寄り道 下野・犬伏

201927日(木)

壬生道に戻る前に、真田昌幸、信幸(信之)、幸村親子兄弟が敵味方になる話し合いが行われた犬伏・新町薬師堂へ行ってみることにする。

早朝に自宅を出て、宇都宮線両毛線を乗り継いで佐野駅へ。

犬伏は、日光例幣使街道の宿場町で旅籠は四十軒を超え、当時はかなり賑わったようだが今はその面影はない。

例幣使街道は、江戸時代の脇街道の一つで、日光東照宮に幣帛(幣帛)を奉献するための勅使(日光例幣使)が通った道である。中山道倉賀野宿を起点とし、太田宿、栃木宿を経て、楡木宿にて壬生道日光西街道)と合流して日光へと至る。楡木より今市までは壬生道日光西街道)と重複区間である。

例幣使街道は、内米町の交差点で141号に出会う。

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さて、佐野駅前でレンタルサイクルを借りて141号線を15分ばかり走ると「新町・薬師堂」である。中には、昌幸、信幸、信繁(幸村)の人形などが置かれている。

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慶長5(1600)724日、上杉征伐のため会津に向かう途上、下野国小山で「三成挙兵」の報を受けた家康は、翌725日に軍議(小山評定)を開いた。

その前、徳川家康の上杉征伐の号令に従うべく、真田昌幸は上田を信幸は沼田を発し、家康に合流するべく宇都宮城を目指していた。そして家康と共に大坂を出た幸村は途中昌幸に合流している。目指す宇都宮城を目前に昌幸、幸村は下野・犬伏に陣を張った。その犬伏の陣に石田三成の密書が届いたのが721日、家康に「三成挙兵」の報が届く3日前のことである。昌幸、幸村に信幸が加わって家康に就くか、三成に就くかの話し合いがもたれたのがこの「新町薬師堂」と言われている。

話し合いの結果、昌幸、幸村は三成に味方し、信幸は家康に就くことになった。

理由はいくつかある。

昌幸は三成とは姻戚関係(義兄弟)にあり(三成・昌幸とも宇田頼忠の娘を娶っている)、幸村の妻は豊臣恩顧の大谷刑部小輔吉継の娘である。

信幸の妻は、徳川四天王徳川十六神将・徳川三傑に数えられる本田忠勝の娘・稲姫小松姫)である。その稲姫が家康の養女となって信幸に嫁いでいる。

また、信幸は、戦国の乱世を終わらせるのは家康以内にないとの強い信念を持っている。

もう一つの理由は、昌幸は上杉景勝に多大な恩義を感じていて上杉征伐には参戦したくなかったに違いない。本能寺の変で信長が討たれた後、昌幸は自領を守るため上杉景勝に従属したが情勢が変わるたびに北条、徳川転じ、景勝は幾度となく昌幸に煮え湯を飲まされている。にもかかわらず真田と北条の間に沼田問題が発生し、家康と手切れになった昌幸は上杉景勝を頼った。景勝は、過去は過去とし、昌幸の申し出を受け入れ、人質の幸村を客分として取り立てた。

更には、親子兄弟が敵味方に分かれて戦えば、どちらが負けても真田家を存続することができるという思いがあったともいわれている。

「親子・兄弟が敵味方に分かれて戦うのもあながち悪うはござりますまい。沼田が立ち行かぬ時は上田が・・・・」幸村「上田が立ち行かぬ時は沼田があるという事か」信之。

真田太平記・第21回「決裂 犬伏の陣」の名場面である。

徳川家創業期の歴史書「改正三河風土記」第三十五巻「真田親子分手の事」には、次のように書かれている。

「真田安房守昌幸・嫡子伊豆守信之・次男左衛門佐幸村、ともに会津の御陣触(ごじんぶれ)に応じて小山に参戦せし所、石田より密書を以て「上方義兵を挙げる。真田太閤の旧恩を忘れず、秀頼公の御味方して忠勤を励めば、天下統一の後信州一円に恩補せらるべし」との事也。依て昌幸は小山より三町程脇の野原に父子三人会集し、安房守申しけるに「吾つらつら世の有様察するところ、上杉景勝秀頼公へ対し、謀反を企てるにあらざる事は文明なり。其上に今度大谷・石田が申し送る所を見るに、全く景勝と奉行の人々申し合わせ、前後より義兵を起こし、国家の大害を除かん為の忠謀、真田が家運を開く時至れり。(後略)」

話し合いは決裂し昌幸、幸村は上田へ、信幸は小山へ立ち返ることになる。

新町薬師堂の脇を流れていた川に橋が架かっていた橋は「真田父子の別れ橋」と後々までも語り継がれているという。

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犬伏で信幸と袂を別った昌幸は居城の上田城に戻る途中、沼田城に立ち寄り城に入ろうとした。その目的が今や敵となった信幸の居城・沼田城の乗っ取りにあったのか、単に孫の顔が見たかっただけなのかはわかりようがないが、留守を預かる小松姫が昌幸の沼田城乗っ取りの計略を見抜いて開門を拒み、女丈夫と謳われたエピソードは有名である。

「沼田日記」には、「昌幸の将兵が門を破ろうとすると「力ずくで開門とは何事じゃ。殿(信幸)御出陣の留守中に狼藉に及ぶとは曲者に違いない。女なれどもわらわは伊豆守(信幸)の妻、本田中務(本田忠勝)が女(むすめ)。内府御女の称号を許されている。この城に手をかけるものあらば、一人も漏らさず打ち取れ。」と緋縅の鎧をつけ薙刀を掲げて城より一括した。昌幸は孫の顔を一目見たいと言うが小松姫は頑として聞き入れなかった。

昌幸は「頼もしきかな、武士の妻はかくありたいものじゃ。」と言い残し上田に向かった。

昌幸・幸村は沼田を経て鳥居峠・真田郷を経て大笹の関所にさしかかった時、秀忠の命を受けた地侍の襲撃を受けたが幸村が防ぎ、無事に上田にたどり着いた。」と記されている。

また、真田氏の家記・「滋野世記」には、「昌幸は信繁同道にて犬伏の宿を打立て、夜中沼田に著たまい。城中へ按内ありければ、信幸の室家使者を以て、夜中の御皈陣不審に候なり、此の城は豆州の城にて、自を預居候事なれば、御父子の間にて候え共、卒尓に城中へ入申事成難く候と仰ける(中略)。暫有て城中より門を開きけるに、信幸の室家甲冑を著し、旗を取り、腰掛に居り、城中留守居の家人等其外諸士の妻女に至るまで、皆甲冑を著し、あるいは長刀を持ち、あるいは弓槍を取り列座せり。時に信幸の室家大音に宣うは、殿には内府御供にて御出陣有し御留守を伺い、父君の名を偽り来るは曲者なり、皆打向って彼等を討ち取るべし(中略)、一人も打ち洩らさず打ち捕べしと下知したまう。昌幸その勢いを御覧ありて大いに感じたまい、流石武士の妻なりと称美あり。御家人等を制し止められ、夫より我妻かかり、上田城へ籠城なり。」と書かれている。

更に「改正三河風土記」第三十五巻「真田親子分手の事」の後半には、「安房守・左衛門佐は直ちに小山より赤坂にかかり上州沼田に立寄、此程の疲れをも休息せんと、伊豆守が妻のもとへ使いを立て「昌幸は内府公に年頃恨ある故、石田治部に一味致し、本国へ立返り籠城せん覚悟に候。今生の暇乞の為対面し、孫共をも一見せばやと存候。」と申し送る。伊豆守の妻是を聞「夫伊豆守は元より内府方に候えば、いかに父君にても敵を城内へ入る事叶うべからず。城下の町屋に御宿を申付置候へば御休息し給へ。」と、侍女共多数旅宿に遣はし、饗応丁寧にもてなしける。其間に城中には家老共に下知し、侍共に手配し弓鉄砲を狭間にならべ、唯今敵の寄来るを待如くなり。安房守此体を見て涙にむせび、家人等に向かひ「あれ見候へ。日本一の本田忠勝が女程あるぞ。弓取りの妻は誰もかくこそ有べけれ。わが抽き石田が微運にひかれ、空しく戦死する共あの新婦あるからは、真田が家は盤石なり。」と悦びて、早々其所を立去りて、須川へ至り、大頭越をさわたりへ出て、高間越して横屋に趣き、信州上田へ帰城せり。」と書かれている。

「真田氏史料集」の「真田信之夫人大蓮院」の中で、「賢夫人で女丈夫の聞こえが高かった。関ヶ原の役のおり、西軍に加わるため信之と別れた昌幸は、上田城へ引き上げる途中、沼田城へ立ち寄ろうとした。そのとき城主信之の留守を守っていた彼女はそれを拒絶、昌幸を城内に入れなかった、という話は有名」と記されています。

小松姫の遺品の中には「史記」の「鴻門之会」の場面を描いた枕屏風があるが、こうした戦を表す勇壮な絵を所持していた点からも「男勝り」と評されている。