中山道 旅日記 6 浦和-下諏訪宿-塩尻宿-民宿津ち川(奈良井宿)

17日目(3月20日(日))浦和-下諏訪宿塩尻宿-民宿・津ち川(奈良井宿

春はその訪れをまだためらっているようであるが、中山道・一人歩きを再開することにする。

青春18切符を利用して武蔵野線、中央線を乗り継いで下諏訪へ。

午前4時39分浦和発、お江戸日本橋ならぬ浦和「七つ立ち」である。

中央線の車窓から甲斐駒ヶ岳が見事な姿を見せていた。

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下諏訪駅着午前9時、中山道に戻り、諏訪大社・春宮へ。

今年は、7年毎、寅と申の年に行われる「御柱祭り」の年で4月8日からの下社の祭りに向けて町中が活気にあふれていた。

諏訪大社

諏訪大社は、日本最古の神社の一つに数えられ、信濃国四十八社の第一にあり、「信濃国一之宮」と言われていた。

諏訪大社は、諏訪湖を挟んで上社(本宮、前宮)、下社(春宮、秋宮)の二社、四宮がある。上社の最寄り駅は、上諏訪駅であるため今回は、下社のみの参詣となる。

御祭神は、上社・本宮は建御名方神 (たけみなかたのかみ)、前宮は八坂刀売神 (やさかとめのかみ)、下社:春宮は建御名方神 (たけみなかたのかみ)、秋宮は坂刀売神 (やさかとめのかみ)とされている。

戦国時代、武田信玄は、天文11年(1542年)同盟関係にあった諏訪氏と手切れになるや諏訪地方に侵攻し制圧した。信玄は、諏訪大社を強く崇敬し、戦時には「南無諏訪南宮法性上下大明神」の旗印を先頭に諏訪法性兜をかぶって出陣したと伝えられている。

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余談ではあるが、武田信玄は、自らが滅ぼした敵将・諏訪頼重の娘を側室とした(諏訪御寮人)。その側室との子が武田勝頼である。のちに勝頼は、武田家を滅亡へと向かわせることとなる。

諏訪湖(諏訪海)は、信濃の国の歌枕である。

冬の始めに諏訪湖が凍るとき、湖を横断する氷の堤ができる。

これを御神渡りといい平安の昔から多くの歌に詠まれてきた。

-諏訪の海の氷の上の通い路は神の渡りて解くるなりけり- 源顕仲

-春をまつすわのわたりもあるものをいつをかきりにすへきつららそ 西行

春宮の左手奥に「万治の石仏」と呼ばれる石仏がある。

伝説によれば「明暦3年(1657年)、諏訪高島三代藩主忠晴が、諏訪大社下社春宮に遺石の大鳥居を奉納しようとした時、命を受けた石工がこの地にあった大きな石を用いようとノミを打ち入れた時、その石から血が流れ出た。驚き恐れた石工は大鳥居の造作を止め、あらためてこの不思議な石に阿弥陀様を刻み、霊を納めながら建立された」とのことである。

石仏の「万治」は、この石仏を建立した願主が、万治3年(西暦1660年)と刻まれているところによるものだそうである。

万治の石仏の参拝の仕方は、

  1. 正面で一礼し、合掌し「よろず治まりますように」と心で念じる。
  2. 願い事を心で唱えながら石仏の周りを時計回りに三回周る。
  3. 正面に戻り「よろず治めました」と唱えて一礼する。

この通りにやってみたが、いかが相成ることやら。

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春宮を出て中山道に戻り、しばらく行くと「左諏訪宮」「右中山道」の道標を見ることができる。

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さらに行くと左手に「慈雲寺」という寺が見えてくる。この寺の入り口に「滝の口」と呼ばれる湧き水が流れ落ちている。狭い急な石段の参道を登ってゆくと右手に「矢余石」なるものがある。説明版によれば

武田信玄は、慈雲寺中興の祖と言われる天桂和尚を師とも仰いでおり、戦場へ赴く時に慈雲寺へ立ち寄り戦勝の教えを請いました。

和尚は境内の大きな石の上に立って「私を弓で射てみよ」と至近の距離から矢を射かけさせたところ矢はすべて岩ではねかえされて和尚には一本の矢もあたりません。

不思議に思った信玄が尋ねてみると「この石には矢除けの霊力がある」とのことでした。

信玄は、この念力がこもった矢除札を受け勇躍戦場に向かったとの言い伝えのある石です。」

とのことである。

長い急な階段を登り切ったところが「慈雲寺」である。境内が広くえらく立派な寺で屋根にも本堂前の石灯篭にも武田菱が刻まれており武田家に縁のある寺であることが解る。

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「慈雲寺」からしばらく行くと右手の民家の前に「一里塚跡」の碑が置かれている。

これは、下諏訪の一里塚と呼ばれていた江戸から五十五番目の一里塚である。

(このくだりは、前回も記した。)

このあたりから少し先に行ったところが下諏訪宿の入り口である。

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第29宿 下諏訪宿・本陣1、脇本陣2、旅籠40 

(日本橋より55里6町14間 約216.67キロ・和田宿より5里18町 約21.6キロ)

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下諏訪宿は、江戸方面には和田峠、京方面には塩尻峠と難所が控えているため当時の旅人には、人気の宿場であったに違いない。

街道をゆくと左手に諏訪大社末社「御作田神社」があり、さらに行くと右手に中山道・茶屋「松屋」(今井邦子文学館)がある。

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ここから急な坂を上ってゆくと国道に出会うが国道の左である「来迎寺」の境内に「和泉式部伝説」が残っている。

銕焼(かなやき)地蔵と和泉式部伝説

和泉式部守り本尊 銕焼地蔵とかね」の説明版によると

「今から千年あまり語りつがれてきた伝説です。下諏訪の湯屋別当に「かね」という幼い娘が奉公していました。畑に行くときは、いつも道端のお地蔵様に自分の弁当の一部をお供えする心のやさしい娘でした。
あるとき「かね」」を嫉んでいた仲間が、告げ口をしたことから別当の妻は怒り、焼け火箸で「かね」の額をうちすえました。痛さに耐えかねた「かね」は、日頃信心のお地蔵様のもとに走り、ひざまづいて泣きながら祈り仰ぐと、お地蔵様の額から血が流れ出ており、自分の痛みは消え傷はなくなり美しい顔にかわっていました。
この話は瞬く間に拡がって、誰言うことなく「かなやきさまは霊験あらたかなお地蔵様」と遠近に聞こえ、お参りする人で賑わいました。たまたま都からこの地を訪れた大江雅致がこの話を聞き、「かね」を是非にと都に伴い養女にしました。
雅致夫妻のもとで書道・歌道などを学んだ「かね」」は宮中に仕えるようになりましたが、歌人として群をぬき、やがて和泉守橘道貞と結婚、和泉式部と呼ばれるようになりました。
  あらざらむ この世のほかの おもひでに いまひとたびの あふこともがな
和泉式部は出自も定かでなく、出生地といわれるところも各地にあるようですね。また晩年もはっきりしていないようですね。中山道美濃路を歩いていて、細久手宿から御嵩宿の間の御嵩宿よりに「和泉式部の墓(供養塔)」がありましたし、和泉式部の晩年にまつわる話も残っていました。」ということである。

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先へ行くと本陣・岩波家が残っている。入場料を払えば中に入ることが出来、当時の大名の宿泊の様子がうかがえる。関札も本陣の中に残っている。受付をしていたのが「私が27代目の岩波家の嫁です」というおばあさんであった。

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本陣のすぐ先が「綿の湯」である。

下諏訪宿は、温泉場として広く知られており江戸側から「和田峠」京側から「塩尻峠」と難所を超えてきた旅人がくつろげる宿場であったようだ。

当時の下諏訪宿には、三か所の湯があったそうだが旅人に解放されていたのは「綿の湯」だけで、それ以外は地元の人しか入れなかったそうである。

伝説の湯
上社前宮、下社秋宮の祭神、八坂刀売神(やさかとめのかみ)が、下社に渡られるおりに、上社から湯を含ませた化粧用の真綿を桶に入れて湖水を渡られた。ところが途中でお湯が湖水にこぼれてしまい、そのため湖中から湯が湧くようになり、それが上諏訪温泉のはじまりだという。
また、下社につくころには、真綿に含ませた湯がほとんどなくなってしまったので、神社のそばに真綿を捨てると、そこから湯が湧き出したという。これが綿の湯の名の由来とされている。
神の湯の信仰
また、不浄な者が入ると湯口が濁るともいわれた。
現在諏訪大社上社の神宝となっている、武田晴信(信玄)定書十一軸というものがある。これは一般には信玄十一軸とよばれ、長い戦乱の中で途絶えていた諏訪大社の祭祀や社殿の復興を指示する書である。この中で、綿の湯にまつわる神事を、以前と同じように復興させよとの指示を出している。
享保3年(1718)4月に、下諏訪宿に大火があり、綿の湯も子湯も焼けてしまったが、その年の月に復興された。
当時は上湯、下湯に分かれていたそうである。上湯は特別に何か資格か身分のある人の湯で、こちらは女湯、男湯の区別があった。下湯は一般庶民の湯で、混浴で誰でも入ることができたという。

伝説の多い土地ではある。

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この「綿の湯」の場所は、中山道甲州街道の追分でもあり、「下諏訪宿 甲州道中 中山道合流之地」の碑があり、その脇に「旧甲州道 (右矢印)江戸五十三里十一丁」「旧中山道 (下矢印)京都七十七里三丁 (左矢印)江戸五十五里七丁」の碑がある。

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ここから、甲州街道方面へ行くとすぐのところが「諏訪大社・秋宮」である。

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「綿の湯」の向いが「脇本陣・まるや」である。

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脇本陣の前の道が旧道ですぐその先に「民俗資料館」があり、「右甲州道 左中山道」の道標が置かれている。

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さらに歩を進めると「高札場跡」が見えてくる。

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旧道は、この先右に曲がって下諏訪駅前を過ぎることになるが、今朝、駅についてから下諏訪宿をぐるりと回ってきたことになる。

下諏訪駅前あたりが宿場の出口と思われる。旧道は、その先を左に入っていくことになる。

旧道に入るとすぐに「魁塚」が見える。これは、赤報隊の人たちの塚で赤報隊とは、明治維新の魁をした人たちだそうである。

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旧道を先へ進むと「中山道案内版」が見える。

やがて「永池・東堀」の交差点に出るがここを渡った処に「中山道・いなみち」と彫られた道標がある。この交差点を左折すると「伊奈街道」でる。

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旧道を先へ進むとしよう。

道端には、道祖神がありその先にも道祖神天満宮、石塔群が置かれている。

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やがて、「今井番所跡」がありその先が「茶屋本陣・今井家」である。

この辺りは、「今井立場」で当時は塩尻峠を前にして大いに賑わったであろうことは想像に難くない。

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さらに旧道をゆくと、「左 しほじり峠 中山道 右 しもすは」の道標が置かれている。

やがて、道路の右手に細い階段がありそこを上がると「石船馬頭観音」がある。

ここには、多くのわらじが供えられており、当時は足腰にご利益がある神社として多くの旅人がお参りしたのだそうだ。塩尻峠を前に足腰の無事を祈ったのであろう。

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「石船馬頭観音」のところを右手に行くといよいよ塩尻峠の急な坂が待っている。

急坂を上っていくと左手に「大岩」呼ばれる岩がある。この岩は、昔から有名であったのだそうだ。

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この峠道は、いたるところに倒木が横たわっている。

途中で道連れになった年配の女性の話だと、今年は気候が不順で雨が降って枝が凍りその上に雪が積もってその重さで木が倒れたのだという。にわかに想像出来ないが、それが事実なのだろう。

この女性は、峠頂上の「アブラチャン」や「こぶし」の花の状態を見に行くのだという。

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塩尻峠への坂は、急ではあるが距離としてはそれほど長くない。

曲がりくねった坂を上り切ると塩尻峠頂上である。

塩尻

「江戸初期の中山道は、下諏訪から三沢を経て小野峠小野盆地に入り牛首峠を越え桜沢に抜ける小野街道を利用していたが、15年ほどで塩尻峠越えの道に変更された。塩尻峠には、一里余り人家がなく、参勤交代も難渋したので、諏訪側の今井村と塩尻側の柿沢村とに御小休所(茶屋本陣)が置かれた。峠から諏訪方面は、中山道有数の絶景で、渓斎英泉は「木曽街道六十九次」にここからの眺めを描いている。」(塩尻市HPより)」

峠の奥には「展望台」があるのだが登り口には鍵がかかっており上ることはできなかった。

展望台からは諏訪湖が一望できさぞかし素晴らしい眺めであろう。(残念!)

それでも峠からは、下諏訪宿諏訪湖を眺めることが出来る。

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また大きな岩に「大帝の龍駕の峠さくらそう?」と読むのだろうか、句が刻まれている。

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ところで、道連れになった女性が気にしていた「アブラチャン」や「こぶし」は、枝が折れてひどい状態になっていた。(とてもがっかりされていた。)

さて、ここからは、塩尻宿への下りである。少し下るとすぐ「明治天皇塩尻嶺御膳水」の案内板があり、右側に井戸と左側に茶屋本陣がある。

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そのすぐ先右側に享和元年(1801)建立の親子地蔵があり、そばに「伝説 夜通道」の木柱があった。いつの頃か片丘辺のある美しい娘が岡谷の男と親しい仲になり男に会うため毎夜この道を通ったのだそうだ。 

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やがて、下り坂は平坦な道に代わり「一里塚」が見えてくる。東山一里塚(五十七番目)である。

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やがて、旧道は一旦国道20号に合流するがすぐ右に再び旧道への入り口がある。

旧道に入り緩やかな坂を下り高速道路を横切ると柿沢と呼ばれる集落である。

ここに「首塚」なるものがあり、これは天文17年(1548)武田信玄小笠原長時が戦った「塩尻の合戦」の死者を葬った塚だそうである。

旧道には、「本棟民家」も見受けられる。

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やがて、本柿沢の交差点を越えるとすぐに「永福寺」がある。

永福寺

宗派:高野山真言宗。本尊:大日如来

永福寺の創建は元禄15年(1702)、木曽義仲縁の地である現在地に木曽義仲信仰の馬頭観世音を本尊として朝日観音を建立したのが始まりと伝えられている。その後、朝日観音は焼失し一時衰退しましたが安政2年(1855)に現在の観音堂が再建された。

やがて、本柿沢の交差点を越えるとすぐに「永福寺」がある。

永福寺

宗派:高野山真言宗。本尊:大日如来

永福寺の創建は元禄15年(1702)、木曽義仲縁の地である現在地に木曽義仲信仰の馬頭観世音を本尊として朝日観音を建立したのが始まりと伝えられている。その後、朝日観音は焼失し一時衰退しましたが安政2年(1855)に現在の観音堂が再建された。

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旧道はやがて国道153号線に出会い、しばらく国道を歩くことになる。

永福寺の先に「是より西 塩尻宿」の案内版があり裏面に案内図が示されている。

このあたりが塩尻宿の入り口なのだろう。

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第30宿 塩尻宿・本陣1、脇本陣1、旅籠75 

(日本橋より58里3町14間 約228.13キロ・下諏訪宿より2里33町 約11.5キロ)

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宿場に入ってすぐのところに「一里塚跡」(五十八番目)がある。これが柿沢一里塚である。

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やがて、左手に重要文化財に指定されている「小野家」、屋号は「いてふや」なのだろう、看板が掲げられている。

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右手には、「上問屋跡」、「明治天皇行在所」、「本陣跡」、「脇本陣跡」、「陣屋跡」と続いていく。当時は、このあたりが塩尻宿では一番にぎわったところであろう。

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その先右手に「駕籠立場跡」「塩尻村役場跡」の碑が並んでいる。

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ここから、旧道は国道と別れ右へ入っていく。

旧道に入ると、「阿礼神社」が右手に見える。

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その先に双胎道祖神重要文化財「堀内家」があるが堀内家は残念ながら改築中であった。

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やがて。旧道は大小屋(おごや)の交差点で再び国道153号線に合流するが合流地点に道祖神、石塔群が置かれている。

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今日は、ここまでとし、宿泊地・奈良井宿へ行くため塩尻駅へ急いだが、わずかな違いで午後5時5分の電車に乗り遅れた。次の電車は、なんと6時50分だという。

民宿に電話してその旨を連絡したら、塩尻駅前から奈良井駅へ5時40分発の地域振興バスがあると教えていただいたのでそれに乗り、無事、奈良井宿の民宿「津ち川」さんにつくことが出来た。