されました。一里塚は、現在ではほとんど荒廃し、瑞浪市のように連続した四箇所が当時のまま残っている例は全国的にも稀です。

市内には、東から西へ順に、権現山(樫ノ木坂)一里塚、琵琶峠(八瀬沢)一里塚、奥之田一里塚、鴨之巣一里塚があり、高さ約3m、経10m程の大きさで、自然の地形をうまく利用して築かれています。なお、鴨之巣一里塚は、地形の制約を受け、塚は尾根沿いに東西16m程離れています。 瑞浪市

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一里塚のすぐ先に「三国見晴し台と馬頭様」お碑と共に馬頭観音が祀られている。

その先は「細久手宿」、今日の泊りは「大黒屋」さんである。

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中山道旅日記13 浦和駅-恵那駅 (大井宿)

24日目(4月17日(日)) 浦和-大井宿

朝8時39分浦和駅発、隣の南浦和から武蔵野線、中央線、中央西線を経由して恵那へ。新幹線が北海道まで行き、世の中がせかせかと慌ただしく回っている昨今、これはちょっとした贅沢なことなのかもしれない。ふとそんなことを考えているうち午後5時6分恵那駅に到着。

第46宿 大井宿・本陣1、脇本陣1、旅籠41

(日本橋より87里30町8間 約344.95キロ・中津川宿より2里18町 9.82キロ)

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JR恵那駅から高札場跡あたりまで戻り「街道歩き」を再開することとする。電車の線路をくぐると「南無阿弥陀仏」と彫られた碑が立っており、その先は「五妙坂」と呼ばれる急な下り坂になっている。「中山道五妙坂」の碑とともに「高札場跡」が残っている。説明版があり「高札は制札ともいい徳川幕府が、農民や商人を取り締まる基本的なきまりを公示したものである。高札場は村のうち人通りの多い目につきやすい場所に建て、幕府の権威を誇るように石垣や土盛りを築き、ときには矢来で囲むこともあった。そして管理の責任を藩に命じ、村人にきまりを厳しく守らせ、付近の掃除や手入れもさせた。

高札の書き換えは、きまりの改正や老中の交替、年号の変わるたびに行われたが、あまりに頻繁であったため、8代将軍吉宗以後は書き換えず、正徳元年(1711)5月付の高札が幕末まで維持された。そして慶応4年(1868)明治新政府は新しい高札に掛け替えたが、明治3年に高札制度を廃止した。大井宿の高札場はこの坂の上にあり、高さ2間(3.6m)巾2間半(4.5m)の大型のものであった。(この高札場は原寸を3/4に縮小したものである。)」と書かれている。

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道は、坂を下り横町川を渡ったところで桝形になっていて「延壽院横薬師」で直角に曲がり、その先で再び右に直角に曲がる角が「本陣」跡である。「大井宿は中山道46番目の宿場で、整然とした6箇所の桝形のある独特の町並みをしていました。最盛期には45軒余の旅篭があったといわれています。本陣とは大名や公家、幕府の公用役人などが休泊するところで門構えや玄関、式台があり他の旅篭屋とは大きく違っていました。本陣は各街道の宿場に1軒あるところや2軒あるところなどがありました。本陣が満員の時は本陣に準じた施設である脇本陣に休泊しました。大井宿本陣は、残念ながら昭和22年に母屋部分は火災で焼失してしまいましたが、幸いにも本陣の表門周辺は焼け残り、安土桃山様式を伝えるこの門を今に見ることができます。表門は他の本陣に比べるとやや小ぶりですが、屋根は反りをもたせた瓦葺で破風板や小屋組みの細工や彫刻も丁寧に仕上げられています。門の傍らに立つ松は樹齢300年を越すと思われる老松で幾多の大名や公家の姫君達がこの門をくぐったのを見ていた事でしょう。」(説明版による)

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本陣で右折すると右手に「竹矢来」の民家があり、左手に「大井村庄屋の古山家」がある。「古谷家は江戸時代に屋号を「菱屋」といい、酒造と商売をしていました。そして享保年間から幕末まで約一五〇年間、大井村の庄屋を勤めた旧家である。屋敷は間口一〇間半(約19m)・奥行三五間(約63m)の敷地の中に、一四畳・一〇畳・八畳の部屋など合計八室、それに土蔵をもち広大な建物であった。今の建物は明治初年に上宿より移築したもので、前面に太い格子をはめ、はねあげ式の大戸が付き、奥座敷には床の間・違い棚・書院・入側廊下のある一〇畳二間が続き、江戸時代の雰囲気を色濃く残している。」(説明版による)

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宿場町を歩いていくと「宿役人の家(林家)」がある。「林家は文化二年(1805)に本陣家より分家して以来、明治に至るまでの六〇余年間、代々大井宿役人の問屋役を務め、名字帯刀を許された家柄である。当家は間口七間半奥行二五間あり、一一・一〇・八・六・四畳などの部屋が一四室もある大型旅籠屋であった。そのうち東側二間は土壁で境をして、土間に続いて式台付の八畳の部屋三室が特別室となっていた。尚宿役人は問屋(最高責任者)・年寄(問屋の補助役)、その下役人に人足指(人足の指図をする役)・馬指(馬の指図をする役)・書役などがあり、幕府道中奉行の命をうけ道中の荷物や人の輸送・飛脚などの継立事務を行う、宿場の最も重要な役人であった。」(説明版による)、左手に「大井宿下問屋場跡」の説明版に「脇本陣高木家跡」の札がかけられている。「大井宿問屋場は本町上(上問屋)とここ(下問屋)の二か所にあった。問屋場は人や荷物の継立事務を行うところで、宿役人(問屋・年寄)や下役人(人足指・馬指・書役など)が月を半分にして、上問屋と下問屋に交代して勤務していた。宿役人は、大井宿が幕府の命により毎日用意している人足五〇名と馬五〇頭を使い、これでも不足するときは助郷村の人馬を集めて、隣宿の中津川宿や大湫宿まで、主として公用荷客の輸送にあたっていた。

 (大井宿助郷村=東野村・正家村・中野村・永田村・姫栗村・毛呂窪村・蛭川村・ほかに恵那郡内七か村)」(説明版による)。

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その先には、「明治天皇大井行在所跡」「行在所お休み処」がある。

「大井村庄屋の古山家」は有料、「行在所お休み処」は無料で入場できるが今日はすでに閉館していた。

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この先、道はまた桝形になっていて角が「いち川」という旅館で「旅籠屋と木賃宿」の説明版が掛っている。「食事付きで泊まるのは旅籠屋だが食事無しの宿泊は木賃宿である。(説明版)今でいうと1泊2食付きと素泊まりの違いである。すぐ先左手が「大井村庄屋古谷家」で「古谷家」の本家で先ほどの資料館になっていたところは、分家ということだろう。正面に「市神神社」があり、そこを直角に曲がと白木番所跡の説明版置かれている。尾張藩の木曽材木の監視の厳しさを改めて思い知らされる。

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桝形を出て阿木川に架かる大井橋を渡ると商店街になっていて「JR恵那駅」の前の広い道路を左折、今日の泊り「シティホテル・ミチ」へ。大井橋の欄干には、「木曽街道六十九次続き絵」の複製が並んでいる。

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