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中山道旅日記16 太田宿-鵜沼宿-加納宿

27日目(4月20日(水)) 太田宿-鵜沼宿加納宿

今日も早立ちである。午前7時5分の電車で「坂祝駅」へ。

坂祝駅から国道に出て土手を上がって「ロマンチック街道」と呼ばれる木曽川沿いの遊歩道を歩く。大きな庚申塔が立っていて木曽川の流れや奇岩が楽しめる。

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「勝山」の交差点で国道に戻りしばらく行くと「坂祝町 東太田宿 西鵜沼宿」の道標がある。そこからが旧道で右手に入り坂を上ると「巌屋坂の碑」が立っている。調べてみると、この碑は文化十三年(1816)に建立されたもので「何地無山秀、何処無水流、借間東西客、有此山水不」とある。「いずれの地にか山の秀でたるなからん、いずれの処にか水の流るるなからん、借間す、東西の客この山水有り無しや」と読むのだそうだ。

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その先には、「巌屋観音堂」がある。この観音は、推古天皇の時に勧請されたものと伝えられていて巌屋の中に観音像が安置されている。

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巌屋観音から階段を下って再び国道に出る。しばらく行くと今は営業していないドライブインやレストランがありその横に「中山道 下りる」の道標があり、そこを下りると小さなトンネルが国道をくぐっている。トンネルを抜けると旧道である。

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旧道は「うとう峠」へと続くが、上り口には「中山道の説明版」が立っている。

中山道は、太田宿から現在の国道21号線の坂祝・各務原(かがみがはら)境までは木曽川に沿ってありました。しかし、この先鵜沼までが大変急斜面の危険な場所であったため、ここから山合いに入りこみ、うとう峠を越えて鵜沼宿につながっていました。」(案内板)

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「うとう坂」とよばれる峠道を上って行くと休憩所があり一休みすることができる。休憩所の先は石畳になっていて10分程行くと「うとう峠の一里塚」がある。江戸からちょうど百番目の一里塚である。(日本橋を出たから約400キロを歩いたことになる。)

「うとう峠一里塚と中仙道・江戸時代につくられた「鵜沼村絵図」(寛政5年6月)・「中仙道分間延絵図」(寛政12年7月~文化3年)によると鵜沼宿の東側にある一里塚より、東の坂を「乙坂」「長坂」とかうとう坂」と呼んでいました。「鵜沼の東坂」とか「うとう坂」という呼び方は昭和になってからです。

 「うとう坂」にある一里塚、江戸(東京)から、一里ごとにつけられた目印で、旅人にとっては距離のめやす、馬や駕篭の乗り賃の支払いのめやすとなり、日ざしの強い日には木陰の休み場所ともなっていました。道の両側に直径9mほどの塚をつくり、榎か松が植えられていました。ここでは片側だけ残り巾10m、高さ2.1mあります。塚の上には松が植えられていました。

 江戸時代に、各務原(かがみがはら)を治めていた旗本坪内氏の「前渡坪内氏御用部屋記録」を見ると、天保3年の文書に、この坂を通って10日ほどかけて江戸屋敷へ到着する計画が残されています。それによると1日の歩く距離は9里(36km)から10里(40km)が多く、関東平野に入ると14里(56km)という場合もあります。1日の旅の距離数から、当時の交通事情が推定できます。」(説明版)

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一里塚からは下り坂で、すぐのところに「日本ラインうぬまの森」の大きな碑がありそこから10分ほど行くと「赤坂の石塔群」がおかれていて、さらに10分程さきには「赤坂神社」がある。

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赤坂神社からさらに下っていくと小さな「地蔵堂」があり「東の見附跡と地蔵堂」の説明版が立っている。

「東の見附跡・江戸時代、宿場の入り口には宿内の防御と街道との境界を示すため見附(みつけ)がありました。鵜沼宿の東の見附はこの案内の少し西にありましたが、現在その遺構を見ることはできません。東からうとう峠を下ってきた中山道は、この見附で鋭角に曲がって鵜沼宿に入り、西へ七町半八間(約八百三十九米)の町並みを経て西の見附に至ります。

地蔵堂・地蔵堂には「宝暦十三年(一七六三)・女人中に講中」と刻まれているほか、左右には「左ハ江戸、せんこうしみち(善光寺道)」、「右ハさいしょみち(在所道)とあり道しるべを兼ねたようです。江戸時代から地元の皆さんにより大切にお守りされています。」(説明版)

地蔵堂から5分程行くと「ここは鵜沼宿 これよりうとう峠 左」の道標がある。

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第52宿 鵜沼宿・本陣1、脇本陣1、旅籠25

(日本橋より100里30町8間 約396.00キロ・太田宿より2里 7.85キロ)

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鵜沼宿は江戸の日本橋から数えて五十二番目の宿場である。宿の東側の出入り口にあたる赤坂見附には、道標を兼ねた「地蔵堂」がある。 宿内の全長は東西約840m。道路は幅員5mほどの舗装がされているものの、江戸時代にかかれた家並図に見られる地割はほぼ残っており、往時の面影を偲ぶことができる。

 また、ところどころ歩道に石張り舗装がしてあったり、大安寺川に架かる「大安寺大橋」には常夜灯や木製の欄干が整備してあって、当時の風情も楽しめる。木曽川の南には、国宝犬山城を望むことができる。 (パンフレットより)

鵜沼宿の入り口には、「高札場跡」が復元されている。

「高札場由緒・高札場とは、法令や禁令を書いた高札を掲げた場所で、多くの人目につきやすい場所に立てられていました。鵜沼宿では、東の見附と天王社(現、赤坂神社)の間に南向きにありました。

この高札場は「中山道宿村大概帳」の記録に基づいて、ほぼ当時のままに復元しました。

また、復元の際に読みやすい楷書に書直しました。」(説明版)

宿村大概帳とは幕府の道中奉行が、五街道とその脇街道を調査したときの記録である。

さらに、「尾州領傍示石」が交差点をはさんで2本立てられている。

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尾州領傍示石 由緒・ 中山道鵜沼宿尾張藩領)から各務村(幕府領)を経て、再び鵜沼村に入りました。尾張藩は村境を明示するため「是より東尾州領」「是より西尾州領」の2本の傍示石を建てました。

 この傍示石は明治時代以降に街道から移され、その後、鵜沼中学校に建てられましたが、中山道鵜沼宿再生整備に当たり市が中山道にもどしました。

 各務原(かがみがはら)市の大切な歴史遺産の一つになっています。」(説明版)

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また、「鵜沼宿問屋場跡」の説明版も壁に掛けられている。

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交差点を渡ると大安寺川に架かる「大安寺橋」を渡ることになる。橋の手前左側には、常夜灯と「太田町二里八丁」とほられた道標が置かれていて、橋を渡った右にも常夜燈と足元に「岐阜市ヘ四里十丁」の道標が立っている。

 

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このあたりが宿場の中心地であったのだろう。雰囲気全体が昔風に整えられている。

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橋を渡って右手にあるのが「中山道鵜沼宿町屋館」(旧武藤家住宅)で各務原(かがみがはら)市の重要文化財に指定されている堂々たる古民家である。

中山道鵜沼宿町屋館由来・当館は、江戸時代に「絹屋」という屋号で旅籠を、明冶の初めから昭和三十年代まで郵便局を営んでいた旧武藤家の住宅です。平成十八年、各務原市が建物の寄付を受けて公開しています。屋敷は中庭を囲むように、主屋、東側の付属屋、西側の離れの三棟からなります。主屋は、明冶二十四年の濃尾震災で倒壊し、その後、再築されたもので、江戸時代の旅籠の形式を残しています。付属屋は、大正から昭和初期に建築されたものと考えられ、養蚕小屋として利用されていました。離れは、建築部材から昭和初期に建築されたものと見られ、太田宿から移築されたものと伝えられています。

三棟とも、登録有形文化財に登録され、景観重要建造物に指定されています。(説明版)

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町屋館の裏庭に、「ふぐ汁も 喰えば喰せよ(くわせよ) 菊の酒」の芭蕉句碑があり
町屋館の向かいには、鉄板で作られた「旧大垣城鉄門」が立っている。

「由来・当門は、大垣城本丸の表口に建てられていた鉄門で、明冶九年に払い下げられた後、安積家(各務原市蘇原野口町)の自邸の門として維持されてきたことから、「安積門」と呼ばれています。各務原市へ寄付され、平成二十一年に当地へ移築されました。

規模は、間口約七.五メートル、高さ四.五メートルあり、構造形式から高麗門と称されます。高麗門とは、左右二本の本柱上部に小振りな切妻造の屋根を架け、さらにその後方に控柱を立て、本柱から控柱に渡して小屋根を架けた門のことで、主に城門として用いられてきました。当門のもう一つの特徴は、正面の木部を全て鉄板で覆い、軒下を白漆喰で塗籠めている点で、これらは火矢による攻撃から門を守るためと考えられます。

当門と同様に高麗門に鉄板を張った遺構は、名古屋城表二之門、大坂城大手門(二之門)の二例が現存しています。」(説明版)

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鉄門の先には「鵜沼宿本陣跡」の説明版があり以下のように書かれている。

鵜沼宿の本陣は、江戸時代を通じて桜井家が務めていました。江戸時代初期、この地に鵜沼宿が整備されて以来桜井家は本陣・問屋・庄屋の三役を兼ねていたと伝えられています。寛延二年(一七四九)十代将軍家治に輿入れした五十宮がここに宿泊したのをはじめ、多くの姫君が華やかな入輿の行列をともなって宿泊・休憩したりしました。

分化六年(一八〇九)伊能忠敬ら測量方も宿泊しています。

中山道宿村大概帳」天保十四年(一八四三)に、「本陣凡そ建坪百七拾四余り、門構え・玄関付き」と記されています。御上段・二之間・三之間・広間・御膳間・御料理間・勝手上段・納戸・台所などが配置され、御上段の北には築山や泉水が設けられていたといわれています。」

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そのすぐ先が「脇本陣・坂井家」である。脇本陣の処に「芭蕉句碑」三つ並んでいて、説明版が添えられている。

左から「汲溜の水泡たつや蝉の声」「おくられつ送りつ果ハ木曾の秋」「ふく志るも喰へは喰せよきく之酒(ふぐ汁もくらえばくわせよ菊の酒)」

鵜沼宿芭蕉・貞享二年(1685)、「野ざらし紀行」途中の松尾芭蕉は、鵜沼を訪れ脇本陣坂井家に滞在したと伝えられています。

その後、貞享五年(1688)七月頃、芭蕉は再び脇本陣坂井家を訪れ、

 汲溜の水泡たつや蝉の声

の句を読み、さらに同年八月頃、再度訪れた脇本陣坂井家で菊花酒のもてなしを受けた折には、主人の求めに応じて、楠の化石に即興の句を彫ったと伝えられています。

 ふく志るも喰へは喰せよきく之酒

 その後、木曽路を通って信濃へ更科紀行に旅立つ芭蕉は、美濃を離れる際に、

 おくられつ送りつ果ハ木曾の秋

と詠み、美濃の俳人たちと別れを惜しんだといわれます。」(説明版)

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鵜沼宿脇本陣は、現在無料で公開されている。

管理人の方によると、脇本陣は宿駅制度が廃止された後もその姿をとどめていたが明治24年(1891)の濃尾震災で倒壊した。平成になって江戸時代末期の鵜沼宿各家の間取りを描いた「鵜沼宿家並絵図」をもとに完全な形で復元されたとのことである。

「由緒・鵜沼宿脇本陣は、坂井家が代々これを勤め、安政年間に至って坂井家に代わり野口家が勤めました。坂井家の由緒は古く、貞享ニ~五年(1685~88)に松尾芭蕉が当家に休泊し句を詠んだと伝えられています。

史料によれば、江戸時代中後期の「鵜沼宿万代記」に脇本陣坂井半之右衛門と記され、「中山道分間延絵図」には街道に南面する切妻屋根の主屋と表門が描かれています。また「宿村大概帳」天保十四年(1843)には、脇本陣坂井家、門構玄関付き建坪七十五坪と記され、その間取りが「鵜沼宿家並絵図」元治元年(1864)に詳細に描かれています。

なお、当施設は「鵜沼宿家並絵図」に描かれた幕末期の脇本陣坂井家を復元しています。」(説明版)

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脇本陣のすぐ先に黒塗りの立派な建物「菊川酒造」があり、さらにその先には、「国登録有形文化財」に指定されている古民家が4軒(坂井家、旅籠であった茗荷屋梅田家梅田家、安田家)が軒を連ねている。

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古民家の先には、「鵜沼宿 東・坂祝町 西・加納宿」の道標があり、さらに先の交差点を渡った左側には「鵜沼宿」の碑が置かれている。

その先、5分ばかり行くと「西の見附跡」の立て札が立てられている。立札には以下のように書かれている。

「西の見附跡・見附とは、宿場の入り口と出口に備えた簡易な防御施設のことです。台状に土手を築いたり、周りを石垣で囲んだり、盛り土をして木の柵を立てたりしました。鵜沼宿には、東の見附と西の見附がありました。鵜沼宿の見附は、江戸時代の「鵜沼宿家並絵図」(中島家文書)に描かれています。家並図と現在の地図を照らし合わせると、西の見附は概ねこの看板の辺りと考えられます。具体的な構造は分かっていません。江戸時代の参勤交代では、西から鵜沼宿へ入るときは、途中、人家の少ない道を通ってきますので列が乱れており、このすぐ西にある空安寺あたりで隊列を立て直し、「したに―、したに―」と大声を上げて、恰好を付けながら宿内に入っていったと思われます。鵜沼宿の人々は、おそらく下座をして迎えたのでしょう。」

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見附跡を後にして5分程行くと、「空安寺」の手前に「衣裳塚古墳」が見えてくる。

「衣裳塚古墳は、各務原台地の北東辺部に位置する県下最大の円墳です。墳丘の大きさは直径が52m、高さが7mあり、周囲は開墾のためやや削平を受けていますが、北側はよく原形をとどめています。また、墳丘表面には葺石や埴輪は認められません。

衣裳塚古墳は、円墳としては県下最大規模の古墳ですが、ここより南西約300mのところに、県下第2位の規模を有する前方後円墳の坊の塚古墳が所在することや、本古墳の墳丘西側がやや突出する形態を示していることから、本古墳も本来前方後円墳であったものが、後世に前方部が削平されて、後円部が円墳状に残された可能性もあります 。

衣裳塚古墳の築造年代については、本古墳の埋葬施設や年代が推定できる出土遺物が知られていないため、正確な判定は出来ませんが、おおよそ古墳時代の前期から中期にかけて(4世紀末から5世紀前半)の時期に坊の塚古墳に先行して築かれたと推定されます。(各務原市教育委員会説明版)

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衣裳塚古墳から10分程歩くと「島津神社」がありその境内には、「皆楽座」があり説明版によると「客席を持たない舞台のみの農村舞台ながら、廻り舞台、奈落、セリ、太夫座などを備える。公演時は舞台前面にむしろを敷いて見物席とし、花道は仮設で設けられた。」のだそうだ。

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街道は程なく国道21号線に合流し、しばらく行くと車道は上り坂の陸橋となるが、側道を中程まで行くと「播流上人碑」がある。このあたりに当時「各務原(かがみがはら)一里塚」(江戸から101番目の一里塚)があったと思われるが今は何も残っていない。説明版、碑の類もないので定かではない。

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この先は、これということもなく国道21号を淡々とあるき「蘇原三柿野町(そはらみかきのちょう)」の交差点で再び旧道に入ってしばらく行くと「六軒一里塚跡」の碑が立っている。百二番目の一里塚である。このあたりは「六軒茶屋」と呼ばれた立場で当時はかなり賑わっていたのだろう。その名の由来は茶屋が六軒並んでいたからだそうだ。その先には、「神明神社」がある。

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さらに旧道を進み「那加橋」を渡り、「新加納町」の五叉路を右手に入るとすぐに「日吉神社」があり、その先が「新加納の立場」である。鵜沼宿から次の加納宿までは四里十町(約16.8キロ)もあり中山道で二番目に長い距離であった。従って中間地点に「間の宿(あいのじゅく)」を設ける必要があった。「新加納の立場」は、かなり賑わっていたようでやがて「間の宿」に発展していったのであろう。

新加納の立場跡から桝形に入る両側に一里塚があったようで「一里塚跡」碑が対で置かれている。百三番目の「新加納の一里塚」である。

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桝形を真っ直ぐ進んだ突き当たりは御典医の今尾家」である。

中山道は、ここを右へ行くのだが今尾家の塀に沿って左へ進むと突き当たりが岐阜県指定文化財の「東陽英朝禅師塔所」の「稲荷堂」がある。

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今尾家の前を右折して旧道に戻り、すぐ左折するとそこから先は殺風景な通りを30分ばかり行くと火祭りで有名な「手力雄神社(たじからおじんじゃ)」の入り口の鳥居がある。鳥居をくぐれば神社だが先を急ぐことにする。すぐそばに「左・木曽路」の道標も置かれている。すぐ先の出会いの道を右折すると浄慶寺がある。浄慶寺の横には「切通陣屋跡」の碑があり「中山道」「右キソミち・左京ミち」の道標、中山道の碑と「切通の由来」の説明版が立っている。ベンチも置かれていたのでここで一休みである。

「切通の由来・切通は境川北岸に位置し地名の由来は岩戸南方一帯の滞溜水を境川に落としていたことによると言う。文治年間(1185)渋谷金王丸が長森庄の地頭に任ぜられこの地に長森城を築いた。延元二年(1337)美濃国守護二代土岐頼遠土岐郡大富より長森に居を移し長森城を改修し美濃国を治め天下にその名を知らしめた。江戸時代に入るやこの地は加納藩領となり以後幕府領・大垣藩預り地と変わり享保三年(1802)盤城平藩の所領となるに及びこの地に陣屋が設けられ幕末までこの地を治めた。

切通は古来東西交通の要路にあたり江戸初期中山道が開通されるや手力雄神社前から浄慶寺付近までは立場(休憩所)として茶屋・菓子屋・履物屋等が設けられ旅人の通行で賑わいを見せ各地の文物が伝来し文化の向上に大きく寄与した。」(説明版)

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さらに10分ほど進むと伊豆神社の手前の祠があり馬頭観音が祀られている。そのすぐ横には「右 江戸ミチ、左 京ミチ」道標が立っている。

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伊豆神社から20分ばかり歩くと「細畑の一里塚」と呼ばれる百四番目の一里塚がある。

中山道は江戸時代の五街道の一つで、江戸と京都を結んでいた。一里塚は一里(約三.九キロメートル)ごとに設置され、旅人に安らぎを与えると共にみちのりの目安となるように置かれたものである。街道の両側に五間(約九.一メートル)四方に土を盛って築かれ、多くはその上にエノキが植えられた。

細畑の一里塚は慶長九年(1604)、中山道の他の一里塚とともにつくられた。東方の鵜沼宿から三里十四町(約一三.三キロメートル)西方の加納宿まで三〇町(約三.三キロメートル)の位置にあり、中山道の風情を今に伝えている」(説明版)

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一里塚のすぐ先がY字路に延命地蔵堂があり、左脇には道標も立っている。ここは、伊勢道との追分で道標の表面には「伊勢 名古屋ちかみち笠松兀一里」、右側面に「西 京道加納宿兀八丁」、左側面に「木曽路 上有知道」裏面に「明治九年一月建之」と彫られている。中山道は右の道を進むことになる。

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追分から20分程歩くと中山道は、東海道線の高架をくぐることになる。さらに名鉄「茶所(ちゃじょ)駅」横の踏切を渡ったすぐ左側に「中山道加納宿」の碑が立っていて、すぐその横に「鏡岩の碑」がある。鏡岩とは、江戸時代の相撲取りの四股名だそうで岐阜市教育委員会の説明版が添えられている。

「ぶたれ坊と茶所・この、ぶたれ坊と茶所は、江戸時代の相撲力士「鏡岩浜之介」にちなむものです。伝えによると、二代目鏡岩は父の職業を次いで力士になりましたが、土俵の外での行いが悪かったことを改心して寺院を建て、ぶたれる為に等身大の自分の木像を置いて罪滅ぼしをしました。また、茶店を設けて旅人に茶をふるまったそうです。

 ここの少し北にある東西の通りは、昔の中山道であり、加納宿として栄えていました。江戸時代には多くの人たちが訪れたことでしょう。現在では、歴史的な町並と地名等に当時の様子を伝えていますが、ここにあった妙寿寺は廃寺となり、「ぶたれ坊」の像は岐阜駅南口に近い加納伏見町の妙泉寺に移されています。」(説明版)

鏡石の横には正面に「東海道 伊勢道」右側面に「江戸 木曽路」と彫られた道標が立てられている。

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第53宿 加納宿・本陣1、脇本陣2、旅籠35

(日本橋より105里4町8間 約412.8キロ・鵜沼宿より4里10町 16.8キロ)

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中山道は山谷沿いの険しい道が多く、参勤交代の大名行列東海道に集中。交通量が少なかったことから婚礼行列によく使われ、通称、姫街道ともいわれた。また、伊勢参詣ルートなど庶民の道としても利用された。江戸から京都までを結ぶ544キロの行程には宿場町が全部で69宿。岐阜市には加納宿河渡宿がありました。加納宿は美濃にあった16宿のうち最大の宿場町。城下町にある唯一の宿場として、また商工業が盛んだったことから遠く江戸や大阪まで人や荷役の往来が激しかったといわれている。(岐阜市観光情報より)

さて、鏡岩の先は桝形になっていて「だんご屋」さんを直角に右折する。加納大橋を渡り「右 岐阜 谷汲路、左 西京路」と彫られた道標がある桝形を今度は左折である。

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秋葉神社を過ぎ、次の桝形の手前には、「東番所跡碑」が立っている。このあたりが宿場の入り口だろうか。

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「東番所跡碑」の先の桝形を左折し突き当りの「善福寺」の桝形を右折すると左手に「伝福寺」があり、その先に「岐阜問屋場跡」の説明版が立っている。

「岐阜問屋場跡・加納新町の熊田家は、土岐、斉藤時代からこのあたりの有力者で、信長が岐阜にあったころには加納の問屋役を務めていました。江戸時代に入ると、全国から岐阜へ出入りする商人や農民の荷物運搬を引き受ける荷物問屋に力を注ぐようになり、「岐阜問屋」と呼ばれるようになりました。江戸時代、岐阜問屋は岐阜の名産品であり、尾張藩が将軍に献上する「鮎鮨(あゆずし)」の継ぎ立をしており、御用提燈(ごようちょうちん)を許されていました。献上鮎鮨は岐阜町の御鮨所(おすしどころ)を出発し、岐阜問屋を経由し、当時、鮨街道と呼ばれた現在の加納八幡町から名古屋へ向かう道を通り、笠松問屋まで届けられました。岐阜問屋には特権が与えられていましたが、それは献上鮎鮨が手厚く保護されていたことによるものでした。」(岐阜市教育委員会説明版)

先ほど、「御鮨街道」の道標を見かけたが、御鮨街道とは尾張藩が将軍家へ献上する岐阜名産品の「鮎鮨」を、笠松問屋まで届けた街道のことであった。

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さて、先へ進んで中山道は次の桝形で左折だがそこには「左 中山道」(正面)「左 西京道」(左側面)「右 ぎふ道」(右側面)と彫られた道標に説明版が添えられている。

中山道の道標・この道標は、江戸中期(1750年頃)新町と南広江の交わる四ッ辻東南隅にたてられ中山道を往来する旅人の道案内の役目を果たしてきました。最初は「左中山道」「右ぎふ道」の道標でしたが、明治初年に「左西京路」「右東京道」の標識が追加されました。この四ッ辻は中山道と岐阜道の分岐点で、かつては交通の要衝でありました。

昭和五十九年三月 中山道加納宿文化保存会」(説明版)

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桝形を左折し、清水川に架かる橋を渡った所に「加納宿高札場跡」の立て札が立っている。

「ここは江戸時代、加納藩の高札場があったところです。高札とは藩が領民に法度(法律)や触(お知らせ)を知らせるために人通りの多い通りや辻や市場などに立てた板で作った立札のことです。

 加納宿では、加納城大手門前の清水川沿いのこの場所が高札場で宿御高札場と呼ばれていました。この高札場は加納藩の中でも最も大きく、石積みの上に高さ約三・五メートル、幅六・五メートル、横ニ・二メートルもあるものでした。正徳元年(1711)に「親子兄弟の札」が掲げられて以後、明治時代になるまで、何枚も高札が掲げられました。平成十ニ年三月 岐阜市教育委員会」(説明版)

すぐその先には「中山道加納宿 右 河渡宿」の道標と共に「加納宿大手門跡」の碑が立っている。

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桝形を左折し、清水川に架かる橋を渡った所に「加納宿高札場跡」の立て札が立っている。

「ここは江戸時代、加納藩の高札場があったところです。高札とは藩が領民に法度(法律)や触(お知らせ)を知らせるために人通りの多い通りや辻や市場などに立てた板で作った立札のことです。

 加納宿では、加納城大手門前の清水川沿いのこの場所が高札場で宿御高札場と呼ばれていました。この高札場は加納藩の中でも最も大きく、石積みの上に高さ約三・五メートル、幅六・五メートル、横ニ・二メートルもあるものでした。正徳元年(1711)に「親子兄弟の札」が掲げられて以後、明治時代になるまで、何枚も高札が掲げられました。

平成十ニ年三月 岐阜市教育委員会」(説明版)

すぐその先には「中山道加納宿 右 河渡宿」の道標と共に「加納宿大手門跡」の碑が立っている。

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そのすぐ先に「当分本陣跡」の碑が立っている。当分本陣とはどういうことか調べてみると文久三年(1863)から当分の間補助的に置かれた本陣のことだそうだ。さらにほとんど並ぶように「本陣跡」の碑が立っている。碑には「中山道加納宿本陣跡」側面に「皇女和宮御仮泊所跡」と彫られている。また、和宮の歌碑が置かれている。

-遠ざかる 都としれば旅衣 一夜の宿も 立うかりかり- (和宮

加納宿脇本陣跡もすぐそばにある。

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脇本陣跡の先には「加納天満宮」が見えてくる。この天満宮は古くから氏神様として信仰されていたのだそうだ。

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ところで十返舎一九の「続膝栗毛」で弥次喜多は赤坂から加納へ向かう途中、加納宿の手前で身なりの悪い浪人と道ずれになり、宿も相宿になる。(弥次喜多は、京から江戸へ下っている。)浪人者を盗人と勘違いした喜多八は、問屋役人の宿改めに盗人の巻き添えになるのはごめんと寒さをこらえ裸で縁の下に隠れるが、実はその浪人は宿場の人々に慕われている剣術の先生であった。

-定九郎(さだくろう)と思いし人はさもなくて 縁のしたやにわれは九太夫-

忠臣蔵の悪役の定九郎と思った人はそうではなくて縁の下に隠れていた自分の  ほうが悪者の斧九太夫であった。)

次の交差点を右折すれば岐阜駅。今日の泊りは岐阜駅前のコンフォートホテル岐阜。ホテル内にあるコインランドリーがありがたい。