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中山道旅日記 24 草津宿-大津宿

33日目(520日(金))草津宿-大津宿-山科

午前8時前にホテルを出て街道へ。

68宿 草津宿・本陣2脇本陣2、旅籠72

(日本橋より129108間 約507.7キロ・守山宿より118町 約5.9キロ)

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中山道は、草津宿東海道と合流する。中山道の第68宿・草津宿東海道の第52宿でもあり、次の大津宿は中山道69宿、東海道53宿ということになる。草津宿平安時代から東山道東海道の分岐点として大いに栄え、東山道中山道と改名されてからも交通の要所として重要な位置を占めていた。

「守山まで一里半。此駅、東海道木曽路街道・尾張道等喉口(ここう)なれば賑し。宿中に立木明神(たつきみょうじん)のやしろ、上善寺、駒井氏(こまいうじ)や活人石(かつじんせき)等あり。尋ねて見るべし。」(木曾路名所図会)

大路の交差点を渡った所からアーケードが付いた商店街だがこの道も中山道である。

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商店街をぬけてしばらく行くと中山道東海道の追分道標が立っている。文化十三年(1816)に建てられたものだそうで「左 中仙道美のぢ 右 東海道いせみち」と彫られている。昔の旅人が中山道東海道に分かれていった所で色々なドラマが繰り広げられたに違いない。江戸からの旅人は、京はもうすぐだと実感しただろう。

道標の右には高札場跡がある。ここには「右 東海道いせみち」「左 中山道みのみち」と書かれた立て札も立っている。

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マンフォールの蓋にも「東海道中山道分岐点慶長七年」と書かれ、道しるべになっている。

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先の公民館の前に「尭孝(ぎょうこう)法師歌碑」が置かれていて、歌の解説などが書かれた説明版が添えられている。
-近江路や 秋の草つは なのみして 花咲くのべぞ 何処(いずこ)ともなき- 覧富士記
「将軍のお供をして富士を見に行く途中、秋の近江路草津まで来たが、草津とは名ばかりで、秋の草花が咲いた美しい野辺を思い描いていただけに心寂しい思いをするものだよ。

堯孝法師(一三九〇~一四五五)」(説明版より)

ちなみに、将軍とは「足利幕府六代将軍義教(よしのり)」のことである。

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その先が「草津宿本陣」である。ここは現存する本陣の一つで今も当時のままの姿をとどめている。ここには、忠臣蔵の・播州赤穂の藩主・浅野内匠頭新選組土方歳三、皇女和宮シーボルトなども宿泊したのだそうだ。中には当時の貴重な資料が展示されているそうだが、早朝の為入館できなかった。

入り口には「細川越中守宿」の関札も掲げられている。

≪関札(せきふだ)宿札(やどふだ)について≫

「関札は別名、宿札ともいい、江戸時代に大名や公卿、門跡、旗本や幕府役人などが本陣に休泊する標識として、休泊する者の氏名や官職、休泊の別(宿・泊・休など)を記し、尺廻り(約30センチ)高さ3間(約5.5メートル)の青竹に取り付け、本陣の前や宿場の出入り口に立てられたものである。」

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本陣の向かいに「和食材 ベーカリー&カフェ・脇本陣跡」と表示されている店があるがここが脇本陣跡なのだろうか?傍らに「脇本陣跡」の碑が立っているのだが・・・・。

先へ行くと「草津宿街道交流会館」の札が掛かっている建物があるがここもまだオープンしていない。入り口には「右・東海道大津宿、左東海道石部宿 中山道守山宿」と書かれている。

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先へ行くと、「道灌」と記されたこも被り(こもかぶり)が置かれている建物がある。ここは造り酒屋「太田酒造」で、先祖は江戸城築城の祖、太田道館だそうだ。

(こも被り=薦(こも)でおおった四斗(約72リットル)入りの酒樽のこと)

 

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先の道路を渡ると「立木神社」がある。境内の自然公園立木の森には「石造道標」があって「みぎハたうかいとういせミち ひたりは中せんたうをた加みち」とほられている。これは文化三年(1806)に立てられた現在の追分道標以前の延宝八年(1680)に立てられたそうである。

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その先の草津川に架かる矢倉橋を渡って5分程行くと当時立場として賑わったところで瓢泉堂という瓢箪を売る店がある。この店は草津名物の「姥が餅」を売る茶店の跡だそうだ。その店先に「やばせ道」道標が立てられている。ここは 東海道と矢橋街道(やばせかいどう)の追分で、道標には「右やはせ道、これより廿五丁」と彫られている。(矢橋道は、東海道中山道の合流地点から南西に1キロ余りいった所で東海道と分かれて、琵琶湖畔矢橋(やばせ)の渡しに至る25町の道である。矢橋から大津、石橋の渡しまでの湖上をあわせ、瀬田の唐橋経由の陸路に比べて2里ほどの短縮となった。)

この道標は広重の「東海道五拾三次之内 草津」に描かれている。

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「やばせ道」道標から5分程先には稲荷神社さらにその先の上北池公園には「野路一里塚跡」の碑が置かれている。これは江戸から百三十番目の一里塚である。(百二十九番目は確認できなかった。)

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その先には、野路の玉川跡があり小さな泉が復元されており、源俊頼の歌碑が立っている。

「野路の地名はすでに平安時代の末期にみえ、平家物語をはじめ、多くの紀行文にもその名をみせている。野路の玉川は、日本六玉川の一つで歌枕の名勝である。 

-あすもこむ 野路の玉川萩こえて 色なる波に 月やどりけり- 源俊頼 (千載集)

またこの地は萩の名所として「萩の玉川」ともいわれ「近江名所図会」は歌川広重の浮世絵にも紹介されている。」(説明版より)

木曽路名所図会には「野路の篠原のこなたに玉川の跡あり。これ六ツ玉川の其の一つなり。

-さを鹿の しからむ萩に秋見へて 月も色なる 野路の玉川- 太宰権師仲光 (新拾遺集)」とある。

また阿仏尼は十六夜日記の中で

-のきしぐれ ふるさと思う 袖ぬれて 行きさき遠き 野路のしのはら-

と詠んでいる。

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さて、玉川を過ぎてしばらく行くと弁天池と呼ばれる池があり池の中ほどに弁天島が浮かんでいる。この島には弁財天が祀られているが、江戸時代の大盗賊・日本左衛門が隠れていたという伝説も残っているのだという。日本左衛門は歌舞伎十八番・白波五人男の一人である。

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弁天池を後に旧道を歩いていくと月輪寺がある。入り口には正面に「東海道」右側面に「濱道」と彫られた道標や「明治天皇御東遷駐輦之所」の碑などが置かれている。

この寺は明治天皇だけではなく徳川第十四代将軍家茂も休息を取ったという記録が残っているそうだ。

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その先には月輪池と呼ばれる池があり「東海道立場跡」の碑が立っている。このあたりも当時は立場で賑わったのだろう。10分程先へ行った交差点に一里塚跡の碑が置かれている。江戸から百三十番目の「月輪池一里塚」である。また、道標が立てられていて「上矢印・三条大橋迄で五里余り、下矢印・江戸日本橋迄で百二十里余り(東海道)、左矢印・旧朝倉道信楽より伊勢、桑名に至る、右矢印・膳所藩札場より大萱港常夜灯に至る」と

彫られている。

-くたびれたやつが見つける一里塚-という川柳がある。ここで一休みとしよう。

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ここから先はこれということもなく淡々と歩いていくことになる。一時間余り行くと「左・旧東海道」「右・瀬田唐橋」彫られた碑がある。道標通り右へ行くと5分ばかりで瀬田の唐橋である。橋の袂には常夜灯と「松風の帆にはとどかず夕霞 茶粋」と彫られた歌碑が立っている。(茶粋とは誰のことかわからない。)

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瀬田の唐橋については書くことが多い。

琵琶湖に架かる瀬田の唐橋は、「瀬田の長橋」とも呼ばれ近江八景「瀬田の夕照」で知られる日本三大名橋の一つで、古くは近淡海(ちかつあわうみ)とも鳰海(におのうみ)とも呼ばれた琵琶湖と共に多くの古人が歌を詠んだ歌枕の地である。

瀬田の唐橋

-まきの板も苔むすばかり成りにけりいくよへぬらむ瀬田の長橋- 中納言・大江 匡房(おおえ の まさふさ)(新古今集/雑中の巻)

-望月の駒ひきわたす音すなり瀬田の長道橋もとどろに- 平兼盛(麗花集)
-ひき渡す瀬田の長橋霧はれて 隈なく見ゆる望月の駒- 藤原顕季(堀河院御時百首和歌)
-五月雨に かくれぬものや 勢多の橋- 芭蕉

≪琵琶湖(近淡海(ちかつあわうみ)、鳰海(におのうみ))

-淡海の海夕波千鳥汝なが鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ- 柿本人麻呂万葉集

三 二百六十六番)
-鳰の海や霞のをちにこぐ船の まほにも春のけしきなるかな- 式子内親王

(新勅撰和歌集
-石山や鳰の海てる月かげは 明石も須磨もほかならぬ哉- 近衛政家
-鳰の海や月のひかりのうつろへば浪の花にも秋は見えけり- 藤原家隆新古今和歌集

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次に瀬田の唐橋は古くは日本書紀にも記述があり、古来より「唐橋を制する者は天下を制す」といわれ軍事・交通の要所であった。

摂政元年、香坂皇子(かごさかのみこ)と忍熊皇子(おしくまのみこ)が反乱。忍熊皇子神功皇后(じんぐうこうごう)(応神天皇の母)の家来である武内宿禰(たけうちのすくね)の軍に攻められ、瀬田で自害したという(『日本書紀』 気長足姫尊 神功皇后)。

天武天皇元年(672)に起こった古代日本最大の内乱、壬申の乱(じんしんのらん)では天智天皇の皇子・大友皇子とその叔父大海人皇子(おおあまのみこ)との間に皇位継承の戦いが起き、その最終決戦の場が瀬田の唐橋であった。結果、大海人皇子が勝利し天武天皇となる。

治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)(源平合戦)(11801185)では木曽義仲平氏源義経木曽義仲がここで戦っている。

承久三年(1221)の承久の乱(じょうきゅうのらん)では、後鳥羽上皇方と鎌倉幕府方が瀬田の唐橋を挟んでの戦闘となった。結果、幕府方勝ち幕府の権力は強くなり、後鳥羽上皇隠岐へ流罪となる。

琵琶湖から流れ出る川は瀬田川だけで、東から京へ入るには瀬田川か琵琶湖を渡るしかなく瀬田川に架かる唯一の唐橋は軍事上最も重要であった。

武田信玄は死の床にあって「瀬田橋に我が風林火山の旗を立てよ」と命じたそうである。

また、瀬田の唐橋(瀬田橋、勢多の唐橋)は「急がば回れ」の諺の由来の橋でもある。

室町時代連歌師・宋長(そうちょう)は「もののふの矢橋の舟は早けれど急がば回れ瀬田の長橋」と詠んだ。

「やばせ道標」の時にも書いたが、江戸時代、草津から京へ入るには東海道の陸路を行くか矢橋の渡しから海路琵琶湖を横断するかの二通りである。海路の方が二里ほど短縮されるが比叡山から吹き下ろす突風(比叡おろし)のため危険で遅れることが多くかったようである。急ぐ時には危険な近道より遠くても安全な本道の方が結局は早く着く。安全で着実な方法を選択すべしという戒めである。

そしてここには「俵の藤太のムカデ退治伝説」も残っている。

瀬田の唐橋 俵藤太秀郷むかで退治≫

室町時代藤原秀郷(ふじわらのひでさと)は、誰もが恐れていて近寄りもできなかった瀬田橋に横たわる六十六メートルもの大蛇の背をやすやすと踏み越えた。すると、大蛇は爺さんに姿を変えて秀郷の前に現れ、三上山の大ムカデが夜な夜な琵琶湖の魚を食いつくしてしまい、人々が大変困っているという。そこで爺さんは大蛇に姿を変えて勇気のある豪傑を待っていた。秀郷は、こころよく大ムカデ退治を引き受けた。秀郷の射た矢が見事に大ムカデの眉間を射貫き、大ムカデは消え失せた。この秀郷の武勇をたたえて爺さんが招待したところが瀬田橋の下、竜宮であった。琵琶湖に暮らす人々を守るべく一千年余の昔から瀬田橋に住むという。秀郷は一生食べきれないほどの米俵を土産に竜宮を後にした。そこから「俵藤太」の名が付けられたとされている。」(説明版より)

続膝栗毛には「ゆくほどなく、やがて瀬田の長はしにいたる。此所はたはら藤太がむかし、みかみやまのむかでをたいじせし所なりといひつたふ。

-其むかし ばなしを今もみかみ山 むかでの足ににたるはし杭-」と書かれている。

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瀬田の唐橋を渡って大津に入る。道標に従って歩いていくと「膳所城勢多口総門跡」の碑がさりげなく民家の門前に置かれている。

膳所城は徳川家康関ケ原の合戦後築城の名手といわれた藤堂高虎に造らせた城で湖水を利用して西側に天然の堀を巡らせた典型的な水城で白亜の天守閣や石垣、白壁の塀・櫓(やぐら)が湖面に浮かぶ美観は、「瀬田(せた)の唐橋(からはし)唐金擬宝珠(からかねぎぼし)、水に映るは膳所の城」と里謡(さとうた)にも謡(うた)われている。

その先には「若宮八幡神社」がありさらにその先には「膳所城中大手門」の碑が置かれている。

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15分程歩くと「和田神社」があり神社の本殿は国の重要文化財に指定されており、門は膳所藩の藩校「遵義堂(じゅんきどう)の門を移築したものだそうだ。境内には650年の樹齢を誇る「いちょう」の大木がそびえている。

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さらに10分程行くと「石坐(いわい)神社」がある。社伝によると、この神社は瀬田に設けられた近江国府の初代国造・治田連(はるたのむらじ)がその四代前の租・彦坐王命(ひこいますみのみこ)を茶臼山に葬り、その背後の御霊殿山を神体山(神奈備(かんなび))として祀ったのが創祀だとか。

神奈備(かんなび):神道において、神霊(神や御霊)が宿る御霊代(みたましろ)や依り代(よりしろ)を擁した領域のこと)

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石坐神社から約10分で「義仲寺(ぎちゅうじ)」である。近江の国・粟津の地で源頼朝の命を受けた義経軍と戦い壮絶な最期を遂げた木曽義仲を葬った寺である。この寺は後に髪を下ろして尼僧となった巴が義仲の墓所近くに草庵を結んで「われは名も無き女性(にょしょう)」と称し、日々義仲を供養したことにはじまると伝えられる。寺は別名、巴寺、無名庵、木曽塚、木曽寺とも呼ばれたという記述が鎌倉時代後期の文書にみられるという。巴の美貌は尼になっても衰えず、里人からその名を聞かれても「我は名もなき女性(にょしょう)」と答えるばかりであったという。

巴の死後、寺は荒廃したが後に近江守・佐々木氏により再興された。

江戸時代中期までは木曽義仲を葬った小さな塚であったが、周辺の美しい景観をこよなく愛した松尾芭蕉が度々この地を訪れ、死後生前の遺言によってここに墓が立てられたと言われている。

寺務所の横に巴地蔵が祀られ、境内には義仲の墓と共に芭蕉の墓、巴塚、山吹供養塔、無名庵、朝日堂、翁堂、芭蕉の歌碑などがある。

義仲寺(左)、巴地蔵(右)

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無名庵(左)、朝日堂(中)、翁堂(右)

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義仲の墓(左)、芭蕉の墓(右)

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芭蕉の句碑が一基

-木曽殿と背中合わせの寒さかな-

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≪巴塚(供養塚)≫

木曽義仲の愛妻 巴は義仲と共に討死の覚悟で此処粟津野に来たが、義仲が強いての言葉に最期の戦を行い、敵将恩田八郎を討ち取り涙ながらに落ち延びたが後鎌倉幕府に捕えられた。その後、和田義盛の妻となり義盛戦死のあとは尼僧となり各地を廻り当地に暫く止まり 亡き義仲の菩提を弔っていたという。それより何処ともなく立ち去り、信州木曽で九十歳の生涯を閉じたと云う。」(説明版)

≪山吹供養塔≫

「山吹は義仲の妻、そして妾とも云う。病身のため京に在ったが、義仲に逢わんと大津まで来た。義仲戦死の報を聞き悲嘆のあまり自害したとも捕られたとも云われるその供養塚である。元大津駅前に在ったが大津駅改築のため此の所に移されたものである」(説明版)

-木曽殿をしたひ山吹散りにけり- 

山吹地蔵がJR琵琶湖線大津駅のすぐそばにあるというのだが・・・・・。

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巴を詠んだ歌碑が二基

-かくのごとき をみなのありと かってまた おもひしことは われになかりき-

-としつきは 過ぎにしとおもふ 近江ぬの みずうみのうへを わたりゆく月-

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松尾芭蕉の歌碑が三基

-行春を おうみの人と おしみける-(左)

-古池や 蛙飛びこむ 水の音-(中)

-旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る-(右)

 

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義仲寺を出て20分ほど歩くと「京町三丁目・旧東海道」と書かれた道標が目に入る。このあたりの町並みは昔の面影を少し残している。いよいよ大津宿の入り口である。

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69宿 大津宿・本陣2脇本陣、旅籠72

(日本橋より132348間 約522.1キロ・草津宿より324町 約14.4キロ)

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大津は古く壬申の乱(じんしんのらん)の舞台となったところで、その後宿駅と琵琶湖の物資が集散する商業地として栄えた。また東海道中山道の宿駅が重なり北陸海道の起点であったので大いに賑わった。

木曽路名所図会には「京師(けいし)よりここまで三里、これより草津まで三里半六町、(光行紀行)ここはむかし天智の帝、大和国飛鳥岡本みや(やまとのくにあすかかもとのみや)より、淡海(あふみ)の志賀郡に都うつりありて、大津の宮をつくらせ給うときくにも、ふるき皇居の跡ぞかしと覚て

-ささ波や大津の宮のあれしより名のみ残れる志賀のるふ里- 光 行

此駅は都よりはじめてのところなればにや、旅舎(たびや)人馬多くこぞりて喧し(かまびすし)。浜辺のかたは、淡海国(あうみのくに)に領ぜらるる諸侯の蔵やしきならび、入船出船賑ひ、都て(すべて)大津の町の数九十六町ありとなん。」とある。」

さて、大津宿に入ると「露国皇太子遭難之地碑」が立っている。ここはロシア帝国の皇太子が大津の警察官に突然切りつけられた暗殺未遂事件(大津事件)のあった所だそうだ。

街道は路面電車が走る広い道路に出会うが交差点を渡った所が札の辻で「大津市道路元票」の碑と共に「札の辻」の道路標識が立っている。ここは高札場であったが越前敦賀へ通じる北国海道の起点でもある。すぐ先には近松別院の道標も置かれていて表面には「是より半町 京・大坂・江戸・大津講中」、側面には「蓮如上人近松御旧跡」裏面には「延享三丙寅年五月是を建つ」と刻まれています。

十返舎一九の続膝栗毛には「人の心の長旅に足曳(あしびき)の山留(やまどめ)して(足曳は山にかかる枕詞)、朝もよい木曽街道を心ざし、今や東都へ帰り道なる弥次郎兵衛きた八は、播州路よりすぐに尼ケ崎から神崎のわたしをこえて、山崎街道を伏見に寄宿し、あくればここを立出て、はやくも札の辻なる追分町にぞ出たりけり。此所は名におふ大津絵の名物、みすや針十算盤(そろばん)など、家ごとにあきなふ見えたり。

-筆勢(ひっせい)を 見世にならべて商内(あきない)も 時に大津の 得(え)ものなるべし-」(続膝栗毛・三編・上巻)と書いている。

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札の辻からは緩やかな上り坂でその先に明治天皇聖跡と刻まれた碑が立っていて「大津宿本陣跡」の説明版が立てられている。説明版によると大津宿には2軒の本陣と1軒の脇本陣があったが、ここは大塚本陣があった所だそうだ。

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さらに坂道を上っていくと、京阪電鉄の踏切の向こうに石灯籠、その横に「関蝉丸神社」と「音曲藝道祖神」の石碑が並ぶ。「蝉丸神社下社」である。

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踏切を渡り、鳥居をくぐると蝉丸の歌碑その先には紀貫之の歌碑が置かれている。

-これやこの ゆくもかえるもわかれては しるもしらぬも 逢坂の関- 蝉丸(百人一首第十番)

-逢坂の 関の清水に影見えて いまやひくらん 望月の駒- 紀貫之

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本殿の左手奥には「時雨燈籠」がある 。説明版によるとこれは鎌倉時代の様式をもつ超一級の燈籠で国の重要文化財に指定されている。

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蝉丸神社を出てしばらく行くと「逢坂」の由来が書かれた碑が立っている。

「竹内宿禰(たけのうちのすくね)がこの地で、忍熊王とばったり出会ったことに由来する」のだそうだ。

街道はその先で国道1号線に合流し、がやがて「蝉丸神社上社」が見えてくる。国道は緩やかな上り坂になっていて坂を上り切った所に「逢坂常夜灯」と「逢坂山関址碑」が置かれている。

逢坂関(おうさかのせき)は山城国近江国の国境(くにざかい)にある関所で東海道東山道(後の中山道)がこの逢坂関を越えるため、交通の要(かなめ)となる重要な関所であった。平安時代中期以後は東山道不破関東海道鈴鹿関と共に三関の一つとされている。

また、逢坂関は歌枕としても知られ、蝉丸の歌と共に清少納言、三条右大臣の歌が百人一首に選ばれている。

-夜をこめて鳥の空音ははかるとも よに逢坂の関はゆるさじー 清少納言百人一首第六十二番)

-名にし負はば逢坂山のさねかづら 人に知られでくるよしもがな- 三条右大臣(百人一首第二十五番)

(ちなみに百人一首の第一番は-秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ(天智天皇))

他にも

-逢坂の 関に流るる岩清水 言はで心に 思ひこそすれ- 読人知らず
-わきて今日あふさか山の霞めるは立ちおくれたる春や越ゆらむ- 西行

などがある。

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先へ行くとポケットパークがあり、蝉丸神社の碑や「車石」の説明版が置かれている。

≪車石≫

「大津と京都を結ぶ東海道は、米をはじめ多くの物資を運ぶ道として利用されてきた。
江戸時代中期の安永八年(1778)には牛車だけでも年間15894輌の通行があった。この区間は、大津側に逢坂峠、京都側に日ノ岡峠があり、通行の難所であった。
京都の心学者 脇坂義堂は、文化二年(1805)に一万両の工費で、大津八町筋から京都三条大橋にかけての約12kmの間に牛車専用通路として、車の轍(わだち)を刻んだ花崗岩の切石を敷き並べ牛車の通行に役立てた。これを「車石」と呼んでいる。」(説明版)

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国道1号線を下り名神高速の下を通って旧道に入る。しばらく行くと「みぎハ京ミち」「ひだりハふしミみち」と彫られた追分道標が「蓮如上人御塚」と彫られた碑と共に立っている。ここは髭茶屋追分ともいわれ、道標の左方向の道路が、伏見、淀、大坂方面への伏見街道(奈良街道)で、この道路から京都市山科区になる。

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旧道は、三条通りへ出てすぐに国道1号線を横断するが、歩道橋を渡るとすこし登り坂になり、民家の石段の端に「牛尾山」と書かれた小さな道標がひっそりと置かれている。

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旧道は再び三条通りに合流するが手前の三叉路に「小関越の道標」がある。東海道大関越えと呼んだのに対し、ここから小関峠を越えて小関町に続く道を小関越えと呼び京都から大津の町中を通らずに北陸へ行く近道(間道)として利用されたのだという。

正面に「三井寺観音」右側面に「願諸来者入玄門」左側面に「小関越」と彫られている。

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そこから30分程歩くとJR山科駅である。今日の宿泊も草津のホテル21。昨今は外国の観光客が多く京都近くの手ごろなホテルは全く取れない。草津のホテルに連泊である。