寄り道 岐阜城、美濃路・墨俣宿

2019年3月3日(日)寄り道 岐阜城

中山道を歩いた時、岐阜駅前のホテルに宿泊した。

それ以来、実家の宝塚へ向かう途中岐阜駅を通過するたびにいつか岐阜城へ行ってみようと思っていたので、今回それを実現することにした。その前に知立に住む50年来の友人夫婦とランチでもと思い連絡してみると、なんと宿泊まで付き合ってくれることになり、3日の夜は旧交を温め、ゆっくりと酒を酌み交わした。今も昔もこの酒汲めば心地よしである。

さて、岐阜城織田信長が斉藤道三の居城であった稲葉山城を「稲葉山城の戦い」でその孫、斎藤龍興から攻め取って稲葉山城岐阜城とあらため、「天下布武」の朱印を用いるようになった。

稲葉山城と言えば、即座に竹中半兵衛が妻の父・安藤守就(あんどうもりなり)、弟久作と共にわずか16名の手勢で稲葉山城を占領したというエピソードを思い出す。稲葉山城は、自然の要塞ともいわれ、織田信長が8年の歳月をかけても落とせなかった堅城である。21歳の若さでわずか16名の手勢を引き連れ、いとも簡単に城を占領した竹中半兵衛に信長は美濃半国を与えることを条件に稲葉山城の明け渡しを求めるが、半兵衛は断り6カ月後に斎藤龍興に城を返している。

竹中半兵衛は1544年9月、美濃斎藤氏の家臣竹中重元の子として生まれる。

1556年斉藤道三とその子義龍が戦った「長良川の戦い」が初陣、父重元が死去すると19歳で家督を継ぎ菩提山城主となって斎藤義龍に仕え、義龍の死後その子龍興に仕えた。半兵衛のクーデターは、酒色におぼれる龍興を戒めるためのものであったと言われているのだが。

竹中半兵衛は、戦国時代1・2を争う軍師で黒田官兵衛と共に「両兵衛」とも「二兵衛」ともいわれている。

織田信長は、竹中半兵衛を家臣にするため半兵衛が隠棲している松尾山に木下藤吉郎を遣わす。

三顧の礼を尽くす秀吉に将の素質を見出した半兵衛は、織田の家臣になることを断り、秀吉の家臣になる。ここで「三顧の礼」の言葉が使われるのは、中国の三国時代、蜀の劉備玄徳が三顧の礼を以て諸葛孔明を軍師に迎える下りによく似ているからであろう。

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2019年3月4日(月)美濃路・墨俣宿

友人夫婦が大垣・墨俣町の「しだれ梅」を見に行くというので同行することにした。

堤防脇の常夜灯がある坂を下墨俣宿である。

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光受寺を後に街歩きをすると、家の玄関先には「つるし雛」が飾られている。その他、「みんなで百人一首」と題した人形なども飾られていて何やら趣のある宿場町である。

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墨俣は、揖斐川長良川の洲股(墨俣)で水陸交通の要衝であると共に戦略上の要地で、戦国時代以前からしばしば合戦の舞台なった。織田信長の美濃攻めにおいては、木下藤吉郎がわずかな期間でこの地に城を築いたことから墨俣一夜城といわれているが事実のほどは定かではない。

堤防沿いに歩き「太閤・出世橋」を渡れば墨俣城である。あいにく定休日で中には入れなかった。

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敷地内には、

・春くればうぐいすのまた梅に来てみのなりはじめ花のおわり 西行法師

の歌碑が置かれている。調べてみたが西行がこの歌を詠んだのかは明らかではない。

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・かりの世のゆききとみるもはかなしや身をうき舟の浮き橋にして 阿仏尼 

の歌碑も置かれている。(写真なし)

十六夜日記は、藤原為家の側室・阿仏尼の京都から鎌倉への道中記である。

JR東海道線大垣駅で友人夫婦と別れて宝塚へ。