奥の細道 一人歩き 2 日本橋-千住宿
お江戸日本橋七つ立ち(午前4時)とはいかないが、浦和発6時34分発の上野・東京ラインで東京へ。永代通りを歩き日本橋に着いたのは7時過ぎ。
芭蕉は、深川から千住まで船に乗り千住から日光街道を歩いたのだが、今回も五街道の起点である日本橋からスタートすることにする。
中山道を歩いた時は、なんとなく歩き始めてしまったのだがよく見てみると日本橋にはいろいろなものがある。
日本橋交差点を左に入ると日本橋だが、その手前に「永頼堂」という扇子屋さんがあり、きれいな扇子がウィンドウに飾られている。
さて、日本橋、橋詰めに説明版などがあるがこのあたりが高札場跡、道を挟んだ反対側の滝の広場が「晒し場跡」で密通の男女や心中未遂者が晒された処だという。
橋を渡ると右側が「日本橋魚河岸址」(乙女の広場)がある。関東大震災後、築地に移転したがそれ以前はこのあたりが東京の魚河岸だったのだそうだ。
道路の左側には「日本国道路元票」が複製されていて(元票の広場)「里程標・千葉市三十七粁・宇都宮市一〇七粁・水戸市一一八粁・新潟市三四四粁・仙台市三五〇粁・青森市七三六・札幌市一、一五六粁」、「里程標・横浜市二十九粁・甲府市一三一粁・名古屋市三七〇粁・京都市五〇三粁・大阪市五五〇粁・下関市一、〇七六粁・鹿児島市一、四六九粁」と刻まれた碑が置かれている。
日本橋を後に江戸通り(国道4号線を)歩き、室町三丁目南の交差点を右折してすぐに「福徳神社」がある。由来書によれば、この地は福徳村とよばれ、穀物、食物を司る稲荷神が鎮守の森に懐かれ鎮座していた。福徳村の稲荷は、往古より源義家、太田道灌ら武将の尊祟を受け・・・・とある。
境内の傍らに碑があり、表には「宮戸川邊り宇賀の地上に立る一里塚より此福徳村稲荷森塚迄一里」、裏には貞観元年卯年 三つき吉祥日」と刻まれている。
大伝馬町通りを歩くと「旧日光街道本通り」の碑がある。碑の側面には「徳川家康公江戸開府の際し御傳馬支配であった馬込勘解由が名主としてこの地に住し、以後大傳馬町と称された。」と彫られている。
日光街道に戻り、左に行くと地下鉄・小伝馬町の駅で「江戸伝馬町牢屋敷跡」があり。
「石町時の鐘」、「傳馬町牢屋敷跡」、「吉田松陰先生終焉の地」の説明版と共に吉田松陰終焉の地の碑が置かれている。
江戸時代、罪人の処刑は「石町時の鐘」を合図に行われ、刑の執行を控えた日は刻限を意図的に遅らせたところから「情けの鐘」と呼ばれたそうである。
街道に戻り先へ進むと馬喰町、横山町問屋街である。馬喰町は当時馬市が立ち傳馬用の馬が売り買いされていた。横山町は、広重が名所江戸百景「大てんま町木綿店」でこの界隈を描いている。今も繊維衣料の問屋が軒を連ねている。
余談ではあるが、30年も前であろうか、東日本橋のオフィスに勤務していたことがあり、このあたりは馴染みがあり懐かしくもある。
更に歩くと、神田川に架かる浅草橋である。神田川には屋形船が浮かんでいる。
橋を渡ると、「郡代屋敷跡」の説明版、「浅草見附跡」の碑がある。
郡代屋敷跡は、関東一円の幕府直轄地(天領)を支配した関東郡代の屋敷跡である。
浅草見附は江戸城外の城門で「浅草御門」と呼ばれた。明暦三年(1657)、江戸本後円山町から出火し、江戸城本丸を初め、江戸市中を焼き尽くした明暦の大火(振袖火事)の時、囚人が脱獄したとの誤報を信じた役人がこの門を閉めたためさらに多くの犠牲者を出したといわれている。幕府はよく年(1658)定火消を置いている。
先へ進むと、JR総武線の浅草橋駅である。東日本橋のオフィスに勤務していたころに使っていた駅で先ほどの郡代屋敷跡も浅草見附跡も当時は気にも留めず毎日歩いていた。
さて、総武線のガードをくぐるとすぐに「銀杏岡八幡神社」がある。由緒書によると、「源義家が永承六年に奥州出征の際、隅田川の川上から流れ着いた銀杏の枝を地面に刺し勝利を祈願した。奥州平定後、戻ってみると銀杏が大きく繁茂していた。この神恩に感謝し八幡宮を勧請した。」のだという。
すぐ先には、このあたり蔵前の総鎮守「須賀神社」がある。
先へ進んで、蔵前一丁目の交差点に「旧町名由来案内・浅草蔵前」の説明版と共に天文台跡の説明版が並んでいる。
旧町名由来案内には、「本町は、付近の九ヵ町を整理統合して昭和九年(1934)にできた。蔵前と言う町名が初めて付けられたのは元和七年(1621)の浅草御蔵前片町である。この付近に徳川幕府の米蔵があったことから付けられた。」と書かれている。天文台跡は、足掛け17年をかけて日本全土を測量し「大日本沿海輿地全図」を完成させた伊能忠敬の師匠・天文方高橋至時(たかはしよしとき)が天文観測を行ったところだそうである。
蔵前一丁目の交差点を渡った右側には楫取神社がある。説明版には次のように書かれている。「慶長年間江戸幕府米倉造営用の石を遠く肥後熊本より運搬の途中、遠州灘の沖に於て屡々遭難あったが或る時稲荷の神の示現を得てより後は航海安全を得る事が出来た。その神徳奉賽の為め稲荷の社を浅草御蔵の中に創建、名づけて揖取稲荷と称へ爾来今日に至って居る。鎮座以来既に三百七十年氏神榊者の摂社として祭事怠る事無く奉仕。商売繁昌、火防の神として広く衆庶の尊信を集めている。」
交差点を少し右に行ったところ、隅田川に架かる蔵前橋の手前に「浅草御蔵跡」の碑が立っている。ここは天領からの年貢米を貯蔵したところで、勘定奉行の管轄下に置かれ、主に旗本、御家人の給米に供された。「蔵前」の地名由来ともなった。道路を渡った所には「首尾の松跡」があり、説明版によれば吉原帰りの遊客が昨夜の守備を語りあったのだそうだ。川の向こうに東京スカイツリーが見渡せる。
街道に戻り少し行くと「蔵前神社」がある。境内には、浮世絵師・歌川國安の奉納力持ちの錦絵や古典落語ゆかりの神社の札書きが立っている。
由来によれば、「当社は、五代将軍綱吉が元禄六年(1693年)8月5日、山城国(京都)男山の石清水八幡宮を勧請したのが始まりです。以来、江戸城鬼門除けの守護神として篤く尊崇された。」とのことである。
錦絵の説明版には、「この錦絵は、文政七年(1824年)の春に、御蔵前八幡宮で行われた「力持」の技芸の奉納を描いたものです。」と書かれている。
また、この神社は「蔵前の八幡様の境内で満願叶って人間になった真っ白い犬が奉公先で珍騒動を巻き起こす話(本犬)」や、「阿武松(おおのまつ)という江戸時代勧進大相撲で名横綱に出世した相撲取りの人情話(阿武松(おおのまつ))」といった古典落語の舞台ともなっている。
先へ進むと、厩橋交差点でここには隅田川に厩橋が架かっている。交差点を越えれば駒形である。
このあたりから旧道は隅田川と並行に走っていて川に架かる橋も厩橋、駒形橋、言問橋と続く。
さて、駒形1丁目の交差点を過ぎると信州・諏訪大社(上社)の分霊を勧請した諏訪神社がある。そしてすぐ先には「駒形どぜう」どじょう料理の老舗があり、店先には久保田万太郎の「神輿まつまのどぜう汁すすりける」と彫られた句碑が置かれている。
この店の創業は、享和元年(1801年)で文化三年(1806年)に大火にあった。それまでは「どぢやう」の四文字を使っていたが、大火以後縁起が悪いというので「どぜう」の三文字に改名したのだそうだ。浅草寺が近いせいか外国からの観光客が目立つ。
浅草寺雷門
風袋を担いで天空を駆ける風神像と寅のふんどしを締め連鼓を打つ雷神像が祀られている。
本尊は、推古天皇三十六年(628年)隅田川で漁網にかかった聖観音像で天正十八年(1590年)江戸に入府した徳川家康は浅草寺を祈願寺とした。
今日は土曜日、雷門も仲見世も外国人観光客に日本人観光客が加わって大変な人である。
英吾、日本語、中国語、あらゆる国の言葉が飛び交っている。
そういえば、何十年か前にアメリカからの客を案内してここに来たことがある。
その時に引いたおみくじが何と「いの一番・大吉」であった。たいしていいことがあったという記憶はないが・・・・。
境内には、芭蕉の句碑も置かれており、説明版が添えられている。
-くわんをんの いらか見やりつ 花の雲- はせを
今は、桜の季節。観音の大屋根を見上げれば、あたかも雲のように桜が咲き誇っている。
そういえば信州・上田の別所温泉にある「北向き観音」の境内にも同じ句を刻んだ句碑が置かれていた。
「俳諧紀行文『奥の細道』などを著した松尾芭蕉は、寛永二十一年(一六四四)伊賀上野(現、三重県上野市)に生まれました。
芭蕉という俳号は、深川の小名木川のほとりの俳諧の道場『泊船堂』に、門人が芭蕉一枚を植えたことに由来します。独自の蕉風を開き『俳聖芭蕉』の異名をとった松尾芭蕉は、元禄七年(一六九四)十月十二日、大阪の旅舎で五十一年の生涯を閉じました。
この句碑は寛政八年(一七九六)十月十二日、芭蕉の一〇三回忌に建立され、基は浅草寺本堂の北西、銭塚不動の近くにありましたが、戦後この地に移建されました。
八十三歳翁泰松堂の書に加えて、芭蕉のスケッチを得意とした佐脇嵩世雪が描いた芭蕉の座像の線刻がありますが、碑石も欠損し、碑面の判読も困難となっています。
奥山庭園にある『三匠句碑』(花の雲 鐘は上野か浅草か)と共に、奇しくも『花の雲』という季語が詠みこまれています。」(説明版)
街道に戻ってしばらく行くと「花川戸公園」があり、「姥ヶ池之旧跡」、「助六歌碑」、「履物問屋発祥碑」などが置かれている。
姥ヶ池
「姥ヶ池は、昔、隅田川に通じていた大池で、明治二十四年に埋め立てられた。浅草寺の子院妙音院所蔵の石枕にまつわる伝説に次のようなものがある。
昔、浅茅ヶ原の一軒屋で、娘が連れ込む旅人の頭を石枕で叩き殺す老婆がおり、ある夜、娘が旅人の身代わりになって、天井から吊した大石の下敷きになって死ぬ。それを悲しんで悪行を悔やみ、老婆は池に身を投げて果てたので、里人はこれを姥ヶ池と呼んだ。」(説明版)
助六歌碑
「碑面には、
-助六に ゆかりの雲の紫を 弥陀の利剣で 鬼は外なり- 団洲
の歌を刻む。九世市川団十郎が自作の歌を揮毫したもので、「団洲」は団十郎の雅号である。
歌碑は、明治十二年(一八七九)九世団十郎が中心となり、日頃世話になっている日本橋の須永彦兵衛(通称棒彦)という人を顕彰して、彦兵衛の菩提寺仰願寺(現、清川一-四-六)に建立した。大正十二年関東大震災で崩壊し、しばらくは土中に埋没していたが、後に発見、碑創建の際に世話役を務めた人物の子息により、この地に再建立された。台石に「花川戸鳶平治郎」、碑裏に「昭和三十三年秋再建 鳶花川戸桶田」と刻む。
歌舞伎十八番の「助六」は、二代目市川団十郎が正徳三年(一七一三)に初演して以来代々の団十郎が伝えた。ちなみに、今日上演されている「助六所縁江戸桜」は、天保三年(一八三二)上演の台本である。助六の実像は不明だが、関東大震災まで浅草清川にあった易行院(足立区伊興町狭間八七〇)に墓がある。」(説明版)
街道に戻り、東参道の次の信号が言問橋西である。言問橋も隅田川に架かる橋で、もともとは「竹屋の渡し」があったとこでその名の由来は、在原業平の伊勢物語九段「東下り」に書かれている
- 名にし負わば いざ言問わん都鳥 わが思う人は ありやなしやと -
に因んだものであるが、実際には「橋場の渡し」(現在の白髪橋付近)であるという説もあるようだ。真実のほどは定かではない。
隅田川沿いの桜がきれいだ。
旧道はこの交差点を左折、隅田川を背に歩くことになる。
しばらく先の道を左に入ると「江戸猿若町市村座跡」の碑が置かれている。
天保十二年(1841年)時の老中水野忠邦の「天保の改革」により江戸市中の芝居小屋が猿若町に集められたのだという。
その先には「待乳山聖天」がある。
「待乳山聖天(まつちやましょうでん)は、金龍山浅草寺の支院で正しくは、待乳山本龍院という。その創建は縁起によれば、推古天皇9年(601)夏、早魃のため人々が苦しみ喘いでいたとき、十二面観音が大聖尊歓喜天に化身してこの地に姿を現し、人々を救ったため、「聖天さま」として祀ったといわれる。
ここは隅田川に臨み、かつての竹屋の渡しにほど誓い小丘で、江戸時代には東都随一の眺望の名所と称され、多くの浮世絵や詩歌などの題材ともなっている。とくに、江戸初期の歌人戸田茂睡の作、
-哀れとは夕 越えて行く人も見よ 待乳の山に 残す言の葉-
の歌は著名で、境内にはその歌碑(昭和30年〔1955〕再建)のほか、石造出世観音立像、トーキー渡来の碑、浪曲双輪塔などが現存する。また、境内各所にほどこされた大根・巾着の意匠は、当寺の御利益を示すもので、大根は健康で一家和合、巾着は商売繁盛を表すという。1月7日大般若講大根祭には多くの信者で賑わう。」(説明版)
その先が今戸神社。
「沖田総司は、当地に居住していた松本良順の治療にも拘わらず、当地で没した。」(説明版)
享年二十五歳。
並んで「今戸焼発祥之地」の碑がある。今戸焼は江戸を代表する素焼きの陶器であった。
今戸神社から30分ばかりあるくと路地の奥に「駿馬塚」の説明版が立っている。
「駿馬塚は、平安時代の康平年間(1058~1064)源義家が陸奥へ向かう際、この地で愛馬「青海原」が絶命し、これを葬った所と伝えている。」(説明版)
ここで街道を外れ、右手に10分ばかり行くと「見返り柳」と彫られた碑が置かれている。
旧吉原遊廓の名所のひとつで、京都の島原遊廓の門口の柳を模したという。遊び帰りの客が、後ろ髪引かれる思いでを抱きつつ、この柳のあたりで遊廓を振り返ったということから「見返り柳」の名があり、
- きぬぎぬのうしろ髪ひくやなぎかな -
- 見返れば意見か柳顔をうち -
など、多くの川柳の題材になっている。(説明版)
街道に戻り10分ばかり行くと泪橋の交差点である。ここは、先にある小塚原刑場に引かれていく罪人と身内の者が泪の別れをしたのだという。
先に進み、南千住駅の脇の歩道橋を越えると「小塚原刑場跡」で「首切り地蔵」が祀られている回向院がある。
「江戸のお仕置場(刑場)は、品川の鈴ヶ森と千住の小塚原の2つである。小塚原の刑場は、間口六十間余(約180メートル)、奥行三十間余(約54メートル)で、明治のはじめに刑場が廃止されるまでに、磔・斬罪・獄門などの刑が執行された。首切り地蔵は、この刑死者の菩提をとむらうため寛保元年(1741)に造立されたものである。(荒川区教育委員会)
ここでは、刀の試し切りや死者の腑分け(解剖)も行われた。
本陣1、脇本陣1、旅籠五十五軒、宿内家数二千三百七十軒、宿内人口九千九百五十六人(天保十四年(1843)日光道中村大概帳による)
- 行く春や 鳥啼き魚の 目に涙 -
弥生も末の七日、あけぼのの空朧々として、月は有明にて光をさまれるものから、不治の峯かすかに見えて、上野・谷中の鼻の梢、またいつかはと心細し。
むつまじき限りは宵よりつどいて、船に乗りて送る。
千住という所にて船を上がれば、前途三千里の思ひ胸にふさがりて、幻の巷に別離の涙をそそぐ。
- 行く春や鳥啼き魚の目は涙 -
これを矢立の初めとして、行く道なほ進まず。
人々は途中に立ち並びて、後ろ影の見ゆるまではと、見送るべし。
(三月も末の二十七日、あけぼのの空がおぼろに霞み、月は有明けの月でうすく照らしているので富士山の嶺がかすかに見わたすことができる。上野や谷中の桜の梢はいつまた見られるかと心細い思いにかられる。
友人たちは昨夜から集まって同じ船に乗って見送ってくれる。
千住という所で船から上がると、前途はるかな旅に出るのだという思いで胸がいっぱいになり、幻のようにはかない現世とは思っても別れの涙が流れる。
-過ぎ去ろうとしているなあ。それを惜しんで、鳥は悲しげに鳴き、
魚の目は涙で潤んでいるようだ-
これを旅先で詠む最初の句として歩き始めたが、なかなか道ははかどらない。
見送りの人々は、道に立ち並んでせめて後姿が見えなくなるまではと見送ってくれるのだろう。)
千住宿は、日光街道及び奥州街道の日本橋から第一番目の宿場であり、品川宿(東海道)、板橋宿(中山道)、内藤新宿(甲州街道)と並んで江戸四宿の一つである。
千住の地名は、鎌倉時代の末期(1327年)、荒井図書政次という人物が荒川から千手観音を拾い上げて勝専寺に安置したことから名づけられたという説や、足利八代将軍義政愛妾・千寿がこの地に生まれたからという説がある。
さて、小塚原跡地から10分ばかり行くと旧道は南千住の交差点で国道4号線に合流し、信号を渡った所に「素戔嗚神社」がある。境内には松尾芭蕉の旅立ちを記念した碑が置かれており、「千住という所で船を上がれば・・・・」の奥の細道の一説が彫られている。また「これを矢立の初めとして・・・・」と書かれた句札が立てられている。
素戔嗚神社を後にしばらく行くと隅田川に「千住大橋」が架かっている。
この橋は文禄三年(1594年)、隅田川に最初に架けられた橋である。
橋を渡ると「奥の細道矢立初めの地」と彫られた碑が立っている。
また、「千住大橋と荒川の言い伝え」の木札が立っている。
「千住大橋は隅田川に架けられた最初の橋です。この川は以前荒川とも渡裸川(とらがわ)とも読んでいました。昔は文字の示すように荒れる川であり、トラ(虎)が暴れるような川と言われていました。こうした川に橋をかけることは難工事ですが、当時土木工事の名人と言われた伊那備前守忠次によって架けられました。千住大橋の架橋については“武江年表”文禄三年の条に「中流急流にして橋柱支ふることあたわず。橋柱倒れて舟を圧す。
船中の人水に漂う。伊奈氏 熊野権現に祈りて成就す」と書いてあります。
川の流れが複雑でしかも地盤に固いところがあって、橋杭を打ち込むのに苦労したようです。
そうしたことから完成時には、一部の橋脚と橋脚の間が広くなってしまいました。
ここで大亀の話が登場するのです。
大橋と大亀
千住大橋をかける工事のとき、どうしても橋杭がうちこめない場所がありました。川の主の大亀(おおかめ)がこの場所に住んでいて、亀(かめ)のこうらがあったためです。そのため千住大橋の三番目と四番目との間を少し広げたところ、くいをうつことができました。また、この場所は流れが複雑で「亀(かめ)のま」とか「亀(かめ)のます」とよびました。
大橋と大緋鯉
川の主である大緋鯉(おおひごい)が上流と下流を行ったり来たりしていました。千住大橋を作るとき、橋杭を立て始めると、この大緋鯉(おおひごい)がぶつかって橋ぐいがたおれそうになります。大緋鯉(おおひごい)をつかまえようとしましたがうまくいきません。そのため千住大橋の橋杭を1本少し広げて立てかえ、大緋鯉(おおひごい)が自由に泳ぐことができるようにしました。(説明版より)
先へ進むと足立市場前の交差点の所に芭蕉像と道標がある。芭蕉像の横には「奥の細道・矢立初芭蕉像」と彫られた碑が、道標中央には「日光道中・千住宿」左側面に「ひだり・草加」右側面に「みぎ・日本橋」と彫られている。
道標の向かいには「此処はやっちゃ場南詰」の木札が立っている。
やっちゃ場とは青物問屋が軒を連ね、「やっちゃい」のセリ声が響いていたことに由来する。
木の塀には
- 千住出れば奥街道の嵐かな - 子規
- 永き日の古き歴史の市場かな - 虚子
- やっちゃばの主(あるじ)となりて晝寝かな - 為成 菖蒲園(やっちゃ場の俳人)
と書かれていた。
京成本線・千住大橋駅のガードを越えると「千住歴史プチテラス」があり、門の所に
- 鮎の子の しら魚送る 別れ哉 -と彫られた句碑が置かれている。
この句は、芭蕉が千住に着くまでに作られたのだが「奥の細道」千住に合わないととのことで採用されなかったのだという。
その先に、「昭和五年・千住市場・問屋配置図」が立っている。
「此処は元やっちゃ場北詰」の木札が掛かっており、問屋街はこのあたりまでのようだ。
すぐ先には「源長寺」がある。源長寺は、将軍の鷹狩の時に休憩所として使っており脇本陣も兼ねていた。
やがて千住高札場跡の標石があり「旧日光道中」側面に「是より西へ大師道」と彫られた道標も置かれている。西へ行くと西新井大使である。
さらに「千住の一里塚」(2番目・日本橋から二里)、「問屋場跡・貫目改所跡」の標石がある。貫目改所は、問屋場が扱う荷の重さを量った所である。
このあたりが千住宿の中心と思われる。その先が「千住本陣跡」である。
今日はここまで。北千住駅から上野経由で浦和へ(帰宅)。