奥の細道 一人歩き 1 深川・芭蕉庵

プロローグ

20165月に中山道69次、約135里(約530キロ)を踏破した後、武田信玄隠し湯めぐりなどを楽しんでいたが、ふと「奥の細道」を歩いてみようと無謀な計画を思い立った。

-月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老いをむかふる物(者)は、日々旅にして旅を棲家(すみか)とす。古人も多く旅に死せるあり。― 「奥の細道」書き出しである。

「月日は、永遠に旅を続ける旅客であり、暮れては明ける年もまた旅人である。舟に乗り、舟の上で生涯を終え、馬の轡を取って老いていく者は毎日の生活が旅であり、旅を自分の住み家としているのである。多くの昔の歌人も、旅の途中で死んでしまった。」

と現代語訳されている。

芭蕉は、庵を結んでいた深川から舟に乗り、大川(隅田川)を千住まで行き見送りの人々に別れを告げて日光街道草加へ向かった。

奥の細道」は、旅行記ではない。そのため、芭蕉が歩いた道の詳細は分からないが、おそらく芭蕉が歩いたであろう日光街道奥州街道、出羽街道、北陸街道の街道歩きを楽しみながら東京・深川から「むすびの地」岐阜・大垣まで芭蕉の足跡をたどってみることにする。

 

深川・芭蕉庵(2018318日(日))

- 草の戸も 住み替わる代ぞ ひなの家 - 

街道歩きの前に、芭蕉が庵を結んだ深川に行ってみた。

東京駅・日本橋口を出て呉服橋から永代通りを歩く。日本橋を左に見て茅場町TCAT(東京シティエアーターミナル)をかすめて大川(隅田川)沿いを歩き、清洲橋を渡る。

橋の上から川向こうのスカイツリーが見える。

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清洲橋を渡り、一つ目の交差点を左に行くと小名木川(こなぎがわ)に架かる萬年橋がある。芭蕉庵は橋を渡ったその先である。

橋の袂に「ここから前方に見える清洲橋は、ドイツケルン市に架けられた。ライン河の吊り橋をモデルにしている。」の説明版が置かれている。

万年橋を渡ると、橋の由来と「江戸名所図会」に描かれた芭蕉庵、北斎の「富嶽三十六景」に描かれた萬年橋の碑と「川船番所跡」の説明版がある。説明版によれば萬年橋の袂に小名木川を通る船を取り締まる番所があったのだそうだ。

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萬年橋、北詰から北へ数分歩くと「旧芭蕉庵跡20m」の道標が目に入る。

いって見ると稲荷神社の祠があり芭蕉稲荷神社・芭蕉庵史跡と書かれている。

芭蕉が好んだ石造りの蛙がこのあたりで見つかったことから芭蕉庵があった場所とされているらしい。境内とは言えないほど狭いスペースには、「史跡 芭蕉庵跡」の碑と共に

- 古池や 蛙飛び込む 水の音 - の句碑が置かれている。

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傍らに「深川芭蕉庵旧地の由来」の説明版があり

「俳聖芭蕉は、杉山杉風に草庵の提供を受け、深川芭蕉庵と称して延宝八年から元禄七年大阪で病没するまでここを本拠とし「古池や蛙飛びこむ水の音」等の名吟の数々を残し、またここより全国の旅に出て有名な「奥の細道」等の紀行文を著した。

ところが芭蕉没後、この深川芭蕉庵は武家屋敷となり幕末、明治にかけて滅失してしまった。

たまたま大正六年津波来襲のあと芭蕉が愛好したといわれる石造の蛙が発見され、故飯田源次郎氏等地元の人々の尽力によりここに芭蕉稲荷を祀り、同十年東京府は常盤一丁目を旧跡に指定した。

昭和二十年戦災のため当所が荒廃し、地元の芭蕉遺蹟保存会が昭和三十年復旧に尽した。

しかし、当所が狭隘であるので常盤北方の地に旧跡を移転し江東区において芭蕉記念館を建設した。(芭蕉遺跡保存会)」と書かれている。

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さて、元の道に戻り200mばかり北へ行くと「芭蕉記念館」がある。

冠木門を入ると庭園になっていて細い坂を登って行くと芭蕉庵と芭蕉座像が復元されている。

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庭園には句碑が3基置かれている。

写真左から

- 草の戸も 住み替わる代ぞ ひなの家 -

- 川上と この川しもや 月の夜 -

- ふる池や 蛙飛び込む 水の音 -

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本館の入場料は、500円。(深川江戸資料館、中川船番所資料館にも入場できる。)

館内には数多くの資料が展示されている。

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さて、裏木戸を出て、隅田川沿いをしばらく南へ戻ると芭蕉記念館が管理する「江東区芭蕉庵史跡展望庭園」があり芭蕉像や「小名木川五本松と芭蕉の句」の説明版などがある。

(ここは、先ほど訪れた芭蕉稲荷神社のすぐ横になる。説明版には、

松尾芭蕉は延宝年(1680年)冬より小名木川隅田川が合流する辺りにあった深川芭蕉庵に住んでいました。「奥の細道」の旅を終えた芭蕉は元禄6年(1680)、50歳の秋に小名木川五本松のほとりに舟を浮かべ、「深川の末、五本松といふところに船をさして」の前書きで「川上とこの川下や月の友」の一句を吟じました。この句は、「今宵名月の夜に私は五本松のあたりに舟を浮かべて月を眺めているが、この川上にも風雅の心を同じゅうする私の友がいて、今頃は私と同様にこの月を眺めていることであろう」の意で、老境に入った芭蕉が名月を賞しながら友の事を想う心が淡々と詠まれています。・・・・・・・」と書かれている。

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芭蕉記念館は、深川江戸資料館と共通の入場券になっているので江戸資料館にも行ってみることにする。途中には、深川七福神布袋尊を祀った「深川稲荷神社」がある。また、このあたりは両国に近いせいか相撲部屋がいくつかある。

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深川稲荷神社から清澄通りに出て門前仲町方面へ向かって歩くと15分程で江戸資料館に着いた。

都営地下鉄大江戸線清澄白河駅から3分程の所である。

中は、江戸時代の長屋の風景や大川端の船宿などが再現されている。

大川端の船宿は、NHKなどでドラマ化された平岩弓枝原作の「御宿かわせみ」のイメージである。但し「かわせみ」は旅籠でここに再現されているのは船宿である。

江戸の旦那衆が舟遊びのあとここで酒・食を楽しんだのだという。

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長屋は、ストーリー仕立てになっており美人のガイドさんが色々説明してくれる。地方から江戸へ出てきた若者、近くの米屋の奉公人、嫁ぎ先の亭主に死に別れ、三味線を教えている女性などが登場人物である。

なかなか楽しいひと時であった。

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江戸資料館を出て、清澄通り門前仲町まで歩き、「成田山深川不動堂」に参詣し、これから先の旅の安全を祈願することにする。

今日は日曜日、海外の観光客と日本人の参拝客で深川不動堂の境内は大賑わいであった。

成田山・別院 深川不動堂は、町民文化が花開いた江戸中期、元禄年間には不動尊信仰が急激に広まった。深川不動尊は、犬公方で知られる五代将軍・徳川綱吉の母、桂昌院の希望により成田山から江戸へご本尊が奉持されたのだという。

ちなみに不動明王のご真言は、「のーまく さんまんだー ばーざらだん せんだー まーかろしゃーだー そわたや うんたらたー かんまん」

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本日は、ここまで。

永代通りを東京まで歩いて上野・東京ラインで浦和へ。(帰宅)