奥の細道 一人歩き 9 栗橋宿-中田宿-古河宿

8日目(2019123日(水))栗橋宿-中田宿-古河宿

宇都宮線栗橋駅から日光街道へ戻る途中に「静御前」の墓がある。

静御前

磯禅師(いそのぜんじ)の娘として生まれた静は、6歳で父を亡くし、母と共に京へ上った後、当代随一の白拍子と称されるほどに成長した。室町時代初頭に書かれたとされる「義経記」には後白河法皇が京の神泉苑で雨乞いの儀式を行った時、100番目の静の舞が黒雲を呼び3日間雨が降り続いたという。その後、大坂の住吉神社で舞をしていた静は、源義経と出会い恋に落ちる。義経の愛妾となった静御前は幸せな日々を送っていたが、やがて頼朝に追われた義経と奈良の吉野山で別れ、山中をさまよう中、僧兵に捕らえられ、鎌倉の頼朝のもとへと送られる。

吾妻鏡によれば、

静御前が鎌倉へ送られてきたのは文治二年(1186)三月一日。

頼朝は義経の行方を厳しく聞くが静御前は答えない。

同年四月六日に静御前は、鶴岡八幡宮で頼朝や北条政子の前で舞を舞った。その時、静御前は子供を身ごもっていたという。静御前は、舞を舞う前に

- 吉野山 みねの白雪踏み分けて 入りにし人の 跡や恋しき -

吉野山の白い雪を踏み分けて隠れ入った人の跡がなんて恋しきことでしょう)

- しずやしず しずのおだまき 繰り返し むかしをいまに なすよしもがな -

(しず、しずと義経様に呼ばれていたころに戻れたらどんなにいいことでしょう)

と詠んだ。この二つの歌には本歌がある。

-み吉野の山の白雪踏み分けて入りにしひとのおとずれもせぬ-(古今集三二五 壬生忠岑

(白雪を踏み分けて吉野の山に入った人が便りもくれないのはどうしたことだろう)

-古のしずのおだまきくり返し昔を今になすよしもがな-(伊勢物語第三十二段)

(昔の織物の糸を紡いで巻き取った糸玉から糸を繰り出すように昔を今にしたいものだ)

同年七月二十九日、静御前男児を出産するが頼朝の家臣・安達新三郎により由比ヶ浜に捨てられる。

同年九月十六日、静御前は許されて京へ帰る。

やがて義経を慕って奥州への旅に出た静御前は、栗橋のこの地で非業の死を遂げたといわれている。(もっとも静御前の終焉の地は諸説ありどれがどうとも言えないのだが・・・・)

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下の写真左「坐泉の歌碑」(江戸時代の歌人、坐泉はこの地にきて静御前を偲んで読んだ句)

― 舞ふ蝶の 果てや夢見る 塚のかげ -

中「静女塚碑」、右「義経招魂碑」と「静女所生御曹司供養塔」

 

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 境内には桜の木があり「静桜」と書かれた説明版が添えられている。

静御前義経を追って奥州に向かう途中、義経の討死にを知り、涙にくれた静は、一本の桜を野沢の地に植え、義経の菩堤を弔ったのが静桜の名の起こりといわれています。」(説明版より)静桜は、「御前桜」ともいわれ義経終焉の地とされる「衣川」とこの地に伝えられている。土産に静御前最中とまんじゅうを買ってみた。

 

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静御前巴御前木曽義仲の愛妾)、常盤御前義経の母)いずれもその美貌は薄幸が故に輝きを増しているのである。

ところで源頼朝だが、この人物はあまり有能な武将とは言えない。宿敵平家を滅ぼしたのは木曽義仲であり、源義経である。つまり頼朝は何もしていない。義仲や義経の武勇で天下がわが手に転がり込んできたのである。無能な権力者にとって有能な身内である義仲や義経は生かしておけない脅威なのである。「織田がつき羽柴がこねし天下餅、座りしままに食らうは徳川」という戯れ歌があるが「木曽がつき九郎がこねし天下餅座りしままに食らうは頼朝」といったところか。

間もなく鎌倉幕府は北条一族に乗っ取られ、幕府は腐敗の一途を辿ることになる。

後年、木曽義仲は粗暴な田舎武将として描かれることが多いが、それは北条一族が義仲を悪者に仕立て上げたからであろう。徳川が石田三成を徹底的に悪者にしたのと同じパターンである。時の為政者は、歴史を何とでも書き換えることができるのである。

芭蕉は大坂で亡くなっているが、自分の亡骸は大津・膳所の義仲寺に埋葬するようにと言い残している。なぜ故郷の伊賀上野ではなかったのかそれは知る由もないが芭蕉は、義仲や義経に限りない哀惜の情を抱いていたことは確かであろう。

- 木曽殿と背中合わせの寒さかな - 芭蕉の弟子・又玄(ゆうげん)の句である。

句碑は、滋賀県大津市の義仲寺に置かれている。

余談が長くなってしまった。街道へ戻ろう。

 

7宿 栗橋宿 (幸手宿より二里三町(約8.3キロ)

本陣1、脇本陣1、旅籠二十五軒、宿内家数四百四軒、宿内人口千七百四十一人

天保十四年(1843日光道中宿村大概帳による)

栗橋宿は利根川の舟運で栄えた。この地は関東平野の北辺に位置し、関所が置かれ「入り鉄砲と出女」が厳しく警備された。利根川対岸の中田宿は合宿の形態をとっており、両宿を合わせて一宿とする記述も有る。

街道に戻ると土手下に「関所跡」の碑と説明版が立っている。

芭蕉随行した曽良の日記(曽良日記)には「廿八日、ママダに泊ル。カスカベヨリ九里。前夜ヨリ雨降ル。辰上剋止ムニ依リ宿出。間モナク降ル。午の下刻止。此日栗橋ノ関所通ル。手形モ断モ不入(いらず)。」と記されている。

栗橋の関所は、江戸幕府にとって重要な関所の一つで「入り鉄砲と出女」を警備した。

「手形モ断モ不入」ということは芭蕉曽良は何のお咎めもなく無事に関所を越えたという事だろう。

 

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続いて八坂神社がある。ここは、栗橋宿の総鎮守で狛犬が鯉になっている。利根川の洪水の際に鯉が「御神体」を運んできたことに由来する。

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すぐそばに「関署番士屋敷跡」があったそうだが今は工事中で確認できない。

そういえば本陣も脇本陣も見つけられなかった。

利根川に架かる利根川橋を渡れば中田宿で橋の真ん中が埼玉県と茨城県の県境である。

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橋の渡り詰めを左に入ると旧道である。旧道の入口には「房川の渡し」の説明版があるが字が剥げていてよく読めない。

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8宿 中田宿 (栗橋宿より十八町(約1.6キロ)

本陣1、脇本陣1、旅籠六九軒、宿内人口四百三人

天保十四年(1843日光道中宿村大概帳による)

中田宿は、房川の渡しを控え元和十年(1624)に創設された宿場町で「鮒の甘露煮」が名物であった。栗橋宿とは合宿で問屋業務は半月交代で務めた。

旧道を歩くと中田宿の説明版が立っている。

「江戸時代の中田宿は、現在の利根川橋下、利根川に面して、現在は河川敷となってしまっている場所にあった。再三の移転を経て、現在のような中田町の町並となったのは、大正時代から昭和時代にかけての利根川の改修工事によってである。

中田宿の出発は、江戸幕府日光街道を整備する過程で、以前の上中田・下中田・上伊坂など、複数の村人を集め、対岸の栗橋宿と一体的に造成されたことにあり、宿場として、隣の古河宿や杉戸宿への継ぎ立て業務も毎月を十五日ずつ半分に割り、中田・栗橋が交代であたるという、いわゆる合宿であった。

本陣・問屋や旅籠・茶店などの商家が、水辺から北へ、船戸、山の内、仲宿(中町)、上宿(上町)と、途中で西へ曲の手に折れながら現在の堤防下まで、延長五三〇メートルほど続いて軒を並べていたが、ほとんどは農家との兼業であった。

天保十四年(1843)の調査では、栗橋宿四〇四軒に対し、中田宿六九軒となっている。ただし、一一八軒とする記録もある。 平成十九年一月 古河市教育委員会」(説明版より)

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街道を行くと「鶴峰八幡宮」がある。ここで御朱印をもらうと共に一休みしよう。

境内には「日光街道・旅の神」と「「水神社」「八坂神社」「浅間神社」「道祖神社」「琴平神社」が祀られており、「足踏み祈願、健康・安全・病気平癒・災除」の五柱の神等の御前で祈願 江戸時代より皆立ち寄りお参りし旅立った。左、右、左の足踏みを三回繰り返す。」と記された木札が立っている。横には「住吉神社」等が祀られている。

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「鶴峰八幡宮」の隣には「光了寺」がある。

ここは、静御前を葬ったという栗橋の「高柳寺(光了寺)」が移転したもので静御前後鳥羽上皇から賜ったという「蛙蜊龍(あまりりゅう)の舞衣」、義経肩身の懐剣・鐙(あぶみ)等が保存されている。境内には芭蕉の句碑が置かれている。

- いかめしき音や霰の檜木笠 -

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「光了寺」から10分ばかり歩くと「中田の松原」と書かれた説明版が立っている。

日光街道の踏切辺りから原町入り口にかけて古河藩二代藩主永井信濃守が植栽した松並木があった。「東海道にもこれほどきれいな松並木はない。」と言われたほどであったという。

先には「立場茶屋」があったそうで当時は旅人で賑わったことだろう。

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原町に入ると「十九夜塔」があり、「関宿境道」と刻まれた道標を兼ねている」。

道路を挟んだ古河第二高等学校の校庭に「原町の一里塚」が復元されている。江戸・日本橋から十六番目(十六里目)の一里塚である。(受付の先生にお願いし中へ入れてもらった。)

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すぐ先には、「左にっこう 右みちのく」と刻まれた道標が民家の玄関先に置かれている。

原町自治会館の先には、「祭禮道道標」がある。祭禮道は古賀の産土神・雀神社祭禮の際に旅人の迂回路になったのだそうだ。

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しばらく行くと古河宿「原町口木戸跡」で三叉路に古河宿の灯籠モニュメントが立っている。古河宿の江戸側の入口である。

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本日はここまで。JR宇都宮線古河駅から帰宅。