中山道旅日記 3 鴻巣宿-熊谷宿

5日目 (2015年6月23日(火))鴻巣宿―吹上・間の宿―熊谷宿

第7宿 鴻巣宿・本陣1、脇本陣1、旅籠58

(日本橋より12里8町 約36.69キロ・桶川宿より1里30町 約7.14キロ)

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中山道六十九次(木曽街道六十九次)の内江戸・日本橋から数えて7番目、すなわち武蔵国のうち第7の宿である。人形の町として有名だが、天正年間(1573~)に京都の伏見人形の人形師がここに住みついたのが始まりとも言われる。

JR鴻巣駅から中山道東口)へ戻る前に西口から清和源氏の祖である源経基の居館跡へ行ってみることにする。

駅から西方1.2kmほど、鴻巣高校の南にあるこんもりとした林が源経基館跡である。「城山ふるさとの森」という名称になっている。天慶元年(938)武蔵介である源経基が築いたと伝えられる館跡で、東西95メートル、南北85メートルの方形館跡で堀と土塁が残っている。西側の土塁の上には「源経基公館跡の碑」が建っている。源経基は、平安時代中期の武将、経基流清和源氏の祖であり系統は源頼朝へつながっていく。

保元物語」によれば、父は清和天皇の第6皇子貞純親王、母は右大臣源能有の娘とされている。

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中山道に戻ろう。

鴻巣駅入口交差点のすぐ先にある長禄元年(1457)開基の法要寺があり、寺紋は、加賀百万石 前田家の家紋と同じ《梅に鉢》。これは1650年頃、参勤交代で勝願寺に宿泊予定だった加賀藩一行、《門前下馬》を見落とし住職に「門前下馬の浄刹ゆえ」と、宿泊を断られてしまう。困り果てた前田家一行は、急遽法要寺に懇願、何とか困窮を脱することができた。その恩を忘れず、莫大な寄進と同時に前田家の紋の使用を許可したとのこと。
法要寺には、五稜郭で新政府軍と戦った後、名を岡安喜平次と改め鴻巣に居住した彰義隊士 関弥太郎の墓がある。

境内不動様の前には、台座に市神街と彫られた一対の狛犬が置かれている。お寺に狛犬が置かれているのは不思議であるが、かつて中山道に在った市神社が明治三年(1870)強風で倒壊し狛犬のみ残されたのでここに移されたのがその理由だそうだ。

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その先左手に趣のある古民家がある。

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法要寺のすぐ先に鴻神社がある。明治6年に氷川社、熊野社、雷電社を合祀したもので、鴻三社と呼ばれていた。その後、明治35年から40年にかけて、日枝神社東照宮なども合祀し、社号を鴻神社と改めた。

こうのとり伝説」

その昔、この地に“木の神”といわれる大樹があって、人々は供え物をして木の神の難を避けていた。ある時、こうのとりがやって来てこの樹の枝に巣を作った。すると大蛇が現れてその卵を飲み込もうとしたのでこうのとりは大蛇と戦い、これを退散させた。それ以後、木の神が、人々を害することがなくなったので、人々はこの木のそばに社を造り、この社を鴻の宮と呼び、この地を鴻巣というようになった。

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さらに、道を進むと氷川八幡神社がある。

氷川神社と箕田源氏」

氷川八幡社は明治6年、箕田郷二十七ヶ村の鎮守として崇敬されていた現在地の八幡社に、宇龍泉寺にあった八幡社を合祀した神社である。

八幡社は源仕(つこう)が藤原純友の乱の鎮定後、男山八幡大神を戴いて帰り箕田の地に鎮祀したものであり、宇八幡田は源任の孫、渡辺綱が八幡社のために奉納した神田の地とされている。また氷川社は承平元年(966)六孫王源経基が勧請したものだと言われる。ここ箕田の地は嵯峨源氏の流れをくむ箕田源氏発祥の地であり、源任、源宛(あつる)、渡辺綱三代がこの地を拠点として活発な活動を展開した土地であった。 

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箕田碑

箕田は、武蔵武士発祥の地で、先年年程前の平安時代に多くのすぐれた武人が住んでこの地方を開発経営した。源経基(六孫王清和源氏)は文武両道に秀で、武蔵介として当地方納治め源氏繁栄の礎を築いた。その館跡は大間の城山にあったと伝えられ、土塁・物見台跡などが見られる(県指定)。源仕(嵯峨源氏)は箕田にすんだので箕田氏と称し、知勇兼備よく経基を助けて大功があった。その孫綱(渡辺綱)は頼光四天王の随一として剛勇の誉れが高かった。箕田氏三代(仕・宛・綱)の館跡は満願寺の南側の地と伝えられている。

箕田碑はこの歴史を長く伝えようとしたものであり、指月の撰文、維硯の筆による碑文がある。裏の碑文は約20年後、安永7年(1778)に刻まれた和文草体の碑文である。

初めに渡辺綱の辞世
「世を経ても わけこし草のゆかりあらば、あとをたづねよ むさしのはら」を掲げ、

次に芭蕉・鳥酔の句を記して、源経基・源仕・渡辺綱の文武の誉れをしのんでいる。
鳥酔の門人が加舎白雄(志良雄坊)であり、白雄の門人が当地の桃源庵文郷である。

たまたま白雄が文郷を訪ねて滞在した折りに刻んだものと思われる。

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箕田追分

武蔵水路を過ぎ、道は二手に分かれる。行田への追分けになっている。右方向は行田、忍道で行田を経て日光へ行く道。この道は行田へ入り、有名な埼玉古墳群の横を通り、石田三成の水攻めに耐えた《のぼうの城》で描かれた行田の忍城へつながっている。途中石田三成忍城水攻めのために築いた石田堤も残っている。追分真ん中には平成の道標が立ち、中山道の解説が書いてある。街道は左を行く。その左手に地蔵堂がある。やがて立場(茶店がある場所)である吹上へ入っていく。

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箕田追分から荊原へ旧道を進み踏切を渡ってJR吹上駅を左手に見ながら行くと左折してすぐに吹上神社がある。

祭神は大山咋命倉稲魂命、大物主命、菅原道真で、前身は近江国大津の日枝大社(山王社)を奉奏する日枝社である。

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吹上神社の先は、JR高崎線に線路が分断されているため歩道橋を渡らなければならない。

歩道橋の下に「中山道 間の宿 吹上」の石碑と間の宿の説明版がある。

「吹上 間の宿」

中山道の街道筋にあたる吹上は、鴻巣と熊谷の「間の宿」として発展した街ですが、江戸期、幕府公認の宿場ではなかった。
しかし、それにもかかわらず重要視されたのは、日光東照宮を警護する武士たちの「日光火の番道」と、中山道が町の中央部で交差すること。また鴻巣宿と熊谷宿の距離が長かったため、その中間に休憩する場所として「お休み本陣」や馬次ぎの「立場」を設置する必要があったからです。
 年に30家もの大名が江戸や国元へと行列を飾り、多くの文人や墨客たちも足をとどめた「吹上宿」。中でも信濃俳人小林一茶や加舎白雄、狂言師で戯作者でもあった太田南畝、浮世絵師の池田英泉などはそれぞれ特異な作品を残している。そして江戸以来、吹上の名物は「忍のさし足袋」と荒川の「うなぎ」、「榎戸の目薬」も街道の名品にかぞえられていた。
この場所は、かっての中山道が鉄道の開通によって分断された地点にあたっています。

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中山道 榎戸村、 熊谷まで2里、鴻巣まで2里5町の石碑がある。

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さらに道を進めていくと、熊谷堤へ上がる手前に「権八地蔵堂」がある。

「権八地蔵とその物語」

権八は、性を平井といい鳥取藩氏であったが同僚を殺害したため脱藩し江戸へ逃れた。その途中金に困り、久下の長土手で絹商人を殺害し大金を奪いとった。

あたりを見回すと地蔵様を祀った祠があった。

良心が咎め己の罪の深さにいくばくかの賽銭をあげ、「今、私が犯した悪行を見ていたようですがどうか見逃してください。また、誰にも言わないでください。」と手を合わせると地蔵が「吾は言わぬが汝言うな。」と口をきいたと伝えられている。

この話から、この地蔵は「物言い地蔵」と呼ばれるようになった。

権八は、その後捕らえられ延宝八年(1680年)、鈴が森の刑場で磔の刑に処せられた。

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 ここから熊谷堤へ上がり、熊谷宿を目指して延々と歩く。

6月の日差しはすでに強く、かなり参ってしまった。

熊谷市久下で堤を降りると「みかりや跡」の説明版を発見。

中山道を往来する旅人相手の茶店で「しがらぎごぼうに久下ゆべし」の言葉がある通り「柚餅子(ゆべし)」が名物だったのだろう。
また忍藩の殿様が鷹狩りに来ると、ここで休んだので「御狩屋(みかりや)」と呼ばれたという。

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中山道をさらに進んでゆくと左手に東竹院がある。

寺の前に安政五年の庚申塔馬頭観音の碑、石仏が2体祀られていた。寺は、脇から入るようになっている。由来などの説明版も見当たらなかった。

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さらに歩を進めていくと右手に「曙万平町自治会館」があり、その隣の公園に

一里塚跡の説明版がある。ここは、「戸田八丁一里塚」と呼ばれていたそうである。

さらに先へ進めば、秩父鉄道、」JRの線路、新幹線の高架を超えると旧道は、国道17号と合流する。熊谷宿の入り口である。

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本日は、ここまで。JR熊谷駅から帰宅。