奥の細道一人歩き 22 黒羽 3

20日目(2020年3月17日(火))

那須塩原駅・始発のバスに乗り篠原公民館前のバス停で降り、田んぼ道を15分余り歩いて「玉藻稲荷神社」へ。

芭蕉は、桃雪の案内で「犬追物跡」、「玉藻稲荷神社」を訪れている。「奥の細道」に「那須の篠原を分けて、玉藻の前の古墳を訪う。」と書いているように、今では田園風景が開けているが、当時は篠をかき分け、かき分け歩いたのであろう。

「篠原玉藻稲荷

ここは、お稲荷さんと称される作神さまと玉藻の前(九尾の狐)の心霊とを祭った由深い社である。宝前の社伝改建記念碑と石の鳥居の柱にいわれなどが記してある。 建久四年(一一九三)源頼朝那須遊猟のとき、この社に参詣したという伝えがある。また元禄二年四月十二日(陽暦五月三十日(一六八九)松尾芭蕉は、この篠原の地を訪れている。『おくのほそ道』に「ひとひ郊外に逍遥して、犬追物の跡を一見し那須の篠原をわけて、玉藻の前の古墳を訪う。」とある。 境内に芭蕉の句碑「秣(まぐさ)おふ・・・・」源実朝の歌碑「武士(もののふ)の矢並つくろふ・・・・」がある。また九尾の狐退治の伝承地としての「鏡が池」と狐塚の霊を移したという祠がある。なお狐塚跡は、ここより北東の地の県道沿いにある。 芭蕉の里 黒羽)(説明版)

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説明版の通り、すぐ前に朱の鳥居をくぐると、その先に石の鳥居があり、傍らに芭蕉の句碑と源の実朝の歌碑及び説明版がある。

「秣(まぐさ)おふ 人を枝折の 夏野かな」(芭蕉句碑)

「武士(もののふ)の矢並み(やなみ)つくろふ小手の上に 霰たばしる那須の篠原」

源実朝歌碑)
「鎌倉第三代の征夷大将軍、右大臣源実朝は承久元年正月(1219)拝賀の礼を鶴岡八幡宮に行い、帰途公暁(くぎょう)に殺され、28歳にして劇的な死を遂げる。後世の人々は将軍右大臣実朝としてよりも、悲劇の歌人実朝として不朽の名を称える。実朝は、14歳のときより歌を詠み、万葉集古今集新古今集を愛読した。特に万葉集は重宝として賞翫(※しょうがん:そのもののよさを楽しむこと。珍重すること。)また、中央歌壇の巨匠藤原定家に教えを受け、歌を愛する武士との結びつきも、不朽の業をなす基となった。実朝の歌は各種の歌集にのせてあるが、「金槐和歌集」は実朝の歌集として名がある。この歌集に「霰(あられ)」と題して、
もののふの矢並み(やなみ)つくろふ小手の上に 霰たばしる那須の篠原(しのはら)
が入集している。これは歌枕「那須の篠原」を詠んだ歌で、万葉調でしかも実朝の歌境がよく表現されている。賀茂真渕も「人麿のよめらん勢ひなり」と称えている。
芭蕉の里 黒羽」(説明版)

説明版にあるように、「那須の篠原」は歌枕の地である。

実朝の他に藤原信実も歌を詠んでいる。

「みち多き那須野のみ狩りの矢さけびにのがれぬ鹿の声ぞ聞こゆる    藤原信実

この地は、古来は狩場として、武士の世になってからは武術や馬術の鍛錬する場所として知られたのだが、細い道が多く草むらが広がっていたのだそうだ。。

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石の鳥居の奥には、狐塚の霊を移したという祠がある。また、右横には、九尾の狐退治の伝承地としての「鏡が池」があり、説明版が添えられている。

「八溝県立自然公園 鏡が池
三浦介義明が九尾の狐を追跡中、姿を見失ってしまったが、この池のほとりに立ってあたりを見まわしたところ、池の面近くに伸びた桜の木の枝に蝉の姿に化けている狐の正体が池にうつったので、三浦介は難なく九尾の狐を狩ったと伝えられ、これが鏡が池と呼ばれるようになったという。」(説明版)残念ながら池の水は枯れていました。

玉藻の前伝説

平安時代の後期、鳥羽上皇の時代に玉藻の前という才色兼備の美女が条項に仕えていた。上皇は玉藻の前を寵愛し、やがて病に伏せるようになる。公卿たちは玉藻の前に原因があると怪しみ陰陽師に占わせたところ、玉藻の前は、むかし中国の周の幽王の妃・褒姒(ほうじ)となって周を滅ぼし、殷王朝末期の紂王の妃・妲己(だっき)となって殷を滅ぼすなど悪事を重ねた金毛白面の九尾の狐の化身であることがわかった。正体を見破られた九尾の狐は逃亡し、行方をくらませる。その後、那須野で発見され、武士の三浦介義明、千葉介常胤、上総の介広常により討伐される。
九尾の狐の怨霊は殺生石となり、近づく人間や動物等の命を奪い、人々を恐れさせた。
玄翁和尚が殺生石となった玉藻前の怨霊を鎮めたという後日談が謡曲となっている。

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玉藻稲荷神社を後に45分ばかり歩くと「犬追物跡」である。(芭蕉とは逆ルートになってしまった。)

「近衛帝の中寿年中、勅を奉じて三浦介義明、千葉介常胤、上総の介広常が、玉藻の前が狐と化したて逃げて那須野に隠れ棲んでいるのを退治するために犬を狐にみたてて追い射る武技を行った跡という。俗に「犬追物跡」または「犬射の築地(いぬしゃのついじ)」の名があり、側に「犬追馬場跡」とか「犬射馬場」と称せられているところがある。

松尾芭蕉は元禄二年四月十二日(陽暦五月三十日一六八九年)浄法寺桃雪の案内で「犬追物跡」を一見した。おそらく、犬追物の史話より謡曲殺生石」に興味を覚えたからであろう。

曲によれば「三浦の介、上総の介に綸旨をなされつつ、那須野の化生の者を退治せよとの勅を受けて、野干(やかん)は犬に似たれば犬にて稽古あるべしと百日犬をぞ射たりける。これ犬追物の初めとかや」とある。」(説明版)

昔、那須野は草原で狩りに適した土地であったので、弓が発達し、土塁を築いて囲いを設け、その中に犬を放して、馬上から矢を射って射止める犬追物がさかんに行われたのであろう。

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謡曲殺生石

玄翁という高僧が下野国那須野の原(今の栃木県那須郡那須町)を通りかかる。ある石の周囲を飛ぶ鳥が落ちるのを見て、玄翁が不審に思っていると、ひとりの女が現れ、その石は殺生石といって近づく生き物を殺してしまうから近寄ってはいけないと教える。玄翁の問いに、女は殺生石の由来を語りだす。

「昔、鳥羽の院の時代に、玉藻の前という宮廷女官がいた。才色兼備の玉藻の前は鳥羽の院の寵愛を受けたが、狐の化け物であることを陰陽師の安倍泰成に見破られ、正体を現して那須野の原まで逃げたが、ついに討たれてしまう。その魂が残って巨石に取り憑き、殺生石となった」、そう語り終えると女は玉藻の前の亡霊であることを知らせて消えていく。

玄翁は、石魂を仏道に導いてやろうと法事を執り行う。すると石が割れて、野干(やかん)(狐のこと)の精霊が姿を現します。野干の精霊は、「天竺(インド)、唐(中国)、日本をまたにかけて、世に乱れをもたらしてきたが、安倍泰成に調伏され、那須野の原に逃げてきたところを、三浦の介(みうらのすけ)、上総の介(かずさのずけ)の二人が指揮する狩人たちに追われ、ついに射伏せられて那須野の原の露と消えた。以来、殺生石となって人を殺して何年も過ごしてきた」と、これまでを振り返る。そして今、有難い仏法を授けられたからには、もはや悪事はいたしませんと、固い約束を結んだ石となって、鬼神、すなわち野干の精霊は消えていく。

さて、次は「狐塚跡」へ。途中東山道との追分に「奥の細道」の道標と馬頭観音が置かれていた。

狐塚跡は、玉藻稲荷神社の説明版の通り県道沿い、「篠原堺」のバス停の近くにあった。

この塚は、「元々は「古塚」だったのを、九尾の狐の伝説の篠原にあるから狐塚と書くようになり、隣村との境界論に大岡裁きで篠原の勝訴となった。」(那須郡誌より)

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昔は、現実の中にフィクションが溶け込んでいたという事なのだろう。

さて、追分まで戻り田園風景の中を行くと道は西野間で奥州街道に出会う。奥州街道をしばらく行くと樋沢神社があり、境内には葛籠石(つづらいし)なるものが置かれていて説明版が添えられている。

「葛籠石・八幡太郎義家愛馬蹄跡

ここ葛籠石・八幡太郎義家愛馬蹄跡にまつわる言い伝えは、樋沢に古くから残っている。

後三年の役(一〇八三~一〇八七)で陸奥に向かう八幡太郎義家(源義家)が樋沢村にさしかかったとき、ふと小高い丘にお宮があるのを見て軍勢を止めた。よく見るとそれは源氏の氏神である八幡神社であった。義家は戦勝祈願にと、馬で一気に丘を駆け上がった。あまりの勢いに、境内にあった巨石の上に馬の前脚が乗ってしまい、蹄の後がくっきりと刻みつけられたという。また、このときすぐ脇にあるもう一つの巨石が葛籠(「づづらふじ」で編んだ着物を入れる箱型のかご)似ていることから、義家の葛籠石と名付けられたと伝えられる。以後、巨石信仰の場、伝説の地として今日まで大切に守られてきた樋沢村の文化財である。」(説明版)

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5分程先にある愛宕神社(鍋掛神社)の境内に鍋掛の一里塚の碑があり、横に説明版が立っている。

奥州街道(奥州道中)の鍋掛愛宕峠(なべかけあたごとうげ)に築かれた一里塚で、江戸日本橋から41里(約161キロメートル)、41番目の一里塚である。この塚は平成6年(1994)3月まで往時のものが現存していたが、街道整備のため現在地に移築された。かつては東側にもう一基、対となる塚が存在したが、昭和40年代に赤土採取のため消失した。 この奥州街道鍋掛の一里塚は、野間大野家文書(のまおおのけもんじょ)によれば、慶長9年(1604)に樋沢(ひざわ)村と鍋掛村の間の愛宕峠に築かれたという記述がある。当時は峠道であったために、現在は道路から高い所に位置している。」(那須塩原市HP)

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一里塚から30分程歩くと「清澄地蔵」がある。

この地蔵の建立は延宝七年(1679)。当時の宿場の生活は決して楽ではなかったと思われるが人々の信仰の強さを物語る大きな地蔵である。清川地蔵は、子育て地蔵として地元民の信仰が厚かった。(説明版より)

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5分程歩くと」八坂神社の境内に芭蕉の句碑があり説明版が添えられている。

猿田彦」「初市神」も祀られている。

芭蕉の句碑

松尾芭蕉が元禄2年(1689)3月に「奥の細道」行に旅立ち、4月16日黒羽(大田原市)から高久(那須町)に向かう途上、手綱(たづな)をとる馬子(まご)が一句を所望(しょもう)したことから詠んだ句を碑にしたものである。

「野を横に 馬牽(うまひき)きむけよ ほととぎす」

この句はどこで詠んだかは不明だが、余瀬(大田原市)と野間(那須塩原市)の間の原野であろうといわれる。

句碑は、文化5年(1808)10月に鍋掛宿の俳人菊池某ほか数名が建てたもので、台石にその建立者名が刻まれている。初めは鍋掛宿南方の愛宕神社にあったが、後に湯街道沿いに移され、さらに現在地に移された。昭和43年(1968)に中央の破損箇所が修理された。平成5年(1993)3月、街道景観形成事業により句碑の位置が少し変わり、句碑の景観も現在のようになった。」(那須塩原HPより)

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また、「鍋掛宿から各宿の里程」がガラスのケースに収められている。

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先の那珂川に架かる昭明橋を渡り5分程行くと「浄泉寺」がある。

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浄泉寺の境内に説明版と共に黒羽領境界石が置かれている。

奥州街道黒羽領の隣の鍋掛宿は幕府領であったため、黒羽藩主大関増業(おおぜきますなり)が領地の境を明確にするため境界石を建立した。

境界石には「従此川中東黒羽領」と刻まれている。背面には「於摂州大坂作之西堀小島屋石工半兵衛」と刻まれている。これらは大関増業が大阪城勤務の頃に大坂で作り黒羽藩に運ばれたと伝えられている。

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この後は黒磯まで歩き帰宅。