中山道旅日記 7 塩尻宿-洗馬宿-本山宿-贄川宿-奈良井宿

18日目(3月21日(月))塩尻宿-洗馬宿-本山宿-贄川宿-奈良井宿-民宿・津ち川

奈良井駅発8時6分の電車で塩尻へ戻る。

電車は、ワンマンで一番前の車両からしか乗ることはできず整理券を取って一番前の扉から整理券と乗車料金を箱に入れて降りる。路線バスの要領である。

さて、塩尻駅から下大門の交差点へ戻り中山道へ入っていく。

この下大門の交差点は、中山道と松本街道(善光寺西街道)の分岐点であった。

中山道をゆくと、まず右手に「大門神社」が、続いて「耳塚」がある。

説明版の伝説によれば、「耳塚は、耳塚様と呼ばれ昔は澪身の病気の直ることを祈った。桔梗が原の戦いとか安曇族王に関係ありともいわれる。明治29年先祖が野ざらしになっていた塚に祠を建て2本の件を御神体として祀った。耳の形に似た素焼きの皿やおわんに穴を開けて奉納すると耳の聞こえが良くなると評判になり伊那地方からなど多方面から半紙を聞きつけて参拝した。祠は2度立て替えられ現存する祠は昭和53年建立。」

この耳塚は、天文17年(1548)5月武田信玄小笠原長時の桔梗が原の合戦の時、討ち死にした将兵の耳を葬った所と言われている。(長野県・武田信玄伝説による)

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中山道は、やがてJRの高架を越え、「昭和電工」の工場に沿って進んでゆくことになる。

そして、その先に「平出の一里塚」(日本橋から五十九番目の一里塚)が対で残っている。旧道沿い左手にあるのが「南塚」で右手の民家の奥に「北塚」がある。このように見事に対で残っている「一里塚」は珍しい。

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(写真 左「南塚」、右「北塚」)

やがて、左手50メートル程入ったところに平出史跡公園があり縄文時代の竪穴式住居から平安時代の集落まで復元されている。

「発掘によって、平出遺跡に人々が生活していた時期は、縄文時代から平安時代までに及ぶことが解った。」とパンフレットに記されている。

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平出史跡公園から、北アルプスの山並みがきれいに見える。

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北アルプスの山並みを見ながら歩くとやがて旧道は、国道19号に出会いそこからは国道を歩くことになる。そして、平出の信号から再び旧道が復活する。

旧道に入ってしばらく行くと「細川幽斎肘懸松碑」と呼ばれる松が右手に見える。説明版では、「洗馬の肘松日出塩の青木お江戸屏風の絵にござる。」と歌われた赤松のお名木。

細川幽斎が-肘懸けてしばし憩える松影にたもと涼しく通う河風-と詠んだと伝えられている。また、江戸二代将軍秀忠上洛の時、肘を懸けて休んだとの説もある。」とのこと。

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そこから、緩い坂道を下りきると三叉路になっている。「洗馬宿」と「善光寺道」の追分である。当時、ここは「信濃の分か去れ」とも呼ばれていた。道標には「右中山道」「左北国往還 善光寺道」と彫られている。「中山道善光寺道のさわかれ」は左50メートルの所にあったのだが「洗馬の大火」以後、ここへ移されたとのこと。(説明版)

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この追分から先が洗馬宿のようだ。

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第31宿 洗馬宿・本陣1、脇本陣1、旅籠29 

(日本橋より59里33町14間 約235.33キロ・塩尻宿より1里30町 約7.2キロ)

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宿場に入って右手に「あふたの清水」の立て看板があり、階段を下ってゆくと清水が湧き出ている。白梅が美しい。

奈良井川河岸段丘の下から湧き出ている。伝説では、今井兼平が木曽義仲の挙兵に馳せ参じ、この清水で出会ったとき、兼平が馬の脚をこの泉の水で洗ったところ、たちまち元気を取り戻した。ということである。

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旧道に戻りしばらく行くと本陣跡、明治天皇御駐輦碑、脇本陣跡があり、その先に「荷物貫目改所跡」の説明版が置かれており、これは江戸幕府が、街道往来の荷物の重量を検査するためにおいた役所で東海道の品川・駿府草津中山道の板橋・追分・洗馬に設置されていた。

規定の重量を越えた荷物に増賃金を徴収し、伝馬役に過重な負担がかからないようにしたのだそうだ。

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その先の「洗馬公園」に中山道碑、高札場跡の説明版があり隣に松尾芭蕉の歌碑には

- つゆばれのわたくし雨や句もちぎれ -

と彫られている。

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洗馬宿を後に緩やかな坂を上っていくと「一里塚」が朽ち果てそうになりながら残っている。

これが「牧野の一里塚」(江戸から六十番目)である。

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先を行くと牧野の信号で国道に合流し、国道を歩くことになり、再び右手旧道に入ると「本山宿」である。

第32宿 本山宿・本陣1、脇本陣1、旅籠34 

(日本橋より60里27町14間 約238.6キロ・洗馬宿より30町 約3.3キロ)

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旧道を行くと宿場の入り口に石塔群が置かれている。

「これらは宿場北端の下木戸にあったもので、秋葉神社は火除けの神様として信仰されていて今でも年に1度の代参が行われている」と説明書きが添えられている。

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宿場を進んでいくと左手に本陣跡(明治天皇本山行在所跡)があり、本山宿の説明版も置かれている。

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説明版の向い側には、「川口屋」、「池田屋」、「若松屋」と重要文化財の旧家が並んでいる。

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先には、脇本陣跡、問屋場跡の碑が中山道碑とともに置かれている。

その先が、高札場跡である。

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やがて、本山宿の大きな看板が見えてくる。本山宿のはずれである。

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旧道は、一旦国道19号に合流し再び旧道に入る。第二中仙道の踏切を渡り旧国道に合流した地点に「一里塚跡」が残っている。「日出塩の一里塚」(江戸から六十一番目)である。

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ここ先は、JR中央線が平行して走っている旧国道を歩く。「道祖神」、「秋葉大権現」、「初期中山道」の説明版などを見ることが出来る。

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しばらく行くと旧道は、旧国道と別れるがすぐに国道に合流し今度は国道を歩くことになる。国道と別れ再び旧道に入るところに四阿があり「是より南 木曽路」の碑が置かれている。いよいよ「木曽路」である。

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中山道六十九次」は、「木曽街道六十九次」とも呼ばれる。それは、贄川宿から馬篭宿までの約二十里の間に十一もの宿場があり、山の中の険しい道は中山道を象徴する街道であったからではなかろうか。

さて、ここから左手の旧道に入るがすぐに国道19号に合流してしまう。その先は、これということもなく淡々と国道を歩いていくと右手に「若神子の一里塚跡」がある。

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一里塚の少し先、JR贄川駅1.7k これより南木曽路1.8kの道標のところから旧道が復活。先へ行くと二十三夜塔、庚申塔道祖神が置かれている。旧道は、また国道と合流し中央線」「贄川駅」を過ぎ、線路を横断すると贄川関所跡である。

途中に「贄川宿」の大きな看板があり、線路の横断歩道には「木曽節」の歌詞が貼られている。」

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第33宿 贄川宿・本陣1、脇本陣1、旅籠25 

(日本橋より62里27町14間 約246.5キロ・本山宿より2里 約7.85キロ)

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贄川の関所は、京方面から来た旅人にとって必ず通らなければ宿場に入れなかった。当時は、福島関所の予備的なものであったが江戸方面からの旅人にとっては「木曽十一宿」最初の宿場であったため、やがて関所の役目を果たすようになったのだそうだ。

島崎藤村の「夜明け前」には、「木曽十一宿」は、「贄川」「奈良井」「藪原」「宮ノ越」の上四宿、「福島」「上松」「須原」の中三宿、「野尻」「三留野」「妻籠」「馬篭」の下四宿に分けられると書かれている。

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宿場に入ってすぐに、「秋葉神社」、「島津神社」があるが本陣、脇本陣など、当時の面影を残すものはほとんどない。「まるはち漆器」店、重要文化財「深澤家住宅」がわずかに当時をしのばせる。調べてみると昭和5年の大火で多くの家が消失してしまったようである。

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贄川宿を後に旧道を行くと、国道19号に合流するがその手前に「押込の一里塚跡」がある。江戸から六十三番目の一里塚である。

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国道を少し行くと奈良井川を渡ることになる。

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奈良井川を渡りJRの下をくぐると左手に旧道が復活するがその先で再び国道を歩くことになる。先に進み右手の旧道に入っていくと「木曽平沢」の道標、その先には「吉久屋」の看板がかかった旧家がある。

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奈良井川を渡りJRの下をくぐると左手に旧道が復活するがその先で再び国道を歩くことになる。先に進み右手の旧道に入っていくと「木曽平沢」の道標、その先には「吉久屋」の看板がかかった旧家がある。

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この平沢は、木曽漆器の町であるがその町並みはとても趣がある。

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その先には、二十三夜塔があり、以下のようなことが説明版に記されている。

「神に願かけ叶わぬならば二十三夜さまお立ちまち

と云う民謡があるように下弦(二十二日、二十三日)のおそい月の出を待ってこれを拝む風習があり宿(当番の家)に参集して飲酒談笑して月の出るまで待つのであるが特に「お立ち待ち」といって月の上がるまで腰をおろさず立ちつづけているという願かけをする者がありうっかりして座ってしまったり立っているだけでは苦痛なのでこの晩集まっているものが踊りをおどってまぎらわすということがあったという.....」

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さらに、JR平沢駅を左手にみて先へ進むと旧道はJRの線路を横切って国道に合流する。国道をしばらく行くと「左奈良井宿 中仙道 右漆器町平沢?」の碑が置かれており、奈良井駅1.7kの道標がある。

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ここを左(旧道)に入り奈良井大橋を渡っていくと「奈良井宿」である。

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今日の泊りも「民宿・津ち川」さん(連泊)。奥さんのおもてなしと心づかいがとてもうれしい民宿である。部屋から見る月がきれいだ。

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