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中山道旅日記 17 加納宿-河渡宿-美江寺宿-赤坂宿

28日目(4月21日(木)) 加納宿河渡宿美江寺宿-赤坂宿(コンフォートホテル岐阜)

今日は、空模様が怪しいのでコンフォートホテルに連泊することとし、空身での街道歩きである。

岐阜と言えば岐阜城が頭にうかぶが日程の関係で、岐阜城観光はまたの機会としよう。

さて、7時30分にホテルを出発し中山道に戻り次の宿場・河渡宿を目指す。

しばらく行くと左手に「秋葉神社」がありその先には「中山道加納宿西番所跡」と彫られた碑が立っている。このあたりが加納宿の出口であろう。加納宿には秋葉神社がいくつかあるが、これは火事が多発した時代、防火の神様として信仰したものと思われる。

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資料によると、このあたりに「鳥屋の一里塚」と呼ばれる一里塚があったようだが、今は、それらしきものは何もない。

西番所跡から20分ばかり行くと鳥居の横に「秋葉神社(西)八幡神社(中央)天満神社(東)」と書かれた立て札があり三社を合祀したお社がある。境内には「夫婦銀杏」があり「神歌碑」が置かれている。

神歌碑には- 千早振る神の御徳の尊とけれ四方の真人も心揃いて -と彫られている。

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先へ進もう。約30分ばかりで「鏡島弘法入り口」の標識があり、そこを右に入れば「乙津寺(おつしんじ)」である。乙津寺は、「鏡島弘法」とも「鏡島の弘法さん」ともいわれ別名「梅寺」として慕われている。縁日は毎月21日、まさに今日で、まだ朝の9時前だというのに多くの野師が店を出し、多数の人々が参詣に訪れ、大いに賑わっている。本尊は、「十一面千手観音」・「不動明王」で「十一面千手観音像」は「行基(ぎょうき)」(奈良時代の僧)の作と言われている。境内には、「日本三躰除厄弘法大師 瑞甲山 乙津寺(梅寺)」の碑や「弘法大師梅の杖」の碑が置かれている。

弘法大師梅の杖」

弘法大師がここにさし立てた梅の錫杖が芽ぶき聖なる力をもつ霊梅と言い伝えられています。

弘法大師御自詠歌 -さしおきし 杖も逆枝て 梅の寺 法もひろまれ 鶯のこえ-

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乙津寺の山門前を右折して観音寺の墓地の端に小紅の渡しの説明板が立っている。案内に沿って行くと渡し場に着く。ここでは、美人の女船頭さんが渡しをやっていて対岸から渡ってきた人たちがいたので向こう岸まで渡してもらうことにした。女船頭さんの話によればこの長良川の舟渡は、県道扱いでいつでも無料で渡してくれるのだそうだ。舟は常時対岸につながれていてこちら側(乙津寺側)からは備え付けの旗を振れば迎えに来てくれる。

「ここには、江戸時代から長良川の対岸とを結ぶ交通路として「小紅の渡し」が設けられています。この小紅の渡しは、古くから鏡島弘法(乙津寺)への経路として、約1km下流にあった中山道の河渡の渡しとともに栄えていました。現在では県道文殊茶屋新田線の一部になっています。近代的な橋の施工技術が発達する以前は各地に渡しがありましたが、現在では、小紅の渡しが岐阜市内で現存する唯一の渡しとなりました。

 なお、小紅の名の由来については、様々な説があり、お紅という名の女性の船頭がいた、川を渡る花嫁が水面に顔を映して紅を直した、紅を採る草が生えていた、等の言い伝えがあります。 平成十五年三月 岐阜市教育委員会」(小紅の渡し説明版)

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ということで、街道に戻ることなく長良川を渡ったので対岸を土手道沿いに歩き中山道に戻ることになる。土手道を行くと長良川に架かる河渡橋の河渡側の道を横切りしばらく行って右へ下る道が中山道である。当時、中山道を行く旅人は、河渡橋近くにあった「河渡の渡し」で長良川を渡っていたが明治期に橋が架けられ渡しは終了した。

中山道に合流するとすぐに「馬頭観音・観音堂」がある。

「観音堂縁起」

 聖徳より天保年間にかけて徳川幕府太平の記録に中山道六十九次之内第五十四河渡宿大概帳に本陣水谷治兵衛問屋久右衛門 八兵衛庄屋水谷徳兵衛とあり本陣一軒旅籠屋大四軒中九軒小十一軒あり酒屋茶屋豆腐屋煙草屋など建ち並び西國諸大名の江戸幕府への参勤交代時には御転馬役歩行役の命令あり東へ加納一里半西へ美江寺一里七丁この荷駄の送迎旅人の往来宿泊に賑わいこの荷駄役の人達が天保十三年に銭百文づゝ寄進し道中と家内安全五穀豊穣祈願し愛染明王を奉祀す地元では馬頭観音さんと仰ぎ猿尾通稱お幕場に六間四面の堂宇を建立毎年九月十七日を祭日と定め祖先は盛大に賛仰護侍し来れりその後明治二十四年十月二十八日午前六時三十七分濃飛大震災に倒壊同二十九年九月大洪水に本堂流失す堤外中段渡船場右側に再建昭和二十年七月九日大空襲に戦禍を免る同二十二年四月新堤築造により堤内に奉遷安置同五十六年本川拡幅に伴ふ遷座となる島川東洋子氏御一家の篤志を受け現聖地三十七、三坪に奉遷新築す町民の総意と協力により工事費金壱千壱百六十五万七千円にて完成 昭和五十九甲子年九月吉日 河渡町内中」(説明碑)

観音堂の前には、木製の常夜灯が立っている。

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観音堂から堤防沿いの道をしばらく歩き右折をすると「河渡宿」の入り口である。

 

第54宿 河渡宿・本陣1、脇本陣0、旅籠24

(日本橋より106里22町8間 約418.7キロ・加納宿より1里18町 5.9キロ)

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江戸時代、江戸と京都を結ぶ重要な街道として中山道が整備され六十九の宿場が設けられた。河渡宿は江戸から百六里二十七町、五十五番目の宿場であった。

加納宿へ一里半、美江寺宿へは一里六町を経て、長良川の渡しを東に臨み、大名行列や旅人が往来宿泊して大いに繁盛した。

ここはかつての一里塚でもあった場所である。塚は道の両側に夫々あり榎が植えられて、塚の大きさは五間四方であった。 平成五年五月 中山道河渡宿文化保存会 記 (碑文)

河渡宿に入るとすぐに「松下神社」の小さな祠の前に正面に「中山道河渡宿」側面に「一里塚跡」と彫られた碑が立っている。この一里塚は、当時「河渡の一里塚」と呼ばれていた106番目の一里塚である。松下神社についての碑も置かれている。

中山道河渡宿は、東に長良川、西南に糸貫川、北に根尾川があり土地も低く、白雨雪舞の折には泥沼となった。特に文化十二年六月には、未曾有の洪水にみまわれ、このままでは宿も絶えるのではと時の代官松下内匠が、宿中を五尺あまり土盛をして、その上に家屋を改築し、文化十五年に工事を完成させた。この功績に村人は、松下神社を建立し、碑を刻んで感謝をした。碑は太平洋戦争の戦災で焼きこわれ、今は一部しか残っていない。

平成五年五月 中山道河渡宿文化保存会 記」(松下神社・碑文)

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先へ進んで、糸貫川に架かる糸貫橋を渡ると左手に「延命地蔵」の祠がある。

「この地蔵は、高さ九十センチメートルの石仏坐像で掘りが美しく優雅な面相である。背面に「石工名古屋門前町大坂屋茂兵衛」、台座には「文化六巳巳歳(1809年)八月二十四日建立濃州本巣郡上本田村」と刻まれている。

 毎年八月二十四日に盛大な地蔵祭が行われる。かつては、尾張・美濃・江州の三国素人相撲が行われたが、現在は子供相撲が行われている。

 江戸時代この中山道を往来した旅人はここで一休みして、このお地蔵様に旅の安全を祈ったのであろう。 瑞穂市教育委員会」(延命地蔵・説明版)

すぐ先には「中山道の町並」の碑が立っている。河渡宿の町並みは、静かなたたずまいを見せている。

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その先には小さな「秋葉神社」がある。防火の神様はどこの宿場も欠かすことはできない。さらにその先に「本田代官所跡」の説明版が立てられている。

「江戸時代の一時期、このあたりに幕府直轄地の代官所があったが、詳細は定かでない。しかし、古文書等から推測すると、寛文十年(1670)、野田三郎左衛門が初代代官に任ぜられ、この地に陣屋を設けたと思われる。本田代官は後に川崎平衛門定孝(十一年間在任)という名代官を迎えるなど、この地の人々に大きくかかわった。明和七年(1770)大垣藩に預けられるまで続いた。今も「代官跡」「御屋敷跡」「牢屋敷跡」という地所が残っている。 瑞穂市教育委員会」(本田代官所跡・説明版)

そのすぐ先には、「高札場跡」の立札が立っている。もはや、このあたりが宿場の出口のようである。河渡宿は、全長わずか三町(330m)の小さな宿場である。

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高札場跡を過ぎ、大きな道路を横切ってしばらく行くと踏切がある。その踏切を越えれば「美江寺宿」である。

 

第55宿 美江寺宿・本陣1、脇本陣0、旅籠11

(日本橋より107里29町8間 約423.4キロ・河渡宿より1里7町 4.7キロ)

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宿場としての美江寺の歴史は、豊臣 秀吉によって問屋場が設けられたことに始まる。寛永14(1637)年に正式に開設された美江寺宿。しかし、開設当時は本陣どころか旅籠や茶屋もなく、道筋の小さな農村にすぎなかった。のちに通行者が増加し、宿場開設から32年後の寛文9(1669)年、加納藩により本陣が置かれると、徐々に旅籠や茶屋が建ち、少しずつ宿場らしくなっていった。美江寺という名は、「美しき長江のごとくあれ」と祈念されて美江寺という寺院が建てられた事に始まる。

さて、美江寺宿に入るとすぐに「左北方谷汲ニ至ル」「右岐阜加納ニ至ル」と彫られた道標が置かれている。さらに5分ほど先に「美江寺一里塚跡」の碑が立っている。

美江寺大門裏交差点を右折してしばらく行くと「瑞光寺」があり芭蕉句碑が置かれている。

- 旅人と我が名呼れん初時雨 芭蕉翁 -

先ほどから降り出した雨がだんだん強くなってきた。街道に戻り先を急ごう。

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すぐ先には「美江寺観世音道」と彫られた道標が置かれている。その先が「美江神社」である。そこには「高札場跡」の立て札や正面に「美江寺宿」右側面に「東 河渡宿」左側面に「西 赤坂宿」の道標が立っている。雨が強いので神社の境内には入らず先を急ぐことにする。

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道は、桝形になっていて桝形を右折すると「美江寺宿本陣跡」の碑が立っている。    中山道は次の桝形で右折だが角に「右・大垣赤坂ニ至ル 左・スノマタに至ル」と彫られた道標があり屋根のある休憩所がある。この雨なので実にありがたい。このままホテルに帰りたいところだが静かな宿場町には人っ子一人見かけない。当然タクシーなどはなく一番近い駅「JR美濃赤坂駅」まで歩くしかなさそうだ。

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休憩所で一休みした後、桝形を右折するともはや宿場はすれである。

雨の中、意を決して再び歩き始めるとすぐに「美江寺千手観音堂」がある。

「千躰寺は、浄土宗西山派に属し、現在、養老郡円満寺の末寺である。千躰寺には高さ12センチメートルから23センチメートルの桧材一木像の阿弥陀如来立像、千体が八段に並べまつられている。

 仏像は、千躰仏と呼ばれ、寺の名の由来となった。千躰仏は、禅僧、自然居士の作で、仏像の姿・形から鎌倉時代後期~南北朝時代のものと伝えられている。自然居士は、和泉の国(大阪府)に生まれ、京都の東福寺大明国師のもとで修行したが、奇行遊行僧のようである。遊行の途中、自然居士は美江寺の地にとどまり千躰仏を造立した。

瑞穂市教育委員会」 (説明版)

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千手観音堂から5分ばかり行くと「神明神社」さらに「揖斐川(いびがわ)(呂久川(ろくがわ))」に架かる鷺橋を渡り45分ほど先には「良縁寺」と「白鳥神社」が並んでいる。

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白鳥神社のすぐ先が「蓮生寺」で2軒隣に馬淵家・長屋門があり、その前に明治天皇御小休所跡の碑が立っている。

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その先には「小簾紅園(おずこうえん)」があり、公園内には「和宮歌碑」「呂久(ろく)の渡し」「呂久渡船場跡」などの説明版がある。皇女和宮一行は、呂久川を御座船で渡ったという。その時和宮は東岸にある馬淵家の紅葉に感動し「落ちて行く身と知りながらもみじ葉の人なつかしくこがれこそすれ」と詠んだのだそうである。和宮の歌はいつも悲しげである。

天正時代織田信長が岐阜に在城し、天下統一のため京に近く交通の要衝である近江の安土城に居所を移した頃から美濃と京都の交通がひんぱんとなり赤坂-呂久-美江寺-河渡-加納の新路線が栄えた。これが江戸時代の初期に整備されて五街道の一つ中山道となり、この呂久の渡しもそれ以来交通の要所となった。

慶長十五年(1610)頃、この呂久の渡しの船頭屋敷は、十三を数え、中でも船年寄馬渕家には、船頭八人、助務七人が置かれていた。その頃の川巾は、平水で九○メートル、中水で一二○メートル、大水では一八○メートルに及んだといわれている。

文久元年(1861)には、皇女和宮親子内親王中山道をご降嫁の折この呂久川を渡られ、その折船中から東岸の色鮮やかに紅葉した楓を眺めこれに感懐を託されて「落ちてゆく身と知りながらもみじ葉の人なつかしくこがれこそすれ」と詠まれた。」(呂久の渡し 呂久渡船場跡の説明分より抜粋)

呂久渡船場は、大正14年に河川付け替え工事が行われ、長い歴史を終えた。

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小簾紅園(おずこうえん)から10分程歩くと「左・木曽路」「右・すのまた宿へ」の道標が立っている。さらに15分ほど先には「中山道三回り半」そこから20分程先に「中山道七回り半」の碑が立てられている。「三回り半」「七回り半」?どういう意味だろう。ただの地名か? 「七回り半」の碑から10分ぐらいの処に祠があり「加納薬師如来 これより北八丁」と彫られた石碑が立っている。薬師如来から20分程行くと「中山道一里塚跡」の碑が立っている。「青木小金橋の一里塚」(百九番目の一里塚)である。

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止み間なく降り続く雨足はだんだん強くなってきた。近くに近鉄養老線の「東赤坂駅」があるようだが「JR美濃赤坂駅」まで頑張ろう。「駅までは後30分ぐらいか。」と思いつつ歩いているとなんと「そば屋」がある。ありがたい!ここで昼食を取ることにしよう。もう午後2時である。

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ゆっくりと食事を取った後、足を速め、赤坂宿の入り口をかすめて「美濃赤坂駅」へ着いたのが午後3時、次の電車は4時7分発大垣行きである。駅舎以外には何もないローカル駅で電車を待つこと約1時間、コンフォートホテルにたどり着いたのは午後4時45分であった。