奥の細道 一人歩き 13 壬生宿-鹿沼宿
12日目(2019年11月18日(月))壬生宿-鹿沼宿
ひざを痛めたり、腰痛に悩まされたり、猛暑だったりで「奥の細道一人歩き」の再開は11月になってしまった。
JR宇都宮線、東武日光線、東武宇都宮線を乗り継いで壬生駅へ。
壬生街道へ戻る前に駅から10程の所にある「縄解地蔵」に行ってみた。
「お堂に安置されているお地蔵さまは、縄解地蔵と呼ばれ日本三体地蔵尊の一つといわれている。言い伝えによれば、正歴年間(九九〇~九九四年)京都壬生寺を開山した快賢僧都が、霊夢を感じ一本の木で三体の地蔵尊を仏師定朝に彫刻させた。
その三体とは、
当初は、三体とも京都壬生寺に安置されていたが、壬生に初めて城を築いた小槻彦五郎胤業(おつきのひこごろうたねなり)が、この地に下向する際、夢枕にお地蔵さまが立ち「我は、縄解地蔵という縄解とは、人の生をこの世にうけ、母胎より生ずるときへその緒をやすやすときり赤子を出産させることをいう。出産の後、罪を犯し縄目の辱めを受けるとも前非を悔い改め、我を信心すればたちどころに罪障消滅して仏果(成仏という結果)得さしめるものなり。汝もし我を伴いて壬生に至り、小槻改め壬生氏を名乗らば開運疑いなし」とお告げがあった。信心深い胤業は、この夢に従って縄解地蔵尊を奉じて下野の国壬生にやってきた。
以後、壬生氏を名乗るようになり厚く信仰した。名称にある「縄解」から、無実の罪を晴らしてくれると古来より庶民の信仰をうけ子授、安産、子育て、開運、冤罪、特に子供の守護仏として霊験あらたかなりと近郷、近在の信仰を集めている。~後略~」(日本三体縄解地蔵尊由来より)
壬生氏を名乗った小槻彦五郎胤業(おつきのひこごろうたねなり)は、後にこの地壬生に城を築いている。
さて、壬生街道に戻り、しばらく行くと「蘭学通り」である。
「壬生町の大通り(正式名:日光道中壬生通)は、実学を奨励した壬生藩主鳥居忠挙がこの地に蘭学を導入し、多くの蘭学者を輩出したことにちなんで「蘭学通り」と命名したものです。」と書かれた説明版が立っている。
数分歩くと「松本脇本陣」の門が見える。ここは今でも住居となっているようだ。その先には「本陣」の門が残されているという事であったが自転車屋さんのご主人の話では今は取り壊されてしまったそうである。先に行くと「壬生宿本陣・松本家」の説明版が立っている。
先へ進み、足利銀行を左に入って数分行くと「壬生城址公園」である。
この城は、文明年間(1469~1487)壬生氏第二代・壬生綱重によりに築城されたものであって、小槻彦五郎胤業が壬生氏を名乗って築城した城(壬生古城)ではない。壬生城は約100年間壬生氏の居城であったが後に北条氏に味方していたため、天正十八年(1590)の豊臣秀吉による小田原征伐で、北条氏とともに滅亡した。
壬生城址の左奥には精忠神社がある。この神社は代々壬生藩主であった鳥居家の先祖・鳥居元忠を祀った神社である。元忠は、関ケ原の合戦の前哨戦として知られる「伏見城の戦い」で孤軍奮闘の末自刃した強者である。神社の奥には元忠自刃の際に血の付いた畳を埋めた「畳塚」がある。神社の傍には「従是 南 下野の国都賀」の碑が置かれている。
「鳥居元忠は、1600年の関ヶ原の戦いに先立ち、徳川家康の命により伏見城を守った。石田三成方の大軍を引き受けてよく戦ったが、約1ヶ月の攻防戦の末、元忠は伏見城にて自刃した。この元忠の忠義を称賛した家康は、自刃の際に血に染まった畳を、江戸城の伏見櫓の階上に置き、登城する大名に元忠の忠義を偲ばせたと言われている。 その後、明治になって江戸城が明け渡されると、ゆかりの深い現在の地に納められ、「畳塚」と称えてその上に記念碑が建立された。」畳塚説明版より
ちなみに「伏見城の戦い」で戦死した元忠軍・兵士の血の付いた床が「京都大原・宝泉院」の天井に張られ「宝泉院の血天井」といわれている。
街道に戻り、すぐ先に代々藩医として仕えた石崎家の「長屋門」がある。この門は嘉永六年(1853)の伊勢屋火事で母屋と共に焼失したが万延元年(1860)に立てなおされたと説明版に記されている。
すぐ先には興光寺がある。ここは慶安四年(1651)三代将軍徳川家光の遺骨を日光山に送納する際、この寺に安置され通夜が行われた。この時、幕府から葵の紋が贈られ、家光の位牌もある。
その先には標柱があり「脇本陣並びに通町問屋場跡」と記されている。道路の向かい側には天然痘予防の為種痘を行った壬生藩・藩医「齋藤玄昌宅跡」の碑が立っている。
さらにその先の「常楽寺」には「壬生家歴代の墓」「鳥居家累代の墓」がある。
更にその先には壬生寺があり「慈覚大師産湯井」がある。産湯に使われた井戸からの水は1200年を経た今も清水が湧き出ている。境内の大イチョウも見事である。
「当山は古来より 慈覚大師円仁の誕生した聖跡 として広く世に知られている。 江戸時代の貞享三年(1686)日光山輪王寺の 門跡天真親王が日光への道すがら、慈覚大師の旧蹟が荒 廃しているのを嘆き、時の壬生城主三浦壱岐守直次に 命じて、大師堂を建立し、飯塚(現小山市)の台林寺を その側に移建して別当とした。
幕末の文久二年(1862) 大師一千年遠忌 に当り 日光 山輪王寺 慈性法親王 により、大師堂の改修が行われた。~後略~」(紫雲寺 壬生寺の由来より)
しばらく行くと県道との交差点があり、ここからは左右に田園風景を見ながらののんびりとした街道歩きとなる。道の左側にせせらぎが流れ、道の傍らには馬力神などもある。
50分ばかり歩くと田んぼの中に祠があり「金売り吉次の墓」と記された説明版が添えられている。文字が薄くなっているが微かに読みれた。
「吉次は奥州・平泉へ逃れる義経の伴をしてここ稲葉まできたが、病に倒れこの地で生涯を終えた。」(説明版より)
金売り吉次
「平家物語」「平治物語」「源平盛衰記」「義経記」に金商人として描かれているが実在の人物であるかは定かではない。鞍馬山で義経と出会った吉次は、奥州藤原氏の当主・藤原秀衡との間を取り持つ極めて重要な役割を果たす。
1966年のNHK大河ドラマの第4作「源義経」(原作:村上元三)では、加藤大介という俳優さんが演じていた。ちなみに源義経は尾上菊之助(現七代目尾上菊五郎)、静御前は藤純子(現富司純子)、武蔵坊弁慶は緒形拳・・・・結構懐かしい。
曽良日記には「壬生ヨリ楡木ヘ二リ。ミブヨリ半道バカリ行テ、吉次ガ塚、右ノ方廿間バカリ畠中ニ有。」と書かれている。芭蕉も曽良と共にこの墓を見たのだろう。
しばらく歩くと一里塚が目に入る。江戸・日本橋から24番目「稲葉の一里塚」である。
一里塚を後に路傍の馬力神や梅林天満宮、金毘羅離宮を左右に見ながら街道を歩く。
40~50分歩くと古墳が左の田んぼの中に見えてくる。「判官塚古墳」呼ばれる前方後円墳の古墳である。
「この古墳は、源九郎判官義経が奥州へ向かう途中に冠を埋めたので冠塚とも呼ばれるなど、幾つかの伝説を秘めています。」(鹿沼市教育委員会 説明版より)
この先、平泉までの奥州路には源義経にまつわる伝説、逸話などと度々出会うことになるだろう。
さらに10分ぐらい先にあるのが江戸・日本橋から25番目の「北赤塚の一里塚」である。
ここからほんのわずかだが杉並木を歩く。「名残の杉並木」である。
10分程先の小学校を左に入った所に「磯山神社」がある。この神社は、三代将軍徳川家光より御朱印地を附せられてより、代々の将軍からも同待遇を受けた。寛文二年(1662)建立の本殿が県指定重要文化財に指定されている。
20分程歩くと壬生街道(日光西街道)(国道352号)は、中山道・倉賀野宿を起点とする例幣使街道(国道293号)と合流する。楡木追分である。追分の交差点には「追分道標」が置かれている。
例幣使街道(れいへいしかいどう)は、江戸時代の脇街道の一つで、東照宮に幣帛を奉献するための勅使(日光例幣使)が通った道のことである。中山道・倉賀野宿を起点とし、太田宿、栃木宿を経て、楡木宿で壬生街道(日光西街道)と合流して日光へ至る。楡木から今市までは壬生街道(日光西街道)と重複する。
少し行くと右手に成就院があり、栃木県県指定天然記念物の枝垂赤西手(しだれあかしで)という変わった木が植わっている。この木は楡木の東にある長沼で発見され、ここに納められたものだそうだ。
500メートル程先へ行くとバス停に「奈佐原」と書かれている。この辺りが壬生宿と鹿沼宿の間の宿「奈佐原宿」なのであろう。
少し先に「奈佐原文楽の収納庫」があり3人遣いの人形が収められている。
説明版には「栃木県に現存する唯一の3人遣い人形浄瑠璃です。」と書かれている。