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中山道旅日記 23 武佐宿-守山宿-草津宿

32日目(519日(木))武佐宿-守山宿-草津宿

近江鉄道近江八幡駅から武佐駅まで戻り街道へ。このあたりは桝形になっていて、桝形を抜け、近江鉄道の踏切をこえると宿外れとなりしばらく行くと「伊庭貞剛(いばさだたけ)誕生地」がある。伊庭は住友財閥が所有する別子銅山を立て直した人物だそうだ。

旧道はその先で国道に合流するが、この道路は歩道がないので極めて危険である。

六枚橋の交差点を右折し旧道に入って数分歩くと小さな公園がありその奥に「住蓮坊首洗い池」なるものがある。鎌倉時代後鳥羽上皇の怒りに触れた、住蓮坊(じゅうれんぼう)(法然上人の弟子)が処刑された時にその首を洗った池だそうだ。(法然上人は鎌倉時代の有名な僧で浄土宗開祖の人として知られている。

その先、旧道は再び国道に合流し、しばらく行くと左手奥に古墳が見える。住蓮坊古墳と呼ばれていて、千僧供古墳群(せんぞくこふんぐん)の一つである。古墳の上には住蓮坊と安楽坊の墓が並んでいる。(安楽坊遵西(あんらくぼうじゅんさい)は後鳥羽上皇の女房たちが遵西達に感化されて出家した件で罪に問われ、弟子とともに京都で斬首刑に処せられた。)

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先へ進み白鳥川に架かる千僧供橋(せんぞくばし)を渡る。(千人の僧が供養したから千僧供(せんぞく)というのだそうだ。

その先、しばらく歩いた馬淵交差点を越えたところに八幡神社がある。社伝によれば白河天皇の時代に源義家が奥州軍征の途中 この地に霊験を受けたとことにより応仁天皇の霊を勧請して武運の長久を祈願し八幡社の造営をしたとある。元亀二年(1571織田信長の兵火によって焼失したため 文禄五年(1596)に再建したものが現在の本殿であると伝えられる。

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すぐその先、右手に旧道が復活し、30分程行くと土手に出るがここが「横関川渡し跡」で当時はここから対岸へ舟で渡ったということだ。

広重が浮世絵「中山道六十九次の内・武佐」を描いた場所で、説明板が立っている。

中山道は別名「木曽海(街)道」とも呼ばれていた。その中山道六十九次の第六十七番目が武佐宿である。この絵は浮世絵師安藤広重が武佐の西にある日野川(横関川)の舟渡しの様子を描いたものである。」(説明版より)

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その先、日野川の土手を歩き国道に合流した後横関橋を渡り、再び土手を歩く。「横関川渡し跡」の対岸あたりから西横関の集落である。旧道はすぐに国道に合流し西横関の信号の所に「是よりいせみち」側面に「ミなくち道」と彫られた道標が置かれている。この先に善光寺川が流れているが当時はここから善光寺川に沿って水口(みなぐち)や伊勢に向かう人々が利用したのだろう。

さて、善光寺川を渡り、左手の旧道に入ると「鏡の里」と呼ばれる「間の宿(あいのじゅく)」で鎌倉時代はかなり大きな宿駅であった。「亀屋跡」、「京屋跡」といった旅籠屋跡が並んでいる。

旧道が国道と合流する手前に「愛宕山」と彫られた石灯籠が立っている。国道に合流するとさらに「吉野家」「吉田屋」「升屋」といった旅籠屋跡が並んでいる。

木曽路名所図会には「鏡宿(かがみの宿) むかしは駅なりしか、今は馬次なし。旅舎多し。守山よりこれまで弐里。武佐まで一里半余。」とある。

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義経宿泊の館≫

「沢弥伝と称し旧駅長で屋号を白木屋と呼んでいた。

牛若丸はこの白木屋に投宿した 義経元服の際使用した盥は代々秘蔵して居たが現在では鏡神社宮司林氏が保存している

西隣は所謂本陣で元祖を林惣右衛門則之と称し新羅三郎義光の後裔である その前方国道を隔てて脇本陣白井弥惣兵衛である」(説明版より)

「牛若丸投宿家(うしわかまるとうしゅくのいえ) 鏡宿左方にあり。沢氏といふ。屋の棟に幣(ぬさ:神に祈る時に捧げ、また祓(はら)いに使う、紙・麻などを切って垂らしたもの=ごへい。)を立てるなり。むかし牛若丸東へ下り給へし時、ここに止宿(宿を取ること)し給う。夜半の頃、強盗入りければ、牛若丸ことごとく退治し給うとなん。謡曲には赤坂の宿として、熊坂長範とす。また義経記にはこの宿とす。」(木曾路名所図会)

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源義経宿泊の館跡の隣にある民家の庭の左角に本陣跡の案内板がある。

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本陣跡から5分足らずの所に鏡神社がある。本殿は石段を登った上にあるが、街道入口から一段上がった左に、義経が烏帽子を掛けたと云われる松の幹が残っている。

源義経烏帽子掛けの松≫

「承安四年(1174)三月三日 鏡の宿で元服した牛若丸は、この松枝に烏帽子を掛け鏡神社へ参拝し源九郎義経と名乗りをあげ源氏の再興と武運長久を祈願した。」(説明版より)

謡曲「烏帽子折」と鏡神社≫

謡曲「烏帽子折」は、鞍馬山を出て奥州に向かった牛若丸が、元服の地鏡の宿と、盗賊退治をした赤坂の宿での出来事を一続きにして構成された切能物(きりのうもの)である。」(説明版より)

(切能物(きりのうもの):能において鬼・天狗・天神・雷神・龍神などがシテとなる曲で五番立においては最後の五番目に演じられることから、切能とも呼ばれる。)

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石段を上って本殿に向かう左側には、「祓戸神」がある。(祓戸神(はらいどがみ)とは神道において祓を司る神、祓戸とは祓を行う場所のことで、そこに祀られる神という意味。)

≪鏡神社由緒≫

当神社の創始年代は不詳であるが、主祭神天日槍命(あめのひぼこのみこと)は日本書紀による新羅國の王子にして垂仁天皇(すいにんてんのう)三年の御世、来朝し多くの技術集団(陶物師、医師、薬師、弓削師、鏡作師、鋳物師など)を供に近江の国へ入り集落を成し、吾国を育み文化を広めた祖神を祀る古社である。

天日槍(あめのひぼこ=朝鮮国・新羅の王子)は持ち来る神宝の日鏡をこの地に納めたことから「鏡」の地名が生まれ、書記にも「近江鏡の谷の陶人は即天日槍の従人なり」と記されている。

承安四年(1174)牛若丸こと源氏の遮那王は京都鞍馬から奥州への旅路、この鏡の宿に泊り境内宮山の岩清水を盥(たらい)に汲み自ら烏帽子をつけ元服した。鏡神社へ参拝した十六歳の若者は「吾こそは源九郎義経なり」と名乗りをあげ源氏の最高と武運長久を祈願した武将元服の地である。以後岩清水は源義経元服池と称し現在も清水を湛えている。」(説明版より)

≪鏡神社本殿≫重要文化財(明治三十四年八月二日指定) 

「神社の創立は古代にさかのぼると伝えられ、祭神は天日槍命(あめのひぼこのみこと)を祀る。現在の本殿は、室町中期に建てられたもので、滋賀県の遺構に多い前室付三間社本殿。蟇股(かえるまた=上部の荷重を支えるための、かえるの股のように下方に開いた建築部材。)を多用し、屋根勾配をゆるくみせる外観は優美である。」(説明版より)

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鏡神社を出てしばらく行くと「源義経元服の池」があり碑が置かれている。

「東下りの途、当鏡の宿にて元服加冠(げんぷくかかん=元服して初めて冠をつけること)の儀を行う。その時使いし水の池なり」(説明版)

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義経元服之池のすぐ先左手が旧道でこの辺りから野洲市に入っていくことになる。旧道はすぐに国道8号に合流するがその先に「平宗盛胴塚」と書かれた案内板が立っている。草深い細道を入っていくと平宗盛卿終焉の地と彫られた碑と石仏が二体置かれている。その横に「蛙不鳴池(かわずなかずいけ)及び首洗い池」の説明版が立っている。

≪平家終焉の地≫

「平家が滅亡した地は壇ノ浦ではなくここ野洲市である。

平家最後の最高責任者平宗盛源義経に追われて11837月一門を引きつれて都落ちした。西海を漂うこと二年、1185324壇ノ浦合戦でついに破れ、平家一門はことごとく入水戦死した。しかし一門のうち建礼門院、宗盛父子、清盛の妻の兄平時忠だけは捕えられた。宗盛父子は源義経に連れられ鎌倉近くまでくだったが、兄の頼朝に憎まれ追いかえされ、再び京都に向った。

途中、京都まであと一日程のここ篠原の地で義経は都に首を持ち帰るため平家最後の総大将宗盛とその子清宗を斬った。そして義経のせめてもの配慮で父子の胴は一つの穴に埋められ塚が建てられたのである。

現在ではかなり狭くなったが、昔、塚の前に広い池がありこの池で父子の首を洗ったといわれ「首洗い池」、またあまりにも哀れで蛙が鳴かなくなったことから「蛙不鳴池」とも呼ばれている。」(野洲市観光物産協会・説明版より)

義経元服の地とさほど遠くないこの地で義経の宿敵・平家の総大将平宗盛39年の生涯を終えた。義経元服(承安4年(1174)三月三日)からわずか11年後の元暦2年(1185)六月二十三日のことである。

平宗盛塚(たいらのむねもりのつか) 篠原のひがし、鳴海橋の左にあり。宗盛卿は八嶋の合戦に捕らえられ、鎌倉へ引かれ、切腹を勧め給へども、それも臆して存らへ、遂にここにて首を討たれ給う。」

「蛙不鳴池(かわずなかずのいけ) 鳴海村にあり。此池を宗盛首洗池といふ。」(いずれも木曾路名所図会による)

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平宗盛胴塚」を後に鏡山を左手にみながら国道を歩く。

「鏡山(かがみやま) 街道の右にあり。或人の説には、天日槍(あめのひぼこ)といへる者、日の鏡を収し(しゅうし)より名付初めし(なづけそめし)也。」(木曾路名所図会)

鏡山は古くから多くの歌人が歌に詠んだ名山である。

-うち群れて いざ我妹子が鏡山 越えてもみじの 散らむ影見む- 紀貫之後撰集

-花の色を うつしとどめよ 鏡山 春よりのちの 影や見ゆると- 坂上是則拾遺集
-くしげなる 鏡の山を越えゆかむ 我は恋しき 妹が夢見たり-  大伴家持(家持集).

-鏡山やまかきくもりしくるれと紅葉あかくそ秋はみへける-   素性法師後撰集

-鏡山 君に心やうつるらむ いそぎたゝれぬ 旅衣かな-              藤原定家

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鏡山を左に見て国道を行く光善寺川を渡ったあたりに成橋の一里塚があったとガイドブックに書いてあったが今は何も残っていない。江戸から百二十六番目の一里塚だったことになる。

先へ進み浄勝寺前の交差点から右の旧道に入るがすぐに国道に合流する。やがて左手に篠原堤と呼ばれる長い堤防が見えてくる。堤に上がると「西池」が見える。

≪西池≫

「大篠原最大の用水池で、昔、雄略天皇の御代(413頃)近江国に四十八個の池を掘らせた時の一つと言われている。

この西池の長い堤が、源平盛衰記に出てくる篠原堤であるとの説もあるが定かでない。」(説明版より)

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しばらく国道を行くと小堤のバス停がありそこから左手の旧道へ入っていくと「家棟川(やのむねがわ)」が流れている。この川は平地より川底が高くなっている天井川である。天井川は関西地方に多く見られるということである。

家棟川の手前にポケットパークがあり愛宕山の碑を挟んで常夜燈が二基立っている。

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家棟川の橋を渡り先へ行くと「子安地蔵堂」がある。説明版によれば極彩色等身大の地蔵菩薩像は平安時代末期(12世紀)の造像だそうである。

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その先には「丸山・甲山古墳群」があり「桜生(さくらばさま)史跡公園」になっている。

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桜生史跡公園から街道に戻り、先へ進むと、左側の「桜生公民館」入口には「中山道銅鐸の里桜生」と書かれた立て札が立っている。

「桜生公民館」から15分程行くと、「稲荷神社」の鳥居が見えてくる。鳥居から更に5分程歩くと「小篠原公民館」前に小篠原村庄屋苗村邸跡の石碑が置かれている。

古く東山道時代の宿駅がこのあたりにあったと思われるのだがその面影は全くない。

またガイドブックによれば、百二十七番の小篠原の一里塚もこのあたりにあったようだが今は何も残っていない。

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さて、先へいくとほどなく茅葺屋根の旧家があるがここは造り酒屋の「曙酒造」である。

曙酒造の先で新幹線のガードをくぐり、その先5分程行くと五差路の向こう側の野洲小学校正門傍に「中山道・外和木の標(しるべ)」の説明版がある。

中山道・外和木の標≫

中山道は、東海道に対し東山道と呼ばれた時期があったが、その歴史は古く大化の改新以前から存在する重要な道であったことを示す文献が残されている。

この案内板の西、約百八十メートルの所は江戸時代に朝鮮の外交使節を迎えた朝鮮人街道との分岐点に当たり歴史的に意義深い場所である。

外和木の標の名前は、この土地と朝鮮人街道との分岐点の地名が小篠原字外和木であるので名付けたものである。」(野洲町・案内板より)

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外和木の標の案内板から少し行った3差路に「朝鮮人街道」と記された道標がある。朝鮮人街道は朝鮮通信使が通った道で、ここで中山道と分かれ近江八幡を経由して鳥居本で再び中山道に合流する。

3差路からすぐ先の交差点の所に「背くらべ地蔵」と呼ばれる地蔵尊が置かれている。説明版によれば「この背くらべ地蔵は鎌倉時代のもので、東山道を行く旅人の道中を守った地蔵である。また、子を持つ親たちが「我が子もこの背の低い地蔵さんくらいになれば一人前」と背くらべさせるようになり、いつしか背くらべ地蔵と呼ばれるようになった。」とのことである。

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その先の十字路にある蓮照寺に「道標・領界石」が3本立っている。一番大きい道標は先ほどの朝鮮人街道分岐点からこの蓮照寺に移されたもので「右中山道 左八まんみち」と彫られている。(八まんみちは朝鮮人街道のこと)道標の裏面には「享保四年」と彫られている。またここには「従是北淀藩領」の境界石も移されている。

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先へ進みJRの高架をくぐると「十輪院」という小さなお堂がありその裏に芭蕉の句碑が置かれている、

― 野洲川や 身ハ安からぬ さらしうす -  芭蕉

野洲晒(やすさらし)は、麻布を白くさらす「布晒」を専門に行っていた。その一工程に、川の中にすえた臼に布を入れ、杵でつく作業がある。冬に冷たい川に入って布をつくのは、晒(さらし)の仕事のなかで最も重労働であり、その苦労がしのばれる。」(説明版)

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その先が野洲川で、川に架かる橋を渡るのだが橋からは「三上山」がよく見える。

野洲川」「三上山」も多くの歌人が歌に詠んでいる。

野洲川

-天の川 安の川原に定まりて 神の競(つど)ひは 禁(い)む時無きを- 万葉集 巻十(七夕(なぬかのよ))- 2033

―うち渡る 野洲のかわらになく千鳥 さやかにみえぬあけぐれの空- 源頼政

-はるかなるみかみのたけの目にかけていく瀬わたりぬやすの河波- 後京極摂政

十六夜日記には「いまだ月の光かすかに残りたる明(あけ)ぼのに、守山を出(い)でて行く。野洲川渡る程、先立ちで行く旅人の駒の足音ばかりさやかにて霧、いと深し。」とある。
- 旅人も皆もろととに先立ちて駒うち渡す野洲の川霧  - 阿仏尼」

≪三上山≫

-雲晴れるみかみの山の秋風にさざ波遠く出る月かげ- (続拾遺集)浄助親王

-玉椿かはらぬ色をやちよとてみかみの山ぞときはなるべき-(新後撰集民部卿経光

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野洲川橋を渡りしばらく行くと「馬路石邊(うまじいそべ)神社」の参道が本殿へと続いている。この神社は天武天皇の御代、白鳳3年(663年)に創祀され、朱鳥(しゅちょう)元年(686年)に大己貴命(おおなむちのみこと)を合祀したと伝えられている。

祭神は古事記日本書紀に登場する建速須佐之男命(たてはやすさのおのみこと)と大国主命(おおくにぬしのみこと)である。

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街道に戻るとすぐ先に「中仙道守山市吉水一丁目」の表示版が立っている。「吉見(吉水郷)」の説明版と共に「中山道高札場跡」の説明版も立っているからこのあたりが守山宿の入り口であろう。

≪吉身(吉水郷)≫

この辺り一帯を「吉身」という。古くは「吉水郷」と称し、ゆたかな森林ときれいな「水」に恵まれた天下の景勝地であった。元暦元年(1184)九月に発表された「近江国注進風土記」には、当時の近江国景勝地八十個所の一つとしてこの地が紹介されている。南側は「都賀山」の森と醴泉(こさけのいずみ)が湧く数々の池があり、東に有名な「益須寺」があった。そしてこの街道は「中山道」である。古え(いにしえ)の「東山道」にあたり、都から東国への幹線道として時代を映し出してきた。」(説明版より)

中山道高札場跡、稲妻型道路≫

帆柱観音で名高い慈眼寺から北東側へ約100mの地点は、中山道から石部道(伊勢道)が分岐する。遠見遮断のため道が屈曲する広い場所で、かつて徳川幕府が政策などを徹底させるための法度や掟書などを木札に記して掲げた高札場が設けられていた。中山道を行き交う人々にとっては重要な場所であった。

また、吉身は江戸時代、守山宿の加宿であり、美戸津川(守山川)から高札場までの街道は、本町と同じように「稲妻型道路」となっていた。」(説明版より)

稲妻街道とは街道沿いの民家が、直線ではなく一戸毎に段違いの屋敷割になっている道路のことだそうだ。

 

67宿 守山宿・本陣2脇本陣1、旅籠30

(日本橋より127288間 約501.8キロ・武佐宿より318町 約13.7キロ)

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守山は古来東山道の宿駅として栄え、江戸時代に東山道中山道に改められ江戸時代の初期寛永十九年(1642)に徳川幕府により正式に中山道の宿駅として制札が下された。中山道は板橋宿から守山宿までの六十七次で守山は最終宿駅であった。守山の地名は比叡山延暦寺の東の関門として東門院が創建されたことに由来する。江戸時代、旅人の一日の行程は八里(約31キロ)から十里(約39キロ)であった。京・三条から守山宿までが八里六町(約32キロ)でこの行程にあたり「京立ち、守山泊り」といわれ東下りの最初の宿泊地として大いに賑わった。後に東の吉見、西の今宿が加宿され更に繫栄した。

「武佐まで三里半。当宿の入り口に守山川あり。橋爪(はしづめ)に称名寺という西本願寺末の寺あり。蓮如上人建立也。金が森より此所に移しけると也。古歌に詠ず。

-しら露も時雨もいたくもる山は下葉残らず色つきにけり- (古今和歌集) 紀貫之

-守山の峯の紅葉も散りにけりはかなき色のをしくも有哉- (玉葉和歌集) 紀貫之

-なく蝉の涙しぐれてもる山のしげみに落ちる木々の夕露- (夫木和歌抄(ふぼくわかしょう) 為 相」(木曽路名所図会)

宿場に入りしばらく行くと「帆柱観世音・慈眼寺」の道標が立てられている。

説明版・縁起によれば、「傳教大師最澄桓武天皇の勅命で唐の国に留学、修行しての帰国途上、突然の海難に遭遇したが海上に観世音菩薩が現れて風雨が鎮まり無事に帰国することが出来た。帰国後、折れた船の帆柱で、十一面観世音菩薩と脇侍の持国天多聞天像を彫り、弘仁元年(810中山道に沿う吉身の地に水難の守り仏として安置したのが起源とされている。」のだそうだ。

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先の交差点に「すぐいしべ道」と彫られた道標が置かれている。正面には「高野郷新善光寺道」と彫られている。

「この道標は守山宿の東端から枝分かれして、栗太郡葉山村や東海道に向かう人々に対して案内したものである。新善光寺栗東市高野にあり、彼岸には門前に市がたつ賑わいをみせる寺院であり、守山方面からも大勢の人びとが参拝したと思われる。

この道は守山道と呼ばれ、逆に中山道から東海道へ入る道としてかなりの人々が利用したと思われる。」(説明版より)

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道標のすぐ先には「守山宿・町屋 うの屋」と書かれた立派な古民家がある。ここは「宇野本家酒造」で元総理大臣・宇野宗佑の実家である。

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宇野本家のすぐ先に天満宮があり、鳥居の前に稲妻型屋敷割りの説明板が立っている。

≪稲妻型屋敷割りの道≫

中山道守山宿は街道筋の距離が、文化十四年の記録では1053間、内民家のある町並が569間という長い街村であった。宿場の西端には市神社があり、その向かいには高札場があった。この高札場から東に約40mには宿場の防火、生活用水となった井戸跡がある。街道筋の特色は、このあたりの道が最も幅広く、高所にあることと道路に沿った民家の敷地が、一戸毎に段違いとなっていることである。段違いの長さは一定ではないが、およそ二~三尺で、間ロの幅には規定されていないことがわかる。この屋敷の並び方がいつごろから行われたかを知る史料はないが、守山宿が守山市(いち)と関連して商業的機能と宿場を兼ねたことで、問屋、庄屋、本陣、市屋敷などを管理するため、あるいは怪しい人物が隠れても反対側から容易に発見できるなど、治安維持のための町づくりであった。」(説明版)

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天満宮のすぐ先に、中山道・守山宿の案内と本陣跡と彫られた碑、井戸跡があり説明版が添えてある。説明版には「謡曲・望月」の説明も書かれている。

≪本陣跡≫

「この場所は、本陣(小宮山九右衛門)があったと推定されている場所です。江戸時代には、問屋、脇本陣、本陣などの役割を果たした。

文久元年(1861)十月二十二日、十四代将軍家茂に降嫁した皇女和宮親子内親王が御所から江戸城へ向かう旅程で、この本陣に宿泊した。」

謡曲「望月」≫

「望月」は、室町時代末期(1500年代後半)に、古来、宿駅として、貨客の往来が盛んであった木曽街道(中山道)の守山を舞台に仇討ちを題材にした創作物語である。

「望月」は、信濃の佳人・安田荘司友春の妻子が、元家臣である甲屋の主人・小沢刑部友房とともに、仇敵の望月秋長を討つというあらすじで、登場する人物はすべて架空とされています。」

≪井戸跡≫

「この井戸は、天保四年(1833)の宿場絵図に記載され、それ以前から存在したもので、他にもあったとされるが、現存しているのはこれ一基だけです。

守山宿は、野洲川の旧河道がつくった自然堤防という微高地のため、用水路がなく、宿場の防火や生活用水に使用されたと思われる。」

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本陣跡碑の一軒おいた隣に「中山道文化交流館」がある。館内には「木曽海道六十九次」の版画が全て展示されている。宇野宗佑著の本も何冊か置かれている。女性問題で汚名を残した宇野元総理も地元ではそれなりに英雄なのであろう。

ここでコーヒーを飲みながらご主人と雑談を交わしたがトイレを借りるため奥へ入ると裏庭が見事であった。

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文化交流館の先の三叉路に「道標」が立っている。

≪石造道標≫守山市指定文化財(民俗資料)

「本道標が建てられたこの地点は、かつて掟書などが掲げられた高札場の一角であった。道標は、高さ約1.55m、一辺30cm角の四角柱の花崗岩製の石造品で、中山道側の側面には、「右 中山道 并(ならびに) 美濃路」、その左側面には、「左 錦織寺四十五丁 こ乃者満ミち」の文字が刻まれている。

「右 中山道 并 美濃路」とは、右が美濃(岐阜)へと続く中山道で、「左 錦織寺四十五丁 こ乃者満ミち」は、左の道を行くと人々の信仰を集めた真宗木部派本山である錦織寺(中主町)に至る約4kmの道程(錦織寺道)であり、それに続く「こ乃者満ミち」は、琵琶湖の津として賑わっていた木浜港へも通じる道筋であることを示している。

背面に延享元年(1744年)霜月の銘があり、大津市西念寺講中によって建立されたことかうかがわれる。石造遵標としては古く、また数少ないため、昭和五十二年(1977年)四月三十日に民俗資料として守山市文化財に指定された。」(説明版)

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三叉路のすぐ先には「東門院」がある。

守山宿の冒頭にも書いたが延暦七年(788)、最澄比叡山延暦寺を建立した際、四境に門を構えたが、その東門として設けられた。その後延暦十三年九月三日に、比叡山の根本中堂開闢(かいびゃく)供養が行われ、湖上に舟橋を渡し、東門まで「善の綱(白布の綱)」を引渡して桓武天皇が、湖上を渡ってきた。このとき、桓武天皇により比叡山東門院守山寺(比叡山を守る寺)と名号され、地名も守山と賜ったと伝えられている。

東門院先に明治天皇聖跡碑が立っている。

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明治天皇聖蹟碑の隣の「守山銀座西交差点」手前には江戸時代後期の天保年間(18301843)にあった東門院の門前茶屋「堅田屋」を現代に甦らせた「門前茶屋・かたたや」がある。

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交差点を渡って少し行くと境川に「どばし」と書かれた橋が架かっている。説明版によるとこれは中山道の重要な橋として、瀬田の唐橋の古材を使って架け替えられた、公儀普請橋であったそうだ。

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このあたりから宿場はずれとなり、やがて左手に大きな木が見えてくるがこれは江戸から百二十八番目の「今宿の一里塚」である。

説明版によれば、滋賀県には中山道の他、東海道朝鮮人街道、北国街道、北国脇往還など多くの街道が通っているが、明治以降、交通形態の変化による道路拡幅や農地、宅地への転用などによりそのほとんどは消滅し、現存するものは今宿一里塚のみとなってしまったそうだ。

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一里塚を後に10分ばかり行くと「住蓮房母公墓」の碑が立っている。武佐宿外れに「住蓮坊首洗い池」があったが鎌倉時代後鳥羽上皇の怒りにふれて処刑された住蓮坊の母の墓だそうで、処刑される我が子に会うべく馬渕を目指した住蓮坊の母が、すでに処刑されたことを知り、池に身を投げて命を絶ったのがこの池だったということである。

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先の焔魔堂町交差点を越えると十王寺があり門前左に「五道山十王寺」、右に「焔魔法王小野篁(おののたかむら)御作」と彫られた石柱が立っている。中に入ると閻魔堂があり、十王堂の額が立てられている。

「五道山十王寺」の山号、五道とは仏教でいう「天・人間・畜生・餓鬼・地獄」の五の世界であり、生を受ける者は、その五の世界で生と死を続ける「輪廻転生」の世界観で、現世において善行を積むか悪行を行うかで生れ変わる場所が変わる。また、十王とは秦廣王(しんこうおう)、初江王(しょこうおう)宋帝王(そうていおう)、五官王(ごかんおう)、閻魔王(えんまおう)、変成王(へんじょうおう)、泰山王(たいざんおう)、平等王(びょうどうおう)、都市王(としおう)、五道転輪王(ごどうてんりんおう)で、死者は初七日には秦廣王、二七日には初江王、三七日は宋帝王、四七日は五官王、五七日は閻魔王、六七日は変成王、七七日は、泰山王、百か日は平等王、一周忌は都市王、三回忌は五道転輪王とそれぞれの裁きを受け、生れ変わる世界が決められるのだとか。

「偖(さて)ふた町むらを過ぎて、閻魔堂村に閻魔の像あり。小野篁(おののたかむら)の作といふ。」(木曽路名所図会)

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十王寺の先に古高俊太郎先生誕生地の碑が立っている。尊皇攘夷の志士で長州の間者の大元締めであった。

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そこから旧道を10分ばかり歩くと栗東市であるが昔は綣(へそ)と呼ばれていたそうだ。このあたりには用水が流れていて用水沿いに歩くと左手に「大宝神社」がある。祭神は「素盞鳴尊(すさのうのみこと)」。ここの木造の狛犬重要文化財に指定されているが残念ながら今は京都の国立博物館に移されたということである。

隣の公園には、芭蕉の句碑があり-へそむらの麦まだ青し春のくれ-と彫られている。

木曽路名所図会には「大宝天皇社・祭神素盞鳴尊(すさのうのみこと)。大宝年中疫時行し(えやみはやりし)時、ここに降臨し給う。此辺(このあたり)都て(すべて)二十余村の産土神(うぶすなじん)とす。例祭四月十二日。生士子(うじこ)の中五ケ村より踊りを催し、神前にて踊る。」とある。

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大宝神社を後に左手の栗東駅西口の信号を越えたあたりからはこれといって見るものもない。

30分ばかり旧道を歩き、八幡宮を左手に見て花園、笠川を過ぎると草津市である。

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やがて旧道は鉄道の線路に分断されてしまうが線路の下のトンネルをくぐって反対側へ出、さらに歩くと「伊砂砂(いささ)神社」がある。この神社の桧皮葺の本殿は室町時代の応仁二年(1468)に建立されたもので国の重要文化財に指定されている。

神社の入り口には「中山道の説明版」も立っている。

草津歴史街道 中山道

中山道木曽路とも呼ばれ、日本の脊梁(せきりょう)中部山岳地帯を貫く街道で、五街道の中でも東海道に次ぐ幹線路であった。その里程は、江戸日本橋を基点とし、上毛高崎宿を経由、碓氷峠に至り、浅間・蓼科山麓の信濃路を辿り、塩尻峠を越えて御獄・駒ヶ岳間の木曽谷を降り、美濃路を西進、関ケ原から近江柏原宿に至り、湖東の鳥居本・愛知川・武佐の各宿を経由南進し、守山宿を後に東海道草津宿に合流するもので、この間の宿駅は67宿を数えた。草津には、笠川を経て渋川に入り、葉山川を渡り、渋川・大路井の街並を通過したのち、砂川(草津)を越えて草津追分に至った。

なお、中山道分間延絵図によれば、渋川には梅木和中散出店小休所・天大大将軍之宮(伊砂砂神社)・光明寺ほか、大路井(おちのい)には一里塚・覚善寺・女体権現(小汐井神社)ほかの社寺仏閣、名所が街道沿いに存した。」(説明版)

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やがて大きな大路の交差点に出るがこのあたりが落野井村(おちのいむら)で江戸から百二九番目の「大路井(おちのい)の一里塚」があった所のようだ。

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今日はここまで。宿泊予定のホテル21へ。