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中山道旅日記 11 妻籠宿-馬籠宿

22日目(3月25日(金))妻籠宿-馬籠宿

今日は、休養日とし妻籠から馬籠まで「馬籠峠越え」の二里(約7.8キロ)の行程を古い町並みを楽しみながらゆっくりと歩くことにする。

第42宿 妻籠宿・本陣1、脇本陣1、旅籠31

(日本橋より81里6町47間 約318.84キロ・三留野宿より1里15町 約5.6キロ)

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妻籠宿は、慶長六年(一六〇一)、江戸幕府によって「宿駅」が定められ、江戸から42番目の宿場として整備された。明治以降は宿場としての機能を失い、衰退の一途をたどっていたが、昭和43年から歴史的町並みの保存事業により宿場の景観を蘇らせた。昭和51年には、隣の馬籠とともに国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。電柱なども見えないように工夫されているので、奈良井宿同様江戸時代にタイムスリップしたような町並みは、見事である。

高札場跡まで戻り、宿場を歩くと右手に「元脇本陣」が見えてくる。妻籠脇本陣は、屋号を「奥谷」といい代々「林家」が務めてきた。現在の建物は、木曽五木の禁制が解かれた後の明治10年に総檜造りで建て替えられたものだそうだ。平成13年に国の重要文化財に指定されている。裏の土蔵には、脇本陣関係資料や、藤村文学関係資料が豊富に展示されている。この資料館は、有料だが入場すれば囲炉裏を囲んで妻籠宿の詳しい話を聞くことができる。

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脇本陣の向かいには、妻籠本陣がある。本陣は、代々島崎氏が勤めていた。島崎氏は藤村の姉の実家である。明治20年に最後の当主広助(藤村の実兄)が東京へ出て、建物は取り壊されてしまったが平成7年に江戸時代後期の間取り図を基に忠実に復元されたのがこの建物で往時のままの豪壮な姿を楽しむことができる。

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本陣のすぐ先右手には、「妻籠郵便局」があり、妻籠の郵便資料館になっている。

現在の建物は、昭和53年に復元され、同時に局前のポストも全国で唯一黒いポストが復元された。『夜明け前』にも開局当時の様子が描かれている。

 

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古い町並みを楽しみながら行くと「桝形」に曲がっていて道順と桝形の説明版が立っている。

説明版には、「ここは桝形 徳川家康が慶長6年(1601)に宿場を制定した際、西国大名の謀反に備え、江戸への侵攻を少しでも遅らせるために設けられたものです。」と記されている。

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桝形を曲がると「上丁子屋」、「下丁子屋」の看板がかかった家がある。「上丁子屋」は、十返舎一九が「続膝栗毛」を書きあげた旅籠屋だそうだ。

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上丁子屋を過ぎると「桝形を経て中町の町並みへ」「中山道 京へ五十四里二十七町二十一間」の道標が立っていて「寺下地区」と呼ばれ、江戸時代そのままといった風景が楽しめる。

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木賃宿の雰囲気をうかがうことが出来る「上嵯峨屋」は有形文化財に指定されている。

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しばらく行くと「尾又(おまた)」「おしゃごじさま」の説明版があり、以下のような説明が記されている。

「尾又(おまた)木曽路中山道)から伊奈(飯田)道が分岐(分去れ、追分)していた処である。右手の沢沿いの竹やぶの中に、今もその道跡をたどることができる。宝暦年間(一七六〇頃)に、飯田道がつけ替えられ、ここから約六百米南の橋場に追分が移動した。

おしゃごじさま 御左口(ミサグチ)神を祀る。古代から土俗信仰の神様で「土地精霊神」「土地丈量神様」「酒神」等の諸説がある謎の神様と言われている。」(むー、謎の神様か~)

その先には「諸人御宿 八起」の看板が出ている旅籠があり「妻籠宿」の大きな看板が見える。京方面からは、宿場の入り口、江戸方面からは、出口ということであろう。このあたりまで来ると旅籠もまばらである。

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宿場のはずれあたりからは右手に蘭川(あららぎがわ)の流れを見ながら歩く。やがて旧道は、国道256号に出会うが、国道を横切って進むことになる。交差点には、中山道碑「右・志ん道 左・旧道」とともに「馬篭宿6.9k 妻籠0.8k」の道標が立っている。

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しばらく行くと、「飯田道・中山道」の道標があり、飯田道と中山道の分岐点で橋場の追分とも呼ばれ賑わったところである。道標には「中山道 西京五十四里 東京七十八里」と彫られている。

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蘭川を右手にみながら進むと再び国道に出会い、しばらく国道を歩くことになる。

蘭川に架かる大妻橋を渡ると「馬篭宿6.5k 妻籠1.2k」の道標を右手に入ると再び旧道で、「中山道大島村 右・旧道 左・志ん道」の碑が置かれている。

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先へ行くと「明神茶屋」がある。当時の旅人はこのあたりで一息入れたのだろう。

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やがて、「中山道 大妻籠」の灯籠が立っていて大妻籠の入り口である。

妻籠は、妻籠宿の奥座敷で立場として賑わったのだという。「大妻籠」は、「奥妻籠」が訛ったものだそうだ。旧道は、広い道路に出会いさらにしばらく行くと「金剛屋」の屋号を掲げた旅籠がある。その隣は、旅籠屋「波奈屋」である。

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すぐ先に、「大妻籠」の大きな看板があり、「中山道妻籠 右・旧道」の碑を右折し旧道に入ると水車小屋、「近江屋」「つたむらや」などの旅籠屋がある大妻籠集落である。

水車小屋には、きれいなトイレがありとてもありがたい。

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旧道は、再度広い道に出会うが合流地点に庚申塚があり「庚申の日は六十日毎に巡って来るので年内には六回ある。また庚申を「三猿」などであらはし念仏を唱えて徹夜で世間話などして朝になって解散する風習があった。庚申という名称は道祖神と同様仏教伝来のものであるが「猿田彦命」と解しているむきもある。猿田彦は道しるべの神であったという説話で中国渡来の「道祖神説」とを混同して「妻之神」を祀っている(木曽地方は凡そ其類である)。人は誰でも「三尸(さんし)の虫」という霊虫が腹中に住んでいて其の人の悪事や追失を天界に昇って天帝に告げ口するという事が「道教」にあって江戸時代信仰されていた。其処でこの日は寝ずの番で三尸の虫が天界に昇るのを防いだ。是が庚申の祭りの所因である。」と説明版が添えられている。また、このあたりに「大妻籠の一里塚」があったそうだが案内も説明書きもないためどれがそうなのかわからない。写真の右手に見える小山がそうなのだろうか。

広い道を進み、左手に「とうがめ滝 とうがめ澤下り谷を経て馬籠峠へ」の碑が置かれているところを左折、石畳の道が旧道である。

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旧道を行くと、左手に「倉科祖霊社」というお堂がある。「ここには、松本城主小笠原貞慶の重臣倉科七郎左衛門朝軌の霊が祀られている。伝説では、七郎左衛門は京都へ宝競べに行く途中、この地で盗賊のために殺されたとされているが、史実は次のようである。七郎左衛門は、主人貞慶の命をうけて大阪の豊臣秀吉のもとに使いに行き、その帰りに馬籠峠でこの地の土豪たちの襲撃にあい、奮戦したがついに下り谷で、従者三十余名とともに討死してしまった。時に天正十四年三月四日のことであった。当時、木曽氏と小笠原氏は、何度も兵戈を交えており、こうした因縁からこの争いも起きたと思われる。」と説明版に記されている。

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しばらく歩くと右手が急な下り坂になっており、下っていくと「男滝」「女滝」という滝がみえる。「この滝は、木曽に街道が開かれて以来、旅人に名所として親しまれ、憩いの場であった。滝及び滝壺は、洪水や蛇抜けなどで高さや深さが減じているが、なお往時の姿をとどめている。この滝には、滝壺に金の鶏が舞い込んだという倉科様伝説が伝わっている。また吉川英治著『宮本武蔵』の舞台にもとりあげられている。

 滝に向かって左が男滝、右が女滝である。

滝周辺は険阻なため、道はしばしばつけかえられ、幕末頃までの中山道は滝の下を通っていたものと思われる。現在滝上を通っている道が歴史の道である。」と説明版に書かれている。ここは、宮本武蔵の修行の場、またお通との出会いの場である。

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中山道に戻った所は、「滝見茶屋」と呼ばれているようで当時は茶屋があったのだろうが今は残っていない。広い道を少し歩くと右手に旧道入り口があり、旧道をしばらく歩くと「中山道」の道標が置かれている。更にその先に「中山道 一石栃口 左・旧道」の道標もある。

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旧道は、上り坂になり坂を上っていくと「白木番所跡」がある。贄川番所同様、木曽五木の無断伐採を厳しく監視したのであろう。木一本を無断で伐採すれば首が飛ぶ。「木一本首一つ」である。番所跡のすぐ先に「立場茶屋跡」があり、当時は七軒ほど茶屋があったそうである。江戸時代後期に建てられた「いちこく栃茶屋」は今、無料休憩所になっておりお茶をふるまってくれる。中には、若い外国人女性が休んでおり、しばし雑談を楽しんだ。

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立場茶屋跡からしばらく急な上り坂を上ると標高801メートルの馬籠峠である。峠には「正岡子規」の句碑があり、「白雲や青葉若葉の三十里」と彫られている。馬籠峠から国道を歩くとすぐに旧道入り口が見える。ここからは、下り坂で「熊野神社」があり入り口に「明治天皇御膳水碑」が置かれている。

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熊野神社の先に「間の宿・峠」の集落があり、旅籠「桔梗屋」は、昔の面影を残している。集落の出口に「峠之御頭頌徳」の碑が立っている。これは「安政3年、峠集落の牛方(牛を使って荷物を運ぶ人)が中津川の問屋と運賃の配分を巡って争い牛方が勝利し牛方頭の今井を讃えた碑で藤村の「夜明け前」にも書かれている話である。」

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急な坂を下ると「十返舎一九狂歌」碑が置かれており「渋皮のむけし女は見えねども栗のこわめしここの名物」と彫られている。先へ進み、さらに、10分ばかり「梨子ノ木坂」の石畳を下り切ると水車がある小屋につく。「峠の集落・水車塚の碑・名物栗こわめし」の説明版が立てられている。

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中山道の道標に従って、石段を上がっていくと「馬籠上陣屋跡」に着く。説明版によれば「ここらあたり一帯の地名を「陣場」という。天正十二年(1584)に徳川家康豊臣秀吉が戦った小牧山の決戦のとき、木曽路を防衛する豊臣方は、馬籠城を島崎重通に固めさせていた。家康方は兵七千をもって木曽に攻め入り、その一部は馬籠城を攻略すべくこの地に陣を敷いた。故にここを「陣場」と呼ぶようになった。」のだそうだ。

恵那山が綺麗だ。

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「お民、来て御覧、きょうは恵那山がよく見えますよ。妻籠の方はどうかねえ、木曽川の音が聞こえるかねえ」藤村・夜明け前の一説である。

さて、陣場跡から街道に戻り下り坂を行くと旧道は一度、県道に合流する。そして再び右手の旧道に入り「陣場坂」と呼ばれていた坂を上り切れば馬篭宿である。

第43宿 馬籠宿・本陣1、脇本陣1、旅籠18

(日本橋より83里6町47間 約326.7キロ・妻籠宿より2里 約7.8キロ)

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馬籠宿は木曽十一宿の最南端、美濃との国境にあり、江戸・板橋宿から数えて四十三番目の宿駅で、全国でも珍しい「坂に開けた宿場」であった。そのため、それ程大きな宿場町ではなかったが、島崎藤村の小説で一躍有名になり「妻籠宿」とともに江戸時代そのままの素晴らしい景観を保つ観光地となった。ここまで昔の雰囲気を残すことが出来たのは、藤村のおかげと言わざるを得ない。馬籠宿は、水利が悪くまた吹き上げる風が強いことからしばしば大火に見舞われ、とりわけ明治28年と大正4年の大火により江戸時代の民家はことごとく消失してしまったのだそうだ。現在の町並みは、明治になってからのものがほとんどだそうである。

さて、宿場の入り口手前に「高札場」が復元されており、入り口付近の「上但馬屋」の前に「中山道馬籠宿 京・五十二里半 江戸・八十里半」の碑が立っている。また、「中山道 陣場 高札場」の説明版も設置だれている。

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しばらく行くと、右手に「脇本陣資料館」があり、脇本陣の最高位の部屋である「上段の間」を当時の場所に復元されている。また、明治の大火で消失を免れた貴重な汁器や衣服など興味深い資料が数多く展示されている。

土産に芭蕉、一茶、蕪村、去来の俳句をかるたにした「俳聖かるた」なるものを購入。

脇本陣跡の横には「山口誓子の句碑」が置かれており「街道の坂に熟柿灯を点す」と彫られている。さらに「大黒屋」を挟んで「藤村記念館」=「馬籠宿本陣跡」が観光案内書の向かいにある。ここは、藤村の生家「馬籠本陣・島崎家」があった場所で、中には「夜明け前」の初版本などが展示されているそうだが、すでに閉館時間を過ぎているため中に入ることはできなかった。明日は、早立ちの予定なので入館はあきらめよう。

「大黒屋」は、藤村の初恋の人・おゆうさんの実家である。(「初恋」まだあげ初めし前髪の の彼女である。)ちなみに、おゆうさんは、妻籠脇本陣・林家に嫁いでいる。

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昔そのままの町並みを楽しみながら、今日の泊り「但馬屋」さんへ向かことにする。

「但馬屋」は外国人客で満員、夕食後はご主人が「木曽節」をお客に教えていた。

囲炉裏を囲んで彼らと雑談をしたが「馬籠宿」は外国人に非常に人気のスポットのようである。

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