奥の細道 一人歩き 17 日光-船生

16日目(2020年1月10日(金))日光-船生

日光を後に黒羽へ向かう。

芭蕉曽良は、五左衛門から教わった近道を歩いたということだがどこを歩いたのかわからないので一旦今市まで戻ることにする。

「同二日(四月二日)天気快晴。辰ノ中尅、宿ヲ出。ウラ見ノ滝(一リ程西北)・ガンマンガ淵見巡、漸ク及午、鉢石ヲ立、奈須太田原ヘ趣。常ニハ今市ヘ戻リテ大渡リト云所ヘカカルト云ドモ、五左衛門、案内ヲ教ヘ、日光ヨリ廿丁程下リ、左ヘノ方へ切レ、川ヲ越、せノ尾・川室ト云村ヘカカリ、大渡リト云馬次ニ至ル。三リニ少シ遠シ。

・今市ヨリ大渡ヘ弐リ余。

・大渡ヨリ船入ヘ壱リ半ト云ドモ壱リ程有。絹川ヲカリ橋有。大形ハ船渡シ。」

曽良日記)

旧道の杉並木は、朝の木漏れ日を浴びて実にすがすがしい。

30分ばかり行くと「並木太郎」呼ばれる杉並木の中で一番大きな名木を見ることができる。

更に30分がかり行くと「砲弾打ち込み杉」の説明版が立っている。

戊辰戦争で官軍が日光に拠る幕府軍を攻撃した際の銃弾の跡が杉に残っているのだそうだ。

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さて、今市まで戻り春日町の交差点で会津西街道(国道121号線)に入る。

大谷川に架かる太谷橋からは、男体山が美しく見える。

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橋を渡り切った大谷向の交差点で日光北街道(国道461号線)に入る。

2時間ほど歩くと浅間神社の入口に大きな草鞋が奉納されていて説明版が添えられている。

「厄払い大草鞋と獅子舞

 厄払い大草鞋=富士浅間神社入口・芹沢十文字

 ・・・・この大草鞋は今から約千三百年前に定められた(養老律令)風神祭・道饗際が原点となって今日に伝えられている。

芹沼地区にはこのような大きな草鞋を履く大男が居るから悪者は立ち寄るな、そして流行病などの厄払いも込めて、昔から奉納されている。・・・・」説明版より

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すぐ先には、馬力神そしてなぜか二宮尊徳像が置かれている。

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15分程先に「轟城跡」の説明版が立っている。

「・・・・鎌倉時代畠山重忠の末子重慶の城と伝えられている。「健保元年(1213)畠山重慶が日光山麓に謀反を企てたと日光山別弁覚が鎌倉に通報し、将軍実朝は、長沼五郎宗政に逮捕を命じたが、宗政は生け捕りにせず首を持参した為、実朝は不快に嘆息した。」と吾妻鏡・巻二〇に記録されている。・・・・」

吾妻鏡・巻二十

「九月小

十九日 丙辰

未の刻、日光山の別当法眼弁覺使者を進し申して云く、故畠山の次郎重忠が末子大夫 阿闍梨重慶、当山の麓に籠居す。浪人を召し聚め、また祈祷に肝胆を砕く事有り。これ謀叛を企てるの條異儀無きかの由これを申す。仲兼朝臣弁覺が使者の申す詞を以て 御前に披露す。その間長沼の五郎宗政当座に候するの間、重慶を生虜るべきの趣これ を仰せ含めらる。仍って宗政帰宅すること能わず、家子一人・雑色男八人を具し、御 所より直に下野の国に進発せしむ。聞き及ぶ郎従等競走す。これに依って鎌倉中聊か 騒動すと。

廿六日 癸亥 天晴

晩景宗政下野の国より参着す。重慶の首を斬り持参するの由これを申す。将軍家仲兼朝臣を以て仰せられて曰く、重忠は本過無くして誅を蒙る。その末子の法師、縦え隠謀を挿むと雖も何事か有らんや。随って仰せ下さるるの旨に任せ、先ずその身を生虜らしめこれを具し参らば、犯否の左右に就いて沙汰有るべきの処、戮誅を加う。楚忽の儀、罪業の因たるの由、太だ御歎息すと。仍って宗政御気色を蒙る。而るに宗政眼を怒らし、仲兼朝臣に盟って云く、件の法師に於いては、叛逆の企てその疑い無し。 また生虜の條は掌の内に在りと雖も、直にこれを具し参らしめば、諸女性・比丘尼等が申状に就いて、定めて宥めの沙汰有らんかの由、兼ねて以て推量するの間、遮ってこれを梟罪す。奇怪に備えらるるの状如何。向後に於いて此の如き事有らば、忠節を抽んずと雖も誰か驕奢せざらんや。これ将軍家の御不可なり。凡そ右大将軍家の御時、恩賞を厚くすべきの趣、頻りに以て厳命有りと雖も、宗政諾し申さず。ただ望むらくは御引目を給い、海道十五箇国の中に於いて、民間の無礼を糺し行うべきの由啓せしむるの間、武備を重んぜらるるが故、忝なくも一の御引目を給い、今に逢屋の重宝と為す。当代は歌鞠を以て業と為し、武芸は廃るるに似たり。女性を以て宗と為し、勇士これ無きが如し。また没収の地は、勲功の族に充てられず。多く以て青女等に賜う。所謂、榛谷の四郎重朝が遺跡は五條の局に給う。中山の四郎重政が跡を以て下総の局に賜うと。この外過言勝計うべからず。仲兼一言に及ばず座を起つ。宗政また退出す。」

畠山重忠源頼朝が平家打倒の旗揚げ以来の功臣にて厚情、豪胆な武将であった。ところが平家滅亡の後、幕府機構の生成期においては勇猛な気質と高い人望を危険視され、頼朝没後に権力独占を図ろうとする執権・北条氏の姦計に嵌り1205年(元久2年)無実の罪で賊徒とされ討ち滅ぼされてしまう。これが所謂「畠山重忠の乱」で、重忠本人の他一族全てが討たれ、唯一生き延びたのが重慶であった。その重慶が出家隠棲し日々の暮らしを送っていたのが霊場日光に近いここ轟城だと伝わる。しかし重慶もまた謂れのない罪で討たれてしまったのである。実朝は「重忠は元々罪無くして誅殺され、その末子である重慶が何らの謀議を図ろうとも何事やあらんか、命に従いまずその身を生け捕りとして陰謀の如何によって処分すべきであった」と宗政の行き過ぎた行動を嘆いたと云う。

すぐ先の道端にはお地蔵様や庚申塔などが置かれている。

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1時間半ばかりあるいてやっと船生についた。「芭蕉通り」と刻まれた碑が置かれ、「子持ち地蔵尊」が祀られている。

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ここからJR矢板駅まではまだ20キロ以上はあるだろう。気を取り直して歩き始めたが2時間ほどで日はとっぷりと暮れてしまった。真っ暗闇の中でバス停を見つけ時刻表を見ると次は18時01分、1日に3本しかないバスがあと30数分で来るようだ。これはラッキーと言うべきである。バスの乗客は一人だけ、運転手さんの話では長年この道を走っているがこのバス停でしかもこの時間に客を乗せたのは初めてだとか。