中山道旅日記 8 奈良井宿-鳥居峠-藪原宿-宮ノ越宿-福島宿

19日目(3月22日(火))奈良井宿-鳥居峠-藪原宿-宮ノ越宿-福島宿

第34宿 奈良井宿・本陣1、脇本陣1、旅籠5

(日本橋より64里22町14間 約253.77キロ・贄川宿より1里31町約7.3キロ)

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奈良井宿は、木曽路の難所「鳥居峠」の北に位置し、交通の要となる宿場町として繁栄した。

当時その様は、「奈良井千軒」と謳われ、木曽一番の賑わいであったという。

また、奈良井宿は、木曽路「十一宿」の中で一番標高の高い位置にある。宿場は、江戸方面から「下町」「中町」「上町」に分かれていて現在は、町全体が「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されており、宿場に入るや否やテレビの時代劇の宿場風景が目の前に現れ、いきなり江戸時代にタイムスリップしたような感じになる。

さて、民宿・津ち川さんの温かいおもてなしと心遣いに感謝しつつ、まず「八幡宮」、「二百地蔵」を訪れることにする。昨日、贄川宿からJR奈良井駅の前を通って宿場町に入ったのだが江戸時代の初期は駅の上にある「八幡神社」の裏を抜けてきたのだそうだ。

八幡宮、二百地蔵、杉並木の道標のある石段を登っていくと「八幡神社」があり、その先が樹齢数百年と永い年輪を重ねた杉の大樹が続く並木道である。当時、幾多の旅人がその足跡を刻んできたのだろう。杉並木を抜けると、静かにたたずむ石仏群がある。昔、旅人が途中で死を向かえ、無縁仏になっていた石仏を1ケ所に集めたものとされている。整然と並ぶおよそ二百体の石仏の風雪に洗われた素朴で豊かな表情は心を和ませてくれる。

八幡神社」は、案内板によると「奈良井宿下町の氏神で、祭神は誉田別尊。奈良井宿の丑寅の方角にあたり、鬼門除けの守護神として崇敬された。」のだそうだ。

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中山道に戻ろう。奈良井宿を下町から中町、上町へと歩いて行く。

水場や当時、脇本陣であった「とくりや」、右手奥に「本陣跡」の碑、「上問屋資料館」などが左右に並び「鍵の手」(水場もある)から上町に入っていく。

「鍵の手」は、防衛の手段として、敵が一気に攻め込みにくくする為に、また、敵を追い詰め易くするために宿の入り口や通りを直角に曲げたもので宿場防備のための町造りの手法である。城下町では、この手法が多く用いられ「桝形」と呼ばれている。徳川家康真田昌幸上田城を攻めた、「第一次上田合戦」では徳川軍がこの「桝形」に大いに悩まされた。

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上町に入り、左手に「駒屋」、右手に有形文化財「中村邸(中村屋資料館)」があるが早朝のため資料館はすべて閉まっていた。

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その先が、「高札場跡」でここにも「水場」がある。

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そのすぐ先あるのが「鎮(しずめ)神社」である。

鎮神社は、経津主命(ふつぬしのみこと)を祀り、「由緒書」によれば、寿永から文治(十二世紀後期)のころ中原兼造が鳥居峠に建立したと伝えている。疫病流行を鎮めるため下総国香取神社を勧請したことから鎮(しずめ)神社と呼ばれるようになったという。

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鎮神社が、奈良井宿の出口で「奈良井宿の案内版」があり「楢川歴史資料館」の横が「鳥居峠」の登り口である。「中山道 上り鳥居峠 下り奈良井宿」の碑がある。

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いよいよ鳥居峠越えである。急な坂を上っていくとやがて「中の茶屋」があり、「葬沢」の説明版がある。それによると、「天正十年(一五八二)二月、木曽義昌が武田勝頼の二千余兵を迎撃し、大勝利を収めた鳥居峠の古戦場である。この時、武田方の戦死者五百余名でこの谷が埋もれたといわれ、戦死者を葬った場として、葬沢(ほうむりさわ)と呼ばれる。

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中の茶屋で一息入れ、急な坂を上る。「塩尻峠」同様倒木が峠道をふさぎ、歩くのには難儀である。倒木の理由は、「塩尻峠」と同じだろう。

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さて、しばらく行くと「鳥居峠一里塚」がある。

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一里塚を過ぎ、約1キロ急な上り坂を進むと峠に到着。「峰の茶屋」と書かれた休憩所があるが、季節外れのこととて中に入ることはできなかった。峠にはまだ雪が残っている。「峰の茶屋」の前には石碑があり右手には、奈良井宿を眼下に見下ろせる場所がある。当時、藪原宿から上ってきた旅人が眼下に広がる風景を見て千軒もの家あるように思えたのだろう。「奈良井千軒」と言われる所以なのかもしれない。

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さて、ここからは下りである。すぐ下に「熊除けの鐘」が置かれていて「熊も人が怖いのです。鐘で知らせてあげよう・・・・」と添え書きがかかっている。更に「お六櫛原木ミネバリ」という看板が掲げてある。木曽の名物は「お六櫛に五平餅」というイメージであるがお六櫛は「ミネバリ」という木から作られるのだ。

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栃の木が群生している峠道を行くと「子産みの栃」というものがあり「昔、この穴の中に捨て子があり子宝に恵まれない村人が、育てて幸福になったことから、この実を煎じて飲めば、子宝に恵まれると言い伝えられている。」と説明版が添えられている。

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さらに下っていくと「右義仲硯水」と書かれた碑の横に水鉢が置かれている。水鉢は文化元年建立で正面に御嶽山と刻まれている。昔、木曽義仲が平家討伐の旗揚げをした折、この頂上で御岳山へ奉納する願書を書くのに使ったとの言い伝えがある。その隣の「丸山公園」には「木祖村史跡鳥居峠」の碑や松尾芭蕉の句碑などが置かれている。

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句碑

- 雲雀よりうえにやすらふ峯かな - 芭蕉

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- 木曽の栃うき世の人の土産かな - 芭蕉

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- 嶺は今朝 ことしの雪や 木曽の秋 - (詠み人はわからない)

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標高1,197メートルの峠を下りきると「藪原宿」である。「原町清水」の水場があり「この水は峠を越える旅人が喉をうるおしたもので今も飲み水として使用されています。」と説明版に書かれている。ありがたい!! 厳しい峠越えで水をきらしたところである。この水で喉をうるおし、ペットボトルにもたっぷり補給させていただいた。

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水場を後に急な下り坂を歩いていくと「尾張藩藪原御鷹匠役所跡」の碑が立っている。

鷹匠役所は、江戸時代、鷹狩り用の子鷹を捕獲するため、木曽の山に「巣山」と言われる鷹の巣を保護する山林を定めていた。尾張藩の役人が木曽代官・山村家の家来の助けを借りて巣山の監視を行い、巣から下ろしてきた子鷹を飼育・調教して尾張藩に送り届け、その一部は将軍家にも献上されていたとのことである。

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第35宿 藪原宿・本陣1、脇本陣1、旅籠10

(日本橋より65里35町14間 約259.11キロ・奈良井宿より1里13町約5.3キロ)

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宿場に入ると、「防火高塀跡」の碑が右手に見える。

木祖村誌には、「元禄八年(1695)七月十四日夕方、下町西側のお寺門屋敷あたりから火事が起こり、夜中までに藪原宿全宿が焼失してしまった。藪原宿では、このような宿全体にかかわるような大火は四回も発生している。この元禄の大火の後、二度とこのような参事に遭わないためにもと、火除地として広小路を設け、防火のための石塁・高塀を設けた。」とある。その先には、水場も見受けられる。

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さらに先へ行くと、お六櫛問屋「萬寿屋」がある。

お六櫛にまつわる伝説

妻籠の旅籠屋に「お六」という美しい娘がいた。お六はいつも頭痛に悩まされていた。ある時、御嶽大権現に願掛けをしたところ「ミネバリという木で作ったすき櫛で、朝夕髪を梳かせば必ずや治る」というお告げがあった。 お六はさっそくお告げのとおり、ミネバリの櫛を作り、朝夕髪を梳かしていると、お六の頭痛はすっかり直ってしまった。それ以来、妻籠宿ではミネバリで作った櫛を「お六櫛」と名付けて旅人に売り出したところ大変な評判となり街道の名物となった。享保のころになって鳥居峠の近くに材料となるミネバリの木があることから薮原でもお六櫛を産するようになったと言われている。」

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しばらく行くと「高札場跡」の碑が立っている。藪原宿の出口であろう。

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藪原宿を出てしばらく行くと旧道は国道と合流する。更に行くと一里塚(藪原の一里塚)がある。日本橋から六十八番目の一里塚である。

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国道沿いに「宮ノ越宿」の大きな看板が立っている。

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さらに歩いていくと「山吹橋」(橋の名は、義仲の愛妾・山吹から来ているのだろうか)が見えてくる。橋を渡って右手に入り、しばらく行くと「巴が淵」というところに出る。その名の通り木曽義仲の妻(愛妾?)にまつわる場所である。淵を見下ろすところに四阿があり旅のノートが置かれている。ノートには「巴御前のように美しくなれますように」といったような女性の書き込みが多くみられた。美しく、強い女性への憧れであろうか。四阿の「一句いかがですか」の張り紙につられ、一句作ってみた。

「一休み巴が淵の浅き春」 お粗末!

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ここで巴御前について少し。

巴は、信濃国の豪族・中原兼遠の娘と伝えられている。常に義仲のそばに付き従いその生涯は謎に包まれており「平家物語・巻第九・木曽最期」の段にのみ登場する。

平家物語には、「木曾殿は信濃より、巴・山吹とて、二人の便女を具せられたり。山吹はいたはりあって(病気で)、都にとどまりぬ。中にも巴は色白く髪長く、容顔まことに優れたり。強弓精兵、一人当千の兵者(つわもの)なり」と記され、宇治川の戦い義経軍に敗れ落ち延びる義仲に従い、最後の7騎、5騎になっても討たれなかったという。義仲は「お前は女であるからどこへでも逃れて行け。自分は討ち死にする覚悟だから、最後に女を連れていたなどと言われるのはよろしくない」と巴を落ち延びさせようとする。巴はなおも落ちようとしなかったが、再三の義仲の言葉に「最後のいくさしてみせ奉らん」と言い、大力と評判の敵将・御田(恩田)八郎師重が現れると、馬を押し並べて引き落とし、首を切った。その後巴は鎧・甲を脱ぎ捨てて東国へ落ち延びた所で平家物語の舞台から退場する。

源平盛衰記」では、倶利伽羅峠の戦いにも大将の一人として登場しており、横田河原の合戦でも七騎を討ち取って高名を上げたとされている。宇治川の戦いでは畠山重忠との戦いも描かれ、重忠から「あの女武者は何者か」と問われた半沢六郎は「木曽殿の御乳母、中三権頭が娘巴といふ女なり。強弓の手練れ、荒馬乗りの上手。軍には一方の大将軍として、更に不覚の名を取らず。今井・樋口と兄弟にて、怖しき者にて候」と答えている。敵将との組合いや義仲との別れが「平家物語」より詳しく描写され、義仲に「我去年の春信濃国を出しとき妻子を捨て置き、また再び見ずして、永き別れの道に入らん事こそ悲しけれ。されば無らん跡までも、このことを知らせて後の世を弔はばやと思へば、最後の伴よりもしかるべきと存ずるなり。疾く疾く忍び落ちて信濃へ下り、この有様を人々に語れ」と、自らの最後の有様を人々に語り伝えることでその後世を弔うよう言われ、巴は戦場を去っていく。落ち延びた後に源頼朝から鎌倉へ召され、和田義盛の妻となって朝比奈義秀を生んだ。和田合戦の後に、越中国、石黒氏の元に身を寄せ、出家して主・親・子の菩提を弔う日々を送り、九十一歳で生涯を終えたという後日談が語られる。

「巴が淵伝説」
歴史が漂うこの淵は、巴状にうずまき巴が淵と名づけられた。
伝説には、この淵に龍神が住み、化身して権の守中原兼遠の娘として生まれ、名を巴御前と云った。義仲と戦場にはせた麗将巴御前の武勇は、痛ましくも切切と燃えた愛の証しでもあった。巴御前の尊霊は再びこの淵に帰住したと云う。法号を龍神院殿と称えられ、義仲の菩提所徳音寺に墓が苔むして並ぶ。絶世の美女巴は、ここで水浴をし、また泳いでは武技を錬ったと云う。そのつややかな黒髪のしたたりと、乙女の白い肌元には、義仲への恋慕の情がひたに燃えていた。岩をかみ蒼くうずまく巴が淵、四季の風情が魅する巴が淵・木曽川の悠久の流れ共に、この巴が淵の余情はみつみつとして、今も世の人の胸にひびき伝わる。
 - 蒼蒼と巴が淵は岩をかみ黒髪愛しほととぎす啼く - (日義村観光協会による)

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謡曲・巴」あらすじ

木曽の僧が都に上る途上、琵琶湖のほとりの粟津が原というところに差し掛かる。そこで神前に参拝に来た女と出会うが、女が涙を流しているので不審に思い、理由を尋ねる。女は古歌を引き、神前で涙を流すのは不思議なことではないと述べ、僧が木曽の出だと知るや、粟津が原の祭神は、木曽義仲であると教えて供養を勧める。そして、自分が亡者であることを明かし、消えてしまう。僧はお参りにきた近在の里の人から、義仲と巴の物語を聞き出し、先の女の亡者が巴だと確信を深める。夜になり、僧が経を読み、亡くなった人の供養をしていると、先ほどの女が武者姿で現れる。女は巴の霊であることを知らせ、主君の義仲と最期を共に出来なかった恨みが執心に残っていると訴える。そして義仲との合戦の日々や、義仲の最期と自らの身の振り方を克明に描き、執心を弔うよう僧に願って去って行く。 

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四阿の横に千村翁が詠んだ歌が刻まれている。

- 粟津野に討たれし公の霊を抱き巴の慕情淵に渦まく -

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芭蕉の弟子・許六も、このあたりで次の句を詠んでいる。

- 山吹も巴もいでて田植えかな -

一騎当千の美貌の女武者「巴」にまつわる話は、昔も今も絶えることがない。

さて、木曽川に架かる「巴橋」を渡ってしばらくゆくと「手洗水」と呼ばれているところがある。ここは、木曽義仲が南宮神社に参拝する際、この清水で手を清めたということである。

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「手洗水」を左に曲がり木曽川に沿って下っていくと宮ノ越宿である。

第36宿 宮ノ越宿・本陣1、脇本陣1、旅籠21

(日本橋より67里32町14間 約266.64キロ・藪原宿より1里33町約7.5キロ)

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宿場に入って歩を進めると右手に義仲橋があり、その橋を渡れば「義仲館」がある。

残念ながらこの日は休館日で中に入ることはできなかった。

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宮ノ越は、木曽義仲旗揚げの地である。

木曽義仲は、河内源氏の一門、源義賢の次男として生まれる。幼名は駒王丸。

平家物語」や「源平盛衰記」によれば、父・義賢はその兄・義朝との対立により大蔵合戦で義朝の長男・義平に討たれる。義平は、当時2歳の駒王丸の殺害を命じるが、畠山重能・斎藤実盛らの計らいにより信濃国へ逃れる。「吾妻鏡」によれば、駒王丸は乳父である中原兼遠の腕に抱かれて信濃国木曽谷に逃れ、兼遠の庇護下に育ち、通称を木曽次郎と名乗った。

義仲は、以仁王の令旨によって挙兵、倶利伽羅峠の戦い平氏の大軍を破って入京する。入京後は、「朝日(旭)将軍」と讃えられたが連年の飢饉平氏の狼藉によって荒廃した都の治安回復に失敗し、また大軍が都に居座ったことによる食糧事情の悪化、皇位継承への介入などにより後白河法皇と不和となる。法住寺合戦に及んで法皇後鳥羽天皇を幽閉して征東大将軍となるが、源頼朝が送った義経らの軍に敗れ、宇治川の戦い義経に敗れ、近江の国・粟津ヶ原で討たれた。31歳の若さで散った悲運の武将である。

中山道に戻り、先へ進むと「本陣」が残っているが工事中のため中には入れなかった。

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さらに、「明治天皇宮ノ越御膳水」の井戸が復元されている。

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宿場を出ると田園風景が広がっており、「一里塚跡」の碑が置かれている。日本橋から六十九番目「宮ノ越の一里塚」である。

これから先はこれということもなく淡々と歩きて行くことになるが「JR原野」駅を過ぎてしばらく行くと「中山道中間地点」の碑が立っており左側面に「京へ六十七里二十八町」右側面に「江戸へ六十七里二十八町」と彫られている。

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この先、旧道は国道19号に合流したり、分かれたりしながらさしてこれということもなくただひたすらに歩いていく。やがて正面に大きな鏑木門が見えてくる。

福島宿の入り口である。

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本日の宿は「木曽三河屋」。