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中山道旅日記 20 赤坂宿-垂井宿-関ケ原宿 2/2

中山道に戻ろう。

「これより中山道」の道標を過ぎてしばらく行くと野上といわれている集落になり「野上の七つ井戸」と呼ばれて旅人に親しまれていた井戸がある。説明版が添えられていて「ここ野上は、中山道垂井宿と関ケ原宿の間の宿(あいのじゅく)でした。江戸時代から、僅少の地下水を取水して多目的(防火用・生活用・農業用)に利用されてきました。街道筋の井戸は「野上の七つ井戸」として親しまれ、旅人には喉を潤し、疲れを癒す格好の飲料水だったでしょう。・・・・・・」

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この地は、古くから「東山道の宿駅」として知られていた。「更級日記」にも「三河尾張となる尾張の国、鳴海浦を過くるに夕汐ただみちみちて、今宵宿からむも、ちうげん(中程)に汐みち来なばここをも過ぎじとあるかぎり走り惑ひ過ぎぬ。美濃国なる境に、すのまたといふ渡して、野上という所につきぬ。そこに遊びどもい出で来て、夜ひと夜うたふに、足柄なりしおもひ出でられて、哀れに恋しきこと限りなし。雪ふりあれ惑ふに物の興もなくて、不破の関、あつみの山など越えて、近江の国おきなかという人の家にやどりて、四五日あり。みつさか山の麓に、よるひる、時雨、霰(あられ)降りみだりて、日の光もさやかならず、いみじう物むつかし。」とある。

また「木曽路名所図会」には「野上の里 関ケ原と垂井との間にあり。いにしへは駅なり」と書かれている。

七つ井戸から10分程行くと「山之内一豊陣跡」の説明版が立っている。

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その先は松並木で「旧中仙道松並木」の説明版が立っている。また、松並木の途中に「六部地蔵」が祀られている。

「旧中山道松並木 町指定天然記念物・江戸時代には、一里塚をつなぐ街道の両側に、松・杉・楓などの並木があって、その木蔭は旅人のしばしの憩いの場所となっていました。しかし、近年虫害や台風などによる松並木の減少が目立ってきました。

そのため町では、天然記念物に指定し、防虫対策や補植により、その保護につとめています。 関ヶ原町」(説明版)

「六部地蔵・六部とは「六十六部」の略で、全国の社寺などを巡礼して、旅をしながら修業している「人」ということで、厨子(ずし)を背負って読経しつつ行脚中の行者が「宝暦十一年頃」(1761年)この地で亡くなられたので里人が祠を建てお祀りされたといわれております。この六部地蔵さんは、「六部地蔵 歯痛なおりて 礼参り」と読まれているように、痛みのひどい病気をなおすことで名を知られています。 関ヶ原町」(説明版)

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松並木は国道に合流し、5分程行くと左手に関ケ原の合戦において徳川家康が最初に布陣した「桃配山(ももくばりやま)」への登り口が見えてくる。

桃配山は六七二年の壬申の乱(じんしんのらん)の時、大海人皇子(おおあまのみこ・後の天武天皇)が野上からこの不破に出陣したとき山桃を全兵士に配り戦に勝利した。

家康がその故事に習いこの桃配山に最初の陣を構えたとされている。

木曽路名所図会」には「天武天皇の行宮(あんきゅう)野上村の西往還右の方、山間の平地をいふ。また慶長五年九月十五日御本陣なり」とある。

坂を上ると家康の陣跡の碑と三つ葉葵ののぼりが立っている。

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街道に戻ると「若宮八幡神社」があり、このあたりが「関ケ原宿」の入り口であろう。

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58宿 関ケ原宿・本陣1脇本陣1、旅籠33

(日本橋より112278間 約442.8キロ・垂井宿より114町 5.45キロ)

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関ケ原宿は北国街道・木之本宿へ通じる「北国脇往還」(北国街道のバイパスルート)の起点で「伊勢街道」との分岐点でもあり美濃十六宿の中では一番賑わった宿場である。

また「天下分け目の合戦」の地としてあまりにも有名で「壬申の乱」の舞台でもあった。六七二年に起こった「壬申の乱」では「大海人皇子」と「弘文天皇」が東西に分かれて戦い東軍の大海人皇子が勝利を収めている。

伊吹山」と「鈴鹿山脈」に囲まれた関ケ原は、自然の隘路(あいろ)ともいえる地形で古くから東西を分ける重要な地点であったといえる。

宿場に入りしばらく行くと右手に「脇本陣跡」の門だけが残っている。

そのすぐ先に八幡神社がある。後で分かったことだが本陣はこのあたりにあり宿場の中心だったようである。

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ここで中山道をそれ「関ケ原古戦場」、石田三成が陣を構えた「笹尾山」を訪ねてみることにする。

脇本陣跡のすぐ先を右折し東海道線を越えたところの広場に松平忠吉井伊直政の陣跡の説明版が立っている。

「慶長五年九月十五日の合戦の役に中山道の敵を目標とする福島,藤堂、京極隊、北国街道を黒田、竹中、細川等の隊、その中央にあたるこの地に家康の四男、松平忠吉、後の彦根城主井伊直正が約六千の兵で陣を構えた。

 午前八時頃、軍監・本多忠勝より開戦を促され、直正は忠吉を擁して前進し宇喜多秀家の前面に出たが、先鋒は福島正則であると咎められ、方向を転じて島津義弘の隊に攻撃し開戦の火ぶたが切られた。」(説明版)

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その少し下がったところに「東首塚」「首洗いの古井戸」がある。

「東首塚国史跡(昭和6330日指定)

この塚は関ヶ原の戦い直後に、この地の領主竹中家が築いたもので、家康によって実検された将士の首が、ここに眠っています。

文部省の史跡指定時に、標柱や石柵が建てられた後、昭和十七年には、徳風会によって、名古屋から山王権現社本殿・唐門が塚の脇に移築されて、東西両軍の戦没者供養堂となりました。 関ヶ原町 」(説明版)

「首洗いの古井戸・合戦で討ち取られた西軍将士の首は、家康によって首実検され、その後塚を造ってねんごろに葬られました。

首実検に先立ち、首装束のため、この井戸水を使って首級の血や土などが洗い落とされたと伝えられています。

戦国期の戦場では、首実検後は敵味方の戦死者を弔い、供養塚を築くというのがならわしだったのです。 関ヶ原町」(説明版)

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先へ行くと「徳川家康最後の陣跡」があり「床几場 徳川家康進旗驗馘處」の碑も立っている。

徳川家康最後陣地・国史跡(昭和6330日指定)

戦がたけなわとなると、家康は本営を桃配山から笹尾山の南東1キロのこの地点に進出させました。ここで、家康は陣頭指揮に当るとともに、戦いが終わると、部下の取ってきた首を実検しています。周囲の土塁や中央の高台は、天保十二年(1841)に幕府の命により、この地の領主竹中家が築いたものです。 関ヶ原町」(説明版)

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最後の陣跡のすぐそばに「歴史民俗資料館」があり関ケ原の合戦の資料が多数展示されている。ここで荷物を預かってもらって先の笹尾山まで足を延ばすことにする。

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歴史民俗資料館から15分ほど歩くと「関ケ原古戦場・決戦地」と刻まれた碑が石田三成徳川家康ののぼりと共に立っている。

(のぼりのはためきを見ればわかるが今日は風が強い。)

「決戦地 国史跡(昭和6330日指定)

西軍有利な陣形で臨んだ戦いでしたが、小早川と脇坂ら四隊の裏切りは、たちまちにして戦況を一変させました。

小早川勢の大谷隊への突入と同時に、西軍の敗色が濃くなり、各軍の兵士の浮足立つなか、石田隊は集中攻撃を受けながらも、最後まで頑強に戦いました。笹尾山を前にしたこの辺りは、最大の激戦のあったところです。関ヶ原町」(説明版)

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その先に三成が陣を構えた「笹尾山」で「島左近(勝猛)陣跡」の説明版立ち、矢来(やらい)の上が「石田三成陣跡」である。

島左近(勝猛)陣跡

三成が家禄の半分を与えてまでも仕官させたといわれる左近です。

前日の杭瀬川の戦で中村隊を破り、本戦では石田隊の先手として布陣。黒田・田中らと奮戦後、家康本陣に迫ろうとしましたが、銃弾を受けて討ち死にしたともいいます。鬼の左近と称され、謎に満ちた猛将像は諸書に様々な姿で描かれています。関ヶ原町」(説明版)

三成陣跡には四阿(あずまや)もあり一息入れることが出来る。

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ここで、関ケ原の合戦のイベントを時系列で並べてみよう。

★「石田三成 暗殺未遂事件」

秀吉子飼いの武断派の武将7名(加藤清正福島正則黒田長政藤堂高虎細川忠興加藤嘉明、浅野幸長)が石田屋敷の襲撃を企てるが、石田三成は事前にそれを察知し屋敷を脱出、徳川家康の仲裁により事なきを得るが三成はこの事件により謹慎処分となる。

★「直江状」

慶長五年四月、会津上杉家家老・直江兼続は、「直江状」なる挑戦状を家康に送りつける。石田三成直江兼続が連携して家康を挑発したのである。

★「上杉征伐」

慶長五年六月、徳川家康、上杉征伐のため大坂を出陣。

★「石田三成、挙兵」

慶長五年七月十一日、石田三成徳川家康の悪行を13ヵ条にまとめた告発文「内府ちかひ(違い)の条々」を公表し諸国の大名の集結を呼びかる。

豊臣五大老毛利輝元を総大将とする。

★「伏見城の戦い(関ケ原の合戦の前哨戦)」

慶長五年七月十九日、総大将・宇喜多秀家、副将・小早川秀秋らが率いる西軍約4万の軍勢が徳川家の家臣鳥居元忠2千人足らずで守る伏見城を攻撃、81日、20日間あまりの激しい攻防の末伏見城は落城し元忠をはじめとする380名あまりが自刃して果てた。京都・大原の「宝泉院」は自刃した武将の血がべっとりとつきやがて黒ずんだ床を廊下の天井に祀り、供養としている。(宝泉院の血天井

(京都・大原、三千院の近くにある宝泉院は紅葉と客殿の柱と柱の間を額縁に見立てて観賞する額縁庭園が有名で庭園は竹林の前に梅や桜、松、楓などの木々が植えられ、季節、時間ごとに趣の異なる景色が楽しめる。

山崎豊子の小説「不毛地帯」に宝泉院が登場する。「夕日がかげり、さながら幽玄の世界を眼のあたりにするようであった。やがて霞のような夕靄(ゆうもや)が流れ、金色に輝いた竹の葉は紫色に変り、薄墨色の夕闇の中に溶け込むように昏れなずんで(くれなずんで)行った。」)(二度この寺を訪問したが夕日を見るには冬至の頃がいいように思う。)

★「犬伏の陣」

慶長五年七月二十一日、家康が発した「会津征伐」の号令に応じて真田昌幸は上田を、信幸は沼田を、そして幸村は大坂を出発する。途中、幸村は父・昌幸に合流し犬伏(栃木県佐野市)に陣を構える。犬伏の陣に密使が着き、直江兼続との連携により石田三成が挙兵したこと、太谷吉嗣が三成の味方についたことなどが知らされる。昌幸、幸村に信幸が加わり三者が対応を協議し、激論の末、昌幸、幸村は石田方へ、信幸は家康方に味方することになる。幸村「父子、兄弟が敵味方に分かれて戦うのもあながち悪う(あしゅう)はござりますまい。沼田が立ち行かぬ時は上田が」信幸「上田が立ち行かぬ時は沼田がということか」幸村「いかにも」(NHKドラマ・真田太平記「第22回・決裂 犬伏の陣」の名場面である)

★「小山評定

慶長五年七月二十五日、伏見城、落城の報告を受けた家康は下野国・小山(栃木県小山市)で軍議を開き上杉討伐は中止、西へ返し石田三成を討つことを決定する。(ここに徳川家康の東軍、石田三成の西軍という図式が出来上がる。)

★「北の情勢」

出羽・最上と陸奥(奥州)・伊達は家康派、常陸・佐竹は中立的立場にある。

家康は実子・結城秀康に佐竹の押さえを命じ、最上と伊達に上杉への攻撃を依頼する。

徳川軍の反転は上杉軍にとって千載一遇のチャンスだったが、上杉景勝は「謙信公(上杉謙信)は敵の背後を襲うことはなかった」と追撃を許さなかった。

景勝の「律儀さ」と「頑固さ」は上杉にとってラッキーであったというべきである。

この時、上杉は北には出羽の最上、陸奥の伊達、西には越後の堀と完全に包囲されていたからである。もし家康を追撃していたら壊滅的な打撃を受けていたに違いない。
慶長五年九月八日、直江兼続率いる上杉軍は米沢と荘内の二方面から、最上領へ侵攻を開始し、直江兼続上杉景勝)と最上義光伊達政宗の合戦が始まった。「東の関ケ原」とも「もう一つの関ケ原」ともいわれている「慶長出羽合戦」である。

★「東軍西上」

 徳川秀忠率いる徳川譜代を中心とする主力37千が中山道を、福島正則をはじめとする豊臣恩顧の大名勢は東海道を西上。

★「東軍清洲城入城」
慶長五年八月十四日、東海道を西上した東軍は、福島正則の居城・尾張国清洲城に入城。

★「東軍、美濃へ進攻」
慶長五年八月二十二日、福島正則細川忠興16千は、清洲城から美濃路を進み、木曽川を渡り美濃国へ進攻、西軍の竹ヶ鼻城、開城。

池田輝政、浅野幸長、山内一豊18千は岐阜城主・織田秀信軍を破り木曽川・中洲の小屋場島まで進軍。(河田木曽川渡の戦)

八月二十三日、岐阜城落城。(岐阜城の戦)

★「家康出陣」

慶長五年九月一日、徳川家康岐阜城落城の知らせを受け3万の軍勢で江戸城出陣。
慶長五年九月十四日、美濃国赤坂に着陣。

★「大垣城
慶長五年九月十日、石田三成大垣城入城。大垣城は、赤坂の南東にあるため、西軍は赤坂に陣を構える家康の旗印を見て動揺し、逃亡する兵士も相次いだ。

慶長五年九月十四日、兵たちの動揺を鎮めるため、島左近500の手勢で、東軍に戦を仕掛け快勝。西軍の動揺は鎮まり、士気も上がった。(杭瀬川の戦)

夜になり、西軍の島津義弘宇喜多秀家島左近は、家康陣営への夜討ちを主張するが、三成はこれを許さず。島津義弘は、石田三成の指揮には従わないことを決意する。

★「秀忠遅参」

中山道を進む徳川秀忠の主力部隊は、信濃国上田城真田昌幸、幸村父子を攻めるが大苦戦を強いられ合戦に遅参(第二次上田合戦)。これにより秀忠は生涯真田を恨み続けることになる。

★「関ケ原の合戦布陣」

西軍は、北の笹尾山に石田三成、その南に島津義弘小西行長、天満山に宇喜多秀家、その南に大谷吉継、西軍主力を見下ろす松尾山に小早川秀秋中山道の東軍を南から見下ろす南宮山に吉川広家、毛利秀元、安国寺恵瓊の毛利勢が布陣した。西軍は、北、西、南から東軍を囲み込む陣を敷いていたのである。
一方、東軍は三成の笹尾山に対して黒田長政、その南に加藤嘉明細川忠興、宇喜多直盛、田中吉政、筒井定次、左翼に福島正則、総大将の徳川家康は後方の桃配山に陣を構えた。桃配山の右後方・南宮山には家康の陣を見下ろす形で西軍の毛利勢が布陣している。この時、毛利勢が家康を攻めたなら確実に西軍が勝利を収めていたに違いない。しかしそうはならなかった。吉川広家は家康と密約を交わしていたのである。

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関ケ原は「伊吹山」と「鈴鹿山脈」に囲まれた自然の隘路(あいろ)である。両軍の布陣をみると狭い窪地の東軍を、山の上の西軍が完全に包囲しているのがわかる。

ドイツの軍事家「クレメンス・メッケル」がこの布陣を見て即座に「西軍の勝」と言ったそうだが、軍事家でなくても誰もが「西軍有利」と言うに違いない。

★「合戦」

 慶長五年(一六〇〇)九月十五日、濃霧の朝である。

 戦は、宇喜多秀家福島正則の銃撃戦で始まった。

(この前に榊原隊が島津隊に鉄砲を仕掛けるという小競り合いはあったが)

 宇喜多秀家 17000 X 福島正則 6000

その後、石田三成の本隊に、東軍の「黒田長政」「細川忠興」「加藤嘉明」などの部隊が攻撃を仕掛ける。

石田三成 4000     黒田長政 5400

島左近  1000     細川忠興 5000

蒲生郷舎 1000     加藤嘉明 3000

その他  2000     その他  6000
西軍は善戦し、やや押し気味に戦をしていた。ところが西軍諸将のそれぞれの事情が西軍優位を覆してしまう。

石田三成は戦況をさらに有利にするために島津義弘に攻撃を依頼するが「夜討ち」を受け入れられなかった島津は動かず。

南宮山・毛利勢の吉川広家は「所領安堵」を条件に家康と裏切りの密約を交わしている。

四国・土佐の長宗我部は、会津征伐に参戦するはずであったが関所の閉鎖で西軍に加わっただけでこの戦にはあまり積極的ではない。

昼頃になり、裏切りを約していた松尾山の小早川秀秋に東軍が威嚇射撃を行い、驚いた秀秋は太谷吉嗣軍を攻撃し形勢は一気に東軍に傾いた。

太谷吉嗣は自害、宇喜多秀家小西行長は敗走、島左近は討死、そして石田三成は戦場を離脱、島津義弘は敵中を突破し薩摩へ帰還。

天下分け目の大戦は、わずか7時間ほどで夕刻前には決着した。

一般的には関ケ原の合戦での一番の裏切り者は小早川秀秋とされているが吉川広家の裏切りは小早川秀秋の比ではない。総大将・毛利輝元の身内でありながら戦の前から敵方と密約を交わし味方を裏切った張本人がいたことは西軍にとって痛恨の極みであろう。それも戦国武将の一つの生き方かもしれないが。

徳川秀忠の主力37千の参戦なく合戦は終わりを告げた。関ケ原で戦ったのは主に豊臣恩顧の武将たちである。つまり豊臣恩顧の武将たちが敵味方に分かれて戦い、家康に天下をプレゼントしたことになる。

★戦後処理
西軍総大将・毛利輝元は、大坂城を退去。
石田三成小西行長安国寺恵瓊は捕らえられて京都六条河原で斬首。

岐阜城主・織田秀信13万石を没収され、高野山へ追放。
毛利家は、長門国周防国の二か国、29万石だけが安堵。(吉川広家の密約通り全所領安堵とはならなかった。因みにこの恨みが二百数十年の後、倒幕の急先鋒につながったという説もあるがにわかには信じがたい。)
宇喜多秀家は改易となり、島津家にかくまわれていたが自首し、後年八丈島へ流罪。
島津義弘薩摩国に戻り交渉の末、本領を安堵。
上杉景勝は、出羽米沢30万石に減封。

真田昌幸真田幸村父子は、真田信幸(信之に改名)とその岳父・本多忠勝の嘆願により高野山九度山へ配流。
長宗我部盛親土佐国へ逃げ戻ったが後に改易。

といったところか。

本日はこの後、JR関ケ原駅に戻り帰宅。駅のフェンスには関ケ原の合戦に参加した武将の家紋が貼られている。

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30日目(517日(火)) 浦和-関ケ原宿

今回は大垣駅前のコンフォートホテルに前泊、朝813大垣駅発の電車で関ケ原へ。

中山道に戻り先へ行くと黒田長政陣跡・竹中重門陣跡の標識が立っている。東軍は中山道を西進したので関ケ原宿手前から東軍諸将の陣跡がそこかしこに見られる。

標識のすぐ先には毘沙門天が祀られている。

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このあたりは古い町並みで常夜灯も置かれている。

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その先へ行くと「西の首塚」があり右の祠に十一面観音、左の祠に馬頭観音が祀られている。この塚は関ヶ原合戦、戦死者数千の首級を葬った塚である。

木曽路名所図会には「首塚 関ケ原宿の西、往還の左にあり。又若宮八幡宮の傍(かたわら)、越前街道にもあり。慶長戦死の塚なり。

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先へ行くと「松尾山・小早川陣跡」の道標が立っているが。陣跡まで2.4キロもあるというので時間の関係で先へ進むことにする。しばらく行くと「月見の宮福島陣址一丁」と刻まれた碑が立っている。

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そこを左へ入ると「福島正則陣跡」の道標がありそれに従っていくと春日神社がある。この神社は月見の宮とも呼ばれ月見の名所であったそうである。福島正則はここに陣を構えた。ここには樹齢800年の大杉があり、説明版が添えられている。福島正則陣跡の説明版も立っている。

「月見宮大杉・町天然記念物(昭和3685日指定)

この杉の巨木は、関ヶ原合戦図屏風にも描かれていて、樹齢は八百年余りと推定されています。平安の御世より、長く時代の変遷を見つめてきたとは驚嘆に値します。その記録は幹の年輪に刻まれています。目通り約5.80m、高さ約25mと貝戸大神宮大杉に次ぐ、正に杉の横綱です。 関ヶ原町」(説明版)

この場所は、西軍・宇喜多秀家と東軍・福島正則が激しく戦ったところである。

福島正則陣跡・東軍の先鋒となった福祉正則(約六千人)は、ここで南天満山の宇喜多隊と対陣しています。一番鉄砲の功名を井伊隊に横取りされるや、正則自ら鉄砲隊を指揮して、宇喜多隊に一斉射撃を浴びせるなか、一進一退の攻防戦が続きました。首取りで手柄を立てた可児(かに)才蔵が、家康の賞賛を受けたとされています。関ヶ原町」(説明版)

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街道に戻ると「美濃不破関東山道と東城門跡」の説明版が立っている。

「美濃不破関のほぼ中央部を東西に東山道が通り抜けていた。関のここ東端と西端には城門や楼が設けられ、兵士が守りを固めていた。日の出とともに開門、日の入りとともに閉門された。また、奈良の都での事変や天皇崩御など、国家的な大事件が起きると、中央政府からの指令によって固関(こげん)がおこなわれ、すべての通行が停止された。関ヶ原町」(説明版)

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そこから数分行くと「不破関の庁舎跡/大海人皇子・兜掛石・沓脱石」の道標があり、壬申の乱の時、大海人皇子(おおあまのみこ)が兜を掛けたと言われている石が祀られていて説明版が添えられている。

不破関 関庁跡と兜掛石 町・県史跡 

この辺りを中心に建物があったとされ、関内の中央を東西に東山道が通り、その北側に瓦屋根の塀で囲まれた約一町(一〇八米)四方の関庁が設けられ、内部には庁舎・官舎・雑舎等が建ち並び、周辺土塁内には兵舎・食料庫・兵庫・望楼等々が建っていました。

ここに祀られている石は、壬申の乱の時、大海人皇子(おおあまのみこ)が兜を掛けた石と伝えられ、左斜めうしろには同皇子使用の沓脱石があります。 関ヶ原町」(説明版)

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その先数分の所に「不破の関跡」がある。美濃・不破の関壬申の乱(六七二)後に天武天皇が設けた「越前・愛発の関(あらちのせき)愛知とも書く、伊勢・鈴鹿の関とともに三関の一つである。しかし桓武天皇の時代、争いも少なったことから七八九年に廃止となった。今は代々関守を務めた「三輪家」の庭になっている。

庭には不破の関跡の碑や芭蕉の句碑、大田蜀山人狂歌碑が置かれている。

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- 秋風や藪も畑も不破の関 - 芭蕉

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- 大友の 王子の王に 点うちて つぶす玉子の ふわふわの関 - 大田蜀山人

(大田蜀山人(おおたしょくさんじん)=江戸時代の御家人天明期を代表する文人狂歌師。)

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不破関は美濃の歌枕である。

- 人住まぬ不破の関屋の板庇(いたひさし)荒れにしのちはただ秋の風 - 藤原良経

は「新古今和歌集」に収められている。芭蕉はこの歌を意識したのだろうか。

その他

- 不破の関 朝こえゆけば霞たつ 野上のかなたに鶯ぞなく- 藤原隆信

- あられふる不破の関屋に旅寝して夢をもえこそ遠さかりけり - 大中臣親守

などがある。

また、「十六夜日記」には「不破の関屋の板びさしは、いまもかわらざりけり。」とある。

不破の関跡の先は道が2方向に分かれていて「左 旧中仙道」の道標が立っている。その通り左の下り坂の途中に説明版が立っている。

不破関西城門と藤古川・不破関は藤古川を西限として利用し、左岸の河岸段丘上に主要施設が築造されていました。川面と段丘上との高度差は約十~二十米の急な崖になっており、またこの辺一帯は伊吹と養老・南宮山系に挟まれた狭隘な地で、自然の要害を巧みに利用したものでした。ここには大木戸という地名も残っており、「西城門」があったとされています。関ヶ原町」(説明版)

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坂を下った所に藤古川が流れていて川に「藤古橋」が架かっている。説明版によると藤古川は古くは「関の藤川」と呼ばれ、壬申の乱では川を挟んで東側に大海人皇子(おおあまのみこ)軍、西側には弘文天皇軍が布陣した。そのためここより東を「関東」西を「関西」と呼ぶようになったという。関ヶ原合戦では大谷吉継が布陣するなど「関の藤川」は軍事上の要害の地であった。

木曽路名所図会」には「関の藤川 松尾村西にあり。水源、伊吹山の麓より流て、北国街道藤川の宿の東を行、松尾村の西、不破の関の下を流れ、多良川と落合て、栗笠より勢州桑名に入る。俗にこれを藤子川といふ。土橋かかる。」と書かれている。

木曽路名所図会」には、

- 美濃の国 関の藤川たえずして 君につかへん 万代(よろつよ)までに -(古今和歌集

- 神代より みちある国につかへける ちぎりもたえぬ関の藤川 - (風雅和歌集)

などの歌が記されている。

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橋を渡ると「大谷吉隆(大谷吉嗣)の墓七丁」の碑が立っている。

木曽路名所図会」には「太谷刑部少輔吉隆塚 山中村、左の方の山下にあり。慶長乱後、藤堂家これを建てる。」とある

吉嗣の墓への途中に「矢尻の池(井)」の道標があったので寄り道をしてみると説明版があり「矢尻の池(井)・関ヶ原宿から今須宿に向かう中山道のうちでも、不破関・藤川と続くこの辺りは、「木曽名所図会」にも描かれ、歌枕となっていました。この窪みは壬申の乱672)のとき、水を求めて大海人皇子軍の兵士が矢尻で掘ったものと伝えられています。長い年月を経た今では、その名残を僅かに留めているに過ぎません」と書かれている。

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先へ進みと「若宮八幡神社」があり、「宮上 太谷吉隆陣地」の碑が立っている。「太谷吉隆」は「太谷吉嗣」の異名で一般的には「吉嗣」で通っている。

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吉嗣の陣跡は若宮八幡神社の上にあり、道標に従って山道を上って行くことになる。

「太谷吉隆(吉嗣)陣跡 親友三成の懇請(こんせい)を受けた吉隆は、死に装束でここ宮上に出陣してきました。松尾山に面し、東山道を見下ろせるこの辺りは、古来山中城といわれるくらいの要害の地でした。九月三日の到着後、山中村郷士の地案内と村の衆の支援で宇喜多隊ら友軍の陣造りも進め、十五日未明の三成ら主力の着陣を待っていたといいます。 関ケ原町」(説明版)

 

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さらに上ると吉嗣の墓があり、さらに上ると小早川秀秋が布陣した松尾山眺望地に出る。

「松尾山眺望地 正面一・五キロに望む標高二九三米の山が松尾山である。関ケ原合戦において小早川秀秋が布陣したことで有名である。当時の遺構がほぼそのまま残っており、山頂に軍記が翻っているのが確認できる。吉嗣は予て(かねて)から秀秋の二心(ふたごころ)を疑っていたので、自ら二千の兵を率いて下方山中村の沿道に出て、専ら(もっぱら)秀秋に備えていた。案の定秀秋の兵一万三千が山を下り突撃してきたが、その大軍を麓まで撃退すること三度。ついに総崩れとなり吉嗣は自刃(じじん)した。こうして眼下で数倍の敵と互角以上の死闘を展開した太谷吉嗣の雄姿が偲ばれる。 関ケ原町」(説明版)道標によると一キロ先に宇喜多秀家の陣跡があるというのだが今回は無理か。

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大谷吉嗣

豊臣秀吉の家臣で越前敦賀の城主である。

秀吉は生前「大谷紀之介(吉継)に100万の軍勢を与えて、自由に軍配を指揮させてみたい」と言っている。それほどまでに大谷吉嗣の武勇、采配は見事なものであったという。

吉嗣は、三成を介して秀吉の家臣になったといわれていて、その為か三成との友情は深い。

「古今武家盛衰記」では巻第二 大谷刑部少輔吉隆として石田三成の次に登場する。

「時に吉隆十六歳、平馬と號す(ごうす=名づける)。太閤播半州を領し、姫路城主たる時、故ありて石田三成此時左吉といふが取持にて召出され、頓て(やがて)元服させられ、初めて百五十石を賜ふ。屢(たびたび)軍忠を盡し(つくし=戦の時には忠節を尽くし)、後太閤天下の主将となりて、終に越前敦賀城五萬石を賜はり、且(かつ)五奉行に列す。是より嚮(きょう=先)、従五位下刑部少輔と敍任し、諱(いみな)の字を賜はり吉継と稱し(しょうし=名乗り)、後四品に進む。」(古今武家盛衰記)、続いてその人となりを「大谷其性(そのさが)仁智深く、勇ありて猛からず、徳を隠し、信ありて僞(いつわり)なく、禮ありて驕らず(おごらず)。人擧つて(こぞって)賢と稱す(しょうす)。」(古今武将盛衰記)

また、「名将言行録」には「人となり、才智聡頴、勤労倦(う)まず、能く(よく)秀吉の心に叶へり」「吉継汎く(あまねく)衆を愛し、智勇を兼ね、能く邪正を弁ず、世人称して賢人と言ひしとぞ」とある

大谷吉継は、尾張派とは仲が悪いと言われている近江派ではあるが、尾張派との関係は悪いものではなかったようである。
尾張検地や財政、兵糧の調達や輸送の手配など内政面を得意とする一方、武術も秀でていため加藤清正福島正則などの武闘派(尾張派)からも一目置かれていたのであろう。
また、家康もその有能さを愛していたといわれている。

大谷吉継は、関ケ原以前はあまり表舞台には出てこないが関ケ原の合戦で一躍脚光を浴びることになる。

吉継が「義に厚い名将」として名を高めた理由は関ヶ原における壮烈な活躍にある。西軍は日和見や裏切りが相次いだのに対し、吉継とその軍のみは寡兵ながらも最後まで奮戦した。関ヶ原における大谷軍の奮戦を「名将言行録」は、「士卒皆其恵に懐き(しそつみなそのめぐみをいただき)、敢て(あえて)離反する者なし、其(その)敗るるに及びて、決然として自屠(自害)し、陵辱を受けず、人皆其智勇に服せり(ひとみなそのちゆうにふくせり)」と書いている。

大谷吉嗣は、家康の実力を高く評価し天下人にふさわしい人物としていた。家康の上杉征伐にも参加するはずであったが途中で三成の居城・三和山城に立ち寄り、家康打倒の決意と理由を聞いた時、三成の人望のなさを指摘し勝ち目のない挙兵を思い止まるよう説得した。「古今武将盛衰記」は、次のように書いている。

「大谷曰く、此言理に當るといへども、(三成の言っていることはもっともであるが)彼を知つて己を知らず。今武家の高位なる、家康に過ぎたるなし。三徳備はり勲功優れたる、是に過ぎたるなし。勇士餘多(あまた)持てる(あまりにも多くの勇士を持っているのは)、家康に過ぎたるなし。慈悲深く家臣能く懐(なつ)きたる、是に過ぎたるなし。俸禄の多き、是に過ぎたるなし。此五の者、一つとして御邊の身に及ばず(これら五つの一つとしてあなたは持っていない)。是れ勝利なきの謂(いわれ)なり。」

しかしながら三成の決意は固く、翻意(ほんい)は難しいと判断した吉嗣は三成への味方を決意する。難病を患っていたにもかかわらず厚い温情を受けた秀吉への恩義と、三成への友情が吉嗣をそうさせたのであろう。

「大谷癩病(ライ病=ハンセン病)を受け、五體(五体)苦み雙眼(そうがん=両目)盲す。太閤憐んで恩顧厚し。殊に秀頼の後見なれば、諸事家康公へ窺ふ(うかがう)。(武古今武家盛衰記)

吉継が西軍に与した(くみした)ことを知った家康は非常に驚き狼狽したという逸話が残っている。

吉嗣の関ヶ原での戦いぶりは凄まじいものがあったという。宇喜多勢を主力に合戦当初は東軍を押しまくった。しかし、小早川秀秋が裏切り大谷軍に襲いかかった。小早川秀秋13,000人の襲撃を吉嗣は兵600の兵で迎撃したという。

しかし、これに動じることなく、小早川軍を一度は押し返した大谷隊であったが大谷隊に属していた、脇坂・朽木・小川・赤座の四氏らも裏切るにおよんで、ついに大谷軍は壊滅し、吉継は自害して果てた。

「自害する際、小早川秀秋の陣に向かって「人面獣心なり。三年の間に祟りをなさん」と言って切腹したが、この祟りによって秀秋は狂乱して死亡に至ったという噂がある。秀秋は関ヶ原の戦いの二年後に死亡した。」(関東軍記大成)

不治の病を得て、両目が見えなくなってしまった吉嗣は、関ケ原に死に場所を求めていたのかもしれない。

大谷吉嗣は、

- 契りあらば 六の巷で待てしばし 遅れ先立つことはありとも -

(約束通り来世の入り口(六道の巷)で待っていてくれ。どちらが先に行くことになっても。)

と辞世の歌を詠んでいる。これは共に戦った「平塚為広」の辞世の歌

- 名のために棄つる命は 惜しからじ 終にとまらぬ浮き世と思えば -

(人は永遠に生きることはできない。君のために捨てる命は惜しくはない。)

に対する返歌と言われている。

「名将という言葉を、この戦場の敵味方の諸将のなかで求めるとすれば、大谷吉嗣こそそうであろう。」と司馬遼太郎は「小説・関ケ原」の中で言っている。