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中山道旅日記 1 前書 日本橋ー浦和宿

中山道

中山道69次 135里34町8間 約533キロ (1里=36町 1町=60間)

中山道は、古代から中世にかけて「東山道」、江戸時代に「五街道」の一つとして整備されて「中山道」と呼ばれるようになった。

中山道は、宿駅が六十九あり、「中山道六十九次」または「木曽街道六十九次」と呼ばれていた。

中山道が木曽街道と呼ばれたのは、中間部に「木曽十一宿」があったからである。

中山道は、武州路・上州路(東京、埼玉、群馬)、信濃路(長野)、木曽路(長野・岐阜)、美濃路(岐阜)、近江路(岐阜、滋賀、京都)から成る。

中山道東海道に比べ距離的には約40キロ長いだけであるのに宿場の数が16も多いのは、全体的に山道が多く、峠や難所をいくつも越えなければならないからであろう。

江戸時代に、日本橋から京、大坂へ行くには東海道中山道を通るわけだが一般的には東海街道を選ぶ人が圧倒的に多かったという。しかし、東海道には大きな河川が何か所もあり、「川留め」で日程が狂ってしまうこともたびたびあったという。特に女性は川越えを嫌って、中山道を利用する人も多かったようである。また、東海道に比べ中山道は少し遠回りになるが順調に歩けば必ず目的地に到着できたから、わざわざ中山道を選択する旅人もいたようである。

 

中山道 旅日記

1日目(2015年5月21日(木))日本橋-板橋・中宿

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中山道・69次、歩き旅の記念すべき1日目である。

東京駅から永代通りを歩いて日本橋へ。

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中山道歩き旅のスタートである。逆方向へ行くと、東海道

日本橋から三越を左に見て室町を歩く。

室町は、江戸時代の繁華街ということで老舗の商店が並ぶ。

道は、国道4号線江戸通り)と出会うが、4号線を右に行けば日光街道奥州街道である。

神田駅を経由し、秋葉原の入り口をかすめて昌平橋から神田明神下へ。

言わずと知れた「銭形平次」の舞台である。

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神田明神で一休み(昼食)。

平日だというのに参拝者が結構いる。

神田明神から湯島聖堂へ。

湯島聖堂:前身を「昌平坂学問所」といい、徳川5代将軍が孔子を祀るため元禄三年に「大成殿」を創建したものとされている。

 

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ここで、中断。

久しぶりに神保町の古本屋街を歩いてみたくなったのでお茶の水から駿河台下へ。

ところが通りには以前のような古本屋はほとんどなく、スポーツ用品の店がずらりと並んでいる。この通りは、気に入っていたのでとても悲しい気分である。

もっとも、最近、古本はインターネットで購入するのが一般的のようではあるが・・・・・・。

時代は、急激な速さで移り変わっている。

中山道に戻り、東大・赤門前を通過。赤門前の古本屋で「現代語訳・吾妻物語」を2冊購入。

(安かったので)(書店名は、第一書房

このあたりは、気のせいかなんとなくアカデミックな感じがする。

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落第横丁なんてあるのが洒落ていて面白い。

この先巣鴨まで特に記載することはなし。

途中に東洋大学前を通ったが東大とはちょっと趣が違う。

さて、巣鴨である。お年寄りの原宿と言われている巣鴨商店街通りの入り口に

江戸六地蔵の第三番として崇敬を集めている真性寺がある。

ここは、御府内八十八か所霊場の第三十三番札所でもある。

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巣鴨とげぬき地蔵」(高岩寺)は病気や痛いところを洗うと効き目があるといわれている。

通りに「すがも史跡まっぷ」(観光案内版)があり時間があればこのあたりをぶらつくのも面白そうだが、今日は先を急ぐことにする。

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中山道庚申塚・猿田彦大神庚申堂の石塚を発見。

庚申塚(庚申塔)は、中国の道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔のことだそうな。仏教では、庚申の本尊は青面金剛とされ、神道では、猿田彦神とされる。

巣鴨庚申塚は歌川広重の浮世絵にも描かれている。

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街道は、やがて都電荒川線と出会う。(写真は、都電荒川線・庚申塚駅)

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荒川線を渡り、街道をゆく中山道第一の宿場町、板橋宿である。

 

第1宿 板橋宿・本陣1、脇本陣2、旅籠54 (江戸より2里18町 約9.75キロ)

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板橋宿は江戸4宿(千住・品川・内藤新宿・板橋)の一つ、日本橋を旅立って
最初の宿場である。 多くの旅人はここ板橋宿で別れを惜しんだという。
一方、歓楽地としても多いに賑わった宿場でもある。

板橋宿入口

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板橋という名称は、宿場町中程の石神井川に架かる橋を「板橋」と呼ぶことに由来する。

板橋は、入り口から平尾宿、中宿、石神井川(板橋)から先を上宿と称し、三宿を総称して板橋宿という。

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中宿の入り口に「これより中宿商店街、日本橋より二里・二十町・九間、これより北上すれば上州・高崎を経て越後路、木曽路に至る」の立札あり。

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老舗と思われる店の前に、「距 日本橋二里二十五町三十三間」の立札あり。

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 板橋宿・平尾脇本陣豊田家

 

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縁切榎

この場所は、元々は大六天神の神木があった場所で、悪縁を切って良縁を結んでくれると庶民の間で礼拝されていた。縁切りに非常に強い力を持ち、皇女・和宮が下向した際に縁起が悪いと迂回したという史料がある。

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石神井川に架かる「板橋」

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今日は、ここまで。最寄り駅、都営三田線「板橋本町」より帰宅。

2日目(2015年5月26日(火))板橋・上宿-蕨宿-浦和・調神社

板橋宿を後にしばらく行くと旧道は、国道17号に合流し雰囲気は一変する。

車道を走る車の騒音を聞きながらさらに歩を進めると「志村一里塚」がある。

「志村一里塚」は、対の完全な形で残っている貴重な遺跡ということである。

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やがて17号と別れ、再び旧道へ。

清水坂」の碑がある。すぐ横に次のような立札が立てられている。

清水坂
 日本橋を旅立ち 旧中山道で最初の難所。隠岐殿坂,地蔵坂,清水坂と,時代とともにその呼び名を変えました。この坂は急で,途中大きく曲がっていて,街道で唯一富士を右手に一望できる名所であったと言われています。坂の下には 板橋・蕨両宿をつなぐ合(あい)の宿があり,そこには 志村名主屋敷や 立場茶屋などがあって,休憩や 戸田の渡しが増水で利用できない時に控えの場所として 利用されていました。このあたりは 昭和30年代頃までは 旧街道の面影をのこしていましたが,地下鉄三田線の開通など,都会化の波によって その姿を変えました。」

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旧道は、再び17号と合流し戸田橋を渡る。

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埼玉県に入り、蕨宿入り口で旧道が復活する。               

 

第2宿 蕨宿・本陣2、脇本陣2、旅籠54 

(日本橋より4里28町 約18.63キロ・板橋宿より2里10町 約8.88キロ)

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蕨宿(わらびじゅく)は日本橋から4里28町の距離であるが、京都側から来た場合は戸田の渡し手前にあることから、荒川増水時の川止めに備え比較的大きな宿場へと発展していった。

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旧道にはいると17号の喧騒とは打って変わった雰囲気となる。

古民家が昔の名残を感じさせてくれる。

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歩道には、浮世絵師・渓斎英泉と歌川広重の合作による、「木曽街道六十九次」の名所絵(浮世絵風景画)が写されている。

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「歴史民俗資料館」では昔の有様がしのばれる。

「歴史民俗資料館」分館

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「歴史民俗資料館」本館

 

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大名の御膳(食事)

意外と質素である。(飽食の現代とは、比較の仕様もないが。)

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弘化元年(1844)5月牧野遠江守が中仙道蕨宿・本陣・岡田加兵衛家に宿泊した時の夕食の献立。
一番左は、焼魚(わかなこ)
真ん中は、飯、味噌汁(根芋)、たくあん、
     あんかけ(生いか、いんきんのせん)
     長芋、椎茸、あわび、玉子焼き
一番右は、レンコン、酢の物(白瓜、いなご) 

旅人の食事

やはり質素である。(当時は、御馳走?)

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本陣(一の本陣 岡田加兵衛)

皇女・和宮もこの本陣で休息したという記録もある。

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本陣跡の先を右に折れてしばらく行くと和楽備神社がある。

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御由緒には、「当社の創建は明らかではないが、社伝によれば、室町時代に蕨を所領とした足利将軍家の一族、渋川氏が蕨城を築き、その守り神として八幡大神を奉斎したのがはじまりであるという。ところで、「渋川直頼譲状写」(加上家文書)には、観応3年(1352)渋川直頼から嫡子金王丸に譲られた所領の内に「武蔵国蕨郷上下」が記載されている。また、「鎌倉大草紙」には、長禄元年(1457)渋川義鏡は、曽祖父義行が蕨を居城としていた関係で、室町幕府から関東下向を命じられたとある。さらに、当社の旧御神体「僧形八幡立像」には、天正11年(1583)の墨書銘があり、創建の年代をうかがい知ることができる。江戸時代には「蕨八幡」、「上の宮」と呼ばれ、「中の宮」(氷川社)、「下の宮」(氷川社)と共に蕨宿三鎮守として、重きをなした。三学院末成就院別当として祭祀を掌った。」とある。

蕨城跡

蕨城は、南北朝時代に足利氏一門の渋川義行によって築城され曾孫の渋川義か鏡が古河公方に対抗煤ための拠点とした。

戦国時代には、扇谷上杉氏と後北条氏の境界線に位置したため、扇谷上杉氏にとっては、江戸城奪回のための拠点となり、後北条氏とっては、川越城攻略の足がかりとなり、しばしば所属する勢力が入れ替わった。

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街道に戻り、しばらく行くと「中山道武州蕨宿」と刻まれた宿場碑があり、「板橋宿二里十町」の碑、「浦和宿一理十四町」の碑がある。

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蕨宿を歩いて感じたことは、市と商店街の人々が一丸となって中山道の雰囲気を残そうと努力していることである。

この先は、淡々と歩みを進めていくことになり、1時間弱歩くと「焼米坂」に差し掛かる。

 

焼米坂

江戸の昔に「新名物やき米」と看板を掲げて焼き米を食べさせる立場茶屋が数件あって、「焼米坂」の地名が定着したようである。当時の焼き米は、籾のまま米を焼き、それをつついて皮を取り除いたものである。これは、保存食として古くからあった調理法で、そのまま水や茶に浸して柔らかくして食す。旅人の携帯食としても重宝がられたのであろう。

この坂は、160mの急勾配で当時の旅人にとっては難所であったと伝えられている。

浮世絵師・渓斎英泉が浦和宿を描くにあたって着目したのは、この焼き米売りの茶屋であり、焼米坂手前を視点として浦和宿と浅間山を望む構図であった。

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焼米坂からさらに15分ほど行くと調神社(つきのみやじんじゃ)がある。

ここは、とても親しみのある神社である。

というのも自宅から10分足らずのところにあり、毎年、大晦日に除夜の鐘を聞いた後「初詣で」に出かける神社であるから。また、毎月第3土曜日には骨董市が開かれる。

調神社

調神社は、社伝では由緒を神代とし、少なくとも平安時代以前の創建と見られる古社である。 「調(つき)」とは租庸調の「調(ちょう)」、「みつぎもの(御調物、貢物)」、すなわち「年貢」のことであり、東山道時代の武蔵国の調はここに集荷されたのち、朝廷に届けられたといわれている。 しかしその役割は武蔵国東山道から東海道へ編入された宝亀2年(771年)をもって終わりを遂げた。 その後、「調(つき)」は音韻によって「月(つき)」と結びつき、月待信仰(月待供養)の地となってゆく。 それゆえ兎(うさぎ)を神使とし、この社にあって境内入り口を守護しているのは狛犬ではなく兎である。 また、「調(つき)」は「(運勢の)ツキ」に通じるとも、されている。

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 今日は、ここまでとし、帰宅。