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中山道旅日記 19 美濃・関ケ原(INTERMEDIATE)

日本史上最大のイベントといえる関ケ原の合戦は、徳川家康の「野望」と石田三成+直江兼続の「義」の戦(いくさ)であったというべきである。

しかしながら「絶対的な力」と「正義」の戦いは「絶対的な力」が勝つ。

司馬遼太郎は、小説「関ケ原」において「正義などというものは秩序が整っていれば秩序維持のために必要だが乱世においては人も世間も時勢も利害と恐怖に駆り立てられて動く。幼君秀頼につくのが利か、第一の実力者である家康につくのが利か、それのみを考えて動いているのである。自家を存続させたいという欲望が恐怖につながる。判断を誤れば自家は滅んでしまうという恐怖の前には正義など何の力ももたない。つまり特に乱世において人は強弱で動く、善悪では動かない。」と書いている。

謀反の疑いをかけられた前田利長前田利家)の嫡男・五大老の一人)は、家康の力に屈し、五奉行の中で最も親徳川であった浅野長政までも同じ嫌疑をかけられ引退に追い込まれている。つまり、家康はあらぬ難ぐせをつけ、豊臣政権の中枢にある五大老五奉行の一人一人を力で屈服させていったのである。

当然のことながら利を見るに敏な武将たちはこぞって家康に媚びた。

さらに家康は、高台院(秀吉の正室・ねね(北政所))を抱き込み、「三成憎し」に凝り固まる秀吉子飼いの武闘派諸将を味方にすることに成功した。

竹中半兵衛と共に秀吉の軍師を務めた黒田如水黒田官兵衛)の嫡男・黒田長政は小早川調略に動き、西軍の総大将・毛利輝元一門の吉川広家は、黒田長政を通じて家康に内通し、毛利領安堵の密約を取り付けている。

さて、福島正則宇喜多秀家の銃撃戦で幕をあけた関ケ原の合戦は最初、西軍が優位に立っていた。しかし小早川秀秋の裏切りで一気に形勢は逆転し、家康が勝利を収めた。そして薩摩・島津義弘の敵中突破で幕を下ろす。

司馬遼太郎の小説をドラマ化したTBSドラマ「関ケ原」の終盤で「歴史は時として最もふさわしくない者に重要な鍵を預けるものである」といったようなナレーションがあったように思うが「最もふさわしい者に重要な鍵を預けた」というべきである。

なぜなら、この戦で西軍が勝利を収めていれば世は再び乱世へと逆戻りしたに違いない。西軍には「絶対的な実力者」がいなかったからである。

ともあれ、「応仁の乱14671477)」以降100年以上続いた乱世はここに終わりを告げる。

日夜、戦に明け暮れた時代を「戦のない世」に導いた家康の功績は大きいと言わざるを得ない。

ただ、いわば主家である豊臣から権力を奪い取った後ろめたさは、家康を正当化するために三成を徹底して「悪人」にする必要があった。

徳川氏は、その治世二世紀あまりを通じて石田三成を肝心(かんじん)とし続けた。(中略)ただひとり、水戸黄門で知られている徳川光圀のみが、その言行録「桃源遺事」の中で「石田治部少輔三成は憎からざる者である。人おのおのその主人の為にはかるというのは当然なことで、徳川の敵であるといっても憎むべきでない。君臣共に心得るべきである」と語っているのが唯一の例外と言っていい。(中略)ただ、三成とともにその朋友知古家臣としてこの一挙に加わった三人の人物については、徳川幕府の禁忌(きんき)はおよんでいない。三人とは太谷刑部少輔吉嗣、島左近勝猛、それに直江山城守兼続である。この三人男は、いわば快男児の典型として江戸時代の武士たちに愛され、その逸話がさまざまの随筆に書かれ続けた。」(司馬遼太郎・小説「関ケ原」より)

徳川幕府下において幕府はもちろん諸藩も三成を「肝人」以外の評価をしなかった。

史実が勝者の都合のいいように書かれるのは世の常である。

直江山城守兼続

上杉は直接、関ケ原の合戦に参加してはいないが、上杉家の家老・直江兼続石田三成は以前から連携していて、家康が上杉討伐軍を東へ進めたことにより三成挙兵が実現した。

上杉討伐に向かう家康を三成と兼続が西と東から挟撃するという逸話もあるようだが真偽のほどは定かではない。ただ三成が真田昌幸にあてた書状には家康との戦について兼続と密接に連絡を取り合っていたことが明白に受け取れる。

家康に会津上杉討伐を決意させ「関ケ原の合戦」の引き金になったのが世にいう「直江状」である。「直江状」は、家康が直江兼続と親交があった禅宗の高僧・西笑承兌(さいしょうじょうたい)に、書かせた詰問状に対する返書である。

詰問の内容は「上杉とトラブルを抱えていた越後の後任領主である堀秀治による上杉謀叛の讒言を契機に家康は「上杉に謀反のうわさがある。武器を集めているのは謀反の証、会津領内の新城の築城、道や橋の整備は謀叛の準備である。上洛して叛意が無いという誓紙(起請文)を差し出せ」ざっとこんなところである。

これに対して、兼続は「直江状」で以下のように答えている。

会津謀反の噂について内府殿(家康)が不審に思うのは勝手だが、京と伏見くらいの距離でさえも噂は立つもの。ましてやここは遠国(おんごく)、堀秀治などの讒言を信じて調べようともしないのは内府殿(家康)こそ表裏のある人間である。」

「誓詞(起請文)を出せというが昨年から数回出している。提出した起請文が反故になってしまうので重ねて起請文は差し出さない。」
「北国越前殿(前田利長)に謀反の疑いをかけ、思い通りになったということだが、あなたのご威光はさすがである。(上杉はそうはいかないぞとも読み解ける)」
「武具を集めていることは、上方の武士が茶道具を集めるのと同じく田舎武士の風習であり、ご不審には及ばない。景勝に似合わないものを集めているわけではない。そんなことを気にするとは天下を治めるにふさわしくない。」

「道を作っているのは、越後口だけではない。堀監物(秀治)のみが恐れて騒ぐのは弓矢の道を知らない無分別者のようだ。もし景勝が謀反を起こす気があれば、道を開くよりも国を閉じて道を防ぐはず。堀秀治は是非に及ばざるうつけ者である。それでもご不審あれば、使者を送って検分すればいい。」

この返書に家康は激怒し、上杉討伐を決意したといわれている。

関ケ原の合戦後、上杉に対する処分は会津百二十万石から米沢三十万石への減封であった。

百二十一万石から三十七万石へ減封になった毛利輝元とほぼ同等の厳しい処分といえる。

島左近勝猛

島左近島清興)は大和城主・筒井順慶を支える筆頭家老で合戦の天才であった松倉右近と共に「筒井の左近・右近」と呼ばれた名将である。しかし順慶の死後、家督を継いだ定次に疎まれ筒井家を去る。その後、蒲生氏郷豊臣秀長に仕えるが長続きはせず、浪人として放浪した後、近江・江南の高宮の近くに草案を結んだ。

その噂を耳にした石田三成は自ら草案を訪れ自分の知行の半分(約一万五千石)を差し出して家臣とした。三成は左近を召し抱えることにより、自らの弱点を補うことに成功したのである。

その後三成は佐和山城十九万四千石の大名になった時、左近は自らの加増の代わりにより多くの兵を雇い入れることを三成に進言した。石田軍の強化を望んだのである。

関ヶ原では、三成は敗れ左近は命を張って三成を逃亡させた。自ら先頭に立って田中吉政黒田長政勢と戦い、一時はこれを退け家康の旗本近くまで迫ったが黒田勢の鉄砲を全身に浴び、壮絶な討ち死にを遂げた。

石田治部少輔三成

彦根・長浜(201699日)

慶長五年(1600年)の関ケ原の合戦における主役は紛れもなく石田三成である。

豊臣時代「三成に過ぎたるものが二つある 島の左近と佐和山の城」とうたわれた。

佐和山城は、五層の天守閣がそびえる堂々たる巨城であった。

島左近は、上述のように当代きっての名士である。

佐和山城島左近も小碌の三成には分不相応ということだろう。

さて、彦根駅から案内に従って行くと「佐和山城跡上り口1.3キロ」の表示が立っている。

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矢印の方向へ歩いていくと清凉寺の案内が出ている交差点を右折してしばらく行くと「龍譚寺」があるが途中の「佐和山会館」の駐車場の横に佐和山城を復元したデプリカが置かれている。

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その先に「龍譚寺」がある。山門をくぐった所が「佐和山城跡」への上り口である。寺の境内には石田三成の像が置かれている。城跡への急坂を上り始めると「佐和山城跡に最近、野猿の群れが出没いたします。十分ご注意ください」の立て札が立てられていた。ここは野猿か!

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急な坂道を、汗を拭き拭き息をきらせながら上って行くと「西の丸・本丸」「鳥居本」の道標があり本丸を目指してさらに上って行くとすぐに「西の丸(塩櫓)」の看板が目に入る。

佐和山城の大手門は中山道鳥居本にあった。彦根側は「搦め手(城の裏側)」である。

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急坂を上り切った所が「本丸跡」である。佐和山城跡からの見晴らしは非常に素晴らしく彦根の町と琵琶湖が見渡せる。鳥居本側は山が深い。

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龍譚寺の横が「清凉寺」で、ここは徳川家の家臣・井伊家の菩提寺である。

滋賀県百科事典」によると佐和山城をほろぼした井伊直政がこの地に封じられ、死後この地を墓所として法名の文字をとり、祥寿山清涼寺と称して開基とした。

尚、庫裡(くり)のあたりは佐和山時代、三成の名家老といわれた島左近の邸跡といわれている。

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彦根駅に戻り、米原経由で北陸本線長浜駅へ。

三成「三献の茶」で知られる「観音寺」へ行くべく駅の観光案内所立ち寄った。案内所の方の話では駅から56キロの所だという。時間の関係で駅のレンタルサイクルを借りることにした。

駅前ロータリーには、いきなり「秀吉公と石田三成公 出会いの像」が立っている。

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長浜駅から県道509号線を行くとすぐに「従是東長濱領」の碑が道路の左わきに置かれている。さらに先20分ぐらいで「石田」というバス停があり「石田治部少輔三成屋敷跡」の碑が立っている。

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そこを右に入ると石田会館があり三成にまつわる資料が展示されているそうだが休館日で入館できなかった。(事前の調査不足のためこのようなことが多々ある。)

会館前には三成の銅像吉川英治の句碑、西郷隆盛の石碑などが置かれている。

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吉川英治の句碑
吉川英治がこの地に来た時に詠んだ句だそうである。
- 治部殿も 今日冥すらむ(くらすらむ) 蝉時雨 -

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西郷隆盛の石碑には、
関ケ原軍記を読む 西郷隆盛
東西一決 関ケ原に戦う鬢髪(びんぱつ) 冠を衝き(つき)烈士憤る成敗存亡 

君問う勿れ(なかれ) 水藩の先哲 公論あり」

と彫られている。

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石田会館の東側に石田神社があり三成直筆の歌碑や三成の辞世の碑が置かれている。

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「残紅葉」

- 散り残る 紅葉はことにいとおしき 秋の名残は こればかりとぞ -

(おおかた散ってしまってわずかに残っているもみじ葉が秋の名残をわずかに残していていとおしいことだ)自分の身の上を重ね合わせているのだろうか。

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石田三成辞世の歌」

- 筑摩江(ちくまえ)や 芦間に灯すかがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり -

筑摩は現米原市、芦は琵琶湖のヨシだとのこと。

(芦の間に灯っているかがり火と共に我が身の命もがやがて燃え尽きてしまうのだな-)

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石田神社をあとに県道508号の緩やかの坂を上って行く。自転車なので結構きつい。

左手に「石田三成公出生地」の碑がある。その先のトンネルをくぐりヘアピンのようになっている道を行きすぐに右手に入れば「観音寺」である。

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山門をくぐって案内通りに行くと「石田三成水汲みの井戸」があり説明版が添えられている。

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山門に戻り階段を上がっていくと「本堂」である。

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三成については様々な逸話が残っている。ここに二つ挙げておこう。

「三杯の茶(三献の茶)」

石田三成はある寺の童子也。秀吉一日放鷹に出て喉乾く。其の寺に至りて「誰かある。茶を点じてきたれ」所望あり。石田、大なる茶碗に七八分に、ぬるくたてて持ちまゐる。秀吉之を飲み、舌を鳴らし、「気味よし。今一服」とあれば、又たてて之を捧ぐ。前よりは少し熱くして茶碗半にたらず。秀吉之を飲み、又試みに「今一服」とある時、石田此の度は小茶碗に少し許なる程熱くたてて出る。(今度は小さな茶碗に熱く煮立てて出した。)秀吉之を飲み其の気の働きを感じ、住持にこひ、近侍に之を使うに才あり。次第に取り立て奉行職を授けられぬと云えり。」(武将感状記・巻八)

(この話は、子供のころ何度か聞いたものである。)

「葭の運上銭」

「秀吉が三成に五百石を与えると言ったとき、三成はその代わりに、宇治川や淀川に生えている荻や葭の刈り取りに運上(税金)を取り立てる権利をほしいと申し出ました。

三成はその権利をいただければ、一万石の軍役をつとめると約束しました。
果たして、秀吉が織田信長の先手大将として波多野右衛門太夫秀治(丹波、丹後、但馬三州の守護職)追討の時、団扇(うちわ)九曜に金の吹貫をつけた旌旗を真先に持たせ、武具、馬具、華やかに鎧(よろ)うた武者数百騎がやって来た、それを見た秀吉が「見なれぬ旗じるしよ」などと言って使番を走らせてみると、河原の雑草の運上で人数をそろえた石田佐吉の隊であった。」(古今武家盛衰記より)

古今武家盛衰記の巻第一が「石田三成」そして巻第二が「太谷刑部少輔吉隆(太谷吉嗣)」である。

さて、観音寺を後に来た道を帰る途中に「やくし堂道」の碑が立っていて祠の横に「宇喜多秀家」についての説明版が置かれている。

「もう一人の西軍首脳(宇喜多秀家)・備前・美作を統一して城下町岡山を建設した宇喜多尚家の嫡子。早くから秀吉の毛利攻めに協力し、その後も秀吉の天下統一戦に参加した。秀吉晩年には五大老として、政権重鎮の一人であり、秀吉没後は前田利家と共に反家康の中心人物であった。関ケ原合戦では、三成に並ぶ西軍首脳と目された。戦後は島津義弘を頼って薩摩に逃れた後、八丈島に流され、半世紀余りに及ぶ流人生活のまま没した。」(説明版)

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関ケ原の合戦以前に「石田三成襲撃事件」がある。加藤清正をはじめとする武闘派七人は朝鮮・蔚山(うるさん)の戦いなどの評価を不服として文治派、特に三成に深い憎しみを持っていた。特に清正の憎しみは人一倍深い。第一次朝鮮出兵の時、小西行長との「京城」への一番乗り争いで清正は遅れをとったが「京城に入った」旨の秀吉への報告は行長より先んじた。秀吉は、清正が「一番手柄」と勘違いし清正に感状を与えた。三成はその間違いを正すと共に手柄争いに走り統率を乱していると清正を糾弾した。秀吉は激怒し清正に処分を下す。この時以来清正は三成を憎み続けることになる。

司馬遼太郎は、「小説・関ケ原」の中で「三成の異常な正義心と弾劾癖(だんがいへき)が、ここでもしつこくあらわれている。」と書いている。

さて、武闘派諸将(加藤清正福島正則細川忠興、浅野幸長(長政の嫡子)、黒田長政(官兵衛の嫡子)、蜂須賀家正、藤堂高虎)の七人は、三成屋敷襲撃を企てるが秀頼の侍従・桑島治右衛門の通報で屋敷を脱出し事なきを得る。この時、三成は家康の屋敷へ逃げ込んだとドラマに描かれることが多いがその真意は定かではない。(確かにドラマチックではある。)

この事件は、家康が仲裁に入り三成は隠居、蔚山城の戦いの評価の見直しという裁定で収まった。石田三成失脚の時である。

しかしこの事件で豊臣政権の武闘派と文治派の対立は表面化し、その対立を家康に利用される結果となる。

もっとも豊臣政権の武闘派=尾張派=高台院(寧々=北政所)派対文治派=近江派=淀派の対立の構図は遅かれ早かれ豊臣政権を自滅へ向かわせたに違いない。

石田三成をはじめとする文治派と加藤清正達武闘派が文武両面から秀頼を支えていたら事態は違ったであろうがそうはならなかった。時間は前にのみ進む。舞台は真田幸村が主役の大坂の陣へと移っていくのである。