奥の細道 一人歩き 10 古河宿-野木宿-間々田宿

9日目(2019123日(水))古河宿-野木宿-間々田宿

9宿 古河宿 (中田宿より一里二十町(約5.8キロ)

本陣1、脇本陣1、旅籠三十一軒、宿内人口三千八百六十五人

天保十四年(1843日光道中宿村大概帳による)

北条氏の滅亡後、古河城は徳川家康の家臣小笠原秀正の居城となった。それ以後代々譜代大名が城主となり城下町が形成された。歴代将軍日光社参の2日目の宿泊が古河城であった。

原町口木戸跡のすぐ先の稲荷神社参道口に如意輪観音像、十九夜塔等が置かれている。

その先には長谷観世音参道寺標が立っている。長谷観世音は歴代古河城主の祈願寺であった。

f:id:tyoyxf1:20190520110459j:plainf:id:tyoyxf1:20190520110635j:plain

続いて古河城御茶屋口門跡の碑が立っており、「御茶屋口と御成道」説明版が添えられている。

「「御茶屋口」、旧日光街道に面するこの口の名前は、かつてこの地に存在したとされる「御茶屋」に由来している。それは日光社参(徳川将軍が、神君徳川家康を祀る日光山へ参詣する行事のこと)に伴い将軍の休憩所として設けられたとされるが、江戸初期のごくわずかな期間に存在したと推定されるこの建造物について、今のところ、記録として残る略図以外にその詳細はわからない。 ところで、徳川将軍の日光社参は江戸時代を通じて19回おこなわれているが、古河城は、道中における将軍の宿城となることが通例であった。将軍の古河入城に利用された「御成」の入り口がこの御茶屋口である。 そして、「御茶屋口」から続く将軍御成の道は、諏訪郭(現歴史博物館)を北側に迂回、その後、幅180メートルに及ぶ「百間掘」を渡す「御成道」を経由して城内に至る。杉並木で飾られた「御成道」と城内との接点には、石垣で堅牢に守られていた「御成門」が将軍をお迎えした。 なお、将軍休憩の御殿というべき「御茶屋」破却後、その場所の一角には、「御茶屋番所」が置かれている。これは、古河城下を通行する格式の高い大名や幕府閣僚たちの挨拶に対応する役人の詰所であり、明治維新を迎えるまで存続した。」(古河市教育委員会・説明版より)

f:id:tyoyxf1:20190520110849j:plainf:id:tyoyxf1:20190520110938j:plain

やがて、左手に「肴町通り」通り道があり店の傍らに「古河藩使者取次所跡」と刻まれた碑が立っている。使者取次所は、大名の使者を」接待する役所で「御馳走役所」とも呼ばれたそうだ。肴町について次のような説明版が立っている。

「【肴町の由来】

その昔、元和の五年(1619)に奥平忠昌公が古河城主として移封された時代のことです。忠昌公は、お城の増築や武家屋敷の拡大のために町屋の大移動をはかり、中心部に新しいまちづくりを行いました。後の大工町や壱丁目、石町、江戸町等は皆その時に名付けられたものです。

江戸時代に古河城下を通過する諸大名は、使者を派遣し挨拶をしに参りました。古河藩からは役人が出向いて歓迎の接待をしたものです。その役所のひとつに使者取次所があり、別名を御馳走番所と言いました。現在米銀の在る処がそれで、今の中央町二丁目麻原薬局角から中央町三丁目板長本店の間、道巾三間半、長さ二十二間五尺の通りは、「肴町」と呼ばれるようになりました。

以来、この肴町通りは古河城裏木戸を経て城内にお米やお茶、お酒をはじめその他の食糧品を供給し、城内との交流の道として栄えて参りました。

今日、食糧品を扱う大きな店の構える通りとなっているのもその縁でありましょうか。

歴史の重さがしのばれます。」 (肴の会・説明版より)

f:id:tyoyxf1:20190520111143j:plainf:id:tyoyxf1:20190520111229j:plainf:id:tyoyxf1:20190520111318j:plain

f:id:tyoyxf1:20190520111906j:plainf:id:tyoyxf1:20190520111950j:plain

この道を左に入っていくと閑静な町並みがみられる。

古河城二の丸御殿口の「乾門」を移した法福寺の山門や江戸時代にタイムスリップしたような鷹見泉石記念館などがある。鷹見泉石は古河藩の家老を務め、四代藩主・土井利位(どいとしひつら)が老中の時に「大塩平八郎の乱」の鎮圧に功があったのだという。

乾門については、次のような説明版がある。

「旧古河城内の二の丸御殿の入口にあって、乾門(いぬいもん)と呼ばれてきた門である。明治6(1873)、古河城取り壊しに際して檀家が払い下げを受け、寺に寄進した。この門の構造は平唐門(ひらからもん)という形式で両側には袖塀が付き、向かって右側にくぐり戸がある。かつての古河城の姿を現在に伝える数少ない遺構として貴重である。」(古河市教育委員会・説明版より)

f:id:tyoyxf1:20190520112116j:plainf:id:tyoyxf1:20190520112157j:plain

f:id:tyoyxf1:20190520112307j:plainf:id:tyoyxf1:20190520112351j:plain

「ぬた屋」という川魚の甘露煮の店であゆの甘露煮を購入。

f:id:tyoyxf1:20190520112538j:plainf:id:tyoyxf1:20190520112632j:plain

街道に戻り、すぐ先の本町二丁目の交差点の所に本陣跡の碑が立っている。道路を挟んで向かいには高札場跡の碑があり、説明版が添えられている。(説明版の文字が剥げていてよく読めない。以下は、古河市教育委員会HPのもの)

「高札場と本陣
日光街道の宿場町としての古河宿の中心は、もと二丁目とよんだこの辺であった。文化4(1807)の古地図によると、高札場がこの場所にあり、斜め向かいに本陣と、問屋のうちの一軒があり、またその向かい側に脇本陣が二軒並んで描かれている。
高札場は、親を大切にとか、商いは正直にとか、キリシタンは禁止だとかいった幕府の法令や犯人の罪状などを掲げたところである。
本陣と、その補助をする脇本陣は、合戦のとき大将の陣どるところに由来して、大名・旗本をはじめ幕府機関の高級役人・公卿・僧侶などの宿泊・休憩所で、古河の本陣は1175(400平方メートル)もあった。どこの宿でも最高の格式を誇っていたが、経営は大変であったといい、古河の脇本陣はのち他家に移っている。
問屋は、人足25人、馬25匹を常備し、不足の場合は近村の応援を得たり人馬を雇ったりして、この宿を通行する旅人や荷物の運搬一切をとりしきった宿場役人のことで、他にも34軒あって、交代で事にあたっていた。
街道沿いの宿町は、南から原町、台町、一丁目、二丁目(曲の手二丁目)、横町(野木町)と続き、道巾は54(10メートル)ほど、延長1755(1850メートル)余あり、旅籠や茶店が軒を並べ、飯盛女(遊女の一種)がことのほか多い町だったという。」(古河市教育委員会・説明版より)

f:id:tyoyxf1:20190520112822j:plainf:id:tyoyxf1:20190520112912j:plain

少し歩くと街道は直角に右に曲がっていて角に常夜灯を兼ねた日光街道古河宿道標が立っている。「左日光道」「右江戸道」と刻まれている。足元には「左日光道」ご刻まれた標柱もある。日光道と筑波道の追分である。

寛永十三年(一六三六)に徳川家康によって日光東照宮が完成し、江戸と日光を結ぶ日光街道が整備された。その途中にある古河宿は、日光社参の旅人などの往来でひときわ賑わうようになった。日光街道は、江戸から古河に至り、二丁目で突き当り、左が日光道、右が筑波道と分岐するように作られた(絵図を参照)。その分岐点に、人々の往来の助けにと建てられたのがこの道標である。この道標は文久元年(一八六一)に太田屋源六が願主となり、八百屋儀左衛門ほか11名によって建てられたもので、常夜灯形式の道標として貴重なものである。文字は小山霞外(おやまかがい)・梧岡(ごこう)・遜堂(そんどう)という父・子・孫三人の書家の揮毫(きごう)である。」(古河市教育委員会・説明版より)

現代のように情報が発達していない当時は、旅人にとって道標や一里塚がどれほどありがたいものかが実感できる。

f:id:tyoyxf1:20190520113204j:plainf:id:tyoyxf1:20190520113249j:plainf:id:tyoyxf1:20190520113431j:plain

少し歩き今度は直角に右に曲がると「よこまち柳通り」の碑が立っている。「武蔵屋」という鰻料理店があるが、このあたりは当時遊廓であったのだそうだ。

向かい側には、「古河提灯竿もみ祭り発祥の地」と刻まれた碑が置かれている。長い竹竿の先に提灯をつけ、大勢で激しく揉み合いながら提灯の火を消すという奇祭だという。

f:id:tyoyxf1:20190520113610j:plainf:id:tyoyxf1:20190520113706j:plainf:id:tyoyxf1:20190520113758j:plain

15分程歩くと再び「よこまち柳通り」の碑が立っている。よこまち柳通りはここで終わりという事か。その先15分程歩くと再び古河宿灯籠のモニュメントが立っている。このあたりが古河宿の日光口なのであろう。

f:id:tyoyxf1:20190520113946j:plainf:id:tyoyxf1:20190520114034j:plain

古河宿を後にしてすぐに「史跡栗橋道道標」が立っている。この道は栗橋に続いているのだろうか。その先10分程の所には「塩滑地蔵菩薩」がある。地蔵尊に自分の幹部と同じところに塩を塗ると霊験があらたかであるという言い伝えがある。

f:id:tyoyxf1:20190520114219j:plainf:id:tyoyxf1:20190520114301j:plain

時間は午後1時前、空腹を感じた所で左手にイートインのあるスーパーがあったのでそこで昼食を取ることにする。街道歩きをしているとトイレと昼食を取る場所に困ることが多い。イートインのあるスーパーやコンビニはとてもありがたいのである。

食事を終えて先へ行くと野木神社の鳥居が見える。野木神社は、延歴二年(783)時の征夷代将軍坂上田村麻呂が社殿を造営、下野の国寒川郡七郷の鎮守であり、古河藩の鎮守祈願所であった。15分程先には馬頭観音が置かれている。旧道は、ここで4号線に合流する。

4号線をあるくと馬頭観音と並んで野木宿入り口の標識があり「この場所に木戸が設置されていた。」と記されている。ここは野木宿の江戸口で土塁と矢来棚があった。

f:id:tyoyxf1:20190520114432j:plainf:id:tyoyxf1:20190520114512j:plainf:id:tyoyxf1:20190520114713j:plain

 

10宿 野木宿 (古河宿より二十五町に十間(約2.8キロ)

本陣1、脇本陣1、旅籠二十五軒、宿内人口五百に十七人

天保十四年(1843日光道中宿村大概帳による)

野木宿の西に流れる思川には野渡(のわた)河岸、友沼河岸があり江戸との舟運が盛んであった。

木戸口を入るとすぐに熊倉本陣跡で野木宿の説明版が立っている。

本陣は熊倉七郎右衛門が務め、問屋も兼ねていた。

日光道中野木宿
江戸時代の野木宿は、古河宿より2520間(約2.8㎞)、間々田宿へ127町(約6.9㎞)にあった宿場町である。
野木宿の成立は、野木神社の周りに住居したのがはじまりで、その後文禄年中(159295)に街道筋へ出て、馬継ぎが開始され、新野木村が成立した。まもなく野木村も街道筋へ移動して町並みとした(「野木宮要談記」)ようである。慶長7年(1602)には本野木・新野木村を併せ、野木宿として成立した(「日光道中略記」)。こうして日光道中東海道中山道と前後して、慶長期(15961614)ころから、宿駅の設定や街道の整備が進められたとされる。
宿の規模は天保14年(1843)では下記の通りである。
宿の長さ 2227間 家数 126軒 宿の町並み 1055間 御定人馬 2525疋 高札場1ヶ所 本陣 1軒 脇本陣 1軒 問屋場 4ヶ所 旅籠 25軒(大0,2,23) 人口 527人(男271人 女256人)・・・
野木宿は小さな宿場だったので、街道が整備され、通行量が増大すると、その負担に耐えられなくなっていった。そこで、宿人馬をたすける助郷の村々、23ヶ村が野木宿に割り当てられた。その多くは古河藩内の村々で、現在の野木町域(川田を除く)、小山市平和などの台地上の村々と思川西部の水田地帯の村々があてられた。」(野木町教育委員会説明版による。)

f:id:tyoyxf1:20190520114855j:plainf:id:tyoyxf1:20190520115024j:plain

本陣跡の道路を挟んで向かい側が脇本陣跡である。脇本陣も熊倉家(熊倉兵左衛門)が務めた。5分程歩くと野木の一里塚跡の説明版が立っている。江戸より十七番目の一里塚で塚木には榎が植えられていたのだそうだ。続いて浄明寺、境内には青面金剛庚申塔等が置かれている。

先へ行くと大平山道標があり説明版が添えられている。道標には「是より大平道」と刻まれている。大平道は、思川の渡しを越え、日光例幣使街道の栃木宿大平山神社に至る。かつては、日光への裏道であった。

f:id:tyoyxf1:20190520115217j:plainf:id:tyoyxf1:20190520115311j:plainf:id:tyoyxf1:20190520115406j:plain

すぐ先には観音堂があり敷地内に十九夜供養塔や馬頭観音等が置かれている。

このあたりが野木宿の日光口で土塁や矢来棚があったということだ。

f:id:tyoyxf1:20190520115555j:plainf:id:tyoyxf1:20190520115636j:plainf:id:tyoyxf1:20190520115717j:plain

観音堂から40分ばかり歩くと左手に法音寺があり、境内には、芭蕉の句碑があり、説明版が添えられている。句碑には「道ばたのむくげは馬に喰われけり」と刻まれている。

曽良日記には「廿八日、ママダに泊まる。カスカベより九里前夜ヨリ雨降ル。」と書かれている。江戸を出て2日目の宿が間々田、雨の中間々田に宿を取ったのだろう。

f:id:tyoyxf1:20190520115925j:plainf:id:tyoyxf1:20190520120019j:plain

f:id:tyoyxf1:20190520120108j:plainf:id:tyoyxf1:20190520120152j:plain

法音寺の道路を挟んだ向かい側が正八幡宮である。

『友沼八幡神社「将軍御休所跡」
 元和二年(1616)、徳川家康が没すると、これを駿河久能山にいったん葬ったが、翌三年の一周忌に久能山から日光へと改葬した。
 東照大権現社が完成すると、将軍秀忠は日光参詣(社参)のため、四月十二日に江戸を出発している。さらに寛永十三年(1636)に東照宮が完成すると、徳川家最大の廟所として将軍はじめ諸大名、武家や公家、さらに庶民にいたるまで参詣するようになった。
 将軍の社参は、秀忠の第一回社参をはじめとして、天保十四年(1843)の十二代将軍家慶の社参まで一九回に及んだ。寛永十三年四月、遷宮後の第十一回社参行列の規模も拡大された。
 社参の行程は四月十三日に江戸を出発し、岩槻・古河・宇都宮で各一泊、十六日に日光に入り、十八日には帰途につく。復路もやはり三泊四日で帰るのが恒例となった。それとともに昼食・休憩の宿や寺社なども決まり、大沢宿(現今市市)のようにそのための御殿が建てられた例もあった。
 友沼の将軍御休所は、将軍が江戸を出発し、二泊めになる古河城を朝出て、最初に小休止をした場所で、八幡神社の境内にあった。次は小金井の慈眼寺で昼食をとり、石橋へという道順をとった。
 ところで、近世における八幡神社は「日光道中略記」によると、別当法音寺の支配下にあった。野木村の野木神社の場合、元和二年に別当満願寺の支配がはじまるから、八幡神社も早くはほぼこの時期かと思われるが、小祠から拝殿・本殿をそなえた神社に整備されたのは、社参の規模が拡大する寛永十三年以降のようである。将軍御休所の建物は境内にあり、西運庵と呼ばれた。日光社参と八幡神社の整備が深くかかわっているとすれば西運庵の成立もこの時期かもしれない。なお文化期(180417)の宿駅のようすを描いたといわれる「日光道中分間延絵図」では、はるかに丸林村、潤島村の林が、さらに遠方には若林村の森が見え、正面には筑波山を眺望できる景勝の地と記されている。
 肥前国平戸藩松浦静山は寛政十一年(1799)八月、四十才のとき、日光参詣の途中、友沼の「石の神門建てたる八幡の神祠のまえにしばし輿をとめ」、休憩している。
 天保十四年四月、「続徳川実紀」によると、一二代将軍家慶の社参では、享保(第十七回)、安永(十八回)の社参では設けなかった幕張りが小休止の場所でまで行われた。友沼の御休所でも幕が張られ、一行は疲れをいやしたとある。平成三年三月二十五日』(説明版より)

f:id:tyoyxf1:20190520120326j:plainf:id:tyoyxf1:20190520120416j:plain

5分程歩くと小山市に入り、すぐに馬頭観音道標が置かれている。

これは乙女河岸、網戸河岸(あじとがし)への道標で「是より左 乙女河岸 あしと とちき さのみち」と刻まれている。

f:id:tyoyxf1:20190520120554j:plainf:id:tyoyxf1:20190520120657j:plain

その先には乙女の一里塚がある。江戸から十八番目の一里塚で榎の大木の根方には鳥居、石灯籠があり石の祠が祀られている。

f:id:tyoyxf1:20190520120821j:plainf:id:tyoyxf1:20190520120857j:plain

一里塚から700メートルほど歩くと十九夜塔があり如意輪観音像が刻まれている。

f:id:tyoyxf1:20190520121022j:plain

先へ進むと「乙女」の交差点があり交差点から左に延びる道が乙女河岸に至る乙女河岸道である。

乙女河岸は思川流域にあり、徳川家康が上杉討伐に際して軍勢や武器・兵糧の陸揚げ地として利用された。慶長五年(一六〇〇)七月二十五日、上杉討伐の途中、石田三成の挙兵を知った家康は天下分け目の軍議「小山評定」の結果一転して三成討伐のため、上方へ向かうことになる。家康は慶長五年(一六〇〇)八月四日の早朝乙女河岸から舟に乗り、古河を経てよく五日に江戸城に帰り着いた。徳川家康の天下取りはこの乙女河岸から始まったとも言えよう。

f:id:tyoyxf1:20190520121245j:plain   f:id:tyoyxf1:20190520121321j:plain

今日はここまで。

JR間々田駅から帰宅。