奥の細道 一人歩き 4 草加宿-越谷宿

3日目(2018421日(土))草加宿-越谷宿

2宿 草加宿 (千住宿より二里八町(約8.8キロ)

本陣1、脇本陣1、旅籠七百二十三軒、宿内家数二千三百七十軒、宿内人口三千六百十九人

天保十四年(1843日光道中宿村大概帳による)

- ことし元禄二とせにや、奥羽長途の行脚只かりそめに思ひたちて、呉天に白髪の恨を重ぬといへ共、耳にふれていまだめに見ぬさかひ、若(もし)生て帰らばと、定なき頼の末をかけ、其日漸(そのひようよう)早加と云宿にたどり着にけり。-(奥の細道草加

(ことし、元禄二年、奥羽への長旅をただなんとなく思い立ち、遠い辺境の空のもとで辛苦のために白髪になってしまうようなことが度重なろうとも、話に聞くまだ見ぬ土地を訪ね、もし生きて帰ることができればと、かすかな望みをかけて歩を進め、その日、ようやく早加(草加)という宿にたどり着いた。)

さて、421日早朝に家を出「草加駅」に着いたのが7時半過ぎ、日光街道へ戻ると八幡神社がある。ここは草加宿下三町の鎮守で獅子頭雌雄一対は市の指定有形文化財になっている。

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八幡神社の隣に藤代家住宅がある。この住宅は明治初期建築の町屋造りで国登録の有形文化財に指定されている。その先が問屋場跡で明治44年建立の道路元票が立っている。元票の表には「千住町へ貮里拾七町五三間三尺・越谷町へ壱里三拾三町三拾間三尺」、左側面には「距 浦和町元帳四里貮拾町拾三間三尺・距 栗橋官かつ境拾里拾三間五尺」、右側面には「谷塚村官かつ境貮拾四町貮間三尺」と彫られている。道路を挟んだ向かいには「三丁目橋」と刻まれた標石置かれている。

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先へ行くと、道路の左手に「大川本陣跡」右手に「清水本陣跡」の碑が立っている。添えられている説明書きによると「草加宿の本陣・「江戸時代に、奥州・日光道中参勤交代の大名休泊宿として、草加宿の本陣がここに置かれました。

大川本陣(~宝暦年間)

清水本陣(宝暦年間~明治初期)
この本陣には、会津藩の松平容頌、仙台藩伊達綱村盛岡藩の南部利視、米沢藩の上杉治憲(鷹山)らが休泊した記録があります。
近くに脇本陣も置かれ、参勤交代の往復にその役割を発揮しました。
本陣は、門、玄関、上段の間がある所が一般の旅籠と異なり、昭和初期にはまだ塀の一部が残っていたと伝えられています。当主は、名主や宿役人などを兼帯していました。」(「今様・草加宿」市民推進会議)とある。

宝暦四年(1754年)まで大川家が本陣職を務めその後清水家が本陣職を譲り受けた。

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しばらく行くと道路の左に氷川神社、右に「おせん茶屋」と名付けられた公園があり、「日光街道」の碑が置かれている。氷川神社は、慶長十一年(1606草加宿の開祖・大川図書の創建だという。おせんさんは、草加せんべいの生みの親で茶屋を営むおせんさんが売れ残った団子をつぶして天日に干し、焼くといいと教えたのが「草加せんべい」の由来だそうだ。

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その先には草加宿明神庵(久野家住宅)がある。この町屋は安政二年(1855年)の大地震に耐えた建物だという。近くに「成田山」の碑が置かれている。

「元祖・源兵衛せんべい」というせんべい屋さんがあったがまだ店が開いていなかった土産を買うことはできなかった。

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その先が神明町交差点の小さな公園があり、草加松原遊歩道の起点になっている。

芭蕉の門人で奥の細道随行し「曽良旅日記」の著者である河合曽良の像、草加せんべい発祥の地と彫られた碑、芭蕉奥の細道と彫られた碑などが置かれており、馬頭観音が祀られている。

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綾瀬川に出会う伝右川に架かる橋を渡って左折すると草加松原遊歩道の入口である。そこには「札場河岸跡」がある。ここは、札場屋・野口甚左衛門の個人所有の河岸で江戸との舟便が盛んであった。傍らに正岡子規高浜虚子草加を訪れた時に詠んだ句碑が置かれている。(写真は逆光で字が読めないが碑には次のように彫られている。)

- 梅を見てのを見て行きぬ草加まで  子規 -

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綾瀬川に沿った遊歩道を歩きだすとすぐに芭蕉像と高浜虚子の句碑が並んでいる。

- 巡礼や草加辺りを帰る雁 虚子 -

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すぐ先には「矢立橋」とかかれた太鼓橋がある。これは「奥の細道」の一説「-行く春や鳥啼き魚の目は泪―是を矢立の初めとして、行く道なをすすまず。」に因んで命名された。

日本の道百選・日光街道と彫られた大きな石碑も置かれている。

遊歩道に沿って流れる綾瀬川は大雨の旅に川筋を変える所から「あやし川」と呼ばれていたが伊能忠次によって堤が整備され川筋が安定した。綾瀬川は、やがて隅田川に出会い江戸に通じる重要な水路であった。

遊歩道の松並木は天和三年(1683関東郡代・伊部半右衛門が植栽したもので当時は「千本松原」と呼ばれた名所であった。

 

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矢立橋を越えると「奥の細道の風景地・草加松原」と彫られた名勝碑が置かれている。

その先には、「百代橋」と名付けられた「矢立橋」と同じような太鼓橋がある。

その手前に「橋名由来・月日は百代の過客にして行きかふ年も又旅人也」と芭蕉奥の細道碑が置かれている。

 

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続いて「松尾芭蕉文学碑・ことし元禄二とせにや・・・・其日漸(その日ようよう早加(草加)と云う宿にたどり着きにけり。」と奥の細道の一説が彫られた碑が置かれている。

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15分ばかり歩くと、東京外環自動車道の高架ガードをくぐることになるがこのあたりが草加松原の北端だろうか。やっとの思いで草加宿にたどり着いた芭蕉曽良の旅姿が壁に描かれている。

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このあたりには「出茶屋」と呼ばれた立場があり当時は賑わったのだろう。

その先左手に「金明愛宕神社」がありさらに先へ行くと綾瀬川に架かる蒲生大橋を渡ることになる。橋の袂には以下のように書かれた碑が置かれている。

蒲生大橋

日光道中分間延絵図(文化三年(1806年)完成)」によると、この橋は、大橋土橋と記されており、長さ124尺、幅2間①尺、綾瀬川に架けられた土橋で御普請場。足立郡埼玉郡の境と解説されている。・・・・」

橋の親柱には、結城家の家老で文人であった水野織部長福(おりべながふく)の句

- 道ぞ永き 日にやき米を 加茂蒲生 -と彫られている。

反対側の親柱には、高浜虚子の句

- 舟遊綾瀬の月を領しけり -が彫られている。

 

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橋を渡ると「蒲生の一里塚跡」がある。江戸から5番目の一里塚である。

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一里塚から先はこれということもないが蒲生郵便局の辺りに当時立場あり焼き米が名物であったどうだ。

しばらく行くと享保十三年(1728)建立の不動明王が祀られている。台座には「是よりさがミ道」と刻まれた大聖寺(大相模不動)への道標を兼ねている。並んで正徳三年(1713)建立の笠付青面金剛庚申塔が祀られている。

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不動明王道標から15分ばかり行くと照蓮院がある。墓所には「千徳丸供養五輪塔」がある。武田勝頼が自刃したとき家臣が遺児の千徳丸を家臣が埼玉県越谷の瓦曽根村連れ帰ったが千徳丸は、早世してしまった。照蓮院のホームページには次のような説明文がある。

「瓦曽根秋山家の祖は、甲斐国武田家の重臣秋山伯耆守信藤であることを伝えています。天正10年(1582)武田家滅亡のとき、信藤とその二男長慶は武田勝頼の遺児千徳丸を奉じて瓦曽根村におちのび潜居しましたが、千徳丸は間もなく病死しました。長慶はこれを悲しみ、瓦曽根村照蓮院の住職となってその菩提を弔りましたが、寛永14年(1637)秋山家墓所五輪塔による供養墓石を造塔しました。これには、「御湯殿山千徳丸」と刻まれてます。」

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すぐ先の三叉路には里程標があり

表里程・東京雷門五里(二十粁)、浦和三里半(十四粁)、大宮五里(二十粁)、川口四里(十六粁)、鳩ケ谷三里(十二粁)、草加一里半、吉川一里、野田二里半、粕壁二里半、岩槻三里

と刻まれている。

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本日はここまで。

東部スカイツリーライン越谷駅からJR武蔵野線南越谷経由で帰宅。