奥の細道 一人歩き 11 間々田宿-小山宿

10日目(201925日(火))間々田宿-小山宿

11宿 間々田宿 (野木宿より一里二十七町(約6.7キロ)

本陣1、脇本陣1、旅籠五十三軒、宿内人口九百四十七人

天保十四年(1843日光道中宿村大概帳による)

間々田宿は、元和四年(1618)に宿駅となり、思川の乙女河岸を控え物資の集積地として賑わった。宿駅の管理は、寛永10年(1633年)以降は古河藩、正徳2年(1712年)以降は幕府、安永3年(1774年)以降は宇都宮藩が担った。

また、間々田宿は江戸、日光からそれぞれ11番目の宿場にあたり、距離も18里の中間地点に位置していたので、「間の宿(あいのじゅく)」と呼ばれていた。

 

浦和から宇都宮線で間々田へ。街道に戻り少し行くと右手に小川家住宅がある。今は、小山市車屋美術館で、明治末期の小川家住宅(国有形登録文化財)が公開されているが早朝(830分)なので中には入れなかった。

5分程歩くと「逢の榎」の碑がある。榎は「間(あい)の榎」と呼ばれていたが、いつしか「逢の榎」と呼ばれるようになり、縁結びの木として信仰を集めるようになった。

碑には、逢の榎、江戸へ拾八里、日光へ拾八里と刻まれている。

日光街道中間点 逢の榎

「元和三年(1617)、徳川家康が日光に祀られると、日光街道は社参の道として整備されていき、二十一の宿場が設けられました。

宇都宮までは奥州街道と重なっていたため、諸大名の参勤交代や物資の輸送、一般の旅人などにも利用された道でもありました。

間々田宿では、翌年には宿駅に指定され、江戸および日光から、それぞれ十一番目の宿場にあたり、距離もほぼ十八里(約七十二キロ)の中間点に位置していました。

天保十四年(1843)、間々田宿には本陣一軒、脇本陣一軒、旅籠が五十軒ほどあり、旅人が多く宿泊し、賑わっていました。松尾芭蕉などの文化人も宿泊しています。

また、中田宿から小金井宿付近までの街道沿いには、松並木が続き、一里塚には杉・榎などが植えられ、旅人の手助けとなっていました。

間々田宿の入口にあった榎は、毎年、街道を通った例幣使が江戸と日光の中間に、この榎を植えて、旅の道のりを知ったのだという伝承が残されています。榎は「間の榎」とよばれ、旅人の目印となっていました。

この榎は、いつの頃からか「逢の榎」とよばれるようになり、縁結びの木として人々の信仰を集めるようになりました。祖師堂も建てられ、お参りする男女が多かったと伝えられています。」説明版より

f:id:tyoyxf1:20190610160344j:plainf:id:tyoyxf1:20190610160446j:plain

先には、間々田紐を製造・販売をしている家がある。間々田紐は組紐で江戸時代には刀の下げ緒や甲冑に用いられ、真田紐と並んで武家社会に浸透した。間々田紐は、県指定の無形文化財になっている。

f:id:tyoyxf1:20190610160617j:plainf:id:tyoyxf1:20190610160702j:plain

5分程歩くと、間々田の交差点の先に問屋場跡、続いて間々田本陣跡の説明版が立っている。

間々田宿問屋場

「間々田宿は、江戸時代に、五街道の一つ、日光街道(道中)の宿駅として栄えていました。江戸日本橋から十一番目の宿駅(宿場)であり、江戸と日光の丁度中間に位置していました。天保十四年(1843)の記録によると当宿は石高九四四石 家数一七五軒 人口九四七人 旅籠五〇軒 本陣一 脇本陣一 と記されており、幕府の定めにより、常備の人足二十五人、馬二十五疋を備え、幕府の公用に応じたり、一般の輸送も引受けていました。日光社参・参勤交代など特別の場合は、近隣の農村から助郷と称して、人馬を臨時に集めました。それらの人馬継立業務の一切を取扱うのが宿役人で、問屋・年寄・帳付・馬差・人足差などと呼ばれ、その詰所に当たる場所が問屋場です。ここ間々田宿の上中町の上原家が、名主職を兼ね、代々世襲で幕末まで問屋を勤めていました。 間々田商工会 小山歴史研究会」説明版より

間々田宿本陣跡

「本陣は江戸時代に主な街道に設けられた宿泊施設で、本来は幕府公用の大名・勅使・公家・問跡(僧)上級武士の便をはかるためのものでした。大名などが宿泊休けいする時は宿場や本陣の入口に「関札」を掲げ、誰が宿泊休憩しているか知らせました。また本陣には定紋入りの提灯を掲げ、門や玄関には幕を張りました。

本陣主人は名字帯刀を許され、他の宿役人と共に、大名などを宿の入口まで出迎えました。江戸時代の初めから江戸時代を通して青木家が代々、この地で本陣を維持し、明治の世となって明治天皇が休けいの一時を過されました。 間々田商工会 小山歴史研究会」 説明版より

f:id:tyoyxf1:20190610160955j:plainf:id:tyoyxf1:20190610161104j:plain

少し先の浄光院の境内には、青面金剛庚申塔や壱拾九夜塔等がい置かれている。向かい側には行泉寺があるが、この辺りが間々田宿の日光(北)口で土塁と矢来柵があった。

f:id:tyoyxf1:20190610161302j:plainf:id:tyoyxf1:20190610161352j:plainf:id:tyoyxf1:20190610161447j:plain

先の道を左に入ると間々田八幡宮である。八幡宮の瓢箪池には芭蕉の句碑「古池や蛙飛び込む水の音」が置かれている。

f:id:tyoyxf1:20190610161725j:plainf:id:tyoyxf1:20190610162001j:plain

先へ行くと間々田郵便局があるがこの辺りに間々田の一里塚があったと思われる。江戸日本橋から十九番目の一里塚である。今は跡形もないが。

さて、先へ進むと西堀酒造がある。若盛・門外不出などと書いてあるので土産に買おうと思ったが営業は12時から。ここも早すぎたようである。

 

f:id:tyoyxf1:20190610162256j:plainf:id:tyoyxf1:20190610162349j:plain 

先の粟宮の信号を左に入ると安房神社がある。ここは、粟宮村の鎮守で天慶二年(939藤原秀郷平将門討伐に際し、戦勝を祈願し守護神とした。後に、小山氏の篤い信仰を受けたのだという。

f:id:tyoyxf1:20190610162632j:plainf:id:tyoyxf1:20190610162726j:plain

安房神社から1時間余り歩くと国道50号の高架をくぐる交差点が神鳥谷(東)である。

神鳥谷については、この辺りに「鶯城」と呼ばれる出城があった。鶯は神鳥「しとと」とも呼ばれこのあたりの谷と相まって「神鳥谷」となったのだという。

少し歩くと天満宮がある。この辺りが小山宿の江戸(南)口で土塁や矢来柵があった。

梅がきれいな花を咲かせている。

f:id:tyoyxf1:20190610162923j:plainf:id:tyoyxf1:20190610163025j:plain 

その先に永島鋼鉄店がある。この辺りが小山の一里塚(江戸日本橋から二十番目の一里塚)があった所だというが今はその面影は何もない。

f:id:tyoyxf1:20190610163208j:plain

その先が須賀神社の参道口で長い参道は、欅や銀杏並木で百基の朱塗り灯籠が並んでいる。

須賀神社の社伝によれば「平将門の乱」を平定した小山氏の祖、藤原秀郷が天慶三年(940)に小山市中久喜に京都・八坂神社を勧請し、小山城の鎮守とした。元は小山城内にあったとされ、江戸時代の初期に小山藩主・本田正純によりこの地に移された。

小山城は別名祇園城と呼ばれ京都・祇園に由来して祇園社と呼ばれたこの神社からきているのだという。徳川家康は、石田三成との戦を前にこの神社で戦勝を祈願した。

f:id:tyoyxf1:20190610163459j:plainf:id:tyoyxf1:20190610163543j:plain

f:id:tyoyxf1:20190610163636j:plainf:id:tyoyxf1:20190610163715j:plain

須賀神社の傍のちゃみせ「茶るん」で抹茶を一服いただいた。

 

f:id:tyoyxf1:20190610163839j:plainf:id:tyoyxf1:20190610164001j:plain

街道に戻り、しばらく行くと左手に「明治天皇行在所」の碑がある。その奥に唐破風の玄関を残している家があるがここが若松脇本陣跡である。道路を挟んだ向かい側の「きもの・あまのや」辺りが控え本陣(本陣、脇本陣の控え)跡である。

すぐ先の「常陽銀行」辺りが問屋場跡である。

 

f:id:tyoyxf1:20190610164219j:plainf:id:tyoyxf1:20190610164303j:plain

f:id:tyoyxf1:20190610164409j:plainf:id:tyoyxf1:20190610164458j:plain

駅前上町の交差点を左手に入ると小山市役所があるのだが、その敷地内に「史跡小山評定碑」が置かれている。

徳川家康は、慶長5(1600)724日、上杉征伐のため会津に向かう途上、下野国小山に着陣した。その時、石田三成挙兵の報が入り、翌25日、急遽家康は本陣に諸将を招集して軍議を開き、三成打倒で評議は一決し、大返しとなった。これが世に言う「小山評定」である。

軍議は、豊臣秀吉子飼いの福島正則の「内府殿にお見方致す。」の一声で決まった。

会議は、常に声の大きなものに支配される。福島正則の一声で三成打倒の評議が一決したのである。また、堀尾忠氏のアイデアを盗んで自身の居城である遠江掛川城を家康に差し出すと言明した山内一豊がその後出世の一途を辿ることになる。

小山評定は小山城内の須賀神社の境内で行われ、現在の須賀神社の境内には「徳川家康公・小山評定之碑」が置かれている。

f:id:tyoyxf1:20190610164906j:plainf:id:tyoyxf1:20190610164953j:plain

f:id:tyoyxf1:20190610165115j:plain

街道に戻り、先へ行くと「元須賀神社」がある。須賀神社は、当初ここに祀られていた。 

参道口辺りが小山宿の日光(北)口で土塁と矢来柵があった。

f:id:tyoyxf1:20190610165250j:plainf:id:tyoyxf1:20190610165338j:plain

先へ進もう。20分ばかり歩くと「薬師堂」がある。境内には道標を兼ねた念仏供養地蔵があり、「右江奥州海道」「左江日光海道」と刻まれている。以前は、喜沢追分にあった追分道標だそうだ。

f:id:tyoyxf1:20190610165616j:plainf:id:tyoyxf1:20190610165703j:plain

先の喜沢分岐点で、日光街道に別れを告げ芭蕉が歩いた壬生道を行くのだが日光街道の江戸日本橋より二十一番目の「喜沢の一里塚」まで足を延ばしここに戻ることにする。

西塚、東塚とも痕跡を残している。

f:id:tyoyxf1:20190610165912j:plainf:id:tyoyxf1:20190610171326j:plain

喜沢追分には男體山碑が置かれていて追分道標になっている。碑には「男體山碑 左日光 右奥州」と刻まれている。

また、神道における馬頭観音「馬力神」も祀られている。

f:id:tyoyxf1:20190610171538j:plainf:id:tyoyxf1:20190610171629j:plain

f:id:tyoyxf1:20190610171755j:plain

さて、壬生道日光西街道とも呼ばれ日光街道脇往還の一つで小山宿から壬生宿、鹿沼宿を経て日光街道の今市宿に至る道である。楡木宿から日光今市宿までは、中山道倉賀野宿から延びる例幣使街道を兼ねる。壬生道は宇都宮廻りの日光街道より近道なので日光参詣にはよく使われた道である。芭蕉壬生道を通って日光へ向かっている。

曽良日記には「小山ヨリ飯塚ヘ一リ半。木沢ト云所ヨリ左ヘ切ル。」と書かれている。

追分から15分ぐらい歩くと日光街道西一里塚(史跡)の説明版がたっている。

一里塚から数分先のゴルフ場の敷地内には古墳群に説明版が添えられている。

f:id:tyoyxf1:20190610172217j:plainf:id:tyoyxf1:20190610172309j:plain

10分ほど歩くと左側に子育て地蔵すぐ先の右側に4体の地蔵尊が祀られている。

f:id:tyoyxf1:20190610172456j:plainf:id:tyoyxf1:20190610172552j:plain

そろそろ午後4時、ここから一番近い駅はJR両毛線思川駅のようである。

かなり距離がありそうだ。1時間以上はかかるだろう。

街道の先の羽川の交差点を左折し、姿川、思川を渡ってやっとの思いで思川駅にたどり着いた。

f:id:tyoyxf1:20190610173147j:plainf:id:tyoyxf1:20190610173648j:plain

両毛線宇都宮線を乗り継いで帰宅。