中山道旅日記 2 浦和宿ー鴻巣宿

 3日目(2015年6月11日(水))浦和宿-大宮宿―宮原駅

第3宿 浦和宿・本陣1、脇本3、旅籠15

(日本橋より6里6町 約20.04キロ・蕨宿より2里14町 約5.41キロ)

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中山道第三番目の宿場であった浦和宿は、南北十町四十二間の規模を持ち、北から上町・仲町・下町の三つに分かれていた。

調神社を出て、しばらく行くと「中山道浦和宿」の碑がある。

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さらに、数分で門前通りと刻まれた石柱があり。その通りを左に行くと「玉蔵院」がある。

玉蔵院

宗派は、真言宗豊山派。山号は宝珠山。本尊は大日如来座像。

平安初期に弘法大師により創建されたと伝えられている。境内の地蔵堂には、本尊とは別に平安時代末期の作となる地蔵菩薩立像が安置されており、地蔵信仰の寺として長い歴史を持っている。伝承によれば平安時代初期に空海により創建されたという。戦国時代に醍醐寺三宝院の直末寺となった。本堂横には樹齢100年以上のしだれ桜があり、桜の名所としても有名である。

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街道に戻り、越谷街道を渡ってすぐのところに仲町公園があり、ここが浦和宿本陣跡。

(あまりにも小さな公園なので注意をしないと見過ごしてしまいそうである。)

本陣跡説明板と明治天皇行在所跡碑が建てられている。

浦和宿には、本陣一軒、脇本陣三軒、旅籠15軒、商家二百軒余りがあり、その中でも本陣は大きな敷地を占め、代々星野権兵衛家が勤めていた。

加賀前田家や皇女和宮が浦和宿で休憩したという伝承がある。また公園内にある明治天皇行在所の石碑が古(いにしえ)の面影を伝えている。

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さらに行くと「慈恵稲荷社」がある。昔、市が立っていた跡で毎月二、七の日に開かれていたので二、七市とか六歳市と呼ばれていた。

慈恵稲荷社は、浦和宿・上町の人々が祀った稲荷社で二七の日には、鳥居を中心に南北二町にわたって市が立ったということである。

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北浦和駅入り口から5~6分歩いた左側の「廓信寺」、入口に「さつまいもの女王・紅赤の発祥地」と記された説明板がある。

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しばらく行くと大原陸橋交差点の左側に「庚申塔」がある。

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交差点のちょっと先に一本杉と刻まれた質素な石碑が立っているが、ここは日本最後の仇討ちが行われた場所であるとのこと。
話は「江戸末期の文久4年(1864)にさかのぼる。ここには杉の大木が1本あったが、その下で、父を討たれた水戸家臣宮元鹿太郎が助太刀に助けられ、千葉周作門下の河西祐之助を討ち、見事本懐を遂げた場所である。」

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北浦和から大宮宿へ。

紫陽花の花があまりにも美しかったので思わずカメラのシャッターを押しました。

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与野駅前を過ぎると、美しい欅並木が続く。

この欅並木は、いつ見ても美しい。

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さて、淡々と歩を進めてゆくとさいたま新都心の高層ビルの少し手前の高台橋跡に「火の玉不動とお女郎地蔵」が収められた小さな祠がある。祠の中に以下のような伝説が期されている。

「お女郎地蔵伝説」
昔、大宮宿に柳屋という旅籠を兼ねた女郎部屋があり、この柳家に千鳥、都鳥という姉妹がいて、旅人の相手をしていた。美しい姉妹は街道筋の評判となり、やがて宿場の材木屋の若旦那と姉の千鳥が恋仲になり、末は夫婦と固い約束を交わしていたが、当時、悪名高き大泥棒の神道徳次郎が千鳥を見染め、何が何でも見受けすると言う話になってしまった。千鳥は自分のために主家に迷惑がかかってはと思い、と言って徳次郎の言いなりにもなれず、進退極まった果てに店を抜け出し、高台橋から身を投じてしまった。この時から高台橋のあたりに千鳥の人魂が浮き沈みつ飛ぶようになった。

これを見たり聞いたりした付近の人達が哀れな千鳥の霊魂を慰めるために地蔵像を建てたが、これを「お女郎地蔵」だと言う。

「火の玉不動伝説」
その頃、高台橋付近で火の玉が見られたが、人々は高台橋から身投げした遊女千鳥の霊魂だとか、傍らの不動明王の悪戯だとも噂しあった。 ある夜、一人の男が火の玉に切りつけると「ギャー」と言う声がして「俺は不動明王だ。お前に剣を切り落とされた」 と言って消えてしまった。 この話を聞いた村人が翌日見にゆくと、怖い顔をした不動明王は剣を持っていなかったのだとか。以来、火の玉不動 と呼んでいるそうだ。
ちなみに、「お女郎地蔵伝説」に登場した神道徳次郎は寛政元年(1789)高台橋傍らの刑場の露と消えた、と伝えられている。

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やがて、赤い鳥居と武蔵国一宮の石碑が見えてくる。

大宮氷川神社第一の鳥居である。

大宮の地名は、武蔵の国、第一の宮氷川神社」がある地から来ているという。

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第一の鳥居をくぐり参道をゆく。この参道は素晴らしがひっきりなしに車が行きかうのはいただけない。

やがて右手に氷川の杜文化館があり水彩画展が開催されていた。

中に入ってみると竹林がこれまた素晴らしい。

水彩画展の会場で抹茶を一服ご馳走になった。

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氷川の杜文化館を出て参道を歩く。

第二の鳥居、第三の鳥居をくぐれば氷川神社である。

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 氷川神社の参拝を終え、参道を第一の鳥居まで戻り再び中山道を大宮宿へ。

第4宿 大宮宿・本陣1、脇本9、旅籠25

(日本橋より7里16町 約25.02キロ・浦和宿より1里10町 約4.98キロ)

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吉敷町交差点の左に屋敷門が見える。「加賀前田家の屋敷門」だといわれている。

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前田家の屋敷門の道路を挟んだ右側に、「塩地蔵尊」と「子育地蔵尊」の二つが祀られている。

「塩地蔵尊」には、以下のような由来がある。

江戸時代、妻に先立たれ、二人の娘を連れた浪人が大宮宿で病に倒れた。病は、日一日と重くなってゆく。ある晩、夢枕に地蔵様が現れ二人の娘に塩断ちをするように告げて消えた。娘達は早速塩断ちをし、近くの地蔵堂に祈ったところ父の病が全快した。そこで、たくさんの塩をこの地蔵様に奉納し、幸せに暮らしたとのことである。

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涙橋

大宮宿の辺の中山道を横切って溝川の流れがあり、「中の橋」と呼ばれる橋が架かっていた。当時吉敷町の街外れ、高台橋に罪人の処刑場があって、その親類縁者が、「中の橋」で、この世の別れを惜しみ涙を流したことでいつしか、「涙橋」と呼ばれるようになったと言われている。

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JR大宮駅前の大きな交差点、左手に高島屋百貨店があるがここが紀州鷹場本陣(北澤本陣)跡で、その先のすずらん通りにある旅籠屋次郎という飲み屋さんが内倉新右衛門本陣跡という案内が立っている。

(内倉家は、最初の本陣でのちに紀州鷹場本陣に移っている。)いずれにしても本陣、脇本陣、多くの旅籠がこのあたりにあり、大変賑わっていたところだそうだ。

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大宮宿から上尾宿へ

この先、商店街が続くが歩道がなくすぐ横を車が走っているという道が続く。

やがて氷川神社の「裏参道」を示す石碑が見える。

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このあたりまでが大宮宿ということになるのであろう。

しばらく行くと右手に「大山御嶽山道標」がある。

「大山御嶽山道標」

安政七年(1860)建立の道標で、「大山 御嶽山 よの 引又 かわ越道」
と彫られている。

大山は神奈川県伊勢原市阿夫利神社御嶽山は東京都青梅市御嶽山で信仰の道を示しており、 大山参りは男子が15~20歳になると一人前と見なされ村の大人と共に参拝した。
与野、引又(ひきまた)(志木市)、川越は産業や交易の中心地として栄えていた。

(大宮市教育委員会文化財課案内板)

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その先には、左手に馬頭観音と地蔵像が並んで祀られている。

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やがて、旧道は国道17号と出会うが交差点の手前に鳥居とともに東大成の庚申塔がある。

東大成庚申塔

元禄十年(1697)建立、高さ1.4m。正面に青面金剛像・二鶏・三猿が陽刻されている。赤い鳥居が建ち「猿田彦大神」の額がかかった祠に安置されている。

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本日は、ここまで。JR宮原駅より帰宅。

4日目(2015年6月16日(火))宮原―上尾宿―桶川宿-北本―鴻巣宿鴻巣駅

JR宮原駅から、旧道へ入って間もなく加茂神社がある。

英泉の木曽街道の絵に描かれて有名な神社である。京都上賀茂神社を勧請したと伝わる加茂宮村の鎮守。

「その昔京都の上賀茂神社を勧請したものと伝えられ、別雷の神を祀って五穀の豊穣と萬物を生みなし育てる神として祈り崇められて来た。」

と由来書に記されている。

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この先は、特に期することもなく上尾宿に至る。

第5宿 上尾宿・本陣1、脇本3、旅籠41

(日本橋より9里16町 約33.02キロ・大宮宿より2里 約8キロ)

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上尾宿は江戸から約10里、日本橋を七つ立ちすると最初の泊まりが上尾宿であったことから旅籠の数は多かった。
しかし安政7年(1860)の大火とその後の火事で建物はほとんど焼失
してしまい、往時の面影を残すものは少ない。

JR上尾駅の前、市の中心が宿の中心地区でもあった。すぐ右手に氷川鍬神社がある。

氷川鍬神社

古くは御鍬太神宮(おくわだいじんぐう)と称されていた神社。ご神体は小鍬だとのこと。

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神社の前には、「中山道上尾宿と本陣」という案内版がある。

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しばらく行くと、「彩の国平成の道標」と書かれた上尾宿の説明板があり、上尾宿の歴史と鍾馗様についての説明文が書かれている。

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上尾宿の歴史

 上尾宿は、日本橋から九里十六町のところにあり、中山道の5番目の宿場であります。宿場として発達したのは、江戸時代初期の伝馬制度施行以降で、江戸後期になると紅花の産地として有名になりました。上尾という地名については、歴史的な根拠を持つものはありませんが、鴨川と芝川の間の小高い地形からつけられたといわれています。

鍾馗

 鬼屋根瓦の家に対して鍾馗様を以て対峙する意味で置いたものです。これは中山道の他の宿場町では見ることができない上尾特有なものでした。鍾馗様は疫病神を追い払う神といわれています。

上尾宿から桶川宿へ

上尾宿から桶川宿入口までこれということもない。

宿場の入り口である「木戸跡碑」が交差点のところに立っている。

道路の右側を少し入ると庚申塔がある。

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第6宿 桶川宿・本陣1、脇本陣2、旅籠36

(日本橋より10里14町 約36.69キロ・上尾宿より34町 約3.67キロ)

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江戸・日本橋を出立した旅人がおよそ1日歩き通して日暮れどきを迎え、宿を求めるのがここ桶川あたりであったとされる。

中山道宿場館を訪ねたところ、ちょうど「駅からハイキング」というイベントをやっていたので参加してみた。

武村旅籠

桶川宿には、大名や公家などの宿泊施設である本陣、脇本陣のほかに、中山道を往来する一般庶民の宿である旅籠が数多くあった。その数は、江戸時代末期の天保年間(1840 年ころ)には、36軒を数えたという。

武村旅館は、宿場町当時の旅籠の姿を今にとどめる貴重な建物である。

その他、お茶所・島村茶舗、土蔵造りの家・矢部家など旧家が軒を並べている。

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 その少し先に「桶川本陣跡」がある。

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本陣跡の先の交差点を越えてすぐの所に「大雲寺」がある。

大雲寺

大雲寺には、宿場関係者の墓石が多い。本堂の傍らに、本堂左手に、夜な夜な女郎買いに出かけるので、住職が背中に「かすがい」を打ち込み、鎖で縛ってしまったという。

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その先に「中山道 桶川宿」、「左 上尾宿 三十四町」の碑がある。

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稲荷神社

旧道の右手に稲荷神社がある。

拝殿の両側に「紅花商人中」と刻まれた石灯籠が2基並んでいる。桶川は紅花の産地でもあり、取引も盛んであった。右側に「大磐石」と呼ばれる力石である。重さは610kg。この力石を持ち上げたのが三ノ宮卯之助という江戸時代の力士であったそうな。

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桶川宿から鴻巣宿

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桶川宿を後にし、旧街道をひたすら歩くと北本宿の碑がある。

北本は元々、中山道の宿場で慶長のころ(1615 )に鴻巣へ宿が移され。そのため北の元宿ということから北本の地名となっている。本宿村の下茶屋と、東間村の三軒茶屋の二か所には、立場がおかれて、人や馬はそこで喉の渇きや旅の疲れをいやし、次の宿場へと向かった。と案内板に記されている。

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多聞寺とムクロジの巨木

北本駅の手前に多聞寺がある。樹齢推定200年といわれるムクロジの巨木があり、県の天然記念物となっている。

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地続きの隣に天神社があり、昔は市も立っていたという。

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中山道を進んでゆくとJR高崎線の東側に浅間神社がある。

かなり大きな境内を持つ神社であるが、本殿は火事で焼失してしまっている。

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さらに、中山道を進むと「鴻巣宿加宿上谷新田」の碑がある。

「加宿」について調べてみると、

主に江戸時代、五街道脇往還において駅逓事務を取扱う為設定された宿場(宿駅)において、人家が少なく人馬を出しにくい宿駅で隣接する村を加え人馬の用を行わせたもの。この主となる宿駅に対して隣接する村のことを言うとのことである。

ちなみに東海道には、愛知県豊橋市に「二川宿加宿大岩」があった。

鴻巣宿の加宿・上谷新田村落に八幡神社がある。

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JR鴻巣駅の手前には、勝願寺がある。

勝願寺
文永年間の創建で、天正元年(1573)に現在の地に再興された。浄土宗関東18壇林(僧侶の大学のような学問所)の一つ。将軍より御朱印が与えられ、葵の御紋が使われているのは鷹狩を好んでいた家康が頻繁に立ち寄ったからだそうだ。

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勝願寺には、現在、徳川家康の家臣 伊奈忠次・忠治父子の墓、徳川四天王の一人本多忠勝の娘で、 家康の養女となったあと真田信之に嫁いだ小松姫(小松殿)、真田信之の三男 信重とその室、豊臣秀吉の家臣で、後に家康に仕えた仙石久秀の墓がある。

余談ではあるが、小松殿といえば、NHKの歴史ドラマ(大河ドラマではない)「真田太平記」で小松姫稲姫)を演じた紺野美沙子を思い起こさせる。ちなみに、真田信之は渡瀬恒彦、真田幸村草刈正雄真田昌幸丹波哲郎。今でも真田もののドラマのなかでは最高のキャストであると思っている。(真田贔屓です。)

ここで小松殿の逸話を記しておく。

小松殿は、本多忠勝の長女で信州の名将・真田昌幸の長男、真田信幸(関ケ原の合戦以後、西軍に見方した父・昌幸、弟・幸村をはばかり信幸を信之に改名)に嫁した女性。
慶長五年(1600)、関ヶ原合戦が始まる前、信幸は徳川軍に、父・昌幸と弟・幸村は石田三成軍と敵味方に分かれる。犬伏の陣(宇都宮)で上杉討伐のため、徳川軍に従軍していた昌幸、幸村親子は急遽、自陣の上田城に向かう際、戦が始まれば敵味方、これが最後と孫の顔を見るべく信幸の沼田城に立ち寄るが「父上といえども今は敵方、城に入れるわけにはまいりませぬ!」と、緋縅の鎧に薙刀を持った小松姫が大音声で叫ぶ。仕方なく、場外に陣を張ろうとすると、小松殿の使者が来て「陣は正覚寺にお張り下さい」と言う。正覚寺には、かがり火が焚かれ、酒肴が用意されていた。その夜、人目をはばかるように小松姫とその子供たちが昌幸の天幕を訪れてきた。
後年、病にかかり江戸から草津温泉へ湯治に向かう途中、鴻巣で没した。享年49歳、荼毘に付され遺骨は勝願寺と沼田、上田の3ヶ所に分骨された。

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本日は、ここまで。

JR鴻巣駅より帰宅。