寄り道 岐阜城、美濃路・墨俣宿
2019年3月3日(日)寄り道 岐阜城
中山道を歩いた時、岐阜駅前のホテルに宿泊した。
それ以来、実家の宝塚へ向かう途中岐阜駅を通過するたびにいつか岐阜城へ行ってみようと思っていたので、今回それを実現することにした。その前に知立に住む50年来の友人夫婦とランチでもと思い連絡してみると、なんと宿泊まで付き合ってくれることになり、3日の夜は旧交を温め、ゆっくりと酒を酌み交わした。今も昔もこの酒汲めば心地よしである。
さて、岐阜城。織田信長が斉藤道三の居城であった稲葉山城を「稲葉山城の戦い」でその孫、斎藤龍興から攻め取って稲葉山城を岐阜城とあらため、「天下布武」の朱印を用いるようになった。
稲葉山城と言えば、即座に竹中半兵衛が妻の父・安藤守就(あんどうもりなり)、弟久作と共にわずか16名の手勢で稲葉山城を占領したというエピソードを思い出す。稲葉山城は、自然の要塞ともいわれ、織田信長が8年の歳月をかけても落とせなかった堅城である。21歳の若さでわずか16名の手勢を引き連れ、いとも簡単に城を占領した竹中半兵衛に信長は美濃半国を与えることを条件に稲葉山城の明け渡しを求めるが、半兵衛は断り6カ月後に斎藤龍興に城を返している。
竹中半兵衛は1544年9月、美濃斎藤氏の家臣竹中重元の子として生まれる。
1556年斉藤道三とその子義龍が戦った「長良川の戦い」が初陣、父重元が死去すると19歳で家督を継ぎ菩提山城主となって斎藤義龍に仕え、義龍の死後その子龍興に仕えた。半兵衛のクーデターは、酒色におぼれる龍興を戒めるためのものであったと言われているのだが。
竹中半兵衛は、戦国時代1・2を争う軍師で黒田官兵衛と共に「両兵衛」とも「二兵衛」ともいわれている。
織田信長は、竹中半兵衛を家臣にするため半兵衛が隠棲している松尾山に木下藤吉郎を遣わす。
三顧の礼を尽くす秀吉に将の素質を見出した半兵衛は、織田の家臣になることを断り、秀吉の家臣になる。ここで「三顧の礼」の言葉が使われるのは、中国の三国時代、蜀の劉備玄徳が三顧の礼を以て諸葛孔明を軍師に迎える下りによく似ているからであろう。
2019年3月4日(月)美濃路・墨俣宿
友人夫婦が大垣・墨俣町の「しだれ梅」を見に行くというので同行することにした。
堤防脇の常夜灯がある坂を下墨俣宿である。
光受寺を後に街歩きをすると、家の玄関先には「つるし雛」が飾られている。その他、「みんなで百人一首」と題した人形なども飾られていて何やら趣のある宿場町である。
墨俣は、揖斐川と長良川の洲股(墨俣)で水陸交通の要衝であると共に戦略上の要地で、戦国時代以前からしばしば合戦の舞台なった。織田信長の美濃攻めにおいては、木下藤吉郎がわずかな期間でこの地に城を築いたことから墨俣一夜城といわれているが事実のほどは定かではない。
堤防沿いに歩き「太閤・出世橋」を渡れば墨俣城である。あいにく定休日で中には入れなかった。
敷地内には、
・春くればうぐいすのまた梅に来てみのなりはじめ花のおわり 西行法師
の歌碑が置かれている。調べてみたが西行がこの歌を詠んだのかは明らかではない。
・かりの世のゆききとみるもはかなしや身をうき舟の浮き橋にして 阿仏尼
の歌碑も置かれている。(写真なし)
奥の細道一人歩き 12 飯塚宿-「室の八嶋」-壬生
11日目(2019年2月7日(木))飯塚宿ー室の八嶋-壬生
さて、両毛線・思川駅から冬枯れの田園風景を左右に見ながら壬生道へ。
壬生道へ戻ると飯塚宿であるが今は宿場町の面影はない。右手に七面大明神の祠をみてしばらく行くと「飯塚の一里塚」がある。江戸・日本橋から二十二番目の一里塚である。
「飯塚一里塚(史跡)「一里塚」は江戸幕府によって一里(約四キロメートル)ごとに築かれ、榎などを植えて旅行者の目安とされた。「飯塚一里塚」は、江戸日本橋を起点とし、日光に至る日光西街道(壬生通り)の飯塚宿と壬生宿の間に設けられた。
この街道は、日光東昭宮参詣を中心に開かれた街道で将軍や幕府の使者、日光輪王寺門跡などの用人も多く利用した。特に東照宮例祭が催された四月中には通行人でにぎわった。
明治に入り、鉄道の普及にともなって、交通手段も変わり、「一里塚」の必要性もうすれ、消滅するものが多かった。現在、この地から約四キロメートル南へ進んだ地点には、「喜沢一里塚」も残されている。江戸時代の主要街道の様子を今に伝える貴重な史跡である。」(説明版)
少し歩くと「天平の丘公園」があり、「伝・紫式部の墓」などがある。
公園の中の「防人街道」と呼ばれる小道があり、万葉集の歌が書かれた木札が木にとめられている。
「防人街道について・防人とは古代、唐、新羅などの備えとして九州北辺に配備された兵士のことで、下野国など東国から多くの兵士がその任につきました。防人街道は「下国分尼寺跡」から「紫式部の墓」までの細道で万葉集の中に、下野の防人が詠んだ「松の木の竝(な)みたる見れば家人のわれを見送るとたたりしもころ」の風景に似ているところから、名付けられました。環境庁・栃木県」(説明版)
紫式部の墓については、姿川沿いにあった五輪塔がこの地に移された時、この付近は「紫」という地名であることから源氏物語の作者である紫式部の墓といわれるようになったと思われる。(環境庁・栃木県の説明版より)
つまり、紫式部の墓ではないということのようだ。
木札に書かれている万葉集をいくつか。
- 筑波嶺(つくはね)の、さ百合の花の、夜床(ゆとこ)にも、愛(かな)しけ妹(いも)ぞ、昼も愛(かな)しけ -
防人として旅立つ男が残した妻への思いを歌った歌
- 防人に行くは誰が背と問ふ人を見るがともしさ物思ひもせず -
防人として夫を送り出す妻の思いを歌った歌
- 今日よりは顧みなくて大君の醜(しこ)の御盾(みたて)と出で立つ我は -
父母と別れて防人として旅立つ子が歌った歌
いつの世も、兵役のために夫婦、親子が別れ別れになるのは辛く悲しいことである。
さて、これから「奥の細道、室の八嶋」へ行くのだが(当たり前のことではあるが)芭蕉が実際に歩いた道がよくわからない。曽良日記には「此間姿川越ル。飯塚ヨリ壬生へ一リ半。飯塚ノ宿ハズレヨリ左ヘキレ、(小クラ川)川原ヲ通リ、川ヲ越、ソウシヤガシト云船ツキノ上ヘカカリ、室の八嶋へ行(乾ノ方五町バカリ)。」と書かれているのだが・・・・。
iPadの地図を頼りに、花見が丘交差点を越え、壬生乙三叉路を左折、黒川を渡り県道2号線の思川を渡ると室野八嶋交差点がありそこを右折してやっと「室の八嶋」にたどり着いた。
芭蕉と曽良が江戸・深川を立ったのが元禄二年三月二十七日早朝、粕壁、間々田に宿泊し、室の八嶋を訪れたのは三月二十九日,深川を立って3日目、それに比べると随分ゆっくると時間をかけたものである。
鳥居をくぐり、長い杉木立の参道を歩くとその奥に大神神社(おおみわじんじゃ)がある。
大神神社は下野惣社大明神とも呼ばれ、境内にその説明版が立っている。
「下野惣社(室の八嶋)大神神社は、今から千八百年前、大和の大三輪神社の分霊を奉祀し創立したと伝えられ、祭神は大物主命です。
惣社は、平安時代、国府の長官が下野国中の神々にお参りするために大神神社の地に神々を勧請し祀ったものです。
また、この地は、けぶりたつ「室の八島」と呼ばれ、平安時代以来東国の歌枕として都まで聞えた名所でした。幾多の歌人によって多くの歌が、残されています。」(説明版)
「奥の細道・四 室の八嶋」には、以下のように書かれている。
「室の八嶋に詣(けい)す。同行(どうぎょう)曽良が曰(いわく)此神は、木の花さくや姫の神と申して、富士一躰也。無戸室(うつむろ)に入りて焼給ふちかひのみ中に、火々出見(ほほでみ)のみこと生れ給ひしより、室の八嶋と申す。又煙(けぶり)を讀習し(よみならわし)侍(はべる)もこの謂也(いわれなり)将(はた)このしろといふ魚(うお)禁ず。縁記(起)(えんぎ)の旨世に傳(つた)ふ事も侍りし。」
(室の八嶋に参詣した。同行の曽良が言うには「ここの祭神は木花開耶姫(このはなのさくやびめ)と申して、富士の浅間神社と同じ神である。この姫が戸の無い塗りごめの室に入って、火をつけてお焼きになりながら無事に御曹司を産もうとなされた誓いの中から、彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)がお生まれになったので室の八嶋と申します。またここを歌によむ時には、煙に因んだ歌をよむ習わしになっているのも、この木花開耶姫のもいい伝えによるのです。またここでは「このしろ」という魚を食べることを禁じています。この神社のこういう由来を語る話も、すでに世に伝わっています。」
「室の八嶋」は大神神社(おおみわじんじゃ)の境内にあり主祭神は倭大物主櫛𤭖玉命 (やまとおおものぬしくしみかたまのみこと)、配祭神は、木花咲耶姫命 (このはなさくやひめのみこと)、瓊々杵命 (ににぎのみこと)(木花咲耶姫命の夫神)大山祇命 (おおやまつみのみこと)(木花咲耶姫命の父)、彦火々出見命 (ひこほほでみのみこと)(木花咲耶姫命の子)
木花咲耶姫命 (このはなさくやひめのみこと)は絶世の美女で日向に降臨した天照大御神(あまてらすおおみかみ)の孫・邇邇芸命(ににぎのみこと)は,笠沙(かささ)の岬で木花咲耶姫命に出会う。その美しさに一目ぼれした邇邇芸命は木花咲耶姫命と一夜の契りを交わす。木花咲耶姫命は一夜で身篭るが、邇邇芸命は「自分の子ではない」と疑った。怒った木花咲耶姫命は無戸室に入り疑いを晴らすため、「天津神である邇邇芸命の本当の子なら何があっても無事に産めるはず」と、産屋に火を放ってその中で火照命(ほでりのみこと)・火須勢理命(ほすいせりのみこと)・火遠理命(おおりのみこと)を産んだ。
曽良が火々出見(ほほでみ)のみことと言っているのは、火遠理命(おおりのみこと)でその孫が初代天皇の神武天皇である。
また、火照命(ほでりのみこと)は海幸彦となって海で漁をし、火遠理命(おおりのみこと)は山幸彦といって山で狩りをするといった「海幸彦、山幸彦」の神話も生まれている。
境内には芭蕉の句碑が置かれていて「芭蕉と室の八嶋」の説明版が添えられている。
「松尾芭蕉は元禄2年(1689)「奥の細道」への旅に出発した。途中、間々田、小山を経て飯塚から左に折れて川を渡り室の八嶋に立ち寄っている。その時詠んだというのが「糸遊(いとゆう)に結びつきたるけぶりかな」の句である。むかし、このあたりからは不思議なけむりが立ちのぼっていたといわれ、「室の八嶋に立つけぶり」は京の歌人たちにしばしば歌われている。(説明版)
「糸遊」はかげろうのことで「糸」と「結ぶ」が縁語になっている。「室の八嶋の煙は、春の陽炎と結び合って立ち上っていく」といったような意味合いか。
芭蕉はここでこの句も含め五つの句を詠んでいる。
- 糸遊に 結びつきたる けぶりかな - (句碑に刻まれている)
- あらたふと 木の下暗も 日の光 -
- 入りかかる 日も糸遊の 名残かな -
- 鐘つかぬ 里は何をか 春の暮れ -
- 入逢(いりあい)の 鐘もきこえず 春の暮れ -
が、いずれも「奥の細道」には書かれていない。
「室の八嶋」は、説明版にもあるように歌枕の地で、平安の昔から多くの歌が詠まれている。
- いかでかは 思ひありとも 知らすべき 室の八嶋の 煙ならでは - 藤原実方
‐ 人を思ふ 思ひを何に たとへまし 室の八島も 名のみ也けり - 源重之女
- 煙たつ 室の八嶋に あらぬ身は こがれしことぞ くやしかりける - 大江匡房
- いかにせん 室の八島に 宿もがな 恋の煙を 空にまがへん - 藤原俊成
- 暮るる夜は 衛士のたく火を それと見よ 室の八島も 都ならねば - 藤原定家
- 下野や室の八島に立つ煙思ひありとも今日こそは知れ - 大江朝綱
- いかにせん室の八島に宿もがな恋の煙を空にまがへん - 藤原俊成
- 恋ひ死なば室の八島にあらずとも思ひの程は煙にも見よ - 藤原忠定
室の八嶋を後に壬生道に戻って先へ行くと「壬生町」である。黒川に架かる御成橋を渡って10分程行くと「壬生の一里塚」が見えてくる。江戸・日本橋から二十三番目の一里塚である。
この辺りが壬生宿の入口であろうか。
寄り道 下野・犬伏
2019年2月7日(木)
壬生道に戻る前に、真田昌幸、信幸(信之)、幸村親子兄弟が敵味方になる話し合いが行われた犬伏・新町薬師堂へ行ってみることにする。
犬伏は、日光例幣使街道の宿場町で旅籠は四十軒を超え、当時はかなり賑わったようだが今はその面影はない。
例幣使街道は、江戸時代の脇街道の一つで、日光東照宮に幣帛(幣帛)を奉献するための勅使(日光例幣使)が通った道である。中山道・倉賀野宿を起点とし、太田宿、栃木宿を経て、楡木宿にて壬生道(日光西街道)と合流して日光へと至る。楡木より今市までは壬生道(日光西街道)と重複区間である。
例幣使街道は、内米町の交差点で141号に出会う。
さて、佐野駅前でレンタルサイクルを借りて141号線を15分ばかり走ると「新町・薬師堂」である。中には、昌幸、信幸、信繁(幸村)の人形などが置かれている。
慶長5年(1600)7月24日、上杉征伐のため会津に向かう途上、下野国小山で「三成挙兵」の報を受けた家康は、翌7月25日に軍議(小山評定)を開いた。
その前、徳川家康の上杉征伐の号令に従うべく、真田昌幸は上田を信幸は沼田を発し、家康に合流するべく宇都宮城を目指していた。そして家康と共に大坂を出た幸村は途中昌幸に合流している。目指す宇都宮城を目前に昌幸、幸村は下野・犬伏に陣を張った。その犬伏の陣に石田三成の密書が届いたのが7月21日、家康に「三成挙兵」の報が届く3日前のことである。昌幸、幸村に信幸が加わって家康に就くか、三成に就くかの話し合いがもたれたのがこの「新町薬師堂」と言われている。
話し合いの結果、昌幸、幸村は三成に味方し、信幸は家康に就くことになった。
理由はいくつかある。
昌幸は三成とは姻戚関係(義兄弟)にあり(三成・昌幸とも宇田頼忠の娘を娶っている)、幸村の妻は豊臣恩顧の大谷刑部小輔吉継の娘である。
信幸の妻は、徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられる本田忠勝の娘・稲姫(小松姫)である。その稲姫が家康の養女となって信幸に嫁いでいる。
また、信幸は、戦国の乱世を終わらせるのは家康以内にないとの強い信念を持っている。
もう一つの理由は、昌幸は上杉景勝に多大な恩義を感じていて上杉征伐には参戦したくなかったに違いない。本能寺の変で信長が討たれた後、昌幸は自領を守るため上杉景勝に従属したが情勢が変わるたびに北条、徳川転じ、景勝は幾度となく昌幸に煮え湯を飲まされている。にもかかわらず真田と北条の間に沼田問題が発生し、家康と手切れになった昌幸は上杉景勝を頼った。景勝は、過去は過去とし、昌幸の申し出を受け入れ、人質の幸村を客分として取り立てた。
更には、親子兄弟が敵味方に分かれて戦えば、どちらが負けても真田家を存続することができるという思いがあったともいわれている。
「親子・兄弟が敵味方に分かれて戦うのもあながち悪うはござりますまい。沼田が立ち行かぬ時は上田が・・・・」幸村「上田が立ち行かぬ時は沼田があるという事か」信之。
真田太平記・第21回「決裂 犬伏の陣」の名場面である。
徳川家創業期の歴史書「改正三河後風土記」第三十五巻「真田親子分手の事」には、次のように書かれている。
「真田安房守昌幸・嫡子伊豆守信之・次男左衛門佐幸村、ともに会津の御陣触(ごじんぶれ)に応じて小山に参戦せし所、石田より密書を以て「上方義兵を挙げる。真田太閤の旧恩を忘れず、秀頼公の御味方して忠勤を励めば、天下統一の後信州一円に恩補せらるべし」との事也。依て昌幸は小山より三町程脇の野原に父子三人会集し、安房守申しけるに「吾つらつら世の有様察するところ、上杉景勝秀頼公へ対し、謀反を企てるにあらざる事は文明なり。其上に今度大谷・石田が申し送る所を見るに、全く景勝と奉行の人々申し合わせ、前後より義兵を起こし、国家の大害を除かん為の忠謀、真田が家運を開く時至れり。(後略)」
話し合いは決裂し昌幸、幸村は上田へ、信幸は小山へ立ち返ることになる。
新町薬師堂の脇を流れていた川に橋が架かっていた橋は「真田父子の別れ橋」と後々までも語り継がれているという。
犬伏で信幸と袂を別った昌幸は居城の上田城に戻る途中、沼田城に立ち寄り城に入ろうとした。その目的が今や敵となった信幸の居城・沼田城の乗っ取りにあったのか、単に孫の顔が見たかっただけなのかはわかりようがないが、留守を預かる小松姫が昌幸の沼田城乗っ取りの計略を見抜いて開門を拒み、女丈夫と謳われたエピソードは有名である。
「沼田日記」には、「昌幸の将兵が門を破ろうとすると「力ずくで開門とは何事じゃ。殿(信幸)御出陣の留守中に狼藉に及ぶとは曲者に違いない。女なれどもわらわは伊豆守(信幸)の妻、本田中務(本田忠勝)が女(むすめ)。内府御女の称号を許されている。この城に手をかけるものあらば、一人も漏らさず打ち取れ。」と緋縅の鎧をつけ薙刀を掲げて城より一括した。昌幸は孫の顔を一目見たいと言うが小松姫は頑として聞き入れなかった。
昌幸は「頼もしきかな、武士の妻はかくありたいものじゃ。」と言い残し上田に向かった。
昌幸・幸村は沼田を経て鳥居峠・真田郷を経て大笹の関所にさしかかった時、秀忠の命を受けた地侍の襲撃を受けたが幸村が防ぎ、無事に上田にたどり着いた。」と記されている。
また、真田氏の家記・「滋野世記」には、「昌幸は信繁同道にて犬伏の宿を打立て、夜中沼田に著たまい。城中へ按内ありければ、信幸の室家使者を以て、夜中の御皈陣不審に候なり、此の城は豆州の城にて、自を預居候事なれば、御父子の間にて候え共、卒尓に城中へ入申事成難く候と仰ける(中略)。暫有て城中より門を開きけるに、信幸の室家甲冑を著し、旗を取り、腰掛に居り、城中留守居の家人等其外諸士の妻女に至るまで、皆甲冑を著し、あるいは長刀を持ち、あるいは弓槍を取り列座せり。時に信幸の室家大音に宣うは、殿には内府御供にて御出陣有し御留守を伺い、父君の名を偽り来るは曲者なり、皆打向って彼等を討ち取るべし(中略)、一人も打ち洩らさず打ち捕べしと下知したまう。昌幸その勢いを御覧ありて大いに感じたまい、流石武士の妻なりと称美あり。御家人等を制し止められ、夫より我妻かかり、上田城へ籠城なり。」と書かれている。
更に「改正三河後風土記」第三十五巻「真田親子分手の事」の後半には、「安房守・左衛門佐は直ちに小山より赤坂にかかり上州沼田に立寄、此程の疲れをも休息せんと、伊豆守が妻のもとへ使いを立て「昌幸は内府公に年頃恨ある故、石田治部に一味致し、本国へ立返り籠城せん覚悟に候。今生の暇乞の為対面し、孫共をも一見せばやと存候。」と申し送る。伊豆守の妻是を聞「夫伊豆守は元より内府方に候えば、いかに父君にても敵を城内へ入る事叶うべからず。城下の町屋に御宿を申付置候へば御休息し給へ。」と、侍女共多数旅宿に遣はし、饗応丁寧にもてなしける。其間に城中には家老共に下知し、侍共に手配し弓鉄砲を狭間にならべ、唯今敵の寄来るを待如くなり。安房守此体を見て涙にむせび、家人等に向かひ「あれ見候へ。日本一の本田忠勝が女程あるぞ。弓取りの妻は誰もかくこそ有べけれ。わが抽き石田が微運にひかれ、空しく戦死する共あの新婦あるからは、真田が家は盤石なり。」と悦びて、早々其所を立去りて、須川へ至り、大頭越をさわたりへ出て、高間越して横屋に趣き、信州上田へ帰城せり。」と書かれている。
「真田氏史料集」の「真田信之夫人大蓮院」の中で、「賢夫人で女丈夫の聞こえが高かった。関ヶ原の役のおり、西軍に加わるため信之と別れた昌幸は、上田城へ引き上げる途中、沼田城へ立ち寄ろうとした。そのとき城主信之の留守を守っていた彼女はそれを拒絶、昌幸を城内に入れなかった、という話は有名」と記されています。
小松姫の遺品の中には「史記」の「鴻門之会」の場面を描いた枕屏風があるが、こうした戦を表す勇壮な絵を所持していた点からも「男勝り」と評されている。
奥の細道 一人歩き 11 間々田宿-小山宿
10日目(2019年2月5日(火))間々田宿-小山宿
第11宿 間々田宿 (野木宿より一里二十七町(約6.7キロ)
本陣1、脇本陣1、旅籠五十三軒、宿内人口九百四十七人
間々田宿は、元和四年(1618)に宿駅となり、思川の乙女河岸を控え物資の集積地として賑わった。宿駅の管理は、寛永10年(1633年)以降は古河藩、正徳2年(1712年)以降は幕府、安永3年(1774年)以降は宇都宮藩が担った。
また、間々田宿は江戸、日光からそれぞれ11番目の宿場にあたり、距離も18里の中間地点に位置していたので、「間の宿(あいのじゅく)」と呼ばれていた。
浦和から宇都宮線で間々田へ。街道に戻り少し行くと右手に小川家住宅がある。今は、小山市立車屋美術館で、明治末期の小川家住宅(国有形登録文化財)が公開されているが早朝(8時30分)なので中には入れなかった。
5分程歩くと「逢の榎」の碑がある。榎は「間(あい)の榎」と呼ばれていたが、いつしか「逢の榎」と呼ばれるようになり、縁結びの木として信仰を集めるようになった。
碑には、逢の榎、江戸へ拾八里、日光へ拾八里と刻まれている。
日光街道中間点 逢の榎
「元和三年(1617)、徳川家康が日光に祀られると、日光街道は社参の道として整備されていき、二十一の宿場が設けられました。
宇都宮までは奥州街道と重なっていたため、諸大名の参勤交代や物資の輸送、一般の旅人などにも利用された道でもありました。
間々田宿では、翌年には宿駅に指定され、江戸および日光から、それぞれ十一番目の宿場にあたり、距離もほぼ十八里(約七十二キロ)の中間点に位置していました。
天保十四年(1843)、間々田宿には本陣一軒、脇本陣一軒、旅籠が五十軒ほどあり、旅人が多く宿泊し、賑わっていました。松尾芭蕉などの文化人も宿泊しています。
また、中田宿から小金井宿付近までの街道沿いには、松並木が続き、一里塚には杉・榎などが植えられ、旅人の手助けとなっていました。
間々田宿の入口にあった榎は、毎年、街道を通った例幣使が江戸と日光の中間に、この榎を植えて、旅の道のりを知ったのだという伝承が残されています。榎は「間の榎」とよばれ、旅人の目印となっていました。
この榎は、いつの頃からか「逢の榎」とよばれるようになり、縁結びの木として人々の信仰を集めるようになりました。祖師堂も建てられ、お参りする男女が多かったと伝えられています。」説明版より
先には、間々田紐を製造・販売をしている家がある。間々田紐は組紐で江戸時代には刀の下げ緒や甲冑に用いられ、真田紐と並んで武家社会に浸透した。間々田紐は、県指定の無形文化財になっている。
5分程歩くと、間々田の交差点の先に問屋場跡、続いて間々田本陣跡の説明版が立っている。
間々田宿問屋場跡
「間々田宿は、江戸時代に、五街道の一つ、日光街道(道中)の宿駅として栄えていました。江戸日本橋から十一番目の宿駅(宿場)であり、江戸と日光の丁度中間に位置していました。天保十四年(1843)の記録によると当宿は石高九四四石 家数一七五軒 人口九四七人 旅籠五〇軒 本陣一 脇本陣一 と記されており、幕府の定めにより、常備の人足二十五人、馬二十五疋を備え、幕府の公用に応じたり、一般の輸送も引受けていました。日光社参・参勤交代など特別の場合は、近隣の農村から助郷と称して、人馬を臨時に集めました。それらの人馬継立業務の一切を取扱うのが宿役人で、問屋・年寄・帳付・馬差・人足差などと呼ばれ、その詰所に当たる場所が問屋場です。ここ間々田宿の上中町の上原家が、名主職を兼ね、代々世襲で幕末まで問屋を勤めていました。 間々田商工会 小山歴史研究会」説明版より
間々田宿本陣跡
「本陣は江戸時代に主な街道に設けられた宿泊施設で、本来は幕府公用の大名・勅使・公家・問跡(僧)上級武士の便をはかるためのものでした。大名などが宿泊休けいする時は宿場や本陣の入口に「関札」を掲げ、誰が宿泊休憩しているか知らせました。また本陣には定紋入りの提灯を掲げ、門や玄関には幕を張りました。
本陣主人は名字帯刀を許され、他の宿役人と共に、大名などを宿の入口まで出迎えました。江戸時代の初めから江戸時代を通して青木家が代々、この地で本陣を維持し、明治の世となって明治天皇が休けいの一時を過されました。 間々田商工会 小山歴史研究会」 説明版より
少し先の浄光院の境内には、青面金剛像庚申塔や壱拾九夜塔等がい置かれている。向かい側には行泉寺があるが、この辺りが間々田宿の日光(北)口で土塁と矢来柵があった。
先の道を左に入ると間々田八幡宮である。八幡宮の瓢箪池には芭蕉の句碑「古池や蛙飛び込む水の音」が置かれている。
先へ行くと間々田郵便局があるがこの辺りに間々田の一里塚があったと思われる。江戸日本橋から十九番目の一里塚である。今は跡形もないが。
さて、先へ進むと西堀酒造がある。若盛・門外不出などと書いてあるので土産に買おうと思ったが営業は12時から。ここも早すぎたようである。
先の粟宮の信号を左に入ると安房神社がある。ここは、粟宮村の鎮守で天慶二年(939)藤原秀郷が平将門討伐に際し、戦勝を祈願し守護神とした。後に、小山氏の篤い信仰を受けたのだという。
安房神社から1時間余り歩くと国道50号の高架をくぐる交差点が神鳥谷(東)である。
神鳥谷については、この辺りに「鶯城」と呼ばれる出城があった。鶯は神鳥「しとと」とも呼ばれこのあたりの谷と相まって「神鳥谷」となったのだという。
少し歩くと天満宮がある。この辺りが小山宿の江戸(南)口で土塁や矢来柵があった。
梅がきれいな花を咲かせている。
その先に永島鋼鉄店がある。この辺りが小山の一里塚(江戸日本橋から二十番目の一里塚)があった所だというが今はその面影は何もない。
その先が須賀神社の参道口で長い参道は、欅や銀杏並木で百基の朱塗り灯籠が並んでいる。
須賀神社の社伝によれば「平将門の乱」を平定した小山氏の祖、藤原秀郷が天慶三年(940)に小山市中久喜に京都・八坂神社を勧請し、小山城の鎮守とした。元は小山城内にあったとされ、江戸時代の初期に小山藩主・本田正純によりこの地に移された。
小山城は別名祇園城と呼ばれ京都・祇園に由来して祇園社と呼ばれたこの神社からきているのだという。徳川家康は、石田三成との戦を前にこの神社で戦勝を祈願した。
須賀神社の傍のちゃみせ「茶るん」で抹茶を一服いただいた。
街道に戻り、しばらく行くと左手に「明治天皇行在所」の碑がある。その奥に唐破風の玄関を残している家があるがここが若松脇本陣跡である。道路を挟んだ向かい側の「きもの・あまのや」辺りが控え本陣(本陣、脇本陣の控え)跡である。
駅前上町の交差点を左手に入ると小山市役所があるのだが、その敷地内に「史跡小山評定碑」が置かれている。
徳川家康は、慶長5年(1600)7月24日、上杉征伐のため会津に向かう途上、下野国小山に着陣した。その時、石田三成挙兵の報が入り、翌25日、急遽家康は本陣に諸将を招集して軍議を開き、三成打倒で評議は一決し、大返しとなった。これが世に言う「小山評定」である。
軍議は、豊臣秀吉子飼いの福島正則の「内府殿にお見方致す。」の一声で決まった。
会議は、常に声の大きなものに支配される。福島正則の一声で三成打倒の評議が一決したのである。また、堀尾忠氏のアイデアを盗んで自身の居城である遠江・掛川城を家康に差し出すと言明した山内一豊がその後出世の一途を辿ることになる。
小山評定は小山城内の須賀神社の境内で行われ、現在の須賀神社の境内には「徳川家康公・小山評定之碑」が置かれている。
街道に戻り、先へ行くと「元須賀神社」がある。須賀神社は、当初ここに祀られていた。
参道口辺りが小山宿の日光(北)口で土塁と矢来柵があった。
先へ進もう。20分ばかり歩くと「薬師堂」がある。境内には道標を兼ねた念仏供養地蔵があり、「右江奥州海道」「左江日光海道」と刻まれている。以前は、喜沢追分にあった追分道標だそうだ。
先の喜沢分岐点で、日光街道に別れを告げ芭蕉が歩いた壬生道を行くのだが日光街道の江戸日本橋より二十一番目の「喜沢の一里塚」まで足を延ばしここに戻ることにする。
西塚、東塚とも痕跡を残している。
喜沢追分には男體山碑が置かれていて追分道標になっている。碑には「男體山碑 左日光 右奥州」と刻まれている。
さて、壬生道は日光西街道とも呼ばれ日光街道の脇往還の一つで小山宿から壬生宿、鹿沼宿を経て日光街道の今市宿に至る道である。楡木宿から日光今市宿までは、中山道・倉賀野宿から延びる例幣使街道を兼ねる。壬生道は宇都宮廻りの日光街道より近道なので日光参詣にはよく使われた道である。芭蕉も壬生道を通って日光へ向かっている。
曽良日記には「小山ヨリ飯塚ヘ一リ半。木沢ト云所ヨリ左ヘ切ル。」と書かれている。
追分から15分ぐらい歩くと日光街道西一里塚(史跡)の説明版がたっている。
一里塚から数分先のゴルフ場の敷地内には古墳群に説明版が添えられている。
10分ほど歩くと左側に子育て地蔵すぐ先の右側に4体の地蔵尊が祀られている。
そろそろ午後4時、ここから一番近い駅はJR両毛線の思川駅のようである。
かなり距離がありそうだ。1時間以上はかかるだろう。
街道の先の羽川の交差点を左折し、姿川、思川を渡ってやっとの思いで思川駅にたどり着いた。
奥の細道 一人歩き 10 古河宿-野木宿-間々田宿
9日目(2019年1月23日(水))古河宿-野木宿-間々田宿
第9宿 古河宿 (中田宿より一里二十町(約5.8キロ)
本陣1、脇本陣1、旅籠三十一軒、宿内人口三千八百六十五人
北条氏の滅亡後、古河城は徳川家康の家臣小笠原秀正の居城となった。それ以後代々譜代大名が城主となり城下町が形成された。歴代将軍日光社参の2日目の宿泊が古河城であった。
原町口木戸跡のすぐ先の稲荷神社参道口に如意輪観音像、十九夜塔等が置かれている。
その先には長谷観世音参道寺標が立っている。長谷観世音は歴代古河城主の祈願寺であった。
続いて古河城御茶屋口門跡の碑が立っており、「御茶屋口と御成道」説明版が添えられている。
「「御茶屋口」、旧日光街道に面するこの口の名前は、かつてこの地に存在したとされる「御茶屋」に由来している。それは日光社参(徳川将軍が、神君徳川家康を祀る日光山へ参詣する行事のこと)に伴い将軍の休憩所として設けられたとされるが、江戸初期のごくわずかな期間に存在したと推定されるこの建造物について、今のところ、記録として残る略図以外にその詳細はわからない。 ところで、徳川将軍の日光社参は江戸時代を通じて19回おこなわれているが、古河城は、道中における将軍の宿城となることが通例であった。将軍の古河入城に利用された「御成」の入り口がこの御茶屋口である。 そして、「御茶屋口」から続く将軍御成の道は、諏訪郭(現歴史博物館)を北側に迂回、その後、幅180メートルに及ぶ「百間掘」を渡す「御成道」を経由して城内に至る。杉並木で飾られた「御成道」と城内との接点には、石垣で堅牢に守られていた「御成門」が将軍をお迎えした。 なお、将軍休憩の御殿というべき「御茶屋」破却後、その場所の一角には、「御茶屋口番所」が置かれている。これは、古河城下を通行する格式の高い大名や幕府閣僚たちの挨拶に対応する役人の詰所であり、明治維新を迎えるまで存続した。」(古河市教育委員会・説明版より)
やがて、左手に「肴町通り」通り道があり店の傍らに「古河藩使者取次所跡」と刻まれた碑が立っている。使者取次所は、大名の使者を」接待する役所で「御馳走役所」とも呼ばれたそうだ。肴町について次のような説明版が立っている。
「【肴町の由来】
その昔、元和の五年(1619)に奥平忠昌公が古河城主として移封された時代のことです。忠昌公は、お城の増築や武家屋敷の拡大のために町屋の大移動をはかり、中心部に新しいまちづくりを行いました。後の大工町や壱丁目、石町、江戸町等は皆その時に名付けられたものです。
江戸時代に古河城下を通過する諸大名は、使者を派遣し挨拶をしに参りました。古河藩からは役人が出向いて歓迎の接待をしたものです。その役所のひとつに使者取次所があり、別名を御馳走番所と言いました。現在米銀の在る処がそれで、今の中央町二丁目麻原薬局角から中央町三丁目板長本店の間、道巾三間半、長さ二十二間五尺の通りは、「肴町」と呼ばれるようになりました。
以来、この肴町通りは古河城裏木戸を経て城内にお米やお茶、お酒をはじめその他の食糧品を供給し、城内との交流の道として栄えて参りました。
今日、食糧品を扱う大きな店の構える通りとなっているのもその縁でありましょうか。
歴史の重さがしのばれます。」 (肴の会・説明版より)
この道を左に入っていくと閑静な町並みがみられる。
古河城二の丸御殿口の「乾門」を移した法福寺の山門や江戸時代にタイムスリップしたような鷹見泉石記念館などがある。鷹見泉石は古河藩の家老を務め、四代藩主・土井利位(どいとしひつら)が老中の時に「大塩平八郎の乱」の鎮圧に功があったのだという。
乾門については、次のような説明版がある。
「旧古河城内の二の丸御殿の入口にあって、乾門(いぬいもん)と呼ばれてきた門である。明治6年(1873)、古河城取り壊しに際して檀家が払い下げを受け、寺に寄進した。この門の構造は平唐門(ひらからもん)という形式で両側には袖塀が付き、向かって右側にくぐり戸がある。かつての古河城の姿を現在に伝える数少ない遺構として貴重である。」(古河市教育委員会・説明版より)
「ぬた屋」という川魚の甘露煮の店であゆの甘露煮を購入。
街道に戻り、すぐ先の本町二丁目の交差点の所に本陣跡の碑が立っている。道路を挟んで向かいには高札場跡の碑があり、説明版が添えられている。(説明版の文字が剥げていてよく読めない。以下は、古河市教育委員会のHPのもの)
「高札場と本陣
日光街道の宿場町としての古河宿の中心は、もと二丁目とよんだこの辺であった。文化4年(1807)の古地図によると、高札場がこの場所にあり、斜め向かいに本陣と、問屋のうちの一軒があり、またその向かい側に脇本陣が二軒並んで描かれている。
高札場は、親を大切にとか、商いは正直にとか、キリシタンは禁止だとかいった幕府の法令や犯人の罪状などを掲げたところである。
本陣と、その補助をする脇本陣は、合戦のとき大将の陣どるところに由来して、大名・旗本をはじめ幕府機関の高級役人・公卿・僧侶などの宿泊・休憩所で、古河の本陣は117・5坪(約400平方メートル)もあった。どこの宿でも最高の格式を誇っていたが、経営は大変であったといい、古河の脇本陣はのち他家に移っている。
問屋は、人足25人、馬25匹を常備し、不足の場合は近村の応援を得たり人馬を雇ったりして、この宿を通行する旅人や荷物の運搬一切をとりしきった宿場役人のことで、他にも3~4軒あって、交代で事にあたっていた。
街道沿いの宿町は、南から原町、台町、一丁目、二丁目(曲の手二丁目)、横町(野木町)と続き、道巾は5間4尺(約10メートル)ほど、延長17町55間(約1850メートル)余あり、旅籠や茶店が軒を並べ、飯盛女(遊女の一種)がことのほか多い町だったという。」(古河市教育委員会・説明版より)
少し歩くと街道は直角に右に曲がっていて角に常夜灯を兼ねた日光街道古河宿道標が立っている。「左日光道」「右江戸道」と刻まれている。足元には「左日光道」ご刻まれた標柱もある。日光道と筑波道の追分である。
「寛永十三年(一六三六)に徳川家康によって日光東照宮が完成し、江戸と日光を結ぶ日光街道が整備された。その途中にある古河宿は、日光社参の旅人などの往来でひときわ賑わうようになった。日光街道は、江戸から古河に至り、二丁目で突き当り、左が日光道、右が筑波道と分岐するように作られた(絵図を参照)。その分岐点に、人々の往来の助けにと建てられたのがこの道標である。この道標は文久元年(一八六一)に太田屋源六が願主となり、八百屋儀左衛門ほか11名によって建てられたもので、常夜灯形式の道標として貴重なものである。文字は小山霞外(おやまかがい)・梧岡(ごこう)・遜堂(そんどう)という父・子・孫三人の書家の揮毫(きごう)である。」(古河市教育委員会・説明版より)
現代のように情報が発達していない当時は、旅人にとって道標や一里塚がどれほどありがたいものかが実感できる。
少し歩き今度は直角に右に曲がると「よこまち柳通り」の碑が立っている。「武蔵屋」という鰻料理店があるが、このあたりは当時遊廓であったのだそうだ。
向かい側には、「古河提灯竿もみ祭り発祥の地」と刻まれた碑が置かれている。長い竹竿の先に提灯をつけ、大勢で激しく揉み合いながら提灯の火を消すという奇祭だという。
15分程歩くと再び「よこまち柳通り」の碑が立っている。よこまち柳通りはここで終わりという事か。その先15分程歩くと再び古河宿灯籠のモニュメントが立っている。このあたりが古河宿の日光口なのであろう。
古河宿を後にしてすぐに「史跡栗橋道道標」が立っている。この道は栗橋に続いているのだろうか。その先10分程の所には「塩滑地蔵菩薩」がある。地蔵尊に自分の幹部と同じところに塩を塗ると霊験があらたかであるという言い伝えがある。
時間は午後1時前、空腹を感じた所で左手にイートインのあるスーパーがあったのでそこで昼食を取ることにする。街道歩きをしているとトイレと昼食を取る場所に困ることが多い。イートインのあるスーパーやコンビニはとてもありがたいのである。
食事を終えて先へ行くと野木神社の鳥居が見える。野木神社は、延歴二年(783)時の征夷代将軍坂上田村麻呂が社殿を造営、下野の国寒川郡七郷の鎮守であり、古河藩の鎮守祈願所であった。15分程先には馬頭観音が置かれている。旧道は、ここで4号線に合流する。
4号線をあるくと馬頭観音と並んで野木宿入り口の標識があり「この場所に木戸が設置されていた。」と記されている。ここは野木宿の江戸口で土塁と矢来棚があった。
第10宿 野木宿 (古河宿より二十五町に十間(約2.8キロ)
本陣1、脇本陣1、旅籠二十五軒、宿内人口五百に十七人
野木宿の西に流れる思川には野渡(のわた)河岸、友沼河岸があり江戸との舟運が盛んであった。
木戸口を入るとすぐに熊倉本陣跡で野木宿の説明版が立っている。
本陣は熊倉七郎右衛門が務め、問屋も兼ねていた。
「日光道中野木宿
江戸時代の野木宿は、古河宿より25町20間(約2.8㎞)、間々田宿へ1里27町(約6.9㎞)にあった宿場町である。
野木宿の成立は、野木神社の周りに住居したのがはじまりで、その後文禄年中(1592~95)に街道筋へ出て、馬継ぎが開始され、新野木村が成立した。まもなく野木村も街道筋へ移動して町並みとした(「野木宮要談記」)ようである。慶長7年(1602)には本野木・新野木村を併せ、野木宿として成立した(「日光道中略記」)。こうして日光道中も東海道・中山道と前後して、慶長期(1596~1614)ころから、宿駅の設定や街道の整備が進められたとされる。
宿の規模は天保14年(1843)では下記の通りである。
宿の長さ 22町27間 家数 126軒 宿の町並み 10町55間 御定人馬 25人25疋 高札場1ヶ所 本陣 1軒 脇本陣 1軒 問屋場 4ヶ所 旅籠 25軒(大0,中2,小23) 人口 527人(男271人 女256人)・・・
野木宿は小さな宿場だったので、街道が整備され、通行量が増大すると、その負担に耐えられなくなっていった。そこで、宿人馬をたすける助郷の村々、23ヶ村が野木宿に割り当てられた。その多くは古河藩内の村々で、現在の野木町域(川田を除く)、小山市平和などの台地上の村々と思川西部の水田地帯の村々があてられた。」(野木町教育委員会説明版による。)
本陣跡の道路を挟んで向かい側が脇本陣跡である。脇本陣も熊倉家(熊倉兵左衛門)が務めた。5分程歩くと野木の一里塚跡の説明版が立っている。江戸より十七番目の一里塚で塚木には榎が植えられていたのだそうだ。続いて浄明寺、境内には青面金剛庚申塔等が置かれている。
先へ行くと大平山道標があり説明版が添えられている。道標には「是より大平道」と刻まれている。大平道は、思川の渡しを越え、日光例幣使街道の栃木宿大平山神社に至る。かつては、日光への裏道であった。
すぐ先には観音堂があり敷地内に十九夜供養塔や馬頭観音等が置かれている。
このあたりが野木宿の日光口で土塁や矢来棚があったということだ。
観音堂から40分ばかり歩くと左手に法音寺があり、境内には、芭蕉の句碑があり、説明版が添えられている。句碑には「道ばたのむくげは馬に喰われけり」と刻まれている。
曽良日記には「廿八日、ママダに泊まる。カスカベより九里前夜ヨリ雨降ル。」と書かれている。江戸を出て2日目の宿が間々田、雨の中間々田に宿を取ったのだろう。
法音寺の道路を挟んだ向かい側が正八幡宮である。
『友沼八幡神社「将軍御休所跡」
元和二年(1616)、徳川家康が没すると、これを駿河の久能山にいったん葬ったが、翌三年の一周忌に久能山から日光へと改葬した。
東照大権現社が完成すると、将軍秀忠は日光参詣(社参)のため、四月十二日に江戸を出発している。さらに寛永十三年(1636)に東照宮が完成すると、徳川家最大の廟所として将軍はじめ諸大名、武家や公家、さらに庶民にいたるまで参詣するようになった。
将軍の社参は、秀忠の第一回社参をはじめとして、天保十四年(1843)の十二代将軍家慶の社参まで一九回に及んだ。寛永十三年四月、遷宮後の第十一回社参行列の規模も拡大された。
社参の行程は四月十三日に江戸を出発し、岩槻・古河・宇都宮で各一泊、十六日に日光に入り、十八日には帰途につく。復路もやはり三泊四日で帰るのが恒例となった。それとともに昼食・休憩の宿や寺社なども決まり、大沢宿(現今市市)のようにそのための御殿が建てられた例もあった。
友沼の将軍御休所は、将軍が江戸を出発し、二泊めになる古河城を朝出て、最初に小休止をした場所で、八幡神社の境内にあった。次は小金井の慈眼寺で昼食をとり、石橋へという道順をとった。
ところで、近世における八幡神社は「日光道中略記」によると、別当法音寺の支配下にあった。野木村の野木神社の場合、元和二年に別当満願寺の支配がはじまるから、八幡神社も早くはほぼこの時期かと思われるが、小祠から拝殿・本殿をそなえた神社に整備されたのは、社参の規模が拡大する寛永十三年以降のようである。将軍御休所の建物は境内にあり、西運庵と呼ばれた。日光社参と八幡神社の整備が深くかかわっているとすれば西運庵の成立もこの時期かもしれない。なお文化期(1804~17)の宿駅のようすを描いたといわれる「日光道中分間延絵図」では、はるかに丸林村、潤島村の林が、さらに遠方には若林村の森が見え、正面には筑波山を眺望できる景勝の地と記されている。
肥前国平戸藩主松浦静山は寛政十一年(1799)八月、四十才のとき、日光参詣の途中、友沼の「石の神門建てたる八幡の神祠のまえにしばし輿をとめ」、休憩している。
天保十四年四月、「続徳川実紀」によると、一二代将軍家慶の社参では、享保(第十七回)、安永(十八回)の社参では設けなかった幕張りが小休止の場所でまで行われた。友沼の御休所でも幕が張られ、一行は疲れをいやしたとある。平成三年三月二十五日』(説明版より)
5分程歩くと小山市に入り、すぐに馬頭観音道標が置かれている。
これは乙女河岸、網戸河岸(あじとがし)への道標で「是より左 乙女河岸 あしと とちき さのみち」と刻まれている。
その先には乙女の一里塚がある。江戸から十八番目の一里塚で榎の大木の根方には鳥居、石灯籠があり石の祠が祀られている。
一里塚から700メートルほど歩くと十九夜塔があり如意輪観音像が刻まれている。
先へ進むと「乙女」の交差点があり交差点から左に延びる道が乙女河岸に至る乙女河岸道である。
乙女河岸は思川流域にあり、徳川家康が上杉討伐に際して軍勢や武器・兵糧の陸揚げ地として利用された。慶長五年(一六〇〇)七月二十五日、上杉討伐の途中、石田三成の挙兵を知った家康は天下分け目の軍議「小山評定」の結果一転して三成討伐のため、上方へ向かうことになる。家康は慶長五年(一六〇〇)八月四日の早朝乙女河岸から舟に乗り、古河を経てよく五日に江戸城に帰り着いた。徳川家康の天下取りはこの乙女河岸から始まったとも言えよう。
今日はここまで。
JR間々田駅から帰宅。
奥の細道 一人歩き 9 栗橋宿-中田宿-古河宿
8日目(2019年1月23日(水))栗橋宿-中田宿-古河宿
宇都宮線・栗橋駅から日光街道へ戻る途中に「静御前」の墓がある。
磯禅師(いそのぜんじ)の娘として生まれた静は、6歳で父を亡くし、母と共に京へ上った後、当代随一の白拍子と称されるほどに成長した。室町時代初頭に書かれたとされる「義経記」には後白河法皇が京の神泉苑で雨乞いの儀式を行った時、100番目の静の舞が黒雲を呼び3日間雨が降り続いたという。その後、大坂の住吉神社で舞をしていた静は、源義経と出会い恋に落ちる。義経の愛妾となった静御前は幸せな日々を送っていたが、やがて頼朝に追われた義経と奈良の吉野山で別れ、山中をさまよう中、僧兵に捕らえられ、鎌倉の頼朝のもとへと送られる。
吾妻鏡によれば、
静御前が鎌倉へ送られてきたのは文治二年(1186)三月一日。
同年四月六日に静御前は、鶴岡八幡宮で頼朝や北条政子の前で舞を舞った。その時、静御前は子供を身ごもっていたという。静御前は、舞を舞う前に
- 吉野山 みねの白雪踏み分けて 入りにし人の 跡や恋しき -
(吉野山の白い雪を踏み分けて隠れ入った人の跡がなんて恋しきことでしょう)
- しずやしず しずのおだまき 繰り返し むかしをいまに なすよしもがな -
(しず、しずと義経様に呼ばれていたころに戻れたらどんなにいいことでしょう)
と詠んだ。この二つの歌には本歌がある。
-み吉野の山の白雪踏み分けて入りにしひとのおとずれもせぬ-(古今集三二五 壬生忠岑)
(白雪を踏み分けて吉野の山に入った人が便りもくれないのはどうしたことだろう)
-古のしずのおだまきくり返し昔を今になすよしもがな-(伊勢物語第三十二段)
(昔の織物の糸を紡いで巻き取った糸玉から糸を繰り出すように昔を今にしたいものだ)
同年七月二十九日、静御前は男児を出産するが頼朝の家臣・安達新三郎により由比ヶ浜に捨てられる。
同年九月十六日、静御前は許されて京へ帰る。
やがて義経を慕って奥州への旅に出た静御前は、栗橋のこの地で非業の死を遂げたといわれている。(もっとも静御前の終焉の地は諸説ありどれがどうとも言えないのだが・・・・)
下の写真左「坐泉の歌碑」(江戸時代の歌人、坐泉はこの地にきて静御前を偲んで読んだ句)
― 舞ふ蝶の 果てや夢見る 塚のかげ -
中「静女塚碑」、右「義経招魂碑」と「静女所生御曹司供養塔」
境内には桜の木があり「静桜」と書かれた説明版が添えられている。
「静御前が義経を追って奥州に向かう途中、義経の討死にを知り、涙にくれた静は、一本の桜を野沢の地に植え、義経の菩堤を弔ったのが静桜の名の起こりといわれています。」(説明版より)静桜は、「御前桜」ともいわれ義経終焉の地とされる「衣川」とこの地に伝えられている。土産に静御前最中とまんじゅうを買ってみた。
静御前、巴御前(木曽義仲の愛妾)、常盤御前(義経の母)いずれもその美貌は薄幸が故に輝きを増しているのである。
ところで源頼朝だが、この人物はあまり有能な武将とは言えない。宿敵平家を滅ぼしたのは木曽義仲であり、源義経である。つまり頼朝は何もしていない。義仲や義経の武勇で天下がわが手に転がり込んできたのである。無能な権力者にとって有能な身内である義仲や義経は生かしておけない脅威なのである。「織田がつき羽柴がこねし天下餅、座りしままに食らうは徳川」という戯れ歌があるが「木曽がつき九郎がこねし天下餅座りしままに食らうは頼朝」といったところか。
間もなく鎌倉幕府は北条一族に乗っ取られ、幕府は腐敗の一途を辿ることになる。
後年、木曽義仲は粗暴な田舎武将として描かれることが多いが、それは北条一族が義仲を悪者に仕立て上げたからであろう。徳川が石田三成を徹底的に悪者にしたのと同じパターンである。時の為政者は、歴史を何とでも書き換えることができるのである。
芭蕉は大坂で亡くなっているが、自分の亡骸は大津・膳所の義仲寺に埋葬するようにと言い残している。なぜ故郷の伊賀上野ではなかったのかそれは知る由もないが芭蕉は、義仲や義経に限りない哀惜の情を抱いていたことは確かであろう。
- 木曽殿と背中合わせの寒さかな - 芭蕉の弟子・又玄(ゆうげん)の句である。
余談が長くなってしまった。街道へ戻ろう。
第7宿 栗橋宿 (幸手宿より二里三町(約8.3キロ)
本陣1、脇本陣1、旅籠二十五軒、宿内家数四百四軒、宿内人口千七百四十一人
栗橋宿は利根川の舟運で栄えた。この地は関東平野の北辺に位置し、関所が置かれ「入り鉄砲と出女」が厳しく警備された。利根川対岸の中田宿は合宿の形態をとっており、両宿を合わせて一宿とする記述も有る。
街道に戻ると土手下に「関所跡」の碑と説明版が立っている。
芭蕉に随行した曽良の日記(曽良日記)には「廿八日、ママダに泊ル。カスカベヨリ九里。前夜ヨリ雨降ル。辰上剋止ムニ依リ宿出。間モナク降ル。午の下刻止。此日栗橋ノ関所通ル。手形モ断モ不入(いらず)。」と記されている。
栗橋の関所は、江戸幕府にとって重要な関所の一つで「入り鉄砲と出女」を警備した。
「手形モ断モ不入」ということは芭蕉と曽良は何のお咎めもなく無事に関所を越えたという事だろう。
続いて八坂神社がある。ここは、栗橋宿の総鎮守で狛犬が鯉になっている。利根川の洪水の際に鯉が「御神体」を運んできたことに由来する。
すぐそばに「関署番士屋敷跡」があったそうだが今は工事中で確認できない。
そういえば本陣も脇本陣も見つけられなかった。
利根川に架かる利根川橋を渡れば中田宿で橋の真ん中が埼玉県と茨城県の県境である。
橋の渡り詰めを左に入ると旧道である。旧道の入口には「房川の渡し」の説明版があるが字が剥げていてよく読めない。
第8宿 中田宿 (栗橋宿より十八町(約1.6キロ)
本陣1、脇本陣1、旅籠六九軒、宿内人口四百三人
中田宿は、房川の渡しを控え元和十年(1624)に創設された宿場町で「鮒の甘露煮」が名物であった。栗橋宿とは合宿で問屋業務は半月交代で務めた。
旧道を歩くと中田宿の説明版が立っている。
「江戸時代の中田宿は、現在の利根川橋下、利根川に面して、現在は河川敷となってしまっている場所にあった。再三の移転を経て、現在のような中田町の町並となったのは、大正時代から昭和時代にかけての利根川の改修工事によってである。
中田宿の出発は、江戸幕府が日光街道を整備する過程で、以前の上中田・下中田・上伊坂など、複数の村人を集め、対岸の栗橋宿と一体的に造成されたことにあり、宿場として、隣の古河宿や杉戸宿への継ぎ立て業務も毎月を十五日ずつ半分に割り、中田・栗橋が交代であたるという、いわゆる合宿であった。
本陣・問屋や旅籠・茶店などの商家が、水辺から北へ、船戸、山の内、仲宿(中町)、上宿(上町)と、途中で西へ曲の手に折れながら現在の堤防下まで、延長五三〇メートルほど続いて軒を並べていたが、ほとんどは農家との兼業であった。
天保十四年(1843)の調査では、栗橋宿四〇四軒に対し、中田宿六九軒となっている。ただし、一一八軒とする記録もある。 平成十九年一月 古河市教育委員会」(説明版より)
街道を行くと「鶴峰八幡宮」がある。ここで御朱印をもらうと共に一休みしよう。
境内には「日光街道・旅の神」と「「水神社」「八坂神社」「浅間神社」「道祖神社」「琴平神社」が祀られており、「足踏み祈願、健康・安全・病気平癒・災除」の五柱の神等の御前で祈願 江戸時代より皆立ち寄りお参りし旅立った。左、右、左の足踏みを三回繰り返す。」と記された木札が立っている。横には「住吉神社」等が祀られている。
「鶴峰八幡宮」の隣には「光了寺」がある。
ここは、静御前を葬ったという栗橋の「高柳寺(光了寺)」が移転したもので静御前が後鳥羽上皇から賜ったという「蛙蜊龍(あまりりゅう)の舞衣」、義経肩身の懐剣・鐙(あぶみ)等が保存されている。境内には芭蕉の句碑が置かれている。
- いかめしき音や霰の檜木笠 -
「光了寺」から10分ばかり歩くと「中田の松原」と書かれた説明版が立っている。
日光街道の踏切辺りから原町入り口にかけて古河藩二代藩主永井信濃守が植栽した松並木があった。「東海道にもこれほどきれいな松並木はない。」と言われたほどであったという。
先には「立場茶屋」があったそうで当時は旅人で賑わったことだろう。
原町に入ると「十九夜塔」があり、「関宿境道」と刻まれた道標を兼ねている」。
道路を挟んだ古河第二高等学校の校庭に「原町の一里塚」が復元されている。江戸・日本橋から十六番目(十六里目)の一里塚である。(受付の先生にお願いし中へ入れてもらった。)
すぐ先には、「左にっこう 右みちのく」と刻まれた道標が民家の玄関先に置かれている。
原町自治会館の先には、「祭禮道道標」がある。祭禮道は古賀の産土神・雀神社祭禮の際に旅人の迂回路になったのだそうだ。
しばらく行くと古河宿「原町口木戸跡」で三叉路に古河宿の灯籠モニュメントが立っている。古河宿の江戸側の入口である。
奥の細道 一人歩き 8 幸手宿-栗橋宿
7日目(2019年1月22日(火))幸手宿-栗橋宿
東部日光線・幸手高野台駅から日光街道(国道4号線)に戻り先へ進む。上高野小入口の信号から旧道に入る。しばらく行くと幸手市南公民館の玄関先に上高野村道路元票が置かれている。彫られている文字が読めないので公民館の方に聞いてみたが「勉強不足でごめんなさい。」という事だった。
説明版によれば、元は御成街道沿いにあったものだが平成に入って旧日光街道のこの場所に移転したとのこと。
道路元票から15分ぐらい歩くと「日光道中・日光御成道合流地点」の説明版が立っている。
日光道中は宇都宮まで奥州街道を兼ね。千住から草加・春日部を通り幸手へと至り、ここで日光街道に合流します。川口・鳩ケ谷・岩槻を抜けて幸手に至る御成道は家光の時代に整備され、徳川家康を祀る東照宮に参詣する代々の将軍が通行しました。
また、地元で羽生道と呼ばれている道も合流しており、ここを多くの旅人が行きかったと思われます。」幸手市教育委員会・説明版より
当時は、随分賑わったことだろう。
すぐ先の道の傍らには石仏や石塔が集められている。
すぐ先には「太子堂」がある。中には聖徳太子が祀られているのだろう。
その先には「神宮寺」がある。ここは源頼朝が奥州征伐の途中に戦勝を祈願した寺だそうだ。
しばらく行くと東部日光線に出会い、踏切を越えた志手橋交差点で再び国道4号線に合流する。信号の先に「神明神社」がある。ここは、伊勢神宮の分霊を祀った神社で境内には「螺不動(たにしふどう)」がある。螺を描いた絵馬を奉納して祈願すれば眼病に霊験あらたかだそうだ。参道の入口には高札場があったそうだが今はその跡は見受けられない。
このあたりが幸手宿の入口であろう。
第6宿 幸手宿 (杉戸宿より一里二十五町(約5.8キロ)
本陣1、旅籠二十七軒、宿内家数九百六十二軒、宿内人口三千九百三十七人
古くは田宮町とも呼ばれた幸手の中心部は、江戸幕府による街道整備の結果、日光道中6番目の宿場である幸手宿として発展した。徳川将軍が日光社参で通る日光御成道が上高野村で合流、また宿内で日光社参の迂回路である日光御廻り道、更に外国府村で筑波道が分岐し、陸上交通の要衝として大いに栄えた。(日光街道・幸手宿 説明版より)
神明神社のすぐ先には「明治天皇行在所跡碑が説明版と共に立っている。
中1丁目(南)の交差点の右手のポケットパークに「問屋場跡」の説明版があり、右手の「うなぎ義語屋」は「本陣・知久家跡」である。
本陣跡から10分ばかり先を左手に入ると「聖福寺」である。聖福寺は、浄土宗の寺で本尊は阿弥陀如来である。徳川三代将軍家光が日光社参の時に休憩所として使用した。また、天皇の例幣使や歴代将軍の休憩所となった。
- 幸手を行くかば栗橋の関 - 蕉
- 松風をはさみ揃ゆる寺の門 - 良
と刻まれている。
奥の細道の旅を終えた芭蕉は4年後の元禄六年九月十三日に江戸・深川の芭蕉庵で句会を催したときにみちのくの旅を想い曽良と共に詠んだ句だということである。
(山門の勅使門や句碑の写真を撮ったのだが保存されていない。消去しまったのかもしれない。残念!! どうも撮影した写真の取扱いが良くない。)
さて、街道に戻ったすぐ先が「幸手の一里塚」があった所で「幸手の一里塚跡」の説明版が立っている。江戸・日本橋から12番目(十二里目)の一里塚である。
街道はその先で国道4号線と分かれ旧道に入り、内国府間(うちごうま)交差点で再び国道4線に合流する。内国府間交差点から30分ばかり行くと権現堂川の堤が散策コースになっていて水仙の群生地には水仙が咲き乱れていた。権現堂堤は、江戸を洪水から守るために寛永十八年(1641)に築堤されたのだそうだ。
権現堂堤が街道と交差するところに「明治天皇権現堂堤御野立所」と刻まれた碑が立っている。
明治天皇が奥州巡幸の際に立ち寄ったことから命名された「行幸橋」を渡りきると左手が旧道である。しばらく行くと「筑波道追分道標」が置かれている。道標には「左・日光道」「右・つくば道」「東・かわつま前ばやし」と刻まれている。「かわつま」は現在の茨城県五霞(ごか)村字川妻、「前ばやし」は茨城県総和町前林の事である。道標は、安政四年(1775)の建立。(幸手市教育委員会の説明版より)
追分道標から5分程歩くと「雷電社湯殿社」があり境内には馬頭観音、青面金剛像庚申塔、如意輪観音崎像十九夜塔等が置かれている。ここは、内国府間村の鎮守である。
ここから先は国道4号線の下道を進み小さな円形のトンネルをくぐることになるがこのトンネルの辺りが幸手市と久喜市の境である。
しばらく行くと左手に一里塚の説明版が立っている。江戸・日本橋から13番目(十三里目)の「小右衛門の一里塚」である。
国道4号線は、やがて東北新幹線の高架をくぐり、川通神社の所で旧道は国道と分かれる。
河通神社の鳥居には「香取宮八幡宮」と刻まれている。境内の常夜灯は文化十一年(1814)の建立だそうだ。
5分ばかり先には「会津見送り稲荷」がある。久喜市のHPによるとこの稲荷神社は狐に乗る茶吉尼天を埼信とした稲荷社だそうで、以下のような記載がある。
「江戸時代、会津藩主の参勤交代による江戸参向に先立ち、藩士が江戸へ書面を届けるためにこの街道を先遣隊として進んでいました。ところが、栗橋宿下河原まで来ると地水のために通行できず、街道がどこかさえも分からなくなってしまいました。大変困っているところへ突然、白髪の老人が現われ、道案内をしてくれたといいます。そのお陰で、藩士は無事に江戸へ着き、大事な役目をはたせたといいます。
また、道が通行できず、茶店でお茶をご馳走になっている時に、大事な物を忘れてきたことに気づき、そのために死を決意した際、この老人が現われ、藩士に死を思い止らせたともいわれています。後になってこの老人は狐の化身と分かり、稲荷様として祀ったとされています。」(久喜市HPより)
稲荷社から15分ばかり歩いて左に入ると「深廣寺」がある。境内には「南無阿弥陀仏」と刻まれた高さ3.5メートルの六角名号塔が21基並んでいる。
旧道に戻り、先の栗橋駅入口の交差点から栗橋駅hへ、JR宇都宮線で帰宅。
街道脇には悲劇のヒーロー源義経の愛妾・静御前の墓への参道の碑が置かれている。