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中山道旅日記 15 細久手宿-御嵩宿-伏見宿-太田宿

第48宿 細久手宿・本陣1、脇本陣1、旅籠24

(日本橋より92里30町8間 約364.59キロ・大湫宿より1里18町 5.89キロ)

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馬頭観音から15分程行くと、「高札場跡」の碑が建てられており右手に「庚申堂」がある。境内には中に役行者像が祀られている石窟や石仏、石塔などが置かれている。このあたりが宿場町の入り口のようである。

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江戸時代初期(慶長年間)大井宿から御嵩宿の間の八里には、宿場はなく難渋していた旅人のために大湫の宿が設けられたが、それでも大湫宿御嵩宿の間は四里半(17.7Km)の坂道であった。そのため美濃国の奉行・大久保長安に細久手に新しい宿を造るように命じられた国枝与左衛門は、既存の旅籠に加え自力で七軒屋と呼ぶ仮宿を設けた。それが山間の小さな宿場町・細久手宿である。

公民館の先にある瑞浪市の説明版には「標高約四百二十メートルにあって、江戸から四十八番目(距離約九十二里)、京から二十二番目(距離約四十二里)に位置する宿場です。中山道の開設当初、東の大湫宿から西の御嵩宿までの道程が四里半(約十七・七キロメートル)もあったことから、尾張藩によって設置されました。慶長十一年(1606)の開宿当初は、七軒屋と呼ばれる小さな仮宿で、その後放火により全焼し、慶長十五年(1610)に正規の宿場として再整備されています。宿場の規模については、天保十四年(1843)の記録に「町並み三町四十五間(約四百十メートル)、家数六十五軒、旅籠屋二十四軒、総人数二百五十六人」の記録があります。 細久手宿は、仮宿の全焼のほか、寛政十四年(1802)、文化十年(1813)、安政五年(1858)の三度にわたって大火に見舞われ、大きな被害を受けました。現在の町並みは安政の大火以降に形成されたものです。」とある。

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公民館の向かいが「大黒屋」、本日の宿である。

大黒屋は尾張藩の定本陣で、脇本陣が狭いことに加え、他の大名との合宿を嫌った尾張藩が特に問屋酒井吉右衛門家を専用の本陣にあてたものだそうだ。

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26日目(4月19日(火)) 細久手宿御嵩宿-伏見宿-太田宿(ビジネス旅館いろは)

一夜明けて4月19日、今日も太田宿まで6里(約23.5キロ)の行程である。

午前7時30分に大黒屋さんに別れを告げて先へ行くと右手に「本陣跡」(大山家(屋号・日吉屋))の碑が立っている。その向かい「仲町」のバス停あたりが、脇本陣があった所か。なんの表記もなく草がぼうぼうと生えているだけなので定かではない。

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さらに先へ行くと「細久手口」のバス停があり、このあたりがもはや宿場の出口である。

旧道は広い道路とんなり、先へ進むと右手に「細久手の穴観音」と呼ばれる馬頭観音が祀られている。この馬頭観音は、観音様の縁日にお参りすると九万九千日のご利益があると信じられており「九万九千日観音」とも呼ばれている。

穴観音から10分程先に行くと「旧中仙道くじ場跡」の碑がある。くじ場とは当時の日雇い人足などが休んでいた小屋で、人足が運ぶ荷物の順番を「くじ」で決めていたことから付たれた名だそうである。

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この先は下り坂になり、坂を下り「平岩橋」を越えると上り坂になり、やがて「左・中山道西の坂」と彫られた碑がある。

その対面には「瑞浪市内旧中仙の影」の碑が置かれている。内容は、以下の通りである。

瑞浪市内仲山道の影」

之より先千三百米一里塚迠瑞浪市日吉町平岩地内旧幕当時に開いた仲山道は昔其侭の姿を今尚残して居り此間に次の様な地趾が残って居る一里塚より先は可児町に通じて居る

一.道が東西南北に向て居る珍しい所

一.石室の中に観音像三体祭る

一.旧鎌倉街道へ行く分岐点日吉辻

一.切られヶ洞

一.一里塚京へ四十一里、江戸へ九十三里

    路上及び一里塚附近よりの眺め

一、東に笠置山恵那山駒ケ岳

一、西に、伊吹山鈴鹿連峰

一、北に、木曽の御嶽山加賀の白山

一、南に、遠く濃尾平野尾張富士又快晴の日には尾張熱田の海を見る事ができる

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道標にしたがって左の急な上り坂に入ると、道は昔のままで3分程上って行くと右手に「秋葉三尊」が祀られていて「秋葉坂の三尊石窟」と題した説明版が立っている。

細久手宿御嵩宿の間は三里(約11.8km)。細久手宿から中山道を西へ、平岩の辻から西の坂道を登ると三室に分かれた石窟があります。

 右の石室に祀られているのは、明和五年(1768)の三面六臂(頭が三つで腕が六本)の馬頭観音立像。中央には一面六臂の観音坐像が、左の石室には風化の進んだ石仏が安置され、石窟の右端に残る石灯籠の棹には、天保十一年(1840)の銘があります。

 なお、ここは、石窟のすぐ上に秋葉様が祀られていることから、秋葉坂とも呼ばれています。 瑞浪市

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すぐその先には、「鴨之巣道の馬頭文字碑」があり5分程行った辻には「鴨之巣辻の道祖神碑」、「右・旧鎌倉街道迠約一里余」の碑が立っている。

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その先、下り坂を下っていくと「切られ洞」の碑が置かれている。これは、「昔、牛を追ってきた村人が盗賊に切られた処」なのだそうだ。

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ここからは、少しの間上り坂ですぐに下り坂になるが坂の途中に「鴨之巣の一里塚」がある。江戸から九十三番目の一里塚である。

「江戸へ93里、京へ41里という道標の中山道鴨ノ巣一里塚です。一里塚は道の両側に一対づつ築かれましたが、ここの場合地形上北側の塚が16m東方にずらされているのが特徴です。ここからは鈴鹿、伊吹や北アルプスの山々が一望できます。」(説明版)

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一里塚を過ぎると旧道は昔のままの峠道が続く。25分程歩くと「山内嘉助屋敷跡」の碑がある。山内嘉助は、江戸時代に酒屋を営んでいた豪商でここはその屋敷跡だそうだ。そのすぐ先に「鴨之巣一里塚」と「御殿場」の道標が置かれている。さらに、「百番供養塔」と刻まれた供養塔を過ぎ、御殿場へ向かって竹林を歩くことになる。

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道は「諸ノ木坂」と呼ばれていた急な上り坂で、峠は「物見峠」と言われていた。

ここは、皇女和宮が休憩を取ったことから「御殿場」と呼ばれるようになったのだそうだ。「馬の水飲み場」と呼ばれている水飲み場、右手には見晴らし台があり「笠置山」がきれいに見える。説明版も添えられている。

「御殿場・文久元年(1861)、皇女和宮の行列が中山道を下向し、十四代将軍徳川家茂公のところへ輿入れしました。その際、一行が休憩する御殿が造られたことから、ここを御殿場と呼ぶようになったといいます。

 和宮の行列は姫宮としては中山道最大の通行といわれ、四千~五千人にも及ぶ大行列でした。近隣では十月二十八日の早朝に前日宿泊した太田宿(現美濃加茂市)を出発し、昼には御嵩宿にて休憩、そしてここ御殿場でも再び休息をとったのち、大湫宿(現瑞浪市)で宿泊しました。中山道が別名「姫街道」と呼ばれるのは、こうした姫宮の行列が多く通行したためです。瑞浪市」(説明版)

「馬の水飲み場・ここは物見峠といい、道路の両側に計五軒の茶屋があり、十三峠前後のこの地であれば往来の馬もさぞかしのどが渇いたであろう。

存分のみなさいと北側に三カ所の水飲み場が設けてあった。」(説明版)

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御殿場跡を過ぎると旧道は、下り坂に変わり15分程下ると「唄清水」と呼ばれ、清水が湧き出ている場所に出る。「馬子唄の響きに浪たつ清水かな 五歩」の句碑が添えられている。当時は、ここを通る人の喉を潤したのだろうが今は飲めない。

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昔のままの旧道が舗装道路になったところに和宮も飲んだといわれている有名な名水「一呑みの清水」が残っている。説明版には以下のように記されている。

中山道を旅する人々にとって、一呑清水は喉の渇きを潤し、旅の疲れを癒す憩いの場所でした。江戸時代末期、将軍家降嫁のために江戸へ向かった皇女和宮は、道中この清水を賞味したところ大層気に入り、のちの上洛の際、永保寺(現岐阜県多治見市)にてわざわざここから清水を取り寄せ、点茶をしたと伝えられています。 岐阜県 名水50選のひとつ。」

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一呑の清水から一旦車道を歩くとすぐに「左・左舳五山茶園 右・中山道石畳」の道標があり、右の旧道に入ると「中山道・十本木立場」の人説明版が置かれている。

「宝暦5年(1756)刊の「岐蘇路安見絵図」にも記載があるこの十本木立場は、もともと人夫が杖を立て、駕籠や荷物をおろして休憩した所から次第に茶屋などが設けられ、旅人の休憩所として発展したそうです。一方で古老の話しでは、参勤交代の諸大名が通行する際にはここに警護の武士が駐屯し、一般の通行人の行動に注意が払われたそうです。」(説明版)

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五分ほど歩くと復元された一里塚が復元されている。「一里塚(謡坂十本木)」と刻まれた説明版が添えられている。江戸から九十四番目の一里塚である。

「慶長九年二月、徳川幕府東海道中山道北陸道に江戸日本橋を基準として、道の両側に五間四方(約16メートルほど)の塚を築造させました。これが一里塚です。

 一里塚は、一般的に一里ごとに榎、10里毎に松を植えて旅人に里程を知らせる重要なものでした。現在の御嵩町内にその当時四ヵ所あった一里塚は、幕藩体制崩壊後必要とされなくなり、明治四十一年にこの塚は二円五〇銭で払下げられ、その後取り壊されました。

 この一里塚は昭和四八年、地元有志の手でかつての一里塚近くに復元されたものです。」(説明版)

その先右手に「十本木の洗場」の木札が立っている。木札に書かれている文字は剥げて読めないが、御嵩町観光協会によれば「慶長九年二月、街道の両側に一里塚が造られ、その付近に十本の松の大木があったことから、此処を十本木の立場と呼ばれるようになった。道中の人足が駕籠や荷物をおろして休息した所から発展して茶屋や木賃宿が設けられ旅人の休息所となった。この池は当時の共同洗場である。安藤広重の木曽街道六拾九次の内 “御嵩宿” の画はこの場所がモデルとも云われている。」だそうだ。

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十本木の洗場の隣に安藤広重「木曽海道六拾九次之内 御嶽」の説明版が立っている。

「江戸時代、浮世絵の世界で名を馳せた人物に安藤広重(1797~1857)がいました。その作風は、情緒性を高め静の中に動を表現する独特の手法で風景画に新境地を開きました。代表作に「東海道五拾三次(全五十五枚)」のほか、この「木曽海道六拾九次(全七十一枚)」があり、御嵩宿では当時の庶民の旅で多く利用された「木賃宿」を中心に、囲炉裏を囲んだ旅人たちの和やかな会話が聞こえてきそうな様子を見事に描写しています。そして、作品のモデルとして選んだ場所がこのあたりだといわれています。

 広重の作品のなかに「木賃宿」が登場する例は非常に珍しく、軒下にいる二羽の鶏もまた、作品に描かれることはごく稀です。御嵩町」(説明版)

その向かい側に「十本木の茶屋跡」の説明版が立てられている。

「十本木茶屋跡・謡坂一里塚のすぐ近くにあって、「新撰美濃志」にも「十本木茶屋は、木曽路通りの休み茶屋なり。数十株の松樹立ちたる故、かく名づくという。」と記されている。西方からは、急坂を登りつめた所にあって、ここで汗を拭き拭き一ぷくした茶屋であったといわれている。」(説明版)

 

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茶屋跡から5分ぐらい歩くと旧道は石畳になる。「謡坂石畳」と呼ばれている石畳で「謡坂石畳」の碑も立っている。

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石畳を歩いていくと「左・江戸へ九十四里八丁 右・京へ四十里十三丁」の道標がありそこから5分程先に「耳神社」と呼ばれている小さな神社がある。説明版には、「全国的に見ても珍しい耳の病気にご利益があるといわれる神社です。平癒の願をかけ、お供えしてある錐を一本かりて耳にあてます。病気が全快したらその人の年の数だけ錐をお供えしました。奉納する錐は本物でも竹などでまねて作ったものでもよく、紐で編んだすだれのようにしてお供えしました。小さな祠には奉納された錐がいくつも下げられ、人々に厚く信仰されていたことがうかがえます。また、戦前には遠く名古屋方面からの参拝もありました。元治元年(1864)、武田耕雲斎尊皇攘夷を掲げて率いた水戸天狗党中山道を通った時、耳神社ののぼりを敵の布陣と思い、刀を抜いて通ったと伝えられています。

御嵩町御嵩町観光協会」と書かれている。

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先へ行くと「左・御嵩宿四一〇〇米 右・細久手宿七七〇〇米」の碑がありその先5分程歩くと馬頭観音が石窟に納められている寒念仏供養塔がある。御嵩町教育委員会のパンフレット「中山道往来」によれば「石窟におさめられている三面六臂馬頭観音像は、台座正面に「寒念仏供養塔」、左側には「維持明和二酉年」、右側に「八月彼岸珠日」と刻まれている。寒念仏は一年で最も寒い時期に、村人が白装束で集まり、鉦を叩いて念仏を唱えながら村中を練り歩く修行のことで、心身を鍛え願いを祈念したという。」だそうだ。

すぐ先には「牛の鼻かけ坂」の碑が立っている。

 「牛坊(うしんぼ) 牛坊 どこで鼻かいた 西洞の坂で 鼻かいた」という言葉が残るように、ここ西洞坂は牛の鼻欠け坂とも呼ばれ、荷物を背に登ってくる牛の鼻がすれて欠けてしまうほどの急な登り坂でした。中山道全線を通してみると、ここ牛の鼻欠け坂あたりを境にして、江戸へと向かう東は山間地域の入り口となり、京へと続く西は比較的平坦地になります。したがって地理的には、ちょうどこのあたりが山間地と平坦地の境界線になっているのも大きな特徴といえます。御嵩町」(説明版)

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急な牛の鼻かけ坂を下ると舗装道路に出るがしばらく行くと国道21号線に出会い国道を歩くと和泉式部の廟所がある。自らの出来事を三人称で日記にした「和泉式部日記」宮中の恋愛を歌にした「歌集」知られる平安中期の歌人で、古くからこの付近で没したと伝えられている。説明版が添えられていて、以下のように記されている。

「泉式部(いずみしきぶ)は、平安時代を代表する三大女流文学者の一人といわれ、和歌をこよなく愛し数多くの歌を残した一方で、恋多き女性としても知られています。

 波乱に富んだ人生を歩んだ彼女は、心の趣くままに東山道をたどる途中御嵩の辺りで病に侵されてしまい。鬼岩温泉で湯治していましたが、寛仁3年(1019)、とうとうこの地で没したといわれています。」墓所に置かれている石碑には

「ひとりさへ渡れば沈むうき橋にあとなる人はしばしとどまれ いずみ式部廟所 寛仁三己未天」と刻まれている。

下諏訪宿の「銕焼(かなやき)地蔵と和泉式部伝説」の説明版にもこの廟所のことが書かれている。

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先には、「右・中街道」と彫られた道標が立っている。中街道とは、東山道の名残で大井宿から下街道を抜けて中山道御嵩宿へ入るルートだそうである。

「中街道」の道標から15分程歩くと「左・細久手宿 右・御嵩宿」の道標がある。

ここから旧道に入りしばらく行くと御嵩宿である。

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第49宿 御嵩宿・本陣1、脇本陣1、旅籠28

(日本橋より95里30町8間 約376.37キロ・細久手宿より3里 11.78キロ)

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「慶長五年(1600)九月、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は直ちに宿駅伝馬制へと着手し、慶長七年(1602)には中山道筋でもいち早くここ御嶽宿に「伝馬掟朱印状」を下したことから、重要な拠点とみなしていたことがうかがえます。

 御嶽宿は江戸から四十九番目の宿場にあたり、天保年間の『中山道宿村大概帳』には、宿内町並四町五十六間(約五百四十メートル)、家数六十六軒(内旅籠屋二十八軒)、このほか本陣・脇本陣が各一軒、問屋場、高札場などの存在が記載されています。

 宿場は西端の天台宗の古刹大寺山願興寺から鉤の手を抜けて東へと続き、大名や公家あるいは一般庶民の通行とともに、情報や文化の交流する場所として大いに賑わいました。

御嵩町御嵩町観光協会」(説明板)

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御嵩宿に入ると左手に「正一位秋葉神社上町組」と刻まれた碑が立っていてその後ろには井戸がある。用心井戸と呼ばれる防火用の井戸で普段は飲料用として利用されていた。

宿場の町並みは左右に旧家が並びそれなりに趣がある。

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続いて、商家「竹屋」があり隣に「御嵩宿」の碑が立っていて右側面に「東・細久手宿」左側面に「西・伏見宿」と記されている。また「天保13年(1842)頃の御嶽宿の家並み図」も掛けられている。

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そして、その隣が「御嵩宿・本陣跡」「みたけ館(脇本陣跡)と続き「江戸より98里38町」と刻まれた大きな碑も立っている。

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「みたけ館」の先の唐沢橋を渡りしばらく行った交差点の所が「願興寺」山号は「大寺山(おおてらさん)」で「蟹薬師」として知られている。御嵩町観光協会のHPには、「天台宗祖「最澄」が東国巡錫の砌、この地に布施屋を建立し、自刻の薬師如来を奉納安置したのが起源とされる。その後、一条天皇の皇女とされる行智尼(ぎょうちに)が最澄自刻の薬師如来を朝夕と礼拝されていたところ、南西の尼が池から数千の沢蟹の背に乗った一寸八分の金色の尊像が顕現したという。これが天聴に達し、勅命により七堂伽藍が建立された。その後、多くの僧、権力者、そして何よりも民衆に支えられて現存している。現在、本堂並びに、本尊薬師如来及び日光月光両脇持、四天王像、十二神将、釈迦如来三像、阿弥陀如来立像、坐像の24体が国指定の重要文化財に指定されている。」と記されている。

また、願興寺は、瞽女(ごぜ)(盲目の女芸人)を庇護していたため瞽女たちの聖地にもなっているのだそうだ。大寺瞽女については、次のような逸話が残っている。「行智尼が京都から連れてきた3人の侍女が金色の薬師如来像をぜひ拝んでみたいと、決して開けてはいけないと行智尼から戒められていた厨子の扉を開けてしまった。金色の薬師如来像のあまりのまぶしさに思わず閉ざした3人の目は、それっきり開かなくなってしまい、行智尼が念仏を唱えてもかなうことはなかった。行智尼は目の見えなくなった3人の侍女に、楽器の演奏を教え、3人の侍女は、薬師様を讃える歌をうたいながら三味線を弾き、近くの村の家を回った。彼女たちはこのあたりでは大寺瞽女(おおてらごじょ)と呼ばれ、瞽女の始まりと言われている。」

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街道は、願興寺で桝形に曲がっていて先に行くと国道(21号)に変わり、しばらく行くと「鬼の首塚」と呼ばれている祠があり、説明版が添えられていて内容を要約すると「西美濃不破の関の生まれで関の太郎という凶暴で悪行三昧の男が鬼岩の岩窟に住み着き乱暴狼藉を極め、「鬼の太郎」と呼ばれていた。鬼の太郎は住民を大いに悩ませていたが「蟹薬師」のお告げにより捕らえられ、首をはねられた。検分のため首を桶に入れ都へ運ぼうとしたところ急に首桶が重くなり一歩も進むことができなくなった。すると首桶を縛っていた縄が切れ中から首が転げ落ち、落ちた首も動かすことができなくなったため、首をこの地に埋めた。」とのことである。

この下りは、十返舎一九の「続膝栗毛・五編下巻」の最初に書かれている。

「此所(このところ)は、むかし関の太郎といへる鬼の首を桶に入れて都におくるに、か

の首次第に重くなりて数十人の力に及ばず、此所に桶のまゝ埋めたるゆゑかくは名付けしと言傳ふるよしをききて、

- 桶縄手 今もその名は朽ちざりき 塩漬けにせし 鬼の首かも -」

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鬼の首塚の横には、正岡子規の歌碑が置かれている。

- 草枕むすぶまもなき うたたねの ゆめおどろかす野路の夕立 子規 -

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子規の句碑から20分程歩くと右手に旧道が復活するが旧道に入った所に「中山道・比衣一里塚跡」の碑が立っている。さらに10分ほど先に「左・伏見宿 右・御嶽宿」の道標が立っている。旧道は再び国道21号に合流し、上り坂を上り切ったところが「伏見宿」である。

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第50宿 伏見宿・本陣1、脇本陣1、旅籠29

(日本橋より96里30町8間 約380.30キロ・御嵩宿より1里 3.93キロ)

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伏見宿は、元禄7年(1694)の立宿である。慶長7年(1602)の御嶽宿に対しては、新しい宿場といえる。御嵩宿から太田宿間は3里あり、途中に木曽川の渡しがあったために新設されたものであろう。御嵩宿からは西1里にあり、まわりからは高台になっている。この高台の東からの坂を上ったところに高札場があった。宿内は6町あまりで、本陣、脇本陣と旅籠を29軒有していた。宿の西側の木曽川岸に新村湊があり、尾張方面への川下げが行われていたようである。(御嵩町観光協会HPより)

現在は、国道21号が宿場を貫いているため、昔の風情はない。

宿場に入るとすぐに「伏見宿・本陣之跡碑」が置かれており、「是よ里東尾州藩領」と彫られた大きな領境碑が立てられている。

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その先、「伏見」の交差点に「一本松公園」があり四阿や、きれいなトイレもあるので一休みするにはちょうどいい。「宿場行灯」も置かれていて心休まる思いである。街道脇には「右・御嵩 左・兼山 八百津」と刻まれた道標も置かれている。ここは斉藤道三の養子、斉藤正義が築いた兼山城へ至る兼山道との追分でもある。

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交差点を左に100メートル程入ると「洞興寺」があり境内には、伏見宿の飯盛り女たちの亡骸を葬った「女郎塚」がある。「死後引き取り手のなかった彼女たちのそれぞれに表情を凝らした墓石群は哀愁を漂わせている。隣には子安観音が奉られている。」(御嵩町観光協会HPより)

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街道に戻り、先へ行くと左手に旧旅館「三吉屋」がありその先には正岡子規の歌碑が置かれている。 - すげ笠の 生国名のれ ほととぎす -

正岡子規の)「かけはしの記」に依れば明治二十四年(1891)五月末日、木曽路を経て故郷松山への道中、伏見宿に泊った正岡子規は、「朝まだほの暗き頃より舟場に至って下り舟を待つ。つどい来る諸國の旅人七・八人あり。」と記している。

新村湊にて「すげ笠の 生國名のれ ほととぎす」の一句を残し小舟にて木曽川駅までの舟旅を楽しんだ。御嵩町観光協会

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このあたりは、もう宿場の外れのようである。「上恵戸」の交差点の所に「右 太田渡ヲ経テ岐阜市ニ至ル」「左 多治見及大山ニ至ル 約四里」と彫られた道標が立っている。

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「中恵戸」の交差点には新しく作られた「一里塚跡」の碑が置かれている。江戸から九十七番目の「恵戸の一里塚」である。右面は「江戸・伏見宿」左面は「京・今渡の渡し・太田宿」裏面に「中山道開宿400周年記念事業 可児市可児市観光協会

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この先は、特にこれということもなく淡々と歩いていくとやがて旧道は国道と別れ

JRの踏切を渡りしばらく行くと「住吉」の交差点があるがその先が「今渡(いまわたり)立場」である。当時は中山道の難所と言われた太田の渡しを控えて随分賑わったのだろう。立場の入り口には「今渡神社」がある。その先の「龍洞寺」に「龍の枕石」なるものが祀られている。これは、雄と雌の「龍神の寝枕」だそうだ。さらに5分程行くと「富士浅間神社」があり旧道はここで直角に右に曲がることになる。

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さて、いよいよ木曽川に架かる「太田橋」を渡ることになるのだが、橋の手前に「木曽のかけはし太田の渡し碓氷峠がなくばよい」と彫られた碑が置かれている。当時の木曽川は流れが急で、かなり深かったため渡し舟で渡るしかなかったようである。また、「今渡渡し場」の碑に説明版が添えられている。説明版には以下のように書かれている。

今渡の渡し場

 中山道の三大難所の一つ「木曽のかけはし 太田の渡し うすい峠がなくばよい」と詠まれた、現可児市今渡地区に残る木曽川の渡し場跡です。(この対岸の呼称が太田の渡し)。木曽川が出水する度に「船止め」となったので、今渡地区には、旅人のための宿屋や茶屋などが建ち並び、湊町として繁栄したと伝わります。

 明治三四年三月には両岸を渡す鉄索を張り、それに船を滑車でつなぎ、川の流れを利用して対岸へ船を進める「岡田式渡船」となりました。その頃には、渡し賃も無料となっていたようです。乗客がほどよく乗り合わせると出発し、一日に何回も往復しました。夜でも対岸の船頭小屋へ大声で呼び掛けると、船を出してくれたといいます。

 昭和二年二月、このすぐ上流に見る太田橋が完成し、渡し場は廃止されました。

渡し場の移り変わり

 鎌倉時代に起こった承久の乱の記録によれば、当時の官道である東山道は、この下流にある市内土田地区から木曽川を渡り、「大井戸の渡し」と呼ばれていました。

 江戸時代に入り、この官道は中山道として再整備されました。当時の絵図などから見ると、江戸時代の中頃までは同じ土田地区の渡り付近(土田の渡し)から渡っていたようですが、後期頃からはここ今渡地区へ移されています。

 土田の渡しは、中山道の正式な渡し場でなくなりましたがその後も続き、昭和五年頃に岡田式渡船を採用し、昭和三五年頃に廃止されました。

市内渡し場の渡船料金(明治14年)

 

今渡の渡し

川合の渡し

土田の渡し

1銭2厘

1銭

1銭

牛馬

2銭4厘

2銭

2銭

1銭2厘

1銭

1銭5厘

荷物

2銭4厘

1銭5厘

 

 『可児町史』(通史編)1980より 平成十七年九月建替 可児市教育委員会

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太田橋を渡り、木曽川の堤防沿いを歩いて旧道に出ると太田宿である。

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第51宿 太田宿・本陣1、脇本陣1、旅籠20

(日本橋より98里30町8間 約388.15キロ・伏見宿より2里 7.85キロ)

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太田の渡しは、十三世紀以前から存在していたと考えられるが、ここが宿場のひとつとして定められ、繁栄するのは、徳川家康によって伝馬制が整備されてからである。慶長五年(1600年)に関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、政治・軍事上の必要から伝馬制を拡充し、伝馬を提供する所として宿を定めた。中山道は慶長7年(1602年)に伝馬制ができ、宿のひとつが太田宿であった。万治元年(1659年)に五街道東海道中山道・日光道中・奥州道中・甲州道中)が定められ、太田宿は中山道69宿の一つとして栄えることになったのである。江戸からは51番目の宿場にあたり、本陣・脇本陣・問屋・旅籠屋・遊女屋などで賑わいました。太田宿の大きな特徴は、木曽川を渡る「太田の渡し」。木曽川が増水すると川止めとなり、旅人は木曽川を越えることができなかった。(中山道・太田宿HPより)

さて、旧道に出ると「中山道太田宿・明水神公園」の行灯が立っている。その先には「法華経塚」が祀られていて「法華経塚と飛騨街道追分」の説明版があり、以下のように書かれている。

法華経塚は、埋葬地(墓地)の入口に建てられた石碑だったと言われています。

 ここから少し東に行くと、飛騨高山へ向う飛騨街道の追分があります。

 現在、ここから東に進んだ神明堂の交差点付近には、明治時代に伊藤萬蔵により建立された中山道と飛騨街道の道標が残っています。 美濃加茂市商工観光課」

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しばらく歩いていくと「太田稲荷神社」があり、その隣が「祐泉寺」である。祐天寺境内には太田の地で生れ育った明治の文豪坪内逍遙が述懐の念をこめて詠んだ「椿の歌」の碑、北原白秋が祐泉寺を訪れ茶席でしたためた歌の碑、松尾芭蕉の門弟となった脇本陣3代目の林由興(冬甫)が師を悼んで建てた芭蕉の句碑が残されている。

- やま椿さけるを見ればいにしへを 幼きときを神の代とおもふ(逍遥)-
- この木の実ふりにし事のしのばれて 山椿はないとなつかしも(逍遥)-

- 細葉堅秋雨ふれり うちみるや 石燈籠のあを苔のいろ 白秋 -

- 春なれや 名も無き山の 朝かすみ 芭蕉 -

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街道は、祐泉寺の先で桝形に曲がっていて、角を曲がったところに旧旅館の「小松屋」(吉田家)がある。小松屋は、お休み処になっていて無料で入場できるということだが本日は定休日(火曜日)で入場はできなかった。このあたりの町並みはなかなか趣がある。

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松屋から5分程先には、「脇本陣」林家がある。これは見事な建物で国の重要文化財に指定されているのもうなずける。

「旧太田脇本陣林家住宅は明和六年(1769)に建築された主屋と、天保二年(1831)に建築された表門と袖塀、それに裏の二棟の土蔵から成っています。
 江戸時代に太田宿は、中山道の宿場町として栄え、大名や地位の高い人が泊まる本陣と脇本陣が各一軒あり、林家は脇本陣としての役目のほか太田村の庄屋や、尾張藩勘定所の御用達をつとめた旧家であります。

この建物を見ますと、主屋の両端の妻に卯建が建ち、ひときわ目を引きますが、これは防火壁の役目を果たすと同時に脇本陣の権威を象徴するものであります。

又、この建物は中山道において脇本陣としての遺構を当時のまま残している唯一の建物であり、昭和四十六年に国の重要文化財に指定されています。
 今でも脇本陣の前に立つと「したにー、したにー」と声をはりあげながら通っていった当時の大名行列や旅人の行き交う姿が目に浮かんできます。

昭和六十一年一月 美濃加茂市」(説明版)

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脇本陣の向かいが「本陣」(福田家)だが今は門だけが残っている。

「旧太田宿の中心にあった旧本陣は、宿場の中町の現在位置にありました。明治時代になると旧本陣には太田町役場がおかれ、町の中心的な存在でした。現在、旧本陣の面影はありませんが、この門は当時をしのばせる貴重な遺構です。

 「旧太田宿本陣門」は、文久元年(1861)仁孝天皇の皇女「和宮」が十四代将軍徳川家茂に嫁ぐため、江戸に向かう時に新築されたものです。このときは、旧中山道中の家並みなども新築・修繕されたといわれています。

 この門は、一間の薬医門(本柱が門の中心線上から前方に置かれている門のこと)で、両袖に半間の塀が付く、格式のある端正なつくりです。昭和の初め頃に現在の位置に移築されたと言われています。建築以来、長い年月を経て痛みが激しくなったため、平成14年10月に美濃加茂市教育委員会が解体修理しました。」(説明版)

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すぐ先に「中山道分間延絵図」「加茂群太田村家並み絵図」、「中山道会館」がある。

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街道は、その先桝形に曲がり角に「高札場跡」の立て札と「高札場跡と郡上街追分道標」の説明版があり「右・関上有知 左・西凶京伊勢道」と彫られた道標が置かれている。

「江戸時代、幕府・大名が法令や禁令を公示するため、墨書した高札を掲示した所を高札場といい、宿場等人の目につきやすい所に設置されました。

 太田宿か、次の宿までの人馬の駄賃やキリシタン禁令等の高札が掲げられていました。」(高札場跡立札)

「高札場跡と郡上街道追分・高札は、法度・禁令、犯罪人の罪状などを記し、交通の多い辻などに掲げた板の札です。一般の人々に知らせる目的で立てました。弘化2年(1845)の「加茂郡大田村家並み絵図」には、下町の西福寺入口付近に高札場が描かれています。「濃州徇行記」には「毒薬、親子、火付、切支丹、荷物貫目、駄賃高札」が書かれた高札と船高札があったとされます。また、ここは郡上へ向う「郡上街道」との追分でもあります。左手にある石の道標は明治26年(1893)に名古屋の塩問屋、伊藤萬蔵が建立したもので、郡上街道追分の道案内をしています。 美濃加茂市商工観光課」(説明版)

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桝形を左に曲がり、次の桝形を右折すると虚空蔵堂があり「虚空蔵堂と承久の乱 古戦場跡」の説明版が立っている。

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さらにその先には太田小学校があるが、ここが太田代官所のあった処である。

尾張藩天明年間になると藩政改革として領内の要所地を一括支配する所付代官を配置しました。太田代官所天明2年(1782)に設置され、当初の代官は井田忠右衛門でした。慶応4年(1868)、太田代官所は北地総管所と改名され、田宮如雲が総管に任命されました。このとき一緒に勤めていたのが坪内逍遥の父平右衛門です。

美濃加茂市商工観光課」(説明版)

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代官所跡の隣に「坪内逍遥ゆかりの妙見堂」がある。明治の文豪・坪内逍遥は太田代官所の役人・坪内平之進の末子である。

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代官所跡の隣に「坪内逍遥ゆかりの妙見堂」がある。明治の文豪・坪内逍遥は太田代官所の役人・坪内平之進の末子である。

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この先は、車通りの多い無味乾燥とした国道をひたすら歩くことになる。今日の泊りはJR「美濃太田駅」のすぐそばなのでJR「坂祝駅」から一駅戻り「美濃太田駅」へ。

ビジネス旅館「いろは」は、料金も安く、食事もボリュームがあるので結構込み合っていた。