奥の細道 一人歩き 20 黒羽 1
19日目(2020年3月16日(月))黒羽 1
しばらく歩き余瀬入口の交差点を左折すると左右に田園風景が広がる。
15分ばかり歩くと「おくのほそ道」の碑が置かれていて「松尾芭蕉と余瀬地区」と書かれた説明版が添えられている。
「松尾芭蕉と余瀬地区
元禄二年(1689)に江戸を発った俳聖松尾芭蕉は、弟子の曽良とともに『おくのほそ道』の旅の途中、黒羽の地を訪れた。ここ旅程最も長い14日間滞在し、知人や多くの史跡を訪ね、次に向かう「みちのく」の地への準備期間として過ごした。宿泊先は、江戸において芭蕉の門人であった黒羽藩城代家老浄法寺高勝(じょうほうじたかかつ)(号・桃雪)宅と、その弟鹿子畑豊明(かのこはたとよあき)(号・翠桃)宅であった。(後略)」(説明版より)
余瀬は、むかし源頼義、義家父子が奥州遠征の途中、この辺りで白旗を翻して軍勢を集めたことことで「よせ」という地名が付いたのだそうだ。
奥の細道 八 黒 羽
黒羽の館代浄法寺何がしの方に音信る(おとるづる)。思ひがけぬあるじの悦び、日夜語りつづけて、其弟桃翠(翠桃?)など云うが朝雄勤とふらひ、自らの家にも伴ひて、新属の方にもまねかれ、日をふるままに、日とひ郊外に逍遥して、犬追物(いぬおふもの)の跡を一見し、那須の篠原をわけて、玉藻の前の古墳をとふ。よれより八幡宮に詣。与市(与一)扇の真とを射し時、「別しては我國氏神正八まん」とちかひしも、此神社にて侍と聞ば感応殊(ことに)しきりに覚えらる。暮れば桃翠宅に帰る。
修験光明寺と云有。そこにまねかれて、行者堂を拝す
- 夏山に足駄を拝む首途哉 - なつやまにあしだをおがむかどでかな
(光明寺には役の行者のものと伝えられる下駄が安置されている。芭蕉はその下駄を拝みみちのくへの旅の無事をも祈った。)
(黒羽の城代家老、浄坊寺何某を訪ねる。突然の来訪ではあったが、主人の喜びは大変なもので、日夜語り続け、その弟・桃翠という者が朝な夕なに、なにかと面倒を見てくれ、また、自分の家にも招いてくれたり、親戚の家にも招かれたりといった具合で幾日かを過ごした。ある日、郊外に散策し、昔の犬追物の跡を見学し、那須の篠原を分け入り、玉藻の前の古墳を訪ねた。 そそのあとは八幡宮に参詣し、「那須与一が、壇ノ浦で平家の扇の的を射た時、『わけてもわが生国の氏神正八幡よ』と祈ったのが、この神社です」と聞き、感嘆することしきりであった。 やがて日が暮れたので、その日は桃翠宅へ戻った。修験光明寺という寺があり、そこに招かれ、行者堂を拝んだ。)
曽良日記
同三日(四月三日)
快晴 。辰上尅、玉入ヲ立。鷹内ヘ二リ八丁。鷹内ヨリヤイタヘ壱リニ近シ。
ヤイタヨリ沢村ヘ壱リ。沢村ヨリ太田原ヘ二リ八丁。太田原ヨリ黒羽根ヘ三リト云
ドモ二リ余也。翠桃宅、ヨゼト云所也トテ、弐十丁程アトヘモドル也。
黒羽滞在
四日 浄法寺図書へ被招(まぬかる)。
五日 雲岩寺見物。
六日ヨリ九日迄、雨不止(あめやまず)。九日、光明寺へ被招。昼ヨリ夜五ツ過迄ニシテ返ル。
十日 雨止。日久シテ(ひさしくして)照。
十一日 小雨降ル。余瀬翠桃へ帰ル。晩方強雨ス(ごううす)。
十二日 雨止。図書被見廻(みまわられ)、篠原被誘引(しのはらへゆういんせらる)。
十三日 天気吉。津久井氏被見廻而(みまわられもって)、八幡へ参詣被誘引。
十四日 雨降リ、図書被見廻終日。 重之内持参。
十五日 雨止。昼過、翁と鹿助右同道ニテ図書ヘ被参(まいらる)。是ハ昨日約束之故也。予ハ少々持病気故不参。
十六日 天気能(よし)。翁、館ヨリ余瀬ヘ被立越(たちこえらる)。則、同道ニテ余瀬ヲ立。及昼、図書・弾蔵ヨリ馬人ニテ 被送ル(おくらる)。馬ハ野間ト云所ヨリ戻ス。此間弐里余。高久ニ至ル。 雨降リ出ニ依、滞ル。此間壱里半余。宿角左衛門、図書ヨリ状被添。
(4月3日:玉入を立ち余瀬の翠桃宅に到着、宿泊。4月4日:浄法寺図書に招かれる。浄法寺屋敷宿泊。4月5日:雲岩寺見物。浄法寺屋敷宿泊。4月6日~8日:浄法寺屋敷宿泊。4月9日:光明寺に招かれる。浄法寺宿屋敷宿泊。4月10日:浄法寺屋敷宿泊。4月11日:余瀬の翠桃宅に戻り、宿泊。4月12日:浄法寺図書が訪れ、一緒に篠原を見物。翠桃宅宿泊。4月13日:津久井氏が訪れ、八幡へ参詣。翠桃宅宿泊。4月14日:浄法寺図書が訪れ、終日滞在。翠桃宅宿泊。4月15日:昼過ぎ、芭蕉は鹿子畑助右衛門と一緒に浄法寺図書を訪ねる。浄法寺屋敷宿泊。曾良は持病のため不参。4月16日:芭蕉が浄法寺館より翠桃宅に戻る。一緒に浄法寺図書の差し向けた馬で余瀬を出立。馬は野間という所で戻す。浄法寺図書の紹介で高久の角左衛門方に宿泊。)
さて、30分ばかり歩くと西教寺があり、境内に曽良の句碑が置かれている。
- かさねとは 八重撫子の 名成るべし - 曽良
西教寺を後にしばらく行くと「鹿子畑翠桃邸跡」の道標が立っている。道標に従って歩くと「史跡・鹿子畑翠桃墓地」の碑が立っている。翠桃邸跡といっても田んぼの中に鹿子畑家の墓地があるだけで屋敷の面影は全くない。
翠桃の墓碑には辞世の「消ゆるとは我はおもはじ露の球色こそかはれ花ともみゆ覧」
が刻まれているということだが古くて字はほとんど読めない。
翠桃の墓碑の傍らに「奈(那)須 余瀬 翠桃を尋ねて」と書かれた曽良「俳諧書留」が立てられている。
曽良の「俳諧書留」に収録されている「翠桃を尋ねて」と前書きした、芭蕉の句を発句とする歌仙は、最初、翠桃・曽良との三吟で始まり、途中から翅輪(津久井氏)・桃里(蓮見氏)・二寸(森田氏)・匂いの花(名残の花)を秋鴉(しゅうあ=浄法寺図書高勝)が詠んでいる。
「奈須余瀬 翠桃を尋ねて」
発句 秣おふ人を枝折の夏野哉 芭蕉
脇句 青き覆盆子(を)こぼす椎の葉 翠桃
四 町中を行川音の月 はせを
五 箸鷹を手に居ながら夕涼 翠挑
六 秋草ゑがく帷子はたそ ソラ
七 ものいへば扇子に貌をかくされて はせを
八 寝みだす髪のつらき乗合 翅輪
九 尋ルに火を焼付る家もなし 曾良
十 盗人こはき廿六の里 翠挑
十一 松の根に笈をならべて年とらん はせを
十二 雪かきわけて連歌始る 翠挑
十三 名どころのおかしき小野ゝ炭俵 翅輪(陸奥鵆・むつちどり)
十四 碪うたるゝ尼達の家 曾良
十五 あの月も恋ゆへにこそ悲しけれ 翠挑
十六 露とも消ね胸のいたきに 翁
十八 をのが羽に乗蝶の小車 翠挑
十九 日がささす子ども誘て春の庭 翅輪
二十 ころもを捨てかろき世の中 桃里
二一 酒呑ば谷の朽木も仏也 翁
二二 狩人かへる岨の松明 曾良
二三 落武者の明日の道問草枕 翠挑
二四 森の透間に千木の片そぎ 翅輪
二五 日中の鐘つく比に成にけり 桃里
二六 一釜の茶もかすり終ぬ 曾良
二七 乞食ともしらで憂世の物語 翅輪
二八 洞の地蔵にこもる有明 翠挑
二九 蔦の葉は猿の泪や染つらん 翁
三十 流人柴刈秋風の音 桃里
三一 今日も又朝日を拝む岩の上 蕉
三二 米とぎ散す瀧の白浪 二寸
三三 籏の手の雲かと見えて翻り 曾良
三四 奥の風雅をものに書つく 翅輪
三五 珍しき行脚を花に留置て 秋鴉
挙句 彌生暮ける春の晦日 桃里
鹿子畑翠桃邸を後に30分程歩くと「修験光明寺跡」の道標が立っている。その先には芭蕉の句碑が置かれており、説明版が添えてある。
句碑には、「夏山に足駄を拝む 首途(かどで)哉」芭蕉はここで役行者の下駄に旅の無事を祈ったと言われている。
更に約45分先には、明王寺があり境内に芭蕉の句碑が置かれている。
- 今日も又 朝日を拝む 石の上 -
余瀬で催された歌仙の中の31番目の句で、「石の上に立って今日も朝日を拝む行者の姿」を詠んでいる
芭蕉の句碑は、常念寺にも置かれている。句碑には説明版が添えられている。
句碑は「野を横に 馬牽むけよ ほととぎす(のをよこに うまひきむけよ ほととぎす)」と刻まれている。
「松尾芭蕉は元禄二年四月十六日(陽暦六月三日一六八九年)に余瀬をたって殺生石に向った。曽良の『旅日記』には、「十六日天気能。翁、館ヨリ余瀬ヘ被立越。則、同道ニテ余瀬ヲ立。及 昼、図書・弾蔵ヨリ馬人ニテ被送ル。馬ハ野間ト云所ヨリ戻ス。云々」とある。『おくの細道』には「是より殺生石に行。館代より馬にて送らる。此口付のおのこ、「短冊得させよ」と乞。やさしき事を望待るものかなと、
「野を横に馬牽むけよほとゝぎす」とある この句は、余瀬を立って野間までの間で、馬子に乞われて詠まれたものであろう。夏草が茂った広漠たる那須野が原を、馬上姿で行く芭蕉が想像される
特に「馬牽むけよ」の馬子への呼びかけの言葉が、ほとゝぎすの鳴声と合って一層の俳味が感じられる。
この句碑は伝浄法寺桃雪建立であるが、年代、筆者は不詳である
芭蕉の里 くろばね」(説明版)