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中山道旅日記 12 馬籠宿-落合宿-中津川宿-大井宿

23日目(3月26日(土))妻籠宿-落合宿-中津川宿-大井宿

「但馬屋」さんの朝食時間の関係で8時過ぎの出発となった。宿を出てしばらく行くと「車屋坂」の碑とともに「中山道・桝形」の説明版が立っている。桝形は、敵の攻撃を少しでも遅らせるために造られた直角に曲がる道であるが、江戸幕府の政権が安定した後は盗賊対策にも効果的であったと思われる。道路を挟み「中山道馬籠宿 江戸八十二里 京と十二里」の道標が立っており、常夜灯もある。このあたりが馬籠宿の出口であろう。

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歩を進めると、「左・中津新道」の道標がありすぐ先に「丸山の坂」の碑とともに「馬籠城跡」の説明版が立っている。説明版には「この辺りの地名を「丸山」とも「城山」ともいい、ここには今から500年ほど前の室町時代から「馬籠城(砦)」があったことが記されている。戦国動乱の時代、馬籠は武田信玄の領地となるが、武田氏滅亡後、織田信長の時代を経て、豊臣秀吉傘下の木曽義昌の治めるところとなる。天正12年(1584年)3月、豊臣秀吉徳川家康の両軍は小牧山に対峙した。秀吉は徳川軍の攻め上がることを防ぐため、木曽義昌木曽路防衛を命じた。義昌は兵300を送って、山村良勝に妻籠城を固めさせた。馬籠城は島崎重通(島崎藤村の祖)が警備した。天正12年9月、徳川家康は飯田の菅沼定利・高遠の保科正直・諏訪の諏訪頼忠らに木曽攻略を命じた。三軍は妻籠城を攻め、その一部は馬籠に攻め入り馬籠の北に陣地を構えた。馬籠を守っていた島崎重通はあまりの大軍襲来に恐れをなし、夜陰に紛れて木曽川沿いに妻籠城へ逃れた。このため馬籠の集落は戦火から免れることができた。今、三軍の陣地を敷いた馬籠集落の北の辺りを「陣場」という。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで天下を制した家康は、木曽を直轄領としていたが、元和元年(1615年)尾州徳川義直の領地となり、以後戦火のないまま馬籠城は姿を消した。」と書かれている。

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すぐ先、右手に庚申塔があり、さらに行くと左手に「島崎正樹」の碑が置かれている。正樹は、馬籠宿・本陣第十七代当主で、藤村は正樹の四男である。

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 その先は、下り坂が続き、やがて展望台があり「正岡子規の句碑」が置かれており「桑の実の木曽路出れば稲穂かな」と刻まれている。景色が素晴らしい。

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坂をさらに下っていくと「新茶屋」の集落があり、「芭蕉の句碑」も置かれている。

-送られつ送りつ果ては木曽の秋― その意味を調べてみると「もうこの旅寝もだいぶ日数を重ねたが、その間、ここで人を送りかしこで人々に送られ、というふうに離合送迎を繰り返し、いよいよ木曽の山中に行き暮れることになった。ことに時は万物の凋落の秋であり、思えば惜別の情ひとしお切なるものがある。」という意味だそうだが、そこまで読み解くのは難しい。「句碑」のすぐ先に「是より北 木曽路」の道標が置かれている。

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このあたりが、信濃の国と美濃の国の国境、この先は美濃路である。

中山道美濃路には、東の信濃国境から西の近江国境まで、「落合宿」「中津川宿」「大井宿」「大湫宿」「細久手宿」「御嵩宿」「伏見宿」「太田宿」「鵜沼宿」「加納宿」「河渡宿」「美江寺宿」「赤坂宿」「垂井宿」「関ケ原宿」「今須宿」の16宿がある。このうち落合宿から鵜沼宿までを「東美濃9宿」、加納宿から今須宿までを「西美濃7宿」といい、合わせて「美濃16宿」と呼ぶ。
さて、このあたりは「新茶屋」と呼ばれていた地域である。先の難所、「十曲峠(つづらおれとおげ)」を前にした立場茶屋がこの地に移ったための「新」なのだろうと勝手に解釈している。ここには一里塚(八十一番目・新茶屋の一里塚)があり「一里塚古跡」の碑が置かれており、説明版が添えられている。説明版には「新茶屋の一里塚・一里塚とは慶長九年(一六〇四)二月、徳川秀忠が諸街道を改修する際、日本橋を起点に東海道中山道甲州道中などの各街道の一里ごと(約三・九km)に築かせた塚のことです。 これは街道の左右に「方五間」(約九・一m四方)の塚を築き、榎か松を植え、旅人に距離を知らせ、また休息の場でもありました。 新茶屋の一里塚は天保~安政時代(一八三〇~一八六〇)には立木は右(江戸より京)に松、左は無しでしたが、今回、整備にあたり右に松、左に榎を復元しまた。」と記されている。

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先は、「十曲峠」と呼ばれる難所で石畳の道が残っている。石畳の入り口には、説明版が立てられており、木曽六十九次の名前も記されている。「落合の石畳」については、次のような説明がなされている。「この石畳は、中山道の宿場落合と馬籠との間にある十曲峠の坂道を歩き易いように石を敷き並べたものです。江戸時代の主な街道は一里塚をつくり並木を多く植え制度化して、その保護にはたえず注意をはらいましたが、石畳については何も考えた様子がありません。このため壊れたまま放置されることが多く、ここの石畳も一時は荒れるにまかせていましたが、地元の人たちの勤労奉仕で原形に復元しました。いま往時の姿をとどめているのはここと東海道の箱根のふたつにすぎず、貴重な史跡です。

中山道ができたのは寛永年間ですが、石畳が敷かれたのはいつ頃か不明です。文久元年皇女和宮の通行と明治天皇行幸のとき修理しましたが、このとき石畳に砂をまいて馬がすべらないようにしたことが記録に残っています。」

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石畳を出て十曲峠を下り切ると山中薬師として親しまれた医王寺」がある。

医王寺は、嘉永六年(一八五三)の建立で薬師如来行基(ぎょうぎ)の作と伝えられている。医王寺は、虫封じの薬師として、三河鳳来寺御嵩の蟹薬師とともに日本三薬師の1つとして広く信仰を集めている。また、この寺には、十返舎一九の『木曽街道続膝栗毛六編』にも登場する、狐のお告げによる切り傷薬の「狐膏薬」伝説が伝わっている。

山中薬師の狐膏薬伝説

「昔々、山中の医王寺にズイトンさんという和尚がすんでいた。庭掃除をしていたズイトン和尚は、狐が苦しそうにしているのを見つけ抱き上げてみると、その狐の足に大きなとげが刺さっていた。ズイトンさんがそれを抜いてやると、狐は嬉しそうに山の中へ帰っていった。ある晩のこと、狐が訪ねてきて助けてもらったお礼にとよく効く膏薬の作り方を教えてくれた。教わった通りに膏薬を作り、腰に貼ってみると和尚の腰痛はすっかり良くなった。この膏薬は特に傷に効くと評判になり、街道の名物となった。」という。「狐の恩返し」である。医王寺には、県下随一といわれる枝垂れ桜がある。

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さて、先へ進もう。落合川に架かる下桁橋の先に「御嵩道・飯田道」と彫られた道標があり、「白木番所跡・下馬庚申堂跡」の小さな碑が立っている。さらにしばらく行くと「高札場跡」の碑が立っている交差点に出る。「落合宿」の入り口である。

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第44宿 落合宿・本陣1、脇本陣1、旅籠14

(日本橋より84里12町8間 約331.2キロ・馬籠宿より1里五町21間約4.5キロ)

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宿場の入り口は、桝形(東の桝形)に曲がっていて上町・秋葉様の「常夜灯」が残っている。その先、左手に「脇本陣跡」の碑があり、右手が「本陣跡」である。「落合宿本陣は、江戸期から代々井口家が本陣、庄屋、問屋を務めた。化元年(1804)と文化12年(1815)の二度にわたって大火に見舞われ、本陣も焼失したが、3年後の文化15年(1818)に復興された。その際に当家を常宿としていた加賀前田家から門が寄進されたと井口家では伝えている。「上段の間」も、往時を偲ぶ形で保存されている。翌明治14年(1881)の改築の際に、現在のような土蔵造(一部2階建)、桟瓦葺屋根となった。」(中津川市・資料による)

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「本陣」の向かいには「落合宿助け合い大釜」と呼ばれる大釜が展示されており、以下のような説明版が添えられている。「文久元年(1861)、皇女和宮の大通行時には、四日間で述べ約二万六千人余が落合宿を通りました。当時、暖かいおもてなしをするため、各家の竃は引きも切らず焚きつづけられたといわれてきました。ここに展示してある「大釜」は「寒天」の原料(天草)を煮る時に使用されたもので、容量は1,000リットルを超えます(口径約1.5m)。・・・・」

旧道は、このあたりから下り坂になり坂の途中に「善昌寺」があり「門冠松」と呼ばれる松が街道にせり出している。名前の由来は、創建当時の山門をこの松が覆っていたからだそうだ。ここは、落合宿の西の「桝形」左折すると「右至中仙道中津川町一理」の道標が立っている。

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落合宿を出てしばらく行くと「秋葉神社」があり、その横に「落合五郎の館跡」の碑が立っている。落合五郎は、「中原兼遠」の三男で「木曽義仲」を育てた人物である。木曽義仲の「四天王」のひとりといわれ、美濃の勢力に備えてこの地に館を構えたとされている。

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先へ行くと、旧道は急な上り坂を上っていくことになるが息が切れるほどの厳しさであった。やがて「東・木曽東京方面 西・美濃京都方面」と彫られた「横手橋」を渡って15分ほど行くと「与板立場跡」の碑が立っている。当時は旅人で賑わったのだろう。

ここには「与板番所」が置かれており木曽檜の流出を監視していたのだそうだ。その先には、「弘法大師三十六番札所」の碑と「地蔵堂」がある。

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与板立場を過ぎると今度は急な下り坂である。坂を下っていくと左手に一里塚がある。「子野の一里塚」呼ばれる八十四番目の一里塚である。

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一里塚を過ぎると右手にあるのが「覚明神社」で、御嶽山で修行をした者が石を打ち鳴らすと鐘の音がしたという「一命石」が置かれている。さらにしばらく行くと庚申塔などが集められている「小野の地蔵堂石仏群」がある。地蔵堂の枝垂れ桜が見事である。

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先へ進み、地蔵堂川に架かる地蔵堂橋を渡ると国道に出会うが旧道は国道の地下道をくぐって行くことになる。しばらく行くと「中山道上金かいわい」と書かれた説明版があり、さらに5-6分行くと「尾州白木改め番所跡」の碑が立っている。木曽路を過ぎてこんなところまで来ても番所があったとは、木曽檜の監視の厳しさが伺える。

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番所跡を過ぎてしばらく行くと「旭が丘公園」の所に四阿がある。ありがたい!ホット一息である。右手には芭蕉の句碑が説明版とともに立っている。

-山路きて何やらゆかしすみれ草-(芭蕉句碑)

眼下には、中津川宿が広がっている芭蕉の句碑の先の階段を下り、歩道橋を渡れば中津川宿の入り口である。

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第45宿 中津川宿・本陣1、脇本陣1、旅籠29

(日本橋より85里12町8間 約335.14キロ・落合宿より1里 3.92キロ)

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中津川宿は江戸日本橋から数えて四十六番目の宿駅で、本陣、脇本陣、庄屋、二軒の問屋場が置かれていた。本陣は武家が常に軍旅にあるとの考えから、主人が休泊するところを本陣といい、家臣が宿泊する場を下宿(したやど)といった。本陣が置かれていたところは、中津川宿でも最も高い場所にあり、水害などの災害にあうことはなかった。大名などが休泊する場合は、常に敵の攻撃に対する防御や退却方法が考えられており、町々には自身番も置かれていた。桝形はこのために人為的に造られたもので、本陣や脇本陣のある宿場の中心部が直線的に見通すことができないように造られていた。横町の角を曲がり、下町へ通じる角を曲がるという鉤形の道の造りを桝形という。(中津川宿と桝形 説明版より)

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宿場に入るとすぐのところに「高札場跡」や「常夜灯」などが残っている。

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高札場跡から10分弱の所に創業・元禄年間と伝わる「すや」という栗きんとんで有名な店がある。ここの栗菓子は絶大な人気があり遠くから多くの人がわざわざ買いに来たのだそうだ。ところで、なぜ栗菓子の屋号が「すや」なのか調べてみたところ初代が「酢」の醸造をしていたとのことである。

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商店街になっている旧道を行くと「中山道 中津川宿」「往来庭」の大きな札がかかっている小路がある。ベンチもあるのでここで一休みとする。

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すぐ先に、「本町」の立て札、「本陣跡」の碑が説明版とともに立っている。

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5分ほど先には、脇本陣跡、庄屋跡が並んでいる。

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そのすぐ先が桝形になっており、古い家が並んでいる。

右手に「川上屋(菓子屋)」、「十八屋(間家)」、左手に「天満屋」、「卯建のある家」である。卯建とは「卯建は隣家からの類焼を避けるために設けられた防火壁で、隣家との境に高い壁をつくり、その上端に小屋根を置いた。「うだつがあがらない」という言葉は、裕福な家でなければ卯建を上げることができなかったことから転じたもので、富裕者のシンボルであった。・・・・」のだそうだ。

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ところで、午後1時近くになったので昼食といきたいところだがコンビニも食堂らしきものもない。惣菜屋さんに入り、おにぎりはないのかと聞いたところわざわざにぎってくれるというので食料(おにぎりと煮物)を確保することが出来た。

さて、桝形を過ぎて下町を通り抜け、しばらく行くと中津川に架かる中津川橋を渡ることになる。このあたりは、もう宿外れなのだろう。

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緩やかな上り坂を上ると「津島神社」道標、常夜灯があり、そこを左折し「馬頭観音」などが置かれている広い道路を横切ると駒場村と呼ばれる集落があり、「駒場村の高札場跡」の碑が建てられている。すぐ先には「東山道坂本駅 右阿智駅 左大井駅」の新しい道標が置かれている。「中山道駒場村 右大井宿 左中津川宿」の道標も置かれている。

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正面には「小手ノ木坂」の碑があり、「ここから上宿の一里塚にいたる坂道は「こでの木坂」といい、市内の中山道の中でも急峻な道です。・・・・・」と書かれた説明版がある。階段を上ると「右中山道 左苗木道」の道標が置かれている。苗木道は、遠山一万三千石の城へ行く道だそうだ。「こでの木坂 左ひだみち」と彫られた道標が並んでいる。

さらに、身体が一つで頭が二つの珍しい道祖神があり、「双頭一身道祖神」と呼ばれている。

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すぐ先が、「上宿の一里塚」(八十五番目)である。どうやら階段を上って近道をしたようだ。ここは、明治天皇が休息をしたところで記念の碑も立っている。

一里塚跡を過ぎると、国道に出会うが左手前に「小石塚の立場跡」の碑が立っている。当時は、このあたりも立場で賑わっていたのだろう。

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しばらくすると「六地蔵石憧」があり、以下のような説明版が添えられている。

「寺院や墓地の入口に置かれる石佛がこの六地蔵であり、ここでは南へ百米程参道を入った処に大林寺(現中洗井)が寛永十年(1632)に創立しています。この石幢は大林寺の入口として寺の創立二四年後、明暦三年(1657)に造立されています。中山道から寺の分岐点に立てられたのは、その入口としての役割と共に、当時しばしば見舞われていた水害を佛にすがって避けることと、極楽往生を願うものでした。その上中山道を行き交う旅人が道中の安全を祈り、心の安らぎを得ていく為でもありました。・・・・・」その先は、緩やかな下り坂でやがて「千旦林の高札場跡」が残っている。高札場を後に淡々と歩いていくとやがて「三ツ家の一里塚跡」の碑が見える。

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先に進み、広い道路を渡ると「坂本立場跡」の碑が立っている。この立場は、鎌倉時代から栄えていたのだそうだ。坂本坂を下っていくと左手に石仏が集められている。やがて「茄子川村の高札場跡」の碑が立っており、先に「尾州白木改番所跡」がある。説明版には「この番所がいつ設けられたか詳しい記録はないが、尾張藩が享保16年(1731年)茄子川下新井に「川並番所」を設置した記録があるので、これに対応して設けられたものであると思われる。寛政元年(1789年)の「中山道筋道之記」には「番所錦織役所支配」とある。尾張藩の直轄地であった木曽山から採伐した材木の輸送は、重量材(丸太類)は木曽川を利用して流送し、軽量材の榑木(くれ)、土居等白木類は牛、馬による駄送の方法がとられていた。木曽川筋には各所に「川番所」が、中山道には「白木改番所」が設けられ、抜け荷の監視と量目の点検など厳しい取締りが行われていた。
これ等の施設は明治4年(1871年)廃藩置県によって廃止された。」とある。

ここでも、尾州藩の木曽五木の抜け荷取り締まりの厳しさをうかがい知ることが出来る。

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番所跡からしばらく歩くと、街道沿いに「明治天皇茄子川御小休所御膳水」の碑が立てられている古民家がある。ここは、「茶屋本陣」でもあった「篠原家」で和宮明治天皇が休憩した部屋や表門などは当時のまま保存されているとのことである。また、遠州秋葉山道」の入り口でもあり「秋葉大権現」と彫られた常夜灯も残っている。

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茶屋本陣跡を過ぎて10分ほど行くと、「中仙道」の碑とともに「茄子川焼き」の説明版が立っている。要約すれば「茄子川焼は天正六年(1587)の頃、瀬戸の加藤吉右衛門が諏訪の前窯場に来て、施釉(ゆう)陶器を焼いたのがはじめで、天保三年(1832)広久手の丹羽九右衛門が陶器作りの改良を図り、磁器製造を起こした。茄子川焼が発展したのは弘化二年(1845)篠原利平治が越中富山県)から来た水野粂造と共同で五室の連房式登り窯を築いてからで、人気があったのは陶土になまこ釉をかけて焼成した、独特の風雅な味をつくった奥州の相馬焼に似た「茄子川相馬」であった。」とのこと。その先左手には、「中山道」碑が置かれており、茄子川村と大井宿の境である。

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馬頭観音」、「広久手坂」や「岡瀬坂」の碑も見かけられる。

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先の交差点をこえたところに「永代燈」と「岡瀬沢の永代燈とあきば道」の説明版が立っている。当時は、中山道から秋葉山への道筋でもあり、牛宿などもあってかなり賑わっていたのではないかと想像できる。説明版には、「岡瀬澤の永代燈とあきば道(牛道)・この永代燈は中山道と野道の分岐点で岡瀬沢大組が安心、安全を祈って建立されました。この野道は岡瀬澤から東野へ向かう古い道で途中の坂には「妻神(さいのかみ)」と刻まれた大きな道祖神もあり、岩村から遠州秋葉山(現静岡県秋葉神社)に参詣する道筋にもなり、灯篭には「ひだりあきばみち」と刻まれています。また東野、岩村の方からは村人の普通一般の物資輸送の道であり、これを「うしみち」(中山道へ向かう道のこと)とよんでいました。この「うし」関係の人が休む「うしやど」が岡瀬澤にありました。・・」と書かれている。その先には「中山道 岡瀬澤」と彫られた碑が置かれている。

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濁川に架かる筋違橋を渡ったところに「岡瀬沢と濁川」の説明版がいる。説明版には、

「わたしたちの岡瀬沢は恵那市大井町の東部一帯をしめる農業と住宅の多い地域です。この岡瀬沢が一つの集落として成立したのは江戸時代のはじめ頃といわれています。

それ以来、岡瀬沢を東西につらぬく中山道と、保古山山系から流下する濁川によって、生活と生産を維持し、発展させていました。・・・・」と書かれている。

 

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先へ行くと、庚申塔が置かれていてすぐに公園があり「広重大井宿」のモニュメントや「初蛙広重の絵の峠かな」と彫られた歌碑が置かれている。

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公園で一休みし、街道に戻ると「中山道 犬塚」と彫られた小さな碑があり、「馬坂と犬塚」の説明版が添えられている。「むかしの信濃国の桔梗が原に八重羽のきじという化け鳥がいた。口ばしは槍のようにとがり、羽根は刃のように鋭く、羽風にあたると災いが起きるといい、里人や旅人のうちで命をうばわれる人が多かった。困った鎌倉幕府は根津甚平に化け鳥退治を命じた。甚平は馬に乗り、犬と鷹を連れ、多くの家臣と背子をひきつれてきじを追った。きじは羽音高く飛び立って西の空に姿を消したが、数日ののちにこの坂に追いつめた。しかし、馬はここで倒れ、犬と鷹はなおも追い続けたが、犬は日吉(現瑞浪市)で力尽きてしまった。そこで里人はこの坂に馬と犬のなきがらを葬ったとう。」(説明版より)先へ行くと、「根津神社」の道標がある。さらに行くと一里塚が見える。これは、「関戸の一里塚」と呼ばれ、「江戸日本橋より八十七里」と刻まれている。

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一里塚を後に先へ行くと、県道401号に合流し、すぐに「長石塔」と呼ばれる石碑がある。やがて「菅原神社」があり県道と別れて階段を下っていくと「中山道大井村内の図」の説明版があり、「馬頭観音」、「寺坂」と彫られた小さな碑とともに「中山道大井宿神町石仏群」が並んでいる。先の電車の線路を越え、橋を渡れば大井宿である。

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今回は、ここまで。JR恵那駅から帰宅。