奥の細道 一人歩き 19 矢板-太田原

18日目(2020年3月15日(日))矢板-太田原

午前8時過ぎ、JR矢板駅から国道461号線(日光北街道)を黒羽へ向かって歩く。

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1時間ばかり歩くと、箒川に「かさね橋」が架かっている。橋の両端には、

「- かさねとは八重撫子の名成べし - 曽良」と浮き彫りで書かれている。

奥の細道に書かれている曽良の句である。

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40分程歩いた先、赤い鳥居の「龍電神社」の横に「なんじゃもんじゃ」と刻まれた碑が立っている。

なんだろうと思い調べてみると、なんじゃもんじゃは、ハルニレの木で推定樹齢1000年と言われ、旧西那須野町の天然記念物に指定されていたが、1980年(昭和55年)に枯死してしまった。なんじゃもんじゃの言われは、水戸光圀がこの木の下で休憩した折に、地元の人に木の名を尋ねたところ誰も知らなかったことから「なんじゃもんじゃと名付けるとよい」と言ったことによるのだそうだ。

すぐ先には、「旧日光北街道」と書かれた道標が立っている。側面には「この道は、太田原と日光(約四十二キロメートル)を結ぶ旧街道で、寛永十三年(一六三六)にひらかれたという。江戸時代の俳人松尾芭蕉が、黒羽へ行く途中通った道と言われている。(那須塩原市)」と書かれている。

日光北街道のこの区間は、「なんじゃもんじゃ通り」と名付けられている。

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30分ほど先の道端には馬頭観音、更に30分程行くと「旧日光北街道」と刻まれた碑が置かれている。

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すぐ先には、薬師堂があり、境内には「舎利塔」「七重塔」が立っている。

「本堂 3間3面(梁間7.51メートル、桁行7.51メートル) 

向拝(こうはい) 1間(梁間3.30メートル、桁行2.67メートル) 

千鳥破風(ちどりはふ)付入母屋(いりもや)造 銅板平葺

雨薬山薬師堂は、大田原城四方固めの一つ西薬師と呼ばれ、薬師如来像が祀られる小堂宇を、寛永年中(1624から1644)に大田原氏が再建したと伝えます。宝暦7年(1757)大田原宿の大火により焼失、寛政5年(1793)に大田原庸清(つねきよ)により再建されたものが現在の建物で、修復を重ね現在に至っています。

斗拱(ときょう)は三斗組(みつとぐみ)、三手先(みてさき)の詰組(つめぐみ)となっており、二段の尾垂木(おだるき)を用いた化粧垂木は扇垂木(おうぎだるき)の二重垂木となって、深い「軒の出」を構成しています。向拝(こうはい)柱は角柱で四面に細かな彫刻があります。外壁は貫(ぬき)を用いず、欅(けやき)幅広板を柱間に落とし込み横張とし、長押(なげし)付きです。

和様、唐様の様式が混然一体に融合した江戸時代の自由な手法が現れており、江戸中期の寺院建築として特筆されます。」(説明版)

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5分程先の太田原信用金庫本店の横に「幸矢の与一像」が置かれている。

この辺りは、太田原市那須与一の里と名付けて与一の伝承を今に伝えている。

那須の与一は、治承・寿永の乱において、兄・十郎為隆と共に源頼朝方に与し、その弟・義経軍に従軍した。元暦二年(1185)の屋島の戦いにおいて、平氏方の軍船に掲げられた扇の的を射落とすなど功績を挙げた。

「ころは二月十八日の酉の刻ばかりのことなるに、をりふし北風激しくて、磯打つ波も高かりけり。舟は、揺りすゑ漂へば、扇もくしに定まらずひらめいたり。沖には平家、舟を一面に並べて見物す。陸には源氏、くつばみを並べてこれを見る。いづれいづれも晴れならずといふことぞなき。与一目をふさいで、 「南無八幡大菩薩、我が国の神明、日光の権現、宇都宮、那須の湯泉大明神、願はくは、あの扇の真ん中射させたまへ。これを射損ずるものならば、弓切り折り自害して、人に二度面を向かふべからず。いま一度本国へ迎へんとおぼしめさば、この矢はづさせたまふな。」と心のうちに祈念して、目を見開いたれば、風も少し吹き弱り、扇も射よげにぞなつたりける。与一、かぶらを取つてつがひ、よつぴいてひやうど放つ。小兵といふぢやう、十二束三伏、弓は強し、浦響くほど長鳴りして、あやまたず扇の要ぎは一寸ばかりおいて、ひいふつとぞ射切つたる。かぶらは海へ入りければ、扇は空へぞ上がりける。しばしは虚空にひらめきけるが、春風に一もみ二もみもまれて、海へさつとぞ散つたりける。夕日のかかやいたるに、みな紅の扇の日出だしたるが、白波の上に漂ひ、浮きぬ沈みぬ揺られければ、沖には平家、ふなばたをたたいて感じたり、陸には源氏、えびらをたたいてどよめきけり。」(平家物語・巻十一 那須与一

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さて、更に5分程行くと「金灯籠ポケット公園」ががあり、「金灯籠」と「旧奥州道中太田原宿」の碑が置かれている。

「町人文化の華が咲き誇った文化・文政の頃、ここ太田原宿は江戸の文化を奥州へ伝える旅人とみちのくの産物を江戸へ送る商人の行き交う宿場として栄えた。

金灯籠の初代は文政二年(1819)10月に太田原の城下の住人達が道中安全と町内安全を祈願して建立された。台座には正面に「上町」、右側には「白川」、左側には「江戸と刻まれている。」(大田原市・観光案内より)

奥州道中太田原宿の側面には、「右・那須塩原 湯道」と刻まれている。

奥には、奥の細道の書き出しと那須野の文章が刻まれた碑が石壁にはめこまれている。

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10分ほど歩くと「太田原城址」である。

「太田原城は、天文十四年(1545)太田原資清(すけきよ)によって築城され、町島水口おり移り住み、以来明治四年(1871)の廃藩置県に至る326年間太田原市の居城であった。慶長5年(1600)徳川家康関ケ原合戦の前、奥羽の情勢からこの地を重視し城の補修を命じた。更に徳川三代将軍家光は、寛永四年(1627)常時玄米千石を城中に貯蔵させ奥州の鎮護とした。」(大田原市・観光案内より)

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1時間余り行くと「那須の与一伝承館」があるが、新型コロナウィルス感染対策のため休館であった。

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その裏には「那須神社」がある。参道には「おくのほそ道風景地・八幡宮那須神社)の碑が立っている。

この神社は、那須与一屋島の戦いで扇の的を射る際に「南無八幡大菩薩・・・」と心に念じた神社だと伝えられている。

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今日はここまで。

八幡神社前のバス停からJR西那須野駅までバスに乗り帰宅。