奥の細道 一人歩き 3 千住宿-草加宿

2日目(2018420日(金))千住宿草加宿

一か月ぶりの街道歩きである。

仕事や所用でなかなか街道歩きを再開できない。この分では、岐阜・大垣に着くまで何年かかることやら。

さて浦和から上野経由で北千住に着いたのは午前9時半ごろ、旧道に戻り先へ進むと、千住本町公園内に「千住高札場・由来説明版」が立っている。

「千住が宿場となって栄えたのは、慶長二年(1597)人馬引継駅となって以来のことだといわれている。江戸時代の足立は、千住宿を中心に始まったといっても過言ではない。

特に寛永二年(1625日光東照宮建立により、日光道中発駅として、また江戸4宿の一つとして繁栄し、約400年を経て今日に至っている。

このような高札場は、明治の初期まで宿場の掟(きまり)などを掲示して、人々に周知してもらうため、千住宿の入口・出口の所に設置されていた。(千住の町並景観を考える会・説明版より)

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千住本町公園内の先には、横山家住宅がある。ここは当時地漉き(じすき)紙問屋で今も傳馬屋敷の面影を残している。

「横山家住宅(よこやまけじゅうたく)
宿場町 の名残として、伝馬屋敷 の面影を今に伝える商家である。伝馬屋敷は、街道に面して間口が広く、奥行が深い。戸口は、一段下げて造るのが特徴である。それは、お客様をお迎えする心がけの現れという。
敷地は、間口が十三間、奥行が五十六間で鰻の寝床のように長い。
横山家は、屋号を「松屋」といい、江戸時代から続く商家で、戦前までは手広く地漉紙問屋 を営んでいた。
現在の母屋は、江戸時代後期の建造であるが、昭和十一年に改修が行われている。間口が九間、奥行が十五間あり、大きくてどっしりとした桟瓦葺 (さんがわらぶき)の二階建である。 広い土間、商家の書院造りと言われる帳場二階の大きな格子窓 などに、一種独特の風格を感じる。( 東京都足立区教育委員会・説明版より)

横山住宅の向かいが千住絵馬屋・吉田家で、絵馬をはじめ地口行燈や凧などを描いてきた際物(きわもの)問屋である。

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すぐ先には、旧水戸街道の追分道標が置かれており「北へ旧日光道中・東へ旧水戸佐倉道」と彫られている。先へ進むと旧下妻道・道標があり「北西へ旧日光道中・北へ旧下妻道」と刻まれている。

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街道はここから大きく左に曲がり、先へ行くと荒川に架かる千住新橋を渡ることになる。

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千住新橋を渡りすぐに左折、堤防沿いを進み川田橋の信号を右へと堤防を下ると旧道である。しばらく行くと「石不動尊」と書かれた祠がある。堂内には耳の病に霊験あらたかな意思造耳不動尊像が祀られている。堂前の石標「子育弥彦尊道是より二丁行」と彫られている、これは、咳にご利益のある明王院(赤不動)への道標なのだそうだ。

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不動尊から10分ばかり歩き、左手に少し入った所に「佐竹屋敷跡」の碑と「佐竹稲荷神社」がある。ここは秋田藩主佐竹候のお抱え屋敷跡で参勤の際の休憩所であった。稲荷社は屋敷神として祀られていたのだそうだ。

さらに5分程歩くと「右日光道中・左東武鉄道旧線路跡」と刻まれた道標が立っている。

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しばらく先へ行くと「将軍家御成橋・御成道松並木跡」の標柱が立っている。

徳川二代将軍秀忠、三代将軍家光が鷹狩の際にこの先にある「安穏寺」に立ち寄ったのだという。

さらに少し先には「鷲神社」がある。この神社は文保二年(1318)の創建でこのあたり(島根村)の鎮守である。享和二年(1802)建立の明神型石鳥居は足立区の有形文化財に、神楽殿で奉納される「島根囃子」と「島根神代神楽」は同区の無形文化財に指定されている。

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島根鷲神社交差点の辺りに江戸・日本橋から三番目の一里塚「六月の一里塚」があったのだそうだが今ではその位置は不明である。交差点から15分ばかり歩くと増田橋道標があり「増田橋跡・北へ日光道中・西へ旧赤山道」と刻まれている。

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さらに15分ばかり進み、右手に入ると保木間氷川神社がある。この神社は保木間村の鎮守で淵江領を支配していた千葉氏の陣屋跡である。また、「流山道」の説明版が立っていて「本説明版の前(保木間氷川神社前)を東西に走る小道は、江戸の昔から流山道と呼ばれた古道である。保木間日光道中からわかれ、南花畑、内匠橋、六木を経て流山に向かう。この道に隣接する宝積院と保木間氷川神社は戦国時代の武士・千葉氏の陣屋があったと伝えられていることから、道の成立は戦国時代以前にさかのぼると考えられる。この道を東進すると花畑大鷲神社成田山と結んでおり、西に進むと西新井大師総持寺に通じる親交の道でもある。ここから太子堂・成田道という別称もある。なお沿道には寺院・神社や旧村地帯が分布し、保木間の旧家の多くもこの道に沿って建っており、地域の歴史を今に伝える。」(足立区教育委員会)と記されている。

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先へ進もう。30分ぐらい歩くと「法華寺」があり境内に「百度石」が置かれている。

この寺院は、小塚原刑場の刑死者の菩提を弔っていったのだという。

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旧道はやがて県道49号線に合流し水神橋を渡る。この橋が東京都と埼玉県の県境で先は草加である。しばらく行くと富士浅間神社がある。このあたり瀬崎村の総鎮守で天保十三年(1842)の再建である。

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浅間神社から10分ばかり歩くと「火あぶり地蔵尊」がある。

奉公中の娘に母危篤の知らせが届き、主(あるじ)に暇を願い出たが許されなかった。娘は、家が火事になれば店が休みになり家に帰れると思い込み放火をしてしまう。捕らえられた娘は、火あぶりの刑となった。哀れに思った村人たちは娘の供養のため地蔵を祀ったとの言い伝えがある。

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加に入ると「草加せんべい」の店や広告が目につく。

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やがて「今様草加宿」の碑が目に入り、市役所の入口に地蔵堂がある。

草加市役所の敷地は幕末から明治にかけての豪商大和屋跡である。主の浅古半兵衛全国二位の質屋で江戸にも店を出していた。

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すぐ先には、「草加神社社票」が立っている。草加神社は、南草加村の鎮守で大宮氷川神社を勧請したものである。

その先には、正面に「日光街道」側面に葛西道」と刻まれた「葛西道道標」、また「草加町道路元票」「埼玉県」と刻まれた「道路元票」が置かれている。

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本日はここまで。

東部スカイツリーライン「草加駅」から東武線、JR武蔵野線JR京浜東北線を野率で帰宅。

 

奥の細道 一人歩き 2 日本橋-千住宿

1日目(2018324日(土))日本橋千住宿

お江戸日本橋七つ立ち(午前4時)とはいかないが、浦和発6時34分発の上野・東京ラインで東京へ。永代通りを歩き日本橋に着いたのは7時過ぎ。

芭蕉は、深川から千住まで船に乗り千住から日光街道を歩いたのだが、今回も五街道の起点である日本橋からスタートすることにする。

中山道を歩いた時は、なんとなく歩き始めてしまったのだがよく見てみると日本橋にはいろいろなものがある。

日本橋交差点を左に入ると日本橋だが、その手前に「永頼堂」という扇子屋さんがあり、きれいな扇子がウィンドウに飾られている。

さて、日本橋、橋詰めに説明版などがあるがこのあたりが高札場跡、道を挟んだ反対側の滝の広場が「晒し場跡」で密通の男女や心中未遂者が晒された処だという。

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橋を渡ると右側が「日本橋魚河岸址」(乙女の広場)がある。関東大震災後、築地に移転したがそれ以前はこのあたりが東京の魚河岸だったのだそうだ。

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道路の左側には「日本国道路元票」が複製されていて(元票の広場)「里程標・千葉市三十七粁・宇都宮市一〇七粁・水戸市一一八粁・新潟市三四四粁・仙台市三五〇粁・青森市七三六・札幌市一、一五六粁」、「里程標・横浜市二十九粁・甲府市一三一粁・名古屋市三七〇粁・京都市五〇三粁・大阪市五五〇粁・下関市一、〇七六粁・鹿児島市一、四六九粁」と刻まれた碑が置かれている。

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日本橋を後に江戸通り(国道4号線を)歩き、室町三丁目南の交差点を右折してすぐに「福徳神社」がある。由来書によれば、この地は福徳村とよばれ、穀物、食物を司る稲荷神が鎮守の森に懐かれ鎮座していた。福徳村の稲荷は、往古より源義家太田道灌ら武将の尊祟を受け・・・・とある。

境内の傍らに碑があり、表には「宮戸川邊り宇賀の地上に立る一里塚より此福徳村稲荷森塚迄一里」、裏には貞観元年卯年 三つき吉祥日」と刻まれている。

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大伝馬町通りを歩くと「旧日光街道本通り」の碑がある。碑の側面には「徳川家康公江戸開府の際し御傳馬支配であった馬込勘解由が名主としてこの地に住し、以後大傳馬町と称された。」と彫られている。

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日光街道に戻り、左に行くと地下鉄・小伝馬町の駅で「江戸伝馬町牢屋敷跡」があり。

「石町時の鐘」、「傳馬町牢屋敷跡」、「吉田松陰先生終焉の地」の説明版と共に吉田松陰終焉の地の碑が置かれている。

江戸時代、罪人の処刑は「石町時の鐘」を合図に行われ、刑の執行を控えた日は刻限を意図的に遅らせたところから「情けの鐘」と呼ばれたそうである。

街道に戻り先へ進むと馬喰町、横山町問屋街である。馬喰町は当時馬市が立ち傳馬用の馬が売り買いされていた。横山町は、広重が名所江戸百景「大てんま町木綿店」でこの界隈を描いている。今も繊維衣料の問屋が軒を連ねている。

余談ではあるが、30年も前であろうか、東日本橋のオフィスに勤務していたことがあり、このあたりは馴染みがあり懐かしくもある。

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更に歩くと、神田川に架かる浅草橋である。神田川には屋形船が浮かんでいる。

橋を渡ると、「郡代屋敷跡」の説明版、「浅草見附跡」の碑がある。

郡代屋敷跡は、関東一円の幕府直轄地(天領)を支配した関東郡代の屋敷跡である。

浅草見附は江戸城外の城門で「浅草御門」と呼ばれた。明暦三年(1657)、江戸本後円山町から出火し、江戸城本丸を初め、江戸市中を焼き尽くした明暦の大火(振袖火事)の時、囚人が脱獄したとの誤報を信じた役人がこの門を閉めたためさらに多くの犠牲者を出したといわれている。幕府はよく年(1658)定火消を置いている。

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先へ進むと、JR総武線浅草橋駅である。東日本橋のオフィスに勤務していたころに使っていた駅で先ほどの郡代屋敷跡も浅草見附跡も当時は気にも留めず毎日歩いていた。

さて、総武線のガードをくぐるとすぐに「銀杏岡八幡神社」がある。由緒書によると、「源義家が永承六年に奥州出征の際、隅田川の川上から流れ着いた銀杏の枝を地面に刺し勝利を祈願した。奥州平定後、戻ってみると銀杏が大きく繁茂していた。この神恩に感謝し八幡宮を勧請した。」のだという。

すぐ先には、このあたり蔵前の総鎮守「須賀神社」がある。

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先へ進んで、蔵前一丁目の交差点に「旧町名由来案内・浅草蔵前」の説明版と共に天文台跡の説明版が並んでいる。

旧町名由来案内には、「本町は、付近の九ヵ町を整理統合して昭和九年(1934)にできた。蔵前と言う町名が初めて付けられたのは元和七年(1621)の浅草御蔵前片町である。この付近に徳川幕府米蔵があったことから付けられた。」と書かれている。天文台跡は、足掛け17年をかけて日本全土を測量し「大日本沿海輿地全図」を完成させた伊能忠敬の師匠・天文方高橋至時(たかはしよしとき)が天文観測を行ったところだそうである。

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蔵前一丁目の交差点を渡った右側には楫取神社がある。説明版には次のように書かれている。「慶長年間江戸幕府米倉造営用の石を遠く肥後熊本より運搬の途中、遠州灘の沖に於て屡々遭難あったが或る時稲荷の神の示現を得てより後は航海安全を得る事が出来た。その神徳奉賽の為め稲荷の社を浅草御蔵の中に創建、名づけて揖取稲荷と称へ爾来今日に至って居る。鎮座以来既に三百七十年氏神榊者の摂社として祭事怠る事無く奉仕。商売繁昌、火防の神として広く衆庶の尊信を集めている。」

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交差点を少し右に行ったところ、隅田川に架かる蔵前橋の手前に「浅草御蔵跡」の碑が立っている。ここは天領からの年貢米を貯蔵したところで、勘定奉行の管轄下に置かれ、主に旗本、御家人の給米に供された。「蔵前」の地名由来ともなった。道路を渡った所には「首尾の松跡」があり、説明版によれば吉原帰りの遊客が昨夜の守備を語りあったのだそうだ。川の向こうに東京スカイツリーが見渡せる。

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街道に戻り少し行くと「蔵前神社」がある。境内には、浮世絵師・歌川國安の奉納力持ちの錦絵や古典落語ゆかりの神社の札書きが立っている。

由来によれば、「当社は、五代将軍綱吉が元禄六年(1693年)85日、山城国(京都)男山の石清水八幡宮を勧請したのが始まりです。以来、江戸城鬼門除けの守護神として篤く尊崇された。」とのことである。

錦絵の説明版には、「この錦絵は、文政七年(1824年)の春に、御蔵前八幡宮で行われた「力持」の技芸の奉納を描いたものです。」と書かれている。

また、この神社は「蔵前の八幡様の境内で満願叶って人間になった真っ白い犬が奉公先で珍騒動を巻き起こす話(本犬)」や、「阿武松(おおのまつ)という江戸時代勧進大相撲で名横綱に出世した相撲取りの人情話(阿武松(おおのまつ))」といった古典落語の舞台ともなっている。

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先へ進むと、厩橋交差点でここには隅田川厩橋が架かっている。交差点を越えれば駒形である。

このあたりから旧道は隅田川と並行に走っていて川に架かる橋も厩橋、駒形橋、言問橋と続く。

さて、駒形1丁目の交差点を過ぎると信州・諏訪大社(上社)の分霊を勧請した諏訪神社がある。そしてすぐ先には「駒形どぜう」どじょう料理の老舗があり、店先には久保田万太郎の「神輿まつまのどぜう汁すすりける」と彫られた句碑が置かれている。

この店の創業は、享和元年(1801年)で文化三年(1806年)に大火にあった。それまでは「どぢやう」の四文字を使っていたが、大火以後縁起が悪いというので「どぜう」の三文字に改名したのだそうだ。浅草寺が近いせいか外国からの観光客が目立つ。

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浅草寺雷門

風袋を担いで天空を駆ける風神像と寅のふんどしを締め連鼓を打つ雷神像が祀られている。

浅草寺

本尊は、推古天皇三十六年(628年)隅田川で漁網にかかった聖観音像で天正十八年(1590年)江戸に入府した徳川家康浅草寺祈願寺とした。

今日は土曜日、雷門も仲見世も外国人観光客に日本人観光客が加わって大変な人である。

英吾、日本語、中国語、あらゆる国の言葉が飛び交っている。

そういえば、何十年か前にアメリカからの客を案内してここに来たことがある。

その時に引いたおみくじが何と「いの一番・大吉」であった。たいしていいことがあったという記憶はないが・・・・。

境内には、芭蕉の句碑も置かれており、説明版が添えられている。

-くわんをんの いらか見やりつ 花の雲- はせを

今は、桜の季節。観音の大屋根を見上げれば、あたかも雲のように桜が咲き誇っている。

そういえば信州・上田の別所温泉にある「北向き観音」の境内にも同じ句を刻んだ句碑が置かれていた。

俳諧紀行文『奥の細道』などを著した松尾芭蕉は、寛永二十一年(一六四四)伊賀上野(現、三重県上野市)に生まれました。
芭蕉という俳号は、深川の小名木川のほとりの俳諧の道場『泊船堂』に、門人が芭蕉一枚を植えたことに由来します。独自の蕉風を開き『俳聖芭蕉』の異名をとった松尾芭蕉は、元禄七年(一六九四)十月十二日、大阪の旅舎で五十一年の生涯を閉じました。
この句碑は寛政八年(一七九六)十月十二日、芭蕉の一〇三回忌に建立され、基は浅草寺本堂の北西、銭塚不動の近くにありましたが、戦後この地に移建されました。
八十三歳翁泰松堂の書に加えて、芭蕉のスケッチを得意とした佐脇嵩世雪が描いた芭蕉の座像の線刻がありますが、碑石も欠損し、碑面の判読も困難となっています。
奥山庭園にある『三匠句碑』(花の雲 鐘は上野か浅草か)と共に、奇しくも『花の雲』という季語が詠みこまれています。」(説明版)

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街道に戻ってしばらく行くと「花川戸公園」があり、「姥ヶ池之旧跡」、「助六歌碑」、「履物問屋発祥碑」などが置かれている。

姥ヶ池

「姥ヶ池は、昔、隅田川に通じていた大池で、明治二十四年に埋め立てられた。浅草寺の子院妙音院所蔵の石枕にまつわる伝説に次のようなものがある。
昔、浅茅ヶ原の一軒屋で、娘が連れ込む旅人の頭を石枕で叩き殺す老婆がおり、ある夜、娘が旅人の身代わりになって、天井から吊した大石の下敷きになって死ぬ。それを悲しんで悪行を悔やみ、老婆は池に身を投げて果てたので、里人はこれを姥ヶ池と呼んだ。」(説明版)

助六歌碑

「碑面には、

助六に ゆかりの雲の紫を 弥陀の利剣で 鬼は外なり- 団洲
の歌を刻む。九世市川団十郎が自作の歌を揮毫したもので、「団洲」は団十郎の雅号である。
 歌碑は、明治十二年(一八七九)九世団十郎が中心となり、日頃世話になっている日本橋の須永彦兵衛(通称棒彦)という人を顕彰して、彦兵衛の菩提寺仰願寺(現、清川一--)に建立した。大正十二年関東大震災で崩壊し、しばらくは土中に埋没していたが、後に発見、碑創建の際に世話役を務めた人物の子息により、この地に再建立された。台石に「花川戸鳶平治郎」、碑裏に「昭和三十三年秋再建 鳶花川戸桶田」と刻む。
 歌舞伎十八番の「助六」は、二代目市川団十郎が正徳三年(一七一三)に初演して以来代々の団十郎が伝えた。ちなみに、今日上演されている「助六所縁江戸桜」は、天保三年(一八三二)上演の台本である。助六の実像は不明だが、関東大震災まで浅草清川にあった易行院(足立区伊興町狭間八七〇)に墓がある。」(説明版)

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街道に戻り、東参道の次の信号が言問橋西である。言問橋隅田川に架かる橋で、もともとは「竹屋の渡し」があったとこでその名の由来は、在原業平伊勢物語九段「東下り」に書かれている

- 名にし負わば いざ言問わん都鳥 わが思う人は ありやなしやと -

に因んだものであるが、実際には「橋場の渡し」(現在の白髪橋付近)であるという説もあるようだ。真実のほどは定かではない。

隅田川沿いの桜がきれいだ。

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旧道はこの交差点を左折、隅田川を背に歩くことになる。

しばらく先の道を左に入ると「江戸猿若町市村座跡」の碑が置かれている。

天保十二年(1841年)時の老中水野忠邦の「天保の改革」により江戸市中の芝居小屋が猿若町に集められたのだという。

その先には「待乳山聖天」がある。

待乳山聖天(まつちやましょうでん)は、金龍山浅草寺の支院で正しくは、待乳山本龍院という。その創建は縁起によれば、推古天皇9年(601)夏、早魃のため人々が苦しみ喘いでいたとき、十二面観音が大聖尊歓喜天に化身してこの地に姿を現し、人々を救ったため、「聖天さま」として祀ったといわれる。

ここは隅田川に臨み、かつての竹屋の渡しにほど誓い小丘で、江戸時代には東都随一の眺望の名所と称され、多くの浮世絵や詩歌などの題材ともなっている。とくに、江戸初期の歌人戸田茂睡の作、
-哀れとは夕 越えて行く人も見よ 待乳の山に 残す言の葉-
の歌は著名で、境内にはその歌碑(昭和30年〔1955〕再建)のほか、石造出世観音立像、トーキー渡来の碑、浪曲双輪塔などが現存する。また、境内各所にほどこされた大根・巾着の意匠は、当寺の御利益を示すもので、大根は健康で一家和合、巾着は商売繁盛を表すという。17日大般若講大根祭には多くの信者で賑わう。」(説明版)

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その先が今戸神社

境内には、新選組一番隊隊長「沖田総司終焉之地」の碑がある。

沖田総司は、当地に居住していた松本良順の治療にも拘わらず、当地で没した。」(説明版)

享年二十五歳。

並んで「今戸焼発祥之地」の碑がある。今戸焼は江戸を代表する素焼きの陶器であった。

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今戸神社から30分ばかりあるくと路地の奥に「駿馬塚」の説明版が立っている。

「駿馬塚は、平安時代の康平年間(10581064源義家陸奥へ向かう際、この地で愛馬「青海原」が絶命し、これを葬った所と伝えている。」(説明版)

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ここで街道を外れ、右手に10分ばかり行くと「見返り柳」と彫られた碑が置かれている。

旧吉原遊廓の名所のひとつで、京都の島原遊廓の門口の柳を模したという。遊び帰りの客が、後ろ髪引かれる思いでを抱きつつ、この柳のあたりで遊廓を振り返ったということから「見返り柳」の名があり、

- きぬぎぬのうしろ髪ひくやなぎかな -

- 見返れば意見か柳顔をうち -

など、多くの川柳の題材になっている。(説明版)

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街道に戻り10分ばかり行くと泪橋の交差点である。ここは、先にある小塚原刑場に引かれていく罪人と身内の者が泪の別れをしたのだという。

先に進み、南千住駅の脇の歩道橋を越えると「小塚原刑場跡」で「首切り地蔵」が祀られている回向院がある。

「江戸のお仕置場(刑場)は、品川の鈴ヶ森と千住の小塚原の2つである。小塚原の刑場は、間口六十間余(約180メートル)、奥行三十間余(約54メートル)で、明治のはじめに刑場が廃止されるまでに、磔・斬罪・獄門などの刑が執行された。首切り地蔵は、この刑死者の菩提をとむらうため寛保元年(1741)に造立されたものである。(荒川区教育委員会

ここでは、刀の試し切りや死者の腑分け(解剖)も行われた。

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第1宿 千住宿 (日本橋より二里八町(8.8キロ)

本陣1、脇本陣1、旅籠五十五軒、宿内家数二千三百七十軒、宿内人口九千九百五十六人(天保十四年(1843日光道中村大概帳による)

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- 行く春や 鳥啼き魚の 目に涙 -

弥生も末の七日、あけぼのの空朧々として、月は有明にて光をさまれるものから、不治の峯かすかに見えて、上野・谷中の鼻の梢、またいつかはと心細し。

むつまじき限りは宵よりつどいて、船に乗りて送る。

千住という所にて船を上がれば、前途三千里の思ひ胸にふさがりて、幻の巷に別離の涙をそそぐ。

  - 行く春や鳥啼き魚の目は涙 -

これを矢立の初めとして、行く道なほ進まず。

人々は途中に立ち並びて、後ろ影の見ゆるまではと、見送るべし。

(三月も末の二十七日、あけぼのの空がおぼろに霞み、月は有明けの月でうすく照らしているので富士山の嶺がかすかに見わたすことができる。上野や谷中の桜の梢はいつまた見られるかと心細い思いにかられる。

友人たちは昨夜から集まって同じ船に乗って見送ってくれる。

千住という所で船から上がると、前途はるかな旅に出るのだという思いで胸がいっぱいになり、幻のようにはかない現世とは思っても別れの涙が流れる。

-過ぎ去ろうとしているなあ。それを惜しんで、鳥は悲しげに鳴き、

魚の目は涙で潤んでいるようだ-

これを旅先で詠む最初の句として歩き始めたが、なかなか道ははかどらない。

見送りの人々は、道に立ち並んでせめて後姿が見えなくなるまではと見送ってくれるのだろう。)

千住宿は、日光街道及び奥州街道日本橋から第一番目の宿場であり、品川宿東海道)、板橋宿(中山道)、内藤新宿甲州街道)と並んで江戸四宿の一つである。

千住の地名は、鎌倉時代の末期(1327年)、荒井図書政次という人物が荒川から千手観音を拾い上げて勝専寺に安置したことから名づけられたという説や、足利八代将軍義政愛妾・千寿がこの地に生まれたからという説がある。

さて、小塚原跡地から10分ばかり行くと旧道は南千住の交差点で国道4号線に合流し、信号を渡った所に「素戔嗚神社」がある。境内には松尾芭蕉の旅立ちを記念した碑が置かれており、「千住という所で船を上がれば・・・・」の奥の細道の一説が彫られている。また「これを矢立の初めとして・・・・」と書かれた句札が立てられている。

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素戔嗚神社を後にしばらく行くと隅田川に「千住大橋」が架かっている。

この橋は文禄三年(1594年)、隅田川に最初に架けられた橋である。

橋を渡ると「奥の細道矢立初めの地」と彫られた碑が立っている。

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また、「千住大橋と荒川の言い伝え」の木札が立っている。

千住大橋隅田川に架けられた最初の橋です。この川は以前荒川とも渡裸川(とらがわ)とも読んでいました。昔は文字の示すように荒れる川であり、トラ(虎)が暴れるような川と言われていました。こうした川に橋をかけることは難工事ですが、当時土木工事の名人と言われた伊那備前守忠次によって架けられました。千住大橋の架橋については武江年表文禄三年の条に「中流急流にして橋柱支ふることあたわず。橋柱倒れて舟を圧す。
船中の人水に漂う。伊奈氏 熊野権現に祈りて成就す」と書いてあります。
川の流れが複雑でしかも地盤に固いところがあって、橋杭を打ち込むのに苦労したようです。
そうしたことから完成時には、一部の橋脚と橋脚の間が広くなってしまいました。
ここで大亀の話が登場するのです。

大橋と大亀
千住大橋をかける工事のとき、どうしても橋杭がうちこめない場所がありました。川の主の大亀(おおかめ)がこの場所に住んでいて、亀(かめ)のこうらがあったためです。そのため千住大橋の三番目と四番目との間を少し広げたところ、くいをうつことができました。また、この場所は流れが複雑で「亀(かめ)のま」とか「亀(かめ)のます」とよびました。

大橋と大緋鯉

川の主である大緋鯉(おおひごい)が上流と下流を行ったり来たりしていました。千住大橋を作るとき、橋杭を立て始めると、この大緋鯉(おおひごい)がぶつかって橋ぐいがたおれそうになります。大緋鯉(おおひごい)をつかまえようとしましたがうまくいきません。そのため千住大橋の橋杭を1本少し広げて立てかえ、大緋鯉(おおひごい)が自由に泳ぐことができるようにしました。(説明版より)

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先へ進むと足立市場前の交差点の所に芭蕉像と道標がある。芭蕉像の横には「奥の細道・矢立初芭蕉像」と彫られた碑が、道標中央には「日光道中千住宿」左側面に「ひだり・草加」右側面に「みぎ・日本橋」と彫られている。

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道標の向かいには「此処はやっちゃ場南詰」の木札が立っている。

やっちゃ場とは青物問屋が軒を連ね、「やっちゃい」のセリ声が響いていたことに由来する。

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木の塀には

ホトトギス

- 千住出れば奥街道の嵐かな - 子規

- 永き日の古き歴史の市場かな - 虚子

- やっちゃばの主(あるじ)となりて晝寝かな - 為成 菖蒲園(やっちゃ場の俳人

と書かれていた。

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京成本線千住大橋駅のガードを越えると「千住歴史プチテラス」があり、門の所に

 - 鮎の子の しら魚送る 別れ哉 -と彫られた句碑が置かれている。

この句は、芭蕉が千住に着くまでに作られたのだが「奥の細道」千住に合わないととのことで採用されなかったのだという。

その先に、「昭和五年・千住市場・問屋配置図」が立っている。

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「此処は元やっちゃ場北詰」の木札が掛かっており、問屋街はこのあたりまでのようだ。

すぐ先には「源長寺」がある。源長寺は、将軍の鷹狩の時に休憩所として使っており脇本陣も兼ねていた。

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やがて千住高札場跡の標石があり「旧日光道中」側面に「是より西へ大師道」と彫られた道標も置かれている。西へ行くと西新井大使である。

さらに「千住の一里塚」(2番目・日本橋から二里)、「問屋場跡・貫目改所跡」の標石がある。貫目改所は、問屋場が扱う荷の重さを量った所である。

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このあたりが千住宿の中心と思われる。その先が「千住本陣跡」である。

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今日はここまで。北千住駅から上野経由で浦和へ(帰宅)。

奥の細道 一人歩き 1 深川・芭蕉庵

プロローグ

20165月に中山道69次、約135里(約530キロ)を踏破した後、武田信玄隠し湯めぐりなどを楽しんでいたが、ふと「奥の細道」を歩いてみようと無謀な計画を思い立った。

-月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老いをむかふる物(者)は、日々旅にして旅を棲家(すみか)とす。古人も多く旅に死せるあり。― 「奥の細道」書き出しである。

「月日は、永遠に旅を続ける旅客であり、暮れては明ける年もまた旅人である。舟に乗り、舟の上で生涯を終え、馬の轡を取って老いていく者は毎日の生活が旅であり、旅を自分の住み家としているのである。多くの昔の歌人も、旅の途中で死んでしまった。」

と現代語訳されている。

芭蕉は、庵を結んでいた深川から舟に乗り、大川(隅田川)を千住まで行き見送りの人々に別れを告げて日光街道草加へ向かった。

奥の細道」は、旅行記ではない。そのため、芭蕉が歩いた道の詳細は分からないが、おそらく芭蕉が歩いたであろう日光街道奥州街道、出羽街道、北陸街道の街道歩きを楽しみながら東京・深川から「むすびの地」岐阜・大垣まで芭蕉の足跡をたどってみることにする。

 

深川・芭蕉庵(2018318日(日))

- 草の戸も 住み替わる代ぞ ひなの家 - 

街道歩きの前に、芭蕉が庵を結んだ深川に行ってみた。

東京駅・日本橋口を出て呉服橋から永代通りを歩く。日本橋を左に見て茅場町TCAT(東京シティエアーターミナル)をかすめて大川(隅田川)沿いを歩き、清洲橋を渡る。

橋の上から川向こうのスカイツリーが見える。

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清洲橋を渡り、一つ目の交差点を左に行くと小名木川(こなぎがわ)に架かる萬年橋がある。芭蕉庵は橋を渡ったその先である。

橋の袂に「ここから前方に見える清洲橋は、ドイツケルン市に架けられた。ライン河の吊り橋をモデルにしている。」の説明版が置かれている。

万年橋を渡ると、橋の由来と「江戸名所図会」に描かれた芭蕉庵、北斎の「富嶽三十六景」に描かれた萬年橋の碑と「川船番所跡」の説明版がある。説明版によれば萬年橋の袂に小名木川を通る船を取り締まる番所があったのだそうだ。

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萬年橋、北詰から北へ数分歩くと「旧芭蕉庵跡20m」の道標が目に入る。

いって見ると稲荷神社の祠があり芭蕉稲荷神社・芭蕉庵史跡と書かれている。

芭蕉が好んだ石造りの蛙がこのあたりで見つかったことから芭蕉庵があった場所とされているらしい。境内とは言えないほど狭いスペースには、「史跡 芭蕉庵跡」の碑と共に

- 古池や 蛙飛び込む 水の音 - の句碑が置かれている。

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傍らに「深川芭蕉庵旧地の由来」の説明版があり

「俳聖芭蕉は、杉山杉風に草庵の提供を受け、深川芭蕉庵と称して延宝八年から元禄七年大阪で病没するまでここを本拠とし「古池や蛙飛びこむ水の音」等の名吟の数々を残し、またここより全国の旅に出て有名な「奥の細道」等の紀行文を著した。

ところが芭蕉没後、この深川芭蕉庵は武家屋敷となり幕末、明治にかけて滅失してしまった。

たまたま大正六年津波来襲のあと芭蕉が愛好したといわれる石造の蛙が発見され、故飯田源次郎氏等地元の人々の尽力によりここに芭蕉稲荷を祀り、同十年東京府は常盤一丁目を旧跡に指定した。

昭和二十年戦災のため当所が荒廃し、地元の芭蕉遺蹟保存会が昭和三十年復旧に尽した。

しかし、当所が狭隘であるので常盤北方の地に旧跡を移転し江東区において芭蕉記念館を建設した。(芭蕉遺跡保存会)」と書かれている。

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さて、元の道に戻り200mばかり北へ行くと「芭蕉記念館」がある。

冠木門を入ると庭園になっていて細い坂を登って行くと芭蕉庵と芭蕉座像が復元されている。

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庭園には句碑が3基置かれている。

写真左から

- 草の戸も 住み替わる代ぞ ひなの家 -

- 川上と この川しもや 月の夜 -

- ふる池や 蛙飛び込む 水の音 -

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本館の入場料は、500円。(深川江戸資料館、中川船番所資料館にも入場できる。)

館内には数多くの資料が展示されている。

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さて、裏木戸を出て、隅田川沿いをしばらく南へ戻ると芭蕉記念館が管理する「江東区芭蕉庵史跡展望庭園」があり芭蕉像や「小名木川五本松と芭蕉の句」の説明版などがある。

(ここは、先ほど訪れた芭蕉稲荷神社のすぐ横になる。説明版には、

松尾芭蕉は延宝年(1680年)冬より小名木川隅田川が合流する辺りにあった深川芭蕉庵に住んでいました。「奥の細道」の旅を終えた芭蕉は元禄6年(1680)、50歳の秋に小名木川五本松のほとりに舟を浮かべ、「深川の末、五本松といふところに船をさして」の前書きで「川上とこの川下や月の友」の一句を吟じました。この句は、「今宵名月の夜に私は五本松のあたりに舟を浮かべて月を眺めているが、この川上にも風雅の心を同じゅうする私の友がいて、今頃は私と同様にこの月を眺めていることであろう」の意で、老境に入った芭蕉が名月を賞しながら友の事を想う心が淡々と詠まれています。・・・・・・・」と書かれている。

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芭蕉記念館は、深川江戸資料館と共通の入場券になっているので江戸資料館にも行ってみることにする。途中には、深川七福神布袋尊を祀った「深川稲荷神社」がある。また、このあたりは両国に近いせいか相撲部屋がいくつかある。

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深川稲荷神社から清澄通りに出て門前仲町方面へ向かって歩くと15分程で江戸資料館に着いた。

都営地下鉄大江戸線清澄白河駅から3分程の所である。

中は、江戸時代の長屋の風景や大川端の船宿などが再現されている。

大川端の船宿は、NHKなどでドラマ化された平岩弓枝原作の「御宿かわせみ」のイメージである。但し「かわせみ」は旅籠でここに再現されているのは船宿である。

江戸の旦那衆が舟遊びのあとここで酒・食を楽しんだのだという。

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長屋は、ストーリー仕立てになっており美人のガイドさんが色々説明してくれる。地方から江戸へ出てきた若者、近くの米屋の奉公人、嫁ぎ先の亭主に死に別れ、三味線を教えている女性などが登場人物である。

なかなか楽しいひと時であった。

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江戸資料館を出て、清澄通り門前仲町まで歩き、「成田山深川不動堂」に参詣し、これから先の旅の安全を祈願することにする。

今日は日曜日、海外の観光客と日本人の参拝客で深川不動堂の境内は大賑わいであった。

成田山・別院 深川不動堂は、町民文化が花開いた江戸中期、元禄年間には不動尊信仰が急激に広まった。深川不動尊は、犬公方で知られる五代将軍・徳川綱吉の母、桂昌院の希望により成田山から江戸へご本尊が奉持されたのだという。

ちなみに不動明王のご真言は、「のーまく さんまんだー ばーざらだん せんだー まーかろしゃーだー そわたや うんたらたー かんまん」

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本日は、ここまで。

永代通りを東京まで歩いて上野・東京ラインで浦和へ。(帰宅)

中山道旅日記 25 山科-京・三条大橋(最終回)

34日目(521日(土))山科-京・三条大橋

中山道一人歩きも山科から京の道のりを残すのみとなった。

中山道69次最後の一日である。

JR草津駅から山科駅に戻り街道に出たのが午前9時過ぎ、しばらく行くと「東海道」側面に「大津札の辻まで一里半」と彫られている道標が「車石」、「車石の説明版」と共に置かれている。その先には「五条別れ道標」が置かれていて、正面には「右ハ三条通」左側面に「左ハ五条橋ひがしにし六条大佛・今くまきよ水道」右側面に「願主 沢村道範建立」と彫られている。

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街道は三条通りに合流し、しばらく行くと「天智天皇山科陵(てんちてんのうやましなのみささぎ)」の入り口がある。

扶桑略記には「大化の改新中臣鎌足藤原鎌足)と共に蘇我入鹿(そがのいるか)を暗殺し、蘇我氏を滅ぼした中大兄皇子は、大津に都を移し天智天皇となった。天智天皇はある時、馬で山科に行ってそのまま戻らなかった。そこで沓が見つかった山科に墓を造った」との伝承が記されている。

天智天皇は病気により死亡したと日本書紀には書かれているのだが・・・・・。

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広い道路を渡り「旧東海道」の表示に従って旧道に入っていく。少し歩くと旧道は京へ入る「日ノ岡峠」越えの上り坂になっている。

坂を上ると「亀の水不動尊」がある。不動尊の入り口には亀の口から清水が湧き出ている珍しい水場がある。当時、江戸からの旅人は京を目の前にしてここで喉を潤して最後の峠を越えていったのだろう。

「亀の水不動尊は、一七三八(元文三)年、日ノ岡峠の改修に尽力した僧・木食(もくじき)正禅が結んだ庵(いおり)の名残で、峠の途中に構えた庵は休息所を兼ね、井戸水で牛馬の渇きをいやし、湯茶で旅人を接待したとされる。」(京都新聞・道ばた資料館より)

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峠道をしばらく上ると民家の前にひっそりと「旧東海道」の道標が置かれている。

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旧道はやがて三条通に合流するが交差点北側の山肌に「旧舗石・車石」の石盤がはめ込まれている。

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その先10分程の所に日向大明神の鳥居が見えてくる。

社伝によれば、第二十三代・顕宗天皇の御代に筑紫日向(ちくしひゅうが)の高千穂の峯の神蹟より神霊を移して創建されたのだそうだ。

応仁の乱で社殿は焼失したが江戸時代初期に再建され、現在は交通祈願の神社として有名になったとのことである。

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更に20分ばかり歩くと「三條通・東大津道」と彫られた道標が置かれておりすぐその先に「粟田神社」がある。

そこには「粟田焼発祥の地」と彫られた碑が立てられている。粟田焼は洛東粟田地域で生産された陶器の総称で,元来は粟田口焼という名称であったが,窯場が粟田一帯に拡大されたため粟田焼と呼ばれるようになった。

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そこから5分程歩いたところに「坂本龍馬 お龍結婚式場跡」の碑が置かれており、説明版が添えられている。

「当地は青蓮院の旧境内で、その塔頭金蔵寺跡です。元治元年(1864)8月初旬、当地本堂で、坂本龍馬と妻お龍()は「内祝言」、すなわち内々の結婚式をしました。 ・・・・・」(説明版より)

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すぐ先の白川橋の横に「是よりひだり ちおんゐん ぎおん きよ水みち」と彫られた「三条白川橋道標」が置かれている。これは延宝六年(1678)に建立された京都最古の道標なのだそうだ。

ここを左折し、川沿いをしばらく行くと路地の奥に「明智光秀の塚」がある。

山崎合戦(天王山の戦い)で秀吉に破れた光秀は、坂本城を目指して落ち延びる途中百姓に竹槍で刺されその後、自刃した。介錯をした家臣の溝尾茂朝が光秀の首を持ってこの近くまで来たが、夜が明けたためこの地に埋めた、と伝えられている。

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白川橋まで戻り歩くこと約15分「高山彦九郎皇居望拝之像」が置かれている。

高山彦九郎は江戸時代後期、勤皇を唱えて諸国を歩いた人物だそうだ。

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そしてすぐ先が鴨川に架かる三条大橋である。

鴨川は京都を代表する川で桟敷岳(さじきだけ)を源とし京都市街を流れて淀川に合流する。古くから多くの歌人が鴨川を題材にして歌を詠んでいる。

-鴨川の後瀬(のちせ)静けく 後も逢はむ 妹には我れは今ならずとも- 万葉集(二三四一)

-千鳥なく かもの河瀬の夜半の月 ひとつにみがく 山あゐのそで- 藤原定家

-みそぎする 賀茂の川風吹くらしも 涼みにゆかむ妹をともなひ- 曾禰好忠
-ちはやぶる賀茂の社の木綿襷(ゆうだすき)一日も君をかけぬ日はなし- 詠人不知(古今集

-かも河の みなそこすみて てる月を ゆきて見むとや 夏はらへする- 詠人不知(後撰和歌集

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橋の西詰に「弥次さん喜多さん」の銅像がある。横の立て札には「道中安全祈願・ふれあいの弥次喜多さん 旅は道づれ 世は情け 道中安全願いつつ ふれて楽しい 旅のはじまり」と書かれている。

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2016521日午前115分、中山道69次・百三十五里三十四町八間(約530キロ)

完全踏破。

 

エピローグ

2015521日(木)に日本橋をスタートした中山道一人歩きの旅はちょうど1年後の2016521日(土)京・三条大橋に着き、約530キロを踏破することができた。

延べ34日の旅であった。

中山道・第三宿「浦和」に住んでいるという単純な理由で軽い気持ちで始めた街道歩きであったが日を重ねるごとに面白くなり、途中からはガイドブックや「木曾路名所図会」で事前に見どころをチック、歩いた後は資料を調べるといった楽しみが加わった。

更に「太平記」、「平家物語」、「十六夜日記」や十返一九の「続膝栗毛」などの古典文学を読みながらの旅でもあった。

中山道は、東京・埼玉から群馬、長野、岐阜といった中央山岳地帯を貫いた街道で碓氷峠和田峠塩尻峠、鳥居峠馬籠峠、十三峠、摺針峠など当時は難所といわれた峠を越えなければならない。碓氷峠の頂上に立った時の感動、1日中誰にも会うことがなかった12月の和田峠越え、十三の峠を上り下りする長い峠道、琵琶湖を望める摺針峠など汗を拭き拭きの峠越えはそれぞれに趣があった。
木曽路の奈良井、福島、妻籠、馬籠など昔の風情を残す宿場町、東京をそのまま移動させたような軽井沢、温泉を楽しんだ下諏訪、山の中に取り残されたような大湫、細久手、強い雨に打たれた赤坂など思い出は尽きない。

その土地、土地に古くから語り継がれた伝説や伝承、歴史上の人物にまつわる逸話などにも触れることができた。

多くの古人が歌を詠んだ歌枕の地を訪れ、芭蕉や一茶の俳句にも出会った。

時には、関が原の合戦や壬申の乱、皇女和宮の降嫁、木曽義仲とその愛妾・巴、源義経とその母常盤御前など数々の歴史に思いをめぐらしたものである。

中山道旅日記 完

中山道旅日記 24 草津宿-大津宿

33日目(520日(金))草津宿-大津宿-山科

午前8時前にホテルを出て街道へ。

68宿 草津宿・本陣2脇本陣2、旅籠72

(日本橋より129108間 約507.7キロ・守山宿より118町 約5.9キロ)

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中山道は、草津宿東海道と合流する。中山道の第68宿・草津宿東海道の第52宿でもあり、次の大津宿は中山道69宿、東海道53宿ということになる。草津宿平安時代から東山道東海道の分岐点として大いに栄え、東山道中山道と改名されてからも交通の要所として重要な位置を占めていた。

「守山まで一里半。此駅、東海道木曽路街道・尾張道等喉口(ここう)なれば賑し。宿中に立木明神(たつきみょうじん)のやしろ、上善寺、駒井氏(こまいうじ)や活人石(かつじんせき)等あり。尋ねて見るべし。」(木曾路名所図会)

大路の交差点を渡った所からアーケードが付いた商店街だがこの道も中山道である。

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商店街をぬけてしばらく行くと中山道東海道の追分道標が立っている。文化十三年(1816)に建てられたものだそうで「左 中仙道美のぢ 右 東海道いせみち」と彫られている。昔の旅人が中山道東海道に分かれていった所で色々なドラマが繰り広げられたに違いない。江戸からの旅人は、京はもうすぐだと実感しただろう。

道標の右には高札場跡がある。ここには「右 東海道いせみち」「左 中山道みのみち」と書かれた立て札も立っている。

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マンフォールの蓋にも「東海道中山道分岐点慶長七年」と書かれ、道しるべになっている。

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先の公民館の前に「尭孝(ぎょうこう)法師歌碑」が置かれていて、歌の解説などが書かれた説明版が添えられている。
-近江路や 秋の草つは なのみして 花咲くのべぞ 何処(いずこ)ともなき- 覧富士記
「将軍のお供をして富士を見に行く途中、秋の近江路草津まで来たが、草津とは名ばかりで、秋の草花が咲いた美しい野辺を思い描いていただけに心寂しい思いをするものだよ。

堯孝法師(一三九〇~一四五五)」(説明版より)

ちなみに、将軍とは「足利幕府六代将軍義教(よしのり)」のことである。

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その先が「草津宿本陣」である。ここは現存する本陣の一つで今も当時のままの姿をとどめている。ここには、忠臣蔵の・播州赤穂の藩主・浅野内匠頭新選組土方歳三、皇女和宮シーボルトなども宿泊したのだそうだ。中には当時の貴重な資料が展示されているそうだが、早朝の為入館できなかった。

入り口には「細川越中守宿」の関札も掲げられている。

≪関札(せきふだ)宿札(やどふだ)について≫

「関札は別名、宿札ともいい、江戸時代に大名や公卿、門跡、旗本や幕府役人などが本陣に休泊する標識として、休泊する者の氏名や官職、休泊の別(宿・泊・休など)を記し、尺廻り(約30センチ)高さ3間(約5.5メートル)の青竹に取り付け、本陣の前や宿場の出入り口に立てられたものである。」

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本陣の向かいに「和食材 ベーカリー&カフェ・脇本陣跡」と表示されている店があるがここが脇本陣跡なのだろうか?傍らに「脇本陣跡」の碑が立っているのだが・・・・。

先へ行くと「草津宿街道交流会館」の札が掛かっている建物があるがここもまだオープンしていない。入り口には「右・東海道大津宿、左東海道石部宿 中山道守山宿」と書かれている。

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先へ行くと、「道灌」と記されたこも被り(こもかぶり)が置かれている建物がある。ここは造り酒屋「太田酒造」で、先祖は江戸城築城の祖、太田道館だそうだ。

(こも被り=薦(こも)でおおった四斗(約72リットル)入りの酒樽のこと)

 

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先の道路を渡ると「立木神社」がある。境内の自然公園立木の森には「石造道標」があって「みぎハたうかいとういせミち ひたりは中せんたうをた加みち」とほられている。これは文化三年(1806)に立てられた現在の追分道標以前の延宝八年(1680)に立てられたそうである。

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その先の草津川に架かる矢倉橋を渡って5分程行くと当時立場として賑わったところで瓢泉堂という瓢箪を売る店がある。この店は草津名物の「姥が餅」を売る茶店の跡だそうだ。その店先に「やばせ道」道標が立てられている。ここは 東海道と矢橋街道(やばせかいどう)の追分で、道標には「右やはせ道、これより廿五丁」と彫られている。(矢橋道は、東海道中山道の合流地点から南西に1キロ余りいった所で東海道と分かれて、琵琶湖畔矢橋(やばせ)の渡しに至る25町の道である。矢橋から大津、石橋の渡しまでの湖上をあわせ、瀬田の唐橋経由の陸路に比べて2里ほどの短縮となった。)

この道標は広重の「東海道五拾三次之内 草津」に描かれている。

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「やばせ道」道標から5分程先には稲荷神社さらにその先の上北池公園には「野路一里塚跡」の碑が置かれている。これは江戸から百三十番目の一里塚である。(百二十九番目は確認できなかった。)

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その先には、野路の玉川跡があり小さな泉が復元されており、源俊頼の歌碑が立っている。

「野路の地名はすでに平安時代の末期にみえ、平家物語をはじめ、多くの紀行文にもその名をみせている。野路の玉川は、日本六玉川の一つで歌枕の名勝である。 

-あすもこむ 野路の玉川萩こえて 色なる波に 月やどりけり- 源俊頼 (千載集)

またこの地は萩の名所として「萩の玉川」ともいわれ「近江名所図会」は歌川広重の浮世絵にも紹介されている。」(説明版より)

木曽路名所図会には「野路の篠原のこなたに玉川の跡あり。これ六ツ玉川の其の一つなり。

-さを鹿の しからむ萩に秋見へて 月も色なる 野路の玉川- 太宰権師仲光 (新拾遺集)」とある。

また阿仏尼は十六夜日記の中で

-のきしぐれ ふるさと思う 袖ぬれて 行きさき遠き 野路のしのはら-

と詠んでいる。

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さて、玉川を過ぎてしばらく行くと弁天池と呼ばれる池があり池の中ほどに弁天島が浮かんでいる。この島には弁財天が祀られているが、江戸時代の大盗賊・日本左衛門が隠れていたという伝説も残っているのだという。日本左衛門は歌舞伎十八番・白波五人男の一人である。

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弁天池を後に旧道を歩いていくと月輪寺がある。入り口には正面に「東海道」右側面に「濱道」と彫られた道標や「明治天皇御東遷駐輦之所」の碑などが置かれている。

この寺は明治天皇だけではなく徳川第十四代将軍家茂も休息を取ったという記録が残っているそうだ。

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その先には月輪池と呼ばれる池があり「東海道立場跡」の碑が立っている。このあたりも当時は立場で賑わったのだろう。10分程先へ行った交差点に一里塚跡の碑が置かれている。江戸から百三十番目の「月輪池一里塚」である。また、道標が立てられていて「上矢印・三条大橋迄で五里余り、下矢印・江戸日本橋迄で百二十里余り(東海道)、左矢印・旧朝倉道信楽より伊勢、桑名に至る、右矢印・膳所藩札場より大萱港常夜灯に至る」と

彫られている。

-くたびれたやつが見つける一里塚-という川柳がある。ここで一休みとしよう。

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ここから先はこれということもなく淡々と歩いていくことになる。一時間余り行くと「左・旧東海道」「右・瀬田唐橋」彫られた碑がある。道標通り右へ行くと5分ばかりで瀬田の唐橋である。橋の袂には常夜灯と「松風の帆にはとどかず夕霞 茶粋」と彫られた歌碑が立っている。(茶粋とは誰のことかわからない。)

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瀬田の唐橋については書くことが多い。

琵琶湖に架かる瀬田の唐橋は、「瀬田の長橋」とも呼ばれ近江八景「瀬田の夕照」で知られる日本三大名橋の一つで、古くは近淡海(ちかつあわうみ)とも鳰海(におのうみ)とも呼ばれた琵琶湖と共に多くの古人が歌を詠んだ歌枕の地である。

瀬田の唐橋

-まきの板も苔むすばかり成りにけりいくよへぬらむ瀬田の長橋- 中納言・大江 匡房(おおえ の まさふさ)(新古今集/雑中の巻)

-望月の駒ひきわたす音すなり瀬田の長道橋もとどろに- 平兼盛(麗花集)
-ひき渡す瀬田の長橋霧はれて 隈なく見ゆる望月の駒- 藤原顕季(堀河院御時百首和歌)
-五月雨に かくれぬものや 勢多の橋- 芭蕉

≪琵琶湖(近淡海(ちかつあわうみ)、鳰海(におのうみ))

-淡海の海夕波千鳥汝なが鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ- 柿本人麻呂万葉集

三 二百六十六番)
-鳰の海や霞のをちにこぐ船の まほにも春のけしきなるかな- 式子内親王

(新勅撰和歌集
-石山や鳰の海てる月かげは 明石も須磨もほかならぬ哉- 近衛政家
-鳰の海や月のひかりのうつろへば浪の花にも秋は見えけり- 藤原家隆新古今和歌集

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次に瀬田の唐橋は古くは日本書紀にも記述があり、古来より「唐橋を制する者は天下を制す」といわれ軍事・交通の要所であった。

摂政元年、香坂皇子(かごさかのみこ)と忍熊皇子(おしくまのみこ)が反乱。忍熊皇子神功皇后(じんぐうこうごう)(応神天皇の母)の家来である武内宿禰(たけうちのすくね)の軍に攻められ、瀬田で自害したという(『日本書紀』 気長足姫尊 神功皇后)。

天武天皇元年(672)に起こった古代日本最大の内乱、壬申の乱(じんしんのらん)では天智天皇の皇子・大友皇子とその叔父大海人皇子(おおあまのみこ)との間に皇位継承の戦いが起き、その最終決戦の場が瀬田の唐橋であった。結果、大海人皇子が勝利し天武天皇となる。

治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)(源平合戦)(11801185)では木曽義仲平氏源義経木曽義仲がここで戦っている。

承久三年(1221)の承久の乱(じょうきゅうのらん)では、後鳥羽上皇方と鎌倉幕府方が瀬田の唐橋を挟んでの戦闘となった。結果、幕府方勝ち幕府の権力は強くなり、後鳥羽上皇隠岐へ流罪となる。

琵琶湖から流れ出る川は瀬田川だけで、東から京へ入るには瀬田川か琵琶湖を渡るしかなく瀬田川に架かる唯一の唐橋は軍事上最も重要であった。

武田信玄は死の床にあって「瀬田橋に我が風林火山の旗を立てよ」と命じたそうである。

また、瀬田の唐橋(瀬田橋、勢多の唐橋)は「急がば回れ」の諺の由来の橋でもある。

室町時代連歌師・宋長(そうちょう)は「もののふの矢橋の舟は早けれど急がば回れ瀬田の長橋」と詠んだ。

「やばせ道標」の時にも書いたが、江戸時代、草津から京へ入るには東海道の陸路を行くか矢橋の渡しから海路琵琶湖を横断するかの二通りである。海路の方が二里ほど短縮されるが比叡山から吹き下ろす突風(比叡おろし)のため危険で遅れることが多くかったようである。急ぐ時には危険な近道より遠くても安全な本道の方が結局は早く着く。安全で着実な方法を選択すべしという戒めである。

そしてここには「俵の藤太のムカデ退治伝説」も残っている。

瀬田の唐橋 俵藤太秀郷むかで退治≫

室町時代藤原秀郷(ふじわらのひでさと)は、誰もが恐れていて近寄りもできなかった瀬田橋に横たわる六十六メートルもの大蛇の背をやすやすと踏み越えた。すると、大蛇は爺さんに姿を変えて秀郷の前に現れ、三上山の大ムカデが夜な夜な琵琶湖の魚を食いつくしてしまい、人々が大変困っているという。そこで爺さんは大蛇に姿を変えて勇気のある豪傑を待っていた。秀郷は、こころよく大ムカデ退治を引き受けた。秀郷の射た矢が見事に大ムカデの眉間を射貫き、大ムカデは消え失せた。この秀郷の武勇をたたえて爺さんが招待したところが瀬田橋の下、竜宮であった。琵琶湖に暮らす人々を守るべく一千年余の昔から瀬田橋に住むという。秀郷は一生食べきれないほどの米俵を土産に竜宮を後にした。そこから「俵藤太」の名が付けられたとされている。」(説明版より)

続膝栗毛には「ゆくほどなく、やがて瀬田の長はしにいたる。此所はたはら藤太がむかし、みかみやまのむかでをたいじせし所なりといひつたふ。

-其むかし ばなしを今もみかみ山 むかでの足ににたるはし杭-」と書かれている。

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瀬田の唐橋を渡って大津に入る。道標に従って歩いていくと「膳所城勢多口総門跡」の碑がさりげなく民家の門前に置かれている。

膳所城は徳川家康関ケ原の合戦後築城の名手といわれた藤堂高虎に造らせた城で湖水を利用して西側に天然の堀を巡らせた典型的な水城で白亜の天守閣や石垣、白壁の塀・櫓(やぐら)が湖面に浮かぶ美観は、「瀬田(せた)の唐橋(からはし)唐金擬宝珠(からかねぎぼし)、水に映るは膳所の城」と里謡(さとうた)にも謡(うた)われている。

その先には「若宮八幡神社」がありさらにその先には「膳所城中大手門」の碑が置かれている。

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15分程歩くと「和田神社」があり神社の本殿は国の重要文化財に指定されており、門は膳所藩の藩校「遵義堂(じゅんきどう)の門を移築したものだそうだ。境内には650年の樹齢を誇る「いちょう」の大木がそびえている。

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さらに10分程行くと「石坐(いわい)神社」がある。社伝によると、この神社は瀬田に設けられた近江国府の初代国造・治田連(はるたのむらじ)がその四代前の租・彦坐王命(ひこいますみのみこ)を茶臼山に葬り、その背後の御霊殿山を神体山(神奈備(かんなび))として祀ったのが創祀だとか。

神奈備(かんなび):神道において、神霊(神や御霊)が宿る御霊代(みたましろ)や依り代(よりしろ)を擁した領域のこと)

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石坐神社から約10分で「義仲寺(ぎちゅうじ)」である。近江の国・粟津の地で源頼朝の命を受けた義経軍と戦い壮絶な最期を遂げた木曽義仲を葬った寺である。この寺は後に髪を下ろして尼僧となった巴が義仲の墓所近くに草庵を結んで「われは名も無き女性(にょしょう)」と称し、日々義仲を供養したことにはじまると伝えられる。寺は別名、巴寺、無名庵、木曽塚、木曽寺とも呼ばれたという記述が鎌倉時代後期の文書にみられるという。巴の美貌は尼になっても衰えず、里人からその名を聞かれても「我は名もなき女性(にょしょう)」と答えるばかりであったという。

巴の死後、寺は荒廃したが後に近江守・佐々木氏により再興された。

江戸時代中期までは木曽義仲を葬った小さな塚であったが、周辺の美しい景観をこよなく愛した松尾芭蕉が度々この地を訪れ、死後生前の遺言によってここに墓が立てられたと言われている。

寺務所の横に巴地蔵が祀られ、境内には義仲の墓と共に芭蕉の墓、巴塚、山吹供養塔、無名庵、朝日堂、翁堂、芭蕉の歌碑などがある。

義仲寺(左)、巴地蔵(右)

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無名庵(左)、朝日堂(中)、翁堂(右)

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義仲の墓(左)、芭蕉の墓(右)

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芭蕉の句碑が一基

-木曽殿と背中合わせの寒さかな-

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≪巴塚(供養塚)≫

木曽義仲の愛妻 巴は義仲と共に討死の覚悟で此処粟津野に来たが、義仲が強いての言葉に最期の戦を行い、敵将恩田八郎を討ち取り涙ながらに落ち延びたが後鎌倉幕府に捕えられた。その後、和田義盛の妻となり義盛戦死のあとは尼僧となり各地を廻り当地に暫く止まり 亡き義仲の菩提を弔っていたという。それより何処ともなく立ち去り、信州木曽で九十歳の生涯を閉じたと云う。」(説明版)

≪山吹供養塔≫

「山吹は義仲の妻、そして妾とも云う。病身のため京に在ったが、義仲に逢わんと大津まで来た。義仲戦死の報を聞き悲嘆のあまり自害したとも捕られたとも云われるその供養塚である。元大津駅前に在ったが大津駅改築のため此の所に移されたものである」(説明版)

-木曽殿をしたひ山吹散りにけり- 

山吹地蔵がJR琵琶湖線大津駅のすぐそばにあるというのだが・・・・・。

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巴を詠んだ歌碑が二基

-かくのごとき をみなのありと かってまた おもひしことは われになかりき-

-としつきは 過ぎにしとおもふ 近江ぬの みずうみのうへを わたりゆく月-

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松尾芭蕉の歌碑が三基

-行春を おうみの人と おしみける-(左)

-古池や 蛙飛びこむ 水の音-(中)

-旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る-(右)

 

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義仲寺を出て20分ほど歩くと「京町三丁目・旧東海道」と書かれた道標が目に入る。このあたりの町並みは昔の面影を少し残している。いよいよ大津宿の入り口である。

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69宿 大津宿・本陣2脇本陣、旅籠72

(日本橋より132348間 約522.1キロ・草津宿より324町 約14.4キロ)

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大津は古く壬申の乱(じんしんのらん)の舞台となったところで、その後宿駅と琵琶湖の物資が集散する商業地として栄えた。また東海道中山道の宿駅が重なり北陸海道の起点であったので大いに賑わった。

木曽路名所図会には「京師(けいし)よりここまで三里、これより草津まで三里半六町、(光行紀行)ここはむかし天智の帝、大和国飛鳥岡本みや(やまとのくにあすかかもとのみや)より、淡海(あふみ)の志賀郡に都うつりありて、大津の宮をつくらせ給うときくにも、ふるき皇居の跡ぞかしと覚て

-ささ波や大津の宮のあれしより名のみ残れる志賀のるふ里- 光 行

此駅は都よりはじめてのところなればにや、旅舎(たびや)人馬多くこぞりて喧し(かまびすし)。浜辺のかたは、淡海国(あうみのくに)に領ぜらるる諸侯の蔵やしきならび、入船出船賑ひ、都て(すべて)大津の町の数九十六町ありとなん。」とある。」

さて、大津宿に入ると「露国皇太子遭難之地碑」が立っている。ここはロシア帝国の皇太子が大津の警察官に突然切りつけられた暗殺未遂事件(大津事件)のあった所だそうだ。

街道は路面電車が走る広い道路に出会うが交差点を渡った所が札の辻で「大津市道路元票」の碑と共に「札の辻」の道路標識が立っている。ここは高札場であったが越前敦賀へ通じる北国海道の起点でもある。すぐ先には近松別院の道標も置かれていて表面には「是より半町 京・大坂・江戸・大津講中」、側面には「蓮如上人近松御旧跡」裏面には「延享三丙寅年五月是を建つ」と刻まれています。

十返舎一九の続膝栗毛には「人の心の長旅に足曳(あしびき)の山留(やまどめ)して(足曳は山にかかる枕詞)、朝もよい木曽街道を心ざし、今や東都へ帰り道なる弥次郎兵衛きた八は、播州路よりすぐに尼ケ崎から神崎のわたしをこえて、山崎街道を伏見に寄宿し、あくればここを立出て、はやくも札の辻なる追分町にぞ出たりけり。此所は名におふ大津絵の名物、みすや針十算盤(そろばん)など、家ごとにあきなふ見えたり。

-筆勢(ひっせい)を 見世にならべて商内(あきない)も 時に大津の 得(え)ものなるべし-」(続膝栗毛・三編・上巻)と書いている。

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札の辻からは緩やかな上り坂でその先に明治天皇聖跡と刻まれた碑が立っていて「大津宿本陣跡」の説明版が立てられている。説明版によると大津宿には2軒の本陣と1軒の脇本陣があったが、ここは大塚本陣があった所だそうだ。

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さらに坂道を上っていくと、京阪電鉄の踏切の向こうに石灯籠、その横に「関蝉丸神社」と「音曲藝道祖神」の石碑が並ぶ。「蝉丸神社下社」である。

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踏切を渡り、鳥居をくぐると蝉丸の歌碑その先には紀貫之の歌碑が置かれている。

-これやこの ゆくもかえるもわかれては しるもしらぬも 逢坂の関- 蝉丸(百人一首第十番)

-逢坂の 関の清水に影見えて いまやひくらん 望月の駒- 紀貫之

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本殿の左手奥には「時雨燈籠」がある 。説明版によるとこれは鎌倉時代の様式をもつ超一級の燈籠で国の重要文化財に指定されている。

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蝉丸神社を出てしばらく行くと「逢坂」の由来が書かれた碑が立っている。

「竹内宿禰(たけのうちのすくね)がこの地で、忍熊王とばったり出会ったことに由来する」のだそうだ。

街道はその先で国道1号線に合流し、がやがて「蝉丸神社上社」が見えてくる。国道は緩やかな上り坂になっていて坂を上り切った所に「逢坂常夜灯」と「逢坂山関址碑」が置かれている。

逢坂関(おうさかのせき)は山城国近江国の国境(くにざかい)にある関所で東海道東山道(後の中山道)がこの逢坂関を越えるため、交通の要(かなめ)となる重要な関所であった。平安時代中期以後は東山道不破関東海道鈴鹿関と共に三関の一つとされている。

また、逢坂関は歌枕としても知られ、蝉丸の歌と共に清少納言、三条右大臣の歌が百人一首に選ばれている。

-夜をこめて鳥の空音ははかるとも よに逢坂の関はゆるさじー 清少納言百人一首第六十二番)

-名にし負はば逢坂山のさねかづら 人に知られでくるよしもがな- 三条右大臣(百人一首第二十五番)

(ちなみに百人一首の第一番は-秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ(天智天皇))

他にも

-逢坂の 関に流るる岩清水 言はで心に 思ひこそすれ- 読人知らず
-わきて今日あふさか山の霞めるは立ちおくれたる春や越ゆらむ- 西行

などがある。

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先へ行くとポケットパークがあり、蝉丸神社の碑や「車石」の説明版が置かれている。

≪車石≫

「大津と京都を結ぶ東海道は、米をはじめ多くの物資を運ぶ道として利用されてきた。
江戸時代中期の安永八年(1778)には牛車だけでも年間15894輌の通行があった。この区間は、大津側に逢坂峠、京都側に日ノ岡峠があり、通行の難所であった。
京都の心学者 脇坂義堂は、文化二年(1805)に一万両の工費で、大津八町筋から京都三条大橋にかけての約12kmの間に牛車専用通路として、車の轍(わだち)を刻んだ花崗岩の切石を敷き並べ牛車の通行に役立てた。これを「車石」と呼んでいる。」(説明版)

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国道1号線を下り名神高速の下を通って旧道に入る。しばらく行くと「みぎハ京ミち」「ひだりハふしミみち」と彫られた追分道標が「蓮如上人御塚」と彫られた碑と共に立っている。ここは髭茶屋追分ともいわれ、道標の左方向の道路が、伏見、淀、大坂方面への伏見街道(奈良街道)で、この道路から京都市山科区になる。

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旧道は、三条通りへ出てすぐに国道1号線を横断するが、歩道橋を渡るとすこし登り坂になり、民家の石段の端に「牛尾山」と書かれた小さな道標がひっそりと置かれている。

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旧道は再び三条通りに合流するが手前の三叉路に「小関越の道標」がある。東海道大関越えと呼んだのに対し、ここから小関峠を越えて小関町に続く道を小関越えと呼び京都から大津の町中を通らずに北陸へ行く近道(間道)として利用されたのだという。

正面に「三井寺観音」右側面に「願諸来者入玄門」左側面に「小関越」と彫られている。

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そこから30分程歩くとJR山科駅である。今日の宿泊も草津のホテル21。昨今は外国の観光客が多く京都近くの手ごろなホテルは全く取れない。草津のホテルに連泊である。

 

中山道旅日記 23 武佐宿-守山宿-草津宿

32日目(519日(木))武佐宿-守山宿-草津宿

近江鉄道近江八幡駅から武佐駅まで戻り街道へ。このあたりは桝形になっていて、桝形を抜け、近江鉄道の踏切をこえると宿外れとなりしばらく行くと「伊庭貞剛(いばさだたけ)誕生地」がある。伊庭は住友財閥が所有する別子銅山を立て直した人物だそうだ。

旧道はその先で国道に合流するが、この道路は歩道がないので極めて危険である。

六枚橋の交差点を右折し旧道に入って数分歩くと小さな公園がありその奥に「住蓮坊首洗い池」なるものがある。鎌倉時代後鳥羽上皇の怒りに触れた、住蓮坊(じゅうれんぼう)(法然上人の弟子)が処刑された時にその首を洗った池だそうだ。(法然上人は鎌倉時代の有名な僧で浄土宗開祖の人として知られている。

その先、旧道は再び国道に合流し、しばらく行くと左手奥に古墳が見える。住蓮坊古墳と呼ばれていて、千僧供古墳群(せんぞくこふんぐん)の一つである。古墳の上には住蓮坊と安楽坊の墓が並んでいる。(安楽坊遵西(あんらくぼうじゅんさい)は後鳥羽上皇の女房たちが遵西達に感化されて出家した件で罪に問われ、弟子とともに京都で斬首刑に処せられた。)

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先へ進み白鳥川に架かる千僧供橋(せんぞくばし)を渡る。(千人の僧が供養したから千僧供(せんぞく)というのだそうだ。

その先、しばらく歩いた馬淵交差点を越えたところに八幡神社がある。社伝によれば白河天皇の時代に源義家が奥州軍征の途中 この地に霊験を受けたとことにより応仁天皇の霊を勧請して武運の長久を祈願し八幡社の造営をしたとある。元亀二年(1571織田信長の兵火によって焼失したため 文禄五年(1596)に再建したものが現在の本殿であると伝えられる。

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すぐその先、右手に旧道が復活し、30分程行くと土手に出るがここが「横関川渡し跡」で当時はここから対岸へ舟で渡ったということだ。

広重が浮世絵「中山道六十九次の内・武佐」を描いた場所で、説明板が立っている。

中山道は別名「木曽海(街)道」とも呼ばれていた。その中山道六十九次の第六十七番目が武佐宿である。この絵は浮世絵師安藤広重が武佐の西にある日野川(横関川)の舟渡しの様子を描いたものである。」(説明版より)

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その先、日野川の土手を歩き国道に合流した後横関橋を渡り、再び土手を歩く。「横関川渡し跡」の対岸あたりから西横関の集落である。旧道はすぐに国道に合流し西横関の信号の所に「是よりいせみち」側面に「ミなくち道」と彫られた道標が置かれている。この先に善光寺川が流れているが当時はここから善光寺川に沿って水口(みなぐち)や伊勢に向かう人々が利用したのだろう。

さて、善光寺川を渡り、左手の旧道に入ると「鏡の里」と呼ばれる「間の宿(あいのじゅく)」で鎌倉時代はかなり大きな宿駅であった。「亀屋跡」、「京屋跡」といった旅籠屋跡が並んでいる。

旧道が国道と合流する手前に「愛宕山」と彫られた石灯籠が立っている。国道に合流するとさらに「吉野家」「吉田屋」「升屋」といった旅籠屋跡が並んでいる。

木曽路名所図会には「鏡宿(かがみの宿) むかしは駅なりしか、今は馬次なし。旅舎多し。守山よりこれまで弐里。武佐まで一里半余。」とある。

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義経宿泊の館≫

「沢弥伝と称し旧駅長で屋号を白木屋と呼んでいた。

牛若丸はこの白木屋に投宿した 義経元服の際使用した盥は代々秘蔵して居たが現在では鏡神社宮司林氏が保存している

西隣は所謂本陣で元祖を林惣右衛門則之と称し新羅三郎義光の後裔である その前方国道を隔てて脇本陣白井弥惣兵衛である」(説明版より)

「牛若丸投宿家(うしわかまるとうしゅくのいえ) 鏡宿左方にあり。沢氏といふ。屋の棟に幣(ぬさ:神に祈る時に捧げ、また祓(はら)いに使う、紙・麻などを切って垂らしたもの=ごへい。)を立てるなり。むかし牛若丸東へ下り給へし時、ここに止宿(宿を取ること)し給う。夜半の頃、強盗入りければ、牛若丸ことごとく退治し給うとなん。謡曲には赤坂の宿として、熊坂長範とす。また義経記にはこの宿とす。」(木曾路名所図会)

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源義経宿泊の館跡の隣にある民家の庭の左角に本陣跡の案内板がある。

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本陣跡から5分足らずの所に鏡神社がある。本殿は石段を登った上にあるが、街道入口から一段上がった左に、義経が烏帽子を掛けたと云われる松の幹が残っている。

源義経烏帽子掛けの松≫

「承安四年(1174)三月三日 鏡の宿で元服した牛若丸は、この松枝に烏帽子を掛け鏡神社へ参拝し源九郎義経と名乗りをあげ源氏の再興と武運長久を祈願した。」(説明版より)

謡曲「烏帽子折」と鏡神社≫

謡曲「烏帽子折」は、鞍馬山を出て奥州に向かった牛若丸が、元服の地鏡の宿と、盗賊退治をした赤坂の宿での出来事を一続きにして構成された切能物(きりのうもの)である。」(説明版より)

(切能物(きりのうもの):能において鬼・天狗・天神・雷神・龍神などがシテとなる曲で五番立においては最後の五番目に演じられることから、切能とも呼ばれる。)

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石段を上って本殿に向かう左側には、「祓戸神」がある。(祓戸神(はらいどがみ)とは神道において祓を司る神、祓戸とは祓を行う場所のことで、そこに祀られる神という意味。)

≪鏡神社由緒≫

当神社の創始年代は不詳であるが、主祭神天日槍命(あめのひぼこのみこと)は日本書紀による新羅國の王子にして垂仁天皇(すいにんてんのう)三年の御世、来朝し多くの技術集団(陶物師、医師、薬師、弓削師、鏡作師、鋳物師など)を供に近江の国へ入り集落を成し、吾国を育み文化を広めた祖神を祀る古社である。

天日槍(あめのひぼこ=朝鮮国・新羅の王子)は持ち来る神宝の日鏡をこの地に納めたことから「鏡」の地名が生まれ、書記にも「近江鏡の谷の陶人は即天日槍の従人なり」と記されている。

承安四年(1174)牛若丸こと源氏の遮那王は京都鞍馬から奥州への旅路、この鏡の宿に泊り境内宮山の岩清水を盥(たらい)に汲み自ら烏帽子をつけ元服した。鏡神社へ参拝した十六歳の若者は「吾こそは源九郎義経なり」と名乗りをあげ源氏の最高と武運長久を祈願した武将元服の地である。以後岩清水は源義経元服池と称し現在も清水を湛えている。」(説明版より)

≪鏡神社本殿≫重要文化財(明治三十四年八月二日指定) 

「神社の創立は古代にさかのぼると伝えられ、祭神は天日槍命(あめのひぼこのみこと)を祀る。現在の本殿は、室町中期に建てられたもので、滋賀県の遺構に多い前室付三間社本殿。蟇股(かえるまた=上部の荷重を支えるための、かえるの股のように下方に開いた建築部材。)を多用し、屋根勾配をゆるくみせる外観は優美である。」(説明版より)

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鏡神社を出てしばらく行くと「源義経元服の池」があり碑が置かれている。

「東下りの途、当鏡の宿にて元服加冠(げんぷくかかん=元服して初めて冠をつけること)の儀を行う。その時使いし水の池なり」(説明版)

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義経元服之池のすぐ先左手が旧道でこの辺りから野洲市に入っていくことになる。旧道はすぐに国道8号に合流するがその先に「平宗盛胴塚」と書かれた案内板が立っている。草深い細道を入っていくと平宗盛卿終焉の地と彫られた碑と石仏が二体置かれている。その横に「蛙不鳴池(かわずなかずいけ)及び首洗い池」の説明版が立っている。

≪平家終焉の地≫

「平家が滅亡した地は壇ノ浦ではなくここ野洲市である。

平家最後の最高責任者平宗盛源義経に追われて11837月一門を引きつれて都落ちした。西海を漂うこと二年、1185324壇ノ浦合戦でついに破れ、平家一門はことごとく入水戦死した。しかし一門のうち建礼門院、宗盛父子、清盛の妻の兄平時忠だけは捕えられた。宗盛父子は源義経に連れられ鎌倉近くまでくだったが、兄の頼朝に憎まれ追いかえされ、再び京都に向った。

途中、京都まであと一日程のここ篠原の地で義経は都に首を持ち帰るため平家最後の総大将宗盛とその子清宗を斬った。そして義経のせめてもの配慮で父子の胴は一つの穴に埋められ塚が建てられたのである。

現在ではかなり狭くなったが、昔、塚の前に広い池がありこの池で父子の首を洗ったといわれ「首洗い池」、またあまりにも哀れで蛙が鳴かなくなったことから「蛙不鳴池」とも呼ばれている。」(野洲市観光物産協会・説明版より)

義経元服の地とさほど遠くないこの地で義経の宿敵・平家の総大将平宗盛39年の生涯を終えた。義経元服(承安4年(1174)三月三日)からわずか11年後の元暦2年(1185)六月二十三日のことである。

平宗盛塚(たいらのむねもりのつか) 篠原のひがし、鳴海橋の左にあり。宗盛卿は八嶋の合戦に捕らえられ、鎌倉へ引かれ、切腹を勧め給へども、それも臆して存らへ、遂にここにて首を討たれ給う。」

「蛙不鳴池(かわずなかずのいけ) 鳴海村にあり。此池を宗盛首洗池といふ。」(いずれも木曾路名所図会による)

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平宗盛胴塚」を後に鏡山を左手にみながら国道を歩く。

「鏡山(かがみやま) 街道の右にあり。或人の説には、天日槍(あめのひぼこ)といへる者、日の鏡を収し(しゅうし)より名付初めし(なづけそめし)也。」(木曾路名所図会)

鏡山は古くから多くの歌人が歌に詠んだ名山である。

-うち群れて いざ我妹子が鏡山 越えてもみじの 散らむ影見む- 紀貫之後撰集

-花の色を うつしとどめよ 鏡山 春よりのちの 影や見ゆると- 坂上是則拾遺集
-くしげなる 鏡の山を越えゆかむ 我は恋しき 妹が夢見たり-  大伴家持(家持集).

-鏡山やまかきくもりしくるれと紅葉あかくそ秋はみへける-   素性法師後撰集

-鏡山 君に心やうつるらむ いそぎたゝれぬ 旅衣かな-              藤原定家

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鏡山を左に見て国道を行く光善寺川を渡ったあたりに成橋の一里塚があったとガイドブックに書いてあったが今は何も残っていない。江戸から百二十六番目の一里塚だったことになる。

先へ進み浄勝寺前の交差点から右の旧道に入るがすぐに国道に合流する。やがて左手に篠原堤と呼ばれる長い堤防が見えてくる。堤に上がると「西池」が見える。

≪西池≫

「大篠原最大の用水池で、昔、雄略天皇の御代(413頃)近江国に四十八個の池を掘らせた時の一つと言われている。

この西池の長い堤が、源平盛衰記に出てくる篠原堤であるとの説もあるが定かでない。」(説明版より)

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しばらく国道を行くと小堤のバス停がありそこから左手の旧道へ入っていくと「家棟川(やのむねがわ)」が流れている。この川は平地より川底が高くなっている天井川である。天井川は関西地方に多く見られるということである。

家棟川の手前にポケットパークがあり愛宕山の碑を挟んで常夜燈が二基立っている。

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家棟川の橋を渡り先へ行くと「子安地蔵堂」がある。説明版によれば極彩色等身大の地蔵菩薩像は平安時代末期(12世紀)の造像だそうである。

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その先には「丸山・甲山古墳群」があり「桜生(さくらばさま)史跡公園」になっている。

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桜生史跡公園から街道に戻り、先へ進むと、左側の「桜生公民館」入口には「中山道銅鐸の里桜生」と書かれた立て札が立っている。

「桜生公民館」から15分程行くと、「稲荷神社」の鳥居が見えてくる。鳥居から更に5分程歩くと「小篠原公民館」前に小篠原村庄屋苗村邸跡の石碑が置かれている。

古く東山道時代の宿駅がこのあたりにあったと思われるのだがその面影は全くない。

またガイドブックによれば、百二十七番の小篠原の一里塚もこのあたりにあったようだが今は何も残っていない。

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さて、先へいくとほどなく茅葺屋根の旧家があるがここは造り酒屋の「曙酒造」である。

曙酒造の先で新幹線のガードをくぐり、その先5分程行くと五差路の向こう側の野洲小学校正門傍に「中山道・外和木の標(しるべ)」の説明版がある。

中山道・外和木の標≫

中山道は、東海道に対し東山道と呼ばれた時期があったが、その歴史は古く大化の改新以前から存在する重要な道であったことを示す文献が残されている。

この案内板の西、約百八十メートルの所は江戸時代に朝鮮の外交使節を迎えた朝鮮人街道との分岐点に当たり歴史的に意義深い場所である。

外和木の標の名前は、この土地と朝鮮人街道との分岐点の地名が小篠原字外和木であるので名付けたものである。」(野洲町・案内板より)

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外和木の標の案内板から少し行った3差路に「朝鮮人街道」と記された道標がある。朝鮮人街道は朝鮮通信使が通った道で、ここで中山道と分かれ近江八幡を経由して鳥居本で再び中山道に合流する。

3差路からすぐ先の交差点の所に「背くらべ地蔵」と呼ばれる地蔵尊が置かれている。説明版によれば「この背くらべ地蔵は鎌倉時代のもので、東山道を行く旅人の道中を守った地蔵である。また、子を持つ親たちが「我が子もこの背の低い地蔵さんくらいになれば一人前」と背くらべさせるようになり、いつしか背くらべ地蔵と呼ばれるようになった。」とのことである。

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その先の十字路にある蓮照寺に「道標・領界石」が3本立っている。一番大きい道標は先ほどの朝鮮人街道分岐点からこの蓮照寺に移されたもので「右中山道 左八まんみち」と彫られている。(八まんみちは朝鮮人街道のこと)道標の裏面には「享保四年」と彫られている。またここには「従是北淀藩領」の境界石も移されている。

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先へ進みJRの高架をくぐると「十輪院」という小さなお堂がありその裏に芭蕉の句碑が置かれている、

― 野洲川や 身ハ安からぬ さらしうす -  芭蕉

野洲晒(やすさらし)は、麻布を白くさらす「布晒」を専門に行っていた。その一工程に、川の中にすえた臼に布を入れ、杵でつく作業がある。冬に冷たい川に入って布をつくのは、晒(さらし)の仕事のなかで最も重労働であり、その苦労がしのばれる。」(説明版)

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その先が野洲川で、川に架かる橋を渡るのだが橋からは「三上山」がよく見える。

野洲川」「三上山」も多くの歌人が歌に詠んでいる。

野洲川

-天の川 安の川原に定まりて 神の競(つど)ひは 禁(い)む時無きを- 万葉集 巻十(七夕(なぬかのよ))- 2033

―うち渡る 野洲のかわらになく千鳥 さやかにみえぬあけぐれの空- 源頼政

-はるかなるみかみのたけの目にかけていく瀬わたりぬやすの河波- 後京極摂政

十六夜日記には「いまだ月の光かすかに残りたる明(あけ)ぼのに、守山を出(い)でて行く。野洲川渡る程、先立ちで行く旅人の駒の足音ばかりさやかにて霧、いと深し。」とある。
- 旅人も皆もろととに先立ちて駒うち渡す野洲の川霧  - 阿仏尼」

≪三上山≫

-雲晴れるみかみの山の秋風にさざ波遠く出る月かげ- (続拾遺集)浄助親王

-玉椿かはらぬ色をやちよとてみかみの山ぞときはなるべき-(新後撰集民部卿経光

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野洲川橋を渡りしばらく行くと「馬路石邊(うまじいそべ)神社」の参道が本殿へと続いている。この神社は天武天皇の御代、白鳳3年(663年)に創祀され、朱鳥(しゅちょう)元年(686年)に大己貴命(おおなむちのみこと)を合祀したと伝えられている。

祭神は古事記日本書紀に登場する建速須佐之男命(たてはやすさのおのみこと)と大国主命(おおくにぬしのみこと)である。

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街道に戻るとすぐ先に「中仙道守山市吉水一丁目」の表示版が立っている。「吉見(吉水郷)」の説明版と共に「中山道高札場跡」の説明版も立っているからこのあたりが守山宿の入り口であろう。

≪吉身(吉水郷)≫

この辺り一帯を「吉身」という。古くは「吉水郷」と称し、ゆたかな森林ときれいな「水」に恵まれた天下の景勝地であった。元暦元年(1184)九月に発表された「近江国注進風土記」には、当時の近江国景勝地八十個所の一つとしてこの地が紹介されている。南側は「都賀山」の森と醴泉(こさけのいずみ)が湧く数々の池があり、東に有名な「益須寺」があった。そしてこの街道は「中山道」である。古え(いにしえ)の「東山道」にあたり、都から東国への幹線道として時代を映し出してきた。」(説明版より)

中山道高札場跡、稲妻型道路≫

帆柱観音で名高い慈眼寺から北東側へ約100mの地点は、中山道から石部道(伊勢道)が分岐する。遠見遮断のため道が屈曲する広い場所で、かつて徳川幕府が政策などを徹底させるための法度や掟書などを木札に記して掲げた高札場が設けられていた。中山道を行き交う人々にとっては重要な場所であった。

また、吉身は江戸時代、守山宿の加宿であり、美戸津川(守山川)から高札場までの街道は、本町と同じように「稲妻型道路」となっていた。」(説明版より)

稲妻街道とは街道沿いの民家が、直線ではなく一戸毎に段違いの屋敷割になっている道路のことだそうだ。

 

67宿 守山宿・本陣2脇本陣1、旅籠30

(日本橋より127288間 約501.8キロ・武佐宿より318町 約13.7キロ)

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守山は古来東山道の宿駅として栄え、江戸時代に東山道中山道に改められ江戸時代の初期寛永十九年(1642)に徳川幕府により正式に中山道の宿駅として制札が下された。中山道は板橋宿から守山宿までの六十七次で守山は最終宿駅であった。守山の地名は比叡山延暦寺の東の関門として東門院が創建されたことに由来する。江戸時代、旅人の一日の行程は八里(約31キロ)から十里(約39キロ)であった。京・三条から守山宿までが八里六町(約32キロ)でこの行程にあたり「京立ち、守山泊り」といわれ東下りの最初の宿泊地として大いに賑わった。後に東の吉見、西の今宿が加宿され更に繫栄した。

「武佐まで三里半。当宿の入り口に守山川あり。橋爪(はしづめ)に称名寺という西本願寺末の寺あり。蓮如上人建立也。金が森より此所に移しけると也。古歌に詠ず。

-しら露も時雨もいたくもる山は下葉残らず色つきにけり- (古今和歌集) 紀貫之

-守山の峯の紅葉も散りにけりはかなき色のをしくも有哉- (玉葉和歌集) 紀貫之

-なく蝉の涙しぐれてもる山のしげみに落ちる木々の夕露- (夫木和歌抄(ふぼくわかしょう) 為 相」(木曽路名所図会)

宿場に入りしばらく行くと「帆柱観世音・慈眼寺」の道標が立てられている。

説明版・縁起によれば、「傳教大師最澄桓武天皇の勅命で唐の国に留学、修行しての帰国途上、突然の海難に遭遇したが海上に観世音菩薩が現れて風雨が鎮まり無事に帰国することが出来た。帰国後、折れた船の帆柱で、十一面観世音菩薩と脇侍の持国天多聞天像を彫り、弘仁元年(810中山道に沿う吉身の地に水難の守り仏として安置したのが起源とされている。」のだそうだ。

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先の交差点に「すぐいしべ道」と彫られた道標が置かれている。正面には「高野郷新善光寺道」と彫られている。

「この道標は守山宿の東端から枝分かれして、栗太郡葉山村や東海道に向かう人々に対して案内したものである。新善光寺栗東市高野にあり、彼岸には門前に市がたつ賑わいをみせる寺院であり、守山方面からも大勢の人びとが参拝したと思われる。

この道は守山道と呼ばれ、逆に中山道から東海道へ入る道としてかなりの人々が利用したと思われる。」(説明版より)

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道標のすぐ先には「守山宿・町屋 うの屋」と書かれた立派な古民家がある。ここは「宇野本家酒造」で元総理大臣・宇野宗佑の実家である。

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宇野本家のすぐ先に天満宮があり、鳥居の前に稲妻型屋敷割りの説明板が立っている。

≪稲妻型屋敷割りの道≫

中山道守山宿は街道筋の距離が、文化十四年の記録では1053間、内民家のある町並が569間という長い街村であった。宿場の西端には市神社があり、その向かいには高札場があった。この高札場から東に約40mには宿場の防火、生活用水となった井戸跡がある。街道筋の特色は、このあたりの道が最も幅広く、高所にあることと道路に沿った民家の敷地が、一戸毎に段違いとなっていることである。段違いの長さは一定ではないが、およそ二~三尺で、間ロの幅には規定されていないことがわかる。この屋敷の並び方がいつごろから行われたかを知る史料はないが、守山宿が守山市(いち)と関連して商業的機能と宿場を兼ねたことで、問屋、庄屋、本陣、市屋敷などを管理するため、あるいは怪しい人物が隠れても反対側から容易に発見できるなど、治安維持のための町づくりであった。」(説明版)

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天満宮のすぐ先に、中山道・守山宿の案内と本陣跡と彫られた碑、井戸跡があり説明版が添えてある。説明版には「謡曲・望月」の説明も書かれている。

≪本陣跡≫

「この場所は、本陣(小宮山九右衛門)があったと推定されている場所です。江戸時代には、問屋、脇本陣、本陣などの役割を果たした。

文久元年(1861)十月二十二日、十四代将軍家茂に降嫁した皇女和宮親子内親王が御所から江戸城へ向かう旅程で、この本陣に宿泊した。」

謡曲「望月」≫

「望月」は、室町時代末期(1500年代後半)に、古来、宿駅として、貨客の往来が盛んであった木曽街道(中山道)の守山を舞台に仇討ちを題材にした創作物語である。

「望月」は、信濃の佳人・安田荘司友春の妻子が、元家臣である甲屋の主人・小沢刑部友房とともに、仇敵の望月秋長を討つというあらすじで、登場する人物はすべて架空とされています。」

≪井戸跡≫

「この井戸は、天保四年(1833)の宿場絵図に記載され、それ以前から存在したもので、他にもあったとされるが、現存しているのはこれ一基だけです。

守山宿は、野洲川の旧河道がつくった自然堤防という微高地のため、用水路がなく、宿場の防火や生活用水に使用されたと思われる。」

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本陣跡碑の一軒おいた隣に「中山道文化交流館」がある。館内には「木曽海道六十九次」の版画が全て展示されている。宇野宗佑著の本も何冊か置かれている。女性問題で汚名を残した宇野元総理も地元ではそれなりに英雄なのであろう。

ここでコーヒーを飲みながらご主人と雑談を交わしたがトイレを借りるため奥へ入ると裏庭が見事であった。

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文化交流館の先の三叉路に「道標」が立っている。

≪石造道標≫守山市指定文化財(民俗資料)

「本道標が建てられたこの地点は、かつて掟書などが掲げられた高札場の一角であった。道標は、高さ約1.55m、一辺30cm角の四角柱の花崗岩製の石造品で、中山道側の側面には、「右 中山道 并(ならびに) 美濃路」、その左側面には、「左 錦織寺四十五丁 こ乃者満ミち」の文字が刻まれている。

「右 中山道 并 美濃路」とは、右が美濃(岐阜)へと続く中山道で、「左 錦織寺四十五丁 こ乃者満ミち」は、左の道を行くと人々の信仰を集めた真宗木部派本山である錦織寺(中主町)に至る約4kmの道程(錦織寺道)であり、それに続く「こ乃者満ミち」は、琵琶湖の津として賑わっていた木浜港へも通じる道筋であることを示している。

背面に延享元年(1744年)霜月の銘があり、大津市西念寺講中によって建立されたことかうかがわれる。石造遵標としては古く、また数少ないため、昭和五十二年(1977年)四月三十日に民俗資料として守山市文化財に指定された。」(説明版)

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三叉路のすぐ先には「東門院」がある。

守山宿の冒頭にも書いたが延暦七年(788)、最澄比叡山延暦寺を建立した際、四境に門を構えたが、その東門として設けられた。その後延暦十三年九月三日に、比叡山の根本中堂開闢(かいびゃく)供養が行われ、湖上に舟橋を渡し、東門まで「善の綱(白布の綱)」を引渡して桓武天皇が、湖上を渡ってきた。このとき、桓武天皇により比叡山東門院守山寺(比叡山を守る寺)と名号され、地名も守山と賜ったと伝えられている。

東門院先に明治天皇聖跡碑が立っている。

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明治天皇聖蹟碑の隣の「守山銀座西交差点」手前には江戸時代後期の天保年間(18301843)にあった東門院の門前茶屋「堅田屋」を現代に甦らせた「門前茶屋・かたたや」がある。

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交差点を渡って少し行くと境川に「どばし」と書かれた橋が架かっている。説明版によるとこれは中山道の重要な橋として、瀬田の唐橋の古材を使って架け替えられた、公儀普請橋であったそうだ。

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このあたりから宿場はずれとなり、やがて左手に大きな木が見えてくるがこれは江戸から百二十八番目の「今宿の一里塚」である。

説明版によれば、滋賀県には中山道の他、東海道朝鮮人街道、北国街道、北国脇往還など多くの街道が通っているが、明治以降、交通形態の変化による道路拡幅や農地、宅地への転用などによりそのほとんどは消滅し、現存するものは今宿一里塚のみとなってしまったそうだ。

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一里塚を後に10分ばかり行くと「住蓮房母公墓」の碑が立っている。武佐宿外れに「住蓮坊首洗い池」があったが鎌倉時代後鳥羽上皇の怒りにふれて処刑された住蓮坊の母の墓だそうで、処刑される我が子に会うべく馬渕を目指した住蓮坊の母が、すでに処刑されたことを知り、池に身を投げて命を絶ったのがこの池だったということである。

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先の焔魔堂町交差点を越えると十王寺があり門前左に「五道山十王寺」、右に「焔魔法王小野篁(おののたかむら)御作」と彫られた石柱が立っている。中に入ると閻魔堂があり、十王堂の額が立てられている。

「五道山十王寺」の山号、五道とは仏教でいう「天・人間・畜生・餓鬼・地獄」の五の世界であり、生を受ける者は、その五の世界で生と死を続ける「輪廻転生」の世界観で、現世において善行を積むか悪行を行うかで生れ変わる場所が変わる。また、十王とは秦廣王(しんこうおう)、初江王(しょこうおう)宋帝王(そうていおう)、五官王(ごかんおう)、閻魔王(えんまおう)、変成王(へんじょうおう)、泰山王(たいざんおう)、平等王(びょうどうおう)、都市王(としおう)、五道転輪王(ごどうてんりんおう)で、死者は初七日には秦廣王、二七日には初江王、三七日は宋帝王、四七日は五官王、五七日は閻魔王、六七日は変成王、七七日は、泰山王、百か日は平等王、一周忌は都市王、三回忌は五道転輪王とそれぞれの裁きを受け、生れ変わる世界が決められるのだとか。

「偖(さて)ふた町むらを過ぎて、閻魔堂村に閻魔の像あり。小野篁(おののたかむら)の作といふ。」(木曽路名所図会)

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十王寺の先に古高俊太郎先生誕生地の碑が立っている。尊皇攘夷の志士で長州の間者の大元締めであった。

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そこから旧道を10分ばかり歩くと栗東市であるが昔は綣(へそ)と呼ばれていたそうだ。このあたりには用水が流れていて用水沿いに歩くと左手に「大宝神社」がある。祭神は「素盞鳴尊(すさのうのみこと)」。ここの木造の狛犬重要文化財に指定されているが残念ながら今は京都の国立博物館に移されたということである。

隣の公園には、芭蕉の句碑があり-へそむらの麦まだ青し春のくれ-と彫られている。

木曽路名所図会には「大宝天皇社・祭神素盞鳴尊(すさのうのみこと)。大宝年中疫時行し(えやみはやりし)時、ここに降臨し給う。此辺(このあたり)都て(すべて)二十余村の産土神(うぶすなじん)とす。例祭四月十二日。生士子(うじこ)の中五ケ村より踊りを催し、神前にて踊る。」とある。

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大宝神社を後に左手の栗東駅西口の信号を越えたあたりからはこれといって見るものもない。

30分ばかり旧道を歩き、八幡宮を左手に見て花園、笠川を過ぎると草津市である。

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やがて旧道は鉄道の線路に分断されてしまうが線路の下のトンネルをくぐって反対側へ出、さらに歩くと「伊砂砂(いささ)神社」がある。この神社の桧皮葺の本殿は室町時代の応仁二年(1468)に建立されたもので国の重要文化財に指定されている。

神社の入り口には「中山道の説明版」も立っている。

草津歴史街道 中山道

中山道木曽路とも呼ばれ、日本の脊梁(せきりょう)中部山岳地帯を貫く街道で、五街道の中でも東海道に次ぐ幹線路であった。その里程は、江戸日本橋を基点とし、上毛高崎宿を経由、碓氷峠に至り、浅間・蓼科山麓の信濃路を辿り、塩尻峠を越えて御獄・駒ヶ岳間の木曽谷を降り、美濃路を西進、関ケ原から近江柏原宿に至り、湖東の鳥居本・愛知川・武佐の各宿を経由南進し、守山宿を後に東海道草津宿に合流するもので、この間の宿駅は67宿を数えた。草津には、笠川を経て渋川に入り、葉山川を渡り、渋川・大路井の街並を通過したのち、砂川(草津)を越えて草津追分に至った。

なお、中山道分間延絵図によれば、渋川には梅木和中散出店小休所・天大大将軍之宮(伊砂砂神社)・光明寺ほか、大路井(おちのい)には一里塚・覚善寺・女体権現(小汐井神社)ほかの社寺仏閣、名所が街道沿いに存した。」(説明版)

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やがて大きな大路の交差点に出るがこのあたりが落野井村(おちのいむら)で江戸から百二九番目の「大路井(おちのい)の一里塚」があった所のようだ。

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今日はここまで。宿泊予定のホテル21へ。

中山道旅日記 22 鳥居本宿-高宮宿-愛知川宿-武佐宿

31日目(518日(水))鳥居本宿-高宮宿-愛知川宿-武佐宿

コンフォートホテル彦根を出て近江鉄道鳥居本駅へ着いたのが午前8時過ぎ。

街道に戻る手前に「藤原定家を支えた里」と書かれた立て札が立っている。

鳥居本と小野周辺は、平安時代「吉富荘」という荘園で、領主は、藤原定家一族でした。定家が、「新古今和歌集」や「百人一首」を編めた(あめた)のも、「源氏物語」を写本して、現代に伝えられたのも、鳥居本や小野の人々が定家を支えたからです。」

街道に戻り、先へ行くと「合羽所・松屋」の看板が目に付く。鳥居本の合羽の製造は1970代に終焉したが、江戸時代は木曽へ向かう旅人に大変人気があったそうである。

宿場を歩くと虫籠窓の家、卯建のある家、ベンガラ塗りの格子戸の家が並んでいて当時の宿場の面影が偲ばれる。

(ベンガラとは土から取れる成分(酸化鉄)の顔料で紅殻、弁柄とも呼ばれ、インドのベンガル地方より伝来したことからそう呼ばれた。日本の暮らしにも古くから根付いている素材で陶器や漆器、また防虫、防腐の機能性から家屋のベンガラ塗りとしても使用された。)

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「合羽所・松屋」の先には擬宝珠(ぎぼし)が乗っている桧皮葺(ひわだぶき)屋根と格子の扉が嵌められた(はめられた)常夜灯が建っている。なかなか豪華なものである。

常夜灯から数分の所に専宗寺がある。説明版によるとここは聖徳太子開祖の浄土真宗本願寺派の古寺で、かつては、佐和山城下町本町筋にあり、泉山泉寺と号していましたが、関ケ原合戦の後、寛永十七年(1640)に洞泉山専宗寺と改め、ここ西法寺村に移ってきた。本堂などの建立年代は十八世紀後半のものと推定され、山門右隣りの二階建ての太鼓門の天井は、佐和山城の遺構と伝わっている。

専宗寺から5分ほど先に「右 彦根道」「左 中山道 京・いせ道」と刻まれた道標が立っている。「ここは中山道彦根道(朝鮮人街道)との分岐点で道標は文政十年(1827)に立てられた。彦根道は二代彦根藩井伊直孝の時代に中山道と城下町を結ぶ脇街道として整備されたものである。」(説明版より)

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鳥居本宿を出ると田園風景が広がり「古宿」と書かれた立て札が立てられている。

この先の集落は小野村といい、東山道時代には宿駅(小野宿)で賑わったところである。

十六夜日記」には「十七の夜は、小野(おの)の宿といふ所にとゞまる。月出(いで)て山の峰に立続(たちつゞ)きたる松の木(こ)の間、けぢめ見えて、いと面白し。」とある。

小野の集落を行くと常夜灯と八幡神社と彫られた碑が立っている。

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その先に「小野小町塚」の碑と共に祠が祀られている。世に絶世の美女と讃えられた六歌仙の一人・小野小町は、ここ小野村が出生の地とされているが・・・・。

「小野美実が奥州に下る途中、小野に一夜を求め生後間もない女児に出会った。美実はこの女児を養子にもらい受け出羽国へ連れて行ったが、この女児が小町という」(説明版より)

 小町塚には、小野地蔵として親しまれてきた石仏がある。小野地蔵は自然石を利用して、阿弥陀如来座像が浮彫りにされている。正面だけでなく、両側面にも彫り込まれており、類例が少なく貴重なものである。」(説明版より)

木曽路名所図会には「小野村道の右の上に石仏地蔵堂あり。小町塚といふ。」とある。

古今和歌集の序文(仮名序=かなで書いた序文)で紀貫之は、

小野小町は いにしへの衣通姫(そとおりひめ)の流なり
あはれなるやうにて強からず
いはばよき女の悩めるところあるに似たり
強からぬは 女の歌なればなるべし
- 思ひつつぬればや人の見えつらむ 夢と知りせばさめざらましを -
- 色見えでうつろふものは世の中の 人の心の花にぞありける -
- わびぬれば身をうき草の根をたえて さそふ水あらばいなむとぞ思ふ -
衣通姫(そとおりひめ)の歌
- わがせこがくべきよひなりささがにのくものふるまひかねてしるしも -

衣通姫(そとおりひめ)とは、古事記日本書紀で絶世の美女と伝承される人物で、その美しさが衣を通して光り輝いたといわれている。)

紀貫之は「小野小町の歌は衣通姫の歌と同じように、嫋々(じょうじょう)たる女心を歌ったものである」といっているようだが、小野小町衣通姫と同じような美人であると解釈されているようだ。

余談ではあるが日本の三大美人とは、衣通姫(そとおりひめ)小野小町藤原道綱の母(蜻蛉日記の作者)、ちなみに中国四大美人とは、西施(春秋時代)、王昭君(漢)、貂蝉(ちょうせん:三国志演義・連環の計=実在の人物ではない)、楊貴妃(唐)とされている。

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その先新幹線のガードをくぐると森川許原と呼ばれる集落で「原・東山霊園」がありその管理事務所の横に森川許六の句碑が立っている。

- 水すじを 尋ねてみれば 柳かな - 許六

森川許六彦根藩士で、近江の松尾芭蕉の門人グループ・近江蕉門(おうみしょうもん)の一人、芭蕉十哲といわれた人物である。

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街道を先に行くと「八幡神社」で「昼寝塚」と「白髪塚」があり、説明版が立っている。

≪ひるね塚 芭蕉の句碑≫

- ひるかおに ひるねせうもの とこのやま -
「俳聖松尾芭蕉中山道を往来する旅人が夏の暑い日に、この涼しい境内地で昼寝などしている、つかのまの休息をしている「床」と「鳥籠山・とこのやま」をかけて詠われたものと思われます。」(説明版)
≪白髪塚≫

- 恥ながら 残す白髪や 秋の風 -
聖徳太子と守屋との戦い等、幾多の戦の将士達をあわれみ蕉門四世・祇川居士(陸奥の人)で芭蕉の門人が師の夏の句に対し秋を詠んだ句と思われる。」

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八幡神社の先右手に「千寧寺 五百羅漢 七丁余」の道標が「はらみち」と彫られた道標、「中山道 原町」の碑と共に立っている。

さらに先の交差点には常夜灯と共に道標が七基立っている。

金毘羅大権現 是より十一丁」、「安産観世音 是より四丁 慶光院」、「是より多賀ちかみち」あとはよく読めなかった。

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常夜灯を後に街道を行くと「芹川」に架かる「大堀橋」を渡ることになる。芹川は、かつては「不知哉川(いさやかわ)」と呼ばれ、近江の歌枕の地である。

- 淡海路(おうみじ)の鳥籠(とこ)の山なる不知哉川 日のころころは 恋つつもあらむ -  万葉集 巻四-四八七(淡海の海(おおみのうみ)は琵琶湖の古称)
- 犬上の鳥籠の山なる不知哉川(いさやかわ)不知とを聞こせ わか名告らすな -    万葉集 巻十一-二七一〇
- ひるがをに 昼寝せうもの 床の山 - 芭蕉(昼寝塚の句碑にも彫られている。)

(昼寝の床と鳥籠山を掛けている)

ところで、鳥籠山(とこのやま)は壬申の乱(じんしんのらん)の戦場になったところだそうだがどこのことなのかよくわからない。

その先には春日神社があり、石灯籠の横に「ここは地蔵町春日神社」と書かれた札が立っている。

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春日神社から10分程行き少し左へ入った所に勝満寺(しょうまんじ)があり、その鐘楼の前に「矢除地蔵尊」と書かれた祠がある。説明版を要約すると「第三十代・敏達天皇(びだつてんのう)のころ、仏教伝来に反対する物部守屋(もののべのもりや)と争った聖徳太子は、難を逃れてこの地に隠れていた。守屋の軍勢が太子を見つけ矢を射かけたところ、突如金色の地蔵菩薩が現れた。あとになって松の根方に小さな地蔵さんが右肩に矢を射こまれて血が流れた跡があった。世人はこれを尊び、お堂を建て、往来の安全を願った。」ということである。

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街道に戻るとその先に「金毘羅大権現」の道標が置かれている。10程先には「多賀神社」の道標がここにも置かれている。

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道標の右手に「石清水八幡宮」への階段があり、その途中に「扇塚」と彫られた碑が説明版と共に立っている。

≪扇塚(おおぎづか)≫

「“豊かなる時にあふぎのしるしとて ここにもきたの名を残しおく”

以前は扇塚と面塚(めんづか)とが一対になって建っていたそうだが、今は扇塚だけが残っている。井伊藩は、代々能楽の発展に力を入れてきたので、彦根には能楽を学ぶ人が多くあった。喜多古能(きたひさよし=江戸時代中期の能役者で喜多流能楽の流派)中興の祖ともいわれている)は、門人の養成に力をそそぎ、彦根をたちさるとき、扇子と面を残していった。それを埋め記念の塚がここに建てられたのである。」(説明版)

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石清水八幡宮を後に15分程行くと家の角に「右・彦根道 左すぐ中山道」と彫られた碑が残っている。ここからも彦根へ行く道があったようだ。

やがて近江鉄道の踏切があり常夜灯と「高宮宿」とかかれた大きなモニュメントが置かれている。高宮宿の入り口である。

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64宿 高宮宿・本陣1脇本陣2、旅籠23

(日本橋より119288間 約470.4キロ・鳥居本宿より118町 約5.9キロ)

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高宮宿は、中山道六十九次の江戸から六十四番目。

天保十四年の記録によれば、町の南北の長さ七町十六間 (約800m)の町並に、総戸数八百三十五・人口三千五百六十で、本庄宿に次ぐ中山道第二の大きさ、本陣一・脇本陣二・旅篭総数二十三等の宿場施設を持つ大宿であった。また、多賀神社への門前町 としてにぎわい、多賀神社第一の大鳥居がここに建っている。特産物として室町時代から全国的に有名になっていた高宮上布の集散地として、豊かな経済力を誇っていた。

中山道・高宮宿案内板)

高宮宿の特産品は麻織物で、高宮布として近江商人によって日本全国へ広まっていった。また、彦根藩から将軍家への献上品にもなっていたという。

「木曾路名所図会」にも「鳥居本まで一里半。此駅は布嶋(ぬのしま)類を商ふ(あきなう)家多し。此ほとり農家に高宮嶋細布(たかみやじまさいふ)多く織り出すなり。これを高宮布といふ。宿中に多賀鳥居あり。是より南三拾町許。」とある。

さて、近江鉄道の踏切を渡れば小さな祠があり「木之元分身地蔵」が祀られている。

説明版によれば、この地蔵菩薩はめずらしい木彫りで木之元の浄信寺にある眼病のご利益で名高い木之元地蔵の分身だそうだ。由来は定かではない。

宿場の町並みは当時の名残を残していて趣がある。

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分身地蔵から5分ほど行くと「座・楽庵」の看板を掲げた家がある。ここは高宮布の仕入れ問屋「布惣跡」である。

≪高宮布の布惣跡≫

「高宮布は高宮の周辺で産出された麻布のことで室町時代から貴族や上流階級の贈答品として珍重されていました。高宮細美とも近江上布ともよばれ江戸時代になってからも高宮はますます麻布の集散地として栄えました。

布惣では七つの蔵に一ぱい集荷された高宮布が全部出荷され、それが年に十二回繰り返さなければ平年でないといわれたと聞きます。

現在五つの蔵が残っており当時の高宮嶋の看板も現存しています。」(説明版)

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布惣跡の前が「高宮神社」である。鳥居をくぐると長い参道が続き途中に随身門(桜門)をくぐる。この随身門は嘉永二年(1849)のものだという。拝殿も立派なものである。

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随身門の右横「笠砂苑」の奥に芭蕉の句碑がある。

芭蕉句碑≫

「(庭園「笠砂苑」の左奥に建立)

- をりをりに 息吹を見てや 冬篭り - はせ越(芭蕉

この句は元禄4年、芭蕉が48歳冬の作といわれ、芭蕉門弟で千川亭 の兄弟 此筋・文鳥の家に泊まって詠んだ句。句碑の裏に建立年 「嘉永3年、庚戌林鐘」とあり、その下方に45名の名前が刻されている。 嘉永3年は1850年で林鐘は陰暦6月の異称。筆跡は桜井梅室。地元の俳人 がこの句を神門前左側(現在の祓所)に建立したもので、現在はこの庭園内に 移設されている」(説明版)

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高宮神社を後にし、古い宿場の町並みを楽しみながら歩いていると提灯の店があった。昔ながらの店のようだ。

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提灯店のすぐ先に大きな常夜灯が建っており、程なく高宮鳥居前交差点に多賀大社一の鳥居が建っている。また、鳥居の右足には「是より多賀みち三十丁」と刻まれた道標が立っている。

多賀大社鳥居(一の鳥居)は滋賀県指定有形文化財に指定されている。多賀大社から西方約四キロメートルの表参道に面して位置する石造明神鳥居は、同社の旧境界域を示している。多賀大社の創立は、奈良時代に完成した「古事記」や平安時代に編纂された「延喜式」にも見られる。」(説明版)

多賀大社は歴史のある神社のようだが約一里の道のりとのこと、今回は無理か。

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さて、大鳥居から太田川渡ったすぐ先の右手に連子格子(れんじこうし)の古民家(小林家)の前に「俳聖芭蕉翁旧跡 紙子塚」と彫られた碑があり、説明板が添えられている。

芭蕉の紙子塚(かみこづか)≫

「- たのむぞよ 寝酒なき夜の 古紙子 -

貞享元年(1684)の冬、縁あって小林家三代目の許しで一泊した芭蕉は、自分が横になっている姿の絵を描いてこの句を詠んだ。紙子とは紙で作った衣服のことで、小林家は新しい紙子羽織を芭蕉に贈り、その後、庭に塚を作り古い紙子を収めて「紙子塚」と名づけた。 高宮街づくり委員会」

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小林家の先の連子格子の古民家が「脇本陣跡」(塩谷家)で問屋場も兼ねていた。高宮宿には二軒の脇本陣があったが、もう一軒はどこにあるのかわからなかった。

続いて「本陣跡」(小林家)の門を見ることが出来る。今はこの門構えしか残っていない。

脇本陣跡≫

「江戸時代高宮宿には二軒の脇本陣があり、その一つがこの地におかれた。門構、玄関付き、間口約14m、建坪約244m²であったという。門前は領主の禁令などを掲示する高札場になっていた。

ここの脇本陣役は道中奉行の支配下にあり慶長十三年(1608)からは人馬の継立、休泊、飛脚、街道の維持管理を行う問屋を兼ねており問屋場とも呼ばれていた。

高宮街づくり委員会」(説明版)

≪本陣跡≫

江戸時代の参勤交代により大名が泊まる施設(公認旅館)を各宿場に設けたのが本陣である。

構造も武家風で、玄関・式台を構え、次座敷・次の間・奥書院・上段の間と連続した間取りであった。高宮宿の本陣は、一軒で門構え・玄関付で、間口約27m、建坪約396m²であったという。現在では表門のみが遺存されている。高宮街づくり委員会」(説明版)

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本陣跡の向かい側に「円照寺」があり、明治111111日に明治天皇が北陸東山御巡行帰途のこの円照寺に宿泊したということで「明治天皇行在聖跡」と彫られた碑が立っている。

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円照寺を後に数分行くと犬上川に「むちん橋」と呼ばれる橋が架かっている。橋の袂に「むちん橋地蔵」が祀られている。

≪むちん橋≫

「天保のはじめ、彦根藩は増水時の「川止め」で川を渡れなくなるのを解消するため、この地の富豪、藤野四郎兵衛・小林吟右衛門・馬場利左衛門らに費用を広く一般の人々から募らせ、橋をかけることを命じた。

当時、川渡しや仮橋が有料であったのに対し、この橋は渡り賃をとらなかったことから「むちんばし」と呼ばれた。 高宮街づくり委員会」(説明版)

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続膝栗毛では弥次さん、喜多さんが高宮川(犬上川)にさしかかると商人に名物の高宮嶋に晒布(さらしぬの)の類を買ってくれと頼まれる。弥次さんが金がないので買わないというと、商人「あなた、さらしはもってかいな」弥次さん「もっていやす、恥さらしというさらしを」 

- 買いもせず 名物の名の高宮に 恥をさらして とほるうき旅 - 

さて、むちん橋を渡り切ると宿外れとなり左手に「牛頭天王(ごずてんのう)道」の道標が置かれている。牛頭天皇とは神と仏を合体して信仰することで祇園精舎の守護神とされているのだそうだ。

しばらく行くと松と欅が混在した並木道になり、歩くにはまことに心地よい。

このあたりは当時、立場で栄えた「葛籠町(つづらちょう)」というところで「つづら」や「行李(こうり)」を売る店が多かったのだという。(今は「つづら」も「行李」も見かけることはほとんどない。)

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間もなく「産(うぶ)の宮」とかかれた小さな祠がある。ここは足利尊氏の子、議詮(よしあきら)の妻妾にまつわる神社で「由緒書き」を要約すると、「南北朝の争乱の頃、足利尊氏の子義詮が大垣を平定し翌五年京都へ帰ることになった。その時義詮に同行した妻妾が途中で男子を出産しが、君子は幼くして亡くなった。生母は悲しみのあまり髪を下ろして尼となりこの地に一庵(松寺)を結んで幼君を弔った。ここに土着した家臣九名が竹と藤蔓(ふじづる)でつくった葛籠を生産するようになり松寺の北方に一社を祀ってこの宮が出来た。古来「産の宮」として安産祈願に参詣する人が多い。」

産の宮を後に先へ行くとやがて「出町」の交差点がある。ここが彦根市豊郷町との境で

鳥居本の入り口で見かけた「おいでやす彦根」と同じモニュメントがあり、今度は「またおいでやす彦根」と彫られている。

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やがて街道はケヤキ並木となり、出町の集落にはいる。

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やがて四十九院(しじゅうくいん)の交差点があるがここには「縣社阿自岐神社(あじきじんじゃ)の石標と鳥居、常夜燈が立っている。

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10分程行くと「一里塚の郷 石畑」と彫られた碑が立っている。「ここは江戸時代後期には、高宮宿と愛知川宿の間の宿(あいのしゅく)として発展し、立場茶屋(たてばちゃや)が設けられ、旅人や馬の休息の場として賑わった。
ここ石畑の歴史は古く平安時代後期、文治元年(1185)源平の争乱の中、屋島の合戦で「弓矢の名手」として名を馳せた那須与一の次男石畠民部大輔宗信が、この辺りの豪族であった佐々木氏の旗頭として、那須城(城跡)を造りこの地を治めていた。 さらに、中山道の役場前交差点南(小字一里山)には、「一里塚」が設けられている。」(説明版より)これは江戸から百二十一番目の一里塚である。(醒井宿から番場宿へ向かう途中の久礼の一里塚が百十七番目だったので百十八、百十九、百二十番目の一里塚は見落としたか、それとも一里塚跡の表示さえも今は残っていないのか。)

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先へ進み豊郷町役場の交差点を越えると「伊藤長兵衛屋敷跡」の大きな碑があり、そのすぐ先の「伊藤忠兵衛旧邸」が記念館になっている。伊藤忠兵衛は「近江商人」として「近江麻布」を売り歩いていた近江商人から身を起した伊藤忠商事と丸紅の創業者である。

5分程先へ行くと「池」が復元されている。説明版によると「かつて、この地より北50mの所に金田池と称する湧水があり、との用水に使われると共に中山道を旅する人達の喉をうるおしてきたが、近年の地殻変化で埋め立てられたが永年名水として親しまれた池であるので、それを模して再現した。」のだそうだ。

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さらに数分、「又十屋敷」と記された大きな看板が掲げられている。この屋敷は、江戸末期より蝦夷と内地とを北前船を用いた交易で財を成した近江商人藤野家本宅跡である。敷地内には「逢坂山の車石」が置かれていて説明版が立っている。

「逢坂山は古来より難所として知られ江戸後期文化二年(一八〇五)脇坂義堂の発案に依り逢坂(大津)より京三条までの三里(約十二粁)に亘って車輪巾二列に花崗岩の厚板石が敷設された。総経費壱萬両もの巨費を必要とした。そこで近江商人中井源左衛門を筆頭に多くの有力者に金子の寄付を募り完成す。然し京へ上る往来の馬車多くこの様な轍(わかち)が深くなると敷替えられた。京にも店舗を持つ近江商人の活躍が伺える舗装道路のはしりと云われる。」(説明版)

また、看板の下に「一里塚址碑」が立っているが、これは以前豊郷町・石畑にあった碑を保存しているだけでここが一里塚跡ではない。

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又十屋敷の数分先、千樹寺門前の石碑は「江州音頭発祥地碑」。天正14年(1586)から続くという「江州音頭発祥の地」で江州音頭は観音堂竣工式の余興であったのだそうだ。

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ほどなく宇曽川に架かる「歌詰橋」を渡ることになるのだが、ここには「平将門」を打った藤原秀郷の伝説が残っている。

「天慶三年(960藤原秀郷は、東国で平将門の首級をあげた。秀郷が京に上るために、中山道をこの橋まできたとき、目を開いた将門の首が追いかけてきた。秀郷は将門の首に「歌を一首」と言うと、将門の首は歌に詰まり、この土橋の上に落ちたという。

以来、村人はこの橋を歌詰橋と呼ぶようになったのである。」(説明版より)

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歌詰橋から10程行くと「沓掛の三叉路」になり、直進が中山道、左は「豊満(とよみつ)神社」への道の道標が立っている。

三叉路から数分行くと「愛知川宿」と書かれた鏑木門をくぐり、さらに先へ行くと「愛知川宿北入口」の碑が立っていて傍らに多数の地蔵様が置かれている。「愛知川(えちがわ)宿」である。

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65宿 愛知川宿・本陣1脇本陣1、旅籠28

(日本橋より121288間 約478.3キロ・鳥居本宿より2里 約7.8キロ)

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愛知川宿も古く東山道の時代から栄えた宿駅で近江商人などの行き来で賑わった。

木曽路名所図会には「高宮まで弐里八町。此宿は煎茶の名産にして、能水(よくすい)に遭うなり。銘を一渓茶といふ。此辺はみな布嶋(ぬのじま)を織る。これを高宮嶋というふ。

 - えち川や 岩こす浪の瀬をはやみ くたす筏の いちはやの世や - 俊頼朝臣

とある。

宿場に入ってしばらく行くと大きな交差点に出るが、ここは「ポケットパーク」になっていて広重の愛知川宿の絵や道標が置かれている。道標の正面には「中山道 愛知川宿」、左側面には「左 高宮宿 二里」と彫られている。さらに明治初期に使われた黒い郵便ポストが置かれている。この珍しい黒いポストは実際に使われていたものだそうだ。

≪書状集箱≫

「このポスト(書状集箱)は、明治4年(西暦1871年)郵便創業当時使用していたものと同じ型のものであり、「ポケットパーク」が、町のシンボルとして、愛知川町は、かっての「木曽海道」六十九次の六十六番目の宿場町として栄えたことを記念されたところから、その景観等に合わせて設置したものです。

なお、このポストは、他のポスト同様に取り集めを行いますので、ご利用下さい。平成五年四月二十二日 愛知川郵便局長」(説明版)

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交差点を越えた右手に「親鸞聖人御旧跡」の標柱が立っている。ここは「豊満寺」参道の入り口で、建歴2年(12128月、親鸞が流罪の地、越後から京都へ帰る道すがら、愛知川が氾濫して川を渡ることが出来なかった時にここに宿を取ったと伝えられている。寺には親鸞が植えた紅梅や直筆の掛け軸も残っているそうだが先を急ぐので立ち寄ることが出来なかった。

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先へ行くと日本生命の営業所があるがここが本陣のあった所だそうだが「源町・本陣跡」の表示板のみが掲げられているだけで当時を偲ぶものは何もない。

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すぐその先には「八幡神社」があり、脇に「高札場跡」の碑が立っている。その隣に立派な旧家があるが土地の人の話ではその家が「脇本陣」だったという。以前は脇本陣跡の碑が立てられていたのだそうだが今は取り払われてしまったようだ。

そこから15分ほど歩くと「問屋場跡」の碑が立てられている。

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すぐその先には「竹平楼」という立派な料亭があるが、ここは当時の旅籠屋で屋号を「竹の子屋」といったそうだ。左手に「明治天皇御聖跡」の碑が立てられており明治天皇もここで休息を取ったとのことである。

それはそうと、ここから見る町並みはどことなく風情がある。

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すぐその先に「不飲川(のまずがわ)」と呼ばれる小さな川が流れているのだがその名の由来は、この川の水は平将門の首を洗ったといわれる上流の「不飲池(のまずいけ)」から流れ出ていて、川の水も将門の血で染まって飲めなくなったという伝説からだそうだ。(これは後で分かったことでその時は気にも留めなかったので写真も撮っていない。)

さてその先には「一里塚跡」の碑が立てられている。江戸から百二十二番目の「愛知川西の一里塚である。

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10分程行くと愛知川に「御幸橋」と呼ばれる橋が架かっている。この橋は明治11年、明治天皇巡幸の際に架け替えられてそのように呼ぶようになったのだが以前は「むちん橋」と呼ばれていたそうで、その説明版が立てられている。

「無賃橋」は高宮宿にもあったが、ここは出水のたびに旅人や村人までも困らせたので、商人の寄付で橋が架けられ、誰もが無賃で渡れるようになったのだそうだ。広重の「恵智川」の絵にも「はし銭いらす・むちんはし」と書かれた柱が描かれている。

すぐ傍には祇園神社がある。

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御幸橋を渡り交差点を左折すると近江鉄道の踏切をこえるがそこに常夜灯が立っている。先へ進み再び近江鉄道の踏切を渡ると「東嶺禅師御誕生地」の碑が置かれている。東嶺禅師とは「臨済宗中興の祖」といわれているそうである。

このあたりの町並みもなかなかいい。

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5分ほど行くと虫籠窓の家がみられる。(前にも書いたが、虫籠窓とは町家の二階部分に、縦に格子状に開口部を設けた固定窓のことである。)さらに歩くと「御代参街道道標」が置かれている。道標には「左・いせ ひの 八日市みち」「右・京みち」と彫られている。この街道は公卿達の代参が伊勢神宮多賀大社へ参詣するために通った街道であったことから「御代参街道」と言われるようになったのだという。

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 御代参街道道標を過ぎると、ポケットパークがあり「太神宮」と彫られた常夜灯が立っている。四阿もあり休憩を取るのにちょうどいい。一休みとしよう。

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その先15分ばかりの所に地蔵堂があり、さらに15分ばかり歩くと大きな常夜灯が立っている。常夜灯の台座には「左 いせひの 八日市」、「右 京道」と彫られている。

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常夜灯から5分程行くと再びポケットパークがあり、「明治天皇北町屋小休所」の碑が立っている。その先に地蔵堂さらに「京町屋風商家」が並んでいる。

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先へ進み県道を越えると金毘羅大権現と彫られた常夜灯の横に藁葺屋根の古民家がある。ここは立場本陣であった「旧片山家住宅」である。

10分程歩くと旧道は国道8号に合流し、そこには「てんびんの里」側面に「旧中山道」と彫られた碑があり、天秤棒を担いだ「近江商人」が上に乗っている。(おいでやす彦根と同じ発想のようだ。)

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旧道は、いったん国道に合流するがすぐその先で右手に復活する。旧道に入ると数分で四阿の中に清水の湧き出す井戸があるが、ここは「清水鼻の名水」と呼ばれて当時は立場があった所である。名水は今もなお滾々と湧き出ている。

「続膝栗毛」には「かくて守山、武佐をうち過ぎて、相の宿(間の宿)清水がはなというところに、いたりし頃ははや日暮れて、行くさき覚束なく(おぼつなかく)・・・・」と書かれている。

名水から10分ばかり行ったところに「中山道・六十八番宿跡」の碑が置かれているが六十八番目は草津、武佐宿は六十六番目の宿駅のはずだが?

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30分ほど歩くと「中山道・東老蘇」の碑が立っていて、すぐ先に「奥石神社(おいそ)神社」がある。この神社は織田信長が寄進したもので今は重要文化財に指定されている。

木曽路名所図会」には「≪老蘇杜(おいそのもり)≫西生来(にしょうらい)のひがしに西老蘇・東老蘇の二カ村あり。南老蘇は街道の南にあり。」とある。

≪老蘇の森≫

「古来老蘇の森一帯は蒲生野(かもうの)と讃えられ老蘇・武佐・平田・市辺の四ヶ村周辺からなる大森林があった。(中略)奥石神社本紀によれば昔此の地一帯は地裂け水湧いて人住めず七代孝霊天皇の御宇石辺大連翁等住人がこの地裂けるを止めんとして神助を仰ぎ多くの松・杉・桧の苗を植えしところ不思議なる哉忽ちのうちに大森林になったと云われている。この大連翁は齢百数十才を数えて尚矍鑠(かくしゃく)と壮者を凌ぐ程であったので人呼んで「老蘇」と云ひこの森を老蘇の森と唱えはじめたとある。又大連はこの事を悦び社壇を築いたのが奥石神社の始めと傳えられている。」(説明場版)

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「老蘇の森」は歌枕の地でここでも多くの歌人が歌を残している。

- 東路の 思い出にせ むほととぎす 老蘇の森の夜半の一声 - 大江公資
- のがれえぬ 老蘇の杜の 紅葉ばは ちりかひくもる かひなかりけり - 兼好法師

- 世やはうき 霜より霜に 結びおく おいその杜の もとのくち葉は - 藤原定家
- いとせめて なを憂きものは 春をへて 老曽の森の 鶯のこゑ - 藤原為家

- みのよそに いつまでか見ん 東路の 老蘇の森に ふれる白雪 - 加茂真淵

街道に戻り数分先へ行くと陣屋小路と彫られた道標があり、それに従って路地に入っていくと「根来陣屋跡」の碑が立っている。説明版によれば「ここは江戸時代鉄砲の根来衆で有名な根来家の陣屋があった所だという。

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さらにその先の轟川に架かる轟橋の袂に「轟地蔵跡」と彫られた碑が立っている。

ここには常夜灯も残っている。

≪轟地蔵旧跡と轟橋≫(説明版)

現在福生寺に祭祀されている轟地蔵は中山道分間延絵図(重文1806年)には、この場所に画かれている。平安時代の俗謡「梁塵秘抄」のなかに「近江におかしき歌枕 老蘇轟 蒲生野布施の池‥‥」と歌われ、その轟にあやかって名付けられた。轟地蔵は小幡人形の可愛いい千体仏で安産祈願のお地蔵さんである。(中略)

近江輿地志略に掲載された轟橋の歌三首

 堀川百首  わきも子に近江なりせばさりと我文も見てまし轟の橋  兼昌

 夫木集   旅人も立川霧に音ばかり聞渡るかなとどろきのはし    覚盛

 古 歌   あられふり玉ゆりすえて見る計り暫しな踏みそ轟の橋  読人不知

轟橋を渡ると杉原氏庭園の説明板と「名勝 緑苔園」の立札が立っていて「県指定文化財」と書かれている。茅葺屋根の古民家が杉原家でその庭園のようだが個人の庭園なので中は見られそうもない。

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23分先に「中山道:大連寺橋」右側面に「右観音正寺・左十三仏」左側面に「右八日市・左安土」と彫られ道標が置かれている。さらに5分ほど先に「鎌若宮神社」がある。これが「木曽路名所図会」に書かれている西老蘇の「奥石神社」だという。

さらに「東光寺」という寺「中山道・西老蘇」の碑がありその先、小さな川のほとりに「泡子延命地蔵尊遺跡」と彫られた碑が立っている。 説明板によると「昔この地にあった茶店の娘がこの茶店で休んでいる一人の僧に恋をした。僧が立ち去った後、飲み残した茶を飲むと不思議にも懐妊し、男の子を産み落とした。

三年後その僧が再び現れ、娘がその話をすると僧が男の子にフッと息を吹きかけた。 するとその子は泡となり消えてしまったと言う。」

醒井宿にも同じような「泡子塚」の伝説があったようだが・・・。

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午後5時半を過ぎた。夕方忙しい時間だがこの静かな町並みは何とも心地よい。

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先へいくと「西福寺」があり「西生来(にしょうらい)」の集落には一里塚跡の碑が立っている。江戸から百二十四番目の「西生来一里塚」である。

(百二十三番目の一里塚は「清水鼻」の手前石塚の集落にあったというだが今は目印になるものは何も残っていない。)

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66宿 武佐宿・本陣1脇本陣1、旅籠28

(日本橋より124108間 約488.1キロ・鳥居本宿より218町 約9.8キロ)

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武佐宿の西50町ばかりのところに近江商人の町「近江八幡」があり商業が盛んであった。中山道の宿駅として旅人で賑わったのが武佐宿で近江商人の商いで賑わったのが近江八幡ということになる。

木曽路名所図会には、「愛知川まで弐里半。これより西の方によりて、八幡の町へ行く。道法(みちのり)五十町許あり。八幡:此辺の都会の地にして、商人多し。産物は蚊帳地及び布嶋・畳表(たたみおもて)・円座(わらなどでひらたく丸くあんで作った敷物。すわる時に使う。)・灯心(あんどんなどの芯(しん)・蒟蒻等なり。」とある。

さて、「西生来一里塚跡」から10分弱の所に「武佐宿・大門跡」の立て札がありすぐに「牟佐(武佐)神社」がある。

「武佐は古へ牟佐村主の古地なれば牟佐上下の両社は平安朝の時代神威高く貞観元慶二度神位階を授けられし事三代実録に見ゆ。当社はその牟佐下神なりといふ。近江蒲生郡志巻六より」(由緒書きより)

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牟佐神社を過ぎると左手に「明治天皇聖蹟」と彫られた碑が立っている。その先右手に鏑木門があり、左の柱に「武佐町会館」右の柱に「脇本陣跡」と書かれている。現在の武蔵会館が脇本陣跡であったことがわかる。

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すぐ先の交差点にポケットパークがあり、東屋、新しい灯籠、武佐宿の案内板が立っている。灯籠には、正面に「中山道六拾七番宿場武佐宿」「右 東京 約460KM」、左面に「右 いせ 約120KM」と彫られている。

「ここは中山道 第六十七番 (?)宿場 武佐宿です。武佐は昔「牟佐」又は「身狭」の字を使ったが江戸時代頃よりこの「武佐」をつかう。蒲生郡第一の賑わいをみせ 中山道の大きな驛として 人馬の継立は人夫五十人 馬五十駄を常設、本陣、脇本陣各々一、問屋二軒を有し旅籠は二十三軒あったと言われる。」(説明版より)

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その先は古い町並みになり「下川家・本陣跡」があるが現在は本陣門のみが残っている。

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先の十字路に八風街道道標が立っていて、「いせ ミな口 ひの 八日市 道」と彫られている。八風街道は武佐宿を起点として鈴鹿山脈の八風峠を越えて伊勢に至る街道で、近江地方に海産物を運んでいたのだという。

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すぐ先にある民家は松平周防守陣屋跡で家の右側に立派な石灯籠と愛宕山の石碑が立っている。この辺りは川越藩の飛び領地だったことから、管理のために藩主松平周防守がここに陣屋を置いた。

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屋跡から5分程の所に、石碑と愛宕山常夜燈が立っており、ここが西の高札場跡であった。その先に「武佐寺三丁」と彫られた道標が置かれている。

「武佐寺:本尊千手観音。上宮太子の寺念仏なり。平家没落の時、平重衡(たいらのしげひら)東下りのとき、此寺に憩う事、源平盛衰記に見えたり。」(木曾路名所図会)

そろそろ午後6時半、武佐寺まで足を延ばすのは無理のようだ。

すぐ先の近江鉄道武佐駅から今日の宿泊地「ベストイン近江八幡」へ行くことにする。

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