中山道旅日記 21 関ケ原宿-今須宿-柏原宿-醒井宿-番場宿-鳥居本宿

 若宮八幡神社から街道に戻りしばらく歩くと国道21号に歩道橋が架かっている。歩道橋を渡たってさらに行くと街道の下に川が流れていて「黒血川」の説明版が立っている。

≪黒血川≫

壬申の乱672)で、ここ山中の地では両軍初の衝突が起きています。

七月初め大友軍は精鋭を放って、玉倉部邑(たまくらべのむら)(関ヶ原町玉)を経て大海人軍の側面を衝く急襲戦法に出てきました。しかし、大海人軍はこれを撃退、その後この不破道を通って近江へ出撃して行ったのです。

この激戦で、両軍の兵士の流血が川底の岩石を黒く染めたことから、この名が付き、その時の凄い(すざまじい)様子を今に伝えています。この川は、青野ケ原や関ケ原の戦い等、古来軍事上屡々利用されてきました。関ヶ原町」(説明版)

木曽路名所図会」には「黒血川・今須の東、山中村の北の方の流れをいふ。川幅いと狭し。

- 立よりて 見れば名のみそ黒血川 黒き筋なき滝の糸かな -(富士紀行・堯孝)

とある。

また、黒血川は太平記にも出てくる。

太平記 巻第十九(その二)」

「青野原軍事付嚢沙(のうしゃ)背水事」

(青野原の合戦のことと、 韓信が土嚢を使って背水の陣を布いたこと)

「さらば時刻をうつさず向へ。」とて、大将軍(足利尊氏)には高越後守師泰・同播磨守師冬・細川刑部大輔頼春・佐々木大夫判官氏頼・佐々木佐渡判官入道々誉・子息近江守秀綱、此外諸国の大名五十三人都合其勢一万余騎、二月四日都を立、同六日の早旦に、近江と美濃との堺なる黒地河に著にけり。奥勢も垂井・赤坂に著ぬと聞へければ、こゝにて相まつべしとて、前には関の藤川を隔、後には黒地川をあてゝ、其際に陣をぞ取たりける。」(「決まった以上、早急に進発しよう」と言って、大将軍には高越後守師泰、同じく播磨守師冬、細川刑部大輔頼春、佐々木大夫判官氏頼、佐々木佐渡判官入道道誉、その子息、近江守秀綱らと、それ以外に諸国の大名五十三人を加え、総勢一万余騎が延元三年(暦応元年:1338年)二月四日、都を出発して、同じく六日の早朝に近江と美濃の国境、黒地川に着いた。奥州勢も垂井、赤坂に到着したらしいと聞くと、ここで待ち受けることにして、関の藤川を前に、後ろは黒地川を背に陣を構えた。)(中国の楚韓戦争(項羽と劉邦の戦い=紀元前206202)で項羽軍四十万余の兵に追われた時、大河を背にして陣を構えた劉邦の将軍・韓信の戦法に習ったもの。)

さて、黒血川の先には「鶯の滝」と呼ばれる江戸時代の名所がある。「この滝は、今須峠を上り下りする旅人の心を癒してくれる格好な場所でした。」と説明版に書かれている。

山中村は東山道の宿駅として栄えた所でこのあたりも立場として大いに賑わったそうである。

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 すぐ先の二股道を右に入ると「常盤御前の墓」がある。

「都一の美女と言われ、十六歳で義朝(源義朝)の側室となった常盤御前。義朝が平治の乱で敗退すると、敵将清盛の威嚇で常盤は今若、乙若、牛若の三児と別れ一時期は清盛の愛妾にもなります。伝説では、東国に走った牛若の行方を案じ、乳母の千草と後を追って来た常盤は、土賊に襲われて息を引き取ります。哀れに思った山中の里人が、ここに葬り塚を築いたと伝えられています。 関ヶ原町」(説明版)

常盤御前の墓の後ろに句碑が二基置かれている。

碑(左・表)「義ともの心耳 似多里秋乃 可世」者世越翁(はせをおう)

      「義ともの心に似たり秋の風」 芭蕉

碑(左・裏)「希尓風の 音も春み介李 阿支乃松」 春香園

      「げに風の音も澄みけり秋の松」 春香園

碑(右)  「その幹尓牛も かくれて佐くら哉」 七十六叟(おきな) 化月坊

      「その幹に牛もかくれてさくらかな」 化月坊

「寛政六年(1794)二月、垂井町岩手生まれの化月坊(本名国井義睦・通称喜忠太)は、旗本竹中氏の家臣であった。文武両道にすぐれ、晩年は俳諧の道に進出した。安政四年(1857)獅子門(翁の高弟各務支考を祖とする一派=美濃国が支考の生国で、活動の中心地だったため美濃派ともいう)十五世を継承、時に六十四歳。化月坊は美濃派再興のため、芭蕉ゆかりの各地に、芭蕉の句碑を建てた。文久二年(1862)、ここ山中集落常盤塚の傍らにも翁の句碑を建てたが、自作の句も碑裏に刻んでいる。」(説明版より)

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そこから5分程行くと小さな祠があり「常盤地蔵」の説明版が立っている。

この地で不幸に見舞われた常盤は、「義経がきっとこの地を通って都へ上る筈、その折には道端から見守ってやりたい。」と、宿の主人に形見の品を手渡し、息を引き取った。時に常盤四十三歳。宿の主人は、常盤の願いが叶うように街道脇に塚を築き手厚く葬った。後に常盤を哀れに思った村人は、無念の悲しみを伝える「常盤地蔵」を塚近くに安置し末永く供養した。寿永二年(一一八三)義経上洛の時、母の塚と地蔵前でしばし母・常盤の冥福を祈ったという。

常盤御前といえば、個人的にはNHK大河ドラマ「新・平家物語」の若尾文子のイメージが強いのだが。

「木曽名所図会」には、「常盤御前墓・今須の東、山中村の北側、民家の傍らにあり。」とある。

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先へ進もう。街道はやがて今須峠にさしかかる。約1キロほど上ると峠の頂上で、

一条兼良室町時代の古典学者)はその旅日記「藤川の記」でこの峠を「堅城と見えたり、一夫関(いっぷかん)に当たれば万夫(ばんぷ)すぎがたき所というべし」と書いている。

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峠を下ると街道は国道21号線に合流し、左側に一里塚跡が見えてくる。「今須の一里塚」である。

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中山道は一里塚の先から国道脇を下っていくことになる。「これより中山道今須宿」の道標が立っている。「今須宿」の入り口である。

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59宿 今須宿・本陣1脇本陣2、旅籠13

(日本橋より113278間 約446.7キロ・関ケ原宿より1里 約3.9キロ)

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今須宿は美濃路16宿最後の宿場で、歴史的にはこの地方の守護代として勢力を持っていた長江重景が母、妙応尼の菩提を弔うために妙応寺が建てられ、それ以来門前町として発展し、江戸時代宿場としては美濃国近江国の境の宿として栄えた。

宿場に入りすぐ今須宿の碑と本陣跡・脇本陣跡の説明板が立っている。石碑の正面には「中山道 今須宿」、右面に「右 柏原宿一里」、左面に「左 関ヶ原宿一里」と彫られていたる。

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右奥には国道とJRの線路をくぐるトンネルが見え、トンネルをくぐると妙応寺がある。

寺の境内には珍しい「さざれ石」がある。国歌「君が代」の~千代に八千代にさざれ~のさざれ石である。

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すぐ先、左手に中学校と併設になった小学校がありこのあたりが説明版に書かれている「本陣」があった所のようだ。続いて「問屋場・山崎家」がある。ここは美濃十六宿で当時のまゝ現存している唯一の問屋場だそうでさらに常夜灯が並んでいる。説明版によると京都の問屋河内屋は、大名の荷物を運ぶ途中ここ今須宿付近で、その荷物を紛失し途方に暮れて金毘羅様に願掛けをしたところ荷物が出てきた。河内屋はそのお礼にとこの常夜灯を建立したとのことである。

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常夜灯から十分あまり行くと「車返・美濃国不破郡今須村」と彫られた碑が立っていてその先が坂になっている。「車返しの坂」の説明版が立てられておりその内容を要約すると「南北朝の時代、公卿の二条良基不破関屋の荒庇(ひさし)から漏れる月の光が面白いと聞き、都から牛車に乗ってやって来たのだがこの地で、屋根は直してしまったと聞き「なんだ面白くない」と引き返してしまったという伝説から車返しの坂と呼ばれるようになった。」そうである。坂を上がると「車返し地蔵」が祀られている。

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この先、国道21号を横切りしばらく行くと「野ざらし紀行」の帰りに芭蕉が詠んだ句の「句碑」が置かれている。

- 年暮れぬ 笠着て草履 履きながら -
- 正月も 美濃と近江や 閏月 -

その横には「おくのほそ道 芭蕉道」と彫られた碑と「奥の細道」書き出しを彫った碑が置かれている。

「月日は百代の過客にして、行き交ふ年もまた旅人なり。船の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老いを迎ふる者は、日々旅にして旅を栖(すみか)とす。古人も多く旅に死せるあり。・・・・・」

- 行春や 鳥啼魚の 目は泪 -  

- 蛤の ふたみにわかれ 行く秋ぞ -

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芭蕉句碑のすぐ先に、「寝物語・美濃国不破郡今須村」の碑が立っている。その横に細い溝があるが、ここが「岐阜県」と「滋賀県」の県境であり、かつては「美濃国」と「近江国」の国境でもあった。県境の隣に美濃国近江国の「国境碑」が立っている。

ここで美濃路に別れを告げ、近江路へと入っていくことになる。

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国境を越えてすぐの所に「寝物語の里」の碑があり由来碑が添えてある。

「近江と美濃の国境は、この碑の東十メートル余にある細い溝でした。この溝を挟んで両国の番所や旅篭があり、壁越しに「寝ながら他国の人と話し合えた」ので寝物語の名が生まれたと言われています。また、平治の乱(1159)後、源義朝を追って来た常盤御前が「夜ふけに隣り宿の話声から家来の江田行義と気付き奇遇を喜んだ」所とも、「源義経を追って来た静御前が江田源蔵と巡り会った」所とも伝えられています。

寝物語は中山道の古跡として名高く、古歌等にもこの名が出ていますし、広重の浮世絵にもここが描かれています。

- ひとり行く 旅ならなくに 秋の夜の 寝物語も しのぶばかりに - 太田道潅

平成四年一月 滋賀県米原市」(由来碑)

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「寝物語の里」は、「続膝栗毛」にも書かれている。

「弥次郎兵衛、喜多八は、東海道を行きがけの元気には似もつかず、ふところの内淋しければ、今こそ旅はうき美濃と近江の境、寝ものがたり村にいたり、茶店にいたり休みたるに夫婦と見えて茶たばこ盆持出(もちいで)、挨拶しければ、かかる身にも取あえず、

- 夫婦して 寝ものがたりは両国も さぞやひとつに 夜のたのしみ -」

すぐその先に「ここは中山道 寝物語の里」の標識と「ここは長久寺です」の立て札が立っている。

≪ここは長久寺です≫

「江濃のくにもしたしき柏はらなる岩佐女史に物し侍りぬ

 啼よむし 寝もの語りの 栞りとも  化月坊 (芭蕉十哲各務支考、美濃派十五世)」

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その先には「弘法大師御陀仏(おだぶつ=阿弥陀仏を唱えて往生する意)」の石碑が置かれている。

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その先の「神明神社」の横に「旧東山道」の道標が立っていて道が僅かに残っているだけで先へは行けない。

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中山道を進み、JRの踏切を越えて右に曲がると柏原宿である。

 

60宿 柏原宿・本陣1脇本陣1、旅籠22

(日本橋より114278間 約450.66キロ・今須宿より1里 約3.9キロ)

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柏原宿は江戸から近江路へ入って最初の宿場で、江戸より約百十四里、京までは約二十一里のところにある。 江戸時代には艾(もぐさ) の産地として有名で「伊吹もぐさ」の老舗、伊吹堂の建物は今でもそのまま残っている。宿場の規模は大きく、宿場の長さ十三丁(1420メートル)、戸数人口もこの辺りでは東の加納(岐阜市)、西の高宮(彦根市)に次ぐものである。 旅籠屋は、隣宿との距離が近かったにもかかわらず二十二軒もあった。 本陣、脇本陣は、それぞれ一軒、問屋は、六軒、問屋を補佐する年寄(村役人)は八軒あり、造り酒屋も一時は四軒もあった。

木曾路名所図会には、「柏原宿・今須まで一里。駅は伊吹山の麓にして、名産には伊吹艾(もぐさ)の店多し。」と紹介されている。

伊吹山近江国の歌枕で多くの人がこの地で歌を詠んでいる。

- かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを -(藤原実方後拾遺集
- 名に高き 越の白山 ゆきなれて伊吹の嶽を なにとこそ見ね -(紫式部集・紫式部

- 今日もまた かくや伊吹のさしも草 さらば我のみ燃えやわたらん -(和泉式部新古今和歌集
- 思いだに かからぬ山のさせも草 誰か伊吹の里は告げしぞ -(清少納言枕草子

- そのままよ 月もたのまじ 伊吹山 -(松尾芭蕉奥の細道

さて、宿場の入り口に柏原宿の碑に中山道分間延絵図がはめ込まれている。

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すぐ先に「照手姫笠懸地蔵堂」がある。背の低い方が照手姫地蔵だそうである。説明版が添えてある。小栗判官・照手姫にまつわる伝説の地蔵なのだそうだ。

内容を要約すると「常陸国(茨城県)小栗の城主、小栗判官助重が毒酒を盛られ落命の危機に逢いながらも、餓鬼阿弥となり一命を取止める。これを悲しんだ愛妾照手姫は夫助重を箱車に乗せ、懸命に車を引張ってここ野瀬まで辿りついた。そして野ざらしで路傍に佇む石地蔵を見つけ、自分の笠を掛けて一心に祈りを捧げたところ、地蔵は次のお告げをしたと聞く。- 立ちかへり 見てだにゆかば 法の舟に のせ野が原の 契り朽ちせじ -勇気を得た照手姫は喜んで熊野に行き、療養の甲斐あって夫・助重は全快したことから、再びこの地に来り、お礼にお寺を建て、石地蔵を本尊として祀った。」

照手姫の伝説については赤坂宿と関ケ原宿の間にある「青墓」にも伝えられている。

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地蔵堂からほどなく八幡神社があり境内に芭蕉句碑が置かれている。

芭蕉(桃青)の句文碑

「戸を開けはにしに やま有りいふきといふ花にも よらす雪にもよらす只 これ弧山の徳あり

 - 其まゝよ 月もたのまし 伊吹山 -   桃青」

芭蕉は、元禄二年(1689敦賀から「奥の細道結びの地・大垣」(芭蕉は大垣で「奥の細道」の紀行を終えている。)へ、伊吹山を左手に見ながら北国脇往還を歩いた。そのあと、大垣の門人高岡斜嶺邸の句会で、この句を残している。

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 八幡神社から先は古い町並みで昔の面影を残している。家々には屋号書いた看板が掲げられており、奈良井宿妻籠・馬籠宿ほどではないが宿場の保存に気を配っているように思える。

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宿場を歩くと「東の荷蔵跡」(立て札のみ)「問屋場跡」「旅籠・白木屋藤兵衛」「脇本陣跡」と続く。

≪東の荷蔵跡≫

「運送荷物の両隣宿への継立(駅伝運送)が、当日中に出来ない場合、荷物を蔵に保管した。この蔵は東蔵と呼ばれ、藩年貢米集荷の郷蔵でもあった。荷蔵は宿西部にもあった。」(説明版)

脇本陣跡≫

脇本陣は、大名・幕府役人・宮家・公家・高僧他貴人が、本陣を利用できないときの、公的休泊施設である。柏原宿は南部本陣の別家が本陣同様江戸時代を通じて勤めた。

間口はこの家と隣の郵便局を合せた広さで、屋敷は二百三十八坪、建坪は七十三坪あった。当家は問屋役を兼務していた。」(説明版)

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脇本陣跡の向かいには「旅籠屋 京丸五兵衛」看板が掲げられてあり、説明版が添えられている。

≪旅篭屋跡≫

「天保十四年、柏原宿では東部のここ市場町・東隣り宿村町と西部の御茶屋御殿辺りとに二十二軒の旅篭屋(宿屋)が集まっていた。

 同じ年の宿内職業記録には、

もぐさ屋 九軒(屋号の頭は、どこもみな亀屋)

造り酒屋 三  請負酒屋 十

炭売茶屋 十二 豆腐屋  九

(煮売屋)他商人  二十八

大工   十  鍛冶屋 一

諸職人  十三 医師  一

とある。」(説明版)

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さらに「柏原宿の説明版」復元図と共に立っている。

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そのすぐ先に「本陣跡」がある。

≪柏原宿本陣跡≫

「本陣は、大名・幕府役人・宮家・公家・高僧他貴人が利用する公的休泊施設である。柏原宿は江戸時代を通し南部家が本陣役を務めている。間口はこの家の両隣を合せた広さで、屋敷は五百二十六坪、建坪は百三十八坪あった。建物は皇女和宮宿泊の時、新築されてと云われる。」(説明版)

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その先には市場川に架かる市場橋があり、橋の手前に「葉山常夜灯」が立っていて当時は高札場があったのだという。

≪高札場(辻の札)跡≫

「高札場とは、幕府のお触書を板札にして、高く掲げた場所を云う。

高札は江戸中期以降幕末まで、正徳大高札六枚・明和高札一枚・その時の両隣宿までの運賃添高札一枚、計八枚が懸かっていた。

高札場は、道沿いの長さ4.8m、高さ0.91mの石垣を築き、その上に高さ3.33mの高札懸けの建物があった。」(説明版)

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橋を渡った左手の大きな古民家が見えるが、ここは寛文元年(1661)創業の艾(もぐさ)店・伊吹堂である。屋号には「艾屋 亀屋 七兵衛左京」を書かれている。

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伊吹屋の向かいに「巌佐九兵衛」の屋号を掲げた造り酒屋がある。

「柏原宿は水量水質に恵まれ、酒株は宿内合せ百五十石が許可され、数軒の店が酒造りに励んだ。当家は慶長年間の酒造り記録が残る代表的な店であった。江戸後期に一時醤油醸造に転業したが、明治初めに造り酒屋に戻った」(説明版)。

「泰助分家・山根庄太郎」の屋号を掲げた造り酒屋もある。

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中山道六拾番 柏原宿」の看板と共に柏原宿に碑が立っている。

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10分ほど歩くと「中山道 柏原宿」の大きな標柱があり「日枝神社」「造り酒屋・亀屋左京分家 松浦作佐衛門」の旧家が並んでいる。日枝神社の本殿や茅葺屋根である。

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少し先に「西の荷蔵跡」がある。「運送荷物の東西両隣宿への継立(駅伝運送)が、当日中処理出来ない場合、荷物を蔵に預かった。この蔵は西蔵と呼ばれ、藩年貢米集荷の郷蔵でもあった。」(説明版より)

その先には「従是明星山薬師道」と彫られた道標が立っている。「最澄が創立したと云う明星山明星輪寺泉明院への道しるべである。宿内東に、同じ薬師仏を本尊とする長福寺があったので、明星山薬師道、西やくし道とも呼んだ。

この道標は享保二年(1717)と古く、正面が漢文、横に面が平仮名・変体仮名を使った二つの和文体で刻まれている。」(説明版より)

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道標の先の交差点を越えると向こう側の公園に「御茶屋御殿跡」がある。

≪柏原御茶屋御殿跡≫

「江戸初め、将軍上洛下向(京都・江戸間の通行)の際の宿泊・休憩の目的で、街道の各所に設けられた館で、近江では、柏原御殿と野洲の永原御殿、水口の水口御殿を合せて「近江三御殿」と称されてきた。

天正十六年(1588)、徳川家康が上洛の際、当地の西村家で休息。以後、中山道通過の際の恒例となっていたが、通過が頻繁になったため、元和九年(1623)、二代将軍秀忠が殿舎を新築。以後御殿番を置いて守備してきた。」(説明版より)

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その先に「郷宿・加藤家」がある。郷宿とは、脇本陣と旅籠屋の中間、武士や公用で旅する庄屋などの休泊に使用されてきたという。

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中井川橋、丸山橋を渡って先に進むと、左手に「一里塚」が復元されている。江戸から数えて百十五番目の「柏原の一里塚」である。

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一里塚から5分程行くと「西見附跡」の説明版が立っている。

「柏原宿西の入口で、道の両側に喰い違いの土手(土塁)がある。見付の語源は城門で、宿場用語になった。(中略)

柏原宿は、東見付まで十三町(1.4Km)。長く高地の町並が続く。」(説明版より)

その先は、松並木で「中山道分間延絵図」が埋め込まれた中山道の碑が置かれている。

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さらに、「東山道と九里半街道」の説明版が立っている。

≪古道東山道の道筋≫

東山道は、横河駅があった梓を中山道と同じ道で東へ進み、長沢を過ぎ、ここ北畠具行卿参道入口のある谷間で、中山道と分かれ山越えをする。徳源院のある清滝へ降り、右へ折れ、成菩堤院裏山の北側を東進する。JR野瀬(山)の踏切に至り、再び中山道と合流して、県境長久寺へと向う。」

≪九里半街道≫

中山道関ヶ原宿と番場宿の間は、九里半街道とも呼ばれた。

木曽・長良・揖斐三川の水運荷物は、牧田川養老三湊に陸揚げされ、関ヶ原から中山道に入り番場宿で、船積みの米原湊道へ進む。牧田から米原湊までの行程は九里半あった。関が原・今須・柏原・醒ヶ井・番場の五宿は。この積荷で、六、七軒と問屋が多かった。」

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ここで道は二つに分かれ、右の道を5分程行くと「鶯が原」の説明版が立っている。

木曽路名所図会」(文化二年(1805))に、長沢(ながそ)村を過て、鶯が原に至り、柏原の宿に着く。

また、太田道灌、江戸から京都への旅日記「平安紀行」(文明十二年〈1480〉)に、鶯の原といふ所にて

- 聞まゝに かすみし春そ しのはるゝ 名さえなつかし 鶯の原 -」(説明版より)

その先には、「掃除丁場と並び松」の案内板がある。

「掃除丁場とは、街道掃除の持場・受付区域のこと。

貴人の通行に備え、街道の路面整備・道路敷の除草と松並木の枯木・倒木の処置・補植に、柏原宿では江戸後期二十一ケ村が夫役として従事した。

丁場の小さい所は、伊吹上平等村で15m、大きい所では、柏原宿を除き長浜の加田村で488mもあった。

江戸時代の柏原宿では、松並木のことを「並び松」と呼んでいた。」(案内板)

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道は先ほど別れた道に合流するがその先に「従是明星山薬師道」の道標が立っている。

ほどなく道が二つに分かれるが、旧道は右の道を行くことになる。この道はかつての東山道でもあった。
しばらく行くと「小川(こがわ)の関跡」がある。不破関壬申の乱後に設けられたが
この関屋はそれ以前からあったのだそうだ。

続いて「天の川源流 菖蒲池跡」の碑が置かれている。

君がながしき例(ため)しに長沢の 池のあやめは今日ぞ引かるゝ  大納言俊光

「此の池の芹、名産なり、相伝う。古昔二町(218m)四方の池なりと。今は多く田地となりて、漸く方二十間(36m)計りの池となれり。」 享保十九年(1734)『近江與地志略』。その後、天保十四年(1843)には、「菖蒲ケ池と申し伝へ候旧地これ有り。」と 『中山道宿村大概帳』。江戸後期には消滅したようである。

『近江坂田郡志』は、この池が天野川の水源だったと述べている。」(菖蒲池跡・説明版)

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小川の関跡の横にある「左中山道・柏原宿枝郷 長沢(ながそ)・右旧中山道」の道標に従って右の旧道へ入ると見事な杉並木である。

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しばらく行くと「東山道横河駅跡 梓 柏原宿 江戸後期大和郡山領 」の道標が置かれている。道標に従って旧道を行き梓川を渡ると東山道時代の横川駅があった梓集落で、道標から10分程行くと今度は松並木である。旧道はやがて国道21号に合流し、その先に大きな「中山道碑」が立っている。

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中山道碑の先で国道と分かれ再び旧道に入っていくと「八幡神社」がありそこから数分行くと「一里塚跡碑」が置かれている。江戸から百十六番目の一里塚があった所である。

さらに5分程行くと「佛心水」と書かれた井戸がある。

「佛教用語で「仏心」とは、仏のこころ、大慈悲(心)のことをいいます。

中山道馬頭観音の近くにあり、街道を往来する馬の息災を祈願し、江戸時代後期に建立された馬頭観音に対して、この井戸は、旅人の喉を潤すだけでなく御仏の慈悲のもとで旅の安全を祈願したような意味があると考えられます。他に事例が見当たらないこと、中山道の要所にあることから非常に貴重なものだと思われます。地緑団体・一式区」(説明版)む~!中山道を歩いてたくさんの馬頭観音を見てきたが「佛心水」を見たのはこれが初めてである。今はもうなくなってしまったのだろう。それとも見落としたか?

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鶯が原の説明版にもあったが「木曽路名所図会」にこのあたりのことが書かれている。

「醒井の清水に憩いて一色むら・安佐川(あんざがわ)、あなたこなたと幾瀬もわたり、あんざ村を過ぎぬ。ある人、梓山・あずさの杣(そま)はここなりといへり。曽丹集(そたんしゅう)に、梓山美濃の中道と詠まれしなれば、美濃国也。契沖(けいちゅう)の吐懐編(とくはいへん」にも此訳を出されたり。長沢村を過ぎて、鶯が原に到り、柏原の宿に着く。

(「木曽路名所図会」は、京から江戸への名所案内であるから逆方向となる。)

(曽丹集=平安末期の曽禰好忠 (そねのよしただ) 作の私家集で毎月集と百首および源順 (みなもとのしたごう) の答歌百首などからなる。)

(契沖=江戸時代中期(寛永から元禄)の真言宗の僧、古典学者)

この先は坂道で坂を下れば「醒井宿」であるが、坂の途中に「鶯が端」の説明版がフェンスにかけられている。

「ここからは、特に西方の眺めがよく、はるか山間には京都の空が望めるというので有名で、旅人はみな足をとめて休息したという。平安時代歌人で、中古三十六歌仙の一人、能因法師も- 旅やどり ゆめ醒井(さめがい)の かたほとり 初音のたかし 鶯ヶ端 -と詠んでいる」(説明版)

坂を下り切ると今度は「見附跡、桝形」の説明版がある

「醒井宿の東西には、見附(番所)が設けられ、東の見附から西の見附まで八町二間(876m)が醒井宿であった。東の見附のすぐ西には、道が直角に右に曲がり、少し行くと左に曲がる、枡形になっている。枡形は、城郭や城下町にあり、城では、一の門と二の門との間に設けられ、敵の進む勢いを鈍らせたという。」(説明版)

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61宿 醒井宿・本陣1脇本陣1、旅籠11

(日本橋より11698間 約456.55キロ・柏原宿より118町 約5.9キロ)

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醒井宿(さめがい)は古く東山道の時代から宿駅として栄え「三水四石」と呼ばれる名所がある。ここは日本武尊(やまとたけるのみこと)にまつわる伝説が多く残っておりその名も名水が湧き出る泉で日本武尊が目を覚ましたところからきているという。

また、多くの旅人がこの地で歌を詠んだ歌枕でもある。

- 水上は 清き流れの醒井に 浮世の垢を すすぎてやみん -   西行
- わくらばに 行きて見てしか 醒が井の 古き清水に やどる月影 -   源実朝
- 旅やどり 夢醒ヶ井の かたほとり 初音も高し 鶯が端 -   能因法師

「さめが井という水、夏ならば、うちすぎまじやと思ふに、かち人はなをたちよりてくむめり。- むすふ手に にこる心をすすきなは 浮世の夢や さめか井の水 - 阿 仏」(十六夜日記)

音に聞きし醒井を見れば、かげたかき木の枝、岩根より流れいづる清水、あまりすずしきまですみわたりて、まことに身にしむばかり也。

- 道のへの 木陰の清水むすふとて しばしすすまぬ 旅人ぞなき - 光 行 (光行紀行)

「木曾路名所図会」には「柏原まで一理半。此駅に三水四石の名所あり。町中(まちなか)に流れありて、至りて清し。寒暑にも増減なし。(中略)此清水の前には茶店ありて、常に茶を入れ、醒井餅とて名産を商う。夏は心太(こころぶと=ところてん))・素麺(そうめん)を冷やして旅客に出す。みな此清泉の潤ひなるべしとしられける。」と紹介されている。

さらに十返舎一九の続膝栗毛には「六はら山をひだりに見て、ひぐち村いしうちをすぎて、さめがいのしゅくにいたる。ここにさめが井の清水というあり。

- 両の手に結ぶ清水の涼しくて こころの酔いも 醒が井の宿 -」と書かれている。

さて、宿場に入ると「中山道 醒井宿」と「中山道分間延絵図」が埋め込まれた碑が置かれている。

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先へ進むと「加茂神社」の鳥居が見えてくる。加茂神社は醒井宿の氏神として古くから信仰されてきた。神社の入り口から清水がこんこんと湧き出ているのが「居醒の清水(いさめのしみず)」で醒井宿三水の一つである。

景行天皇の時代に、伊吹山に大蛇が住みついて旅人を困らせていた。天皇は、日本武尊にこの大蛇を退治するよう命じた。尊は大蛇を切り伏せ多くの人の心配を除いたが大蛇の毒に犯されてしまった。やっとのことで醒井の地にたどり着き体をこの清水で冷やすと、不思議にも高熱の苦しみも取れ、体の調子もさわやかになった。それでこの水を「居醒の清水」と呼ぶようになった。」という伝説が残っている。

「居醒の清水」の立て札の横には「蟹石」が、さらに日本武尊が腰掛けたという「腰掛石と鞍懸石」がある。醒井宿四石のうち三石がここで見られるがもう一つはどこにあるのかわからなかった。

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加茂神社の隣には「延命地蔵堂」がある。

弘仁八年(西暦817年)百日を越える旱魃(かんばつ)を心配した嵯峨天皇の命により、伝教大師最澄)は比叡山の根本中堂に祭壇を設け、降雨を祈ると、薬師如来が夢の中に現れ、「ここより東へ数十里行ったところに清浄な泉がある。そこへ行って雨を求めよ。」と告げた。伝教大師が泉を尋ねてこの醒井の里にくると、白髪の老翁が忽然と現れ「わたしはこの水の守護神である。ここに衆生済度・寿福円満の地蔵尊の像を刻み安置せよ、そうすれば雨が降り草木も生き返るであろう。」と言い終ると水の中へ消えていった。大師は早速石工を集め、一丈二尺(3.6メートル)の地蔵菩薩の坐像を刻み、祈念すると、大雨が三日間降り続いた。

本尊の地蔵菩薩は、はじめ水中に安置されていたので、「尻冷し地蔵」と唱えられていとのだそうだ。」(醒井延命地蔵尊縁起より)

地蔵堂の前には雨森芳州(あめのもりほうしゅう)の歌が書かれた看板が建てれれている。 (雨森芳州=江戸時代中期の儒学者

- 水清き 人の心を さめが井や 底のさざれも 玉とみるまで - 芳州(古今集

地蔵堂の側の川中に「紫石灯籠」と書かれた立て札と共に石灯篭が立っている。

「木曾路名所図会」には、「紫石灯籠・地蔵堂の傍ら、水上にあり。此石名物也。いずれの所か出所しれず。」とある。

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居醒の清水から流れ出た湧水は「地蔵川」となって宿場を流れている。地蔵川に沿って歩くと「本陣跡」(今は樋口山という日本料理屋になっているようだ。)、その先地蔵川の向こうに「問屋場跡」が修復されて今は資料館になっている。

≪醒井宿問屋場(旧川口家住宅)米原町指定文化財

「この建物は中山道醒井宿で問屋を営んでいた川口家住宅です。問屋とは、宿場を通行する大名や役人に人足・馬を提供する事務を行っていたところです。現在、宿場に問屋が残されているところはほとんどありません。また、建築年代が十七世紀中から後半と推定される貴重な建物です。」(説明版)

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地蔵川に沿って趣のある古い町並みが続いているがその中に「ヤマキ醤油」の看板を見かけた。明治時代後半の創業ということで、醒井の清水で仕込んだ味噌と醤油は深い味わいがあるのだそうだ。その先には「江龍家表門」明治天皇御駐輦所と刻まれた碑が立っている。庄屋を務めていた江龍家の屋敷は本陣並の規模であったという。

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先に行くと醒井大橋の手前地蔵川の中に十王と刻まれた灯籠が立っている。これも醒井宿三水の一つ「十王水」である。

「平安中期の天台宗の高僧・浄蔵法師が諸国遍歴の途中、この水源を開き、仏縁を結ばれたと伝えられる。もとより浄蔵水と称すべきところを、近くに十王堂があったことから「十王水」と呼ばれるようになったという。」(説明版)

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その先、醒井大橋を渡ると「西行水」がある。西行水の上に泡子塚(あわこづか)と呼ばれている小さな五輪塔があり、西行にまつわる伝説が残されている。

「岩の上には、仁安三戌子年(にんあんさんねん、つちのえねどしのこと)秋建立の五輪塔があり、「一煎一服一期終即今端的雲脚泡」の十四文字が刻まれてあります。伝説では、西行法師東遊のとき、この泉の畔で休憩されたところ、茶店の娘が西行に恋をし、西行の立った後に飲み残しの茶の泡を飲むと不思議にも懐妊し、男の子を出産しました。その後西行法師が関東からの帰途またこの茶店で休憩したとき、娘よりことの一部始終を聞いた法師は、児を熟視して「今一滴の泡変じてこれ児をなる、もし我が子ならば元の泡に帰れ」と祈り、

- 水上は 清き流れの 醒井に 浮世の垢を すすぎてやみん -

と詠むと、児は忽ち消えて、元の泡になりました、西行は実に我が子なりと、この所に石塔を建てたということです。今もこの辺の小字名を児醒井といいます。」(説明版)

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このあたりから宿場はずれとなりすぐ先に「柏原宿へ一理半 中山道醒井宿 番場宿へ一理」の道標が立っている。その先5分程行くと「六軒茶屋跡」の碑が立っている。

≪六軒茶屋≫

「幕府の天領(直轄地)であった醒井宿は、享保九年(1724大和郡山藩の飛地領となった。藩主・柳沢候は、彦根藩・枝折との境界を明示するため、中山道の北側に、同じ形の茶屋六軒を建てた。この「六軒茶屋」は、中山道の名所となり、安藤広重の浮世絵にも描かれている。」(説明版)

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さらに5分程行くと「一類狐魂等衆」の碑が立っていて説明版が添えられている。

「江戸時代後期のある日、東の見附の石垣にもたれて、一人の旅の老人が、「母親の乳がのみたい・・・」とつぶやいていた。人々は相手にしなかったが、乳飲み子を抱いた一人の母親が気の毒に思い「私の乳でよかったら」と、自分の乳房をふくませてやりました。老人は、二口三口おいしそうに飲むと、目に涙を浮かべ「有り難うこざいました、本当の母親に会えたような気がします。懐に七〇両の金があるので、貴女に差し上げます」と言い終わると、母親に抱かれて眠る子のように、安らかに往生をとげました。この母親は、お金は頂くことは出来ないと、老人が埋葬された墓地の傍らに、「一類狐魂等衆」何と読むのかわからないが・・・)の碑を建て、供養したと伝えられています。」(説明版)

すぐ先に「中山道・阿南」の道標が立っている

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先へ進むこと56分、「茶屋道館」の看板を掲げた旧家があり、説明版が添えられている。

≪茶屋道館の由来≫

「この家屋は一見平屋つくりのように見えるが二階建てになっている。その理由として考えられることは、明治以降生活の洋風化の中で従来のかや葺きの屋根をこわし瓦葺きに変えた際、旧来の柱組みを利用したため低い二階造りとなったと思われる。裏側には土蔵が二棟ある。当時は財産として、米、骨董品、諸道具などを保管する金庫のような考え方であったものが二棟も現存するのは近隣では例が少なく、この家の主はかなりの財産家であったことが伺える。この家屋は永らく空き家になっていたものを当自治会が買いとり、この地の小字名「茶屋道」をとって「茶屋道館」と名付け歴史的資料を集めると共に中山道醒ヶ井宿と番場宿の中間に位置することから中山道散策者の一時の「憩」と「いっぷく場」として利用されることを期し中山道四百周年事業を記念して開館した。 平成十四年十一月二十三日 米原町河南区自治会」

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そこから30分ばかり歩くと小さな公園があり「中山道 一里塚の跡」の碑が置かれている。江戸から百十七番目の一里塚「久禮(くれ)の一里塚」があった所である。

「江戸へ約百十七里(459.5キロメートル)

京三条へ約十九里(74.6キロメートル)

 江戸時代には、三十六町を一里とし、一里毎道の両側に盛土して塚が築かれていました。川柳に、「くたびれた やつが見付ける 一里塚」とありますが、旅人は腰を下ろして一息し憩いの場にしたことでしょう。

久禮の一里塚には右側には「とねり木」、左側には「榎」が植えられていました。

 平成七年七月 米原町史談会」(説明版)

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一里塚を後に街道を行くと「中山道 問屋場跡」と彫られた碑が置かれている。

このあたりが番場宿の入り口であろう。そのすぐ先には「中山道番場宿」の大きな碑が「中山道分間絵図」と共に置かれている。その先に「米原 汽車汽船 道」と彫られた道標が立っている。湖東線(現東海道線)が開通した明治22年以降に建てられたものだそうである

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62宿 番場宿・本陣1脇本陣1、旅籠10

(日本橋より11798間 約460.5キロ・醒井宿より1里 約3.9キロ)

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番場宿は古く東山道の頃からの宿駅で、その名は全国的に知られていた。東山道時代は宿場は西番場にあったのだが、慶長年間になって米原へ出る道が開かれると、宿場機能は現在の東番場に移った。米原は番場宿から一理ほどで江戸時代は琵琶湖湖岸にあったことから物資輸送の基地として栄えた。

木曽路名所図会には「醒井まで三十町。長浜より米原まで帰り、これより東山道をたどる。磨針峠をこえて坂路を歩めば、程なく番場の駅にいたる。此宿は山家なれば農家あるは樵夫(しょうふ)ありて、旅舎もそなり。まず名にしおふ太平記に見えたる辻堂といふに詣ず。」と書かれている。

ところでJR東海道線が、大垣から垂井、関ケ原、柏原、近江長岡、醒井そして米原中山道沿いに走っているのもおもしろい。

さて、交差点を渡ると「脇本陣跡碑」、その先に「問屋場跡碑」、さらにその先にあるのは「本陣跡碑」が置かれている。その隣に同「問屋場跡」と「明治天皇番場御小休所」の碑が立っており、そのまた隣に「問屋場跡」が並んでいる。

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本陣跡碑の先に「南北朝の古戦場跡 蓮華寺 」「 瞼の母 番場忠太郎地蔵尊」 と記された標柱があり、続いて「史跡・蓮華寺」の標柱が立っている。

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参道を通って蓮華寺へ。境内には「血の川」、「斎藤茂吉の歌碑」、「北条仲時以下四百三十余名の墓」、「忠太郎地蔵尊」などがある。

≪蓮華寺≫

「寺伝によれば聖徳太子の建立で、もと法隆寺と称したが、鎌倉時代一向上人が土地の豪族土肥元頼の帰依を受けて再興し時宗一向派の本山となり、幾多の変遷を経て現在では浄土宗となっている。

北条仲時以下430余名自刃にまつわる過去帳や墳墓に悲哀を物語り、あるいは長谷川伸の「瞼の母」で有名な番場の忠太郎や、斎藤茂吉ゆかりの寺としてその歴史にふさわしい数々の逸話を秘めている。」(説明版)

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≪血の川≫

「元弘三年五月、京都合戦に敗れた六波羅探題北条仲時公は、北朝の天子光厳天皇及び二上皇・皇族等を奉じ、東国へ落ちのびるために中山道を下る途中当地にて南朝軍の重囲に陥り、奮戦したるも戦運味方せず戦いに敗れ、本堂前庭にて四百三十余名自刃す。鮮血滴り流れて川の如し。故に「血の川」と称す。時に元弘三年五月九日のことである。」(説明版)

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斎藤茂吉の歌碑≫

- 松風のおと聴く時はいにしえの 聖のごとく我は寂しむ -  茂吉

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北条仲時公並に四百三十余名の墓≫

「元弘三年五月七日京都合戦で足利尊氏に敗れた六波羅探題北条仲時公は北朝の天子光厳天皇後伏見華園二上皇を奉じて中山道を下り番場の宿に辿りつたが佐々木道誉に行く手を阻まれ、蓮華寺で仲時以下430余名が自刃して果てた。

時の住職は、その姓名と年令法名を一巻の過去帳に留め、墓を建立してその冥福を祈った。」

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≪忠太郎地蔵尊

瞼の母・番場の忠太郎」の作者、長谷川伸が親をたづねる子には親を、子をたづねる親には子をめぐり合わせ給えと悲願をこめて建立した地蔵尊だそうだ。

沓掛宿の長倉神社には、同じ長谷川伸が生み出した沓掛時次郎の碑があったがここでは、小説の主人公が地蔵尊として祀られていた。

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蓮華寺を出て街道に戻り先へ行くと東山道時代に宿駅だった西番場である。「中山道・西番場/古代東山道・江洲番場駅」の碑が置かれている。

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西番場を過ぎると街道は上り坂になり坂を上り切ったところは高速道路のトンネルになっているが昔は「小磨針峠」と呼ばれていたのだという。

そこから右の側道を少し下ると小さな地蔵堂があり、その傍らに湧き水が出ている。昔の旅人はここで喉を潤したのだろう。

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しばらく行くと左側に2本の道標が立っている。一方は古い道標と思われるが正面に「摺針峠 彦根」、左側面に「番場 醒井」、右側面に「中山 鳥居本」と刻まれている。もう一方には右も左も「中山道」と刻まれていた。

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中山道はこの道標から右手に入り「磨針峠(すりはりとおげ)」へ向かう。街道は急な上り坂になりすぐに磨針峠頂上に出る。のちにわかったことだが昔はこの上り坂の途中に一里塚があったのだそうだ。さしずめ「磨針の一里塚」江戸から百十八番目の一里塚ということか。

峠には当時、「望湖堂」と呼ばれていた茶店があり、説明版が立っている。

≪望湖堂跡≫

「江戸時代、摺針峠に望湖堂という大きな茶屋が設けられていた。峠を行き交う旅人は、ここで絶景を楽しみながら「するはり餅」に舌鼓を打った。参勤交代の大名や朝鮮通信使の使節、また幕末の和宮降嫁の際も当所に立ち寄っており、茶屋とは言いながらも建物は本陣構えで、「御小休御本陣」を自称するほどであった。その繁栄ぶりは、近隣の鳥居本宿と番場宿の本陣が、寛政七年(1795)八月、奉行宛に連署で、望湖堂に本陣まがいの営業を慎むように訴えていることからも推測される。

この望湖堂は、往時の姿をよく留め、参勤交代や朝鮮通信使の資料なども多数保管していたが、近年の火災で焼失したのが惜しまれる。」(説明版)

望湖堂跡から眺めは今も絶景だそうだが何分夕方であったため薄暗くかすんでいた。望湖堂跡の傍らに「明治天皇小休止跡碑」が立ち、家があったが、これは望湖堂を復元したものではない。

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磨針峠の望湖堂の碑に弘法大師縁の地と彫られている。

調べてみると以下のような伝説が残っていた。

昔、諸国を修行する若き僧がこの峠にたどり着いたとき、老婆が斧を石で磨いていた。「何をしているのか」と尋ねると老婆は「大切な針を折ってしまったので、斧を磨いて針を作っている。」と言う。若き僧は その言葉に目覚め、自分の意志の弱さを知って修行に励んだ。後の弘法大師である。

「磨針峠」の名もここからきたのであろう。

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続膝栗毛で弥次さん、喜多さんも磨針峠をこえていく。「それよりほどなく、すりはりたうげ(磨針峠)にいたり、ちゃ屋に入てこの所のめいぶつ、さたうもち(砂糖餅)にはらをこやし、目の下に見ゆる水うみのけしきに見とれて、こいつは気がはれてとんだいいところだ。

- 遠眼鏡(とおめがね)よりもまさらん摺針(すりはり)の穴よりや見る湖(うみ)の景色(けいしょく) - (摺針峠(磨針峠)に掛けて、針の穴より天をのぞくという諺を引用している。)」

ふたりのそばに金持ちらしいご隠居が感心して「あい、あっちもひとつやらかしやせうか

- 名物のさたうもち(砂糖餅)より唐崎に雨気(あまけ)もなくて はれわたる湖(うみ) -(砂糖に辛いと唐崎、甘いと雨気(あまけ)が語呂合わせになっている。近江八景の一つに唐崎の夜雨(やう)があるのをも詠みこんでいる。)

この後、弥次さん、喜多さんはご隠居の家へ招かれるのだが行ってみれば脇本陣の大邸宅であった。

近江八景

上・左から石山秋月(いしやまのしゅうげつ)・勢多の夕輝(せたのせきしょう)

粟津晴(あわづのせいらん)・矢橋帰帆 (やばせのきはん)

下・左から三井晩鐘(みついのばんしょう)・唐崎夜雨 (からさきのやう)

     堅田落雁(かたたのらくがん)・比良暮雪(ひらのぼせつ)

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 さて、峠の下りは草深い旧道を下って行くことになり、旧道はやがて国道8号に合流する。

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橋を渡って再び旧道に入っていくと左手に「おいでやす彦根へ」と彫られたモニュメントが立っていて、そのすぐ先に「中山道鳥居本町」の碑が置かれている。

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63宿 鳥居本宿・本陣1脇本陣2、旅籠35

(日本橋より118108間 約464.5キロ・醒井宿より11町 約4.0キロ)

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鳥居本が宿駅に制定されたのは寛永年間(16241623)で比較的遅く東山道時代は隣の「小野の集落」が宿場として機能していた。鳥居本の名の由来は隣の宿場高宮にある「多賀大社」の一の鳥居があったからだという。

「番場まで一理六町。むかし多賀神社の鳥居、此駅にありしより名づくる。今はなし。

彦根まで一理、八幡へ六里。此駅の名物神教丸(しんきょうがん)、俗に鳥居本赤玉ともいふ。此店多し」(木曽路名所図会)

石田三成が築いた巨城「佐和山城」の大手門は、この鳥居本にあった。

さて、宿場に入ると道は桝形になっており右に曲がると大きな旧家・有川家があり立派な門の前には「明治天皇鳥居本御小休所」の碑が立っている。

「万治元年(1658)創業の赤玉神教丸本舗は、今も昔ながらの製法を伝えています。

有川家の先祖は磯野丹波守に仕え、鵜川氏を名乗っていましたが、有栖川宮家への出入りを許されたことが縁で有川姓を名乗るようになりました。

近江名所図会に描かれたように店頭販売を主とし、中山道を往来する旅人は競って赤玉神教丸を買い求めました。

現在の建物は宝暦年間(17511764)に建てられたもので、右手の建物は明治十一年(1878明治天皇北陸巡幸の時に増築され、ご休憩所となりました。彦根市指定文化財」(赤玉神教丸有川家説明版)

続膝栗毛にも「此所の神教丸名物なり。

- もろもろの病の毒を消すとかやこの赤玉も珊瑚珠(さんごじゅ)の色 -」とある。

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鳥居本宿の名産は合羽であった。「本家 合羽所 木綿屋 嘉右衛門」と書かれた当時の看板が今も家の前に吊り下げられている。

「享保五年(1720)馬場弥五郎が創業したことに始まる鳥居本合羽は、雨の多い木曽路に向う旅人が雨具として多く買い求め、文化・文政年間(180430) には十五軒の合羽所がありました。天保三年(1932)創業の木綿屋は鳥居本宿の一番北に位置する合羽屋で、東京や伊勢方面に販路を持ち、大名家や寺院、商家を得意先として大八車などに覆いかぶせるシート状の合羽を主に製造していましたので、合羽に刷り込んださまざまな型紙が当家に現存します。」(説明版)

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木綿屋のすぐ先には「本陣跡」、「脇本陣跡」と続く。

鳥居本本宿の本陣を代々務めた寺村家は、観音寺城六角氏の配下にありましたが、六角氏滅亡後、小野宿の本陣役を務めました。佐和山城落城後、小野宿は廃止され、慶長八年(1603鳥居本に宿場が移るとともに鳥居本宿本陣役となりました。

本陣屋敷は合計二〇一帖もある広い屋敷でしたが、明治になって大名の宿舎に利用した部分は売り払われ、住居部分が、昭和十年頃ヴォーリズの設計による洋館に建て直されました。倉庫に転用された本陣の門が現存しています。」(旧本陣・寺村家 説明版)

鳥居本宿には脇本陣が二軒ありましたが、本陣前の脇本陣は早くに消滅し、問屋を兼ねた高橋家のようすは、上田道三氏の絵画に残されています。それによると、間口のうち左三分の一ほどに塀があり、その中央の棟門は脇本陣の施設で、奥には大名の寝室がありました。そして屋敷の南半分が人馬継立を行う施設である問屋場です。人馬継立とは当時の輸送システムで、中山道では宿ごとに五十人の人足と五十疋の馬を常備するよう定められていて、次の宿まで常備した人や馬を使って荷物を運んでいました。」(脇本陣問屋場 説明版)

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時計は午後5時半を過ぎている。本日はここまで。

近江鉄道鳥居本駅から本日の宿泊地コンフォートホテル彦根へ。

鳥居本駅は趣のある駅舎である。

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中山道旅日記 20 赤坂宿-垂井宿-関ケ原宿 2/2

中山道に戻ろう。

「これより中山道」の道標を過ぎてしばらく行くと野上といわれている集落になり「野上の七つ井戸」と呼ばれて旅人に親しまれていた井戸がある。説明版が添えられていて「ここ野上は、中山道垂井宿と関ケ原宿の間の宿(あいのじゅく)でした。江戸時代から、僅少の地下水を取水して多目的(防火用・生活用・農業用)に利用されてきました。街道筋の井戸は「野上の七つ井戸」として親しまれ、旅人には喉を潤し、疲れを癒す格好の飲料水だったでしょう。・・・・・・」

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この地は、古くから「東山道の宿駅」として知られていた。「更級日記」にも「三河尾張となる尾張の国、鳴海浦を過くるに夕汐ただみちみちて、今宵宿からむも、ちうげん(中程)に汐みち来なばここをも過ぎじとあるかぎり走り惑ひ過ぎぬ。美濃国なる境に、すのまたといふ渡して、野上という所につきぬ。そこに遊びどもい出で来て、夜ひと夜うたふに、足柄なりしおもひ出でられて、哀れに恋しきこと限りなし。雪ふりあれ惑ふに物の興もなくて、不破の関、あつみの山など越えて、近江の国おきなかという人の家にやどりて、四五日あり。みつさか山の麓に、よるひる、時雨、霰(あられ)降りみだりて、日の光もさやかならず、いみじう物むつかし。」とある。

また「木曽路名所図会」には「野上の里 関ケ原と垂井との間にあり。いにしへは駅なり」と書かれている。

七つ井戸から10分程行くと「山之内一豊陣跡」の説明版が立っている。

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その先は松並木で「旧中仙道松並木」の説明版が立っている。また、松並木の途中に「六部地蔵」が祀られている。

「旧中山道松並木 町指定天然記念物・江戸時代には、一里塚をつなぐ街道の両側に、松・杉・楓などの並木があって、その木蔭は旅人のしばしの憩いの場所となっていました。しかし、近年虫害や台風などによる松並木の減少が目立ってきました。

そのため町では、天然記念物に指定し、防虫対策や補植により、その保護につとめています。 関ヶ原町」(説明版)

「六部地蔵・六部とは「六十六部」の略で、全国の社寺などを巡礼して、旅をしながら修業している「人」ということで、厨子(ずし)を背負って読経しつつ行脚中の行者が「宝暦十一年頃」(1761年)この地で亡くなられたので里人が祠を建てお祀りされたといわれております。この六部地蔵さんは、「六部地蔵 歯痛なおりて 礼参り」と読まれているように、痛みのひどい病気をなおすことで名を知られています。 関ヶ原町」(説明版)

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松並木は国道に合流し、5分程行くと左手に関ケ原の合戦において徳川家康が最初に布陣した「桃配山(ももくばりやま)」への登り口が見えてくる。

桃配山は六七二年の壬申の乱(じんしんのらん)の時、大海人皇子(おおあまのみこ・後の天武天皇)が野上からこの不破に出陣したとき山桃を全兵士に配り戦に勝利した。

家康がその故事に習いこの桃配山に最初の陣を構えたとされている。

木曽路名所図会」には「天武天皇の行宮(あんきゅう)野上村の西往還右の方、山間の平地をいふ。また慶長五年九月十五日御本陣なり」とある。

坂を上ると家康の陣跡の碑と三つ葉葵ののぼりが立っている。

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街道に戻ると「若宮八幡神社」があり、このあたりが「関ケ原宿」の入り口であろう。

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58宿 関ケ原宿・本陣1脇本陣1、旅籠33

(日本橋より112278間 約442.8キロ・垂井宿より114町 5.45キロ)

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関ケ原宿は北国街道・木之本宿へ通じる「北国脇往還」(北国街道のバイパスルート)の起点で「伊勢街道」との分岐点でもあり美濃十六宿の中では一番賑わった宿場である。

また「天下分け目の合戦」の地としてあまりにも有名で「壬申の乱」の舞台でもあった。六七二年に起こった「壬申の乱」では「大海人皇子」と「弘文天皇」が東西に分かれて戦い東軍の大海人皇子が勝利を収めている。

伊吹山」と「鈴鹿山脈」に囲まれた関ケ原は、自然の隘路(あいろ)ともいえる地形で古くから東西を分ける重要な地点であったといえる。

宿場に入りしばらく行くと右手に「脇本陣跡」の門だけが残っている。

そのすぐ先に八幡神社がある。後で分かったことだが本陣はこのあたりにあり宿場の中心だったようである。

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ここで中山道をそれ「関ケ原古戦場」、石田三成が陣を構えた「笹尾山」を訪ねてみることにする。

脇本陣跡のすぐ先を右折し東海道線を越えたところの広場に松平忠吉井伊直政の陣跡の説明版が立っている。

「慶長五年九月十五日の合戦の役に中山道の敵を目標とする福島,藤堂、京極隊、北国街道を黒田、竹中、細川等の隊、その中央にあたるこの地に家康の四男、松平忠吉、後の彦根城主井伊直正が約六千の兵で陣を構えた。

 午前八時頃、軍監・本多忠勝より開戦を促され、直正は忠吉を擁して前進し宇喜多秀家の前面に出たが、先鋒は福島正則であると咎められ、方向を転じて島津義弘の隊に攻撃し開戦の火ぶたが切られた。」(説明版)

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その少し下がったところに「東首塚」「首洗いの古井戸」がある。

「東首塚国史跡(昭和6330日指定)

この塚は関ヶ原の戦い直後に、この地の領主竹中家が築いたもので、家康によって実検された将士の首が、ここに眠っています。

文部省の史跡指定時に、標柱や石柵が建てられた後、昭和十七年には、徳風会によって、名古屋から山王権現社本殿・唐門が塚の脇に移築されて、東西両軍の戦没者供養堂となりました。 関ヶ原町 」(説明版)

「首洗いの古井戸・合戦で討ち取られた西軍将士の首は、家康によって首実検され、その後塚を造ってねんごろに葬られました。

首実検に先立ち、首装束のため、この井戸水を使って首級の血や土などが洗い落とされたと伝えられています。

戦国期の戦場では、首実検後は敵味方の戦死者を弔い、供養塚を築くというのがならわしだったのです。 関ヶ原町」(説明版)

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先へ行くと「徳川家康最後の陣跡」があり「床几場 徳川家康進旗驗馘處」の碑も立っている。

徳川家康最後陣地・国史跡(昭和6330日指定)

戦がたけなわとなると、家康は本営を桃配山から笹尾山の南東1キロのこの地点に進出させました。ここで、家康は陣頭指揮に当るとともに、戦いが終わると、部下の取ってきた首を実検しています。周囲の土塁や中央の高台は、天保十二年(1841)に幕府の命により、この地の領主竹中家が築いたものです。 関ヶ原町」(説明版)

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最後の陣跡のすぐそばに「歴史民俗資料館」があり関ケ原の合戦の資料が多数展示されている。ここで荷物を預かってもらって先の笹尾山まで足を延ばすことにする。

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歴史民俗資料館から15分ほど歩くと「関ケ原古戦場・決戦地」と刻まれた碑が石田三成徳川家康ののぼりと共に立っている。

(のぼりのはためきを見ればわかるが今日は風が強い。)

「決戦地 国史跡(昭和6330日指定)

西軍有利な陣形で臨んだ戦いでしたが、小早川と脇坂ら四隊の裏切りは、たちまちにして戦況を一変させました。

小早川勢の大谷隊への突入と同時に、西軍の敗色が濃くなり、各軍の兵士の浮足立つなか、石田隊は集中攻撃を受けながらも、最後まで頑強に戦いました。笹尾山を前にしたこの辺りは、最大の激戦のあったところです。関ヶ原町」(説明版)

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その先に三成が陣を構えた「笹尾山」で「島左近(勝猛)陣跡」の説明版立ち、矢来(やらい)の上が「石田三成陣跡」である。

島左近(勝猛)陣跡

三成が家禄の半分を与えてまでも仕官させたといわれる左近です。

前日の杭瀬川の戦で中村隊を破り、本戦では石田隊の先手として布陣。黒田・田中らと奮戦後、家康本陣に迫ろうとしましたが、銃弾を受けて討ち死にしたともいいます。鬼の左近と称され、謎に満ちた猛将像は諸書に様々な姿で描かれています。関ヶ原町」(説明版)

三成陣跡には四阿(あずまや)もあり一息入れることが出来る。

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ここで、関ケ原の合戦のイベントを時系列で並べてみよう。

★「石田三成 暗殺未遂事件」

秀吉子飼いの武断派の武将7名(加藤清正福島正則黒田長政藤堂高虎細川忠興加藤嘉明、浅野幸長)が石田屋敷の襲撃を企てるが、石田三成は事前にそれを察知し屋敷を脱出、徳川家康の仲裁により事なきを得るが三成はこの事件により謹慎処分となる。

★「直江状」

慶長五年四月、会津上杉家家老・直江兼続は、「直江状」なる挑戦状を家康に送りつける。石田三成直江兼続が連携して家康を挑発したのである。

★「上杉征伐」

慶長五年六月、徳川家康、上杉征伐のため大坂を出陣。

★「石田三成、挙兵」

慶長五年七月十一日、石田三成徳川家康の悪行を13ヵ条にまとめた告発文「内府ちかひ(違い)の条々」を公表し諸国の大名の集結を呼びかる。

豊臣五大老毛利輝元を総大将とする。

★「伏見城の戦い(関ケ原の合戦の前哨戦)」

慶長五年七月十九日、総大将・宇喜多秀家、副将・小早川秀秋らが率いる西軍約4万の軍勢が徳川家の家臣鳥居元忠2千人足らずで守る伏見城を攻撃、81日、20日間あまりの激しい攻防の末伏見城は落城し元忠をはじめとする380名あまりが自刃して果てた。京都・大原の「宝泉院」は自刃した武将の血がべっとりとつきやがて黒ずんだ床を廊下の天井に祀り、供養としている。(宝泉院の血天井

(京都・大原、三千院の近くにある宝泉院は紅葉と客殿の柱と柱の間を額縁に見立てて観賞する額縁庭園が有名で庭園は竹林の前に梅や桜、松、楓などの木々が植えられ、季節、時間ごとに趣の異なる景色が楽しめる。

山崎豊子の小説「不毛地帯」に宝泉院が登場する。「夕日がかげり、さながら幽玄の世界を眼のあたりにするようであった。やがて霞のような夕靄(ゆうもや)が流れ、金色に輝いた竹の葉は紫色に変り、薄墨色の夕闇の中に溶け込むように昏れなずんで(くれなずんで)行った。」)(二度この寺を訪問したが夕日を見るには冬至の頃がいいように思う。)

★「犬伏の陣」

慶長五年七月二十一日、家康が発した「会津征伐」の号令に応じて真田昌幸は上田を、信幸は沼田を、そして幸村は大坂を出発する。途中、幸村は父・昌幸に合流し犬伏(栃木県佐野市)に陣を構える。犬伏の陣に密使が着き、直江兼続との連携により石田三成が挙兵したこと、太谷吉嗣が三成の味方についたことなどが知らされる。昌幸、幸村に信幸が加わり三者が対応を協議し、激論の末、昌幸、幸村は石田方へ、信幸は家康方に味方することになる。幸村「父子、兄弟が敵味方に分かれて戦うのもあながち悪う(あしゅう)はござりますまい。沼田が立ち行かぬ時は上田が」信幸「上田が立ち行かぬ時は沼田がということか」幸村「いかにも」(NHKドラマ・真田太平記「第22回・決裂 犬伏の陣」の名場面である)

★「小山評定

慶長五年七月二十五日、伏見城、落城の報告を受けた家康は下野国・小山(栃木県小山市)で軍議を開き上杉討伐は中止、西へ返し石田三成を討つことを決定する。(ここに徳川家康の東軍、石田三成の西軍という図式が出来上がる。)

★「北の情勢」

出羽・最上と陸奥(奥州)・伊達は家康派、常陸・佐竹は中立的立場にある。

家康は実子・結城秀康に佐竹の押さえを命じ、最上と伊達に上杉への攻撃を依頼する。

徳川軍の反転は上杉軍にとって千載一遇のチャンスだったが、上杉景勝は「謙信公(上杉謙信)は敵の背後を襲うことはなかった」と追撃を許さなかった。

景勝の「律儀さ」と「頑固さ」は上杉にとってラッキーであったというべきである。

この時、上杉は北には出羽の最上、陸奥の伊達、西には越後の堀と完全に包囲されていたからである。もし家康を追撃していたら壊滅的な打撃を受けていたに違いない。
慶長五年九月八日、直江兼続率いる上杉軍は米沢と荘内の二方面から、最上領へ侵攻を開始し、直江兼続上杉景勝)と最上義光伊達政宗の合戦が始まった。「東の関ケ原」とも「もう一つの関ケ原」ともいわれている「慶長出羽合戦」である。

★「東軍西上」

 徳川秀忠率いる徳川譜代を中心とする主力37千が中山道を、福島正則をはじめとする豊臣恩顧の大名勢は東海道を西上。

★「東軍清洲城入城」
慶長五年八月十四日、東海道を西上した東軍は、福島正則の居城・尾張国清洲城に入城。

★「東軍、美濃へ進攻」
慶長五年八月二十二日、福島正則細川忠興16千は、清洲城から美濃路を進み、木曽川を渡り美濃国へ進攻、西軍の竹ヶ鼻城、開城。

池田輝政、浅野幸長、山内一豊18千は岐阜城主・織田秀信軍を破り木曽川・中洲の小屋場島まで進軍。(河田木曽川渡の戦)

八月二十三日、岐阜城落城。(岐阜城の戦)

★「家康出陣」

慶長五年九月一日、徳川家康岐阜城落城の知らせを受け3万の軍勢で江戸城出陣。
慶長五年九月十四日、美濃国赤坂に着陣。

★「大垣城
慶長五年九月十日、石田三成大垣城入城。大垣城は、赤坂の南東にあるため、西軍は赤坂に陣を構える家康の旗印を見て動揺し、逃亡する兵士も相次いだ。

慶長五年九月十四日、兵たちの動揺を鎮めるため、島左近500の手勢で、東軍に戦を仕掛け快勝。西軍の動揺は鎮まり、士気も上がった。(杭瀬川の戦)

夜になり、西軍の島津義弘宇喜多秀家島左近は、家康陣営への夜討ちを主張するが、三成はこれを許さず。島津義弘は、石田三成の指揮には従わないことを決意する。

★「秀忠遅参」

中山道を進む徳川秀忠の主力部隊は、信濃国上田城真田昌幸、幸村父子を攻めるが大苦戦を強いられ合戦に遅参(第二次上田合戦)。これにより秀忠は生涯真田を恨み続けることになる。

★「関ケ原の合戦布陣」

西軍は、北の笹尾山に石田三成、その南に島津義弘小西行長、天満山に宇喜多秀家、その南に大谷吉継、西軍主力を見下ろす松尾山に小早川秀秋中山道の東軍を南から見下ろす南宮山に吉川広家、毛利秀元、安国寺恵瓊の毛利勢が布陣した。西軍は、北、西、南から東軍を囲み込む陣を敷いていたのである。
一方、東軍は三成の笹尾山に対して黒田長政、その南に加藤嘉明細川忠興、宇喜多直盛、田中吉政、筒井定次、左翼に福島正則、総大将の徳川家康は後方の桃配山に陣を構えた。桃配山の右後方・南宮山には家康の陣を見下ろす形で西軍の毛利勢が布陣している。この時、毛利勢が家康を攻めたなら確実に西軍が勝利を収めていたに違いない。しかしそうはならなかった。吉川広家は家康と密約を交わしていたのである。

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関ケ原は「伊吹山」と「鈴鹿山脈」に囲まれた自然の隘路(あいろ)である。両軍の布陣をみると狭い窪地の東軍を、山の上の西軍が完全に包囲しているのがわかる。

ドイツの軍事家「クレメンス・メッケル」がこの布陣を見て即座に「西軍の勝」と言ったそうだが、軍事家でなくても誰もが「西軍有利」と言うに違いない。

★「合戦」

 慶長五年(一六〇〇)九月十五日、濃霧の朝である。

 戦は、宇喜多秀家福島正則の銃撃戦で始まった。

(この前に榊原隊が島津隊に鉄砲を仕掛けるという小競り合いはあったが)

 宇喜多秀家 17000 X 福島正則 6000

その後、石田三成の本隊に、東軍の「黒田長政」「細川忠興」「加藤嘉明」などの部隊が攻撃を仕掛ける。

石田三成 4000     黒田長政 5400

島左近  1000     細川忠興 5000

蒲生郷舎 1000     加藤嘉明 3000

その他  2000     その他  6000
西軍は善戦し、やや押し気味に戦をしていた。ところが西軍諸将のそれぞれの事情が西軍優位を覆してしまう。

石田三成は戦況をさらに有利にするために島津義弘に攻撃を依頼するが「夜討ち」を受け入れられなかった島津は動かず。

南宮山・毛利勢の吉川広家は「所領安堵」を条件に家康と裏切りの密約を交わしている。

四国・土佐の長宗我部は、会津征伐に参戦するはずであったが関所の閉鎖で西軍に加わっただけでこの戦にはあまり積極的ではない。

昼頃になり、裏切りを約していた松尾山の小早川秀秋に東軍が威嚇射撃を行い、驚いた秀秋は太谷吉嗣軍を攻撃し形勢は一気に東軍に傾いた。

太谷吉嗣は自害、宇喜多秀家小西行長は敗走、島左近は討死、そして石田三成は戦場を離脱、島津義弘は敵中を突破し薩摩へ帰還。

天下分け目の大戦は、わずか7時間ほどで夕刻前には決着した。

一般的には関ケ原の合戦での一番の裏切り者は小早川秀秋とされているが吉川広家の裏切りは小早川秀秋の比ではない。総大将・毛利輝元の身内でありながら戦の前から敵方と密約を交わし味方を裏切った張本人がいたことは西軍にとって痛恨の極みであろう。それも戦国武将の一つの生き方かもしれないが。

徳川秀忠の主力37千の参戦なく合戦は終わりを告げた。関ケ原で戦ったのは主に豊臣恩顧の武将たちである。つまり豊臣恩顧の武将たちが敵味方に分かれて戦い、家康に天下をプレゼントしたことになる。

★戦後処理
西軍総大将・毛利輝元は、大坂城を退去。
石田三成小西行長安国寺恵瓊は捕らえられて京都六条河原で斬首。

岐阜城主・織田秀信13万石を没収され、高野山へ追放。
毛利家は、長門国周防国の二か国、29万石だけが安堵。(吉川広家の密約通り全所領安堵とはならなかった。因みにこの恨みが二百数十年の後、倒幕の急先鋒につながったという説もあるがにわかには信じがたい。)
宇喜多秀家は改易となり、島津家にかくまわれていたが自首し、後年八丈島へ流罪。
島津義弘薩摩国に戻り交渉の末、本領を安堵。
上杉景勝は、出羽米沢30万石に減封。

真田昌幸真田幸村父子は、真田信幸(信之に改名)とその岳父・本多忠勝の嘆願により高野山九度山へ配流。
長宗我部盛親土佐国へ逃げ戻ったが後に改易。

といったところか。

本日はこの後、JR関ケ原駅に戻り帰宅。駅のフェンスには関ケ原の合戦に参加した武将の家紋が貼られている。

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30日目(517日(火)) 浦和-関ケ原宿

今回は大垣駅前のコンフォートホテルに前泊、朝813大垣駅発の電車で関ケ原へ。

中山道に戻り先へ行くと黒田長政陣跡・竹中重門陣跡の標識が立っている。東軍は中山道を西進したので関ケ原宿手前から東軍諸将の陣跡がそこかしこに見られる。

標識のすぐ先には毘沙門天が祀られている。

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このあたりは古い町並みで常夜灯も置かれている。

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その先へ行くと「西の首塚」があり右の祠に十一面観音、左の祠に馬頭観音が祀られている。この塚は関ヶ原合戦、戦死者数千の首級を葬った塚である。

木曽路名所図会には「首塚 関ケ原宿の西、往還の左にあり。又若宮八幡宮の傍(かたわら)、越前街道にもあり。慶長戦死の塚なり。

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先へ行くと「松尾山・小早川陣跡」の道標が立っているが。陣跡まで2.4キロもあるというので時間の関係で先へ進むことにする。しばらく行くと「月見の宮福島陣址一丁」と刻まれた碑が立っている。

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そこを左へ入ると「福島正則陣跡」の道標がありそれに従っていくと春日神社がある。この神社は月見の宮とも呼ばれ月見の名所であったそうである。福島正則はここに陣を構えた。ここには樹齢800年の大杉があり、説明版が添えられている。福島正則陣跡の説明版も立っている。

「月見宮大杉・町天然記念物(昭和3685日指定)

この杉の巨木は、関ヶ原合戦図屏風にも描かれていて、樹齢は八百年余りと推定されています。平安の御世より、長く時代の変遷を見つめてきたとは驚嘆に値します。その記録は幹の年輪に刻まれています。目通り約5.80m、高さ約25mと貝戸大神宮大杉に次ぐ、正に杉の横綱です。 関ヶ原町」(説明版)

この場所は、西軍・宇喜多秀家と東軍・福島正則が激しく戦ったところである。

福島正則陣跡・東軍の先鋒となった福祉正則(約六千人)は、ここで南天満山の宇喜多隊と対陣しています。一番鉄砲の功名を井伊隊に横取りされるや、正則自ら鉄砲隊を指揮して、宇喜多隊に一斉射撃を浴びせるなか、一進一退の攻防戦が続きました。首取りで手柄を立てた可児(かに)才蔵が、家康の賞賛を受けたとされています。関ヶ原町」(説明版)

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街道に戻ると「美濃不破関東山道と東城門跡」の説明版が立っている。

「美濃不破関のほぼ中央部を東西に東山道が通り抜けていた。関のここ東端と西端には城門や楼が設けられ、兵士が守りを固めていた。日の出とともに開門、日の入りとともに閉門された。また、奈良の都での事変や天皇崩御など、国家的な大事件が起きると、中央政府からの指令によって固関(こげん)がおこなわれ、すべての通行が停止された。関ヶ原町」(説明版)

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そこから数分行くと「不破関の庁舎跡/大海人皇子・兜掛石・沓脱石」の道標があり、壬申の乱の時、大海人皇子(おおあまのみこ)が兜を掛けたと言われている石が祀られていて説明版が添えられている。

不破関 関庁跡と兜掛石 町・県史跡 

この辺りを中心に建物があったとされ、関内の中央を東西に東山道が通り、その北側に瓦屋根の塀で囲まれた約一町(一〇八米)四方の関庁が設けられ、内部には庁舎・官舎・雑舎等が建ち並び、周辺土塁内には兵舎・食料庫・兵庫・望楼等々が建っていました。

ここに祀られている石は、壬申の乱の時、大海人皇子(おおあまのみこ)が兜を掛けた石と伝えられ、左斜めうしろには同皇子使用の沓脱石があります。 関ヶ原町」(説明版)

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その先数分の所に「不破の関跡」がある。美濃・不破の関壬申の乱(六七二)後に天武天皇が設けた「越前・愛発の関(あらちのせき)愛知とも書く、伊勢・鈴鹿の関とともに三関の一つである。しかし桓武天皇の時代、争いも少なったことから七八九年に廃止となった。今は代々関守を務めた「三輪家」の庭になっている。

庭には不破の関跡の碑や芭蕉の句碑、大田蜀山人狂歌碑が置かれている。

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- 秋風や藪も畑も不破の関 - 芭蕉

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- 大友の 王子の王に 点うちて つぶす玉子の ふわふわの関 - 大田蜀山人

(大田蜀山人(おおたしょくさんじん)=江戸時代の御家人天明期を代表する文人狂歌師。)

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不破関は美濃の歌枕である。

- 人住まぬ不破の関屋の板庇(いたひさし)荒れにしのちはただ秋の風 - 藤原良経

は「新古今和歌集」に収められている。芭蕉はこの歌を意識したのだろうか。

その他

- 不破の関 朝こえゆけば霞たつ 野上のかなたに鶯ぞなく- 藤原隆信

- あられふる不破の関屋に旅寝して夢をもえこそ遠さかりけり - 大中臣親守

などがある。

また、「十六夜日記」には「不破の関屋の板びさしは、いまもかわらざりけり。」とある。

不破の関跡の先は道が2方向に分かれていて「左 旧中仙道」の道標が立っている。その通り左の下り坂の途中に説明版が立っている。

不破関西城門と藤古川・不破関は藤古川を西限として利用し、左岸の河岸段丘上に主要施設が築造されていました。川面と段丘上との高度差は約十~二十米の急な崖になっており、またこの辺一帯は伊吹と養老・南宮山系に挟まれた狭隘な地で、自然の要害を巧みに利用したものでした。ここには大木戸という地名も残っており、「西城門」があったとされています。関ヶ原町」(説明版)

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坂を下った所に藤古川が流れていて川に「藤古橋」が架かっている。説明版によると藤古川は古くは「関の藤川」と呼ばれ、壬申の乱では川を挟んで東側に大海人皇子(おおあまのみこ)軍、西側には弘文天皇軍が布陣した。そのためここより東を「関東」西を「関西」と呼ぶようになったという。関ヶ原合戦では大谷吉継が布陣するなど「関の藤川」は軍事上の要害の地であった。

木曽路名所図会」には「関の藤川 松尾村西にあり。水源、伊吹山の麓より流て、北国街道藤川の宿の東を行、松尾村の西、不破の関の下を流れ、多良川と落合て、栗笠より勢州桑名に入る。俗にこれを藤子川といふ。土橋かかる。」と書かれている。

木曽路名所図会」には、

- 美濃の国 関の藤川たえずして 君につかへん 万代(よろつよ)までに -(古今和歌集

- 神代より みちある国につかへける ちぎりもたえぬ関の藤川 - (風雅和歌集)

などの歌が記されている。

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橋を渡ると「大谷吉隆(大谷吉嗣)の墓七丁」の碑が立っている。

木曽路名所図会」には「太谷刑部少輔吉隆塚 山中村、左の方の山下にあり。慶長乱後、藤堂家これを建てる。」とある

吉嗣の墓への途中に「矢尻の池(井)」の道標があったので寄り道をしてみると説明版があり「矢尻の池(井)・関ヶ原宿から今須宿に向かう中山道のうちでも、不破関・藤川と続くこの辺りは、「木曽名所図会」にも描かれ、歌枕となっていました。この窪みは壬申の乱672)のとき、水を求めて大海人皇子軍の兵士が矢尻で掘ったものと伝えられています。長い年月を経た今では、その名残を僅かに留めているに過ぎません」と書かれている。

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先へ進みと「若宮八幡神社」があり、「宮上 太谷吉隆陣地」の碑が立っている。「太谷吉隆」は「太谷吉嗣」の異名で一般的には「吉嗣」で通っている。

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吉嗣の陣跡は若宮八幡神社の上にあり、道標に従って山道を上って行くことになる。

「太谷吉隆(吉嗣)陣跡 親友三成の懇請(こんせい)を受けた吉隆は、死に装束でここ宮上に出陣してきました。松尾山に面し、東山道を見下ろせるこの辺りは、古来山中城といわれるくらいの要害の地でした。九月三日の到着後、山中村郷士の地案内と村の衆の支援で宇喜多隊ら友軍の陣造りも進め、十五日未明の三成ら主力の着陣を待っていたといいます。 関ケ原町」(説明版)

 

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さらに上ると吉嗣の墓があり、さらに上ると小早川秀秋が布陣した松尾山眺望地に出る。

「松尾山眺望地 正面一・五キロに望む標高二九三米の山が松尾山である。関ケ原合戦において小早川秀秋が布陣したことで有名である。当時の遺構がほぼそのまま残っており、山頂に軍記が翻っているのが確認できる。吉嗣は予て(かねて)から秀秋の二心(ふたごころ)を疑っていたので、自ら二千の兵を率いて下方山中村の沿道に出て、専ら(もっぱら)秀秋に備えていた。案の定秀秋の兵一万三千が山を下り突撃してきたが、その大軍を麓まで撃退すること三度。ついに総崩れとなり吉嗣は自刃(じじん)した。こうして眼下で数倍の敵と互角以上の死闘を展開した太谷吉嗣の雄姿が偲ばれる。 関ケ原町」(説明版)道標によると一キロ先に宇喜多秀家の陣跡があるというのだが今回は無理か。

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大谷吉嗣

豊臣秀吉の家臣で越前敦賀の城主である。

秀吉は生前「大谷紀之介(吉継)に100万の軍勢を与えて、自由に軍配を指揮させてみたい」と言っている。それほどまでに大谷吉嗣の武勇、采配は見事なものであったという。

吉嗣は、三成を介して秀吉の家臣になったといわれていて、その為か三成との友情は深い。

「古今武家盛衰記」では巻第二 大谷刑部少輔吉隆として石田三成の次に登場する。

「時に吉隆十六歳、平馬と號す(ごうす=名づける)。太閤播半州を領し、姫路城主たる時、故ありて石田三成此時左吉といふが取持にて召出され、頓て(やがて)元服させられ、初めて百五十石を賜ふ。屢(たびたび)軍忠を盡し(つくし=戦の時には忠節を尽くし)、後太閤天下の主将となりて、終に越前敦賀城五萬石を賜はり、且(かつ)五奉行に列す。是より嚮(きょう=先)、従五位下刑部少輔と敍任し、諱(いみな)の字を賜はり吉継と稱し(しょうし=名乗り)、後四品に進む。」(古今武家盛衰記)、続いてその人となりを「大谷其性(そのさが)仁智深く、勇ありて猛からず、徳を隠し、信ありて僞(いつわり)なく、禮ありて驕らず(おごらず)。人擧つて(こぞって)賢と稱す(しょうす)。」(古今武将盛衰記)

また、「名将言行録」には「人となり、才智聡頴、勤労倦(う)まず、能く(よく)秀吉の心に叶へり」「吉継汎く(あまねく)衆を愛し、智勇を兼ね、能く邪正を弁ず、世人称して賢人と言ひしとぞ」とある

大谷吉継は、尾張派とは仲が悪いと言われている近江派ではあるが、尾張派との関係は悪いものではなかったようである。
尾張検地や財政、兵糧の調達や輸送の手配など内政面を得意とする一方、武術も秀でていため加藤清正福島正則などの武闘派(尾張派)からも一目置かれていたのであろう。
また、家康もその有能さを愛していたといわれている。

大谷吉継は、関ケ原以前はあまり表舞台には出てこないが関ケ原の合戦で一躍脚光を浴びることになる。

吉継が「義に厚い名将」として名を高めた理由は関ヶ原における壮烈な活躍にある。西軍は日和見や裏切りが相次いだのに対し、吉継とその軍のみは寡兵ながらも最後まで奮戦した。関ヶ原における大谷軍の奮戦を「名将言行録」は、「士卒皆其恵に懐き(しそつみなそのめぐみをいただき)、敢て(あえて)離反する者なし、其(その)敗るるに及びて、決然として自屠(自害)し、陵辱を受けず、人皆其智勇に服せり(ひとみなそのちゆうにふくせり)」と書いている。

大谷吉嗣は、家康の実力を高く評価し天下人にふさわしい人物としていた。家康の上杉征伐にも参加するはずであったが途中で三成の居城・三和山城に立ち寄り、家康打倒の決意と理由を聞いた時、三成の人望のなさを指摘し勝ち目のない挙兵を思い止まるよう説得した。「古今武将盛衰記」は、次のように書いている。

「大谷曰く、此言理に當るといへども、(三成の言っていることはもっともであるが)彼を知つて己を知らず。今武家の高位なる、家康に過ぎたるなし。三徳備はり勲功優れたる、是に過ぎたるなし。勇士餘多(あまた)持てる(あまりにも多くの勇士を持っているのは)、家康に過ぎたるなし。慈悲深く家臣能く懐(なつ)きたる、是に過ぎたるなし。俸禄の多き、是に過ぎたるなし。此五の者、一つとして御邊の身に及ばず(これら五つの一つとしてあなたは持っていない)。是れ勝利なきの謂(いわれ)なり。」

しかしながら三成の決意は固く、翻意(ほんい)は難しいと判断した吉嗣は三成への味方を決意する。難病を患っていたにもかかわらず厚い温情を受けた秀吉への恩義と、三成への友情が吉嗣をそうさせたのであろう。

「大谷癩病(ライ病=ハンセン病)を受け、五體(五体)苦み雙眼(そうがん=両目)盲す。太閤憐んで恩顧厚し。殊に秀頼の後見なれば、諸事家康公へ窺ふ(うかがう)。(武古今武家盛衰記)

吉継が西軍に与した(くみした)ことを知った家康は非常に驚き狼狽したという逸話が残っている。

吉嗣の関ヶ原での戦いぶりは凄まじいものがあったという。宇喜多勢を主力に合戦当初は東軍を押しまくった。しかし、小早川秀秋が裏切り大谷軍に襲いかかった。小早川秀秋13,000人の襲撃を吉嗣は兵600の兵で迎撃したという。

しかし、これに動じることなく、小早川軍を一度は押し返した大谷隊であったが大谷隊に属していた、脇坂・朽木・小川・赤座の四氏らも裏切るにおよんで、ついに大谷軍は壊滅し、吉継は自害して果てた。

「自害する際、小早川秀秋の陣に向かって「人面獣心なり。三年の間に祟りをなさん」と言って切腹したが、この祟りによって秀秋は狂乱して死亡に至ったという噂がある。秀秋は関ヶ原の戦いの二年後に死亡した。」(関東軍記大成)

不治の病を得て、両目が見えなくなってしまった吉嗣は、関ケ原に死に場所を求めていたのかもしれない。

大谷吉嗣は、

- 契りあらば 六の巷で待てしばし 遅れ先立つことはありとも -

(約束通り来世の入り口(六道の巷)で待っていてくれ。どちらが先に行くことになっても。)

と辞世の歌を詠んでいる。これは共に戦った「平塚為広」の辞世の歌

- 名のために棄つる命は 惜しからじ 終にとまらぬ浮き世と思えば -

(人は永遠に生きることはできない。君のために捨てる命は惜しくはない。)

に対する返歌と言われている。

「名将という言葉を、この戦場の敵味方の諸将のなかで求めるとすれば、大谷吉嗣こそそうであろう。」と司馬遼太郎は「小説・関ケ原」の中で言っている。

中山道旅日記 19 美濃・関ケ原(INTERMEDIATE)

日本史上最大のイベントといえる関ケ原の合戦は、徳川家康の「野望」と石田三成+直江兼続の「義」の戦(いくさ)であったというべきである。

しかしながら「絶対的な力」と「正義」の戦いは「絶対的な力」が勝つ。

司馬遼太郎は、小説「関ケ原」において「正義などというものは秩序が整っていれば秩序維持のために必要だが乱世においては人も世間も時勢も利害と恐怖に駆り立てられて動く。幼君秀頼につくのが利か、第一の実力者である家康につくのが利か、それのみを考えて動いているのである。自家を存続させたいという欲望が恐怖につながる。判断を誤れば自家は滅んでしまうという恐怖の前には正義など何の力ももたない。つまり特に乱世において人は強弱で動く、善悪では動かない。」と書いている。

謀反の疑いをかけられた前田利長前田利家)の嫡男・五大老の一人)は、家康の力に屈し、五奉行の中で最も親徳川であった浅野長政までも同じ嫌疑をかけられ引退に追い込まれている。つまり、家康はあらぬ難ぐせをつけ、豊臣政権の中枢にある五大老五奉行の一人一人を力で屈服させていったのである。

当然のことながら利を見るに敏な武将たちはこぞって家康に媚びた。

さらに家康は、高台院(秀吉の正室・ねね(北政所))を抱き込み、「三成憎し」に凝り固まる秀吉子飼いの武闘派諸将を味方にすることに成功した。

竹中半兵衛と共に秀吉の軍師を務めた黒田如水黒田官兵衛)の嫡男・黒田長政は小早川調略に動き、西軍の総大将・毛利輝元一門の吉川広家は、黒田長政を通じて家康に内通し、毛利領安堵の密約を取り付けている。

さて、福島正則宇喜多秀家の銃撃戦で幕をあけた関ケ原の合戦は最初、西軍が優位に立っていた。しかし小早川秀秋の裏切りで一気に形勢は逆転し、家康が勝利を収めた。そして薩摩・島津義弘の敵中突破で幕を下ろす。

司馬遼太郎の小説をドラマ化したTBSドラマ「関ケ原」の終盤で「歴史は時として最もふさわしくない者に重要な鍵を預けるものである」といったようなナレーションがあったように思うが「最もふさわしい者に重要な鍵を預けた」というべきである。

なぜなら、この戦で西軍が勝利を収めていれば世は再び乱世へと逆戻りしたに違いない。西軍には「絶対的な実力者」がいなかったからである。

ともあれ、「応仁の乱14671477)」以降100年以上続いた乱世はここに終わりを告げる。

日夜、戦に明け暮れた時代を「戦のない世」に導いた家康の功績は大きいと言わざるを得ない。

ただ、いわば主家である豊臣から権力を奪い取った後ろめたさは、家康を正当化するために三成を徹底して「悪人」にする必要があった。

徳川氏は、その治世二世紀あまりを通じて石田三成を肝心(かんじん)とし続けた。(中略)ただひとり、水戸黄門で知られている徳川光圀のみが、その言行録「桃源遺事」の中で「石田治部少輔三成は憎からざる者である。人おのおのその主人の為にはかるというのは当然なことで、徳川の敵であるといっても憎むべきでない。君臣共に心得るべきである」と語っているのが唯一の例外と言っていい。(中略)ただ、三成とともにその朋友知古家臣としてこの一挙に加わった三人の人物については、徳川幕府の禁忌(きんき)はおよんでいない。三人とは太谷刑部少輔吉嗣、島左近勝猛、それに直江山城守兼続である。この三人男は、いわば快男児の典型として江戸時代の武士たちに愛され、その逸話がさまざまの随筆に書かれ続けた。」(司馬遼太郎・小説「関ケ原」より)

徳川幕府下において幕府はもちろん諸藩も三成を「肝人」以外の評価をしなかった。

史実が勝者の都合のいいように書かれるのは世の常である。

直江山城守兼続

上杉は直接、関ケ原の合戦に参加してはいないが、上杉家の家老・直江兼続石田三成は以前から連携していて、家康が上杉討伐軍を東へ進めたことにより三成挙兵が実現した。

上杉討伐に向かう家康を三成と兼続が西と東から挟撃するという逸話もあるようだが真偽のほどは定かではない。ただ三成が真田昌幸にあてた書状には家康との戦について兼続と密接に連絡を取り合っていたことが明白に受け取れる。

家康に会津上杉討伐を決意させ「関ケ原の合戦」の引き金になったのが世にいう「直江状」である。「直江状」は、家康が直江兼続と親交があった禅宗の高僧・西笑承兌(さいしょうじょうたい)に、書かせた詰問状に対する返書である。

詰問の内容は「上杉とトラブルを抱えていた越後の後任領主である堀秀治による上杉謀叛の讒言を契機に家康は「上杉に謀反のうわさがある。武器を集めているのは謀反の証、会津領内の新城の築城、道や橋の整備は謀叛の準備である。上洛して叛意が無いという誓紙(起請文)を差し出せ」ざっとこんなところである。

これに対して、兼続は「直江状」で以下のように答えている。

会津謀反の噂について内府殿(家康)が不審に思うのは勝手だが、京と伏見くらいの距離でさえも噂は立つもの。ましてやここは遠国(おんごく)、堀秀治などの讒言を信じて調べようともしないのは内府殿(家康)こそ表裏のある人間である。」

「誓詞(起請文)を出せというが昨年から数回出している。提出した起請文が反故になってしまうので重ねて起請文は差し出さない。」
「北国越前殿(前田利長)に謀反の疑いをかけ、思い通りになったということだが、あなたのご威光はさすがである。(上杉はそうはいかないぞとも読み解ける)」
「武具を集めていることは、上方の武士が茶道具を集めるのと同じく田舎武士の風習であり、ご不審には及ばない。景勝に似合わないものを集めているわけではない。そんなことを気にするとは天下を治めるにふさわしくない。」

「道を作っているのは、越後口だけではない。堀監物(秀治)のみが恐れて騒ぐのは弓矢の道を知らない無分別者のようだ。もし景勝が謀反を起こす気があれば、道を開くよりも国を閉じて道を防ぐはず。堀秀治は是非に及ばざるうつけ者である。それでもご不審あれば、使者を送って検分すればいい。」

この返書に家康は激怒し、上杉討伐を決意したといわれている。

関ケ原の合戦後、上杉に対する処分は会津百二十万石から米沢三十万石への減封であった。

百二十一万石から三十七万石へ減封になった毛利輝元とほぼ同等の厳しい処分といえる。

島左近勝猛

島左近島清興)は大和城主・筒井順慶を支える筆頭家老で合戦の天才であった松倉右近と共に「筒井の左近・右近」と呼ばれた名将である。しかし順慶の死後、家督を継いだ定次に疎まれ筒井家を去る。その後、蒲生氏郷豊臣秀長に仕えるが長続きはせず、浪人として放浪した後、近江・江南の高宮の近くに草案を結んだ。

その噂を耳にした石田三成は自ら草案を訪れ自分の知行の半分(約一万五千石)を差し出して家臣とした。三成は左近を召し抱えることにより、自らの弱点を補うことに成功したのである。

その後三成は佐和山城十九万四千石の大名になった時、左近は自らの加増の代わりにより多くの兵を雇い入れることを三成に進言した。石田軍の強化を望んだのである。

関ヶ原では、三成は敗れ左近は命を張って三成を逃亡させた。自ら先頭に立って田中吉政黒田長政勢と戦い、一時はこれを退け家康の旗本近くまで迫ったが黒田勢の鉄砲を全身に浴び、壮絶な討ち死にを遂げた。

石田治部少輔三成

彦根・長浜(201699日)

慶長五年(1600年)の関ケ原の合戦における主役は紛れもなく石田三成である。

豊臣時代「三成に過ぎたるものが二つある 島の左近と佐和山の城」とうたわれた。

佐和山城は、五層の天守閣がそびえる堂々たる巨城であった。

島左近は、上述のように当代きっての名士である。

佐和山城島左近も小碌の三成には分不相応ということだろう。

さて、彦根駅から案内に従って行くと「佐和山城跡上り口1.3キロ」の表示が立っている。

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矢印の方向へ歩いていくと清凉寺の案内が出ている交差点を右折してしばらく行くと「龍譚寺」があるが途中の「佐和山会館」の駐車場の横に佐和山城を復元したデプリカが置かれている。

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その先に「龍譚寺」がある。山門をくぐった所が「佐和山城跡」への上り口である。寺の境内には石田三成の像が置かれている。城跡への急坂を上り始めると「佐和山城跡に最近、野猿の群れが出没いたします。十分ご注意ください」の立て札が立てられていた。ここは野猿か!

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急な坂道を、汗を拭き拭き息をきらせながら上って行くと「西の丸・本丸」「鳥居本」の道標があり本丸を目指してさらに上って行くとすぐに「西の丸(塩櫓)」の看板が目に入る。

佐和山城の大手門は中山道鳥居本にあった。彦根側は「搦め手(城の裏側)」である。

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急坂を上り切った所が「本丸跡」である。佐和山城跡からの見晴らしは非常に素晴らしく彦根の町と琵琶湖が見渡せる。鳥居本側は山が深い。

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龍譚寺の横が「清凉寺」で、ここは徳川家の家臣・井伊家の菩提寺である。

滋賀県百科事典」によると佐和山城をほろぼした井伊直政がこの地に封じられ、死後この地を墓所として法名の文字をとり、祥寿山清涼寺と称して開基とした。

尚、庫裡(くり)のあたりは佐和山時代、三成の名家老といわれた島左近の邸跡といわれている。

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彦根駅に戻り、米原経由で北陸本線長浜駅へ。

三成「三献の茶」で知られる「観音寺」へ行くべく駅の観光案内所立ち寄った。案内所の方の話では駅から56キロの所だという。時間の関係で駅のレンタルサイクルを借りることにした。

駅前ロータリーには、いきなり「秀吉公と石田三成公 出会いの像」が立っている。

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長浜駅から県道509号線を行くとすぐに「従是東長濱領」の碑が道路の左わきに置かれている。さらに先20分ぐらいで「石田」というバス停があり「石田治部少輔三成屋敷跡」の碑が立っている。

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そこを右に入ると石田会館があり三成にまつわる資料が展示されているそうだが休館日で入館できなかった。(事前の調査不足のためこのようなことが多々ある。)

会館前には三成の銅像吉川英治の句碑、西郷隆盛の石碑などが置かれている。

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吉川英治の句碑
吉川英治がこの地に来た時に詠んだ句だそうである。
- 治部殿も 今日冥すらむ(くらすらむ) 蝉時雨 -

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西郷隆盛の石碑には、
関ケ原軍記を読む 西郷隆盛
東西一決 関ケ原に戦う鬢髪(びんぱつ) 冠を衝き(つき)烈士憤る成敗存亡 

君問う勿れ(なかれ) 水藩の先哲 公論あり」

と彫られている。

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石田会館の東側に石田神社があり三成直筆の歌碑や三成の辞世の碑が置かれている。

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「残紅葉」

- 散り残る 紅葉はことにいとおしき 秋の名残は こればかりとぞ -

(おおかた散ってしまってわずかに残っているもみじ葉が秋の名残をわずかに残していていとおしいことだ)自分の身の上を重ね合わせているのだろうか。

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石田三成辞世の歌」

- 筑摩江(ちくまえ)や 芦間に灯すかがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり -

筑摩は現米原市、芦は琵琶湖のヨシだとのこと。

(芦の間に灯っているかがり火と共に我が身の命もがやがて燃え尽きてしまうのだな-)

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石田神社をあとに県道508号の緩やかの坂を上って行く。自転車なので結構きつい。

左手に「石田三成公出生地」の碑がある。その先のトンネルをくぐりヘアピンのようになっている道を行きすぐに右手に入れば「観音寺」である。

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山門をくぐって案内通りに行くと「石田三成水汲みの井戸」があり説明版が添えられている。

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山門に戻り階段を上がっていくと「本堂」である。

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三成については様々な逸話が残っている。ここに二つ挙げておこう。

「三杯の茶(三献の茶)」

石田三成はある寺の童子也。秀吉一日放鷹に出て喉乾く。其の寺に至りて「誰かある。茶を点じてきたれ」所望あり。石田、大なる茶碗に七八分に、ぬるくたてて持ちまゐる。秀吉之を飲み、舌を鳴らし、「気味よし。今一服」とあれば、又たてて之を捧ぐ。前よりは少し熱くして茶碗半にたらず。秀吉之を飲み、又試みに「今一服」とある時、石田此の度は小茶碗に少し許なる程熱くたてて出る。(今度は小さな茶碗に熱く煮立てて出した。)秀吉之を飲み其の気の働きを感じ、住持にこひ、近侍に之を使うに才あり。次第に取り立て奉行職を授けられぬと云えり。」(武将感状記・巻八)

(この話は、子供のころ何度か聞いたものである。)

「葭の運上銭」

「秀吉が三成に五百石を与えると言ったとき、三成はその代わりに、宇治川や淀川に生えている荻や葭の刈り取りに運上(税金)を取り立てる権利をほしいと申し出ました。

三成はその権利をいただければ、一万石の軍役をつとめると約束しました。
果たして、秀吉が織田信長の先手大将として波多野右衛門太夫秀治(丹波、丹後、但馬三州の守護職)追討の時、団扇(うちわ)九曜に金の吹貫をつけた旌旗を真先に持たせ、武具、馬具、華やかに鎧(よろ)うた武者数百騎がやって来た、それを見た秀吉が「見なれぬ旗じるしよ」などと言って使番を走らせてみると、河原の雑草の運上で人数をそろえた石田佐吉の隊であった。」(古今武家盛衰記より)

古今武家盛衰記の巻第一が「石田三成」そして巻第二が「太谷刑部少輔吉隆(太谷吉嗣)」である。

さて、観音寺を後に来た道を帰る途中に「やくし堂道」の碑が立っていて祠の横に「宇喜多秀家」についての説明版が置かれている。

「もう一人の西軍首脳(宇喜多秀家)・備前・美作を統一して城下町岡山を建設した宇喜多尚家の嫡子。早くから秀吉の毛利攻めに協力し、その後も秀吉の天下統一戦に参加した。秀吉晩年には五大老として、政権重鎮の一人であり、秀吉没後は前田利家と共に反家康の中心人物であった。関ケ原合戦では、三成に並ぶ西軍首脳と目された。戦後は島津義弘を頼って薩摩に逃れた後、八丈島に流され、半世紀余りに及ぶ流人生活のまま没した。」(説明版)

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関ケ原の合戦以前に「石田三成襲撃事件」がある。加藤清正をはじめとする武闘派七人は朝鮮・蔚山(うるさん)の戦いなどの評価を不服として文治派、特に三成に深い憎しみを持っていた。特に清正の憎しみは人一倍深い。第一次朝鮮出兵の時、小西行長との「京城」への一番乗り争いで清正は遅れをとったが「京城に入った」旨の秀吉への報告は行長より先んじた。秀吉は、清正が「一番手柄」と勘違いし清正に感状を与えた。三成はその間違いを正すと共に手柄争いに走り統率を乱していると清正を糾弾した。秀吉は激怒し清正に処分を下す。この時以来清正は三成を憎み続けることになる。

司馬遼太郎は、「小説・関ケ原」の中で「三成の異常な正義心と弾劾癖(だんがいへき)が、ここでもしつこくあらわれている。」と書いている。

さて、武闘派諸将(加藤清正福島正則細川忠興、浅野幸長(長政の嫡子)、黒田長政(官兵衛の嫡子)、蜂須賀家正、藤堂高虎)の七人は、三成屋敷襲撃を企てるが秀頼の侍従・桑島治右衛門の通報で屋敷を脱出し事なきを得る。この時、三成は家康の屋敷へ逃げ込んだとドラマに描かれることが多いがその真意は定かではない。(確かにドラマチックではある。)

この事件は、家康が仲裁に入り三成は隠居、蔚山城の戦いの評価の見直しという裁定で収まった。石田三成失脚の時である。

しかしこの事件で豊臣政権の武闘派と文治派の対立は表面化し、その対立を家康に利用される結果となる。

もっとも豊臣政権の武闘派=尾張派=高台院(寧々=北政所)派対文治派=近江派=淀派の対立の構図は遅かれ早かれ豊臣政権を自滅へ向かわせたに違いない。

石田三成をはじめとする文治派と加藤清正達武闘派が文武両面から秀頼を支えていたら事態は違ったであろうがそうはならなかった。時間は前にのみ進む。舞台は真田幸村が主役の大坂の陣へと移っていくのである。

中山道旅日記 18 赤坂宿-垂井宿-関ケ原宿 1/2

 29日目(4月22日(金)) 赤坂宿-垂井宿-関ケ原宿

岐阜駅7時20分発、大垣経由で美濃赤坂へ。今日は昨日とうって変わっていい天気になった。

第56宿 赤坂宿・本陣1、脇本陣1、旅籠17

(日本橋より110里1町8間 約432.1キロ・美江寺宿より2里8町 8.7キロ)

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4月21日付で書き忘れたのだが、赤坂宿入り口に東の「赤坂宿御使者場跡」の碑が立っている。「御使者場」とは、大名や公家など偉い人物が通る時、宿役人や名主が出迎えに来た場所のことである。

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さて、JR美濃赤坂駅からすぐのところに「御茶屋跡」がある。慶長十年(1605)関ケ原の合戦で勝利した徳川家康は天下統一を果たすと東海道中山道に将軍専用の宿泊施設「御茶屋屋敷」を造った。ここは現在残っている数少ない「御茶屋跡」だそうだ。

「史跡 お茶屋敷跡・ここは慶長九年(1604)徳川家康織田信長の造営した岐阜城御殿を移築させた将軍専用の休泊所跡である。
お茶屋屋敷は中仙道の道中四里毎に造営され、周囲には土塁、空濠をめぐらしその内廓を本丸といい厳然とした城郭の構えであった。現在ここが唯一の遺構でその一部を偲ぶことができる交通史上重要な遺跡である。 大垣市教育委員会)(説明版)

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御茶屋跡を出て、赤坂宿入り口まで戻る。美江寺宿からくると「杭瀬川」を渡り赤坂宿に入る。昨日、雨の中を急ぎ足で通り過ぎた所だ。杭瀬川は、古くは平治の乱に敗れた源義朝が柴舟でこの川を下ったのだそうだ。

杭瀬川を渡ると常夜灯があり「赤坂港跡」の碑が立っている。その横には「赤坂港会館」と呼ばれる資料館がある。

赤坂港は、杭瀬川の水利を利用して物資などを輸送する目的で設けられた。

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先に進み、線路を越えた左手に「本陣跡」の公園がある。皇女和宮もこの本陣に泊まったそうで、約二百四十坪の立派な本陣であったそうだが残念ながら今は残っていない。

公園には、和宮の「碑文」も置かれている。

「本陣跡・当所は、江戸時代、大名・貴族の旅館として設置された中山道赤坂宿の本陣であった。間口二十四間四尺、邸の敷地は二反六畝二十九歩、建物の坪数は、およそ二百三十九坪あり、玄関・門構えの豪勢なものであった。寛永以降、馬渕太郎左ヱ門に次いで、平田又左ヱ門が代々本陣役を継ぎ、天明、寛政のころ暫く谷小兵衛が替ったが以後、矢橋広助が二代に及んで明治維新となり廃絶した。

文久元年十月二十五日、皇女和宮が、ここに泊した事は余りにも有名である。

昭和六十年八月 大垣市赤坂商工会観光部会」(説明文)

「碑文・和宮は弘化3年仁孝天皇の皇女として誕生された。万延元年幕府は公武合体により朝幕の融和を図ろうと皇女和宮の降嫁を請願した。孝明天皇は憂慮され、殊に和宮は、有栖川宮熾仁に親王との婚約があり、近く婚儀が実現されることになっていたので、その奏請を却下されたが、時局の困難が相次ぐので、やむなく許可されることになった。
かくて翌文久元年10月20日京都出発、道を中山道にとり25日、ここ赤坂本陣に宿泊され、11月15日江戸に到着、十四代将軍家茂の夫人となられた。時に家茂は和宮と同年の16才であった。
- 惜しまじな君と民との為ならば身は武蔵野の露と消ゆとも -
和宮は、江戸城大奥の生活に耐え、よく夫君家茂に仕えられたが、長州征伐の陣中で、夫君は不帰の客となった。その時和宮は21才、悲涙に咽ばせられながら詠まれた歌に
- 空蝉の唐織ごろもなにかせむ綾も錦も君ありてこそ -
明けて慶応3年の大政奉還、鳥羽伏見の戦い、江戸城攻撃と相つぐ動乱の中で婚家のため世のため民のため心魂を砕かれた生きざまは、まさに女性の鑑である。
その遺徳を偲び、降嫁の折り宿泊されたこの地に碑を建立し、永くその生涯を語り継ぐも

のである。 日比野仙三 識 平成元年10月25日 皇女和宮保存会」(皇女和宮碑文)

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本陣跡公園の先は少し「桝形」になっていて交差点には「たにくみ道道標」が置かれている。ここには、西国三十三カ所「谷汲山華厳寺」へ向かう「谷汲街道」、伊勢に向かう「養老街道」そして中山道の追分である。華厳寺は、江戸時代から西国三十三カ所の「満願成就の寺」として信仰があつくここから多くの信者が寺へ向かったのだという。

ここには「中山道赤坂宿」の碑や「谷汲観音常夜灯」も置かれている。

「東 美江寺へ二里八町 西 垂井へ一里十二町

近世江戸時代、五街道の一つである中山道は、江戸から京都へ百三十一里の道程に六十九次の宿場があり、美濃赤坂宿は五十七番目に当たる。大名行列や多くの旅人が往来し、また荷物の輸送で交通は盛んであった。町の中心にあるこの四ッ辻は北に向う谷汲巡礼街道と、南は伊勢に通ずる養老街道の起点である。東西に連なる道筋には、本陣、脇本陣をはじめ旅籠屋十七軒と商家が軒を並べて繁盛していた。

昭和五十八年三月 史跡赤坂宿環境整委員会 大垣市赤坂商工会 大垣市」(赤坂宿・説明版)

交差点の向こう左角に立派な古民家があるが、ここは最後の本陣を務めた「矢橋家」で「有形文化財」に指定されている。

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矢橋家のすぐ先が「脇本陣跡」である。今は「榎屋」屋号を掲げ旅館を営んでいるが当時は「問屋」も兼ねていて本陣の予備的役割を果たしていたのだという。

「江戸時代、中山道赤坂宿の脇本陣は、当家一ヶ所であった。大名や、貴族の宿舎である本陣の予備に設立されたもので、本陣同様に処遇され屋敷は免税地であり、領主の監督を受けて経営されていた。当所は宝暦年間以後、飯沼家が代々に亘り脇本陣を勤め、また問屋、年寄役を兼務して明治維新に及び、その制度が廃止後は独立し、榎屋の家号を用いて旅館を営み今日に至っている。昭和六十年八月 大垣市赤坂商工会観光部会」(脇本陣・説明版)

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脇本陣の一軒先には「五七」と大きな看板を掲げた休憩所があるが営業時間は11時からでまだ開店前であった。(今は9時15分)

「五七」の隣が「嫁入り普請探訪館」と呼ばれる建物である。和宮降嫁(こうか)の際、平屋だけの宿場を見て随分田舎に来てしまったと嘆くのではないかと急遽二階建て風に普請したのだそうだ。和宮の降嫁は中山道のあらゆる宿場に多かれ、少なかれ(たぶん大きな)影響を与えたようである。

「お嫁入り普請とは、文久元年(1861)の和宮降嫁のとき、大行列一行が宿泊しましたが、赤坂宿ではそのために54軒もの家が建て直されました。それを「お嫁入り普請」と言います。短期間での建築工事であったため、街道沿いの表側だけが二階建てという珍しい家であり、数は少なくなりましたが、現在も残っている家があります。」(中山道赤坂宿まちづくりの会・説明版より)

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「五七」からしばらく行くと西の「赤坂宿御使者場跡」の碑があり横に「兜塚」の説明版が立っている。このあたりが赤坂宿の出口である。

「兜塚・この墳丘は、関ヶ原決戦の前日(一六〇〇年九月十四日)、杭瀬川の戦に笠木村で戦死した東軍、中村隊の武将の一色頼母を葬り、その鎧兜を埋めたと伝えられている。以後、この古墳は兜塚と呼ばれている。 大垣市教育委員会」(兜塚・説明版)

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「続膝栗毛」では、赤坂宿の茶店で弥次喜多は、旅の男に銅銭と二朱銀の交換を頼まれる。茶店のおやじの話ではこのあたりの相場は、二朱銀は銅銭で八百七十文だという。(当時、金、銀、銭の交換率は相場でかなり変動する。)男が二朱銀を九百五十文で買うというので二朱銀を渡してやると「これは、銅脈(地銀を銅で作って金や銀で鍍金したもの)の偽銀貨だという。弥次さんは別の二朱銀を男に渡すと、男は九百五十を置いてそそくさと立ち去った。喜多さんが先に渡した本物の二朱銀を偽銀貨とすり替えられたことに気付いて男の後を追うがもう影もかたちも見えなかった。

― 一貫の銭おば棒にふりもせで われに動脈かつがせにけり -

赤坂宿を出て15分程行くと「昼飯町」と呼ばれるところがある。「昼飯」とは変わった地名だと思っていると先にある「如来寺」の入り口にその由来の説明版が立っていた。

「昼飯町の由来・むかし、善光寺如来という仏像が大阪の海から拾いあげられ、長野の善光寺へ納められることになりました。
その仏像をはこぶ人々が、青墓(あおはか)の近くまで来た時は五月の中頃でした。近くの山々は新緑におおわれ、つつじの花が咲き乱れ、すばらしい景色です。善光寺如来を運ぶ一行も、小さな池のそばで、ゆっくり休み、美しい景色にみとれました。一行はここで昼飯(ひるめし)をとりました。
それからこの付近を昼飯(ひるめし)と言うようになりましたが、その名が下品であると言うので、その後、飯の字を「いい」と音読みにして、「ひるいい」と呼ばれるようになりましたが、「いい」は言いにくいので、一字を略して「ひるい」と呼ばれるようになりました。又、ここの池は一行が手を洗ったので、「善光寺井戸」と言われ、記念に植えた三尊杉の木も最近まで残っていたということです。(大垣市史 青墓篇より)」

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如来寺」からJRの高架をくぐり10分ばかり行き案内通りに左手少し行くと「照手姫水汲井戸と刻まれた碑が立っている。その後ろに井戸があり説明版も添えられている。

伝承地 照手姫の水汲み井戸
「伝説 照手姫・昔、武蔵・相模の郡代の娘で照手姫という絶世の美人がいました。この姫と相思相愛の小栗判官正清は郡代の家来に毒酒を飲まされ殺されてしまいました。照手姫は、深く悲しみ家を出て放浪して、青墓の大炊長者のところまで売られて来ました。
長者は、その美貌で客を取らせようとしますが、姫は拒み通しました。怒った長者は一度に百頭の馬にえさをやれとか、籠で水を汲めなどと無理な仕事を言いつけました。
一方、毒酒に倒れた正清は、霊泉につかりよみがえり、照手姫が忘れられず、姫を探して妻にむかえました。この井戸の跡は、照手姫が籠で水を汲んだと伝えられるところです。大垣市教育委員会」(説明版)

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街道に戻ると右手に「小篠竹(こざさだけ)の塚」と呼ばれる塚がある。

「青墓にむかし照手姫という遊女あり。この墓なりとぞ。

照手姫は東海道藤沢にも出せり。その頃両人ありし候や詳ならず。(木曽路名所図会より)

また、「青墓」は美濃路の歌枕でもある。

- 一夜見し人の情にたちかえる 心に残る青墓の里 -  慈円

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また、ここには傘をかぶったお地蔵さまが祀られており、横に「青墓の芦竹庵(よしたけあん)」の説明版が立っている。さらに源義経が詠んだという歌碑が置かれている。

- 挿しおくも(さしおくも)形見となれや後の世に 源氏栄えば芦竹(よしたけ)となれ -

「青墓の芦竹庵(よしたけあん)

 牛若丸(後の義経)が、京都の鞍馬山で修業を終え金売吉次をお供にし、奥州(今の東北地方)へ落ちのびる時、円願寺(円興寺の末寺)で休み、なくなった父や兄の霊を供養し、源氏が再び栄えるように祈りました。その時江州(今の滋賀県)から杖にしてきたあしの杖を地面につきさし、「さしおくも 形見となれや 後の世に 源氏栄えば、よし竹となれ」の歌を詠み東国へ出発しました。
 その願いが仏様に通じたのか、その後、杖にしてきたよしが、大地から芽をふき根をはりました。そしてみごとな枝に竹の葉が茂りましたが、しかし根や幹はもとのままのよしでした。このめずらしい竹はその後もぐんぐんと成長し続けました。それでこのめずらしい竹を「よし竹」と呼び、この寺をよしたけあんと呼ぶようになりました。(青墓伝説より)」

「圓願時・芦竹庵」の碑の横に置かれている碑には以下のように彫られている。

美濃國青墓里長者屋敷

照手姫の汲給ひし清水

 源義経の挿給ひし芦竹

 照手姫守本尊千手観音

    昭和五年木山書

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「芦竹庵」のすぐ先の橋のたもとに「中山道・青墓宿」と書かれた碑が立っている。

これは、古く平安の時代から東山道の宿場があった所で「保元物語」や「平治物語」にもその記述がある。この碑は東山道時代の名残である。

さらに10程行くと右手に「国分寺道」「薬師如来御寶前」と彫られた道標が立てられている。その先10分程の処に常夜灯があり「中山道一里塚跡」の碑が立っている。百十九番目の「青野の一里塚跡」である。

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一里塚跡をあとにしてしばらく行くと「平尾御坊道」と彫られた碑が置かれている。そこから15分ほど先には「喜久一九稲荷神社」がある。そのすぐ先が中山道美濃路を通って東海道へ抜ける追分で「中山道」「美濃路」と彫られた木の碑の後ろに「是より右東海道大垣みち 左木曽海道たにぐみみち」と彫られた道標が立っており説明版が添えられている。

「「垂井追分道標」垂井宿は中山道東海道を結ぶ美濃路の分岐点にあたり、たいへんにぎわう宿場でした。追分は宿場の東にあり、旅人が道に迷わないように自然石の道標が建てられた。道標は高さ⒈2m、幅40cm、表に『是より 右東海道大垣みち 左木曽海道たに ぐみみち』とあり、裏に『宝永六年己丑十月 願主奥山氏末平』と刻まれている。

この道標は宝永六年(1709)垂井宿の問屋奥山文左衛門が建てたもので、中山道にある道標の中で七番目ほどの古さである。また、ここには高さ2mの享保三年(1718)の角柱の道標もあった。 平成二十一年一月 垂井町教育委員会」(説明版)

追分には、表に「追分庵」と書かれた店があるが今も営業しているのだろうか。

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中山道から美濃路に入り「美濃路の松並木」を30分程歩くと「小学校」の道標が目に入る。そこを左にはいると「東小学校」がありその横が古墳時代の末期の円墳といわれる「綾戸古墳」である。この古墳は、「日本書紀」や「古事記」その他古記に書かれている大和朝廷初期に活躍した「武内宿禰」の墓であると伝えられているようだが真偽のほどは定かではない。

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芭蕉や谷木因(たに・ぼくいん=芭蕉の友人)の句碑も置かれている。

- わるあつく ふくやひと木の 松の音 - 芭蕉

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- 大切の 名をぬすまるゝ ゆきの松 - 谷木因

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さらに、ここは平安時代の大盗賊「熊坂長範・物見の松伝説」の場所でもある。

平安時代に熊坂長範という大盗賊がいて、この古墳の松の木から、東山道鎌倉街道を行き交う獲物の旅人を狙っていたことから、「物見の松」と呼ばれていたのだそうだ。

この熊坂長範は、鞍馬から奥州へ下る金売吉次一行を襲い、同行していた牛若丸(のちの義経)に返り討ちにあったという伝説が残っていて「謡曲「熊坂」と長範物見の松」の説明版が立てられている。

「熊坂長範(張範とも)は平安末期の大盗といわれ美濃国赤坂で、鞍馬から欧州へ下る金売吉次一行を襲い、同行していた牛若丸(のちの義経)にかえって討たれたという伝説的な人物ですが、これを脚色したのが謡曲「熊坂」です。牛若丸が強盗を切ったことは「義経記」などにも書かれていますがこれ等を参考にしてえがかれたのが謡曲でしょう。

その長範がめぼしい旅人を物色するため様子をうかがっていたというのが、この一本松で「物見の松」といわれています。松のある所は中仙道と東海道が左右に走る中間にあり、昔は草ぼうぼうの青野ヶ原だったといわれていますが、今も当時の面影を残しています。付近は古墳で、かって濠があったといいます。」(説明版)

説明版の「中仙道と東海道が左右に走る中間」は「中仙道と東山道」の間違いか?

熊坂長範は続膝栗毛にも登場する。垂井宿を早立ちした弥次喜多は道の辻堂で夜を明かそうとする。その後で逢引の男女がこの辻堂に入ってきて弥次喜多に気付き一目散に逃げていく。

「ここ(辻堂)をすぎて、青のがはらにいたる。ここにくまさかがもの見のまつのあとあり。」

- 熊坂は名のみ残れり松枝を さしてのぼれる月の輪の照る -

この狂歌は、熊坂長範と虎視眈々と獲物を狙う月の輪熊をかけている。

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中山道に戻り、追分を後にして相川に架かる「相川橋」を渡れば「垂井宿」だが橋を渡った所に「相川の人足渡し跡」の説明版が立てられている。

「相川は、昔から暴れ川で、たびたび洪水がありました。そのため、江戸時代初期には人足渡しによる渡川が主でした。川越人足は垂井宿の百姓がつとめ、渡川時の水量によって渡賃が決められていました。一方、姫宮や朝鮮通信使など特別の大通行のときには木橋がかけられました。 垂井町」(説明版)

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第57宿 垂井宿・本陣1、脇本陣1、旅籠27

(日本橋より111里13町8間 約437.3キロ・赤坂宿より1里12町 5.2キロ)

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「垂井宿」は、中山道美濃路の分岐点であり、古くから交通の要衝として栄えた。

宿場は、西町・中町・東町の3町からなり、本陣は中町にあった。問屋場は3か所で、毎月5と9の日に南宮神社鳥居付近で開かれた六斎市は大いに賑わったそうである。文化年間に建てられた油屋宇吉家跡などの旧家が現在もその姿をとどめ、宿場町の趣を感じることができる。

木曽路名所図会」には「駅中東西六十七町許相対して巷をなす。其余散在す。此辺都会の地にして、商人(あきんど)多し。宿中に南宮の大鳥居あり。」と記されている。

宿場に入ると垂井宿案内マップ、垂井宿碑、東の見附説明版が立っている。

「東の見付・垂井宿は中山道の始点、江戸日本橋から約四四〇キロメートル、五八番目の宿になります。

見付は宿場の入口に置かれ、宿の役人はここで大名などの行列を迎えたり、非常時には閉鎖したりしました。

この東の見付から約七六六メートルにわたり垂井宿が広がり、広重が描いたことで知られる西の見付に至ります。垂井町」(東の見附説明版)

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宿場に入りしばらく行くと「紙屋塚」があるということで案内に沿って左の路地を入ってみたが路地の奥でなかなかわかりにくいところにあった。

「古来紙は貴重品であり奈良時代には紙の重要な生産地を特に指定して国に出させた。国においては、戸籍の原簿作成に重要な役割をはたした。ここの紙屋も府中に国府がおかれた当時から存在し、室町頃まで存続したと考えられる。

 又当初は国営の紙すき場と美濃の国一帯からあつめられた紙の検査所の役割をはたしてものと考えられる。一説には美濃紙の発症地とも言われている。垂井町教育委員会」(説明版)

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その先は桝形になっており右手に「旧旅館・亀丸屋」があり、説明版が立っている。

「亀丸屋西村家は、垂井宿の旅籠として、二百年ほど続き、今なお、当時の姿を残して営業している貴重な旅館である。

 安永六年(1777)に建てられた間口五間・奥行六.五間の母屋と離れに上段の間を含む八畳間が三つあり、浪花講、文明講の指定旅館であった。当時は南側に入口があり、二階には鉄砲窓が残る珍しい造りである。 垂井町」(説明版)

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すぐ先が「問屋場跡」向かいが「海渡屋」「本陣跡」が並んでいる。

「本陣は、宿場ごとに置かれた大名や公家など重要な人物の休泊施設です。

 ここは中山道垂井宿の本陣があったところで、寛政十二年(1800)の記録によると、建物の坪数は一七八坪で、玄関や門、上段の間を備える広大なものでした。垂井宿の本陣職をつとめた栗田家は、酒造業も営んでいました。

 本陣の建物は焼失しましたが後に再建され、明治時代には学習義校(現在の垂井小学校)の校舎に利用されました。 垂井町教育委員会」(本陣跡・説明版)

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さらに、美濃国一宮「南宮大社」の大鳥居が左手にある。

「寛永十九年(1642)徳川家光将軍の寄進により南宮大社が再建された中で、明神型鳥居は約四〇〇両の金で、石屋権兵衛が建てた。横幅(内側)454.5cm、頂上までの高さ715cm、柱の周り227cm。一位中山金山彦大神の額は、延暦寺天台座主青蓮院尊純親王の筆蹟である。垂井町」(南宮大社大鳥居・説明版)

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大鳥居をくぐり左手に行くとそこには「垂井の泉」と呼ばれるところがある。

ここは、美濃国の歌枕でもある。

木曽路名所図会に「この清水は特(こと)に清冷にして味ひ甘く、寒暑の増減なし。ゆききの人、渇をしのぐに足れり。浅々(せんせん)たる清泉鏡(せいせんかがみ)に似るという梅聖愈(ばいせいゆ)が詩のこころに近し」と記されている。

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「垂井の泉」を題材にした歌には、以下のようなものがある。

- あさはかに 心なかけそ 玉すたれ たる井の水に袖もぬれなむ - 一条兼良
- 昔見し たる井の水はかわらねど うつれる影ぞ 年をへにける - 藤原隆経朝臣
- 我が袖の しずくにいかがくらべ見む まれにたる井の 水の少なさ - 参議為相卿

- 小夜風のつもる木の葉の下くぐる 水のたる井の うす氷かな - 尊海僧正

- 里人もくみてしらずやけふ爰(ここ)に たる井の水の 深き恵みを -飛鳥井雅世

芭蕉もここで一句詠んでおり句碑が置かれている。

- 白く(ねぎしろく) 洗いあげたる 寒さかな - 松尾芭蕉

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ここには、大ケヤキがあり説明版が添えられている。

「垂井の泉と大ケヤキ・この泉は、県指定の天然記念物である。大ケヤキの根元から湧き出し、「垂井」の地名の起こりとされる。「続日本紀天平十二年(740)十二月条に見える、美濃行幸中の聖武天皇が立ち寄った「曳常泉」もこの場所と考えられており、古くからの由緒がある。近燐の住民たちに親しまれる泉であっただけでなく、歌枕としても知られ、はやく藤原隆経は

   昔見し たる井の水は かはらねど うつれる影ぞ 年をへにける 『詞花集』

と詠んでいる。のちには芭蕉

   「葱白く 洗ひあげたる 寒さかな」

という一句を残している。岐阜県名水五十選(昭和61年)に選ばれている。

 この大ケヤキは、樹齢約八百年で、高さ約20メートル、目通り約8.2メートル。このようなケヤキの巨木は県下では珍しい。この木にちなんで、木が堅くて若葉の美しいケヤキを垂井の「木」とした。」(説明版)

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街道にもどるとすぐ先に旧旅館「長浜屋」がある。ここはお休み処になっている。

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その先には「本龍寺」がある。この寺の山門は西町にあった脇本陣門を玄関と共に明治初期に移したものだそうだが脇本陣自体は、今は残っていない。また、高札場跡は山門左前にあり、人馬賃、キリシタン禁止などの告知板がかけられていた。

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松尾芭蕉はこの寺の住職「玄潭」と親交が深く、住職の招きにより元禄四年にこの寺に冬籠りをした。境内には芭蕉の句碑を初めいくつかお句碑が置かれている。

- 作り木の庭をいさめるしぐれ哉 - 芭蕉

- 木嵐に手をあてて見む一重壁 - 規外(玄潭の俳号)

- いささらば 雪見のころぶ処まで - 翁

句碑群の横には芭蕉の木造が収められている「時雨庵」があるが、これは獅子門美濃派の俳人・国井化月坊が江戸時代末期に建立したもので芭蕉が冬籠りをしていた場所ではない。

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本龍寺の向かいには、「江戸時代の商家・油屋」がある。

「この商家は、文化末年(1817年頃)建てられた間口5.5間、奥行6間の油屋卯吉(宇吉)の家で、当時は多くの人を雇い、油商売を営んでいた。明治以後、小林家が部屋を改造し亀屋と稱して(しょうして)旅人宿を営んだ。

 土蔵造りに格子を入れ、軒下にはぬれ蓆をかける釘をつけ、宿場時代の代表的商家の面影を残す貴重な建物である。 垂井町」(説明版)

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この先は緩やかな上り坂となり、坂を上ると「西の見附跡」がある。

「垂井宿 西の見付と広重の絵

一、西の見付
  垂井宿の西の入口で大名行列を迎えた。非常事態発生の時、閉鎖した。

二、安藤広重の垂井宿の絵

  広重がこの付近から西を見て、雨の降る中山道松並木の中を、大名が行列をつくり、西より垂井宿の西の見付へ入ってくる様子や本陣からの出迎え、茶店の様子も左右対称的によく描いた版画の傑作である。 垂井町」(説明版による)

その横に地蔵堂があり「八尺堂地蔵尊道」の碑が立っている。

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西の見付を後にして前川橋を渡り、5分程行くと「松島稲荷神社」がある。

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先の東海道本線の踏切を渡り、国道21号線の歩道橋で越えて旧道に入り少し行くと道の傍らに「南宮近道八丁」の碑が置かれている。

その先に日守の茶所があり説明板が添えられている。

「日守の茶所・江戸末期に、岩手の美濃獅子門化月坊が、中山道関ヶ原山中の芭蕉ゆかりの地(常盤御前墓所)に秋風庵を建てた。それを明治になって、一里塚の隣りに移し、中山道を通る人々の休み場として、昭和の初めまで盛んに利用された。

 また、大垣新四国八十八ヶ所弘法の札所とし、句詠の場としても利用された貴重な建物である。 垂井町」(説明版)(ここでいう岩手は垂井町岩手)

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茶所の隣には見事な一里塚が残っている。「垂井の一里塚」と呼ばれる百十二番目の一里塚で説明版が添えられている。説明版には「浅野幸長陣後」の説明も併記されている。

「垂井一里塚・徳川家康は、街道整備のため、慶長九年(1604)に主要街道に一里塚の設置を命じた。これにより、江戸日本橋を基点として一里(四キロ弱)ごとに、五間(約九メートル)四方、高さ一丈(約三メートル)、頂に榎を植栽した塚が道を挟んで二基ずつ築かれた。垂井一里塚は、南側の一基だけがほぼ完全に残っている。

 旅人にとっては、人夫や馬を借りる里程を知り、駄賃を定める目安となり、その木陰は格好の休所となった。

 国の史跡に指定された一里塚は、中山道では東京都板橋区志村のそれと二か所だけであり、交通史上の重要な遺跡である。」

「浅野幸長陣所跡 関ヶ原の戦い

 幸長(よしなが)は、五奉行の一人であった浅野長政の嫡男で、甲斐府中十六万石の領主であった。

 関ヶ原の戦いでは、豊臣秀吉恩顧でありながら石田三成と確執があったため東軍に属し、その先鋒を務め、岐阜城を攻略。本戦ではこのあたりに陣を構え、南宮山に拠る毛利秀元ら西軍勢に備えた。戦後、紀伊国和歌山三十七万六千石を与えられた。

平成十八年十一月 垂井町教育委員会」(説明版)

浅野幸長の父・浅野長政織田信長の弓衆で叔父の浅野長勝の婿養子。既に長勝の養女になっていた、ねね(寧々)(秀吉の正室・のちの北政所、高台院)の義弟である。

関ヶ原後、論功行賞により清洲より安芸・備後二ヵ国を有していた豊臣恩顧の大名・福島正則の失脚により紀州藩より入封したのが長政の次男・浅野長晟(あさのながあきら)で江戸・元禄時代のビッグイベント「忠臣蔵」の播州赤穂・浅野はその分家に当たる。

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一里塚を後に後に国道21号を横切って歩いていくと「ここは中山道垂井宿」の立て札と続いて「ここは中山道 関ケ原」の碑が立っている。

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その後、関ケ原宿に入り古戦場、「石田三成の陣跡・笹尾山」へ行ったが、関ケ原については次回とする。

昨日の雨と古戦場、笹尾山などでかなりの時間を使ってしまったので当初の予定を変更し、JR関ヶ原駅から帰宅した。(柏原宿まで行きたかったのだが)

 

番外 (2016年9月2日)

ところで垂井と言えば、秀吉の軍師「竹中半兵衛」ゆかりの地である。

9月2日(金)に垂井を再訪し、竹中半兵衛ゆかりの地を訪ねてみた。

秀吉が三顧の礼を以て迎え入れた竹中半兵衛は、戦国時代を代表する軍師で、中国・三国志の蜀の軍師・諸葛孔明を連想させる。羽柴秀吉旗下では黒田官兵衛とともに「両兵衛」「二兵衛」と称された。外見は「その容貌、婦人の如し」と史料に書かれているほどの美男子であったという。そのためか智略に長けた文の武将というイメージが強いが武術においても非凡な才能を持っていた美丈夫というべきである。

竹中半兵衛は、稲葉山城主斎藤竜興に仕えていた永禄7(1564)年,竜興の酒と女におぼれた政治にたまりかね、わずか十数名で稲葉山城を乗っ取ったことは有名な話である。

その後、城は竜興に返したがそのまま蟄居し,隠棲しているところを秀吉に迎えられる。

竹中半兵衛に関しては、軍功に関する逸話が多く残っている。

中山道・垂井宿の北、菩提山城の南に「五明稲荷神社」がある。

天正六年(一五七八年)岩手城主、竹中半兵衛公が三木城攻略中、摂津有岡城主、荒木村重織田信長に反旗を翻した。半兵衛公の親友である黒田官兵衛が説得にあたったが、かえって石牢に幽閉されてしまった。主君である織田信長は官兵衛も寝返ったかと思いこみ人質にしていた官兵衛の嫡男・松寿丸を殺すように命じた。半兵衛公は官兵衛に二心はないと信じて松寿丸を五明にかくまった。その後、有岡城から官兵衛が助け出されると、松寿丸も許され岩手を去るとき、境内に銀杏の木を植えたと伝えられている。
現在もここには銀杏の巨木があります。言い伝え通り樹齢は420年以上だと思います。」
と説明版に記されている。これは「秀吉」を扱った物語、ドラマには必ず出てくるエピソードである。

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垂井駅前にある観光協会でもらった地図に従い20分程あるくと「菁莪記念館(せいがきねんかん)がある。ここは、竹中半兵衛に関する資料等が展示されている。(入館は無料)入り口には「国井化月坊」の句碑が置かれている。

美濃派一五世 - 月の後 残した藪の梅白し - 春香園(化月坊の号)

(国井化月坊は竹中家の家臣だそうである。)

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菁莪記念館の隣が岩手公民館で入り口に珍しい「さざれ石」が置かれている。

国家・君が代の「千代に八千代にさざれ」のさざれ石である。

公民館のすぐ先には、「竹中氏陣屋跡」がある。

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そこから5分弱あるくと「竹中氏菩提所 禅幢寺」がある。寺の裏には竹中半兵衛の墓がある。」説明版が立っており「豊臣秀吉公の軍師として活躍した竹中半兵衛重治公は、天生七年(一五七九)播州三木の陣で病没。当時の重治公の墓は、天生十五年(一五八七)父の菩提を弔うため長男重門公が三木から移葬したものである。」と書かれている。

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今回は、ここまで。

中山道旅日記 17 加納宿-河渡宿-美江寺宿-赤坂宿

28日目(4月21日(木)) 加納宿河渡宿美江寺宿-赤坂宿(コンフォートホテル岐阜)

今日は、空模様が怪しいのでコンフォートホテルに連泊することとし、空身での街道歩きである。

岐阜と言えば岐阜城が頭にうかぶが日程の関係で、岐阜城観光はまたの機会としよう。

さて、7時30分にホテルを出発し中山道に戻り次の宿場・河渡宿を目指す。

しばらく行くと左手に「秋葉神社」がありその先には「中山道加納宿西番所跡」と彫られた碑が立っている。このあたりが加納宿の出口であろう。加納宿には秋葉神社がいくつかあるが、これは火事が多発した時代、防火の神様として信仰したものと思われる。

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資料によると、このあたりに「鳥屋の一里塚」と呼ばれる一里塚があったようだが、今は、それらしきものは何もない。

西番所跡から20分ばかり行くと鳥居の横に「秋葉神社(西)八幡神社(中央)天満神社(東)」と書かれた立て札があり三社を合祀したお社がある。境内には「夫婦銀杏」があり「神歌碑」が置かれている。

神歌碑には- 千早振る神の御徳の尊とけれ四方の真人も心揃いて -と彫られている。

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先へ進もう。約30分ばかりで「鏡島弘法入り口」の標識があり、そこを右に入れば「乙津寺(おつしんじ)」である。乙津寺は、「鏡島弘法」とも「鏡島の弘法さん」ともいわれ別名「梅寺」として慕われている。縁日は毎月21日、まさに今日で、まだ朝の9時前だというのに多くの野師が店を出し、多数の人々が参詣に訪れ、大いに賑わっている。本尊は、「十一面千手観音」・「不動明王」で「十一面千手観音像」は「行基(ぎょうき)」(奈良時代の僧)の作と言われている。境内には、「日本三躰除厄弘法大師 瑞甲山 乙津寺(梅寺)」の碑や「弘法大師梅の杖」の碑が置かれている。

弘法大師梅の杖」

弘法大師がここにさし立てた梅の錫杖が芽ぶき聖なる力をもつ霊梅と言い伝えられています。

弘法大師御自詠歌 -さしおきし 杖も逆枝て 梅の寺 法もひろまれ 鶯のこえ-

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乙津寺の山門前を右折して観音寺の墓地の端に小紅の渡しの説明板が立っている。案内に沿って行くと渡し場に着く。ここでは、美人の女船頭さんが渡しをやっていて対岸から渡ってきた人たちがいたので向こう岸まで渡してもらうことにした。女船頭さんの話によればこの長良川の舟渡は、県道扱いでいつでも無料で渡してくれるのだそうだ。舟は常時対岸につながれていてこちら側(乙津寺側)からは備え付けの旗を振れば迎えに来てくれる。

「ここには、江戸時代から長良川の対岸とを結ぶ交通路として「小紅の渡し」が設けられています。この小紅の渡しは、古くから鏡島弘法(乙津寺)への経路として、約1km下流にあった中山道の河渡の渡しとともに栄えていました。現在では県道文殊茶屋新田線の一部になっています。近代的な橋の施工技術が発達する以前は各地に渡しがありましたが、現在では、小紅の渡しが岐阜市内で現存する唯一の渡しとなりました。

 なお、小紅の名の由来については、様々な説があり、お紅という名の女性の船頭がいた、川を渡る花嫁が水面に顔を映して紅を直した、紅を採る草が生えていた、等の言い伝えがあります。 平成十五年三月 岐阜市教育委員会」(小紅の渡し説明版)

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ということで、街道に戻ることなく長良川を渡ったので対岸を土手道沿いに歩き中山道に戻ることになる。土手道を行くと長良川に架かる河渡橋の河渡側の道を横切りしばらく行って右へ下る道が中山道である。当時、中山道を行く旅人は、河渡橋近くにあった「河渡の渡し」で長良川を渡っていたが明治期に橋が架けられ渡しは終了した。

中山道に合流するとすぐに「馬頭観音・観音堂」がある。

「観音堂縁起」

 聖徳より天保年間にかけて徳川幕府太平の記録に中山道六十九次之内第五十四河渡宿大概帳に本陣水谷治兵衛問屋久右衛門 八兵衛庄屋水谷徳兵衛とあり本陣一軒旅籠屋大四軒中九軒小十一軒あり酒屋茶屋豆腐屋煙草屋など建ち並び西國諸大名の江戸幕府への参勤交代時には御転馬役歩行役の命令あり東へ加納一里半西へ美江寺一里七丁この荷駄の送迎旅人の往来宿泊に賑わいこの荷駄役の人達が天保十三年に銭百文づゝ寄進し道中と家内安全五穀豊穣祈願し愛染明王を奉祀す地元では馬頭観音さんと仰ぎ猿尾通稱お幕場に六間四面の堂宇を建立毎年九月十七日を祭日と定め祖先は盛大に賛仰護侍し来れりその後明治二十四年十月二十八日午前六時三十七分濃飛大震災に倒壊同二十九年九月大洪水に本堂流失す堤外中段渡船場右側に再建昭和二十年七月九日大空襲に戦禍を免る同二十二年四月新堤築造により堤内に奉遷安置同五十六年本川拡幅に伴ふ遷座となる島川東洋子氏御一家の篤志を受け現聖地三十七、三坪に奉遷新築す町民の総意と協力により工事費金壱千壱百六十五万七千円にて完成 昭和五十九甲子年九月吉日 河渡町内中」(説明碑)

観音堂の前には、木製の常夜灯が立っている。

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観音堂から堤防沿いの道をしばらく歩き右折をすると「河渡宿」の入り口である。

 

第54宿 河渡宿・本陣1、脇本陣0、旅籠24

(日本橋より106里22町8間 約418.7キロ・加納宿より1里18町 5.9キロ)

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江戸時代、江戸と京都を結ぶ重要な街道として中山道が整備され六十九の宿場が設けられた。河渡宿は江戸から百六里二十七町、五十五番目の宿場であった。

加納宿へ一里半、美江寺宿へは一里六町を経て、長良川の渡しを東に臨み、大名行列や旅人が往来宿泊して大いに繁盛した。

ここはかつての一里塚でもあった場所である。塚は道の両側に夫々あり榎が植えられて、塚の大きさは五間四方であった。 平成五年五月 中山道河渡宿文化保存会 記 (碑文)

河渡宿に入るとすぐに「松下神社」の小さな祠の前に正面に「中山道河渡宿」側面に「一里塚跡」と彫られた碑が立っている。この一里塚は、当時「河渡の一里塚」と呼ばれていた106番目の一里塚である。松下神社についての碑も置かれている。

中山道河渡宿は、東に長良川、西南に糸貫川、北に根尾川があり土地も低く、白雨雪舞の折には泥沼となった。特に文化十二年六月には、未曾有の洪水にみまわれ、このままでは宿も絶えるのではと時の代官松下内匠が、宿中を五尺あまり土盛をして、その上に家屋を改築し、文化十五年に工事を完成させた。この功績に村人は、松下神社を建立し、碑を刻んで感謝をした。碑は太平洋戦争の戦災で焼きこわれ、今は一部しか残っていない。

平成五年五月 中山道河渡宿文化保存会 記」(松下神社・碑文)

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先へ進んで、糸貫川に架かる糸貫橋を渡ると左手に「延命地蔵」の祠がある。

「この地蔵は、高さ九十センチメートルの石仏坐像で掘りが美しく優雅な面相である。背面に「石工名古屋門前町大坂屋茂兵衛」、台座には「文化六巳巳歳(1809年)八月二十四日建立濃州本巣郡上本田村」と刻まれている。

 毎年八月二十四日に盛大な地蔵祭が行われる。かつては、尾張・美濃・江州の三国素人相撲が行われたが、現在は子供相撲が行われている。

 江戸時代この中山道を往来した旅人はここで一休みして、このお地蔵様に旅の安全を祈ったのであろう。 瑞穂市教育委員会」(延命地蔵・説明版)

すぐ先には「中山道の町並」の碑が立っている。河渡宿の町並みは、静かなたたずまいを見せている。

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その先には小さな「秋葉神社」がある。防火の神様はどこの宿場も欠かすことはできない。さらにその先に「本田代官所跡」の説明版が立てられている。

「江戸時代の一時期、このあたりに幕府直轄地の代官所があったが、詳細は定かでない。しかし、古文書等から推測すると、寛文十年(1670)、野田三郎左衛門が初代代官に任ぜられ、この地に陣屋を設けたと思われる。本田代官は後に川崎平衛門定孝(十一年間在任)という名代官を迎えるなど、この地の人々に大きくかかわった。明和七年(1770)大垣藩に預けられるまで続いた。今も「代官跡」「御屋敷跡」「牢屋敷跡」という地所が残っている。 瑞穂市教育委員会」(本田代官所跡・説明版)

そのすぐ先には、「高札場跡」の立札が立っている。もはや、このあたりが宿場の出口のようである。河渡宿は、全長わずか三町(330m)の小さな宿場である。

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高札場跡を過ぎ、大きな道路を横切ってしばらく行くと踏切がある。その踏切を越えれば「美江寺宿」である。

 

第55宿 美江寺宿・本陣1、脇本陣0、旅籠11

(日本橋より107里29町8間 約423.4キロ・河渡宿より1里7町 4.7キロ)

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宿場としての美江寺の歴史は、豊臣 秀吉によって問屋場が設けられたことに始まる。寛永14(1637)年に正式に開設された美江寺宿。しかし、開設当時は本陣どころか旅籠や茶屋もなく、道筋の小さな農村にすぎなかった。のちに通行者が増加し、宿場開設から32年後の寛文9(1669)年、加納藩により本陣が置かれると、徐々に旅籠や茶屋が建ち、少しずつ宿場らしくなっていった。美江寺という名は、「美しき長江のごとくあれ」と祈念されて美江寺という寺院が建てられた事に始まる。

さて、美江寺宿に入るとすぐに「左北方谷汲ニ至ル」「右岐阜加納ニ至ル」と彫られた道標が置かれている。さらに5分ほど先に「美江寺一里塚跡」の碑が立っている。

美江寺大門裏交差点を右折してしばらく行くと「瑞光寺」があり芭蕉句碑が置かれている。

- 旅人と我が名呼れん初時雨 芭蕉翁 -

先ほどから降り出した雨がだんだん強くなってきた。街道に戻り先を急ごう。

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すぐ先には「美江寺観世音道」と彫られた道標が置かれている。その先が「美江神社」である。そこには「高札場跡」の立て札や正面に「美江寺宿」右側面に「東 河渡宿」左側面に「西 赤坂宿」の道標が立っている。雨が強いので神社の境内には入らず先を急ぐことにする。

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道は、桝形になっていて桝形を右折すると「美江寺宿本陣跡」の碑が立っている。    中山道は次の桝形で右折だが角に「右・大垣赤坂ニ至ル 左・スノマタに至ル」と彫られた道標があり屋根のある休憩所がある。この雨なので実にありがたい。このままホテルに帰りたいところだが静かな宿場町には人っ子一人見かけない。当然タクシーなどはなく一番近い駅「JR美濃赤坂駅」まで歩くしかなさそうだ。

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休憩所で一休みした後、桝形を右折するともはや宿場はすれである。

雨の中、意を決して再び歩き始めるとすぐに「美江寺千手観音堂」がある。

「千躰寺は、浄土宗西山派に属し、現在、養老郡円満寺の末寺である。千躰寺には高さ12センチメートルから23センチメートルの桧材一木像の阿弥陀如来立像、千体が八段に並べまつられている。

 仏像は、千躰仏と呼ばれ、寺の名の由来となった。千躰仏は、禅僧、自然居士の作で、仏像の姿・形から鎌倉時代後期~南北朝時代のものと伝えられている。自然居士は、和泉の国(大阪府)に生まれ、京都の東福寺大明国師のもとで修行したが、奇行遊行僧のようである。遊行の途中、自然居士は美江寺の地にとどまり千躰仏を造立した。

瑞穂市教育委員会」 (説明版)

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千手観音堂から5分ばかり行くと「神明神社」さらに「揖斐川(いびがわ)(呂久川(ろくがわ))」に架かる鷺橋を渡り45分ほど先には「良縁寺」と「白鳥神社」が並んでいる。

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白鳥神社のすぐ先が「蓮生寺」で2軒隣に馬淵家・長屋門があり、その前に明治天皇御小休所跡の碑が立っている。

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その先には「小簾紅園(おずこうえん)」があり、公園内には「和宮歌碑」「呂久(ろく)の渡し」「呂久渡船場跡」などの説明版がある。皇女和宮一行は、呂久川を御座船で渡ったという。その時和宮は東岸にある馬淵家の紅葉に感動し「落ちて行く身と知りながらもみじ葉の人なつかしくこがれこそすれ」と詠んだのだそうである。和宮の歌はいつも悲しげである。

天正時代織田信長が岐阜に在城し、天下統一のため京に近く交通の要衝である近江の安土城に居所を移した頃から美濃と京都の交通がひんぱんとなり赤坂-呂久-美江寺-河渡-加納の新路線が栄えた。これが江戸時代の初期に整備されて五街道の一つ中山道となり、この呂久の渡しもそれ以来交通の要所となった。

慶長十五年(1610)頃、この呂久の渡しの船頭屋敷は、十三を数え、中でも船年寄馬渕家には、船頭八人、助務七人が置かれていた。その頃の川巾は、平水で九○メートル、中水で一二○メートル、大水では一八○メートルに及んだといわれている。

文久元年(1861)には、皇女和宮親子内親王中山道をご降嫁の折この呂久川を渡られ、その折船中から東岸の色鮮やかに紅葉した楓を眺めこれに感懐を託されて「落ちてゆく身と知りながらもみじ葉の人なつかしくこがれこそすれ」と詠まれた。」(呂久の渡し 呂久渡船場跡の説明分より抜粋)

呂久渡船場は、大正14年に河川付け替え工事が行われ、長い歴史を終えた。

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小簾紅園(おずこうえん)から10分程歩くと「左・木曽路」「右・すのまた宿へ」の道標が立っている。さらに15分ほど先には「中山道三回り半」そこから20分程先に「中山道七回り半」の碑が立てられている。「三回り半」「七回り半」?どういう意味だろう。ただの地名か? 「七回り半」の碑から10分ぐらいの処に祠があり「加納薬師如来 これより北八丁」と彫られた石碑が立っている。薬師如来から20分程行くと「中山道一里塚跡」の碑が立っている。「青木小金橋の一里塚」(百九番目の一里塚)である。

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止み間なく降り続く雨足はだんだん強くなってきた。近くに近鉄養老線の「東赤坂駅」があるようだが「JR美濃赤坂駅」まで頑張ろう。「駅までは後30分ぐらいか。」と思いつつ歩いているとなんと「そば屋」がある。ありがたい!ここで昼食を取ることにしよう。もう午後2時である。

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ゆっくりと食事を取った後、足を速め、赤坂宿の入り口をかすめて「美濃赤坂駅」へ着いたのが午後3時、次の電車は4時7分発大垣行きである。駅舎以外には何もないローカル駅で電車を待つこと約1時間、コンフォートホテルにたどり着いたのは午後4時45分であった。

中山道旅日記16 太田宿-鵜沼宿-加納宿

27日目(4月20日(水)) 太田宿-鵜沼宿加納宿

今日も早立ちである。午前7時5分の電車で「坂祝駅」へ。

坂祝駅から国道に出て土手を上がって「ロマンチック街道」と呼ばれる木曽川沿いの遊歩道を歩く。大きな庚申塔が立っていて木曽川の流れや奇岩が楽しめる。

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「勝山」の交差点で国道に戻りしばらく行くと「坂祝町 東太田宿 西鵜沼宿」の道標がある。そこからが旧道で右手に入り坂を上ると「巌屋坂の碑」が立っている。調べてみると、この碑は文化十三年(1816)に建立されたもので「何地無山秀、何処無水流、借間東西客、有此山水不」とある。「いずれの地にか山の秀でたるなからん、いずれの処にか水の流るるなからん、借間す、東西の客この山水有り無しや」と読むのだそうだ。

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その先には、「巌屋観音堂」がある。この観音は、推古天皇の時に勧請されたものと伝えられていて巌屋の中に観音像が安置されている。

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巌屋観音から階段を下って再び国道に出る。しばらく行くと今は営業していないドライブインやレストランがありその横に「中山道 下りる」の道標があり、そこを下りると小さなトンネルが国道をくぐっている。トンネルを抜けると旧道である。

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旧道は「うとう峠」へと続くが、上り口には「中山道の説明版」が立っている。

中山道は、太田宿から現在の国道21号線の坂祝・各務原(かがみがはら)境までは木曽川に沿ってありました。しかし、この先鵜沼までが大変急斜面の危険な場所であったため、ここから山合いに入りこみ、うとう峠を越えて鵜沼宿につながっていました。」(案内板)

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「うとう坂」とよばれる峠道を上って行くと休憩所があり一休みすることができる。休憩所の先は石畳になっていて10分程行くと「うとう峠の一里塚」がある。江戸からちょうど百番目の一里塚である。(日本橋を出たから約400キロを歩いたことになる。)

「うとう峠一里塚と中仙道・江戸時代につくられた「鵜沼村絵図」(寛政5年6月)・「中仙道分間延絵図」(寛政12年7月~文化3年)によると鵜沼宿の東側にある一里塚より、東の坂を「乙坂」「長坂」とかうとう坂」と呼んでいました。「鵜沼の東坂」とか「うとう坂」という呼び方は昭和になってからです。

 「うとう坂」にある一里塚、江戸(東京)から、一里ごとにつけられた目印で、旅人にとっては距離のめやす、馬や駕篭の乗り賃の支払いのめやすとなり、日ざしの強い日には木陰の休み場所ともなっていました。道の両側に直径9mほどの塚をつくり、榎か松が植えられていました。ここでは片側だけ残り巾10m、高さ2.1mあります。塚の上には松が植えられていました。

 江戸時代に、各務原(かがみがはら)を治めていた旗本坪内氏の「前渡坪内氏御用部屋記録」を見ると、天保3年の文書に、この坂を通って10日ほどかけて江戸屋敷へ到着する計画が残されています。それによると1日の歩く距離は9里(36km)から10里(40km)が多く、関東平野に入ると14里(56km)という場合もあります。1日の旅の距離数から、当時の交通事情が推定できます。」(説明版)

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一里塚からは下り坂で、すぐのところに「日本ラインうぬまの森」の大きな碑がありそこから10分ほど行くと「赤坂の石塔群」がおかれていて、さらに10分程さきには「赤坂神社」がある。

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赤坂神社からさらに下っていくと小さな「地蔵堂」があり「東の見附跡と地蔵堂」の説明版が立っている。

「東の見附跡・江戸時代、宿場の入り口には宿内の防御と街道との境界を示すため見附(みつけ)がありました。鵜沼宿の東の見附はこの案内の少し西にありましたが、現在その遺構を見ることはできません。東からうとう峠を下ってきた中山道は、この見附で鋭角に曲がって鵜沼宿に入り、西へ七町半八間(約八百三十九米)の町並みを経て西の見附に至ります。

地蔵堂・地蔵堂には「宝暦十三年(一七六三)・女人中に講中」と刻まれているほか、左右には「左ハ江戸、せんこうしみち(善光寺道)」、「右ハさいしょみち(在所道)とあり道しるべを兼ねたようです。江戸時代から地元の皆さんにより大切にお守りされています。」(説明版)

地蔵堂から5分程行くと「ここは鵜沼宿 これよりうとう峠 左」の道標がある。

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第52宿 鵜沼宿・本陣1、脇本陣1、旅籠25

(日本橋より100里30町8間 約396.00キロ・太田宿より2里 7.85キロ)

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鵜沼宿は江戸の日本橋から数えて五十二番目の宿場である。宿の東側の出入り口にあたる赤坂見附には、道標を兼ねた「地蔵堂」がある。 宿内の全長は東西約840m。道路は幅員5mほどの舗装がされているものの、江戸時代にかかれた家並図に見られる地割はほぼ残っており、往時の面影を偲ぶことができる。

 また、ところどころ歩道に石張り舗装がしてあったり、大安寺川に架かる「大安寺大橋」には常夜灯や木製の欄干が整備してあって、当時の風情も楽しめる。木曽川の南には、国宝犬山城を望むことができる。 (パンフレットより)

鵜沼宿の入り口には、「高札場跡」が復元されている。

「高札場由緒・高札場とは、法令や禁令を書いた高札を掲げた場所で、多くの人目につきやすい場所に立てられていました。鵜沼宿では、東の見附と天王社(現、赤坂神社)の間に南向きにありました。

この高札場は「中山道宿村大概帳」の記録に基づいて、ほぼ当時のままに復元しました。

また、復元の際に読みやすい楷書に書直しました。」(説明版)

宿村大概帳とは幕府の道中奉行が、五街道とその脇街道を調査したときの記録である。

さらに、「尾州領傍示石」が交差点をはさんで2本立てられている。

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尾州領傍示石 由緒・ 中山道鵜沼宿尾張藩領)から各務村(幕府領)を経て、再び鵜沼村に入りました。尾張藩は村境を明示するため「是より東尾州領」「是より西尾州領」の2本の傍示石を建てました。

 この傍示石は明治時代以降に街道から移され、その後、鵜沼中学校に建てられましたが、中山道鵜沼宿再生整備に当たり市が中山道にもどしました。

 各務原(かがみがはら)市の大切な歴史遺産の一つになっています。」(説明版)

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また、「鵜沼宿問屋場跡」の説明版も壁に掛けられている。

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交差点を渡ると大安寺川に架かる「大安寺橋」を渡ることになる。橋の手前左側には、常夜灯と「太田町二里八丁」とほられた道標が置かれていて、橋を渡った右にも常夜燈と足元に「岐阜市ヘ四里十丁」の道標が立っている。

 

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このあたりが宿場の中心地であったのだろう。雰囲気全体が昔風に整えられている。

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橋を渡って右手にあるのが「中山道鵜沼宿町屋館」(旧武藤家住宅)で各務原(かがみがはら)市の重要文化財に指定されている堂々たる古民家である。

中山道鵜沼宿町屋館由来・当館は、江戸時代に「絹屋」という屋号で旅籠を、明冶の初めから昭和三十年代まで郵便局を営んでいた旧武藤家の住宅です。平成十八年、各務原市が建物の寄付を受けて公開しています。屋敷は中庭を囲むように、主屋、東側の付属屋、西側の離れの三棟からなります。主屋は、明冶二十四年の濃尾震災で倒壊し、その後、再築されたもので、江戸時代の旅籠の形式を残しています。付属屋は、大正から昭和初期に建築されたものと考えられ、養蚕小屋として利用されていました。離れは、建築部材から昭和初期に建築されたものと見られ、太田宿から移築されたものと伝えられています。

三棟とも、登録有形文化財に登録され、景観重要建造物に指定されています。(説明版)

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町屋館の裏庭に、「ふぐ汁も 喰えば喰せよ(くわせよ) 菊の酒」の芭蕉句碑があり
町屋館の向かいには、鉄板で作られた「旧大垣城鉄門」が立っている。

「由来・当門は、大垣城本丸の表口に建てられていた鉄門で、明冶九年に払い下げられた後、安積家(各務原市蘇原野口町)の自邸の門として維持されてきたことから、「安積門」と呼ばれています。各務原市へ寄付され、平成二十一年に当地へ移築されました。

規模は、間口約七.五メートル、高さ四.五メートルあり、構造形式から高麗門と称されます。高麗門とは、左右二本の本柱上部に小振りな切妻造の屋根を架け、さらにその後方に控柱を立て、本柱から控柱に渡して小屋根を架けた門のことで、主に城門として用いられてきました。当門のもう一つの特徴は、正面の木部を全て鉄板で覆い、軒下を白漆喰で塗籠めている点で、これらは火矢による攻撃から門を守るためと考えられます。

当門と同様に高麗門に鉄板を張った遺構は、名古屋城表二之門、大坂城大手門(二之門)の二例が現存しています。」(説明版)

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鉄門の先には「鵜沼宿本陣跡」の説明版があり以下のように書かれている。

鵜沼宿の本陣は、江戸時代を通じて桜井家が務めていました。江戸時代初期、この地に鵜沼宿が整備されて以来桜井家は本陣・問屋・庄屋の三役を兼ねていたと伝えられています。寛延二年(一七四九)十代将軍家治に輿入れした五十宮がここに宿泊したのをはじめ、多くの姫君が華やかな入輿の行列をともなって宿泊・休憩したりしました。

分化六年(一八〇九)伊能忠敬ら測量方も宿泊しています。

中山道宿村大概帳」天保十四年(一八四三)に、「本陣凡そ建坪百七拾四余り、門構え・玄関付き」と記されています。御上段・二之間・三之間・広間・御膳間・御料理間・勝手上段・納戸・台所などが配置され、御上段の北には築山や泉水が設けられていたといわれています。」

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そのすぐ先が「脇本陣・坂井家」である。脇本陣の処に「芭蕉句碑」三つ並んでいて、説明版が添えられている。

左から「汲溜の水泡たつや蝉の声」「おくられつ送りつ果ハ木曾の秋」「ふく志るも喰へは喰せよきく之酒(ふぐ汁もくらえばくわせよ菊の酒)」

鵜沼宿芭蕉・貞享二年(1685)、「野ざらし紀行」途中の松尾芭蕉は、鵜沼を訪れ脇本陣坂井家に滞在したと伝えられています。

その後、貞享五年(1688)七月頃、芭蕉は再び脇本陣坂井家を訪れ、

 汲溜の水泡たつや蝉の声

の句を読み、さらに同年八月頃、再度訪れた脇本陣坂井家で菊花酒のもてなしを受けた折には、主人の求めに応じて、楠の化石に即興の句を彫ったと伝えられています。

 ふく志るも喰へは喰せよきく之酒

 その後、木曽路を通って信濃へ更科紀行に旅立つ芭蕉は、美濃を離れる際に、

 おくられつ送りつ果ハ木曾の秋

と詠み、美濃の俳人たちと別れを惜しんだといわれます。」(説明版)

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鵜沼宿脇本陣は、現在無料で公開されている。

管理人の方によると、脇本陣は宿駅制度が廃止された後もその姿をとどめていたが明治24年(1891)の濃尾震災で倒壊した。平成になって江戸時代末期の鵜沼宿各家の間取りを描いた「鵜沼宿家並絵図」をもとに完全な形で復元されたとのことである。

「由緒・鵜沼宿脇本陣は、坂井家が代々これを勤め、安政年間に至って坂井家に代わり野口家が勤めました。坂井家の由緒は古く、貞享ニ~五年(1685~88)に松尾芭蕉が当家に休泊し句を詠んだと伝えられています。

史料によれば、江戸時代中後期の「鵜沼宿万代記」に脇本陣坂井半之右衛門と記され、「中山道分間延絵図」には街道に南面する切妻屋根の主屋と表門が描かれています。また「宿村大概帳」天保十四年(1843)には、脇本陣坂井家、門構玄関付き建坪七十五坪と記され、その間取りが「鵜沼宿家並絵図」元治元年(1864)に詳細に描かれています。

なお、当施設は「鵜沼宿家並絵図」に描かれた幕末期の脇本陣坂井家を復元しています。」(説明版)

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脇本陣のすぐ先に黒塗りの立派な建物「菊川酒造」があり、さらにその先には、「国登録有形文化財」に指定されている古民家が4軒(坂井家、旅籠であった茗荷屋梅田家梅田家、安田家)が軒を連ねている。

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古民家の先には、「鵜沼宿 東・坂祝町 西・加納宿」の道標があり、さらに先の交差点を渡った左側には「鵜沼宿」の碑が置かれている。

その先、5分ばかり行くと「西の見附跡」の立て札が立てられている。立札には以下のように書かれている。

「西の見附跡・見附とは、宿場の入り口と出口に備えた簡易な防御施設のことです。台状に土手を築いたり、周りを石垣で囲んだり、盛り土をして木の柵を立てたりしました。鵜沼宿には、東の見附と西の見附がありました。鵜沼宿の見附は、江戸時代の「鵜沼宿家並絵図」(中島家文書)に描かれています。家並図と現在の地図を照らし合わせると、西の見附は概ねこの看板の辺りと考えられます。具体的な構造は分かっていません。江戸時代の参勤交代では、西から鵜沼宿へ入るときは、途中、人家の少ない道を通ってきますので列が乱れており、このすぐ西にある空安寺あたりで隊列を立て直し、「したに―、したに―」と大声を上げて、恰好を付けながら宿内に入っていったと思われます。鵜沼宿の人々は、おそらく下座をして迎えたのでしょう。」

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見附跡を後にして5分程行くと、「空安寺」の手前に「衣裳塚古墳」が見えてくる。

「衣裳塚古墳は、各務原台地の北東辺部に位置する県下最大の円墳です。墳丘の大きさは直径が52m、高さが7mあり、周囲は開墾のためやや削平を受けていますが、北側はよく原形をとどめています。また、墳丘表面には葺石や埴輪は認められません。

衣裳塚古墳は、円墳としては県下最大規模の古墳ですが、ここより南西約300mのところに、県下第2位の規模を有する前方後円墳の坊の塚古墳が所在することや、本古墳の墳丘西側がやや突出する形態を示していることから、本古墳も本来前方後円墳であったものが、後世に前方部が削平されて、後円部が円墳状に残された可能性もあります 。

衣裳塚古墳の築造年代については、本古墳の埋葬施設や年代が推定できる出土遺物が知られていないため、正確な判定は出来ませんが、おおよそ古墳時代の前期から中期にかけて(4世紀末から5世紀前半)の時期に坊の塚古墳に先行して築かれたと推定されます。(各務原市教育委員会説明版)

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衣裳塚古墳から10分程歩くと「島津神社」がありその境内には、「皆楽座」があり説明版によると「客席を持たない舞台のみの農村舞台ながら、廻り舞台、奈落、セリ、太夫座などを備える。公演時は舞台前面にむしろを敷いて見物席とし、花道は仮設で設けられた。」のだそうだ。

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街道は程なく国道21号線に合流し、しばらく行くと車道は上り坂の陸橋となるが、側道を中程まで行くと「播流上人碑」がある。このあたりに当時「各務原(かがみがはら)一里塚」(江戸から101番目の一里塚)があったと思われるが今は何も残っていない。説明版、碑の類もないので定かではない。

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この先は、これということもなく国道21号を淡々とあるき「蘇原三柿野町(そはらみかきのちょう)」の交差点で再び旧道に入ってしばらく行くと「六軒一里塚跡」の碑が立っている。百二番目の一里塚である。このあたりは「六軒茶屋」と呼ばれた立場で当時はかなり賑わっていたのだろう。その名の由来は茶屋が六軒並んでいたからだそうだ。その先には、「神明神社」がある。

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さらに旧道を進み「那加橋」を渡り、「新加納町」の五叉路を右手に入るとすぐに「日吉神社」があり、その先が「新加納の立場」である。鵜沼宿から次の加納宿までは四里十町(約16.8キロ)もあり中山道で二番目に長い距離であった。従って中間地点に「間の宿(あいのじゅく)」を設ける必要があった。「新加納の立場」は、かなり賑わっていたようでやがて「間の宿」に発展していったのであろう。

新加納の立場跡から桝形に入る両側に一里塚があったようで「一里塚跡」碑が対で置かれている。百三番目の「新加納の一里塚」である。

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桝形を真っ直ぐ進んだ突き当たりは御典医の今尾家」である。

中山道は、ここを右へ行くのだが今尾家の塀に沿って左へ進むと突き当たりが岐阜県指定文化財の「東陽英朝禅師塔所」の「稲荷堂」がある。

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今尾家の前を右折して旧道に戻り、すぐ左折するとそこから先は殺風景な通りを30分ばかり行くと火祭りで有名な「手力雄神社(たじからおじんじゃ)」の入り口の鳥居がある。鳥居をくぐれば神社だが先を急ぐことにする。すぐそばに「左・木曽路」の道標も置かれている。すぐ先の出会いの道を右折すると浄慶寺がある。浄慶寺の横には「切通陣屋跡」の碑があり「中山道」「右キソミち・左京ミち」の道標、中山道の碑と「切通の由来」の説明版が立っている。ベンチも置かれていたのでここで一休みである。

「切通の由来・切通は境川北岸に位置し地名の由来は岩戸南方一帯の滞溜水を境川に落としていたことによると言う。文治年間(1185)渋谷金王丸が長森庄の地頭に任ぜられこの地に長森城を築いた。延元二年(1337)美濃国守護二代土岐頼遠土岐郡大富より長森に居を移し長森城を改修し美濃国を治め天下にその名を知らしめた。江戸時代に入るやこの地は加納藩領となり以後幕府領・大垣藩預り地と変わり享保三年(1802)盤城平藩の所領となるに及びこの地に陣屋が設けられ幕末までこの地を治めた。

切通は古来東西交通の要路にあたり江戸初期中山道が開通されるや手力雄神社前から浄慶寺付近までは立場(休憩所)として茶屋・菓子屋・履物屋等が設けられ旅人の通行で賑わいを見せ各地の文物が伝来し文化の向上に大きく寄与した。」(説明版)

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さらに10分ほど進むと伊豆神社の手前の祠があり馬頭観音が祀られている。そのすぐ横には「右 江戸ミチ、左 京ミチ」道標が立っている。

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伊豆神社から20分ばかり歩くと「細畑の一里塚」と呼ばれる百四番目の一里塚がある。

中山道は江戸時代の五街道の一つで、江戸と京都を結んでいた。一里塚は一里(約三.九キロメートル)ごとに設置され、旅人に安らぎを与えると共にみちのりの目安となるように置かれたものである。街道の両側に五間(約九.一メートル)四方に土を盛って築かれ、多くはその上にエノキが植えられた。

細畑の一里塚は慶長九年(1604)、中山道の他の一里塚とともにつくられた。東方の鵜沼宿から三里十四町(約一三.三キロメートル)西方の加納宿まで三〇町(約三.三キロメートル)の位置にあり、中山道の風情を今に伝えている」(説明版)

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一里塚のすぐ先がY字路に延命地蔵堂があり、左脇には道標も立っている。ここは、伊勢道との追分で道標の表面には「伊勢 名古屋ちかみち笠松兀一里」、右側面に「西 京道加納宿兀八丁」、左側面に「木曽路 上有知道」裏面に「明治九年一月建之」と彫られている。中山道は右の道を進むことになる。

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追分から20分程歩くと中山道は、東海道線の高架をくぐることになる。さらに名鉄「茶所(ちゃじょ)駅」横の踏切を渡ったすぐ左側に「中山道加納宿」の碑が立っていて、すぐその横に「鏡岩の碑」がある。鏡岩とは、江戸時代の相撲取りの四股名だそうで岐阜市教育委員会の説明版が添えられている。

「ぶたれ坊と茶所・この、ぶたれ坊と茶所は、江戸時代の相撲力士「鏡岩浜之介」にちなむものです。伝えによると、二代目鏡岩は父の職業を次いで力士になりましたが、土俵の外での行いが悪かったことを改心して寺院を建て、ぶたれる為に等身大の自分の木像を置いて罪滅ぼしをしました。また、茶店を設けて旅人に茶をふるまったそうです。

 ここの少し北にある東西の通りは、昔の中山道であり、加納宿として栄えていました。江戸時代には多くの人たちが訪れたことでしょう。現在では、歴史的な町並と地名等に当時の様子を伝えていますが、ここにあった妙寿寺は廃寺となり、「ぶたれ坊」の像は岐阜駅南口に近い加納伏見町の妙泉寺に移されています。」(説明版)

鏡石の横には正面に「東海道 伊勢道」右側面に「江戸 木曽路」と彫られた道標が立てられている。

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第53宿 加納宿・本陣1、脇本陣2、旅籠35

(日本橋より105里4町8間 約412.8キロ・鵜沼宿より4里10町 16.8キロ)

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中山道は山谷沿いの険しい道が多く、参勤交代の大名行列東海道に集中。交通量が少なかったことから婚礼行列によく使われ、通称、姫街道ともいわれた。また、伊勢参詣ルートなど庶民の道としても利用された。江戸から京都までを結ぶ544キロの行程には宿場町が全部で69宿。岐阜市には加納宿河渡宿がありました。加納宿は美濃にあった16宿のうち最大の宿場町。城下町にある唯一の宿場として、また商工業が盛んだったことから遠く江戸や大阪まで人や荷役の往来が激しかったといわれている。(岐阜市観光情報より)

さて、鏡岩の先は桝形になっていて「だんご屋」さんを直角に右折する。加納大橋を渡り「右 岐阜 谷汲路、左 西京路」と彫られた道標がある桝形を今度は左折である。

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秋葉神社を過ぎ、次の桝形の手前には、「東番所跡碑」が立っている。このあたりが宿場の入り口だろうか。

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「東番所跡碑」の先の桝形を左折し突き当りの「善福寺」の桝形を右折すると左手に「伝福寺」があり、その先に「岐阜問屋場跡」の説明版が立っている。

「岐阜問屋場跡・加納新町の熊田家は、土岐、斉藤時代からこのあたりの有力者で、信長が岐阜にあったころには加納の問屋役を務めていました。江戸時代に入ると、全国から岐阜へ出入りする商人や農民の荷物運搬を引き受ける荷物問屋に力を注ぐようになり、「岐阜問屋」と呼ばれるようになりました。江戸時代、岐阜問屋は岐阜の名産品であり、尾張藩が将軍に献上する「鮎鮨(あゆずし)」の継ぎ立をしており、御用提燈(ごようちょうちん)を許されていました。献上鮎鮨は岐阜町の御鮨所(おすしどころ)を出発し、岐阜問屋を経由し、当時、鮨街道と呼ばれた現在の加納八幡町から名古屋へ向かう道を通り、笠松問屋まで届けられました。岐阜問屋には特権が与えられていましたが、それは献上鮎鮨が手厚く保護されていたことによるものでした。」(岐阜市教育委員会説明版)

先ほど、「御鮨街道」の道標を見かけたが、御鮨街道とは尾張藩が将軍家へ献上する岐阜名産品の「鮎鮨」を、笠松問屋まで届けた街道のことであった。

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さて、先へ進んで中山道は次の桝形で左折だがそこには「左 中山道」(正面)「左 西京道」(左側面)「右 ぎふ道」(右側面)と彫られた道標に説明版が添えられている。

中山道の道標・この道標は、江戸中期(1750年頃)新町と南広江の交わる四ッ辻東南隅にたてられ中山道を往来する旅人の道案内の役目を果たしてきました。最初は「左中山道」「右ぎふ道」の道標でしたが、明治初年に「左西京路」「右東京道」の標識が追加されました。この四ッ辻は中山道と岐阜道の分岐点で、かつては交通の要衝でありました。

昭和五十九年三月 中山道加納宿文化保存会」(説明版)

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桝形を左折し、清水川に架かる橋を渡った所に「加納宿高札場跡」の立て札が立っている。

「ここは江戸時代、加納藩の高札場があったところです。高札とは藩が領民に法度(法律)や触(お知らせ)を知らせるために人通りの多い通りや辻や市場などに立てた板で作った立札のことです。

 加納宿では、加納城大手門前の清水川沿いのこの場所が高札場で宿御高札場と呼ばれていました。この高札場は加納藩の中でも最も大きく、石積みの上に高さ約三・五メートル、幅六・五メートル、横ニ・二メートルもあるものでした。正徳元年(1711)に「親子兄弟の札」が掲げられて以後、明治時代になるまで、何枚も高札が掲げられました。平成十ニ年三月 岐阜市教育委員会」(説明版)

すぐその先には「中山道加納宿 右 河渡宿」の道標と共に「加納宿大手門跡」の碑が立っている。

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桝形を左折し、清水川に架かる橋を渡った所に「加納宿高札場跡」の立て札が立っている。

「ここは江戸時代、加納藩の高札場があったところです。高札とは藩が領民に法度(法律)や触(お知らせ)を知らせるために人通りの多い通りや辻や市場などに立てた板で作った立札のことです。

 加納宿では、加納城大手門前の清水川沿いのこの場所が高札場で宿御高札場と呼ばれていました。この高札場は加納藩の中でも最も大きく、石積みの上に高さ約三・五メートル、幅六・五メートル、横ニ・二メートルもあるものでした。正徳元年(1711)に「親子兄弟の札」が掲げられて以後、明治時代になるまで、何枚も高札が掲げられました。

平成十ニ年三月 岐阜市教育委員会」(説明版)

すぐその先には「中山道加納宿 右 河渡宿」の道標と共に「加納宿大手門跡」の碑が立っている。

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そのすぐ先に「当分本陣跡」の碑が立っている。当分本陣とはどういうことか調べてみると文久三年(1863)から当分の間補助的に置かれた本陣のことだそうだ。さらにほとんど並ぶように「本陣跡」の碑が立っている。碑には「中山道加納宿本陣跡」側面に「皇女和宮御仮泊所跡」と彫られている。また、和宮の歌碑が置かれている。

-遠ざかる 都としれば旅衣 一夜の宿も 立うかりかり- (和宮

加納宿脇本陣跡もすぐそばにある。

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脇本陣跡の先には「加納天満宮」が見えてくる。この天満宮は古くから氏神様として信仰されていたのだそうだ。

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ところで十返舎一九の「続膝栗毛」で弥次喜多は赤坂から加納へ向かう途中、加納宿の手前で身なりの悪い浪人と道ずれになり、宿も相宿になる。(弥次喜多は、京から江戸へ下っている。)浪人者を盗人と勘違いした喜多八は、問屋役人の宿改めに盗人の巻き添えになるのはごめんと寒さをこらえ裸で縁の下に隠れるが、実はその浪人は宿場の人々に慕われている剣術の先生であった。

-定九郎(さだくろう)と思いし人はさもなくて 縁のしたやにわれは九太夫-

忠臣蔵の悪役の定九郎と思った人はそうではなくて縁の下に隠れていた自分の  ほうが悪者の斧九太夫であった。)

次の交差点を右折すれば岐阜駅。今日の泊りは岐阜駅前のコンフォートホテル岐阜。ホテル内にあるコインランドリーがありがたい。

中山道旅日記 15 細久手宿-御嵩宿-伏見宿-太田宿

第48宿 細久手宿・本陣1、脇本陣1、旅籠24

(日本橋より92里30町8間 約364.59キロ・大湫宿より1里18町 5.89キロ)

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馬頭観音から15分程行くと、「高札場跡」の碑が建てられており右手に「庚申堂」がある。境内には中に役行者像が祀られている石窟や石仏、石塔などが置かれている。このあたりが宿場町の入り口のようである。

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江戸時代初期(慶長年間)大井宿から御嵩宿の間の八里には、宿場はなく難渋していた旅人のために大湫の宿が設けられたが、それでも大湫宿御嵩宿の間は四里半(17.7Km)の坂道であった。そのため美濃国の奉行・大久保長安に細久手に新しい宿を造るように命じられた国枝与左衛門は、既存の旅籠に加え自力で七軒屋と呼ぶ仮宿を設けた。それが山間の小さな宿場町・細久手宿である。

公民館の先にある瑞浪市の説明版には「標高約四百二十メートルにあって、江戸から四十八番目(距離約九十二里)、京から二十二番目(距離約四十二里)に位置する宿場です。中山道の開設当初、東の大湫宿から西の御嵩宿までの道程が四里半(約十七・七キロメートル)もあったことから、尾張藩によって設置されました。慶長十一年(1606)の開宿当初は、七軒屋と呼ばれる小さな仮宿で、その後放火により全焼し、慶長十五年(1610)に正規の宿場として再整備されています。宿場の規模については、天保十四年(1843)の記録に「町並み三町四十五間(約四百十メートル)、家数六十五軒、旅籠屋二十四軒、総人数二百五十六人」の記録があります。 細久手宿は、仮宿の全焼のほか、寛政十四年(1802)、文化十年(1813)、安政五年(1858)の三度にわたって大火に見舞われ、大きな被害を受けました。現在の町並みは安政の大火以降に形成されたものです。」とある。

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公民館の向かいが「大黒屋」、本日の宿である。

大黒屋は尾張藩の定本陣で、脇本陣が狭いことに加え、他の大名との合宿を嫌った尾張藩が特に問屋酒井吉右衛門家を専用の本陣にあてたものだそうだ。

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26日目(4月19日(火)) 細久手宿御嵩宿-伏見宿-太田宿(ビジネス旅館いろは)

一夜明けて4月19日、今日も太田宿まで6里(約23.5キロ)の行程である。

午前7時30分に大黒屋さんに別れを告げて先へ行くと右手に「本陣跡」(大山家(屋号・日吉屋))の碑が立っている。その向かい「仲町」のバス停あたりが、脇本陣があった所か。なんの表記もなく草がぼうぼうと生えているだけなので定かではない。

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さらに先へ行くと「細久手口」のバス停があり、このあたりがもはや宿場の出口である。

旧道は広い道路とんなり、先へ進むと右手に「細久手の穴観音」と呼ばれる馬頭観音が祀られている。この馬頭観音は、観音様の縁日にお参りすると九万九千日のご利益があると信じられており「九万九千日観音」とも呼ばれている。

穴観音から10分程先に行くと「旧中仙道くじ場跡」の碑がある。くじ場とは当時の日雇い人足などが休んでいた小屋で、人足が運ぶ荷物の順番を「くじ」で決めていたことから付たれた名だそうである。

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この先は下り坂になり、坂を下り「平岩橋」を越えると上り坂になり、やがて「左・中山道西の坂」と彫られた碑がある。

その対面には「瑞浪市内旧中仙の影」の碑が置かれている。内容は、以下の通りである。

瑞浪市内仲山道の影」

之より先千三百米一里塚迠瑞浪市日吉町平岩地内旧幕当時に開いた仲山道は昔其侭の姿を今尚残して居り此間に次の様な地趾が残って居る一里塚より先は可児町に通じて居る

一.道が東西南北に向て居る珍しい所

一.石室の中に観音像三体祭る

一.旧鎌倉街道へ行く分岐点日吉辻

一.切られヶ洞

一.一里塚京へ四十一里、江戸へ九十三里

    路上及び一里塚附近よりの眺め

一、東に笠置山恵那山駒ケ岳

一、西に、伊吹山鈴鹿連峰

一、北に、木曽の御嶽山加賀の白山

一、南に、遠く濃尾平野尾張富士又快晴の日には尾張熱田の海を見る事ができる

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道標にしたがって左の急な上り坂に入ると、道は昔のままで3分程上って行くと右手に「秋葉三尊」が祀られていて「秋葉坂の三尊石窟」と題した説明版が立っている。

細久手宿御嵩宿の間は三里(約11.8km)。細久手宿から中山道を西へ、平岩の辻から西の坂道を登ると三室に分かれた石窟があります。

 右の石室に祀られているのは、明和五年(1768)の三面六臂(頭が三つで腕が六本)の馬頭観音立像。中央には一面六臂の観音坐像が、左の石室には風化の進んだ石仏が安置され、石窟の右端に残る石灯籠の棹には、天保十一年(1840)の銘があります。

 なお、ここは、石窟のすぐ上に秋葉様が祀られていることから、秋葉坂とも呼ばれています。 瑞浪市

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すぐその先には、「鴨之巣道の馬頭文字碑」があり5分程行った辻には「鴨之巣辻の道祖神碑」、「右・旧鎌倉街道迠約一里余」の碑が立っている。

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その先、下り坂を下っていくと「切られ洞」の碑が置かれている。これは、「昔、牛を追ってきた村人が盗賊に切られた処」なのだそうだ。

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ここからは、少しの間上り坂ですぐに下り坂になるが坂の途中に「鴨之巣の一里塚」がある。江戸から九十三番目の一里塚である。

「江戸へ93里、京へ41里という道標の中山道鴨ノ巣一里塚です。一里塚は道の両側に一対づつ築かれましたが、ここの場合地形上北側の塚が16m東方にずらされているのが特徴です。ここからは鈴鹿、伊吹や北アルプスの山々が一望できます。」(説明版)

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一里塚を過ぎると旧道は昔のままの峠道が続く。25分程歩くと「山内嘉助屋敷跡」の碑がある。山内嘉助は、江戸時代に酒屋を営んでいた豪商でここはその屋敷跡だそうだ。そのすぐ先に「鴨之巣一里塚」と「御殿場」の道標が置かれている。さらに、「百番供養塔」と刻まれた供養塔を過ぎ、御殿場へ向かって竹林を歩くことになる。

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道は「諸ノ木坂」と呼ばれていた急な上り坂で、峠は「物見峠」と言われていた。

ここは、皇女和宮が休憩を取ったことから「御殿場」と呼ばれるようになったのだそうだ。「馬の水飲み場」と呼ばれている水飲み場、右手には見晴らし台があり「笠置山」がきれいに見える。説明版も添えられている。

「御殿場・文久元年(1861)、皇女和宮の行列が中山道を下向し、十四代将軍徳川家茂公のところへ輿入れしました。その際、一行が休憩する御殿が造られたことから、ここを御殿場と呼ぶようになったといいます。

 和宮の行列は姫宮としては中山道最大の通行といわれ、四千~五千人にも及ぶ大行列でした。近隣では十月二十八日の早朝に前日宿泊した太田宿(現美濃加茂市)を出発し、昼には御嵩宿にて休憩、そしてここ御殿場でも再び休息をとったのち、大湫宿(現瑞浪市)で宿泊しました。中山道が別名「姫街道」と呼ばれるのは、こうした姫宮の行列が多く通行したためです。瑞浪市」(説明版)

「馬の水飲み場・ここは物見峠といい、道路の両側に計五軒の茶屋があり、十三峠前後のこの地であれば往来の馬もさぞかしのどが渇いたであろう。

存分のみなさいと北側に三カ所の水飲み場が設けてあった。」(説明版)

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御殿場跡を過ぎると旧道は、下り坂に変わり15分程下ると「唄清水」と呼ばれ、清水が湧き出ている場所に出る。「馬子唄の響きに浪たつ清水かな 五歩」の句碑が添えられている。当時は、ここを通る人の喉を潤したのだろうが今は飲めない。

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昔のままの旧道が舗装道路になったところに和宮も飲んだといわれている有名な名水「一呑みの清水」が残っている。説明版には以下のように記されている。

中山道を旅する人々にとって、一呑清水は喉の渇きを潤し、旅の疲れを癒す憩いの場所でした。江戸時代末期、将軍家降嫁のために江戸へ向かった皇女和宮は、道中この清水を賞味したところ大層気に入り、のちの上洛の際、永保寺(現岐阜県多治見市)にてわざわざここから清水を取り寄せ、点茶をしたと伝えられています。 岐阜県 名水50選のひとつ。」

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一呑の清水から一旦車道を歩くとすぐに「左・左舳五山茶園 右・中山道石畳」の道標があり、右の旧道に入ると「中山道・十本木立場」の人説明版が置かれている。

「宝暦5年(1756)刊の「岐蘇路安見絵図」にも記載があるこの十本木立場は、もともと人夫が杖を立て、駕籠や荷物をおろして休憩した所から次第に茶屋などが設けられ、旅人の休憩所として発展したそうです。一方で古老の話しでは、参勤交代の諸大名が通行する際にはここに警護の武士が駐屯し、一般の通行人の行動に注意が払われたそうです。」(説明版)

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五分ほど歩くと復元された一里塚が復元されている。「一里塚(謡坂十本木)」と刻まれた説明版が添えられている。江戸から九十四番目の一里塚である。

「慶長九年二月、徳川幕府東海道中山道北陸道に江戸日本橋を基準として、道の両側に五間四方(約16メートルほど)の塚を築造させました。これが一里塚です。

 一里塚は、一般的に一里ごとに榎、10里毎に松を植えて旅人に里程を知らせる重要なものでした。現在の御嵩町内にその当時四ヵ所あった一里塚は、幕藩体制崩壊後必要とされなくなり、明治四十一年にこの塚は二円五〇銭で払下げられ、その後取り壊されました。

 この一里塚は昭和四八年、地元有志の手でかつての一里塚近くに復元されたものです。」(説明版)

その先右手に「十本木の洗場」の木札が立っている。木札に書かれている文字は剥げて読めないが、御嵩町観光協会によれば「慶長九年二月、街道の両側に一里塚が造られ、その付近に十本の松の大木があったことから、此処を十本木の立場と呼ばれるようになった。道中の人足が駕籠や荷物をおろして休息した所から発展して茶屋や木賃宿が設けられ旅人の休息所となった。この池は当時の共同洗場である。安藤広重の木曽街道六拾九次の内 “御嵩宿” の画はこの場所がモデルとも云われている。」だそうだ。

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十本木の洗場の隣に安藤広重「木曽海道六拾九次之内 御嶽」の説明版が立っている。

「江戸時代、浮世絵の世界で名を馳せた人物に安藤広重(1797~1857)がいました。その作風は、情緒性を高め静の中に動を表現する独特の手法で風景画に新境地を開きました。代表作に「東海道五拾三次(全五十五枚)」のほか、この「木曽海道六拾九次(全七十一枚)」があり、御嵩宿では当時の庶民の旅で多く利用された「木賃宿」を中心に、囲炉裏を囲んだ旅人たちの和やかな会話が聞こえてきそうな様子を見事に描写しています。そして、作品のモデルとして選んだ場所がこのあたりだといわれています。

 広重の作品のなかに「木賃宿」が登場する例は非常に珍しく、軒下にいる二羽の鶏もまた、作品に描かれることはごく稀です。御嵩町」(説明版)

その向かい側に「十本木の茶屋跡」の説明版が立てられている。

「十本木茶屋跡・謡坂一里塚のすぐ近くにあって、「新撰美濃志」にも「十本木茶屋は、木曽路通りの休み茶屋なり。数十株の松樹立ちたる故、かく名づくという。」と記されている。西方からは、急坂を登りつめた所にあって、ここで汗を拭き拭き一ぷくした茶屋であったといわれている。」(説明版)

 

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茶屋跡から5分ぐらい歩くと旧道は石畳になる。「謡坂石畳」と呼ばれている石畳で「謡坂石畳」の碑も立っている。

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石畳を歩いていくと「左・江戸へ九十四里八丁 右・京へ四十里十三丁」の道標がありそこから5分程先に「耳神社」と呼ばれている小さな神社がある。説明版には、「全国的に見ても珍しい耳の病気にご利益があるといわれる神社です。平癒の願をかけ、お供えしてある錐を一本かりて耳にあてます。病気が全快したらその人の年の数だけ錐をお供えしました。奉納する錐は本物でも竹などでまねて作ったものでもよく、紐で編んだすだれのようにしてお供えしました。小さな祠には奉納された錐がいくつも下げられ、人々に厚く信仰されていたことがうかがえます。また、戦前には遠く名古屋方面からの参拝もありました。元治元年(1864)、武田耕雲斎尊皇攘夷を掲げて率いた水戸天狗党中山道を通った時、耳神社ののぼりを敵の布陣と思い、刀を抜いて通ったと伝えられています。

御嵩町御嵩町観光協会」と書かれている。

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先へ行くと「左・御嵩宿四一〇〇米 右・細久手宿七七〇〇米」の碑がありその先5分程歩くと馬頭観音が石窟に納められている寒念仏供養塔がある。御嵩町教育委員会のパンフレット「中山道往来」によれば「石窟におさめられている三面六臂馬頭観音像は、台座正面に「寒念仏供養塔」、左側には「維持明和二酉年」、右側に「八月彼岸珠日」と刻まれている。寒念仏は一年で最も寒い時期に、村人が白装束で集まり、鉦を叩いて念仏を唱えながら村中を練り歩く修行のことで、心身を鍛え願いを祈念したという。」だそうだ。

すぐ先には「牛の鼻かけ坂」の碑が立っている。

 「牛坊(うしんぼ) 牛坊 どこで鼻かいた 西洞の坂で 鼻かいた」という言葉が残るように、ここ西洞坂は牛の鼻欠け坂とも呼ばれ、荷物を背に登ってくる牛の鼻がすれて欠けてしまうほどの急な登り坂でした。中山道全線を通してみると、ここ牛の鼻欠け坂あたりを境にして、江戸へと向かう東は山間地域の入り口となり、京へと続く西は比較的平坦地になります。したがって地理的には、ちょうどこのあたりが山間地と平坦地の境界線になっているのも大きな特徴といえます。御嵩町」(説明版)

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急な牛の鼻かけ坂を下ると舗装道路に出るがしばらく行くと国道21号線に出会い国道を歩くと和泉式部の廟所がある。自らの出来事を三人称で日記にした「和泉式部日記」宮中の恋愛を歌にした「歌集」知られる平安中期の歌人で、古くからこの付近で没したと伝えられている。説明版が添えられていて、以下のように記されている。

「泉式部(いずみしきぶ)は、平安時代を代表する三大女流文学者の一人といわれ、和歌をこよなく愛し数多くの歌を残した一方で、恋多き女性としても知られています。

 波乱に富んだ人生を歩んだ彼女は、心の趣くままに東山道をたどる途中御嵩の辺りで病に侵されてしまい。鬼岩温泉で湯治していましたが、寛仁3年(1019)、とうとうこの地で没したといわれています。」墓所に置かれている石碑には

「ひとりさへ渡れば沈むうき橋にあとなる人はしばしとどまれ いずみ式部廟所 寛仁三己未天」と刻まれている。

下諏訪宿の「銕焼(かなやき)地蔵と和泉式部伝説」の説明版にもこの廟所のことが書かれている。

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先には、「右・中街道」と彫られた道標が立っている。中街道とは、東山道の名残で大井宿から下街道を抜けて中山道御嵩宿へ入るルートだそうである。

「中街道」の道標から15分程歩くと「左・細久手宿 右・御嵩宿」の道標がある。

ここから旧道に入りしばらく行くと御嵩宿である。

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第49宿 御嵩宿・本陣1、脇本陣1、旅籠28

(日本橋より95里30町8間 約376.37キロ・細久手宿より3里 11.78キロ)

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「慶長五年(1600)九月、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は直ちに宿駅伝馬制へと着手し、慶長七年(1602)には中山道筋でもいち早くここ御嶽宿に「伝馬掟朱印状」を下したことから、重要な拠点とみなしていたことがうかがえます。

 御嶽宿は江戸から四十九番目の宿場にあたり、天保年間の『中山道宿村大概帳』には、宿内町並四町五十六間(約五百四十メートル)、家数六十六軒(内旅籠屋二十八軒)、このほか本陣・脇本陣が各一軒、問屋場、高札場などの存在が記載されています。

 宿場は西端の天台宗の古刹大寺山願興寺から鉤の手を抜けて東へと続き、大名や公家あるいは一般庶民の通行とともに、情報や文化の交流する場所として大いに賑わいました。

御嵩町御嵩町観光協会」(説明板)

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御嵩宿に入ると左手に「正一位秋葉神社上町組」と刻まれた碑が立っていてその後ろには井戸がある。用心井戸と呼ばれる防火用の井戸で普段は飲料用として利用されていた。

宿場の町並みは左右に旧家が並びそれなりに趣がある。

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続いて、商家「竹屋」があり隣に「御嵩宿」の碑が立っていて右側面に「東・細久手宿」左側面に「西・伏見宿」と記されている。また「天保13年(1842)頃の御嶽宿の家並み図」も掛けられている。

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そして、その隣が「御嵩宿・本陣跡」「みたけ館(脇本陣跡)と続き「江戸より98里38町」と刻まれた大きな碑も立っている。

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「みたけ館」の先の唐沢橋を渡りしばらく行った交差点の所が「願興寺」山号は「大寺山(おおてらさん)」で「蟹薬師」として知られている。御嵩町観光協会のHPには、「天台宗祖「最澄」が東国巡錫の砌、この地に布施屋を建立し、自刻の薬師如来を奉納安置したのが起源とされる。その後、一条天皇の皇女とされる行智尼(ぎょうちに)が最澄自刻の薬師如来を朝夕と礼拝されていたところ、南西の尼が池から数千の沢蟹の背に乗った一寸八分の金色の尊像が顕現したという。これが天聴に達し、勅命により七堂伽藍が建立された。その後、多くの僧、権力者、そして何よりも民衆に支えられて現存している。現在、本堂並びに、本尊薬師如来及び日光月光両脇持、四天王像、十二神将、釈迦如来三像、阿弥陀如来立像、坐像の24体が国指定の重要文化財に指定されている。」と記されている。

また、願興寺は、瞽女(ごぜ)(盲目の女芸人)を庇護していたため瞽女たちの聖地にもなっているのだそうだ。大寺瞽女については、次のような逸話が残っている。「行智尼が京都から連れてきた3人の侍女が金色の薬師如来像をぜひ拝んでみたいと、決して開けてはいけないと行智尼から戒められていた厨子の扉を開けてしまった。金色の薬師如来像のあまりのまぶしさに思わず閉ざした3人の目は、それっきり開かなくなってしまい、行智尼が念仏を唱えてもかなうことはなかった。行智尼は目の見えなくなった3人の侍女に、楽器の演奏を教え、3人の侍女は、薬師様を讃える歌をうたいながら三味線を弾き、近くの村の家を回った。彼女たちはこのあたりでは大寺瞽女(おおてらごじょ)と呼ばれ、瞽女の始まりと言われている。」

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街道は、願興寺で桝形に曲がっていて先に行くと国道(21号)に変わり、しばらく行くと「鬼の首塚」と呼ばれている祠があり、説明版が添えられていて内容を要約すると「西美濃不破の関の生まれで関の太郎という凶暴で悪行三昧の男が鬼岩の岩窟に住み着き乱暴狼藉を極め、「鬼の太郎」と呼ばれていた。鬼の太郎は住民を大いに悩ませていたが「蟹薬師」のお告げにより捕らえられ、首をはねられた。検分のため首を桶に入れ都へ運ぼうとしたところ急に首桶が重くなり一歩も進むことができなくなった。すると首桶を縛っていた縄が切れ中から首が転げ落ち、落ちた首も動かすことができなくなったため、首をこの地に埋めた。」とのことである。

この下りは、十返舎一九の「続膝栗毛・五編下巻」の最初に書かれている。

「此所(このところ)は、むかし関の太郎といへる鬼の首を桶に入れて都におくるに、か

の首次第に重くなりて数十人の力に及ばず、此所に桶のまゝ埋めたるゆゑかくは名付けしと言傳ふるよしをききて、

- 桶縄手 今もその名は朽ちざりき 塩漬けにせし 鬼の首かも -」

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鬼の首塚の横には、正岡子規の歌碑が置かれている。

- 草枕むすぶまもなき うたたねの ゆめおどろかす野路の夕立 子規 -

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子規の句碑から20分程歩くと右手に旧道が復活するが旧道に入った所に「中山道・比衣一里塚跡」の碑が立っている。さらに10分ほど先に「左・伏見宿 右・御嶽宿」の道標が立っている。旧道は再び国道21号に合流し、上り坂を上り切ったところが「伏見宿」である。

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第50宿 伏見宿・本陣1、脇本陣1、旅籠29

(日本橋より96里30町8間 約380.30キロ・御嵩宿より1里 3.93キロ)

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伏見宿は、元禄7年(1694)の立宿である。慶長7年(1602)の御嶽宿に対しては、新しい宿場といえる。御嵩宿から太田宿間は3里あり、途中に木曽川の渡しがあったために新設されたものであろう。御嵩宿からは西1里にあり、まわりからは高台になっている。この高台の東からの坂を上ったところに高札場があった。宿内は6町あまりで、本陣、脇本陣と旅籠を29軒有していた。宿の西側の木曽川岸に新村湊があり、尾張方面への川下げが行われていたようである。(御嵩町観光協会HPより)

現在は、国道21号が宿場を貫いているため、昔の風情はない。

宿場に入るとすぐに「伏見宿・本陣之跡碑」が置かれており、「是よ里東尾州藩領」と彫られた大きな領境碑が立てられている。

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その先、「伏見」の交差点に「一本松公園」があり四阿や、きれいなトイレもあるので一休みするにはちょうどいい。「宿場行灯」も置かれていて心休まる思いである。街道脇には「右・御嵩 左・兼山 八百津」と刻まれた道標も置かれている。ここは斉藤道三の養子、斉藤正義が築いた兼山城へ至る兼山道との追分でもある。

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交差点を左に100メートル程入ると「洞興寺」があり境内には、伏見宿の飯盛り女たちの亡骸を葬った「女郎塚」がある。「死後引き取り手のなかった彼女たちのそれぞれに表情を凝らした墓石群は哀愁を漂わせている。隣には子安観音が奉られている。」(御嵩町観光協会HPより)

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街道に戻り、先へ行くと左手に旧旅館「三吉屋」がありその先には正岡子規の歌碑が置かれている。 - すげ笠の 生国名のれ ほととぎす -

正岡子規の)「かけはしの記」に依れば明治二十四年(1891)五月末日、木曽路を経て故郷松山への道中、伏見宿に泊った正岡子規は、「朝まだほの暗き頃より舟場に至って下り舟を待つ。つどい来る諸國の旅人七・八人あり。」と記している。

新村湊にて「すげ笠の 生國名のれ ほととぎす」の一句を残し小舟にて木曽川駅までの舟旅を楽しんだ。御嵩町観光協会

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このあたりは、もう宿場の外れのようである。「上恵戸」の交差点の所に「右 太田渡ヲ経テ岐阜市ニ至ル」「左 多治見及大山ニ至ル 約四里」と彫られた道標が立っている。

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「中恵戸」の交差点には新しく作られた「一里塚跡」の碑が置かれている。江戸から九十七番目の「恵戸の一里塚」である。右面は「江戸・伏見宿」左面は「京・今渡の渡し・太田宿」裏面に「中山道開宿400周年記念事業 可児市可児市観光協会

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この先は、特にこれということもなく淡々と歩いていくとやがて旧道は国道と別れ

JRの踏切を渡りしばらく行くと「住吉」の交差点があるがその先が「今渡(いまわたり)立場」である。当時は中山道の難所と言われた太田の渡しを控えて随分賑わったのだろう。立場の入り口には「今渡神社」がある。その先の「龍洞寺」に「龍の枕石」なるものが祀られている。これは、雄と雌の「龍神の寝枕」だそうだ。さらに5分程行くと「富士浅間神社」があり旧道はここで直角に右に曲がることになる。

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さて、いよいよ木曽川に架かる「太田橋」を渡ることになるのだが、橋の手前に「木曽のかけはし太田の渡し碓氷峠がなくばよい」と彫られた碑が置かれている。当時の木曽川は流れが急で、かなり深かったため渡し舟で渡るしかなかったようである。また、「今渡渡し場」の碑に説明版が添えられている。説明版には以下のように書かれている。

今渡の渡し場

 中山道の三大難所の一つ「木曽のかけはし 太田の渡し うすい峠がなくばよい」と詠まれた、現可児市今渡地区に残る木曽川の渡し場跡です。(この対岸の呼称が太田の渡し)。木曽川が出水する度に「船止め」となったので、今渡地区には、旅人のための宿屋や茶屋などが建ち並び、湊町として繁栄したと伝わります。

 明治三四年三月には両岸を渡す鉄索を張り、それに船を滑車でつなぎ、川の流れを利用して対岸へ船を進める「岡田式渡船」となりました。その頃には、渡し賃も無料となっていたようです。乗客がほどよく乗り合わせると出発し、一日に何回も往復しました。夜でも対岸の船頭小屋へ大声で呼び掛けると、船を出してくれたといいます。

 昭和二年二月、このすぐ上流に見る太田橋が完成し、渡し場は廃止されました。

渡し場の移り変わり

 鎌倉時代に起こった承久の乱の記録によれば、当時の官道である東山道は、この下流にある市内土田地区から木曽川を渡り、「大井戸の渡し」と呼ばれていました。

 江戸時代に入り、この官道は中山道として再整備されました。当時の絵図などから見ると、江戸時代の中頃までは同じ土田地区の渡り付近(土田の渡し)から渡っていたようですが、後期頃からはここ今渡地区へ移されています。

 土田の渡しは、中山道の正式な渡し場でなくなりましたがその後も続き、昭和五年頃に岡田式渡船を採用し、昭和三五年頃に廃止されました。

市内渡し場の渡船料金(明治14年)

 

今渡の渡し

川合の渡し

土田の渡し

1銭2厘

1銭

1銭

牛馬

2銭4厘

2銭

2銭

1銭2厘

1銭

1銭5厘

荷物

2銭4厘

1銭5厘

 

 『可児町史』(通史編)1980より 平成十七年九月建替 可児市教育委員会

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太田橋を渡り、木曽川の堤防沿いを歩いて旧道に出ると太田宿である。

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第51宿 太田宿・本陣1、脇本陣1、旅籠20

(日本橋より98里30町8間 約388.15キロ・伏見宿より2里 7.85キロ)

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太田の渡しは、十三世紀以前から存在していたと考えられるが、ここが宿場のひとつとして定められ、繁栄するのは、徳川家康によって伝馬制が整備されてからである。慶長五年(1600年)に関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、政治・軍事上の必要から伝馬制を拡充し、伝馬を提供する所として宿を定めた。中山道は慶長7年(1602年)に伝馬制ができ、宿のひとつが太田宿であった。万治元年(1659年)に五街道東海道中山道・日光道中・奥州道中・甲州道中)が定められ、太田宿は中山道69宿の一つとして栄えることになったのである。江戸からは51番目の宿場にあたり、本陣・脇本陣・問屋・旅籠屋・遊女屋などで賑わいました。太田宿の大きな特徴は、木曽川を渡る「太田の渡し」。木曽川が増水すると川止めとなり、旅人は木曽川を越えることができなかった。(中山道・太田宿HPより)

さて、旧道に出ると「中山道太田宿・明水神公園」の行灯が立っている。その先には「法華経塚」が祀られていて「法華経塚と飛騨街道追分」の説明版があり、以下のように書かれている。

法華経塚は、埋葬地(墓地)の入口に建てられた石碑だったと言われています。

 ここから少し東に行くと、飛騨高山へ向う飛騨街道の追分があります。

 現在、ここから東に進んだ神明堂の交差点付近には、明治時代に伊藤萬蔵により建立された中山道と飛騨街道の道標が残っています。 美濃加茂市商工観光課」

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しばらく歩いていくと「太田稲荷神社」があり、その隣が「祐泉寺」である。祐天寺境内には太田の地で生れ育った明治の文豪坪内逍遙が述懐の念をこめて詠んだ「椿の歌」の碑、北原白秋が祐泉寺を訪れ茶席でしたためた歌の碑、松尾芭蕉の門弟となった脇本陣3代目の林由興(冬甫)が師を悼んで建てた芭蕉の句碑が残されている。

- やま椿さけるを見ればいにしへを 幼きときを神の代とおもふ(逍遥)-
- この木の実ふりにし事のしのばれて 山椿はないとなつかしも(逍遥)-

- 細葉堅秋雨ふれり うちみるや 石燈籠のあを苔のいろ 白秋 -

- 春なれや 名も無き山の 朝かすみ 芭蕉 -

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街道は、祐泉寺の先で桝形に曲がっていて、角を曲がったところに旧旅館の「小松屋」(吉田家)がある。小松屋は、お休み処になっていて無料で入場できるということだが本日は定休日(火曜日)で入場はできなかった。このあたりの町並みはなかなか趣がある。

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松屋から5分程先には、「脇本陣」林家がある。これは見事な建物で国の重要文化財に指定されているのもうなずける。

「旧太田脇本陣林家住宅は明和六年(1769)に建築された主屋と、天保二年(1831)に建築された表門と袖塀、それに裏の二棟の土蔵から成っています。
 江戸時代に太田宿は、中山道の宿場町として栄え、大名や地位の高い人が泊まる本陣と脇本陣が各一軒あり、林家は脇本陣としての役目のほか太田村の庄屋や、尾張藩勘定所の御用達をつとめた旧家であります。

この建物を見ますと、主屋の両端の妻に卯建が建ち、ひときわ目を引きますが、これは防火壁の役目を果たすと同時に脇本陣の権威を象徴するものであります。

又、この建物は中山道において脇本陣としての遺構を当時のまま残している唯一の建物であり、昭和四十六年に国の重要文化財に指定されています。
 今でも脇本陣の前に立つと「したにー、したにー」と声をはりあげながら通っていった当時の大名行列や旅人の行き交う姿が目に浮かんできます。

昭和六十一年一月 美濃加茂市」(説明版)

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脇本陣の向かいが「本陣」(福田家)だが今は門だけが残っている。

「旧太田宿の中心にあった旧本陣は、宿場の中町の現在位置にありました。明治時代になると旧本陣には太田町役場がおかれ、町の中心的な存在でした。現在、旧本陣の面影はありませんが、この門は当時をしのばせる貴重な遺構です。

 「旧太田宿本陣門」は、文久元年(1861)仁孝天皇の皇女「和宮」が十四代将軍徳川家茂に嫁ぐため、江戸に向かう時に新築されたものです。このときは、旧中山道中の家並みなども新築・修繕されたといわれています。

 この門は、一間の薬医門(本柱が門の中心線上から前方に置かれている門のこと)で、両袖に半間の塀が付く、格式のある端正なつくりです。昭和の初め頃に現在の位置に移築されたと言われています。建築以来、長い年月を経て痛みが激しくなったため、平成14年10月に美濃加茂市教育委員会が解体修理しました。」(説明版)

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すぐ先に「中山道分間延絵図」「加茂群太田村家並み絵図」、「中山道会館」がある。

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街道は、その先桝形に曲がり角に「高札場跡」の立て札と「高札場跡と郡上街追分道標」の説明版があり「右・関上有知 左・西凶京伊勢道」と彫られた道標が置かれている。

「江戸時代、幕府・大名が法令や禁令を公示するため、墨書した高札を掲示した所を高札場といい、宿場等人の目につきやすい所に設置されました。

 太田宿か、次の宿までの人馬の駄賃やキリシタン禁令等の高札が掲げられていました。」(高札場跡立札)

「高札場跡と郡上街道追分・高札は、法度・禁令、犯罪人の罪状などを記し、交通の多い辻などに掲げた板の札です。一般の人々に知らせる目的で立てました。弘化2年(1845)の「加茂郡大田村家並み絵図」には、下町の西福寺入口付近に高札場が描かれています。「濃州徇行記」には「毒薬、親子、火付、切支丹、荷物貫目、駄賃高札」が書かれた高札と船高札があったとされます。また、ここは郡上へ向う「郡上街道」との追分でもあります。左手にある石の道標は明治26年(1893)に名古屋の塩問屋、伊藤萬蔵が建立したもので、郡上街道追分の道案内をしています。 美濃加茂市商工観光課」(説明版)

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桝形を左に曲がり、次の桝形を右折すると虚空蔵堂があり「虚空蔵堂と承久の乱 古戦場跡」の説明版が立っている。

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さらにその先には太田小学校があるが、ここが太田代官所のあった処である。

尾張藩天明年間になると藩政改革として領内の要所地を一括支配する所付代官を配置しました。太田代官所天明2年(1782)に設置され、当初の代官は井田忠右衛門でした。慶応4年(1868)、太田代官所は北地総管所と改名され、田宮如雲が総管に任命されました。このとき一緒に勤めていたのが坪内逍遥の父平右衛門です。

美濃加茂市商工観光課」(説明版)

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代官所跡の隣に「坪内逍遥ゆかりの妙見堂」がある。明治の文豪・坪内逍遥は太田代官所の役人・坪内平之進の末子である。

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代官所跡の隣に「坪内逍遥ゆかりの妙見堂」がある。明治の文豪・坪内逍遥は太田代官所の役人・坪内平之進の末子である。

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この先は、車通りの多い無味乾燥とした国道をひたすら歩くことになる。今日の泊りはJR「美濃太田駅」のすぐそばなのでJR「坂祝駅」から一駅戻り「美濃太田駅」へ。

ビジネス旅館「いろは」は、料金も安く、食事もボリュームがあるので結構込み合っていた。