中山道旅日記 9 福島宿-上松宿-須原宿

20日目(3月23日(水))福島宿-上松宿-須原宿

第37宿 福島宿・本陣1、脇本陣1、旅籠14

(日本橋より69里24町44間 約273.67キロ・宮ノ越宿より1里28町30間 約7.0キロ)

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江戸時代、幕府は江戸防衛のため何十か所か関所を設けた。中でも東海道の「箱根」、「今切」、中山道の「碓氷」そしてここ「福島」を、「四大関所」と呼び最重要視した。関所の目的は「入り鉄砲と出女」、つまり鉄砲などの武器の江戸への持ち込みと、人質としている大名の妻女の逃亡を防ぐため厳しく監視したのである。

さて、鏑木門をくぐると左手に「福島関所跡」があり当時の様子が復元されている。上番所に座って当時の様子に思いを巡らすのもなかなか面白い。

中には、「女改めの実際」や「木曽路を通った参勤交代の大名や著名人」の資料もある。

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管理人の方と少し雑談をしたが、ここでも和宮が話題になった。和宮中山道を下った理由は、当時の多くの女性がそうであったように「川越」を嫌ったことであろう。和宮は、「公武合体」のために早く(予定通りに)江戸につく必要があった。「川止め」の不安があり、到着の日取りが読めない東海道よりも、山の中を通る険しい道ではあるが大きな日程の狂いもなく確実に江戸へ到着できる「中山道」を選んだのであろう。そこには、政治的要素が多分にかかわっているように思われる。ちなみに九州薩摩藩・島津家から13代将軍・徳川家定に嫁いだ「篤姫」は、東海道を下っている。

島崎藤村は、「夜明け前」の中で馬籠を通る和宮の行列の様子を以下のように書いている。

「九つ半時に、姫君を乗せた御輿は旅軍の如きいでたちの面々に前後を護られながら、雨中の街道を通った。厳しい鉄砲、纏、馬簾の陣立ては、殆んど戦時に異ならならなかった。供奉の御同勢はいずれも陣笠、腰弁当で供男一人ずつ連れながら、その後に随った。御迎えとして江戸から上京した若年寄加納遠江守、それに老女等も御供した。これらの御行列が動いて行った時は、馬籠の宿場も暗くなるほどで、その日の夜に入るまで駅路に人の動きも絶えることもなかった。」

さて、「福島関所跡」の隣にあるのが「高瀬資料館」である。「高瀬家」は、藤原氏の出で四代目高瀬四郎兵衛が大阪冬の陣のころ、この福島にきてその子八右衛門が、福島の代官山村氏に仕えたのが木曽での初代であり、以来「御側役」「鉄砲指南役」「勘定役」として幕末まで山村氏に仕えた。明治の文豪・島崎藤村とのかかわりは、藤村が深く敬愛した姉・「園」が高瀬十四代「薫」に嫁いだことにあり、「園」は、小説「家」のモデルになっている。

高瀬資料館には、藤村の手紙、掛け軸、遺品や高瀬家に伝わった兵法書類他、江戸時代の木曽谷の諸資料が展示されている。この日は、ひな祭りが近いということから「ひな壇」が飾られていた。(この地方のひな祭りは、一か月遅れの四月三日である。)

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今は、商店街になっている宿場通りに戻ってしばらく行くと藤村の詩「初恋」が刻まれた碑が置かれている。

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木曽川を渡ると昨日泊まった「三河屋」の前に「山村代官所跡」がある。

山村氏は鎌倉幕府の大学頭大江一族の流れを祖とし、木曽義元の食客となったことに始まり、木曽氏の重臣として活躍した。後に関ヶ原に向かう徳川秀忠の先陣として活躍したことから木曽谷の徳川直轄支配をまかされる木曽代官となり、以降、明治2年に至るまで274年間木曽谷を支配し関所を守っていた。

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入り口の門をくぐって、すぐ左手に「稲荷の祠」がある。説明版によれば、「この祠は、八代代官山村良啓(たかひら)公のときに建立されたもので、それ以降山村家の護り神として、代々丁重に奉られてきました。・・・・」また、屋敷内には狐のミイラが祀られており、管理人の方に申し出れば見ることが出来る。「祟りがあるといけないから」ということで写真には撮れなかったが。

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屋敷内には、興味のある資料が数多く展示されており、下屋敷の庭も見事なものである。

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ところで、木曽には「木一本、首一つ」という言葉がある。江戸時代、各地に伐採を禁止していた樹木があり木曽では「ひのき」「さわら」「ねずこ」「ひば」「こうやまき」を「木曽五木」といい無断で伐採すると討ち首になったということである。

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山村代官屋敷跡から少し歩き、左手の坂を下ったところに「木曽教育会館」があり島崎藤村の記念碑がある。「夜明け前」の書き出しの原稿が銅板に刻まれている。

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そのすぐ横に松尾芭蕉の句碑が置かれている。

- さざれ蟹足這ひのぼる清水哉 -

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街道に戻って、左の狭い坂を上っていくと「高札場跡」がある。

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坂を上り切ると「上の段」と呼ばれる地区があり、古い町並みや桝形、上の段用水と呼ばれる水場も残っている。

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また、江戸時代に造られたという井戸も残っている。

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さて、旧道に戻って「木曽福島」駅を過ぎると緩やかな下り坂になっている。道路が複雑でどの道を行けばいいのか迷ってしまう。旧国道だった道を歩くことにしてしばらく行くと「塩渕」のバス停があり左に入ると一里塚がある。「塩渕の一里塚」、江戸から七十番目の一里塚で碑には江戸へ七十里 京へ六十七里と刻まれている。

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旧道は、国道19号と合流したり旧道が復活したりしながらただただ淡々と歩いていくと「木曽の桟500m」の道標の所に江戸から七十一番目の一里塚「沓掛の一里塚」がある。江戸へ七十一里、京へ六十六里である。

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一里塚から5-6分行くと木曽の桟である。

木曽の桟は、「木曽の桟、大田の渡し、碓氷峠がなくばいい」と言われたように中山道三大難所の一つであった。ただの架け橋をイメージすればなぜ難所なのかと疑問に思うが、当時は木曽川の切り立った崖などに沿って、木材で棚のように張り出して造った道で、木曽川に渡した橋のことではない。のちに尾張藩により石垣と三つの木橋が架けられている。

今は、赤い鉄橋が架かっている。

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また、木曽の桟は歌枕としても知られている。

傍らには、馬頭観音があり、芭蕉正岡子規の句碑が馬頭観音とともに置かれている。

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- 桟やいのちをからむ蔦かづら - 松尾芭蕉

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- かけはしや あぶない処に山つつじ - 子規
- 桟や 水にとどかず五月雨 - 子規
- むかしたれ雲のゆききのあとつけてわたしそめけん木曽のかけはし - 子規

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他に以下の歌も詠まれ

- 波とみゆる雪を分けてぞこぎ渡る木曽のかけはし底もみえねば - 西行

- わけくらす木曽のかけはしたえだえに行末深き峰の白雪 - 藤原良経

- なかなかに言ひもはなたで信濃なる木曽路のはしのかけたるやなそ - 源頼光

この先、国道を歩き線路を越えるとトンネルがありここから旧道に入る。坂を下ると「十王橋」があり「中山道上松宿入り口」の碑が立っており、地蔵尊が置かれている。当時は、このあたりに高札場もあったようで、説明版が添えられている。

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第38宿 上松宿・本陣1、脇本陣1、旅籠35

(日本橋より72里3町24間 約273.67キロ・福島宿より2里14町40間 約9.5キロ)

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上松宿は、旅籠の数が35と木曽十一宿の中では一番大きかったそうである。

宿場に入るとわずかに当時の面影を残している。

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先に進むと、左手に江戸から七十二番目の一里塚「上松一里塚跡」の碑がある。

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一里塚を過ぎると国道に出会い、国道をしばらく歩く。JR上松駅を通り過ぎ「下町」の信号で左手の旧道に入る。しばらく行くと左手に諏訪神社が見えてくるがその入り口に「上松材木役所御陣屋敷跡」の碑が立てられている。ここは、「尾州陣屋」といわれ尾州藩直属の役所である。先ほども書いたが無断で樹木を伐採すると首が飛ぶ。

「木一本、首一つ」である。

先へ行くと左手に「庚申塔」が置かれている。

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さらに歩を進めていくと、「公会堂下」のバス停の先が「寝覚」と言われた立場で当時はかなりの賑わいだったらしい。名物「寿命そば」が人気で「越後屋」というそば屋が有名だったそうだ。

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越後屋」の向いが「臨川寺」でここには「浦島伝説」が残っている。「臨川寺」奥の眼下に広がるのが浦島太郎が目覚めたといわれている「寝覚の床」である。

浦島太郎伝説

「竜宮城から戻った浦島太郎は、諸国を旅して廻り、木曽川の風景の美しい里にたどり着いた。この地で竜宮の美しさを思い出し、乙姫にもらった玉手箱をあけてしまう。玉手箱からは白煙が出て、白髪の翁になってしまった浦島太郎は、今までの出来事がまるで「夢」であったかのように思われ、目が覚めたかのように思われた。このことから、この里を「寝覚め」、岩が床のようであったことから「床」、すなわち「寝覚の床」と呼ぶようになったという。浦島太郎は、しばらくは村人に薬を授けたりしていたが、いつの間にかどこかへ立ち去ってしまい、後には「弁財天」の像だけが残っていたという。」

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また、「謡曲と木曽路の寝覚の床」の説明版があり、以下のようにことが書かれている。

「木曽路随一の景勝地「寝覚の床」は、昔役の行者が修行した地で、不老長寿の霊薬が採れたとの伝承から、浦島太郎や三帰(みかえり)の翁の不老長寿の伝説が生まれた。
謡曲「寝覚」では、長寿の薬を三度飲んで三度若返り千年生きたという三帰の翁のところに、霊薬を貰いに勅使が遣わされる。三帰の翁は実は医王仏の仮の姿で、喜んで霊薬を天子に捧げる。
謡曲「飛雲」では、羽黒山の山伏が木曽路を旅して老いに疲れた老人に逢う。夜が更けると老人は鬼神と化し、盤石を砕いて襲いかかり、山伏は必死に経を読み、役の行者に祈って鬼神を退ける。」

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寝覚の床は信濃の国の歌枕でもある。

- ひる顔にひる寝せふもの床の山 - 芭蕉

- 谷川の音には藤も結ばじを目覚めの床と誰が名つくらん - 近衛摂政家照公

ー 岩の松ひびきは波にたちはかり旅の寝覚めの床ぞ淋しき - 貝原益軒 

正岡子規は、「誠やここは天然の庭園にて・・・・・仙人の住処とも覚えて尊し」と感じ入ったということである。

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寝覚の床を後に旧道を行くとやがてJRの線路をまたいだ先で国道19号に合流する。合流の手前に「中山道69次の上松宿」で広重が描いた「小野の滝」がある。

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小野の滝を後に国道19号を歩いていくと左手に旧道の入り口があり一里塚跡の碑が置かれており、説明版が添えられている。「荻原の一里塚」である。

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旧道は、すぐにまた国道に合流するがその手前に二十三夜塔が置かれている。

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ここから先は、国道19号を歩いていく。特に何があるわけでもなく淡々と歩くのみである。

やがて、JR須原駅に着き、民宿に電話を入れると民宿のおばあさんが迎えに来てくれた。

今日は、かなり疲れていたのでとてもありがたい。