中山道旅日記 14 大井宿-大湫宿-細久手宿(大黒屋)

25日目(4月18日(月)) 大井宿-大湫宿細久手宿(大黒屋)

今日は、細久手宿まで5里、約20キロ弱の行程ということで午前7時30分の出発とする。旧道に戻り、商店街を行くと左手に「中野村庄屋の家(本酒屋)」がある。説明版が添えられており、以下のように記されている。「中野村庄屋の家で、屋号を本酒屋といいました。文久元年(1861)、皇女和宮が降嫁し、中山道を通って江戸へ下ることになりました。その準備に中山道の各宿場はおおわらわでした。当時、大湫宿助郷村であった野井村が、和宮が通行するということで岩村藩代官より強制的に賄役(まかないやく)につかせられました。このことを不満に感じた野井村百姓代表熊崎新三郎は、和宮の通行が終わったあと、中野村庄屋宅に滞在していた岩村藩代官吉田泰蔵に斬りつけました。これは後に事件となりましたが、代官による強制的な賄役の負担が野井村の今後の慣例となることをおそれた野井村は、岩村藩相手に裁判に訴えました。最終的には野井村の勝訴となり代官は罷免され、野井村に金25両が下付されました。」

その横に「中野観音堂」があり傍らに中野村高札場跡の碑が立っている。

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永田川に架かる長嶋橋を渡ると国道19号線に出会う。この信号を右折し、国道をしばらく行くと左手に旧道が復活する。旧道に入ると「西行硯水公園」がある。「文治二年(1186)西行は二度目の奥州の旅に伊勢を出発した。鎌倉で源頼朝に会い、平泉で一年滞在した後、木曽路を経てこの地を訪れ、三年暮らしたといわれる。歌人である西行は、多くの歌を詠み、こんこんとわき出るこの泉の水を汲んで、墨をすったと伝えられている。

道の辺に清水ながるる柳かげしばしとてこそ 立ちどまりつれ   西行

 陽炎やここにもふじ見の筇(つえ)の跡   奚花坊

奚花坊(本巣郡)の句は、天保十四年(1843)馬籠新茶屋の芭蕉句碑建立句会に来訪したときに、ここで詠み、地元の弟子に与えたものである。」(恵那市教育委員会による)

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西行硯水公園を後に先へ行くと「西行塚」「中山道・中野村」の碑があり、JRの線路を越えて旧道を行くと「是より西十三峠」の碑が立っていてここからは厳しい峠道である。当時は「十三峠におまけが七つ」といわれ実際には二十の峠があるといわれている。まずは「西行坂①」と呼ばれる坂から十三峠は、始まる。

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西行坂を行くとすぐの細い道を上がれば「伝西行塚」がある。西行は、この大井宿付近で亡くなったといわれている。塚の上の五輪塔室町時代末期のものだそうで、西行法師の供養のために造られたものだそうだ。小高い丘の上は、恵那山の山並みや恵那の市街地が見渡せる展望台になっている。ここには、芭蕉西行の句碑が置かれている。

― 西行のわらじもかかれ松の露 - (芭蕉

- 待たれつる入相のかねの音す也あすもやあらば きかむとす覧 - 西行(新古今和歌集

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街道に戻ろう。石畳の道を上り切ると「西行の森」と呼ばれる公園があり、ここには一里塚が残っている。「槙ヶ根の一里塚」(江戸から八十八番目)である。

「一里塚は、一里(約四キロ)ごとに街道の両側に土を盛り、その上に榎を植えて旅人たちに里程を知らせた塚である。戦国時代の末(十六世紀後半)には、山陽道の備中の河辺から北九州肥前名護屋のあいだに築かれていたといわれるが、一般的には、慶長九年(1604)、徳川幕府が江戸日本橋を起点として、東海道中山道などの主要な街道に設けさせ制度化したものをいっている。しかし、百八・九十年後の天明年間(1780年代)のころには、姿を消したものがかなりあったという記録が残っている。県内の中山道には、全部で三十三か所あったが、現在はそのほとんどがとりこわされ、現存しているのは、当市内のこの槙ケ根一里塚と紅坂一里塚のほかに瑞浪市内の権現山一里塚など五カ所の合わせて七カ所にすぎない。また、全国的にも現存する数はきわめてすくなく、一里塚は江戸時代の街道の面影を今に残す貴重な文化財である。

この槙ケ根一里塚は、北の塚が高さ約3.5m、幅は9.9m、南塚は北塚より少し大きく高さは3.9m、幅は10.1mある。塚の頂上に植えられていたといわれる榎は両塚とも残っていない。近年の土地開発が進む中で、この附近の中山道は開発から免れており、この槙ケ根一里塚のほかに西行塚や西行坂なども原形をとどめ往時の中山道を偲ぶことができる。」(恵那市教育委員・会説明版)

西行の森」公園は桜百選にも選ばれており桜の名所である。花の盛りの頃は、多くの人出で賑わうのだろう。

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やがて「槙ヶ根坂②」と呼ばれる緩やかな上り坂を行くと車道に出会うがすぐに再び旧道に入っていくことになる。旧道に入ると「茶屋槙本屋跡」「茶屋水戸屋跡」「茶屋松本屋跡」の小さな杭が立っている。このあたりは、槙ヶ根と呼ばれたところで「槙ヶ根立場」や「伊勢神宮遥拝所」もあり、当時はずいぶん賑わっていたのだろう。

「槙ヶ根立場の茶屋」「伊勢神宮遥拝所」の説明版がある。

槙ヶ根立場の茶屋(説明版)

「江戸時代の末頃ここには榎本屋・水戸屋・東国屋・中野屋・伊勢屋などの屋号を持つ茶屋が九戸あった。そして店先にわらじを掛け餅を並べ、多くの人がひと休みして、また旅立って行ったと思われる(旅人の宿泊は宿場の旅籠屋を利用し、茶屋の宿泊は禁止されていた)。これらの茶屋は、明治の初め宿駅制度に変わり、脇道ができ、特に明治三十五年大井駅が開設され、やがて中央線の全線が開通して、中山道を利用する人が少なくなるにつれて、山麓の町や村へ移転した。そして今ではこの地には茶屋の跡や古井戸や墓地などを残すのみとなった。」

伊勢神宮遥拝所(説明版)

「京都から江戸へ旅をした秋里離島(あきざとりとう)は、その様子を文化二年(1805)に「木曽名所図会」という本に書いた。そしてその挿絵に槙が根追分を描き、追分灯籠の横に注連縄を張った小社を書いている。ここにある礎石は絵にある小社遺構であろう。伊勢神宮参拝の人はここで中山道と別れて下街道を西へ行ったが、伊勢までの旅費や時間のない人は、ここで手を合わせ遥拝したという。」

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ここは、名古屋道との追分にもなっていて「右西京大坂・左伊勢名古屋道」と刻まれた道標が立っている。「下街道」と書かれた説明版も立っている。

下街道(説明版)

「中仙道を上街道といい、ここで分かれて下る道を下街道と呼んだ。下街道は、竹折・釜戸から高山(現土岐市)・池田(現多治見市)を経て名古屋へ行く道である。

この道は途中に内津峠の山道があるが、土岐川沿いの平坦地を進み、付近には人家も多い。そのうえ名古屋までの距離は上街道より四里半(約十八キロ)近かった。そのため下街道は一般旅行者に加えて商人や伊勢神宮の参拝者も多く大変にぎわった。しかし幕府は中仙道の宿場保護のため下街道の商人の通行を禁止し、尾張藩も厳しく取り締まったが徹底することができず、幾度も訴訟裁定を繰り返した。」

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そこから先は、下り坂になっており、「祝坂③」の杭が立っている。少し行くと傍らには馬頭観音があり、すぐ先の階段の上に「姫御殿跡」の碑が立っている。説明版には以下のように書かれている。

「ここを祝峠といい、周囲の展望がよいので、中仙道を通る旅人にとってはかっこうの休憩地だった。この近くに松の大木があり、松かさ(松の子)が多くつき、子持松といった。この子持松の枝越しに馬籠(孫目)が見えるため、子と孫が続いて縁起がよい場所といわれていた。 そのためお姫様の通行のときなどに、ここに仮御殿を建てて休憩されることが多かった。文化元年(1804)十二代将軍家慶のもとへ下向した楽宮(さぎのみや)のご通行のときは、六帖と八帖二間の仮御殿を建てた。文久元年(1861)十四代将軍徳川家茂のもとへ下向した和宮のご一向は、岩村藩の御用蔵から運んだ桧の無節の柱や板と白綾の畳を敷いた御殿を建てて御休みになった。地元の人たちは、この御殿は漆塗りであったといい伝え、ここを姫御殿と呼んでいる。」

すぐ横に「祝峠」の杭がある。

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五分ほど下ると「首なし地蔵」と呼ばれるお地蔵さまが祀られており、次のような伝説が残っている。「昔、二人の中間(ちゅうげん)が、ここを通りかかった。夏のことで汗だくであった。「少し休もうか」と松の木陰で休んでいるうちにいつの間にか二人は眠ってしまった。しばらくして一人が目覚めてみると、もう一人は首を切られて死んでいた。びっくりしてあたりを見回したがそれらしき犯人は見あたらなかった。怒った中間は「黙って見ているとはなにごとだ!」と腰の刀で地蔵様の首を切り落としてしまった。

 それ以来何人かの人が首をつけようとしたが、どうしてもつかなかったという。」(説明版より抜粋)。

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その先は急な下り坂で「中山道・乱れ坂④」と刻まれた石碑が置かれている。江戸側からは下りだが、京側からの旅人はこの坂を上ってくるのだからどれだけ大変だったか想像に難くない。坂の途中に「下座切場跡」の杭が立っているが、下座切場とは、ここを通行する偉い役人を地元の役人が袴を着て土下座をして迎え入れたのだという。その先には、「乱れ橋」と呼ばれる橋があり、「乱れ橋」と書かれた杭と「乱れ坂と乱れ橋」の説明版が立っている。説明版には「大井宿から大湫宿までの三里半(約14Km)には、西行坂や権現坂など数多くの坂道があり、全体をまとめて十三峠という。乱れ坂も十三峠の一つで、坂が大変急で、大名行列が乱れ、旅人の息が乱れ、女の人の裾も乱れるほどであったために「乱れ坂」と呼ばれるようになったという。このほかに「みたらし坂」とか「祝い上げ坂」ともいう。坂のふもとの川を昔は乱れ川といい、石も流れるほどの急流であったという。ここに飛脚たちが出資して宝暦年間に長さ7.2m、幅2.2mの土橋を架けた。この橋は「乱れ橋」あるいは「祝橋」といい、荷物を積んだ馬(荷駄)1頭につき2文ずつを徴収する有料橋のときもあったという。」と書かれている。

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乱れ橋から5分ほど行くと「うつき原坂(お継原坂)⑤」の杭が立っておりすぐ先に「四つ谷無料休憩所」がある。一休みとしよう。このあたりは、「四つ谷立場」があったところで当時の旅人も一息入れたのだろう。

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さて、休憩所から10分ばかり行くと「かくれ神坂⑥」の杭がありすぐ先に「妻の神」が祀られている。調べてみると、夫婦和合、子宝」の神だそうだ。

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上り坂を上っていくと「中山道・平六坂⑦」と彫られた石碑があり「平六茶屋跡」の杭が立っている。

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平六茶屋跡あたりで上り坂は終わり田園風景が広がる農道を10分ばかり行くと、一里塚が見えてくる。江戸から八十九番目の「紅坂一里塚」である。

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一里塚の先は、石畳になっていてすぐに「うばヶ出茶屋跡」の杭、「ぼたん岩」、「中山道・紅坂⑧」の石碑が置かれている。ほたん岩は、上から見ると大きな牡丹の花びらのように見えるのでそう呼ばれているのだそうだ。

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石畳の下り坂を行くと、右手に「ばが茶屋跡」左手に「馬茶屋跡」杭が立っていて、アスファルトになった下り坂を下っていくと「中山道・黒すくも坂⑨」の石碑が置かれている。

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先へ行くと左手に「佐倉宗五郎碑」、奥に佐倉宗五郎を祀った小さな神社(佐倉宗五郎大明神)や二十二夜塔がある。佐倉宗五郎とはどういう人物か調べてみると「下総印旛郡公津村(現千葉成田市)の名主で佐倉藩領主堀田氏の重税に苦しむ農民のため、将軍への直訴をおこなって処刑されたという物語が歌舞伎などで上演され広く知られるようになった」とのことであるが、何故ゆえにここにその碑が置かれているかというと、「元禄年間(1700年頃)、岩村藩で農民騒動が起きそうになった時、竹折村庄・屋田中与一郎が将軍に直訴して農民を救ったが、本人は打ち首になった。この話が佐倉宗五郎事件に似ていることからこの名前で祀ったのではないかと云われる。」

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その向かいに「三社灯篭」があり横の石段の上が「神明神社」で芭蕉の句碑が置かれている。

- 山路来て何やらゆかし寿美連草 - 芭蕉

この句は、芭蕉が大津から京へ至る逢坂山越えの道を歩いている時に詠んだ句で、「のざらし紀行」の中に収められているが、この句を刻んだ句碑が中山道の数か所に置かれている。ここに置かれているわけは「「美濃派」の俳人たちが、松尾芭蕉を「祖師」と称して尊崇し、句碑を建立し、俳聖を偲ぶ縁とした。」のだそうだ。

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芭蕉句碑を過ぎると「よごれ茶屋跡」の杭を右手に見て、永久橋を渡ると県道418号にでる。そのすぐ先を右手に入ると再び旧道で高札場跡、庚申塚があり「恵那市恵那市教育委員会の高札場の説明版に「定め書」の内容が記されている。

 

  定

一、きりしたん宗門ハ年御制禁たり、自然不審成もの有之ハ申出へし、御褒美として、

   えてれんの訴人    銀五百枚

   いるまんの訴人    銀三百枚

   立帰者の訴人     同   断

   同宿・宗門の訴人   銀百 枚

 右之通下さるへし、たとひ同宿宗門の内たりといふとも、申出る品により銀五百枚下さるへし、かくし置他所あらハるゝにおゐては、其所之名主并五人組迄一類共に可罪科者也、

  正徳元年五月日

     奉行

 

     定

一、火を付ける者をしらハ早々申出へし、若隠置におゐてハ其罪重かるへし、たとひ同類たりといふとも、申出るにおゐてハ其罪ゆるされ、急度御褒美下さるへき事、

一、火を付ける者を見付は、これをとらへ早々申出へし、見のかしにすへからさる事、

一、あやしき者あらハせんさくをとけて、早々御代官・地頭へ召連来るへき事、

一、火事の節、鑓・長刀・刀・脇差等ぬき身にすへからさる事、

一、火事場其外いつれの所にても、金銀諸色ひろひとらは御代官・地頭へ持参すへし、若隠し置他所はらハるゝにおゐてハ、其罪重かるへし、たとひ同類たりといふとも、申出る輩は其罪をゆるされ、御褒美下さるへき事、

 右條々可守之、若於相背む可罪科者也、

  正徳元年五月日

     奉行

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このあたりは、「深萱立場」と呼ばれていた処で、「深萱立場」説明書きには、「深萱立場・立場とは、宿と宿の間にある旅人の休息所で、「駕籠かき人足が杖を立てて、駕籠をのせかつぐ場所」と言われている。深萱立場は大井宿と大湫宿の中間にあり、茶屋や立場本陣、馬茶屋など10余戸の人家があって、旅人にお茶を出したり、餅や栗おこわといった土地の名物を食べさせたりしていた。立場本陣は、大名など身分の高い人の休憩所で、門や式台の付いた立派な建物である。馬茶屋は馬を休ませる茶屋で、軒を深くして、雨や日光が馬に当たらないよう工夫されていた。(恵那市教育委員会)」

その先、右手に「山形屋」と刻まれた石碑が置かれており、さらにその先には東の「下座切場」から西の「ばばが茶屋跡」までの道案内(絵地図)の案内板が立てられている。

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その先の「西坂」と呼ばれる厳しい上り坂を上っていくと「中山道」の碑とともに「馬茶屋跡」お杭、「西坂⑩」の杭が立っている。このあたりから道は石畳になっていて5分歩だ先に「みちじろ坂⑪」、「みちじろ峠」、「ばばが茶屋跡」「茶屋坂⑫」などの杭が立っている。

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このあたりから下り坂になり、坂を下り切ると「中山道」の大きな碑が右手に置かれている。

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先へ行くと、道は二手に分かれていて右手の旧道は上り坂になっている。やがて坂を上り切ると「大久後の向茶屋跡」の白い碑が立っている。標識が小さな杭から白い碑に代わっているのは、恵那市から瑞浪市入って管理する自治体が違うからであろう。茶屋跡を過ぎると「新道坂⑬」の碑があり、さらに5分ほど先に「灰くべ餅茶屋跡」の碑が立っている。

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先へ行くとまだ大きな桜の木がまだ花を残していた。桜の木の下には、ベンチとテーブルが置かれているのでここで昼食をとることにしよう。

ここで一句。

- うす曇り花吹雪舞う峠道 - 

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さくらの花が舞い散るベンチに座り、前に広がるのどかな風景を楽しみながら、握り飯をほおばった後は、再び街道歩きである。

「大久後の観音堂と弘法様」を右手に見て厳しい「権現坂⑭」の先に「鞍骨坂⑮」の上りが続く。

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その先には、「灰焼立場」で「灰焼立場跡」の説明版が立っている。

「立場というのは、馬のつなぎ場を備えた休憩所のことです。小さな広場と湧水池があり、旅人や馬の喉を潤しました。太田南畝(蜀山人)が享和二年(1802)に著した『壬戌紀行』に「俗に炭焼の五郎坂といふを下れば炭焼の立場あり左に近くみゆる山は権現の山なり。」という記述があります。十三峠の中では特に旅人に親しまれた立場でした。(瑞浪市)」

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しばらく歩いていくと「吾郎坂⑯」の碑「樫ノ木坂⑰」の石碑が置かれている。石碑には「十三峠の内中山道樫ノ木坂・一里塚を過ぎ、樫ノ木坂を下りて俗に灰焼の吾郎坂と云うを下れば灰焼の立場あり。左に近く見ゆる山は権現のやまなり。しばし立場に輿立てて憩う。 大田南畝(おおたなんぽ) 壬戌紀行(じんじゅつきこう)」と彫られている。(大田南畝は、大坂から江戸へ向かっていたので、向きの表現は逆になる。)大田南畝は、江戸時代の文人狂歌師である。唐衣橘洲(からころもきっしゅう)、朱楽菅江(あけらかんこう)と共に狂歌三大家と言われる。南畝は号で別号を蜀山人(しょくさんじん)という。狂名は四方赤良(よもの あから)、「壬戌紀行」は、大坂から木曽路を経て江戸に着くまでの紀行である。

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坂の途中に一里塚が残っている。「権現山の一里塚」で「樫ノ木坂の一里塚」ともよばれ、江戸から九十番目の一里塚である。

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一里塚を後にすると道は再び「巡礼水の坂⑱」と呼ばれる厳しい上り坂になる。ここには「巡礼水と馬頭様」の説明版が立っている。

大湫宿と大井宿の三里半(約十三、五km)は「十三峠におまけが七つ」と呼ばれ、二十余りの山坂道をいい、中山道の中でも難所の一つでした。十三峠は、大湫宿東端の寺坂から、巡礼水の坂、権現山の一里塚、観音坂を過ぎて恵那市へと続きます。

 この地には、お助け清水・巡礼水と呼ばれる小さな池の跡が残り、その上段には、宝暦七年(1757)銘の馬頭観音が祀られています。その昔、旅の母娘の巡礼がここで病気になったが、念仏によって目の前の岩から水が湧き出し、命が助かったと言い伝えられています。 瑞浪市

さらに、「中山道 巡礼水・坂を下りゆくに 左の方の石より水流れ出るを巡礼水という

 常には さのみ水も出ねど 八月一日には必ず出するという

 むかし巡礼の者 此の日此所にて なやみ伏しけるが この水飲みて命助かりしより今もかかることありといえり 太田南畝 壬戌紀行」と彫られた石碑が置かれている。

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巡礼水を後に先へ進むと下り坂となり「ぴあいと坂⑲」の碑が立っており、さらに「曽根松坂⑳」の石碑が置かれている。

石碑には、「少し下りて また芝生の松原を登りゆくこと四 五町 あやしき石所々にそば立ちて赤土多し 曽根松の坂という(壬戌紀行より)」と彫られている。

 

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曽根松坂の先に「阿波屋の茶屋跡」の碑と「三十三観音」の祠があり、説明版には以下のように書かれている。

「十三峠の三十三所観音石窟・大湫宿と大井宿の三里半(約十三、五km)は険しい山坂の連続する「十三峠」と呼ばれる尾根道で、中山道を行き交う人馬が難渋した場所でした。ここには、道中安全を祈って天保十一年(1840)に建立された観音石窟があり、三十三体の馬頭観音は、大湫宿内の馬持ち連中と助郷に関わる近隣の村々からの寄進です。なお、石窟前の石柱には、大手運送業者の定飛脚嶋屋・京屋・甲州屋を始め、奥州・越後の飛脚才領、松本や伊那の中馬(ちゅうま)連中が出資者に名を連ね、中山道の往時を偲ばせる貴重な史跡です。 瑞浪市

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三十三観音」の祠から先は下り坂で、坂を下ったところにお地蔵さまが祀られているところから「地蔵坂(観音坂)㉑」と呼ばれているそうである。このお地蔵さまの後ろからは清水が湧き出しているところから「尻冷やし地蔵」と呼ばれている。石碑が置かれていて「中山道尻冷やしの地蔵尊・地蔵坂という坂を上れば右に大きな木ありて地蔵菩薩たたせ給う」と刻まれている。また説明版があり「十三峠尻冷やしの地蔵尊・昔の旅人にとって道中の飲み水は大切でした。山坂の多い十三峠では特に大切であり、ここの清水は大変貴重とされました。この地蔵尊は、そんな清水に感謝して建てられてものですが、ちょうど清水でお尻を冷やしているように見えることからこんな愛称で親しまれてきました。」と書かれている。

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尻冷やし地蔵尊の先の広い道路を横切り右手の厳しい坂が「しゃれこうべ坂㉒」で坂の途中に「中山道しゃれこうべ坂(八丁坂)」の石碑が置かれており「八丁坂の観音碑」が立っている。石碑には「曲がりまがりて登り下り猶三、四町も 下る坂の名を問えばしゃれこ坂という右の方に南無観世音菩薩という石を建つ向こうに遠く見ゆる山は かの横長岳(恵那山)なり 太田南畝 壬戌紀行」と刻まれている。

そこから5分ばかりで「山之神坂㉓」さらに「童子ヶ根」の碑がある。

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童子ヶ根から数分の所に「寺坂㉔」の石仏群を見ることが出来る。

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石仏群から数分の所に「これよりいわゆる十三峠とやらんを越えゆべきに 飢えなばあしかりなんとあやしきやどりに入りて昼の餉す 庭に石桶ぐさの盛りなるにも わがやどの花いかがならんとしのばし 道の右に山之神の社あり例の輿より下りて歩む輿かくものに委しを問いて十三峠の名をもしるさまほしく 思うにただに十三のみにはあらず 詳しくも数えきこえなば 二十ばかりもあらんと 輿かく者いうはじめてのぼる坂を寺坂といい 次を山神坂という 太田南畝 壬戌紀行より」と刻まれた「是より東 十三峠」の碑、「左 江戸へ九十里半 大湫宿 右 京へ四十三里半」の碑が置かれている。

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長く厳しい峠道であった。いくつもの立場、多数の茶屋がその厳しさを物語っている。立場や茶屋は、当時の旅人の心を慰めたのであろう。尚、表示を頼りにカウントした峠は24であったが一つの坂の呼び名が複数あったり坂の下と上の呼び名が違ったり、また気づかなかったものもあるかもしれないので24の数は、極めて不正確である。

さて、この先は、いよいよ「大湫(おおくて)宿」である。

 

第47宿 大湫(おおくて)宿・本陣1、脇本陣1、旅籠30

(日本橋より91里12町8間 約358.7キロ・大井宿より3里18町 13.75キロ)

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中山道大湫宿」の碑が見事な枝垂れ桜の下に置かれている。碑には「中山道の宿駅にて京の方細久手宿より一里半余江戸の方大井宿より三里半の馬継ぎなり 尾州御領 名古屋まで十六里あり 十三嶺は宿の東方大井宿との間 琵琶坂は細久手に至る大道の坂を云う 西に伊吹山も見えて好景なり 新撰美濃志」と刻まれている。

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江戸時代に入り、中山道が整備された当初は東山道を改良したものが多く大井宿から御嵩宿の間(八里)に宿場はなく旅人はとても難渋していた。従ってその途中に宿場を作る必要があり「大湫宿」と隣の「長久手宿」が設けられたのだそうだ。

さて、宿場に入るとすぐに「大湫公民館」があるがその裏の小学校の校庭が「大湫・本陣」で、街道添いに本陣の説明版が立てられている。

大湫宿本陣跡

大湫宿本陣は現小学々庭にあり間口二十二間(約四十メートル)奥ゆき十五間(約二十七メートル)部屋数二十三畳数二百十二畳、別棟添屋という広大な建物で公卿や大名、高級武士たちのための宿舎でした。

 また 此ノ宮 (享保十六年・1731年)

    眞ノ宮 (寛保元年・1741年)

    五十ノ宮 (寛延二年・1749年)

    登美ノ宮 (天保二年・1831年)

    有 姫 ( 同 年       )

    鋭 姫 (安政五年・1858年)

などの宮姫のほか皇女和ノ宮が十四代将軍徳川家茂へ御降家のため(文久元年・1,861)十月二十八日その道中の一夜をすごされたのもこの本陣です。」(説明版による)

説明版の矢印に沿って坂を上がると「大湫小学校」があり、校庭には和宮の歌碑が置かれている。

「皇女和宮

- 遠ざかる都と知れば旅衣一夜の宿も立ちうかりけり -

- 思いきや雲井の袂ぬぎかえてうき旅衣袖しぼるとは -」

説明版の奥には、皇女和宮他2体の陶製人形が置かれている。

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すぐ先には、以前は旅籠屋だったが今は無料休憩所になっている「おもだか屋」がある。

厳しい十三峠を越えてきたところなのでここで一息、ありがたい!!

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おもだか屋の隣は、問屋場だったようで今は説明版のみがある。

問屋場とは問屋役、年寄役、帳付役、人馬指図役などの宿役人が毎日詰めていた宿役所のことで、公用荷物の継立てから助郷人馬の割当て大名行列の宿割りなど宿の業務全般についての指図や業務を行っていた。」(説明版より)

その先には、珍しい「虫籠窓の家」があった。「虫籠窓」は、京町家特有の低い二階にある塗り壁の窓のことで、その形が「むしかご」似ているのでその名が付いたのだそうだ。

京が近いということか。

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そのすぐ先が、「脇本陣・保々家」で説明版も立っている。

「本陣、脇本陣は大名や公家など身分の高いものの宿舎として建てられたものです。この大湫宿脇本陣は部屋数19、畳み数153畳、別棟6という広大な建物でした。今は壊されて半分程度の規模になっていますが宿当時を偲ぶ数少ない建物の一つとして貴重です。」(説明版)

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続いて「神明神社」があり境内の大杉は、県の天然記念物になっている。

「大湫神明神社の大杉・この大杉は大湫宿のシンボルで宿時代から神明神社の御神木として大切にされてきました。推定樹齢千二百年、まさに樹木の王様といったところで、蜀山人の旅日記にも「駅の中なる左のかたに大きなる杉の木あり、木のもとに神明の宮たつ」とあります。」(説明版)

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さらに「大湫宿観音堂」があり説明版も立っている。

大湫宿観音堂・道中安全、病気全快の観音様として知られ、宿内、近郷はもちろん旅人からも厚い信仰を受けて賑わってきた観音堂です。現在の建物は、弘化4年(1847)に再建されたものですが、境内に並んでいる数多い石造物とともに盛大だった宿当時を偲ぶことができます。」(説明版)

大湫宿観音堂の絵天井・市指定 この絵天井は、虎の絵で著名な岸駒に師事した現恵那郡付知町の画人、三尾静(暁峰)の描いたものです。花鳥草木を主に六十枚描かれており、出来も色彩もうよく百年の歳月を感じさせない逸品です。この大湫観音堂は、宿の大火で類焼して弘化四年(1847)に再建されましたが、難病平癒の霊験があり近郷近在の崇敬を受けています。 瑞浪市教育委員会」(説明版)

ここには、芭蕉句碑も置かれている

- 花盛り山は日ごろのあさぼらけ -

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ここも人通りのまばらな静かな宿場である。

ところで、この「大湫宿」は十返舎一九滑稽本「続膝栗毛・五編下巻」に登場する。「かくて大久手(大湫)の駅ちかくなりければ、此のあたりの宿引きみな女にて、ばらばらと立ちかかり、二人を取り巻き・・・」弥次さん喜多さんが客引き女の声に騙されてここに宿を取る。喜多さんが部屋にきた女を口説こうと、その女が畑を荒らす猪の見張り小屋にいることを聞きつけ、小屋に近づき猪落としの穴に落ちてしまう下りである。ちなみに「東海道中膝栗毛」で江戸から伊勢詣、京、大坂と旅をした弥次喜多が「続膝栗毛」では金毘羅詣、宮嶋(宮島)、中山道木曽路、洗馬宿から松本へかかり善光寺詣、草津温泉へと旅をするのである。

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街道に戻ろう。観音堂から5分ほど行くと「中山道 大湫宿」の碑とともに高札場が復元されている。このあたりは、もう宿場の西の外れである。

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宿場を出ると左手に「紅葉洞の石橋」碑、「小坂の馬頭様」を見ることが出来る。道は、県道と旧道に分かれていて、右の旧道を行くとすぐ先には四阿のある休憩所がある。ここでひと息入れることにしよう。

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休憩所のすぐ先に、「中山道大湫宿 大洞・小坂」と刻まれた碑があり、「大洞の馬頭様」の碑とともに馬頭観音が祀られている。「中山道大湫宿 大洞・小坂」の碑には「安藤広重画木曽街道六十九次の大湫宿の絵はここから東方を描いたものである」と刻まれている。

旧道は、すぐに県道に合流するがその先に「大湫の二つ岩」と呼ばれる大きな岩が二つ並んでいて、その間に以下のように刻まれた「中山道二つ岩」の碑が置かれている。

「道の左にたてる大きなる石二つあり 一つを烏帽子石といふ 高さ二丈ばかり幅は三丈にあまれり また母衣石といふは高さはひとしけれど幅はこれに倍せり いづれもその名の形に似て 石のしましまに松その外の草生ひたり まことに目を驚す見もの也  大田南畝 壬戊紀行」

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二つ岩を過ぎ、5分ほど行くと右手が石畳の旧道で「琵琶峠を中心とする中山道」と刻まれた碑や「琵琶峠の説明版」が立っている。説明版には「琵琶峠の石畳 岐阜県史跡 

中山道は、岐阜県内でも改修や荒廃などにより江戸時代当時の原状を残すところが少なくなっております。こうした中で、瑞浪市内の釜戸町・大湫町・日吉町にまたがる約13kmの中山道は、丘陵上の尾根を通っているため開発されず、よく原形をとどめています。

特に、この琵琶峠を中心とする約1kmは、八瀬沢一里塚や馬頭観音などが現存し、当時の面影を残しています。昭和45年には500m以上にわたる石畳も確認され、峠を開削した時のノミの跡を持つ岩や土留め・側溝なども残されています。歴史の道整備活用推進事業の一環として、平成9年度から平成12年度にかけて石畳や一里塚などの整備を行い、江戸時代当時の琵琶峠に復元しました。 岐阜県教育委員会 瑞浪市教育委員会

またすぐ先に「これより坂を下ること十町ばかり山には大きなる石幾つとなく 長櫃の如きもの 俵の如きもの数を知らず 大田南畝 壬戌紀行より」と刻まれた「中山道・琵琶峠東上り口」の碑が置かれている。

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石畳の道を上っていくと10分程で琵琶峠頂上で、「琵琶峠頂上の馬頭様」の碑と共に馬頭観音が祀られていてその横に「皇女和宮の歌碑」が置かれている。

- 住み馴れし 都路出でて けふいくひ いそぐもつらき 東路のたび -

わずか16歳の 和宮の深い悲しみが読み取れる歌である。

ところで峠道付近の道幅は、わずかに1メートル程しかない。大行列はどのようにしてこの峠を越えたのであろう。さぞかし難儀なことであったろう。

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峠を下り始めるとすぐに一里塚が見えてくる。江戸から九十一番目の「八瀬沢一里塚」である。「琵琶峠の石畳と一里塚」の説明版には、以下のように書かれている。

「大湫(大久手)宿と細久手宿の間は一里半(約6Km)。琵琶峠は、美濃十六宿で一番高い所にある峠(標高558m)で長さは約1Km、古来より中山道の名所の一つです。

 ここにには日本一長いとされる石畳(全長約730m)が敷かれ、峠開削時のノミ跡を残す岩や、峠頂上の馬頭様(宝暦十三年・1763)東上り口の道標(文化十一年・1814)等の石造物があります。

 なお、「八瀬沢一里塚」はほぼ完全に残っており、江戸へ九十一里、京都へ四十三里を示す道標です。 瑞浪市

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一里塚から15分ばかり下ると「中山道・琵琶峠西上り口」の碑が置かれていて、句が三首刻まれている。

- 琵琶峠 足の調子は あわれなり -

- ゆく春の うしろ姿や 琵琶峠 -

- 雲の峯 加えつ 四っの 糸にしき -

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このあたりで「琵琶峠」は終わり、旧道は県道に合流したあたりが「八瀬沢立場」と呼ばれていた処で峠を越えた当時の旅人は、このあたりで一息ついたのであろう。

さて、県道を淡々と県道を歩いていくと1時間ほど歩くと「弁財天の池」が見えてくる。

「山丘上にありながらいつも水をたたえているこの池は、古くから旅人に愛されてきました。大田南畝の「壬戊紀行」にも「小さき池あり杜若(かきつばた)生いしげれり池の中に弁財天の宮あり」と記述され、小島には天保七年(1836)に再建された石祠があります。」と書かれている。

「続膝栗毛」には、それより八瀬沢の弁財天を拝し、琵琶峠にさしかかりて、

- やせ沢に弁財天のあるゆゑか霞ひくなるびわの山坂 -

弥次喜多細久手宿から大湫宿へと歩いている。)とある。

「弁財天の池」から15分ばかり歩くと「男女松の跡」の碑があるがどうゆうものなのかはわからない。

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さらに5分ほどで「奥之田(瑞浪)一里塚」が見えてくる。江戸から九十二番目の一里塚である。説明版が二つあり以下のような説明文が書かれている。

「奥之田一里塚」

「江戸へ92里、京都へ42里という中山道の奥之田一里塚です。一里塚は道の両側に築かれ、高さ4m、直径12mあります。

この一里塚は、ほぼ、完全にもとの姿をとどめています。」

瑞浪一里塚」

中山道の一里塚は、大湫宿が開宿した慶長九(1604)年から整備が進められ、岐阜県内には三十一箇所の一里塚が築かれました。一里塚には榎や松が植えられ、松並木も整備されました。一里塚は、現在ではほとんど荒廃し、瑞浪市のように連続した四箇所が当時のまま残っている例は全国的にも稀です。

市内には、東から西へ順に、権現山(樫ノ木坂)一里塚、琵琶峠(八瀬沢)一里塚、奥之田一里塚、鴨之巣一里塚があり、高さ約3m、経10m程の大きさで、自然の地形をうまく利用して築かれています。なお、鴨之巣一里塚は、地形の制約を受け、塚は尾根沿いに東西16m程離れています。 瑞浪市

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一里塚のすぐ先に「三国見晴し台と馬頭様」お碑と共に馬頭観音が祀られている。

その先は「細久手宿」、今日の泊りは「大黒屋」さんである。

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