奥の細道 一人歩き 21 黒羽 2

常念寺から堂川プロムナードと名付けられた道を歩き那珂川を渡って対岸をしばらく行くと大雄寺である。

黒羽山 大雄寺

室町期の様式を今に伝える総萱葺き屋根の禅寺で600年以上の歴史を持ち本堂・庫裡・禅堂・回廊・総門・鐘楼堂・経蔵などの伽藍は、国重要文化財指定を受けている。

草創は、今から600年前、応永十一年(1404)余瀬白旗城内に創建されたが、戦乱の中、大雄寺焼失、その後文安五年(1448)黒羽藩主第 10代大関忠増により再建、その後、大田原藩大田原資清との争いで第13代大関増次が敗死、大関家の後継第14代高増(大田原資清の子)により、天正四年 (1576)に本拠黒羽城を余瀬白旗城から現在の地に移築した。(太田原市観光案内より)

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庭園には「石佛十六羅漢像」が奉安されている。

また、写経・一石一字経の納経所、石仏合掌観音像がある。毎年12月18日観音祈願会の法要を行い、一年間の写経・一石一字経を納めるのだそうだ。

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大雄寺の隣が浄法寺桃雪(浄法寺図書高勝)邸跡である。芭蕉曽良は元禄二年四月四日に浄法寺図書に招かれ数日この屋敷に逗留した。

曽良の「俳諧書留」には、

「秋鴉主人の佳景に対す

 - 山も庭にうごきいるゝや夏座敷 -

 浄法寺何がしは、那須の郡黒羽のみたちをものし預り侍りて、其私の住ける方もつきづきしういやしからず。
地は山の頂にささへて、亭は東南のむかひて立り。奇峰乱山かたちをあらそひ、一髪寸碧絵にかきたるようになん。水の音・鳥の声、松杉のみどりもこまやかに、美景たくみを尽す。造化の功のおほひなる事、またたのしからずや。

 しら河の関やいづことおもふにも、先、秋風の心にうごきて、苗みどりにむぎあからみて、粒々にからきめをする賤がしわざもめにちかく、すべて春秋のあはれ・月雪のながめより、この時はやゝ卯月のはじめになん侍れば、百景一ツをだに見ことあたはず。たゞ声をのみて、黙して筆を捨るのみなりけらし。」

と記されている。(秋鴉は図書高勝の号)

屋敷跡には、芭蕉の句碑連句碑が置かれている。

句碑には

- 山も庭にうごきいるゝや夏座敷 -

歌仙碑には

芭蕉翁、みちのくに下らんとして、我蓬戸を音信て、猶白河のあなたすか川という所に

とどまり待ると聞て申つかはしける。

- 雨晴れて栗の花咲跡見哉(あめはれてくりのはなさく あとみかな - 桃雪

- いづれの草に啼おつる蝉(いずれのくさに なきおつるせみ) - 等躬

- 夕食くふ賤が外図に月出て(ゆうげくう しずがそとにも つきいでて)- 芭蕉

- 秋来にけりと布たぐる也 (あききにけりと ぬのたぐるなり) - 曽良

と刻まれている。

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浄法寺桃雪邸跡から芭蕉公園・芭蕉の広場へ続く道は竹林の遊歩道となっている。

その入り口に「行く春や鳥啼魚の目は泪」の句碑が置かれている。

すぐ先には「史跡 黒羽城跡 黒門跡」の碑が立っていて奥に芭蕉の句碑が置かれている。「田や麦や 中にも夏の ほととぎす 芭蕉桃青翁」の句が刻まれている。

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芭蕉の広場には「奥の細道」の-那須の黒ばねと云所に知人あれば、是より野越にかかりて、直道をゆかんとす。~独(ひとり)は小姫にて、名をかさねと云。聞きなれぬ名のやさしかりければ、 - かさねとは八重撫子の名成べし - 曽良 

頓て(やがて)人里に至れば、あたひを鞍つぼに結び付て、馬を返しぬ。-の文学碑があり、「鶴鳴くや 其(その)声に芭蕉 やれぬべし 芭蕉翁」の句碑が置かれている。

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正面には、馬に乗った芭蕉と共の曽良の像が置かれていてその横には

那須の黒羽という所に知人あれば」とて松尾芭蕉は「おくの細道」行脚の途次黒羽を訪れた。元禄二年四月三日のことである。途中那須野路にさしかかった折、草刈る男の馬を借りた。その跡慕う小姫を曽良は-かさねとは八重撫子の名成るべし-と呼んでいる。

翁は浄法寺図書、鹿子畑翠桃兄弟の厚遇を受け、十三泊十四日の長期逗留の間に、郊外に逍遥しては歴史・傳統の地を訪ね寺社に詣でて句を残し、あるいは地元の俳人たちと歌仙の興行があるなどして、心楽しい日々を過ごした。そうして黒羽を立った日に

- 野を横に 馬牽むけよ ほととぎす -の馬上吟があった。これらのことにちなみ、ここに馬上姿の芭蕉翁と曽良の像を建立し、千歳お形見として敬仰する者である。

平成元年十月二十一日 黒羽町 芭蕉像をつくる会」と刻まれた文学碑が置かれている。

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芭蕉の館」は新型コロナウィルス感染拡大防止のため休館で残念ながら中へは入れなかった。この後、黒羽神社下から雲巌寺まではバスに乗ることにする。

バス停へ行く途中、せせらぎに「道と川百選 芭蕉の里大宿街道」の碑が立っている。

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雲巌寺

平安時代後期の大治年間(1126年-1131)に初叟元(しょ そうげん)和尚によって開山され、後に後嵯峨天皇の皇子、高峰顕日(仏国国師)により復興せれ、弘安六年(1283)鎌倉時代の執権・北条時宗の後援を受け寺運は大いに栄えた。筑前の聖徳寺、越前の永平寺紀州興福寺と共に禅宗の四大道場に数えられていた。

芭蕉は四月五日、この地を訪れている。

           奥の細道 九 雲岩寺

当国雲岸(岩)寺のおくに、佛頂和尚山居跡有。

- たて横の五尺にたらぬ草の庵 むすぶもくやし 雨なかりせば -
と、松の炭して岩に書付侍りと、いつぞや聞え給ふ。其跡みんと雲岸寺に杖を曳ば、人々すゝむで共にいざなひ、若き人おほく道のほど打さはぎて、おぼえず彼麓に到る。山はおくあるけしきにて、谷道遙に、松杉黒く苔したゞりて、卯月の天今猶寒し。十景尽る所、橋をわたつて山門に入。さて、かの跡はいづくのほどにやと、後の山によぢのぼれば、石上(せきじょう)の小庵岩窟にむすびかけたり。妙禅師の死関、法雲法師の石室(せきしつ)をみるがごとし。

- 木啄も庵はやぶらず夏木立 - と、とりあえぬ一句を柱に残侍し。

芭蕉は、この寺に庵を結ぶ佛頂和尚と親交があった。「このような縦横五尺にも足りない庵でも雨さえ降らなければ必要ない。住まいに縛られずに生きたいと思っているのに残念なことだ。という歌を炭で岩に書いた。」と便りをもらっていたのでその跡を見たいと思い雲巌寺を訪れたという。

「松の炭して」は、「夜やうやうに明けなんとするほどに、女がたよりいだす盃のさらに、歌を書きいだしたり。とりて見れば、- かの人の渡れど濡れぬえにしあれば -と書きて末はなし。その盃のさらに続松の炭して、歌の末を書きつぐ。- またあう坂(逢坂)の関はこえなむ -とて、明くれば尾張の国へこえにけり。」(伊勢物語第六十九段より)の引用ということだが・・・・。

さて、雲巌寺の左手に、奥の細道「雲岩寺」の項を刻んだ碑が置かれており、武茂川に係る朱塗りの橋を渡って山門を入ると左手に、

- たて横の五尺にたらぬ草の庵 むすぶもくやし あめなかりせば - 仏頂禅師
- 木つつきもいほはやぶらず夏こだち - 芭蕉

と刻まれた仏頂和尚と芭蕉の句碑が置かれている。

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16時20分のバスに乗り那須塩原経由で宇都宮へ、今日は宇都宮・リッチモンドホテルに宿泊。

雲巌寺は、小雪が舞う寒さであった。そこで一句、

- 雲巌寺 冬の名残か 風の花 - お粗末。