中山道旅日記 9 福島宿-上松宿-須原宿
20日目(3月23日(水))福島宿-上松宿-須原宿
第37宿 福島宿・本陣1、脇本陣1、旅籠14
(日本橋より69里24町44間 約273.67キロ・宮ノ越宿より1里28町30間 約7.0キロ)
江戸時代、幕府は江戸防衛のため何十か所か関所を設けた。中でも東海道の「箱根」、「今切」、中山道の「碓氷」そしてここ「福島」を、「四大関所」と呼び最重要視した。関所の目的は「入り鉄砲と出女」、つまり鉄砲などの武器の江戸への持ち込みと、人質としている大名の妻女の逃亡を防ぐため厳しく監視したのである。
さて、鏑木門をくぐると左手に「福島関所跡」があり当時の様子が復元されている。上番所に座って当時の様子に思いを巡らすのもなかなか面白い。
中には、「女改めの実際」や「木曽路を通った参勤交代の大名や著名人」の資料もある。
管理人の方と少し雑談をしたが、ここでも和宮が話題になった。和宮が中山道を下った理由は、当時の多くの女性がそうであったように「川越」を嫌ったことであろう。和宮は、「公武合体」のために早く(予定通りに)江戸につく必要があった。「川止め」の不安があり、到着の日取りが読めない東海道よりも、山の中を通る険しい道ではあるが大きな日程の狂いもなく確実に江戸へ到着できる「中山道」を選んだのであろう。そこには、政治的要素が多分にかかわっているように思われる。ちなみに九州薩摩藩・島津家から13代将軍・徳川家定に嫁いだ「篤姫」は、東海道を下っている。
島崎藤村は、「夜明け前」の中で馬籠を通る和宮の行列の様子を以下のように書いている。
「九つ半時に、姫君を乗せた御輿は旅軍の如きいでたちの面々に前後を護られながら、雨中の街道を通った。厳しい鉄砲、纏、馬簾の陣立ては、殆んど戦時に異ならならなかった。供奉の御同勢はいずれも陣笠、腰弁当で供男一人ずつ連れながら、その後に随った。御迎えとして江戸から上京した若年寄加納遠江守、それに老女等も御供した。これらの御行列が動いて行った時は、馬籠の宿場も暗くなるほどで、その日の夜に入るまで駅路に人の動きも絶えることもなかった。」
さて、「福島関所跡」の隣にあるのが「高瀬資料館」である。「高瀬家」は、藤原氏の出で四代目高瀬四郎兵衛が大阪冬の陣のころ、この福島にきてその子八右衛門が、福島の代官山村氏に仕えたのが木曽での初代であり、以来「御側役」「鉄砲指南役」「勘定役」として幕末まで山村氏に仕えた。明治の文豪・島崎藤村とのかかわりは、藤村が深く敬愛した姉・「園」が高瀬十四代「薫」に嫁いだことにあり、「園」は、小説「家」のモデルになっている。
高瀬資料館には、藤村の手紙、掛け軸、遺品や高瀬家に伝わった兵法書類他、江戸時代の木曽谷の諸資料が展示されている。この日は、ひな祭りが近いということから「ひな壇」が飾られていた。(この地方のひな祭りは、一か月遅れの四月三日である。)
今は、商店街になっている宿場通りに戻ってしばらく行くと藤村の詩「初恋」が刻まれた碑が置かれている。
木曽川を渡ると昨日泊まった「三河屋」の前に「山村代官所跡」がある。
山村氏は鎌倉幕府の大学頭大江一族の流れを祖とし、木曽義元の食客となったことに始まり、木曽氏の重臣として活躍した。後に関ヶ原に向かう徳川秀忠の先陣として活躍したことから木曽谷の徳川直轄支配をまかされる木曽代官となり、以降、明治2年に至るまで274年間木曽谷を支配し関所を守っていた。
入り口の門をくぐって、すぐ左手に「稲荷の祠」がある。説明版によれば、「この祠は、八代代官山村良啓(たかひら)公のときに建立されたもので、それ以降山村家の護り神として、代々丁重に奉られてきました。・・・・」また、屋敷内には狐のミイラが祀られており、管理人の方に申し出れば見ることが出来る。「祟りがあるといけないから」ということで写真には撮れなかったが。
屋敷内には、興味のある資料が数多く展示されており、下屋敷の庭も見事なものである。
ところで、木曽には「木一本、首一つ」という言葉がある。江戸時代、各地に伐採を禁止していた樹木があり木曽では「ひのき」「さわら」「ねずこ」「ひば」「こうやまき」を「木曽五木」といい無断で伐採すると討ち首になったということである。
山村代官屋敷跡から少し歩き、左手の坂を下ったところに「木曽教育会館」があり島崎藤村の記念碑がある。「夜明け前」の書き出しの原稿が銅板に刻まれている。
そのすぐ横に松尾芭蕉の句碑が置かれている。
- さざれ蟹足這ひのぼる清水哉 -
街道に戻って、左の狭い坂を上っていくと「高札場跡」がある。
坂を上り切ると「上の段」と呼ばれる地区があり、古い町並みや桝形、上の段用水と呼ばれる水場も残っている。
また、江戸時代に造られたという井戸も残っている。
さて、旧道に戻って「木曽福島」駅を過ぎると緩やかな下り坂になっている。道路が複雑でどの道を行けばいいのか迷ってしまう。旧国道だった道を歩くことにしてしばらく行くと「塩渕」のバス停があり左に入ると一里塚がある。「塩渕の一里塚」、江戸から七十番目の一里塚で碑には江戸へ七十里 京へ六十七里と刻まれている。
旧道は、国道19号と合流したり旧道が復活したりしながらただただ淡々と歩いていくと「木曽の桟500m」の道標の所に江戸から七十一番目の一里塚「沓掛の一里塚」がある。江戸へ七十一里、京へ六十六里である。
一里塚から5-6分行くと木曽の桟である。
木曽の桟は、「木曽の桟、大田の渡し、碓氷峠がなくばいい」と言われたように中山道三大難所の一つであった。ただの架け橋をイメージすればなぜ難所なのかと疑問に思うが、当時は木曽川の切り立った崖などに沿って、木材で棚のように張り出して造った道で、木曽川に渡した橋のことではない。のちに尾張藩により石垣と三つの木橋が架けられている。
今は、赤い鉄橋が架かっている。
また、木曽の桟は歌枕としても知られている。
傍らには、馬頭観音があり、芭蕉、正岡子規の句碑が馬頭観音とともに置かれている。
- 桟やいのちをからむ蔦かづら - 松尾芭蕉
- かけはしや あぶない処に山つつじ - 子規
- 桟や 水にとどかず五月雨 - 子規
- むかしたれ雲のゆききのあとつけてわたしそめけん木曽のかけはし - 子規
他に以下の歌も詠まれ
- 波とみゆる雪を分けてぞこぎ渡る木曽のかけはし底もみえねば - 西行
- わけくらす木曽のかけはしたえだえに行末深き峰の白雪 - 藤原良経
- なかなかに言ひもはなたで信濃なる木曽路のはしのかけたるやなそ - 源頼光
この先、国道を歩き線路を越えるとトンネルがありここから旧道に入る。坂を下ると「十王橋」があり「中山道上松宿入り口」の碑が立っており、地蔵尊が置かれている。当時は、このあたりに高札場もあったようで、説明版が添えられている。
第38宿 上松宿・本陣1、脇本陣1、旅籠35
(日本橋より72里3町24間 約273.67キロ・福島宿より2里14町40間 約9.5キロ)
上松宿は、旅籠の数が35と木曽十一宿の中では一番大きかったそうである。
宿場に入るとわずかに当時の面影を残している。
先に進むと、左手に江戸から七十二番目の一里塚「上松一里塚跡」の碑がある。
一里塚を過ぎると国道に出会い、国道をしばらく歩く。JR上松駅を通り過ぎ「下町」の信号で左手の旧道に入る。しばらく行くと左手に諏訪神社が見えてくるがその入り口に「上松材木役所御陣屋敷跡」の碑が立てられている。ここは、「尾州陣屋」といわれ尾州藩直属の役所である。先ほども書いたが無断で樹木を伐採すると首が飛ぶ。
「木一本、首一つ」である。
先へ行くと左手に「庚申塔」が置かれている。
さらに歩を進めていくと、「公会堂下」のバス停の先が「寝覚」と言われた立場で当時はかなりの賑わいだったらしい。名物「寿命そば」が人気で「越後屋」というそば屋が有名だったそうだ。
「越後屋」の向いが「臨川寺」でここには「浦島伝説」が残っている。「臨川寺」奥の眼下に広がるのが浦島太郎が目覚めたといわれている「寝覚の床」である。
浦島太郎伝説
「竜宮城から戻った浦島太郎は、諸国を旅して廻り、木曽川の風景の美しい里にたどり着いた。この地で竜宮の美しさを思い出し、乙姫にもらった玉手箱をあけてしまう。玉手箱からは白煙が出て、白髪の翁になってしまった浦島太郎は、今までの出来事がまるで「夢」であったかのように思われ、目が覚めたかのように思われた。このことから、この里を「寝覚め」、岩が床のようであったことから「床」、すなわち「寝覚の床」と呼ぶようになったという。浦島太郎は、しばらくは村人に薬を授けたりしていたが、いつの間にかどこかへ立ち去ってしまい、後には「弁財天」の像だけが残っていたという。」
また、「謡曲と木曽路の寝覚の床」の説明版があり、以下のようにことが書かれている。
「木曽路随一の景勝地「寝覚の床」は、昔役の行者が修行した地で、不老長寿の霊薬が採れたとの伝承から、浦島太郎や三帰(みかえり)の翁の不老長寿の伝説が生まれた。
謡曲「寝覚」では、長寿の薬を三度飲んで三度若返り千年生きたという三帰の翁のところに、霊薬を貰いに勅使が遣わされる。三帰の翁は実は医王仏の仮の姿で、喜んで霊薬を天子に捧げる。
謡曲「飛雲」では、羽黒山の山伏が木曽路を旅して老いに疲れた老人に逢う。夜が更けると老人は鬼神と化し、盤石を砕いて襲いかかり、山伏は必死に経を読み、役の行者に祈って鬼神を退ける。」
寝覚の床は信濃の国の歌枕でもある。
- ひる顔にひる寝せふもの床の山 - 芭蕉
- 谷川の音には藤も結ばじを目覚めの床と誰が名つくらん - 近衛摂政家照公
ー 岩の松ひびきは波にたちはかり旅の寝覚めの床ぞ淋しき - 貝原益軒
正岡子規は、「誠やここは天然の庭園にて・・・・・仙人の住処とも覚えて尊し」と感じ入ったということである。
寝覚の床を後に旧道を行くとやがてJRの線路をまたいだ先で国道19号に合流する。合流の手前に「中山道69次の上松宿」で広重が描いた「小野の滝」がある。
小野の滝を後に国道19号を歩いていくと左手に旧道の入り口があり一里塚跡の碑が置かれており、説明版が添えられている。「荻原の一里塚」である。
旧道は、すぐにまた国道に合流するがその手前に二十三夜塔が置かれている。
ここから先は、国道19号を歩いていく。特に何があるわけでもなく淡々と歩くのみである。
やがて、JR須原駅に着き、民宿に電話を入れると民宿のおばあさんが迎えに来てくれた。
今日は、かなり疲れていたのでとてもありがたい。
中山道旅日記 8 奈良井宿-鳥居峠-藪原宿-宮ノ越宿-福島宿
19日目(3月22日(火))奈良井宿-鳥居峠-藪原宿-宮ノ越宿-福島宿
第34宿 奈良井宿・本陣1、脇本陣1、旅籠5
(日本橋より64里22町14間 約253.77キロ・贄川宿より1里31町約7.3キロ)
奈良井宿は、木曽路の難所「鳥居峠」の北に位置し、交通の要となる宿場町として繁栄した。
当時その様は、「奈良井千軒」と謳われ、木曽一番の賑わいであったという。
また、奈良井宿は、木曽路「十一宿」の中で一番標高の高い位置にある。宿場は、江戸方面から「下町」「中町」「上町」に分かれていて現在は、町全体が「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されており、宿場に入るや否やテレビの時代劇の宿場風景が目の前に現れ、いきなり江戸時代にタイムスリップしたような感じになる。
さて、民宿・津ち川さんの温かいおもてなしと心遣いに感謝しつつ、まず「八幡宮」、「二百地蔵」を訪れることにする。昨日、贄川宿からJR奈良井駅の前を通って宿場町に入ったのだが江戸時代の初期は駅の上にある「八幡神社」の裏を抜けてきたのだそうだ。
八幡宮、二百地蔵、杉並木の道標のある石段を登っていくと「八幡神社」があり、その先が樹齢数百年と永い年輪を重ねた杉の大樹が続く並木道である。当時、幾多の旅人がその足跡を刻んできたのだろう。杉並木を抜けると、静かにたたずむ石仏群がある。昔、旅人が途中で死を向かえ、無縁仏になっていた石仏を1ケ所に集めたものとされている。整然と並ぶおよそ二百体の石仏の風雪に洗われた素朴で豊かな表情は心を和ませてくれる。
「八幡神社」は、案内板によると「奈良井宿下町の氏神で、祭神は誉田別尊。奈良井宿の丑寅の方角にあたり、鬼門除けの守護神として崇敬された。」のだそうだ。
中山道に戻ろう。奈良井宿を下町から中町、上町へと歩いて行く。
水場や当時、脇本陣であった「とくりや」、右手奥に「本陣跡」の碑、「上問屋資料館」などが左右に並び「鍵の手」(水場もある)から上町に入っていく。
「鍵の手」は、防衛の手段として、敵が一気に攻め込みにくくする為に、また、敵を追い詰め易くするために宿の入り口や通りを直角に曲げたもので宿場防備のための町造りの手法である。城下町では、この手法が多く用いられ「桝形」と呼ばれている。徳川家康が真田昌幸の上田城を攻めた、「第一次上田合戦」では徳川軍がこの「桝形」に大いに悩まされた。
上町に入り、左手に「駒屋」、右手に有形文化財「中村邸(中村屋資料館)」があるが早朝のため資料館はすべて閉まっていた。
その先が、「高札場跡」でここにも「水場」がある。
そのすぐ先あるのが「鎮(しずめ)神社」である。
鎮神社は、経津主命(ふつぬしのみこと)を祀り、「由緒書」によれば、寿永から文治(十二世紀後期)のころ中原兼造が鳥居峠に建立したと伝えている。疫病流行を鎮めるため下総国香取神社を勧請したことから鎮(しずめ)神社と呼ばれるようになったという。
鎮神社が、奈良井宿の出口で「奈良井宿の案内版」があり「楢川歴史資料館」の横が「鳥居峠」の登り口である。「中山道 上り鳥居峠 下り奈良井宿」の碑がある。
いよいよ鳥居峠越えである。急な坂を上っていくとやがて「中の茶屋」があり、「葬沢」の説明版がある。それによると、「天正十年(一五八二)二月、木曽義昌が武田勝頼の二千余兵を迎撃し、大勝利を収めた鳥居峠の古戦場である。この時、武田方の戦死者五百余名でこの谷が埋もれたといわれ、戦死者を葬った場として、葬沢(ほうむりさわ)と呼ばれる。
中の茶屋で一息入れ、急な坂を上る。「塩尻峠」同様倒木が峠道をふさぎ、歩くのには難儀である。倒木の理由は、「塩尻峠」と同じだろう。
さて、しばらく行くと「鳥居峠一里塚」がある。
一里塚を過ぎ、約1キロ急な上り坂を進むと峠に到着。「峰の茶屋」と書かれた休憩所があるが、季節外れのこととて中に入ることはできなかった。峠にはまだ雪が残っている。「峰の茶屋」の前には石碑があり右手には、奈良井宿を眼下に見下ろせる場所がある。当時、藪原宿から上ってきた旅人が眼下に広がる風景を見て千軒もの家あるように思えたのだろう。「奈良井千軒」と言われる所以なのかもしれない。
さて、ここからは下りである。すぐ下に「熊除けの鐘」が置かれていて「熊も人が怖いのです。鐘で知らせてあげよう・・・・」と添え書きがかかっている。更に「お六櫛原木ミネバリ」という看板が掲げてある。木曽の名物は「お六櫛に五平餅」というイメージであるがお六櫛は「ミネバリ」という木から作られるのだ。
栃の木が群生している峠道を行くと「子産みの栃」というものがあり「昔、この穴の中に捨て子があり子宝に恵まれない村人が、育てて幸福になったことから、この実を煎じて飲めば、子宝に恵まれると言い伝えられている。」と説明版が添えられている。
さらに下っていくと「右義仲硯水」と書かれた碑の横に水鉢が置かれている。水鉢は文化元年建立で正面に御嶽山と刻まれている。昔、木曽義仲が平家討伐の旗揚げをした折、この頂上で御岳山へ奉納する願書を書くのに使ったとの言い伝えがある。その隣の「丸山公園」には「木祖村史跡鳥居峠」の碑や松尾芭蕉の句碑などが置かれている。
句碑
- 雲雀よりうえにやすらふ峯かな - 芭蕉
- 木曽の栃うき世の人の土産かな - 芭蕉
- 嶺は今朝 ことしの雪や 木曽の秋 - (詠み人はわからない)
標高1,197メートルの峠を下りきると「藪原宿」である。「原町清水」の水場があり「この水は峠を越える旅人が喉をうるおしたもので今も飲み水として使用されています。」と説明版に書かれている。ありがたい!! 厳しい峠越えで水をきらしたところである。この水で喉をうるおし、ペットボトルにもたっぷり補給させていただいた。
水場を後に急な下り坂を歩いていくと「尾張藩藪原御鷹匠役所跡」の碑が立っている。
御鷹匠役所は、江戸時代、鷹狩り用の子鷹を捕獲するため、木曽の山に「巣山」と言われる鷹の巣を保護する山林を定めていた。尾張藩の役人が木曽代官・山村家の家来の助けを借りて巣山の監視を行い、巣から下ろしてきた子鷹を飼育・調教して尾張藩に送り届け、その一部は将軍家にも献上されていたとのことである。
第35宿 藪原宿・本陣1、脇本陣1、旅籠10
(日本橋より65里35町14間 約259.11キロ・奈良井宿より1里13町約5.3キロ)
宿場に入ると、「防火高塀跡」の碑が右手に見える。
木祖村誌には、「元禄八年(1695)七月十四日夕方、下町西側のお寺門屋敷あたりから火事が起こり、夜中までに藪原宿全宿が焼失してしまった。藪原宿では、このような宿全体にかかわるような大火は四回も発生している。この元禄の大火の後、二度とこのような参事に遭わないためにもと、火除地として広小路を設け、防火のための石塁・高塀を設けた。」とある。その先には、水場も見受けられる。
さらに先へ行くと、お六櫛問屋「萬寿屋」がある。
お六櫛にまつわる伝説
「妻籠の旅籠屋に「お六」という美しい娘がいた。お六はいつも頭痛に悩まされていた。ある時、御嶽大権現に願掛けをしたところ「ミネバリという木で作ったすき櫛で、朝夕髪を梳かせば必ずや治る」というお告げがあった。 お六はさっそくお告げのとおり、ミネバリの櫛を作り、朝夕髪を梳かしていると、お六の頭痛はすっかり直ってしまった。それ以来、妻籠宿ではミネバリで作った櫛を「お六櫛」と名付けて旅人に売り出したところ大変な評判となり街道の名物となった。享保のころになって鳥居峠の近くに材料となるミネバリの木があることから薮原でもお六櫛を産するようになったと言われている。」
しばらく行くと「高札場跡」の碑が立っている。藪原宿の出口であろう。
藪原宿を出てしばらく行くと旧道は国道と合流する。更に行くと一里塚(藪原の一里塚)がある。日本橋から六十八番目の一里塚である。
国道沿いに「宮ノ越宿」の大きな看板が立っている。
さらに歩いていくと「山吹橋」(橋の名は、義仲の愛妾・山吹から来ているのだろうか)が見えてくる。橋を渡って右手に入り、しばらく行くと「巴が淵」というところに出る。その名の通り木曽義仲の妻(愛妾?)にまつわる場所である。淵を見下ろすところに四阿があり旅のノートが置かれている。ノートには「巴御前のように美しくなれますように」といったような女性の書き込みが多くみられた。美しく、強い女性への憧れであろうか。四阿の「一句いかがですか」の張り紙につられ、一句作ってみた。
「一休み巴が淵の浅き春」 お粗末!
ここで巴御前について少し。
巴は、信濃国の豪族・中原兼遠の娘と伝えられている。常に義仲のそばに付き従いその生涯は謎に包まれており「平家物語・巻第九・木曽最期」の段にのみ登場する。
平家物語には、「木曾殿は信濃より、巴・山吹とて、二人の便女を具せられたり。山吹はいたはりあって(病気で)、都にとどまりぬ。中にも巴は色白く髪長く、容顔まことに優れたり。強弓精兵、一人当千の兵者(つわもの)なり」と記され、宇治川の戦いで義経軍に敗れ落ち延びる義仲に従い、最後の7騎、5騎になっても討たれなかったという。義仲は「お前は女であるからどこへでも逃れて行け。自分は討ち死にする覚悟だから、最後に女を連れていたなどと言われるのはよろしくない」と巴を落ち延びさせようとする。巴はなおも落ちようとしなかったが、再三の義仲の言葉に「最後のいくさしてみせ奉らん」と言い、大力と評判の敵将・御田(恩田)八郎師重が現れると、馬を押し並べて引き落とし、首を切った。その後巴は鎧・甲を脱ぎ捨てて東国へ落ち延びた所で平家物語の舞台から退場する。
「源平盛衰記」では、倶利伽羅峠の戦いにも大将の一人として登場しており、横田河原の合戦でも七騎を討ち取って高名を上げたとされている。宇治川の戦いでは畠山重忠との戦いも描かれ、重忠から「あの女武者は何者か」と問われた半沢六郎は「木曽殿の御乳母、中三権頭が娘巴といふ女なり。強弓の手練れ、荒馬乗りの上手。軍には一方の大将軍として、更に不覚の名を取らず。今井・樋口と兄弟にて、怖しき者にて候」と答えている。敵将との組合いや義仲との別れが「平家物語」より詳しく描写され、義仲に「我去年の春信濃国を出しとき妻子を捨て置き、また再び見ずして、永き別れの道に入らん事こそ悲しけれ。されば無らん跡までも、このことを知らせて後の世を弔はばやと思へば、最後の伴よりもしかるべきと存ずるなり。疾く疾く忍び落ちて信濃へ下り、この有様を人々に語れ」と、自らの最後の有様を人々に語り伝えることでその後世を弔うよう言われ、巴は戦場を去っていく。落ち延びた後に源頼朝から鎌倉へ召され、和田義盛の妻となって朝比奈義秀を生んだ。和田合戦の後に、越中国、石黒氏の元に身を寄せ、出家して主・親・子の菩提を弔う日々を送り、九十一歳で生涯を終えたという後日談が語られる。
「巴が淵伝説」
歴史が漂うこの淵は、巴状にうずまき巴が淵と名づけられた。
伝説には、この淵に龍神が住み、化身して権の守中原兼遠の娘として生まれ、名を巴御前と云った。義仲と戦場にはせた麗将巴御前の武勇は、痛ましくも切切と燃えた愛の証しでもあった。巴御前の尊霊は再びこの淵に帰住したと云う。法号を龍神院殿と称えられ、義仲の菩提所徳音寺に墓が苔むして並ぶ。絶世の美女巴は、ここで水浴をし、また泳いでは武技を錬ったと云う。そのつややかな黒髪のしたたりと、乙女の白い肌元には、義仲への恋慕の情がひたに燃えていた。岩をかみ蒼くうずまく巴が淵、四季の風情が魅する巴が淵・木曽川の悠久の流れ共に、この巴が淵の余情はみつみつとして、今も世の人の胸にひびき伝わる。
- 蒼蒼と巴が淵は岩をかみ黒髪愛しほととぎす啼く - (日義村観光協会による)
謡曲・巴」あらすじ
木曽の僧が都に上る途上、琵琶湖のほとりの粟津が原というところに差し掛かる。そこで神前に参拝に来た女と出会うが、女が涙を流しているので不審に思い、理由を尋ねる。女は古歌を引き、神前で涙を流すのは不思議なことではないと述べ、僧が木曽の出だと知るや、粟津が原の祭神は、木曽義仲であると教えて供養を勧める。そして、自分が亡者であることを明かし、消えてしまう。僧はお参りにきた近在の里の人から、義仲と巴の物語を聞き出し、先の女の亡者が巴だと確信を深める。夜になり、僧が経を読み、亡くなった人の供養をしていると、先ほどの女が武者姿で現れる。女は巴の霊であることを知らせ、主君の義仲と最期を共に出来なかった恨みが執心に残っていると訴える。そして義仲との合戦の日々や、義仲の最期と自らの身の振り方を克明に描き、執心を弔うよう僧に願って去って行く。
四阿の横に千村翁が詠んだ歌が刻まれている。
- 粟津野に討たれし公の霊を抱き巴の慕情淵に渦まく -
芭蕉の弟子・許六も、このあたりで次の句を詠んでいる。
- 山吹も巴もいでて田植えかな -
一騎当千の美貌の女武者「巴」にまつわる話は、昔も今も絶えることがない。
さて、木曽川に架かる「巴橋」を渡ってしばらくゆくと「手洗水」と呼ばれているところがある。ここは、木曽義仲が南宮神社に参拝する際、この清水で手を清めたということである。
「手洗水」を左に曲がり木曽川に沿って下っていくと宮ノ越宿である。
(日本橋より67里32町14間 約266.64キロ・藪原宿より1里33町約7.5キロ)
宿場に入って歩を進めると右手に義仲橋があり、その橋を渡れば「義仲館」がある。
残念ながらこの日は休館日で中に入ることはできなかった。
木曽義仲は、河内源氏の一門、源義賢の次男として生まれる。幼名は駒王丸。
「平家物語」や「源平盛衰記」によれば、父・義賢はその兄・義朝との対立により大蔵合戦で義朝の長男・義平に討たれる。義平は、当時2歳の駒王丸の殺害を命じるが、畠山重能・斎藤実盛らの計らいにより信濃国へ逃れる。「吾妻鏡」によれば、駒王丸は乳父である中原兼遠の腕に抱かれて信濃国木曽谷に逃れ、兼遠の庇護下に育ち、通称を木曽次郎と名乗った。
義仲は、以仁王の令旨によって挙兵、倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破って入京する。入京後は、「朝日(旭)将軍」と讃えられたが連年の飢饉と平氏の狼藉によって荒廃した都の治安回復に失敗し、また大軍が都に居座ったことによる食糧事情の悪化、皇位継承への介入などにより後白河法皇と不和となる。法住寺合戦に及んで法皇と後鳥羽天皇を幽閉して征東大将軍となるが、源頼朝が送った義経らの軍に敗れ、宇治川の戦いで義経に敗れ、近江の国・粟津ヶ原で討たれた。31歳の若さで散った悲運の武将である。
中山道に戻り、先へ進むと「本陣」が残っているが工事中のため中には入れなかった。
宿場を出ると田園風景が広がっており、「一里塚跡」の碑が置かれている。日本橋から六十九番目「宮ノ越の一里塚」である。
これから先はこれということもなく淡々と歩きて行くことになるが「JR原野」駅を過ぎてしばらく行くと「中山道中間地点」の碑が立っており左側面に「京へ六十七里二十八町」右側面に「江戸へ六十七里二十八町」と彫られている。
この先、旧道は国道19号に合流したり、分かれたりしながらさしてこれということもなくただひたすらに歩いていく。やがて正面に大きな鏑木門が見えてくる。
福島宿の入り口である。
本日の宿は「木曽三河屋」。
中山道旅日記 7 塩尻宿-洗馬宿-本山宿-贄川宿-奈良井宿
18日目(3月21日(月))塩尻宿-洗馬宿-本山宿-贄川宿-奈良井宿-民宿・津ち川
奈良井駅発8時6分の電車で塩尻へ戻る。
電車は、ワンマンで一番前の車両からしか乗ることはできず整理券を取って一番前の扉から整理券と乗車料金を箱に入れて降りる。路線バスの要領である。
この下大門の交差点は、中山道と松本街道(善光寺西街道)の分岐点であった。
中山道をゆくと、まず右手に「大門神社」が、続いて「耳塚」がある。
説明版の伝説によれば、「耳塚は、耳塚様と呼ばれ昔は澪身の病気の直ることを祈った。桔梗が原の戦いとか安曇族王に関係ありともいわれる。明治29年先祖が野ざらしになっていた塚に祠を建て2本の件を御神体として祀った。耳の形に似た素焼きの皿やおわんに穴を開けて奉納すると耳の聞こえが良くなると評判になり伊那地方からなど多方面から半紙を聞きつけて参拝した。祠は2度立て替えられ現存する祠は昭和53年建立。」
この耳塚は、天文17年(1548)5月武田信玄と小笠原長時の桔梗が原の合戦の時、討ち死にした将兵の耳を葬った所と言われている。(長野県・武田信玄伝説による)
中山道は、やがてJRの高架を越え、「昭和電工」の工場に沿って進んでゆくことになる。
そして、その先に「平出の一里塚」(日本橋から五十九番目の一里塚)が対で残っている。旧道沿い左手にあるのが「南塚」で右手の民家の奥に「北塚」がある。このように見事に対で残っている「一里塚」は珍しい。
(写真 左「南塚」、右「北塚」)
やがて、左手50メートル程入ったところに平出史跡公園があり縄文時代の竪穴式住居から平安時代の集落まで復元されている。
「発掘によって、平出遺跡に人々が生活していた時期は、縄文時代から平安時代までに及ぶことが解った。」とパンフレットに記されている。
平出史跡公園から、北アルプスの山並みがきれいに見える。
北アルプスの山並みを見ながら歩くとやがて旧道は、国道19号に出会いそこからは国道を歩くことになる。そして、平出の信号から再び旧道が復活する。
旧道に入ってしばらく行くと「細川幽斎肘懸松碑」と呼ばれる松が右手に見える。説明版では、「洗馬の肘松日出塩の青木お江戸屏風の絵にござる。」と歌われた赤松のお名木。
細川幽斎が-肘懸けてしばし憩える松影にたもと涼しく通う河風-と詠んだと伝えられている。また、江戸二代将軍秀忠上洛の時、肘を懸けて休んだとの説もある。」とのこと。
そこから、緩い坂道を下りきると三叉路になっている。「洗馬宿」と「善光寺道」の追分である。当時、ここは「信濃の分か去れ」とも呼ばれていた。道標には「右中山道」「左北国往還 善光寺道」と彫られている。「中山道と善光寺道のさわかれ」は左50メートルの所にあったのだが「洗馬の大火」以後、ここへ移されたとのこと。(説明版)
この追分から先が洗馬宿のようだ。
第31宿 洗馬宿・本陣1、脇本陣1、旅籠29
(日本橋より59里33町14間 約235.33キロ・塩尻宿より1里30町 約7.2キロ)
宿場に入って右手に「あふたの清水」の立て看板があり、階段を下ってゆくと清水が湧き出ている。白梅が美しい。
奈良井川の河岸段丘の下から湧き出ている。伝説では、今井兼平が木曽義仲の挙兵に馳せ参じ、この清水で出会ったとき、兼平が馬の脚をこの泉の水で洗ったところ、たちまち元気を取り戻した。ということである。
旧道に戻りしばらく行くと本陣跡、明治天皇御駐輦碑、脇本陣跡があり、その先に「荷物貫目改所跡」の説明版が置かれており、これは江戸幕府が、街道往来の荷物の重量を検査するためにおいた役所で東海道の品川・駿府・草津、中山道の板橋・追分・洗馬に設置されていた。
規定の重量を越えた荷物に増賃金を徴収し、伝馬役に過重な負担がかからないようにしたのだそうだ。
その先の「洗馬公園」に中山道碑、高札場跡の説明版があり隣に松尾芭蕉の歌碑には
- つゆばれのわたくし雨や句もちぎれ -
と彫られている。
洗馬宿を後に緩やかな坂を上っていくと「一里塚」が朽ち果てそうになりながら残っている。
これが「牧野の一里塚」(江戸から六十番目)である。
先を行くと牧野の信号で国道に合流し、国道を歩くことになり、再び右手旧道に入ると「本山宿」である。
第32宿 本山宿・本陣1、脇本陣1、旅籠34
(日本橋より60里27町14間 約238.6キロ・洗馬宿より30町 約3.3キロ)
旧道を行くと宿場の入り口に石塔群が置かれている。
「これらは宿場北端の下木戸にあったもので、秋葉神社は火除けの神様として信仰されていて今でも年に1度の代参が行われている」と説明書きが添えられている。
宿場を進んでいくと左手に本陣跡(明治天皇本山行在所跡)があり、本山宿の説明版も置かれている。
説明版の向い側には、「川口屋」、「池田屋」、「若松屋」と重要文化財の旧家が並んでいる。
先には、脇本陣跡、問屋場跡の碑が中山道碑とともに置かれている。
その先が、高札場跡である。
やがて、本山宿の大きな看板が見えてくる。本山宿のはずれである。
旧道は、一旦国道19号に合流し再び旧道に入る。第二中仙道の踏切を渡り旧国道に合流した地点に「一里塚跡」が残っている。「日出塩の一里塚」(江戸から六十一番目)である。
ここ先は、JR中央線が平行して走っている旧国道を歩く。「道祖神」、「秋葉大権現」、「初期中山道」の説明版などを見ることが出来る。
しばらく行くと旧道は、旧国道と別れるがすぐに国道に合流し今度は国道を歩くことになる。国道と別れ再び旧道に入るところに四阿があり「是より南 木曽路」の碑が置かれている。いよいよ「木曽路」である。
「中山道六十九次」は、「木曽街道六十九次」とも呼ばれる。それは、贄川宿から馬篭宿までの約二十里の間に十一もの宿場があり、山の中の険しい道は中山道を象徴する街道であったからではなかろうか。
さて、ここから左手の旧道に入るがすぐに国道19号に合流してしまう。その先は、これということもなく淡々と国道を歩いていくと右手に「若神子の一里塚跡」がある。
一里塚の少し先、JR贄川駅1.7k これより南木曽路1.8kの道標のところから旧道が復活。先へ行くと二十三夜塔、庚申塔、道祖神が置かれている。旧道は、また国道と合流し中央線」「贄川駅」を過ぎ、線路を横断すると贄川関所跡である。
途中に「贄川宿」の大きな看板があり、線路の横断歩道には「木曽節」の歌詞が貼られている。」
(日本橋より62里27町14間 約246.5キロ・本山宿より2里 約7.85キロ)
贄川の関所は、京方面から来た旅人にとって必ず通らなければ宿場に入れなかった。当時は、福島関所の予備的なものであったが江戸方面からの旅人にとっては「木曽十一宿」最初の宿場であったため、やがて関所の役目を果たすようになったのだそうだ。
島崎藤村の「夜明け前」には、「木曽十一宿」は、「贄川」「奈良井」「藪原」「宮ノ越」の上四宿、「福島」「上松」「須原」の中三宿、「野尻」「三留野」「妻籠」「馬篭」の下四宿に分けられると書かれている。
宿場に入ってすぐに、「秋葉神社」、「島津神社」があるが本陣、脇本陣など、当時の面影を残すものはほとんどない。「まるはち漆器」店、重要文化財「深澤家住宅」がわずかに当時をしのばせる。調べてみると昭和5年の大火で多くの家が消失してしまったようである。
贄川宿を後に旧道を行くと、国道19号に合流するがその手前に「押込の一里塚跡」がある。江戸から六十三番目の一里塚である。
国道を少し行くと奈良井川を渡ることになる。
奈良井川を渡りJRの下をくぐると左手に旧道が復活するがその先で再び国道を歩くことになる。先に進み右手の旧道に入っていくと「木曽平沢」の道標、その先には「吉久屋」の看板がかかった旧家がある。
奈良井川を渡りJRの下をくぐると左手に旧道が復活するがその先で再び国道を歩くことになる。先に進み右手の旧道に入っていくと「木曽平沢」の道標、その先には「吉久屋」の看板がかかった旧家がある。
この平沢は、木曽漆器の町であるがその町並みはとても趣がある。
その先には、二十三夜塔があり、以下のようなことが説明版に記されている。
「神に願かけ叶わぬならば二十三夜さまお立ちまち
と云う民謡があるように下弦(二十二日、二十三日)のおそい月の出を待ってこれを拝む風習があり宿(当番の家)に参集して飲酒談笑して月の出るまで待つのであるが特に「お立ち待ち」といって月の上がるまで腰をおろさず立ちつづけているという願かけをする者がありうっかりして座ってしまったり立っているだけでは苦痛なのでこの晩集まっているものが踊りをおどってまぎらわすということがあったという.....」
さらに、JR平沢駅を左手にみて先へ進むと旧道はJRの線路を横切って国道に合流する。国道をしばらく行くと「左奈良井宿 中仙道 右漆器町平沢?」の碑が置かれており、奈良井駅1.7kの道標がある。
ここを左(旧道)に入り奈良井大橋を渡っていくと「奈良井宿」である。
今日の泊りも「民宿・津ち川」さん(連泊)。奥さんのおもてなしと心づかいがとてもうれしい民宿である。部屋から見る月がきれいだ。
中山道 旅日記 6 浦和-下諏訪宿-塩尻宿-民宿津ち川(奈良井宿)
17日目(3月20日(日))浦和-下諏訪宿-塩尻宿-民宿・津ち川(奈良井宿)
春はその訪れをまだためらっているようであるが、中山道・一人歩きを再開することにする。
青春18切符を利用して武蔵野線、中央線を乗り継いで下諏訪へ。
午前4時39分浦和発、お江戸日本橋ならぬ浦和「七つ立ち」である。
中央線の車窓から甲斐駒ヶ岳が見事な姿を見せていた。
今年は、7年毎、寅と申の年に行われる「御柱祭り」の年で4月8日からの下社の祭りに向けて町中が活気にあふれていた。
諏訪大社は、日本最古の神社の一つに数えられ、信濃国四十八社の第一にあり、「信濃国一之宮」と言われていた。
諏訪大社は、諏訪湖を挟んで上社(本宮、前宮)、下社(春宮、秋宮)の二社、四宮がある。上社の最寄り駅は、上諏訪駅であるため今回は、下社のみの参詣となる。
御祭神は、上社・本宮は建御名方神 (たけみなかたのかみ)、前宮は八坂刀売神 (やさかとめのかみ)、下社:春宮は建御名方神 (たけみなかたのかみ)、秋宮は坂刀売神 (やさかとめのかみ)とされている。
戦国時代、武田信玄は、天文11年(1542年)同盟関係にあった諏訪氏と手切れになるや諏訪地方に侵攻し制圧した。信玄は、諏訪大社を強く崇敬し、戦時には「南無諏訪南宮法性上下大明神」の旗印を先頭に諏訪法性兜をかぶって出陣したと伝えられている。
余談ではあるが、武田信玄は、自らが滅ぼした敵将・諏訪頼重の娘を側室とした(諏訪御寮人)。その側室との子が武田勝頼である。のちに勝頼は、武田家を滅亡へと向かわせることとなる。
冬の始めに諏訪湖が凍るとき、湖を横断する氷の堤ができる。
これを御神渡りといい平安の昔から多くの歌に詠まれてきた。
-諏訪の海の氷の上の通い路は神の渡りて解くるなりけり- 源顕仲
-春をまつすわのわたりもあるものをいつをかきりにすへきつららそ- 西行
春宮の左手奥に「万治の石仏」と呼ばれる石仏がある。
伝説によれば「明暦3年(1657年)、諏訪高島三代藩主忠晴が、諏訪大社下社春宮に遺石の大鳥居を奉納しようとした時、命を受けた石工がこの地にあった大きな石を用いようとノミを打ち入れた時、その石から血が流れ出た。驚き恐れた石工は大鳥居の造作を止め、あらためてこの不思議な石に阿弥陀様を刻み、霊を納めながら建立された」とのことである。
石仏の「万治」は、この石仏を建立した願主が、万治3年(西暦1660年)と刻まれているところによるものだそうである。
万治の石仏の参拝の仕方は、
- 正面で一礼し、合掌し「よろず治まりますように」と心で念じる。
- 願い事を心で唱えながら石仏の周りを時計回りに三回周る。
- 正面に戻り「よろず治めました」と唱えて一礼する。
この通りにやってみたが、いかが相成ることやら。
春宮を出て中山道に戻り、しばらく行くと「左諏訪宮」「右中山道」の道標を見ることができる。
さらに行くと左手に「慈雲寺」という寺が見えてくる。この寺の入り口に「滝の口」と呼ばれる湧き水が流れ落ちている。狭い急な石段の参道を登ってゆくと右手に「矢余石」なるものがある。説明版によれば
「武田信玄は、慈雲寺中興の祖と言われる天桂和尚を師とも仰いでおり、戦場へ赴く時に慈雲寺へ立ち寄り戦勝の教えを請いました。
和尚は境内の大きな石の上に立って「私を弓で射てみよ」と至近の距離から矢を射かけさせたところ矢はすべて岩ではねかえされて和尚には一本の矢もあたりません。
不思議に思った信玄が尋ねてみると「この石には矢除けの霊力がある」とのことでした。
信玄は、この念力がこもった矢除札を受け勇躍戦場に向かったとの言い伝えのある石です。」
とのことである。
長い急な階段を登り切ったところが「慈雲寺」である。境内が広くえらく立派な寺で屋根にも本堂前の石灯篭にも武田菱が刻まれており武田家に縁のある寺であることが解る。
「慈雲寺」からしばらく行くと右手の民家の前に「一里塚跡」の碑が置かれている。
これは、下諏訪の一里塚と呼ばれていた江戸から五十五番目の一里塚である。
(このくだりは、前回も記した。)
このあたりから少し先に行ったところが下諏訪宿の入り口である。
(日本橋より55里6町14間 約216.67キロ・和田宿より5里18町 約21.6キロ)
下諏訪宿は、江戸方面には和田峠、京方面には塩尻峠と難所が控えているため当時の旅人には、人気の宿場であったに違いない。
街道をゆくと左手に諏訪大社の末社「御作田神社」があり、さらに行くと右手に中山道・茶屋「松屋」(今井邦子文学館)がある。
ここから急な坂を上ってゆくと国道に出会うが国道の左である「来迎寺」の境内に「和泉式部伝説」が残っている。
銕焼(かなやき)地蔵と和泉式部伝説
「和泉式部守り本尊 銕焼地蔵とかね」の説明版によると
「今から千年あまり語りつがれてきた伝説です。下諏訪の湯屋別当に「かね」という幼い娘が奉公していました。畑に行くときは、いつも道端のお地蔵様に自分の弁当の一部をお供えする心のやさしい娘でした。
あるとき「かね」」を嫉んでいた仲間が、告げ口をしたことから別当の妻は怒り、焼け火箸で「かね」の額をうちすえました。痛さに耐えかねた「かね」は、日頃信心のお地蔵様のもとに走り、ひざまづいて泣きながら祈り仰ぐと、お地蔵様の額から血が流れ出ており、自分の痛みは消え傷はなくなり美しい顔にかわっていました。
この話は瞬く間に拡がって、誰言うことなく「かなやきさまは霊験あらたかなお地蔵様」と遠近に聞こえ、お参りする人で賑わいました。たまたま都からこの地を訪れた大江雅致がこの話を聞き、「かね」を是非にと都に伴い養女にしました。
雅致夫妻のもとで書道・歌道などを学んだ「かね」」は宮中に仕えるようになりましたが、歌人として群をぬき、やがて和泉守橘道貞と結婚、和泉式部と呼ばれるようになりました。
あらざらむ この世のほかの おもひでに いまひとたびの あふこともがな
和泉式部は出自も定かでなく、出生地といわれるところも各地にあるようですね。また晩年もはっきりしていないようですね。中山道美濃路を歩いていて、細久手宿から御嵩宿の間の御嵩宿よりに「和泉式部の墓(供養塔)」がありましたし、和泉式部の晩年にまつわる話も残っていました。」ということである。
先へ行くと本陣・岩波家が残っている。入場料を払えば中に入ることが出来、当時の大名の宿泊の様子がうかがえる。関札も本陣の中に残っている。受付をしていたのが「私が27代目の岩波家の嫁です」というおばあさんであった。
本陣のすぐ先が「綿の湯」である。
下諏訪宿は、温泉場として広く知られており江戸側から「和田峠」京側から「塩尻峠」と難所を超えてきた旅人がくつろげる宿場であったようだ。
当時の下諏訪宿には、三か所の湯があったそうだが旅人に解放されていたのは「綿の湯」だけで、それ以外は地元の人しか入れなかったそうである。
伝説の湯
上社前宮、下社秋宮の祭神、八坂刀売神(やさかとめのかみ)が、下社に渡られるおりに、上社から湯を含ませた化粧用の真綿を桶に入れて湖水を渡られた。ところが途中でお湯が湖水にこぼれてしまい、そのため湖中から湯が湧くようになり、それが上諏訪温泉のはじまりだという。
また、下社につくころには、真綿に含ませた湯がほとんどなくなってしまったので、神社のそばに真綿を捨てると、そこから湯が湧き出したという。これが綿の湯の名の由来とされている。
神の湯の信仰
また、不浄な者が入ると湯口が濁るともいわれた。
現在諏訪大社上社の神宝となっている、武田晴信(信玄)定書十一軸というものがある。これは一般には信玄十一軸とよばれ、長い戦乱の中で途絶えていた諏訪大社の祭祀や社殿の復興を指示する書である。この中で、綿の湯にまつわる神事を、以前と同じように復興させよとの指示を出している。
享保3年(1718)4月に、下諏訪宿に大火があり、綿の湯も子湯も焼けてしまったが、その年の月に復興された。
当時は上湯、下湯に分かれていたそうである。上湯は特別に何か資格か身分のある人の湯で、こちらは女湯、男湯の区別があった。下湯は一般庶民の湯で、混浴で誰でも入ることができたという。
伝説の多い土地ではある。
この「綿の湯」の場所は、中山道と甲州街道の追分でもあり、「下諏訪宿 甲州道中 中山道合流之地」の碑があり、その脇に「旧甲州道 (右矢印)江戸五十三里十一丁」「旧中山道 (下矢印)京都七十七里三丁 (左矢印)江戸五十五里七丁」の碑がある。
ここから、甲州街道方面へ行くとすぐのところが「諏訪大社・秋宮」である。
「綿の湯」の向いが「脇本陣・まるや」である。
脇本陣の前の道が旧道ですぐその先に「民俗資料館」があり、「右甲州道 左中山道」の道標が置かれている。
さらに歩を進めると「高札場跡」が見えてくる。
旧道は、この先右に曲がって下諏訪駅前を過ぎることになるが、今朝、駅についてから下諏訪宿をぐるりと回ってきたことになる。
下諏訪駅前あたりが宿場の出口と思われる。旧道は、その先を左に入っていくことになる。
旧道に入るとすぐに「魁塚」が見える。これは、赤報隊の人たちの塚で赤報隊とは、明治維新の魁をした人たちだそうである。
旧道を先へ進むと「中山道案内版」が見える。
やがて「永池・東堀」の交差点に出るがここを渡った処に「中山道・いなみち」と彫られた道標がある。この交差点を左折すると「伊奈街道」でる。
旧道を先へ進むとしよう。
道端には、道祖神がありその先にも道祖神、天満宮、石塔群が置かれている。
やがて、「今井番所跡」がありその先が「茶屋本陣・今井家」である。
この辺りは、「今井立場」で当時は塩尻峠を前にして大いに賑わったであろうことは想像に難くない。
さらに旧道をゆくと、「左 しほじり峠 中山道 右 しもすは」の道標が置かれている。
やがて、道路の右手に細い階段がありそこを上がると「石船馬頭観音」がある。
ここには、多くのわらじが供えられており、当時は足腰にご利益がある神社として多くの旅人がお参りしたのだそうだ。塩尻峠を前に足腰の無事を祈ったのであろう。
「石船馬頭観音」のところを右手に行くといよいよ塩尻峠の急な坂が待っている。
急坂を上っていくと左手に「大岩」呼ばれる岩がある。この岩は、昔から有名であったのだそうだ。
この峠道は、いたるところに倒木が横たわっている。
途中で道連れになった年配の女性の話だと、今年は気候が不順で雨が降って枝が凍りその上に雪が積もってその重さで木が倒れたのだという。にわかに想像出来ないが、それが事実なのだろう。
この女性は、峠頂上の「アブラチャン」や「こぶし」の花の状態を見に行くのだという。
塩尻峠への坂は、急ではあるが距離としてはそれほど長くない。
曲がりくねった坂を上り切ると塩尻峠頂上である。
塩尻峠
「江戸初期の中山道は、下諏訪から三沢を経て小野峠小野盆地に入り牛首峠を越え桜沢に抜ける小野街道を利用していたが、15年ほどで塩尻峠越えの道に変更された。塩尻峠には、一里余り人家がなく、参勤交代も難渋したので、諏訪側の今井村と塩尻側の柿沢村とに御小休所(茶屋本陣)が置かれた。峠から諏訪方面は、中山道有数の絶景で、渓斎英泉は「木曽街道六十九次」にここからの眺めを描いている。」(塩尻市HPより)」
峠の奥には「展望台」があるのだが登り口には鍵がかかっており上ることはできなかった。
展望台からは諏訪湖が一望できさぞかし素晴らしい眺めであろう。(残念!)
また大きな岩に「大帝の龍駕の峠さくらそう?」と読むのだろうか、句が刻まれている。
ところで、道連れになった女性が気にしていた「アブラチャン」や「こぶし」は、枝が折れてひどい状態になっていた。(とてもがっかりされていた。)
さて、ここからは、塩尻宿への下りである。少し下るとすぐ「明治天皇塩尻嶺御膳水」の案内板があり、右側に井戸と左側に茶屋本陣がある。
そのすぐ先右側に享和元年(1801)建立の親子地蔵があり、そばに「伝説 夜通道」の木柱があった。いつの頃か片丘辺のある美しい娘が岡谷の男と親しい仲になり男に会うため毎夜この道を通ったのだそうだ。
やがて、下り坂は平坦な道に代わり「一里塚」が見えてくる。東山一里塚(五十七番目)である。
やがて、旧道は一旦国道20号に合流するがすぐ右に再び旧道への入り口がある。
旧道に入り緩やかな坂を下り高速道路を横切ると柿沢と呼ばれる集落である。
ここに「首塚」なるものがあり、これは天文17年(1548)武田信玄と小笠原長時が戦った「塩尻の合戦」の死者を葬った塚だそうである。
旧道には、「本棟民家」も見受けられる。
やがて、本柿沢の交差点を越えるとすぐに「永福寺」がある。
永福寺
永福寺の創建は元禄15年(1702)、木曽義仲縁の地である現在地に木曽義仲信仰の馬頭観世音を本尊として朝日観音を建立したのが始まりと伝えられている。その後、朝日観音は焼失し一時衰退しましたが安政2年(1855)に現在の観音堂が再建された。
やがて、本柿沢の交差点を越えるとすぐに「永福寺」がある。
永福寺
永福寺の創建は元禄15年(1702)、木曽義仲縁の地である現在地に木曽義仲信仰の馬頭観世音を本尊として朝日観音を建立したのが始まりと伝えられている。その後、朝日観音は焼失し一時衰退しましたが安政2年(1855)に現在の観音堂が再建された。
旧道はやがて国道153号線に出会い、しばらく国道を歩くことになる。
永福寺の先に「是より西 塩尻宿」の案内版があり裏面に案内図が示されている。
このあたりが塩尻宿の入り口なのだろう。
(日本橋より58里3町14間 約228.13キロ・下諏訪宿より2里33町 約11.5キロ)
宿場に入ってすぐのところに「一里塚跡」(五十八番目)がある。これが柿沢一里塚である。
やがて、左手に重要文化財に指定されている「小野家」、屋号は「いてふや」なのだろう、看板が掲げられている。
右手には、「上問屋跡」、「明治天皇行在所」、「本陣跡」、「脇本陣跡」、「陣屋跡」と続いていく。当時は、このあたりが塩尻宿では一番にぎわったところであろう。
その先右手に「駕籠立場跡」「塩尻村役場跡」の碑が並んでいる。
ここから、旧道は国道と別れ右へ入っていく。
旧道に入ると、「阿礼神社」が右手に見える。
その先に双胎道祖神、重要文化財「堀内家」があるが堀内家は残念ながら改築中であった。
やがて。旧道は大小屋(おごや)の交差点で再び国道153号線に合流するが合流地点に道祖神、石塔群が置かれている。
今日は、ここまでとし、宿泊地・奈良井宿へ行くため塩尻駅へ急いだが、わずかな違いで午後5時5分の電車に乗り遅れた。次の電車は、なんと6時50分だという。
民宿に電話してその旨を連絡したら、塩尻駅前から奈良井駅へ5時40分発の地域振興バスがあると教えていただいたのでそれに乗り、無事、奈良井宿の民宿「津ち川」さんにつくことが出来た。
中山道旅日記 5 横川駅-下諏訪宿
11日目(2015年12月9日(水))横川駅―坂本宿-碓氷峠-軽井沢宿
浦和駅発5時32分の高崎行始発に乗り高崎経由で横川へ。
横川駅に着いたのが7時31分、ここからが5泊6日の行程である。
さて、駅前にある「峠の釜めし」で有名な「おぎのや」を左に見て歩くとすぐに中山道である。中山道に戻ると「松井田宿2.0キロ」「坂本宿6.3キロ」の道標があり、道端に庚申塔、二十三夜塔が集められており、古民家も見受けられる。
しばらく行くと、横川茶屋本陣跡がある。
茶屋本陣は、江戸時代、参勤交代の大名が休憩をとった場所である。
その先に碓氷関所跡を右手に見ることができる。
この関所は、東海道の「箱根の関所」同様に「入り鉄砲と出女」(江戸へ入る鉄砲と江戸から出る女性)を厳しく取りしまった。だから江戸へ入る旅人は男女とも手形が必要であったが江戸から出る場合は、女性だけが「手形」を必要としたそうである。
関所跡の傍らに「おじぎ石」があり、江戸時代「通行人は、この石に手をついて手形を差し出し通行の許可を受けた」と説明版に記されている。
碓氷関所跡を過ぎ、しばらく行くと旧道は国道18号に出会うがしばらく国道沿いに歩くと「薬師坂」と呼ばれる坂道が旧道である。
薬師坂を上り始めると、すぐ左手に「薬師堂」があり、その先をゆくと野生の猿が走り回っていた。カメラを向けると5-6匹が威嚇してきた。ちょっとした恐怖であったが、珍しい体験ではあった。
「薬師坂」を上りきると再び国道に合流するが坂本宿まで国道を歩くことになる。
第17宿 坂本宿・本陣2、脇本陣2、旅籠40
(日本橋より34里14町47間 約135.2キロ・松井田宿より2里15町7間 約9.5キロ)
国道を進むと「坂本宿0.5キロ 松井田宿7.8キロ」の道標を見ることができる。
さて、坂本宿である。この宿場町は、広い国道を挟んで江戸時代の面影を強く残している。
京方面には難所「碓氷峠」江戸方面には厳しい取り調べが待っている「碓氷関所」があり当時は随分栄えたことは想像に難くない。ここに一夜の安らぎを求めたのであろう。
国道をゆくと下木戸跡がある。(江戸側にあるのが下木戸)、京側にあるのが(上木戸)
ここからが坂本宿である。
下は、下木戸跡の碑と坂本宿の風景
宿場の中央付近に、宿場図を見ることができる。
これは、和宮下向時のものだ。
坂本宿には、本陣が2軒あり、「下の本陣 金井家」には「皇女・和宮」が宿泊したそうであるが今は普通の家になっており当時の様子をうかがい知ることはできない。
「上の本陣 佐藤家」は、今も残っている。
脇本陣も二軒あり「佐藤家本陣」の斜め向かいに「永井家脇本陣」で今も残っている。その隣のもう一軒は、現在公民館になっている。
二軒並ぶ脇本陣の先が昔のおもかげを残す「かぎや」である。
小林一茶の定宿「たかさごや」
「信州国柏原が生んだ俳人小林一茶(一七六三-一八二七)は、郷土と江戸を往来するとき中山道を利用すると、「たかさごや」を定宿としていた。寛政・文政年間、坂本宿では俳諧・短歌が降盛し旅籠、商人の旦那衆はもとより、馬子、飯盛女にいたるまで指を折って俳句に熱中したという。
そこで、ひとたび一茶が「たかさごや」に草鞋を脱いだと聞くや近郷近在の同好者までかけつけ自作に批評をあおいだり、俳諧談義に華咲かせ、近くから聞こえる音曲の音とともに夜の更けることも忘れたにぎわいを彷彿させる。碓氷峠の刎石(はねいし)の頂に「覗き」と呼ばれるところがあって坂本宿を一望できる。一茶はここで次ぎの句を残している。
-坂本や 袂の下は ゆうひばり-(説明版)
石碑「上州中山道筋坂本宿 丸仁屋跡」「東 江戸へ三十四里」「西 京へ百二里」
国道を進むと宿場のはずれに「中山道 坂本宿」の碑がある。ここが「上木戸」京方面からの坂本宿入口である。
ここに、「橋供養」と「常夜」の碑が並んで置かれている。
「橋供養」は、昔、用水に架かっていたもので当時の人々がいかに生活用水を大事にしたかという証拠だという。もう一つの「常夜」の碑は、昔ここに「常夜灯」があったことを示すものではなかろうか。
ここで坂本宿とはお別れである。
先に行くと右手に「八幡宮」があるがその入り口に「芭蕉句碑」が置かれている。
-ひとつ脱いで うしろにおいぬ 衣かえ-
「旅のこととて、衣替えの日を迎えても夏の衣は持っていない。重ね着を一枚脱いで背中に担ぎ衣替えとしよう」という意味だそうだ。
「八幡宮」には、「御嶽山座王大権現」の碑や双体道祖神が置かれている。
先へ進もう。いよいよ難所といわれる碓氷峠越えである。
国道を進み、「起点・林道・赤松温泉」の標識の所を左に入れば細い道があり、どうやらこれが旧道らしい。
草深い細い道をゆくと再び国道に出る。国道を横切ると大きなバス停「中山道口」で碓氷峠の入り口である。
中山道を上ってゆくとなだらかになった場所に出る。そこに「常峰番所」という説明版がある。江戸時代、碓氷関所の出先機関である番所を設け、関所破りを取りしまったのだそうだ。
定附同心の住宅が中山道を挟んで二軒あったそうである。
その先には、柱状節理の石がある。これは、火山岩が冷えて固まるときに亀裂が入り四角形や六角形の柱状になったものだそうだ。
その先には「南無阿弥陀仏」や「大日尊」、「馬頭観音」などの石碑があり、「刎石坂(はねいしざか)」の説明版によると、坂本宿・上木戸にあった芭蕉句碑は、昔はここにあったとのことである。
険しくなった坂をしばらく上ると、「上り地蔵、下り地蔵」の説明版があり、
十返舎一九の「旅人の身をこにはたくなんじょみち、石のうすいのとおげなりとて」という句が記されている。また、この地蔵は、険阻の道を上り切ったところにあって旅人を見つめるとともに幼児のすこやかな成長を見守っていたのだろう。
その先へ行くと「坂本宿」が眼下に見下ろせる「覗き」という場所に出る。
その先に、「馬頭観音」、「四軒茶屋跡」(刎石山の頂上に四軒の茶屋があり、力持ち、わらびもちなどが名物であった。)、「碓氷坂の関所跡」の説明版があり四阿「峠の小屋」にたどり着く。ここで一休み。
「峠の小屋」を出ると杉並木が続く。誰に会うこともなくただただ静かで落ち葉を踏む音と鳥の声が心地よい。
しばらく行くと、「堀り切り」の説明版がある。
「天正十八年、豊臣秀吉の小田原攻めで北陸、信越群を、松井田城主・大道寺駿河守が防戦しようとした場所で、道は狭く両側が掘り切られている。
その先は、また上り坂になり途中に一里塚が残っている。
この後、所々に説明版があるのでそれに沿って進んでゆく。
「座頭ころがし」
急な坂道となり岩や小石がごろごろしている。それから赤土となり、湿っているのですべりやすい。
「入道くぼ」
山中茶屋の入り口に「線刻馬頭観音」がある。これからまごめ坂といって赤土のだらだら下りの道となる。鳥が鳴き林の美しさが感じられる。
「山中茶屋」
山中茶屋は、(当時十三軒並んでいた茶屋の)まんなかにあった茶屋で慶安年中(一六四八~)に峠町が用水をくみ上げるところに茶屋を開いた。寛文二年(一六六二)には、十三軒の立場茶屋ができ、寺もあって上段の間が二か所あった。明治の頃には、小学校もできたが、現在は、屋敷跡、石塔、畑跡が残っている。
「山中坂」
山中茶屋から子持山の山麓を陣場が原に向かって上がる急坂が山中坂でこの坂は、「飯喰い坂」とも呼ばれ、坂本宿から登ってきた旅人は、空腹ではとても駄目なので手前の山中茶屋で飯を喰って登った。山中茶屋の繁盛は、この坂にあった。
「一つ家跡」
ここには、老婆がいて旅人を苦しめたという。
「陣場が原」
太平記に、新田方と足利方のうすい峠の合戦が記され、戦国時代、武田方と上杉方のうすい峠合戦記がある。笹沢から子持山の間は、萱野原でここが古戦場と言われている。
「子持山」
万葉集巻第十四東歌中
読人不知
-子持山、若かえるでのもみづまで寝もと吾は思う汝はあどか思う-
(子持山(こもちやま)の若い楓(かえで)の葉が紅葉するまで、寝ようと私は思います。
あなたはどう思いますか)
この先、道は二手に分かれるが中山道は左の道である。
左に道をとり、歩を進めてゆくと「化粧水跡」の説明版に出会う。
「峠町へ上る旅人がこの水で姿、形を直した水場だそうである。
化粧水跡を過ぎると「人馬施行所跡」がある。
「笹沢のほとりに文政十一年、江戸呉服町の与兵衛が安中藩から間口十七間、奥行き二十間を借りて人馬が休む場所を作った。」
これは、「接待茶屋」といわれ、旅人が無料で休憩できる施設であるが、この「人馬施行所」は、人ばかりではなく牛や馬にも施しがなされたそうである。
ここから、沢に下り小さな川を渡ることになるが道がなかなかわかりにくい。
川を渡り、なだらかな上り坂を進んでゆく。午後1時前だが道には霜柱が残っていた。ここは碓氷峠最後の上り坂で峠の頂上も間近である。
坂道を歩いてゆくとやがて「長坂道」と書かれた道標に出会う。
そこを右折しさらに行くと「仁王門跡」「思婦石」「徒歩約130分、8km」の」道標がある。
「仁王門跡」
もとは、神宮寺の入り口にあり、元禄年間に再建されたが明治維新に廃棄された。
仁王様は、熊野神社の神楽殿に保存されている。
「思婦石」
群馬群室田の国学者関橋守(せきのはしもり)の作で安政四年(1857)の建立である。
「ありし代にかえりみしてふ碓氷山今も恋しき吾妻路(あずまじ)のそら」
日本武尊の「妻・弟橘比売(おとたちばなひめ)」を偲んだ歌、とのこと。
東国平定に赴いた日本武尊が、三浦半島沖から房総半島に渡るとき、海神の怒りを鎮めるべく弟橘比売が大荒れの海に身を投じる。やがて海は静まり房総(千葉県・木更津)に渡ることができるが海岸で弟橘比売の櫛を見つけ、日本武尊はそこを去りがたい思いでいっぱいになった。木更津の地名は、その時「君去らず」から来ているそうである。やがて、東国を平定した日本武尊が帰路、妻の弟橘比売を偲び、この碓日嶺から「吾嬬(あがつま)はや(わが妻や)」と三度嘆いた故事を踏まえての歌であるとのこと。
しばらく行くと、碓氷峠名物の力餅を売る茶店が並んでいるが、12月のこととて、どの店も閉まっていた。ともあれ碓氷峠頂上(標高1,182メートル)に到着である。
頂上には、熊野皇大神社(くまのこうたいじんじゃ)がある。社殿は長野県と群馬県の両県にまたがっており、参道と本宮の中央が県境にあたる。主な社宮は3つであり、本宮は伊邪那美命、長野県側の那智宮は事解男命を祀る。群馬県側の新宮は,速玉男命を祀る。
社伝によれば、日本武尊が東征で碓氷峠に差しかかった際、濃霧で道に迷った。この時、一羽の八咫烏(やたがらす)が梛の葉を咥えて道案内をし、無事に頂上へたどり着いた。
そのことを感謝した日本武尊が、熊野の神を勧請したのが熊野皇大神社の由来である。
鳥居をくぐり、石段を上がったところに「石の風車」なるものがあり以下のような説明版が立っている。
「石の風車一対」
軽井沢問屋佐藤市右衛門および代官佐藤平八郎の両人が二世安楽祈願のため、当社正面石だたみを明暦三年(一六五七)築造した。その記念に、その子市右衛門が佐藤家の紋章源氏車を刻んで奉納したものである。秋から冬にかけて吹く風の強いところから中山道往来の旅人が石の風車として親しみ「碓氷峠のあの風車、たれを待つやらくるくると」と追分節にうたわれて有名になった。
鳥居手前には、県境を示すプレイトがあり、街道際には、「上信国境碑」が立てられている。
いよいよ、上州路から信濃路へと入ってゆくことになる。
「上信国境碑」の先を左手へ行くと見晴台があり、ここにも「国境」の道標が立っていた。
碓氷峠は、上野の国の「歌枕」の一つであり、この見晴台に「万葉集歌碑」がある。
万葉集巻十四 東歌三四〇二
-日の暮れにうすひの山をこゆる日はせなのが袖もさやにふらしつ-
(日暮れに碓氷峠を超える日は、夫がはっきりと袖を振ってくれた)
万葉集巻二十 防人歌四四〇七
-ひなくもりうすひの坂をこえしだにいもが恋しくわすらえぬかも-
(私の恋は今も切ない。多胡の入野の奥ならぬ、行く末も切ない。)
の二首が刻まれている。
他に、
-白妙に降りしく雪の碓氷山夕越えくればしかも道あり-
宝治百首・定嗣
-山の名は碓氷といえどいくちしほ染めて色濃き峰の紅葉葉-
千曲の真砂
-妻とふたり 碓氷の坂を とほりたり 落葉松の葉の 落ちそめしころ-
などがある。
歌枕(うたまくら)とは、多くの歌人、俳人が和歌や俳句の題材とした日本の名所旧跡のことである。
「見晴台」というだけあってここからの景色は素晴らしい。
碓氷峠から軽井沢宿への下りは、ハイキングコースを下っていくことになる。
途中、沢を横切り、つり橋を渡っていく。12月ということもあるのだろう、とにかく人に遇わない。坂本宿を出てから出会ったのは外国人の三人組と熊野神社参詣に訪れている数人だけ、もちろんこのハイキングコースにも人はいない。
さて、ハイキングコースを下り、別荘地を抜けると「芭蕉の句碑」がある。
説明版があり以下のような内容が書かれている。
「-馬をさへながむる雪のあした哉-
松尾芭蕉(一六四四~一六九四)「野ざらし紀行」(甲子吟行)の中の一句
前書きに「旅人を見る」とある。雪のふりしきる朝方、往来を眺めていると多くの旅人がさまざまな風をして通って行く。人ばかりではない、駄馬などまでふだんとちがっておもしろい恰好で通っていくよの意。」
「つるや」という老舗旅館あたりからが軽井沢宿であろう。
ここは、以前にも来たことがあるが都会をそのまま持ってきたようなもので横文字の店が軒を連ねている。「Café & Wine 脇本陣 江戸屋」の看板の店があったがここが脇本陣跡であろうか。
今日の宿泊は、軽井沢駅前の「アパホテル」駅前のイルミネーションがきれいであった。
12日目(12月10日(木))軽井沢宿-沓掛宿-追分宿-小田井宿―岩村田宿
佐久一萬田温泉ホテル(宿泊)
(日本橋より37里13町14間 約146.8キロ・坂本宿より2里34町27間 約11.6キロ)
当時の宿場は、今は商店街になっており、洒落た店が並んでいる。
宿場だった商店街を抜けると雑木林が続く道を歩いて行くことになる。
しばらく行くと「雲場池」があるので立ち寄ってみたが、早朝のこととて人っ子一人いない静かなのどかな風景であった。池には、カモが泳いでいる。
雲場池」を後にしばらく行くと「離山」が右手に見えてくる。「離山登山道入口」と書かれた標識が出ている。シーズンには多くの登山者がこの山に登るのだろう。
先へ行くと「ロッキングハウス」というホテルが右手に見えるがその先に「庚申塔」などが集められている。
さらに進むと、国道18号に出会う。国道は、長野新幹線としなの鉄道が並んでいる線路と平行に走っている。18号の信号を右折するわけだが角のコンビニでコーヒーを一杯。朝のコーヒーは、格別だ。
さて、国道18号を進み、中軽井沢の信号を左折、しなの鉄道の踏切を渡って旧道に入る。しばらく行くと「浅間山」がきれいに見える。
-信濃なる 浅間の嶽に立つ煙 をちこち人の 見やはとがめん―
伊勢物語・在原業平
-雲はれぬ浅間の山のあさましや人の心を見てこそ止まめ―
古今和歌集・巻第十九
-信濃なる浅間の山も燃ゆなれば富士の煙のかひやなからん-
後選和歌集
-いつとなく 思いに燃ゆる我が身かな 浅間の煙しめる世もなく-
西行
しばらく歩き、川を渡ってしなの鉄道中軽井沢の駅の裏付近に「一里塚」がある。
「宮之前一里塚」と彫られている。
旧道は、再び国道に合流する。その地点に「中山道沓掛宿」の道標があり左側面に「追分宿」右側面に「軽井沢宿」と彫られている。
その右手奥にあるのが「長倉神社」である。
長倉神社の奥に「沓掛時次郎」の碑があり、「千両万両抂(ま)げない意地も人情搦めば弱くなる浅間三筋のけむりの下で男沓掛時次郎」と刻まれている。長谷川伸の戯曲の中の人物であるがたびたび映画化、ドラマ化されているので耳に覚えはある。とはいえ、架空の人物がこのように扱われているのは珍しいことではある。(デジカメの操作ミスで写真が残っていない。)
ここからも浅間山がきれいに見える。
(日本橋より38里18町14間 約151.3キロ・軽井沢宿より1里5町 約4.5キロ)
沓掛宿は、旅籠の数も少なく、小規模の宿場町であったようだ。
さて、先に進むと「かぎもとや」という老舗のそば屋があり有名な店だという。午前9時だというのに店が開いていたので入ってみたが、そばは今、打っているところで食べられなかった。(残念)朝食がわりに「山菜うどん」を食べることにした。店には、石原裕次郎夫妻や著名な作家の写真が飾られていて確かにこの土地では人気のある店のようだ。
先に進み、駅前交差点を越えると土屋さんという民家があるがここが当時の本陣であったようで「本陣 土屋」いう表札が出ている。
(先ほども書いたが、デジカメの操作ミスでこの後、追分手前の馬頭観音の石碑までの写真を喪失してしまった。)
本陣を出るとすぐ右手に「右くさつ」と彫られた草津道道標がある。江戸時代の「湯治場・草津温泉」への分岐点であったようだ。
沓掛宿を後にすると旧道は国道と別れ左へ伸びている。
旧道には多くの馬頭観音碑が置かれている。信州は、馬の産地でもあり、険しい峠道の登り、下りには馬は大切な乗り物であり運搬手段だったのだろう。そのようなことから馬を供養した馬頭観音が多く祀られているのであろう。
旧道に入ってしばらく行くと「女街道入口」と書かれた説明版がある。
江戸時代の女性が、取り締まりの厳しい「横川の関所」を嫌って抜け道として利用したことから「女街道」呼ばれたそうで、ここから上州の「下仁田」に抜けたのだそうだ。
そこからしばらく行くと立派な馬頭観音があり、手前の常夜灯には馬の絵が描かれている。
(ここから写真復活)
そのすぐ先で旧道は国道に合流する。
国道との合流地点に「従是左上州」と彫られた道標が残っている。
国道を進み。追分の信号を越えると右手に「追分一里塚」が見えてくる。
これは、日本橋から数えて40番目の一里塚だそうだ。約160キロ弱、歩いたことになる。
この先、旧道は右手に入っていくことになるが旧道に入ってしばらく歩くと「郷土館」があり、ここにも馬頭観音が祀られている。郷土館には、中山道の資料がたくさん展示されており、中でも「分去れ」付近の写真は興味深い。
その隣に「浅間神社」があるがここには、芭蕉の句碑が置かれている。
-ふき飛ばす石も浅間の野分哉―
(浅間山から二百十日、二百二十日に吹く強い風は石も吹き飛ばすほど激しいものだ)
資料館をでて昇進川を渡れば追分宿である。
(日本橋より39里21町14間 約155.6キロ・ 沓掛宿より1里3町 約4.3キロ)
川を渡ってすぐ左に「追分茶屋 生成」がある。
その先には、右手に「本陣跡」がありその隣には「高札場」が復元されている。
高札場跡から右手に入る道があるがこれは、「浅間山登山」の一つで「浅間道第一詣石」と彫られた道標がたてられている。
先へ進むと左手に「諏訪神社」その先に「泉洞寺」がある。
「中山道追分宿」左側面「沓掛宿」右側面「小田井宿」の道標もある。
旧道は、この先国道に合流するがその地点に「つるがや」の建物がある。
「追分節」に「追分の枡型の茶屋でほろりと泣いたが忘らりょか」と唄われた有名な茶屋だそうだ。
この先、国道を進むと「分去れ」の道標がある。ここには、当時を偲ぶ「常夜灯」、「道標」や多くの石碑が置かれている。
ここを右に行けば「北国街道」である。
「森羅停万象の歌碑」が有名だそうだ。森羅停万象は、「平賀源内」のことだという。
碑には「世の中はありのままにぞ霜(あられ)降る かしましとだに心とめねば」と彫られている。また「左中山道」「東二世安楽追分町」「是従北国街道」の道標がある。また、子供を抱いたお地蔵様が祀られている。
このあたりで「追分宿」ともお別れである。
しばらく歩くと国道とわかれて左の旧道を行くことになる。
たんたんと歩くと薬師堂跡があり、「小田井宿3.4キロ 塩名田13.5キロ」の道標がある。
ここから下り坂をゆくとその先に大山神社がある。
大山神社の先は、御代田の一里塚である。
ここは、日本橋から41番目の一里塚で「枝垂れ桜」が植えられていて春には見事な花を咲かせるそうだ。もう一方の一里塚の木は、朽ち果てたのだろうか残っていない。
一里塚を過ぎると中山道は鉄道に突き当たり、鉄道の下の歩道橋をくぐり再び中山道に出る。小刻みに立っている道標を見ながら進むとやがて小田井宿の標識が立っている。
ここが宿場町の入り口である。
(日本橋より40里31町14間 約160.6キロ・ 追分宿より1里10町 約5キロ)
ここは、旅籠が五軒しかなく誠に小さな宿場だったようだ。
宿場町に入り本陣跡、中山道小田井宿跡(説明版)、問屋跡(安川家)、脇本陣跡、問屋跡(尾台家)が左右に並んでいる。小さな宿場町なのでさして見るところもない。
小田井宿を出て先へ進むと「追分6.6k、名塩田8.7k」の道標の所から旧道は、国道に合流する。車通りの多い無味乾燥とした国道を進み、上信越自動車道をくぐりその先の信号を越えたところに住吉神社がある。このあたりが宿場の入口であろうか。
(日本橋より42里2町14間 約165.3キロ・ 小田井宿より1里7町 約4.7キロ)
ここは、本陣、脇本陣はなく、旅籠がわずか8軒というごく小さな宿場であった。
理由は、宿場町というよりも城下町の色彩が濃く、高崎宿と同様参勤交代の大名が宿泊を避けたからだそうだ。
さて、住吉神社の先は、今は商店街になっており、しばらく行くと「従是 善光寺道」裏に 「享保二十乙 小諸二里」とほられた道標がある。二キロ先の小諸で善光寺道(北国街道)に合流するという意味だろう。
戦国時代の雄・武田信玄は、上洛途中で病死し、その後3年間影武者をたてて敵を欺いたということである。遺骨は信玄が生前親しかったここ龍雲寺に埋葬されたと言い伝えられているようであるが真意のほどは解らない。
信玄の墓は、山梨県・甲府の武田神社近くにあると聞いていたが、調べてみたらいろんな説がありどれが本当か定かではないようだ。
本日の宿泊は、「佐久一萬田温泉ホテル」、まだ大分ありそうなのでここから先は、明日のことにする。
今日の宿泊で、露天風呂をはじめ温泉にゆっくりつかれるのはありがたい。
13日目(12月11日(金))岩村田宿-名塩田宿-八幡宿一一萬田温泉ホテル(連泊)
天気予報では、今日は雨ということであるが今は薄日が差している。この天気が1日もてばいいが。
中山道に戻ろう。相生町の交差点まで戻ると「中山道岩村田宿」の道標がある。小田井宿からくるとそこを右折だが、まっすぐ行くと「佐久甲州街道」である。宿泊ホテルは反対方面なので左折ということになる。そこには、道祖神が祀られており隣に「西宮神社」がある。
この先、旧道を進むとやがて鉄道の踏切を越え「名塩田4.3k 追分11.0k」の道標がありすぐ先に「相生の松」がある。ここは、皇女和宮が野点を楽しんだ場所であるという。
なんとも優雅なことではある。
「相生の松」を後に先をゆくと旧道は国道14号に出会う。国道を横切るとのどかな田園風景が続く。やがて塚原と呼ばれる地域に行きつくが静かなたたずまいで誠に落ち着いた街並みである。
その先は、また田園風景が続きそこここに石塔がある。
田園風景の先の山並みは雲に覆われている。
その先、旧道を行くと「駒形神社」が見えてくる。
駒形神社の本殿は、文明十八年の創建で重要文化財に指定されている。
駒形神社を出て先に行くと5交路の交差点の信号が名塩田でこの先が名塩田宿である。
(日本橋より43里13町14間 約170.4キロ・ 岩村田宿より1里11町 約5.1キロ)
宿場の入り口には、「中山道塩名田宿」の碑がありその横に道祖神が祀られている。
宿場の街並みは、古い家が並んでおり、各家には屋号が掲げられていて、なかなか風情がある。
道端に「中津村道路元標」と彫られた石碑を見つけた。
調べてみると「元標」とは、道路の起終点を示す標識で設置場所は府県知事が指定することとされており、ほとんどは市町村役場の前か市町村を通る主要な道路同士の交叉点に設置されていたのだそうだ。
さて、街並みを楽しみながら少し行くと「問屋本陣」がある。
ここは、丸山新左衛門家で本陣だけでなく問屋も兼ねていたのだそうだ。
問屋本陣の向かいは、公民館で案内板が設置されている。
公民館の一軒挟んで隣が塩名田で一番古い家「佐藤家」である。
説明版があり間取り図も書かれている。
その先に、真楽寺道標があり道が二股に分かれている。
右の下り坂を行くと「お滝通り」である。この道は一段と風情がある。
天気予報に反して晴れ間を見せていた空は急にあやしくなり、とうとう雨が降り出した。
雨脚が強いので近くの四阿へ飛び込んだ。
そこが「お滝明神館跡」で、今は枯れ果て伐採されてしまっているが傍らの欅の大木の根本から清水が湧き出ていたという。ここには、十九夜塔や道祖神も祀られて「お滝・十九夜塔・道祖神・水準」と書かれた説明版がいる。
四阿の隣には、「角屋」いう3階建ての休み茶屋がある。
雨が上がったようなので先へ進む。
「お滝通り」抜けると千曲川に出会う。
千曲川は、暴れ川として古くから旅人を悩ませた。
また、千曲川は「浅間山」同様、多くの歌人が歌に詠んだ信濃の国の歌枕でもある
-信濃なる千曲の川のさざれ石も君し踏みてば玉と拾はむ―
万葉集巻十四東歌三四〇〇
-君か代は千曲の河のさざれ石の苔のむす岩と成つくすまで-
式子内親王
-ちくま川春ゆく水はすみにけり消えていくかの峰のしら雪-
順徳院
ここで自分自身も一首作ってみた。
「塩名田の宿に流れる暴れ川千曲の川と人はいうなり」
おそまつ!!
さて、河畔に出ると、「舟つなぎ石」の説明版を見ることができる。
説明版によると、舟が流されないように繋ぎ止めておく石のことだそうだ。
空は、相変わらず不安定でいつ雨が降り出すかわからない。
中津橋歩道橋を渡ると「御馬寄」というバス停がある。何やら意味ありげな名だと思い調べてみると、古くは、馬を集める牧場があった場所だという。
名塩田宿を後に、登坂を上ってゆくと「大日如来坐像」が祀られている。
近くに、芭蕉の句碑がある。
-涼しさや直ぐに野松の枝の形-
この句について調べてみると
「この家の庭の松は、無理に曲をつけたわけでもなく、枝ぶりはまっすぐに伸びた自然のままでなんとも好感が持てる。それがこの庭の涼しさを一層引き立てているようだ。
伊賀上の人である雪芝に招かれた芭蕉が挨拶代わりに詠んだ句である。」そうだ。
だとすると、なぜこの句碑がここにあるのだろう。
街道に戻ろう。
しばらく行くと右手に一里塚がある。「五郎兵衛新田一里塚」と呼ばれているそうだ。
先へ進むと左手に浅科村役場が見えてくる。ここに「名塩田宿1.3k 八幡宿0.9k」の道標が立っている。
「観世音菩薩」、「馬頭観音」、「生井大伸」の石碑を見ながらさらに歩いてゆくと「重要文化財 高良社 300メートル」の標識が立てられている。
もうすぐ、八幡宿である。
第24宿 八幡宿・本陣1、脇本陣4、旅籠3
(日本橋より44里4町14間 約173.4キロ・ 塩名田宿より27町 約3キロ)
「高良社 300メートル」の道標の先の小さな橋を渡ると「中山道八幡宿」の碑が立っている。八幡宿の入口のようだ。
その左側の参道入口に「重要文化財高良社本殿八幡神社境内」と書かれた碑が立っている。
参道を上がり、「八幡神社」の鳥居を潜ると天保十四年(1843)に建立された「随身門」である。随身門には立派な偏額が掲げられている。偏額には「戈止武為(しかいぶ)」と書かれていて、説明版によると「戈(ほこ)を止めて武と為す」とある。
その意味を調べてみると「戈止武為」は、中国の古典「孔子著 春秋の注釈書 左伝」に出ている「止戈為武」で「武」の文字は「戈」と「止」の合字で、「軍備力によって戦争を未然に防ぐ」という意味もあるのだそうだ。(その他にも、諸説があるのだそうだが。)
高良社は、旧本殿で延徳三年(1491)望月城主滋野遠江守光重を中心に御牧郷の総社として建立された。社殿は、三間社、流造、こけら葦、庇門、手狭の絵模様、木鼻の模様など室町時代の特徴的な美術がよく現れているとのこと。
下が八幡神社本殿である。
八幡神社を出てしばらく行くと右手に本陣跡が見えてくる。
本陣跡あたりが宿場の中心であると思われるが、旅籠が3軒とごく小さな宿場であるためすぐに宿場は、抜けてしまう。
宿場を抜けたところで、とうとう雨が降りだし、雨脚は強くなるばかりである。
こうなると、次の望月宿へ行き、バスで最寄りのJRの駅へ行くしかない。
ここから先は、明日のことである。
やっとの思いで望月宿にたどり着き、バスで佐久平駅へ、そこから小海線で「佐久一萬田温泉ホテル」の最寄り駅、北中込駅へ。
もう45年も前のことであるが、このローカル線が好きでよく清里や山野辺を訪れたものである。
14日目(12月12日(土))望月宿-芦田宿-長久保宿-民宿「みや」
今日は、昨日と打って変わって非常にいい天気になった。
午前7時にホテルを立ち、北中込-佐久平-八幡入口(バス)へ。
今日は、バス停、八幡入口から街道歩きの再開である。
八幡宿を出てしばらく行くと旧道は国道142号線に合流する。そのあたりから右手に広がっているのが「御牧原」である。(残念ながら写真喪失)
平安時代、朝廷に献上する馬を飼育する望月の牧は名馬の産地として有名で、「駒ひきの儀」には二十頭の名馬を献上したのだそうだ。
「駒ひきの儀」
平安時代、朝廷では、八月十五日(旧暦)の満月の日に信濃からの八十頭の馬の献上馬を天皇がご覧になる儀式である。名馬の名は「満月」(もちづき)と呼ばれ、「望月」の地名は、ここから来ているといわれているそうだ。
また「望月の牧」は、歌枕の一つでもある。
-逢坂の関の清水に影見えていまやひくらむ望月の駒-
拾遺和歌集・紀貴之
-あづま路をはるかに出づる望月の駒に今宵は逢坂の関-
源仲正
-嵯峨の山千代のふる道あととめてまた露わくる望月の駒-
藤原定家・新古今集
-望月のこまよりおそく出でつればたどるたどるぞ山は越えつる-
後撰1144
しばらく行くと「百沢の集落」がある。昔の面影を残した街並みである。
その先に、「祝言道祖神」と呼ばれる双体道祖神が祀られている。
旧道は、国道、瓜生坂もバス停の所を右に入っていく。坂道を登って行くとやがて「中山道一里塚」がある。瓜生坂の一里塚である。
一里塚の先、道路は左にカーブしていて角に「瓜生坂百万遍念仏塔」がある。
やがて、旧道は下りになるが「中山道瓜生坂」と書かれた碑が立っている。
「中山道・道は、ここから土手を斜めに下っていた」の道標があり左手の細い急な下り坂になっている。
中山道は、ここを下っていくのだが右の道をゆくと「望月城跡」があるので右手の道を取ることにする。
「望月城跡」
「戦国時代、信濃国の佐久郡望月地方の豪族望月氏の山城だった。歴史は古く、最初の築城は鎌倉時代頃であり、滋野氏の流れを汲む滋野三家の望月氏が本拠地として天神城として築城された。中先代の乱(1335年)8月に、信濃守護の小笠原貞宗が経氏に命令して攻撃・落城したとあるが、望月氏は滅亡せず室町時代に新たに望月城として築城した
天文12年(1543年)に、武田信玄の猛攻によって陥落するが、望月氏が武田氏の支配下となることで城は存続した。武田氏滅亡後、北条氏と一年も籠城戦を行い、大軍を動員していた北条方が兵糧等の戦費が負担になり望月氏と和睦をするも、天正10年(1582年)に徳川軍の依田信蕃によって佐久の諸城は攻略され、望月城も一ヶ月半の籠城戦の後に落城した。」
望月城跡から望月宿が一望できる。
望月城跡を出て、先ほどの道標まで戻り細い旧道を降りてゆく。途中に望月宿からの旅人のための「中山道瓜生坂」の道標があり、さらに「道祖神」、「石尊大権現」、「御岳神社」、「馬頭観音」など、多くの「石碑」が祀られている「長坂の馬頭観音」と呼ばれているところがある。
坂を下り切り小さな川を渡ったら望月宿である。
第25宿 望月宿・本陣1、脇本陣1、旅籠9
(日本橋より45里14間 約176.8キロ・ 八幡宿より32町 約3.4キロ)
ここも、小さな宿場である。趣のある街並みが続いている。
宿場に入ってしばらく行くと「歴史民俗資料館」があり、その隣が本陣跡である。
向かいが、「脇本陣・鷹野家」その隣が「大和屋」(望月宿最古の建物)である。
歴史民俗資料館には、釣瓶沢の「水割場石」と「木樋」というものがあり、説明版もある。
ところで資料館に入ってみたが興味深い資料が展示されている。さらに、管理人の方が話好きで30分ばかり話し込んでしまった。
先を急ごう。今日は和田宿手前の民宿泊である。
街道をゆくと、左手に「大伴神社」が見える。
大伴神社、
「大伴神社社伝によれば、景行天皇40年の鎮座と言い伝えられている。大宝年間(701~4)諸国に牧場(官牧)が設定され、千曲川・鹿曲川に境した700メートル乃至800メートルの高原台地に牧草に適した草が繁茂し、その広さ3,000余町歩、これが朝廷直轄の牧場となり、所謂望月牧である。これを維持、管理する牧監が即ち早くこの地に土着して一大豪族となった大伴氏を祖とする望月氏が朝庭より任命され、長倉牧・塩野牧の長官をも望月氏が兼任した。」
大伴神社を出て、しばらく行くと「間の宿・茂田井宿」である。
茂田井宿は、望月宿の旅籠9軒、芦田宿の旅籠6軒の間にあって前後の宿場が混雑して旅人を収容しきれなかったとき、宿場の機能をはたしたのだそうだ。白壁と土蔵が続く静かな道筋は、昔の面影を色濃く残している。
武重家・武重本家酒造
歌人、若山牧水も何度か訪れていて碑が立っていし、歌碑も置かれている。
「白玉の歯にしみとおる秋の夜の酒は静かに飲むべかりけり」
その先には、大澤酒造がある。そこは、民族資料館、美術館になっており、酒造りの行程を見ることができる。ここで地酒を買い、今夜の楽しみとしよう。
家を出ると「茂田井宿下組高札場跡」がある。
趣のある道筋が続く。左手に馬頭観音も見受けられる。その先に「茂田井宿上組高札場跡」がある。
しばらく歩くと、「石割坂」と呼ばれる急な坂道になっている。
歌碑と思われるものがあり(字は読めない)「ほのぼのと明石の浦の朝霧に島かくれ行く舟をしぞおもふ」柿本人麻呂と手書きの張り紙がしてあるが、調べてみるとこの歌はよみびと知らずのはずである。明石の歌がここにあるのも不思議である。(いたずらか?)
ともあれ、先に行くと「茂田井の一里塚」が見えてくる
すぐその先に「中山道茂田井間の宿入口」の道標がある。
このあたりが茂田井宿の出口であろう。(道標は、京側からみた視点で書かれているので京からの入り口は、江戸からは出口になる。ちなみに場所でいうと京側が「上」江戸側が「下」である。)茂田井宿の案内板もある。
ここで旧道は、県道40号線に合流する。しばらく行くと「芦田川」を渡ることになるが、その先の緩やかな上り坂を登って行くと「これより芦田宿」の道標と新しく建てられたと思われる「常夜灯」がある。
第26宿 芦田宿・本陣1、脇本陣2、旅籠6
(日本橋より46里8町14間 約181.6キロ・ 望月宿より1里8町 約4.8キロ)
この宿場も規模としては極めて小さい。
宿場に入ってすぐに「中山道」側面に「芦田宿」の街灯がありその手前に
「中山道股旅休憩所」の看板を出している材木屋があった。
しばらく行くと「蓼科町・町役場」の所に「宿場公園」があり、その先右手に「土屋家本陣」がある。ここは、中に入ることができる。
その先、芦田中央の交差点を渡ると左手が「山脇家・脇本陣」である。
脇本陣の向かいが「酢屋茂」という味噌、醤油の店である。
その先に金丸土屋旅館があり、「京都三条大橋へ九十里」「江戸へ四十五里」の街灯が置かれている。「文化元年(一八〇四年)頃より旅籠屋で軒の西側に「津ちや」東側に「土屋」の看板を掲げる、今の旅館を営む土屋旅館。二階の部分が少し表通りに出ている出張造りで腕木に彫刻、煙出しを持つ大屋根など多くの特徴を持っている。」と説明版に書かれている。
先へ進み、芦田の交差点を渡ったあたりから急な上り坂になっている。
上り坂を行くと右手に「双体道祖神」がある。
坂を上りきると「中山道芦田宿入口」の道標があり、ここが芦田宿の出口のようである。
その先、国道に出会うが、国道を横切り「笠取峠2.3k名塩田13.0k」の先を左に入ると松並木が続いている。これが天然記念物に指定されている「笠取の松並木」である
並木道には、「道祖神」や多数の歌碑が置かれている。
しばらく行くと、かつて旅人の喉を潤した「金明水」があるが今は、枯れている。
その先に、笠取峠の松並木の説明版が立てられており、以下のように書かれている。
「この峠道は、近世五街道の一つ中山道の笠取峠である。徳川政権は、関ヶ原の戦い後の慶長六年(1601)東海道に伝馬制を実施し、翌七年には中山道などにも着手した。
慶長九年幕府は諸街道の改修、一里塚の設置とともに街道筋に松や杉を植えて並木をつくらせた。
笠取峠は雁取峠とも呼ばれ、慶長二年(1597)に設けられた芦田宿と、およそ一里半(約6Km)の距離を隔てた長窪宿の間にある。
笠取峠の松並木は、小諸藩が幕府から下付された数百本の赤松を、近隣の村人とともに峠道約十五町(約1.6Km)にわたって植樹し、その後も補植を行い保護・管理を続けてきた。歌川広重の「木曽街道六十九次」芦田宿に描かれている中山道の名所である。
長い年月の間、風雪に痛み枯れ、大正十三年(1924)長野県の調査によると二百二十九本があった。昭和四十九年(1974)長野県天然記念物に指定された。
現在は、百十本である。立科町が笠取峠の旧街道の整備と松並木の保護に努め、往時の姿をとどめている。」
また、「従是東小諸領」の碑と説明版が立てられている。その対面には、道祖神。
道路を横切りしばらく行くと「笠取峠のマツ並木」の石碑と説明版がある。
長久保(京側)から来た旅人のための松並木の入口を示すものであろう。
つまり、並木道の終わりということであろう。
ここで旧道は、国道と合流する。ここから急な上り坂となりしばらく行くと「一里塚(笠取峠)」がある。
さらに進んでいくと、峠の茶屋、「学者村の碑」がある。
そこからしばらく行くと「和田宿9.6k東餅屋20.4k笠取峠0.2k」の道標があり「笠取峠」の碑がある。
やがて、「笠取峠立場図版木」があり説明版が立てられている。
その先には、「笠取峠原道」の碑が立っている。つまり原道は、今は通れなくなっているということだろう。
やがて、「是より長久保宿」の道標が見えてくる。
その先へ行くと、「五十鈴川」という川のほとりに「松尾神社」がある。
資料によると、「松尾神社の創建は不詳ですが日本三大酒神で官幣大社である松尾大社(京都府京都市右京区)の分霊を勧請したのが始まりと伝えられています。古くから酒造家から信仰の対象となり、江戸時代に入ると上田藩主真田氏の崇敬社として庇護され社領(4斗2升9合)が寄進され、参勤交代で長久保宿を利用した大名家からも参拝が行なわれています。明治6年(1873)に郷社に列しています。当初は長久保の町裏地籍にありましたが小学校の校庭の拡張工事の為昭和33年(1958)に現在地に遷座しています。現在の本殿は万延元年(1860)に再建されたもので一間社流造、銅板葺き、棟梁は三代目立川和四郎富重、特に欄間に施された龍や亀、鶴などの彫刻が優れているとされます。松尾神社本殿は建築彫刻として貴重なことから昭和53年(1078)に長和町指定有形文化財に指定されています。例大祭は3年に1度で大山獅子舞(雄獅子2、雌獅子1)が町内を練り歩き最後は松尾神社境内で奉納されます。社格は旧郷社。祭神は大山咋命。」とのことである。
松尾神社の入口から今も残っている旧中山道の道をたどれば、長久保宿である。
(日本橋より47里24町14間 約187.3キロ・ 望月宿より1里16町 約5.7キロ)
長久保宿は、難所「和田峠」と笠取峠の間にあって旅籠が43とかなり栄えた宿場である。
また、宿場の中央付近に「左ぜんこうじ」の道標があるように、上田道も通っていて善光寺詣での人々の追分としても賑わったようである。
松尾神社は、江戸時代になって真田氏の庇護を受けているし、旧問屋・小林家の鬼瓦には真田家の家紋である「六文銭」が見られるように、長久保宿は、真田家とそれなりの係りがあるようである。
さて、宿場に入ると趣のある古い家が散見されるが、右手に大きな門構えの家が「本陣・石合家」である。また、高札場跡もある。
向かいが一福処濱屋で、今は歴史資料館になっている。
そこから「釜鳴屋」、「旧問屋」と旧屋敷が続く。
釜鳴屋(竹内家)
「長和町指定文化財(昭和53年12月指定。指定の理由:江戸時代建築物、町屋造り) (左側)釜鳴屋は、寛永時代より昭和初期まで酒造業を営む。この住宅の建立年代は江戸時代前期といわれているが不詳である。大きさは間口九間半(17.27m)奥行十間半(19.08m)の正方形に近い形で、建坪約百坪(330m2)、片側住宅二列型の典型である。「通りにわ」(土間)は幅三間半(6.36m)で奥まで通し、その中に細長く板敷をとっている。土間の上は、巨大な小屋組が現れている。屋根は当初板葺。昭和50年葺かえる。屋根には「本うだつ」が上げられている。「うだつ」については、多くの論考があるが機能については、防火のためと格式の表示のための二論がある。「うだつ」には、ここに見るような「本うだつ」と二階の軒下部分の「軒うだつ」の二種類がある。竹内家には、笠取峠立場図版木と、宿場札(長久保宿のみ通用の札)の版木も、町文化財として指定されている。」
旧問屋(小林家)
「小林家は、長久保宿が成立した当時から問屋を勤め、当主は代代「九右衛門」を襲名しています。母屋は明治三年(1870)の大火で焼失し、再建されたものです。長久保宿では珍しく母屋が、通りから引っ込んだ位置に建てられていますが、天保年間の制作と推定される「宿絵図」には、現在と同じ位置に母屋があって、通り沿いには長屋門や人足溜りなどの付属屋が見られます。現在の母屋は「みせのま」や土間部分が改修されていますが、客座敷の部分を大切にした中廊下型で、再建にあたってその独創性をいっそう高めたように思われます。総二階建ての切妻造りの妻入、出桁造りで、出格子を付けた二階部分はよく旧状を伝え、鬼瓦には真田家の家紋である「六文銭」が見られます。また、後方の土蔵には、「亨和三年(1803)、小林九右衛門墨済/棟梁佐久郡柳沢(国)蔵」と記した棟札が残っていて、その内壁には、谷文晁が描いた「恵比寿・大黒」の壁絵があります。」
その先の交差点、左手に「旅館・濱田屋」、右手に「中山道 長久保宿 左ぜんこうじ」の道標がある。この交差点を左に行けば善光寺、右に行けば上田城下である。
濱田屋旅館を左折すると宿場の面影はあまりない。
先に進むと四泊の一里塚と呼ばれる「一里塚跡」があり、その先に道祖神がある。
旧道を進んでゆくと川沿いの道に石碑が散見される。
午後4時近くになった。先を急ごう。今日の泊は、「民宿 みや」である。
15日目(12月13日(日))民宿・みや-上田-民宿・みや(連泊)(番外)
ここで街道歩きは中断。今日1日真田の城下町上田へ行くことにする。
朝、民宿前のバス停から7時36分に長和町巡回バスに乗り長久保バスセンターでJRバスに乗り換えJR上田へ。
上田城は、1583年(天正11年)真田昌幸(幸村の父)によって築城された。
真田氏が歴史の舞台に登場するのは真田幸隆(幸村の祖父)からである。
「真田幸隆」は、信濃国小県郡の豪族・海野棟綱の子で信州・真田に住み着き真田性を名乗った。幸隆の智略と功績は、信玄の深い信頼を得、武田家「戦国三弾正」の一人「攻め弾正」の異名をとった。また、信玄の懐刀ともいわれ3人の息子(信綱、昌輝、昌幸)とともに武田24将にも数えられた。
家紋、旗印は「六文銭」(「六文連銭」ともいう)で三途の川の渡し賃という不吉な意味を逆手に取り幸隆が武田家に臣従した際、身命を賭して武田家につかえる覚悟を旗印に用いたものと言われている。
「真田昌幸」は、幸隆の三男として生まれ信玄、勝頼の武田家二代に仕えた。幼名は、源五郎。7歳の時に武田家の人質として信玄の近習に加わった。信玄は昌幸の才能を早くから見抜き寵愛したという。昌幸は、一時期、信玄の母系大井氏の士族である武藤家の養子となるが父・幸隆の死後家督を継いでいた長兄・信綱、次兄・昌輝が「長篠の戦い」で討ち死にしたため、真田氏に複し、家督を相続した。
昌幸の智略がいかんなく発揮されるのは二度の「上田合戦」においてである。
「沼田領を北条へ引き渡す」という家康の要求を拒否したことによる「第一次上田合戦(神流川の合戦)」(天正十三年(1585年))においては、約1200の兵で徳川7000の大軍を撃破し、「第二次上田合戦」(慶長五年(1600年))においては、中山道を通って関ケ原へ向かう徳川秀忠38000の兵の関ケ原到着を遅延させ、結果秀忠軍を、戦に参戦させなかった。
家康は、昌幸の智略を恐れ「大阪の陣」において真田の大阪城入城を知らされたとき「親の方か?」「子の方か?」と問い、「左衛門佐幸村大阪城入城」を聞くと手の震えがやっと収まったという逸話が残っている。その時、昌幸はすでに死去していたのだが、何度となく昌幸に煮え湯を飲まされている家康は、「謀将」昌幸の死を信じていなかったというのだが、真偽の程は甚だ疑わしい。
慶長十六年(1611年)配流の地、紀州・九度山で病死。享年65歳。
「真田幸村(信繁)」、幼名は源二郎、昌幸の次男。一般には「幸村」の名で知られているが書状や資料ではその名は使われておらず正しくは「信繁」である。軍事物語「難波戦記」で「幸村」の名前が登場し、次第に世間に広まったものとされている。
ここでは、「幸村」の名を使うこととする。
幸村の戦装束は、「赤備え」といい、武田家の猛将、「飯富虎昌」、「山県昌影」が用いた武田家伝統の戦装束である。
幸村は、豊臣政権下、人質として大阪に移り秀吉の臣・大谷吉嗣の娘を正妻としている。文禄3年(1594)には、従五位下「左衛門佐」を叙任され、豊臣性を下賜されている。
関ケ原前夜、上杉討伐のため、徳川に従軍していた幸村は、「犬伏の陣(栃木県)」において父・昌幸とともに西軍につくため、兄・信幸と袂を分かつ。
関ケ原の合戦での西軍の敗北により、紀州・九度山に幽閉された幸村は、やがて大阪城入りを果たすことになる。慶長十九年(1614年)、大坂冬の陣で大坂城の唯一の弱点であったとされる三の丸南側、玉造口の外に真田丸と呼ばれた出丸を築き、徳川勢を撤退させた。これにより、幸村はその武名を天下に轟かせることとなる。そのような幸村に対し、家康は、叔父の真田信尹を差し向け「十万石」の条件で調略に動くが幸村は拒否、2度目は、「信濃一国を与える」と説得したが、「この信繁、十万石では不忠者にならぬが、一国では不忠者になるとお思いか」と再びはねのけたという。
東西最後の決戦となった「大阪夏の陣」では、劣勢にあった大坂方の中で幸村の赤備えは他を圧していたという。「関東勢100万とはいうが、男は一人もいないのか」とは、「道明寺の戦い」において伊達政宗軍に大打撃を与え後退させた時の幸村の言葉とされている。
大坂方の敗色が濃くなる中、幸村は、「もはや戦は終わった。あとは快く闘うのみ。狙うは家康の首、ただ一つ」と家康の本陣に真一文字に襲いかかりあと一歩のところまで家康を追い詰める。馬印を倒された家康は、一時は死を覚悟したともいわれている
馬印を倒されたのは、若き家康が武田信玄に大敗を喫した元亀三年(1573)の「三方が原の戦い」以来のことである。
かくして、幸村の奮戦ぶりは、以下の通り日本中の称賛を得ることとなる。
薩摩旧記
「五月七日、御所様の御陣へ真田左衛門かかり候て、御陣衆追いちらし討捕申し候、御陣衆三里づつ候衆は皆生き残られ候、三度目には真田も討死にて候、真田日本一の兵、古よりの物語にもこれなき由、惣別これのみ申す事に候」
関ケ原の合戦で、西軍に組し、最後は敵陣を中央突破して薩摩へ帰った勇猛果敢な島津をしてこのように言わしめている。
細川家記
「左衛門佐、合戦場において討死、古今これなき大手柄、首は越前宰相殿鉄砲頭、取り申し候。さりながら、手負ひ候ひて草臥れ伏して居られ候を取り候に付、手柄にも成らず候」
東軍の武将、細川忠興もこのように幸村を称賛し、幸村の首を取った越前松平家鉄砲頭・西尾久作(仁左衛門)については、「傷つき休んでいる幸村を討ち取ったのでは手柄にもならない」と評している。
かの、大久保彦左衛門は自身の著、「三河物語」に次のように書いている。
「みかた原にて一度御旗の崩れ申すより外、あとさきの陣にも御旗の崩れ申す事なし。
いわんや七十に成らせられて、おさめの御ほうどうの崩れては、何の世にはぢをすすぎ成さるべきか」
大久保忠教(彦左衛門)は、関ヶ原合戦時の第二次上田合戦にも参陣しており、自軍の兵のことを「下戸に酒を強いた如く」腰抜けだったなどとも書いている。
翁草 (神沢杜口が書いた江戸時代後期の随筆)
「真田は、千載人口に残る奇策幾千百ぞや。そもそも信州以来、徳川に敵する事数回、一度も不覚の名を得ず、徳川の毒虫なりと世に沙汰せり、当世の英雄真田に非ずして誰ぞや。絶等離倫、一世の人物、今にいたりて女も童もその名を聞きてその美を知る。」
等々
こうして、真田幸村の名は不朽のものとなり、武勲にあやかろうとした諸将が幸村の首から遺髪をこぞって取り合い、お守りにしたと言われている。
このように、あまりにも輝かしい武名を残し、神格化された幸村の陰に隠れ、ほとんど語られることはないが、関ケ原の合戦で西方についた父と弟の助命嘆願を続け、家康亡き後、真田嫌いの二代将軍・秀忠のいじめにあいながら耐えて真田家を最後まで守り抜いた「信幸」こそ、偉大な武将というべきである。
「真田信之(信幸)」
昌幸の長男で幼名は源三郎。(兄が源三郎で弟が源二郎というのは、不思議であるが)
文禄三年(1594)、従四位下・伊豆守に叙任される。
戦上手は、昌幸や幸村に引けを取らない。第一次上田合戦では、昌幸に従い大いに勝利に貢献した。家康は、信幸の才能を高く評価し徳川四天王の一人・本田忠勝の娘「稲姫、(後の小松姫)」を養女としたのち信幸に嫁がせた。戦乱の世を終わらせるのは、家康しかいないと信じて疑わなかった信幸は、犬伏の陣で昌幸、幸村と袂を分かち家康に従う。この時の信幸の正妻・小松姫の逸話は、鴻巣宿・勝願寺の時にすでに述べた。「関ケ原」の後、義父・本田忠勝と共に昌幸、幸村の助命嘆願を続けると共に徳川家への忠誠の意思を示すため「幸」の字を「之」と改め「信之」とした。「大坂の陣」後、家康により沼田を安堵されるが、秀忠により松代への国替えを命じられる。
その後、信幸はひたすら真田家を守り、徳川三代将軍・家光に、「豆州(伊豆守)は、天下の宝よ」と言わしめ、諸将からは、老いてなお「信濃の獅子」と評された。
「徳川頼宣(よりのぶ)」(徳川八代将軍・吉宗の祖父で紀州徳川家の祖とされる人物)は、信之を尊敬し、たびたび自邸に信之を招き、武辺話を聞いたという逸話が残っている。
信之は、九十三歳の長寿を全うし、辞世の句、「何事も移れば変わる世の中を夢なりけりと思いざりけり」を残して世を去った。
さて、バスは10時にJR上田駅に着いた。駅前には、「真田十勇士ウォーキングマップ」の案内図があり、十勇士をめぐるスタンプラリーが楽しめる。
駅の観光案内で見どころを確認、まず、今は県立上田高等学校になっている「上田藩主屋敷跡」を訪ねた。昔の面影を色濃く残した建物である。
次は、上田城。智将・真田昌幸がその知力を尽くした築城した平城である。
二度にわたる徳川軍の攻撃を退けた「上田合戦」の舞台で、徳川の大軍をもってしても落とせなかった名城というべきであろう。外観も、大阪城や姫路城(白鷺城)と比べても見劣りはしない。
城内には、真田赤備えの兜が置かれている。
上田城内に、真田神社がある。真田神社は、真田父子を主神とし、仙石・松平を祭信とする。
境内には「真田井戸」と呼ばれる大井戸があり、この井戸には抜け穴があって城の北方、太郎山山麓に抜けられると伝えられている。また、台風等で倒木の恐れがあるのですでに伐採されているが「御神木真田杉」が保存されている。
上田城の案内をしておられる方の話では、真田家は明治期に「伯爵」の爵位を与えられ、現在の真田家当主は、慶應義塾大学の教授をしておられる「工学博士」だとか。
さて、上田の「芳泉寺」には、信之の正妻・小松姫の墓(分骨)があると聞いていたので行ってみることにする。
墓は、立派な門の中にあり、門の横のくぐり戸を開けて中に入る。
門には片方が「六文銭」もう片方が「三つ葉葵」の家紋が彫られている。これは、小松姫が家康の養女として真田家へ輿入れしたからであろう。
ここで小松姫について少し。
小松姫は、天正元年(1573)に本田忠勝の長女として生まれ、幼名を稲姫という。
家康の養女となり天正十七年(1589)真田信幸に嫁ぐ。常に倹約に努め終始、夫・信之を献身的に支えた。また、紀州・九度山に配流された義父・昌幸、義弟幸村に自費からの仕送りを絶やさなかったという。
関ケ原の合戦時の逸話は、鴻巣宿の時にすでに述べたがそのようなこともあり、戦国の女傑の一人に数えられ、「良妻賢母」とも称えられた。
小松姫は、また昌幸をして「信幸には、過ぎたる女房」といわしめた。
晩年、病にかかり「草津温泉」へ湯治に向かう途中武蔵野国・鴻巣で亡くなった。
その時、信之は、「我が家から光が消えた」と大いに落胆したという。
さて、先へ進もう。北国街道・柳町である。
北国街道は、中山道「沓掛宿」から北へ分岐する脇街道で小諸、上田を通って善光寺に至る別名「善光寺街道」ともいう。
上田・柳町は、北国街道の昔ながらの家並みを残す通りである。旅籠屋や商家が軒を連ね、白い土塀に格子戸のある家や杉玉のある造り酒屋が昔そのままに並んでいる。
「柳町」を後にして、「真田太平記館」へ入る前に隣のそば屋「太平庵」で遅い昼食をとることにした。注文したのは、この店の「おすすめ豆腐」に「鴨せいろ」、「六文銭」という地酒。
さて、「真田太平記館」である。真田太平記は、直木賞作家、池波正太郎の「真田もの」の集大成で単行本にして堂々全16巻の大作である。1985年には、NHKがドラマ化している。私見ではあるが、「真田もの」では、群を抜いたドラマであり、脚本もキャストもこの作品以上のものは、今後出てくるとは思えない。物語は、真田の「女忍び」お江が落城寸前の「高遠城」から向井佐平次という足軽を救い出すところから始まる。佐平次はその後、幸村と出会い従者として生涯、幸村に仕えることになる。
また、この物語は、信幸(信之)を主人公にした数少ない筋立てになっている。
今日は、たまたま「池波正太郎展」が開催されており、数々の作品が並べられていた。
池波正太郎の作品といえば、脇役の女性が鮮やかな彩を添えている。「鬼平犯科帳のおまさ」「剣客商売の三冬」そして「真田太平記のお江」である。
帰りの最終バスは午後4時30分、今日行けなかったところは、次の機会としよう。
駅前にあった「真田十勇士ウォーキングマップ」の人形
「実在」「架空」の人物が入り混じって真田一色の一日であった。
16日目(12月14日(月))民宿・みや-和田宿-和田峠-下諏訪宿-上諏訪 ス テーションホテル
早朝6時45分に民宿を出発、依田川を渡り左手の旧道に入る。旧道は、すぐに国道に合流するがすぐの青原交差点から右手の旧道に延びている。しばらく行くと茅葺屋根のバス停「深山口」が見える。その先が下和田村である。
旧道は、緩やかな上り坂でやがて「三千僧接待碑」が見える。案内板には、
「信定寺別院慈眼寺境内に建立されていたが、寛政七(1795)年にこの地に移された。
諸国遍歴の僧侶への接待碑で一千人の僧侶への供養接待を発願して結願し、二千を増した三千人への接待を発願したとある。
元は一千僧であったものを一の字を三に改刻した痕が歴然としている。」と書かれている。
その先に「中山道碑」があり、「馬頭観音」「道祖神」「庚申塔」などが所々に見られる。
しばらく行くと「若宮八幡神社」があり「若宮八幡神社 和田城主大井信定父子の墓」という表題の説明版が立てられている。祭神は、「仁徳天皇」。
すぐ横に「芭蕉句碑」があり、句が彫られているがほとんど読めない。調べてみると「あの雲は稲妻を待つたよりかな」と彫られているそうである。
若宮八幡神社を後に先へ行くと「中山道一里塚跡 江戸より四十九里」と彫られた碑がある。これは、新しく作られたもので以前はここに下和田の一里塚と呼ばれる「一里塚」があったそうである。
上り坂になっている旧道を先へ進むと左手に「是より和田宿」と彫られた石碑が見える。
和田宿碑を過ぎると小学校と中学校があり、その先に「和田埜神社」の鳥居が見える。本殿は奥にあるようだが、先を急ぐので鳥居だけをカメラに収めた。
その先にあるのが「八幡神社」、和田宿の入口あたりだろうか。
第28宿 和田宿・本陣1、脇本陣1、旅籠28
(日本橋より49里24町14間 約195.1キロ・長久保宿より2里 約7.8キロ)
江戸時代、この宿場はかなり賑わったという。それは、次の下諏訪宿まで五里十八町もあり難所・和田峠を越えなければならないからであろう。
宿場に入るとすぐ右手に古い大きな家がある。元旅籠屋「かわちや」である。
「かわちや」は、「文久元年(一八六一)三月十日の大火で焼失したがその年の十月本陣、脇本陣と同じく再建されたものである。和田宿の旅籠のうちでは規模が大きい方である。
出桁造りで格子戸のついた宿場建物の代表的な遺構であり、江戸末期の建築様式をよく伝えている。....」と説明版には書かれている
「かわちや」と同じように旅籠屋であろうか旧道を挟んで古い、大きな出桁造りの家が軒を連ねている。
「かわちや」の先の交差点左手には「本陣跡」があり、「和田宿本陣」の看板が掲げられている。
「和田宿本陣御入門」
「中山道和田宿本陣は、文久元年三月の大火で焼失したが、同年十一月の皇女和宮降嫁にそなえてただちに再建された。その後明治期に座敷棟は、丸子町龍願寺へ、また座敷棟の正面にあった御入門は丸子町向陽院へとそれぞれ移築された。....」
中山道を歩いていると、たびたび「皇女和宮」が登場する。和宮が第十四代将軍・徳川家茂に輿入れする際、中山道を下向したからである。和宮下向に際しては、朝廷側約一万人、幕府側約一万六千人、人足などを含めると約八万人もの人が動員されたとか。う~ん、何ともコメントのしようがない。
本陣跡の先右手に「バスターミナル」がありその手前が「脇本陣・みどり川家」で「みどり川」の表札がかかっている。
バスターミナルの向かいに「米屋鐵五郎」の看板がかかった休憩所があり、土産物なども売っているようだが、12月の早朝とて、当然のことながら店は閉まっていた。
それにしても、もう8時半になるが誰一人として遇う人はいない。
さて、旧道を先に進むと、右手に「高札場跡」があり、その先の「鍛冶足」のバス停あたりから民家はほとんどない。バス停あたりが宿場の出口であろう。右手に「道祖神」、「双胎道祖神」なども祀られている。
旧道は、やがて国道142号線に出会うが、その交差点(和田鍛冶足交差点)の所に石碑が四つ置かれている。
それぞれ、「中山道一里塚跡 江戸より五十里」、「右 諏訪街道、左 松澤歩道」、「国史跡 歴史の道中山道」、「中山道」と刻まれている。
ここの一里塚が江戸から50里、つまり日本橋を出発してから約200キロ歩いたことになる。(厳密には1里=3.92キロであるから196キロであるが)
道標に従って左手に入ると、ここにも茅葺屋根の「大出」バス停がある。このあたりは、すぐ横に「依田川」が流れている。その先「扉峠口」のバス停も茅葺屋根である。
先へ進むと「東餅屋5.3k笠取峠13.3k」の道標が見える。このあたりから旧道は、草深い山道となる。
しばらく行くと、一里塚があり「中山道唐沢一里塚 江戸より五十一里」の碑が立っている。
その近くに「御嶽大権現」が祀られ、石塔も置かれている。
旧道は、再び国道142号に合流し、しばらく国道を歩くことになる。国道をしばらく行くと「東餅屋4.3k笠取峠16.3k」の道標があり「男女倉」の旧道入口である。
いよいよ、難所「和田峠」越えである。
旧道は、やがて再度国道142号線に出会うがすぐ先の左手旧道に入っていくとすぐに「クマの出没注意」の看板が立っている。(クマが出るのか!)
それでも先へ進もう。草深い山道である。しばらく行くと「三十三体観音」が見えてくる。
説明版には、「かつて、この山の中腹にあった熊野権現社の前に並んでいた石仏である。旧道の退廃とともに荒れるにまかせていたが、昭和四十八年(1973)の調査発掘により二十九体が確認されここ旧道ぞいに安置された。内訳は、千手観音十三体、如意輪観音四体、馬頭観音十体、不明二体で四体は未発見である。
峠の難所を往来する人馬の無事を祈ってまつったものであろうか。」と書かれている。
しばらく行くと「接待800m」の道標があり、その先で旧道は、国道に合流し、すぐ前が「接待茶屋跡」である。
接待茶屋の道路を挟んで向かい側には、湧き水が出ており喉を潤すことができる。今日は、これまで一人の人とも遇っていない。和田宿の店も閉まっており、自動販売機で買った水がなくなるとこれであったので誠にありがたい思いである。
ところで、碓氷峠の時にも述べたが「接待茶屋」とは、江戸・日本橋呉服町の綿糸問屋「中村与兵衛」が幕府に寄付した利息により碓氷峠と和田峠に作られた施設で、説明版には以下のように記されている。
「江戸呉服町のかせや与兵衛(有隣)が、中山道の旅の難儀を幾分でも助けようと金千両を幕府に寄付した。その金の利子百両を二分して碓氷峠の坂本宿とこの和田宿に五十両ずつ下付し、文政二年(一八二八)に設置された施行所の一つである。十一月から三月まで峠を越える旅人に粥と焚木を牛馬には年中小桶一杯の煮麦を施行した。その後、山抜けにより流出したが嘉永五年(一八五二)現在地に再建され明治三年までつづけられた。」
接待茶屋を後にするとすぐ左手に旧道が続いている。再び草深い山道である。そんな旧道を歩いてゆくと「広原の一里塚」が見えてくる。説明版には、
「このあたりを広原といった。その名のとおり昔は笹と萱の生い茂る原であった。
冬の降雪期には山頂より吹きおろす吹雪で一面の雪の原と化して道も埋もれるとき、五間(9m)四方のこの塚は旅人の道しるべとなったであろう。
この塚は、江戸より五十二番目の一里塚にあたる。」とある。
一里塚を後にしばらく行くと、「東餅屋」の立場がある。昔の旅人は、ここで名物の「力餅」を食べて元気をつけたのだろうか。立場は、今はドライブインなっていて「力餅」も売られているようだが、今日は、閉まっていた。やがて旧道は、トンネルをくぐることになり、その先が「ビーナスライン」(有料道路)である。車が一台も通らないと思ったら、今は冬場で道路が閉鎖されていた。道路を越えたところに「和田峠周辺案内図」の立て看板が」建てられている。
この先、旧道は更に2度ビーナスラインを越えることになる。
三度目の道路を越えるとその先、500~600メートルで「和田峠頂上」である。
頂上は、平になっており、「案内板」、「御嶽遥拝所跡」「馬頭観音」「賽の河原」などがある。
「中山道設定以来、江戸時代を通して諸大名の参勤交代や、一般旅人の通行、物資を運搬する牛馬の往き来などで賑わいをみせた峠である。頂上に、遠く御獄山の遥拝所がある。冬季は寒気も強い上に、降雪量も多く、冬の和田峠越えの厳しさは想像を絶するものがあったであろう。」明治九年(1876)東餅屋から旧トンネルの上を通って西餅屋へ下る紅葉橋新道が開通したため、この峠は殆んど通る人はなくなり、古峠の名を残すのみである。」と案内板に記されている。(古峠の意味が分かった。)
今日は、ここまで人と遇うことも、開いている店もない。民宿で作ってもらった大き目の握り飯2個が実にありがたい。ここで遅めの昼食をとることにする。
さて、午後1時30分、「下諏訪宿」へ向かって下り始める。しばらく下ると、左手に「石小屋跡」がある。
「中山道の古峠は、標高1,600mの峠で難路で知られていた。下諏訪側の峠近くは急坂で風雪の時は旅人も人馬も難渋した。大雪の時には雪割り人足も出勤した。下原村の名主勝五郎は、安政二年(1855)に避難場所と荷置場を造ろうと、郡御奉行所に口上書を差出し、馬士の出金、旅人等の援助を乞うて、五十両ほどで石小屋を築いた。
石小屋は、山腹を欠いて高さ約2mの石積みをし、この石積みを石垣壁として片屋根を掛けたもので、石垣からひさしの雨落ちまで2.3m、長さ55mという大きいものであった。
人馬の避難所や荷置場には絶好の施設であった。
その後、慶応三年に修理したが、現在は石垣の一部を残すのみである。」(説明版)
下り始めは、緩やかだった下り道は、やがて細い急坂が多くなり、馬頭観音なども置かれている。先に進み小さな橋を渡ると「西餅屋」立場跡がある。絵図の看板も立っている。
「西餅屋は江戸時代中山道下諏訪宿と和田宿の五里十八丁の峠路に設けられた「立場」(人馬が休息する所)であった。中山道は江戸と京都を結ぶ裏街道として重視されていた。ここは茶屋本陣の小口家と武居家、犬飼家、小松家の四軒があり、藩界にあったので、ときには穀留番所が置かれた。幕末の砥沢口合戦のときは、高島藩の作戦で焼失されたが、すぐに再建された。現在は道の「曲之手(まきのて)」(直角な曲り)と茶屋跡が残っている。」(説明版)
先へ行くと、「和田峠1.5k諏訪大社秋宮10.5k」の道標があり、やがて「中山道一里塚江戸から五十三里」と彫られた一里塚跡の碑がある。
さらに旧道は続くが「六月二十八日に、中山道和田峠の接待付近でクマの出没が目撃されました。」の表示があった。
やがて旧道は、国道142号に合流するが、その手前に「是より右、下諏訪宿方面、中山道は国道の拡幅等により、道筋が確定しておりません。是より先は、国道を1.7k歩き、左(浪人塚)に向かいます。車にご注意ください。」の表示あり。で、その通りに歩くことにする。が、大きなトラックが猛スピードで飛ばしていてかなり危険ではある。
国道をゆくと、表示の通り、「浪人塚」がある。
「浪人塚は、元治元年(1846)11月20日に、この一帯で水戸の浪士武田耕雲斎たち千余人と松本、諏訪の連合軍千余人が戦った古戦場でもある。
主要武器は、きわめて初歩の大砲十門くらいと猟銃少しだけで、あとは弓、槍刀が主要武器として使われた。半日の戦さで浪士軍十余、松本勢に四、諏訪勢に六柱の戦死者があり、浪士たちは、戦没者をここに埋めていったが、高島藩は塚を作って祀った。碑には、当時水戸に照会して得た六柱だけ刻まれている。明治維新を前にして尊い人柱であった。」ということである。
先に行くと、「樋橋」の立場跡がある。ここは、立場茶屋としてかなり賑わったようで、「間の宿」の役割も果たしていたようだ。
先へ進むと、左手に「木落とし」の坂を見ることができる。「木落とし」とは、七年に一度十二支の寅と申の年に行なわれる、諏訪大社最大の祭りである。正式名は「諏訪大社式年造営御柱大祭と言い、千二百年前、平安時代からの伝統的な天下の祭典で、2ヶ月に渡る雄大な規模の豪壮な行事である。
木落としを過ぎると、左に入る小道があり「芭蕉句碑」が置かれている。
「雪散や穂屋のすすきの刈残し」
調べてみると、「穂屋を作るために刈り取った時、刈残したすすきに今雪が散っていることだろうか」という句意だそうで、「穂屋」とは、すすきの穂で作った神の御在所で、信州諏訪地方で穂屋を作る風習があるとのこと。
先へ行くと、「諏訪大社下社(秋宮)3.1㎞和田峠8.9㎞」」の道標がある所で時計を見ると午後3時30分、4時半頃には、下諏訪に着けそうだ。
そこから、しばらく行くと右手の民家の前に「一里塚碑」があり、下諏訪の一里塚と呼ばれる、五十五番目の一里塚である。いよいよ、「下諏訪宿」。
6時45分に民宿」を出てから歩いた距離は25キロ余り、ハードな一日であった。
その間、一人の人とも出遇わなかった。(国道を猛スピードで飛ばす車には遇ったが。)
今日初めて話したのは、小学生の女の子3人組、下諏訪駅までの道を教えてもらった。
ところで、どこだかのテレビ局の女性アナウンサーが、「旧中山道」を「いちにちじゅうやまみち」と読んだと、何かの本に書いてあった。今日一日を振り返ればあながち間違いではなさそうである。島崎藤村も小説「夜明け前」の書き出しで「木曽路はすべて山の中である。」と言っている。
中山道旅日記 4 熊谷宿ー横川駅(松井田宿)
6日目(2015年10月1日(木))熊谷宿―深谷宿
夏の間、中断していた歩き旅の再開である。
第8宿 熊谷宿・本陣2、脇本陣1、旅籠19
(日本橋より16里14町40間 約53.1キロ・鴻巣宿より4里6町40間 約16.32キロ)
熊谷宿は、JR熊谷駅から国道17号に向かって歩くと筑波の交差点にぶつかる。
17号を進むと本町があるがその手前にあった東木戸から、西木戸があった八木橋デパート(中山道は、デパートの中を通っていた。)あたりまで多くの店、旅籠などが軒を連ねていたのであろう。
さて、熊谷市役所入り口を過ぎると入り口に鳥居が幾重にも並んだ神社がある。
ここが高木神社である。高木神社は、神話の神・高皇産霊尊(たかむすびのみこと)を祀った神社で、天正18年(1590)石田三成の忍城攻撃の際に焼失したのを、忍城主・阿部正能により再建され、現在に至っている。
その先に、札の辻碑が置かれている。札の辻は、高札の設置場所で高札場とも言われた。高札は、掟・条目・禁令などを板に書いた掲示板で、一般大衆に法令を徹底させるため、市場・要路など人目を引く所に掲示された。
さらにその先には、本陣跡碑が設置されている。
ここは、竹井本陣があったところで敷地1600坪、建坪700坪、47部屋もあって日本一の規模であった。が明治の火災と、戦災で失われてしまった。今は、別邸だった星渓園が近くに残っている。
星渓園を訪ねてみた。早朝でもあり非常に静かで趣のある庭園であった。
旧道に戻り熊谷寺(ゆうこくじと読む)へ行ってみたが「参拝、観光等は一切不可」の立て札があり中に入ることはできなかった。
熊谷寺と境内地を接して奴伊奈利神社がある。
奴伊奈利神社の由緒によれば
奴伊奈利神社は、熊谷次郎直実の守護神(弥三左衛門稲荷として、元久2年(1205)に熊谷直実の邸内(熊谷寺内)に建てられたという。
明治2年に神仏分離令により伊奈利神社へ合祀され、鎌倉町・八坂神社境内に遷座したが明治31年に当地に遷座し、現在に至っている。
奴伊奈利神社は、「奴稲荷」の通称とともに子育ての神として名高く、地元熊谷はもとより遠くは本庄・高崎など各地に崇敬者がおり、その霊験はあらたかだという。
中山道に戻ったところが鎌倉町交差点で、八木橋デパートがありデパートの前に「旧中山道跡」」の碑がある。江戸時代、中山道はこのデパートの中を縦断していた。
デパートのサービスカウンターに「旧中山道跡」というパンフレットがあり、その中に次のような碑文が」書かれている。
「江戸時代、ここに中山道が通っていました。(中略)
東口の碑は、ここから南へ通じる石尊街道(鎌倉街道)の入り口にあります。
西口の碑は、熊谷宿の西橋にあり、ここから北へは新田道(大田道)が通じています。」
デパートの裏口にも「旧中山道」の石柱がある。
この付近が熊谷宿の出口であったのだろう。
ここから旧道は、国道17号と別れ、車通りの少ない道になる。
しばらく行くと再び国道17号に合流する手前に八坂神社という小さな社があるが、奴伊奈利神社が遷座した八坂神社ではない。
さて、旧道は再び国道17号に合流する。
国道をしばらく行くと左手の小さな公園の中に3つの秩父道標が残っており説明碑が建てられている。もともとは中山道の十字路にあった道標で室町時代から始まった観音信仰の巡礼者のためのものであったという。
3つの道標はそれぞれ年代がちがう、
刻まれている文字は、「ちゝぶ道志まぶへ十一リ」「秩父観音巡礼道」「寶登山道」。
その少し先で旧道は、国道と別れ左に入っていくとすぐに大きな欅の木が見える。
これが、植木の一里塚(新島の一里塚)である。
この一里塚は、旧中山道の東側に築かれたもので、今でも高さ12m、樹齢300年以上のけやきの大木が残っている。
慶長9年(1604)江戸幕府は江戸日本橋を起点に、東海道・中山道など主要な街道沿いに旅の道のりの目印とするため、一里ごとに一里塚を設けました。
当時は中山道の両側に五間四方の塚を築き、榎など植えられたと言われるが、西側の石原分の塚は現在残っていない。
一里塚の左手に「麻多利神」がある。
国道と別れた旧道は、車も少なく静かである。
しばらく行くと左手に「忍領」の領界を表す碑が残っている。
「従是南忍領」と掘られたこの石領は、忍藩が他藩の土地との境界を明らかにするため、藩境の16箇所に建てたものの一つである。 また大字石原字上植木には、「従是東南忍領」と彫られた石標がもう一基ありましたが、そちらは現存していない。
この碑は、当時の原型を今もとどめており、非常に珍しいものだそうである。
その先、旧道は、国道17号と出会うがその手前に小さなお地蔵様を見つけた。
17号を横切る歩道橋を越え、旧道を進むと右手に小さな不動尊がある。
道の左手に旧家があり、右手には地蔵尊、庚申塔、二十二夜塔などが置かれている。
その先右手に、熊野大神社、御嶽神社もある。
熊野大神社は、広くはないが長い参道が続いており、縁日には野師が店を並べるのであろうか。御嶽神社があるのは、木曽の御嶽山信仰が盛んであったものと思われる。
さらに先へ進むと庚申塔があり、お地蔵様が祀られている。
その先は、欅並木で欅の並木道を抜けると左手に国済寺がある。
国済寺由来書
「関東管領上杉憲顕(のりあき)が、十三世紀末、新田氏をおさえるため、この地庁鼻和(こばなわ)に六男の上杉蔵人憲英をつかわし館を築かせました。憲英はのち奥州管領に任じられ、以来憲光・憲長と三代この地に居住しました。館は一辺170mの正方形で、外郭を含めると、28ヘクタールあります。慶応 2年(1390)高僧峻翁令山禅師を招いて、館内に国済寺を開きました。本堂裏に当時の築山と土塁が残っています。天正18年(1590)に徳川家康から寺領三十石の朱印状を下付されています。文化財に令山禅師と法灯国師の頂相(ちんそう)、黒門、三門、上杉氏歴代の墓などが指定されています。」
余談ではあるが戦国時代には、長尾景虎が時の関東管領・上杉憲政から山内上杉氏の家督を譲られ上杉政虎と改名し、さらに足利義輝より「輝」の字を受け上杉輝虎と名乗った。後には「謙信」の法名を称している。
国済寺を過ぎると中山道は17号を横切るが、交差点のところに「見返りの松」があった。この松は、樹齢300年とも500年ともいわれたりっぱなものであったが車の排気ガスのため枯死してしまい平成18年2月に伐採のやむなきに至ったのだという。
今の松は、当時を偲んで植えられた2代目の松だそうである。
熊谷宿は、近隣の村人の強い反対で宿場に「飯盛り女」をおけなかったため旅籠は19軒と少ない。その分、「飯盛り女」をおいていた深谷宿は、旅籠も80軒と多く繁盛したようである。「見返りの松」は、深谷宿にとまった旅人が一夜をともにした「飯盛り女」に別れを惜しんで何度も見返ったところから名づけられたという。
交差点を渡ってしばらく行くと右手に常夜灯(東の常夜灯)が見える。
この常夜灯が深谷宿の入り口である。
晴れわたっていた朝の空は、午後には曇り空に代わり今にも泣きだしそうになったかと思うと冷たいものが降り始めた。しとしとと降っていた雨はだんだん激しくなってきたため今日はここまでとし、JR深谷駅から帰宅することにした。
これも余談ではあるが深谷駅は素敵な駅であった。
7日目(2015年10月8日(木))深谷宿―本庄宿-神保原駅
(日本橋より19里5町40間 約63.6キロ・熊谷宿より2里27町 約10.5キロ)
宿場の規模は、大津宿に次いで中山道では2番目に大きい宿場であった。
江戸時代の男の足で日本橋を出て二日目の泊がここ深谷宿であったという。
つまり、当時男性は一日に約十里(40キロ)歩いたということになる。
今のペースが一日にせいぜい17~18キロであるから目的は違えど当時の人は随分と健脚であったようだ。
さて、前回は雨に降られ深谷駅まで歩を速めたため今回は「行人橋」まで戻ってのスタートである。
「行人橋」は唐沢川に架かる橋で、江戸時代、川が氾濫し何度も橋が流されたため、」行人」という僧が托鉢をして集めた浄財で橋を架けたことにより「行人橋」と名付けられたのだという。
橋のたもと、唐沢川右岸橋詰めに明治31年に建立された「行人橋碑」がある。
行人橋の先の交差点が本庄町、そこから仲町、深谷の交差点を過ぎたところにある飯島印刷所付近が深谷宿本陣跡である。
古い民家が商店街にそのまま店を出している。
造り酒屋・菊泉を過ぎてしばらく行くと常夜灯(西の常夜灯)がある。
このあたりが宿場の出口なのであろう。
その先、左側に清心寺がある。
この寺には、平清盛の弟で薩摩守となった平忠度(ただのり)の墓がある。
忠度は、一の谷の合戦で源氏方の岡部六弥太忠澄に討たれ、その後、その死を哀れんだ忠澄によりここに葬られたそうである。
清心寺の入り口には、「道祖神」や「庚申」等が集められている。
旧道は、やがて国道17号と出会うが17号をとの交差点「宿根」を渡ったところに滝宮神社がある。
この先をしばらく行くと、右手に普済寺があり、さらに先へ行くと岡部六弥太の墓がある。瀧宮神社は、室町時代、後土御門天皇の御代、明応7年にこの地に鎮座されたそうである。
旧道は、その先再び17号に合流し、しばらく行くと「八坂神社」があり安倍南の交差点を渡ったところに「二十二夜塔」があり右に入ると正明寺である。
二十二夜塔
二十二夜塔は、二十二日の夜に人々が集まり、勤業や飲食を共にし、月の出を待つ「月待」の行事を行った女人講中で、供養のために造られた塔である。「二十二夜」を刻んだものと、如意輪観音の像を刻んだものがある。全国的には「二十三夜塔」が最も一般的であったが二十二夜塔は埼玉県北西部から群馬県の中西部に濃密に分布している。江南地区の月待塔はほとんどが二十二夜塔となっている。
さて、旧道は再び17号に合流する。この辺りは、岡部と呼ばれた集落で、源氏の雄・岡部六弥太忠澄の出生の地として知られている。
しばらく行くと岡部北の交差点の手前に源勝院がある。源勝院は、岡部の地を領地とした阿部家の菩提寺として造られた寺だそうだ。
源勝院をあとにしばらく行くと阿部神社がある。
さらに行くと善済寺の交差点が見えてくる。この信号を右折すると庚申塔が集められておりここにも二十二夜塔がある。
その先が善済寺である。
さらに右手に進むと畑の中に岡部忠澄の墓がある。墓は五輪塔になっている。
五輪塔は三つあり中央が忠澄の墓、左が夫人、右が父のものだそうだ。
元の道路に戻りしばらく行くと旧道は17号と別れる。
旧道に入る手前に馬頭観音がある。
旧道に入ったすぐのところに松尾芭蕉の句碑がある。
「原中や物にもつかず、なく雲雀」
(はらなかやものにもつかずなくひばり)
何者にも束縛されないひばりの自由さと孤独さを読んだ句である。
旧道は、車も少なく静かである。そのようなお旧道をしばらく行くと島護産泰神社が見える。この付近は古くから利根川の氾濫に悩まされたため村の守護神として信仰を集めたと神社の説明版に書かれていた。今は、安産の神様でもあり毎年四月十日の春祭りには「里神楽」が奉納されるそうである
岡部を抜けて小山川に出る途中に百庚申がある。
以下のような事柄が説明版に書かれている。
「百庚申は、岡坂下への降り口、旧中山道に沿う坂道に建てられている。
百庚申が建立されたのは、幕末、万延元年庚申の年(1860)で、岡の有志13人により計画され、翌年の万延2年にかけて完成をみた。
このことは、庚申塔群の中に、大形の板石に庚申と記した庚申塔があり、その裏面に刻まれている文字によりうかがい知ることができる。これによれば、百庚申造立の中心人物は、「田島新兵衛、(以下12名略)」という人々であったことがわかる。
もともとこの場所には、享保元年(1716)に造立された庚申塔があって、二十二夜待塔、馬頭観音の石碑も立っていた。
万延元年は、徳川幕府の大老井伊直助が江戸城の桜田門外において水戸浪士たちにより、暗殺されるという大きな事件があったり、黒船来航により永い鎖国の夢をやぶられた日本の国情は騒然としたもので、民衆の生活も不安なものであった。このような状況にあって神仏に頼ろうという心理と、万延元年(庚申の年)がかさなり百庚申が造立されたと言えよう。」
百庚申を過ぎると国道17号線の岡交差点に出る。ここを横断して小山川に架かる滝岡橋を渡る。ビニールハウスが並んでいる畑道を行くと、「この先通り抜けできません」の標識がみえるがこれは車のためのもので歩行者は「歩道」の標識に従って行けばよい。
やがて旧道に出るが、その手前に馬頭観音、庚申塔が集められている。
先に進むと、右手に藤田小学校がありその先に「八幡大神社」がある。ここは古くは「金鑚大神社」とも呼ばれ「金鑚神楽」という神楽が伝わっている。
八幡大神社からしばらく行くと「子育て地蔵」が祀られており、ここにも庚申塔などが集められている。
しばらく行くと「傍示堂」という場所に出る。当時この辺りは立場でにぎわっていたということである。ここには、傍示石の代わりにお堂が立っていたので「傍示堂」とあったというようになったということである。
ここは、江戸時代、「武州」と「上州」の境であったという。
立場とは、「江戸時代に五街道やその脇街道に設けられた休憩施設」のことである。
傍示とは、「傍(ふだ)を立てて、ここが国境であるということを示したもの」
やがて、旧道は「御堂坂」と呼ばれる緩やかな登り坂になる。左手に庚申様が祀られている。坂を上り切ったところが「東台」というところでしばらく行くと「中山道交差点」がある。このあたりが本庄宿の入り口ということである。
第10宿 本庄宿・本陣2、脇本陣2、旅籠70
(日本橋より21里30町40間 約85.8キロ・深谷宿より2里25町 約10.6キロ)
本庄宿は、旅籠の数からしてもかなり大きな宿場であったようだ。
その理由は、城下町であったことと武蔵国と上野国との境であったことであろう。
さて、本庄駅前入口交差点を右折すると本庄市役所の裏手に本庄城跡があり、城址には「城山稲荷」がある。
本庄城は、本庄氏が小田原方であったため秀吉の小田原攻めの時に落城したが徳川家康の家臣・小田原氏が入城し再び城下町として栄えた。その後小田原氏が古河に移封され廃城になった。
街道に戻り、しばらく行くと資料館がありその隣に本陣の門がある。
本陣(田村本陣)は江戸時代、本庄駅前入口交差点の少し先、りそな銀行付近にあったそうだが今はこの場所に移設保存されている。
街道に戻って中央3丁目の信号を右手に入ったところに安養院がある。
安養院
寺伝によると、創立は文明7年(1475)という。武蔵七党の一党である児玉党の一族本庄信明の弟の籐太郎雪茂が仏門に帰依して、当時の富田村に安入庵を営んだが、水不足に悩まされたため、土地を探したところ、現在の地を発見し、安養院を開基したと伝えられる。以後付近は水不足に悩まされることもなく、周辺の人々から“若泉の荘”と呼ばれるようになったという。
なお慶安2年(1649)には、徳川幕府より25万石の朱印地を受けている。
街道に戻り先へ進むと右手に「金鑚神社(かなさなじんじゃ)」が見えてくる。
金鑚神社の祭神は、天照大神(あまてらすおおかみ)、素戔嗚尊 (すさのおのみこと)、日本武尊(やまとたけるのみこと)の三神である。
社伝によると、創立は欽明天皇の2年(547)と伝えられている。武蔵七党の一つである児玉党の氏神として、また、本庄城主歴代の嵩信が厚かった。
境内は、ケヤキやイチョウなどの老樹に囲まれ、本殿と拝殿を幣殿でつないだ、いわゆる権現造りの社殿のほか、大門、神楽殿、神輿殿などが建っている。本殿は享保9年(1724)、拝殿は、安永7年(1778)幣殿は嘉永3年(1850)の再建で、細部に見事な獄彩色の彫刻が施されており、幣殿には、江戸時代に本庄宿の画家により描かれた天井画がある。
当社の御神木となっているクスノキの巨木は、県指定の天然記念物で、幹回り5.1m、高さ約20m、樹齢約300年以上と推定される。これは本庄城主小笠原信綱の孫にあたる忠貴が社殿建立の記念として献木したものと伝えられる。
このほか、当社には市指定文化財となっているカヤ、モミ、大門、神楽、小笠原忠貴筆建立祈願文がある。
このあたりからは、宿場のはずれになるのだろう。
旧道を進むと左手に赤い鳥居が見える。ここは、「浅間山古墳」で7世紀後半に造られた古墳で現在は稲荷神社になっている。
本日は、ここまで。神保原駅から帰宅。
風の強い一日であった。
8日目(2015年10月16日(金))神保原駅―新町宿-倉賀野宿-高崎駅
神保原駅から中山道に戻りしばらく行くと庚申塔や二十三夜塔などが集められている。
中山道を歩くと「庚申塔」や「二十二夜塔」「二十三夜塔」をよく見かける。
「庚申塔」の本尊が「青面金剛」とされているのに対して「二十二夜塔」「二十三夜塔」は、「月待供養」をもとに建てられたもので「如意輪観音」を表現しているという。
江戸時代には「庚申信仰」、「月待信仰」が特に女性の間で盛んであったという。
さて、その先には八幡神社がありさらにその先右手の畑道をゆくと金窪城跡がある。
金窪城は、神流川の合戦で落城した。
神流川の合戦は、織田信長が本能寺の変で討たれたと聞いた滝川一益出陣した時の「北条氏政」との戦である。
旧道に戻りしばらく行くと陽雲寺が見えてくる。
陽雲寺は、武田家ゆかりの寺で、武田家滅亡後、信玄の甥「信俊」は、生き残って徳川家康に仕え、「川窪」と名乗ってここに八千石を与えられたといわれている。その縁もあって信玄の正妻「三条夫人」がこの付近に住み仏門に入ったといわれている。この寺は、三条夫人の戒名から陽雲寺と呼ばれるようになったという。
「中山道」と題したこんな説明版を見つけた。
「中山道は江戸と京都を結ぶ街道で、江戸時代以降五街道の1つとして整備が進められました。
金窪村(現上里町大字金久保)は、江戸から12里余、文政期(1818年から)の家数は162軒、絵図では陽雲寺や八幡宮が見られます。新町宿への直道ができるまでは、陽雲寺の東で北へ向きを変えて角渕(現群馬県玉村町)を経て倉賀野宿へ向かっていました。
この道は三国街道とか伊香保街道と呼ばれていました。新町宿が設けられたのは、中山道中最も遅い承応2年(1653年)頃です。
勅使河原町(現上里町大字勅使河原)家数は280軒。絵図では武蔵国最後の一里塚が見えます。現在の街道は、ここで国道17号線と合流します。川のたもとには一般の高札と川高札が並んでいた事がわかります。左奥には神流川畔に建てられていた見透燈籠が移築されている大光寺が見えます。」
陽雲寺からしばらく行くと庚申塔があり、国道17号と合流する手前に小さな社がある。これが勅使河原の一里塚がある。
勅使河原の一里塚の先へ進むと「武蔵国」と「上野国」を分ける神流川を渡ることになる。この橋の両側の橋詰めに常夜灯が置かれており新町側の常夜灯については、俳人・小林一茶の日記に記されている。日記の内容を要約すれば「高瀬屋」という旅籠に泊まった一茶は、夜中に提灯を持った人に起こされ、常夜灯を立てるので十二文の寄付を強要された。自分は、懐具合がよくないので勘弁してほしいと断ったが全く聞き入れてもらえなかったという。その時に残した句が「手枕や小言いうても来ぬ蛍」一茶は、提灯のほのかな明かりを蛍にたとえたといわれている。
川を渡ったところに「神流川合戦碑」がある。
合戦については前に述べたとおりであるが、戦に敗れ厩橋城へ退いた滝川一益は、この戦で二千七百人もが戦死したとされている。このあたりは、そのように悲惨な戦が行われた場所である。
旧道はこの先で17号と分かれ、右手へ行けば新町宿、上州路である。
第11宿 新町宿・本陣2、脇本陣1、旅籠43
(日本橋より23里30町40間 約93.7キロ・本庄宿より2里 約7.85キロ)
新町宿は、その名の通り中山道で最も遅く成立した宿場町であるが江戸時代の後期にはかなり」栄えたという。
旧道に入って交差点を渡った右手に八坂神社があり、「芭蕉句碑」がある。
昔、このあたりに「柳の茶屋」があり芭蕉はその茶屋で句を詠んだのであろう。句碑は天保年間に大きな柳の木の近くに造られたものだという。
句碑には「傘(からかさ)を押し分け見たる柳かな」と彫られている。
このあたりから道路はきれいに舗装されており先へ進むと右手に「諏訪神社」がみえる。
諏訪神社は、笛木村の鎮守として本屋敷(新町駅周辺)に祀られたが、宝永五年に、現在地に移された。諏訪神社系の祭神は建御名方命。
元禄時代の鳥居
以前は、神社の入り口に建っていたもので、近年老朽化して危険なので、新しい鳥居に建て替えられた。そして神社の北裏に半分埋められた状態で保存されるようになった。
諏訪神社の先の個人宅の中に「高札場跡」が残っている。
高札場跡の側面に「新町宿は、落合新町と苗木新町が合併して成立した。ここがその両町の境で。幕府の禁制・掟など木札を立てて公示した場所である。」と記されている。
さらにしばらく行くと右手に「行在所公園」が見えてくる。公園には「上野の国新町宿」の碑がある。ここは、明治十一年、明治天皇巡行の時に泊まった場所で石碑が建てられ家が復元されている。
行在所公園の右手奥に「於菊稲荷神社」があり、以下のような伝説がある。
「宝暦年間(1751~1763)、新町宿の大黒屋の娼妓於菊は、美人で宿場随一の売れ妓だったが重病にかかり不治の病と宣告された。於菊は日頃信仰していた稲荷神社の境内に小屋を建て3年間、病気快癒の祈願をしていた所、夢枕に稲荷大明神が立ち今後人の為に尽くすことを条件に病気を治したそうである。病気が治った於菊は不思議なことに霊力が付き未来の事が予見出きるようになり、そのまま神社の巫女となり多くの人達の相談を受けるようになった。その話は広がり、近隣、遠方から多くの参拝者が訪れいつしか於菊稲荷神社と呼ぶようになったそうである。」
さて、中山道に戻り公園の先には、一茶が常夜灯の寄付金を強要されたという旅籠屋「高瀬屋跡」と彫られた碑がある。碑には一茶七番日記の一節が彫られている。
「十一 雨 きのふよりの雨に烏川留まる
かかることのおそれを思へばこそ 彼是日を費やして門出はしつれ いまは中々災いの日をよりたるよう也 道急ぐ心も折れて日は斜めならざれど 新町高瀬屋五兵衛に泊
雨の疲れにすやすや寝たりけるに夜五更の頃専福寺とふとく染めなしたる提灯てらして枕おどろかしていふやう 爰(ここ)のかんな川に灯篭立て 夜のゆききを介けんことを願ふ 全く少なきをいとはず施主に連れとかたる かく並々ならぬうき旅一人見おとしたらん迚(とて) さのみぼさち(菩薩)のとがめ給ふにもあらじ ゆるし給へとわぶれど せちにせがむ さながら罪ありて閻王の前に蹲る(うずくまる)もかくやあらんと思ふ 十二文寄進す
手枕や 小言いふても 来る蛍
迹(あと)へ帰らんとすれば神流川の橋なく前へ進まんと思へば烏川舟なし
たゝ篭鳥の空を覗ふばかり也
とぶ蛍 うはの空呼したりけり
山伏の 気に喰わぬやら 行蛍
一茶七番日記より」
高瀬屋から少し行ったところに「小林本陣跡」の碑が立っている。新町宿には、もう一軒「久保本陣」があったそうだが今は残っていない。
当時、小林本陣あたりが新町宿の出口ですぐ先に「温井川」が流れていた。
温井川の橋詰めには、弁財天が祀らており、松尾芭蕉の句碑が置かれている。
芭蕉が詠んだ句は、「掬より(むすぶより)はや歯にひびき泉かな」
あまりにも泉の水がきれいなので両手ですくって飲もうとしたが、口に入れる前にその冷たさが歯にひびく思いがした。」という意味だそうだが、これは、
紀貫之の「袖ひじてむすびし水のこほれるを春立つけふの風やとくらむ」
と同じ意味で使っているのであろう。
さて、温井川を渡り宿場を出てからしばらく行くと右手に「伊勢島神社」がある。
中山道は、やがて烏川の土手に出てその土手を歩いてゆくことになる。
次の倉賀野宿へは、この烏川を渡らなければならないが、当時は舟の「渡し場」があり
対岸の岩花村へは、渡し舟で渡ったそうである。
今は、烏川に架かる柳瀬橋を渡ることになる。
これは、柳瀬橋からみた烏川の風景。
橋を渡り、岩花村に入ってしばらく行くと「中山道 倉賀野宿」の道標がある。
さらに歩いてゆくと「閻魔堂」が見えてくる。このあたりが倉賀野宿の入口なのであろう。
閻魔堂には、常夜灯や道標が残っておりここは「日光例幣使街道」との追分でもあったようである。例幣使とは、徳川家康の命日に行われる日光東照宮への使いのことでここから始まる道を「日光例幣使街道」と呼んでいたのだそうだ。
そういえば、島崎藤村の「夜明け前」にもそのようなことが書いてあったような気がするが記憶があいまいで定かではない。
(日本橋より25里12町40間 約99.59キロ・新町宿より1里18町 約5.89キロ)
さて、倉賀野宿である。街道には古民家が多く残っていて趣のある宿場町である。
江戸時代の倉賀野宿は、江戸寄りから「下町」「中町」「上町」と呼ばれ「中町」が宿場の中心であったようだ。
「中町」のスーパー・ベイシアマートのあたりに本陣があり今は本陣跡の碑が置かれている。その先の倉賀野駅前交差点を渡ったところに「中町御伝馬人馬継立場跡」の碑が立てられている。ここが問屋場だったのであろう。
さらに、道を挟んで脇本陣が二件あったらしく「脇本陣跡」の碑がみられる。
その先右手に高札場跡があり、
「安政2年、倉賀野宿に大火災が発生し宿場全部を焼き尽くすほどの勢いであったが不思議なことに、この樅の木に天狗が現れ傍の1軒の家を必死で火災から守った。」という伝説が残っている。
その先を左に入ると「倉賀野神社」である。
倉賀野神社の入り口には、旅籠屋や飯盛り女たちの名が書かれた玉垣がある。
「中町下町境にある太鼓橋は享和ニ年(1802)宿内の旅籠屋、飯盛女たちが、二百両も出し合って石橋にかけ替えたものである。
その飯盛女たちの信仰を集めたのが横町の三光寺稲荷(=冠稲荷)であるが、社寺廃合令により明治四十二年(1909)倉賀野神社に合祀された。
社殿は前橋川曲の諏訪神社に売られて行き、常夜燈と玉垣は、倉賀野神社と養報寺に移されて残っている。
天保時代(1830~1843)倉賀野宿は旅籠屋が三十二軒もあり、高崎宿の十五軒を上回るにぎわいを見せていた。
本社前の常夜燈は文久三年(1863)「三国屋 つね」が寄進したもの、玉垣にも「金沢屋内 りつ、ひろ、ぎん」「升屋内 はま、やす、ふじ」「新屋奈美」など数多く刻まれている。
また元紺屋町の「糀屋藤治郎」、田町の「桐屋三右兵衛門」ほか高崎宿の名ある商家、職人も見える。
倉賀野河岸と共に宿場の繁栄を支えてきた旅籠屋、飯盛女たちの深い信仰とやるせない哀愁を物語る貴重な石造り文化財である。
(狂歌)「乗りこころよさそふにこそ見ゆるなれ 馬のくらがのしゅくのめしもり」
~十返舎一九~
また、境内の「飯玉縁起」には次のように書かれている。
「飯玉縁起」
「光仁天皇(771-780)の御代、群馬郡の地頭群馬大夫満行には八人の子がいた。 末子の八郎満胤は、芸能弓馬の道にすぐれていた。 ところが兄たちは八郎を夜討ちにして、鳥啄池の岩屋に押し込めた。 三年後、八郎は龍王の智徳を受けて大蛇となり、兄たちとその妻子眷属まで食い殺した。 その害は国中の人々まで及ぶようになったので、帝はこれを憂え、 年に一人の生贄を許した。
やがて、小幡権守宗岡が贄番に当たる年、十六歳の娘海津姫との別れを共々に嘆き悲しんだ。 都からやってきた奥州への勅使、宮内判官宗光はこれを知り、 海津姫と共に岩屋へ入った。 頭を振り尾をたたく大蛇に向かい、一心に観世音菩薩を唱名、琴を弾いた。 これによって、大蛇は黄色の涙を流して悔い改め、 神明となって衆生を利益せんと空に飛んだ。 烏川の辺へ移り、「吾が名は飯玉」と託宣し消え失せた。 これを見た倉賀野の住人高木左衛門定国に命じて、 勅使宗光が建てさせたのが「飯玉大明神」であるという。」
ここには、室町時代の「板碑(いたび)」が保存されている。「板碑」は、鎌倉時代から室町時代に作られ、「卒塔婆」と同じように供養塔として使われた石碑の一種だそうである。
安楽寺を出て中山道に戻るが、この先これということもなく、淡々と歩を進めてゆくと上信鉄道の交差点を越える。このあたりが高崎宿の入口であろうか。
本日は、ここまで。高崎駅から帰宅。
9日目(2015年10月29日(木))高崎駅―高崎宿-板鼻宿-安中駅
高崎駅は、通勤でほとんど毎日乗っていたのでなじみのある高崎線の終点で新幹線、各在来線および上信電鉄の上越線が乗り入れている。
JRの在来線は、高崎線をはじめ上越線、信越本線、八高線、両毛線、吾妻線と合計6方面の列車が発着している大きな駅である。
第13宿 高崎宿・本陣0、脇本陣0、旅籠15
(日本橋より26里31町40間 約105.59キロ・倉賀野宿より1里18町 約6.0キロ)
ここは、古くは「赤坂」、鎌倉時代には「和田」と呼ばれていたが慶長年間、「井伊直政」により城が築かれてからは、「高崎」と改名された。
江戸時代には、商業地として大いに栄えたが宿場としての規模は小さく、本陣、脇本陣はなく、旅籠はわずか15件であった。それは、城下町であるがゆえに城主に気を使い参勤交代の大名はこの地に宿をとらなかったからであろう。
さて、商店街になっている旧道を進むと左手に愛宕神社がある。
庚申塔も祀られている。
その先新町(あらまち)交差点を右折してすぐのところに「諏訪神社」がある。
新町諏訪神社は、江戸時代の高崎について記した地誌「高崎誌」によれば、慶長四年(1599)、箕輪城下の下ノ社を勧請したことにはじまるという。
本殿は土蔵のような外観を持つ珍しい総漆喰の塗籠造である。
高崎城は現在残っていないが公園として整備されており、朝の城址公園は誠にのどかなものであった 。
公園の奥には、旧高崎城主、松平氏の先祖、源三位頼政公祀っている「頼政神社」がある。
旧道に戻り、雀連町のバス停のところを右に入ったところに「大信寺」がある。
ここに駿河台納言忠長(徳川忠長)の墓がある。
忠長(幼名・国千代)は、父で徳川二代将軍「秀忠」や母の「江」に寵愛されたが、春日局の家康への直訴により兄「家光(幼名・竹千代)」との跡目争いに敗れ、その後、駿河・遠江・甲斐・信濃などで五十五万石、駿府城城主となったが秀忠の死後高崎藩に幽閉され「将軍・家光」により自刃させられた。弱冠二十八歳であったという。誠に不憫なことではある。
さて、旧道に戻り本町三丁目の交差点を左に行くと土蔵造りの家が残っている。
さらに行くと本町一丁目の交差点に出、その先に「赤坂通り」という狭い道が続いており、常磐町交差点の手前に古民家そのままの「岡将醤油株式会社」がある。
常磐町を右折しさらに行くと「烏川」に出るがその手前に「正一位稲荷大明神」があり「皇紀二千六百年記念」の碑が立っている。
烏川に出ると、明治天皇が通った記念に名づけられた「君が代橋」という親柱が保存されている。
ここから烏川を渡り右折して中山道に入り、しばらく行くと下豊岡の道標があり説明版が立てられている。
正面 榛名山 かわなか
草津温泉 かわらゆ温泉
はとのゆ
右側面 従 是 神山 三里
三ノ倉 五り半
大戸 九り半
左側面 左 中山道 安中
松井田
横川
右手には小さな「八坂神社」があり「くさつみち」と彫られた道標も残っている。
しばらく行くと左手に「若宮神社」見えてくる。
若宮神社は、平安末期、永承六年(1051)源頼義・義家父子が建立したと伝えられている。伝説によると、境内には「八幡太郎腰かけ石」なるものがあったそうだが今ない。
その先に、二十三夜塔が祀られている。
やがて、「常安寺」が見えてくる。
その先、左手に庚申塔がある。
豊岡中学校入口の先、左手に「茶屋本陣」がある。「茶屋本陣」とは、大名指定の休憩処でかなり豪華なものであったという。
やがて、旧道は国道18号と合流するがその手前にお堂があり、その奥に道祖神、庚申塔が置かれている。
(日本橋から長らく付き合ってきた国道17号は、「君が代橋東交差点」から国道18号に代わる。)
国道18号をしばらく行くと右手に小さな稲荷神社があり道路の反対側に「一里塚」が残っている。この一里塚は、群馬県でただ一つ残っている塚でその貴重さから県の指定史跡になっている。
車の多い、殺風景な国道を烏川沿いに行くと、対岸に「少林山・達磨寺」がある。
橋を渡って「達磨寺」に行く道すがら「馬頭観音」があった。
少林寺達磨寺の開山は、「信越禅師」で、禅師の描いた「達磨座像」が幸運のお守りとして信仰され、後に張り子の達磨になったということである。
本殿は、延々と続く階段を上がった奥にある。
達磨寺縁起
「昔、碓井川のほとりに観音様のお堂がありました。
ある年の大洪水のあと、村人たちが川の中から香気のある古木を引き上げて霊木として観音堂に収めておきますと、延宝八年(1680)一了孤居士(いちりょうこじ)という行者が霊夢によって訪れ、信心を凝らして一刀三礼、達磨大使の座像を彫り上げ観音堂にお祀りしました。この噂は「達磨出現の霊地・小林山」として近隣に広まりました。その頃の領主・酒井雅楽頭忠挙公は、厩橋城(前橋城)の裏鬼門を護る寺として、水戸光圀公の帰依した中国僧・東皐心越禅師を開山と仰ぎ弟子を水戸から請じて、元禄十年(1697)小林寺達磨寺(曹洞宗寿昌派)を開創しました。」
達磨堂縁起
「縁起だるまは、江戸時代に庶民の縁起ものとして作られはじめました。それがたちまち全国に普及し、各地でそれぞれ風土の素材を生かして、張子・焼物・木・石などを用いて由緒ある姿に作られてきました。また達磨の名は七転び八起き、不撓不屈の精神にあやかって物産や商品の名前・商標あるいは屋号などにまで及んでおります。
当寺は、縁起だるま発祥の寺として全国のだるま、およびその資料の収集保存に努めて来ましたが、この度、縁あって大阪在住の大山立修氏から永年収集されただるまのご寄贈を頂きましたので、収蔵する各地各様のだるま及びその資料を展示して、ご参詣の皆様に達磨大師信仰のひろがりを紹介し、更に達磨大師のご縁を広めるため、ここに達磨堂を開堂しました。 昭和61年10月」
境内にある「招福の鐘」は、誰でも自由につくことができる。
「鐘を突くときは、心静かにゆっくり二回」
「一つ目は、自分の心が安らかでありますように
二つ目は、みんながしあわせになりますように」
と、鐘を突くときの心得が書かれている。
さて、国道に戻るとすぐ右手に大きな鳥居が見えてくる。その奥に「八幡宮」がある。
この寺は、「八幡太郎義家」ゆかりの寺といわれ義家が奉納した甲冑なども残っているそうで「源頼朝」や「武田信玄」などの武将信仰を集めたという。
参道には、青銅製の灯籠も残っている。
国道に戻り、板鼻下町交差点の先を左折すると旧道である。このあたりが宿場の入口であろうか。
(日本橋より28里25町40間 約112.8キロ・高崎宿より1里30町 約7.2キロ)
旧道を歩き、板鼻川を渡ると右手に双体道祖神があり、その先に庚申塔とお地蔵様がある
JRの踏切を越えたところに「榛名道」を示した道標が残っている。榛名道との追分である。
道標を過ぎてしばらく行くと板鼻公民館があり、本陣跡の碑が立っている。
この本陣には、皇女和宮も宿泊したとのことである。
公武合体の犠牲ともいえる和宮は、第十四代将軍家茂に嫁ぐため中山道を下った。
当時の女性がそうであったように東海道の川越、川留めを嫌って中山道を下ったのであろうか。中山道を歩いていると所々で皇女和宮の足跡を見ることができる。
板鼻宿をあとに歩を進めると旧道は、国道と合流し鷹巣橋を渡ることになるがその手前に鷹巣神社の鳥居などが見える。
先をゆくと中宿の交差点を右折し再び旧道に入るがその交差点のところに諏訪神社がある。
旧道をゆくと「中山道 安中宿2.0K 板鼻宿」0.4K」その先に「中山道」安中宿」1.2K 板鼻宿1.2K」の道標がある。板鼻宿」安中宿の中間地点のようである。
旧道は、この先碓氷川堤に出て再び国道に出会うがその手前に「寒念仏供養塔」がある。
やがて、碓氷川に架かる久芳橋を渡ることになるが、本日はここまでとし、安中駅から帰宅することとする。
夕日が美しい。
10日目(2015年11月5日(木))安中駅―安中宿-松井田宿-横川駅
久芳橋を渡りしばらく行くと安中宿である。
第15宿 安中宿・本陣1、脇本陣2、旅籠17
(日本橋より29里19町40間 約116.1キロ・板鼻宿より30町 約3.3キロ)
国道の下野尻の交差点を左に入れば再び旧道である。
熊野神社の手前の交差点の所に「安中宿下ノ木戸」「中山道 安中宿」の碑がある。
安中宿の入口である。
交差点を渡ると右手が熊野神社である。
この神社は、安中城を築いた安中忠政が熊野三社を勧請したものである。
境内には、樹齢千年以上とされる大欅がある。
その先、現在安中郵便局がある所が本陣跡である。
本陣跡を右折すると大山寺がある。
旧道に戻り、すこし行くと伝馬町の交差点がありそこを右に入ると旧碓氷群役所がある。
この日は、新島襄と八重の写真展が開催されていた。
旧碓氷群役所の隣が安中教会である。
アメリカから帰国した新島は最初に新島の父母が住むおうかいであ上州安中に赴き伝道を行った。新島は3週間の滞在中、藩校・造士館と龍昌寺を会場にキリスト教を講義した。1878年(明治11年)3月30日に、男子16名、女子14名の30名が新島襄より洗礼を受け、安中教会が設立された。
旧碓氷群役所の科会員の方によると、この教会は同志社大学きた牧師が管理しているのだそうだ。
旧碓氷群役所の前の通りは、「大名小路」と言われていて当時は、安中藩士の住居が並んでいたそうである。
「大名小路」を歩いてゆくと「郡奉行」の役宅や「武家長屋」が復元されている。
中山道に戻ろう。古民家もみられ昔の面影を残している
先に進むと「有田屋」という醤油屋がある。
旧碓氷群役所の係員の方によると、新島襄を随分援助した家だそうだ。
ここに、「便覧舎跡」の碑がある。有田屋・三代目当主・湯浅次郎が創設した日本最初の私設図書館だそうだ。
さらに街道をゆくと上野尻郵便局の前に「安中大木戸跡」の碑がある
安中宿を後にして先に進むと、やがて右手奥に見えるのが「愛宕神社」である。
愛宕神社を過ぎると左手に「新島襄旧宅入口」の碑が立っており、そこを左折すると新島襄の旧宅が保存されている。
街道に戻りしばらく行くと、昔は見事な杉並木があったそうである。
このあたりで街道は広くなっており車の行き来も盛んである。交通量が多くなるとともに杉並木は昔の様子をすっかりなくしてしまったのだろう。今は、昔の杉並木を偲ぶ説明版が立っているだけである。
旧道は、やがて国道18号に出会うが18号を横切ると原市3丁目の先、左手に当時の茶屋本陣があり明治天皇が小休止をとったということである。高札場跡の碑も立っている。
本陣の先には、八本木旧立場茶屋跡がある。「御休所 山田屋卯兵衛」とあり、昔から有名な茶屋であったそうだ。
山田家の向かい側には「地蔵堂」があり「地蔵菩薩像」は安中氏の重要文化財に指定されている、街道には「松井田宿 4.9km 安中宿 4.2km」の道標がある。
地蔵堂を過ぎてしばらく行くと街道には馬頭観音があり、「日枝神社」がある。
日枝神社を出て、百番供養塔、道祖神などを見ながら旧道をゆくとやがて国道18号に出会うが合流地点に妙義山道を示す「妙義山常夜灯」が残っている。
妙義山は、当時信仰の対象として多くの人が「妙義山詣で」をしたそうである
ここから先、国道18号をしばらく歩き、再び旧道に入ることになる。
旧道に入ると500mごとに道標が立っている。
余談であるが「松井田宿 0.4km」の道標の先に趣味で集めておられるのであろう、家先に色んな標識が飾られている家があった。その中に「ROUT 66」の標識を見つけた。50年以上も前であろうかジョージ・マハリス、マーチン・ミルナーという俳優が演じていた「ルート66」というドラマを思い出した。二人の若者がア\メリカの66号線をスポーツカーで旅する話である。出演者の名前を今でも覚えていたのには自分でも驚いた。ちなみにジョージ・マハリスは、主題曲も歌っていた。
中山道に戻ろう。
街道をゆくと、下町交差点がありこのあたりが松井田宿の入口であろう。
(日本橋より31里35町40間 約125.7キロ・ 安中宿より2里16町 約9.6キロ)
松井田宿は、妙義山の登山口でもあり、「妙義山詣で」の人で賑わったようだが、次の坂本宿を前にして、詮議の厳しい「横川の関所」が待ち構えていることと坂本宿の先に、難所「碓氷峠」が待ち受けていたから、「雨が降られりゃ松井田泊まり、降らにゃ越します坂本へ」と唄われ、晴れた日は次の坂本宿へ足を速めた旅人も多かったようである。
さて、先へ進もう。「下町交差点」の先に妙義山へ入る道がある。角の古民家「かんべや」に「妙義山登山口」と書かれた看板が残っている。
宿場町に入ると趣のある古民家が昔を偲ばせてくれる。
商工会議所の先に「中山道分間延絵図」の碑がある家があったが残念ながら中は見ることができなかった。公開日は、日曜日のみでそれ以外は予約が必要。
「中山道分間延絵図」とは、江戸幕府が中山道の状況を把握するために道中奉行に命じて作らせた詳細な絵地図のことである。
街道を進んでゆくと「松井田城跡」がありその先に見えるのが補陀寺である。
補陀寺は、松井田城最後の城主であった、北条氏政の家臣大道寺政繁の菩提寺である。政繁は、豊臣秀吉の北条攻の後、自刃し松井田城は、そのまま廃城となった。
補陀寺を後に街道を進んでゆくと「坂本宿 5.5km」の道標がありその先に五科村・高札場跡がある。
五科の茶屋本陣
JR信越本線の踏み切りを渡ったところに「お西」と「お東」の二軒が江戸時代そのままに復元されている。
「お西」
(説明版)
「五科の茶屋本陣・お西は、江戸時代の名主屋敷であるとともに、茶屋本陣でもありました。茶屋本陣は中山道を参勤交代などで行き来する大名や公家などの休憩所としておかれたものです。
この「お西」中島家は、十六世紀末から代々名主役を勤め、特に天保七年(1836)から明治五年(1872)までは「お東」と一年交代で名主を勤めていました。
この建物は、「お東」と同年(文化三年)に建てられたもので、間口十三間、奥行七間の切妻造りで、両家の母屋の規模、平面ともほとんど同じです。
白壁造りのよく映えた屋敷構えに当時をしのぶことができ、中山道の街道交通などを知る貴重な史跡です。」
「お東」
(説明版)
「五科の茶屋本陣・お東は、江戸時代の名主屋敷で、中島家の住宅として使用されていました。
中島家は、代々名主役を勤めており、茶屋本陣としても利用されました。
この建物は、間口十三間半、奥行七間で、当家に伝わる古文書によると、文化三年(1806)に建てられたもので、その後の大きな改造もなされず、書院づくりの上段の間をはじめ式台などに当時のおもかげをよく伝えています。
また古文書などもよく保存されており、建物とともに江戸時代の農村、街道交通などを知るうえで重要であり、祖先を同じくする「お西」と共に並んで現存することは全国でもめずしく貴重な史跡です。」
旧道に戻り、歩を進めてゆくと右手に「茶釜石」と「夜泣き地蔵」がある。
「茶釜石」
(説明版)
「この奇石が、もと旧中山道丸山坂の上にあったものです。
たまたまここを通った蜀山人は、この石をたゝいて珍しい音色に、早速次の狂歌を作ったといいます。
-五科(五両)では、あんまり高い(位置が高い)茶釜石 音打(値うち)をきいて通る旅人-
この石はたゝくと空の茶釜のような音がするのでその名がある。
人々は、この石をたたいて、その不思議な音色を懐かしんでいます。
五科の七不思議の一つに数えられています。」
「夜泣き地蔵」
昔、荷を運んでいた馬方が荷物のバランスをとるために、脇に落ちていた地蔵の首を乗せて深谷まで運び、不要になると捨ててしまった。すると首が夜な夜な「五科恋しや」と泣くので、哀れに思った深谷の人が五科まで首を届け、胴の上にのせてやった。それ以来この地蔵を「夜泣き地蔵」という。
\
道標、馬頭観音などを見ながら歩を進めてゆく。
旧道を進むと、信越本線の踏切を渡ることになるがその踏切の手前に「碓氷神社」がある。
碓氷神社「御由来」
創立年代不詳なれど碓氷熊野神社の御分霊を戴き碓井郷の鎮守産土神として従来より篤く崇敬せらる。
慶安年間(1648~52)御社殿を改築し碓氷峠山熊野神社の里宮として碓氷神社と呼ぶ。
明治四十二年三月氏子の総意により許可を得て中木に祭祀せる菅原神社、小竹に祭祀する波古曽神社、平に祭祀する諏訪神社、横川に祭祀せる八幡宮、その他五科の郷にある諸社等々を合併合祀し今日に至る。大正三年村社に指定せらるるもその後神社制度の改革等により現在宗教法人碓氷神社となる。
碓氷神社「伝説」
一 建久年間(1190~99)源頼朝公、信州浅間の牧狩りの際当神社に祈願せら れ境内に御所を置かれしにより以来此の地を御所平と呼ぶようになった。
二 正應年間(1288~93)鎌倉北条氏この地信州より関東の入り口なるを以って碓氷郷総鎮守として崇敬せらる光明天皇(1337年)碓氷郷一宮と定められ崇敬祈願さる。
踏切を渡り、国道18号を横切って進むと旧道は再び18号に合流するがその手前に「百合若大臣の足跡石」なるものがある。説明版によると、
「この石は百合若大臣が足で踏みつぶしたので石がへこんだといわれるもの。
百合若は伝説上の人物で平安初期四条左大臣公光の子といい、 北九州に多くの話が伝わっている。
力が相当あったらしく大きな弓と長い矢で、川向こうの山に向け、 「よし、あの山の首あたりを射抜いてみよう」と思い付き、 満身の力を込めて射放った時、後足を踏ん張ったのがこの石と言われている。
これを見ていた家来の一人も負けずと、腰にぶら下げていた弁当のむすびを 力一杯放り投げ、山には二つの穴があいた。 今でも二つの穴がここから見ると夜空の星のように見え、 この山を「星穴岳」と呼ぶようになったと言われる。
百合若がそのとき使った弓矢が妙義神社奉納されている。」
そうだ。
秋の夕暮れは、日が落ちるのが早い。
今日は、ここまでとし、横川駅で「おぎのや」の「峠の釜めし」を食べ、帰宅。
日帰りができるのも、ここまでが限界のようなので、
次回からは宿泊付きの街道歩きとなる。
中山道旅日記 3 鴻巣宿-熊谷宿
5日目 (2015年6月23日(火))鴻巣宿―吹上・間の宿―熊谷宿
(日本橋より12里8町 約36.69キロ・桶川宿より1里30町 約7.14キロ)
中山道六十九次(木曽街道六十九次)の内江戸・日本橋から数えて7番目、すなわち武蔵国のうち第7の宿である。人形の町として有名だが、天正年間(1573~)に京都の伏見人形の人形師がここに住みついたのが始まりとも言われる。
JR鴻巣駅から中山道(東口)へ戻る前に西口から清和源氏の祖である源経基の居館跡へ行ってみることにする。
駅から西方1.2kmほど、鴻巣高校の南にあるこんもりとした林が源経基館跡である。「城山ふるさとの森」という名称になっている。天慶元年(938)武蔵介である源経基が築いたと伝えられる館跡で、東西95メートル、南北85メートルの方形館跡で堀と土塁が残っている。西側の土塁の上には「源経基公館跡の碑」が建っている。源経基は、平安時代中期の武将、経基流清和源氏の祖であり系統は源頼朝へつながっていく。
「保元物語」によれば、父は清和天皇の第6皇子貞純親王、母は右大臣源能有の娘とされている。
中山道に戻ろう。
鴻巣駅入口交差点のすぐ先にある長禄元年(1457)開基の法要寺があり、寺紋は、加賀百万石 前田家の家紋と同じ《梅に鉢》。これは1650年頃、参勤交代で勝願寺に宿泊予定だった加賀藩一行、《門前下馬》を見落とし住職に「門前下馬の浄刹ゆえ」と、宿泊を断られてしまう。困り果てた前田家一行は、急遽法要寺に懇願、何とか困窮を脱することができた。その恩を忘れず、莫大な寄進と同時に前田家の紋の使用を許可したとのこと。
法要寺には、五稜郭で新政府軍と戦った後、名を岡安喜平次と改め鴻巣に居住した彰義隊士 関弥太郎の墓がある。
境内不動様の前には、台座に市神街と彫られた一対の狛犬が置かれている。お寺に狛犬が置かれているのは不思議であるが、かつて中山道に在った市神社が明治三年(1870)強風で倒壊し狛犬のみ残されたのでここに移されたのがその理由だそうだ。
その先左手に趣のある古民家がある。
法要寺のすぐ先に鴻神社がある。明治6年に氷川社、熊野社、雷電社を合祀したもので、鴻三社と呼ばれていた。その後、明治35年から40年にかけて、日枝神社、東照宮なども合祀し、社号を鴻神社と改めた。
「こうのとり伝説」
その昔、この地に“木の神”といわれる大樹があって、人々は供え物をして木の神の難を避けていた。ある時、こうのとりがやって来てこの樹の枝に巣を作った。すると大蛇が現れてその卵を飲み込もうとしたのでこうのとりは大蛇と戦い、これを退散させた。それ以後、木の神が、人々を害することがなくなったので、人々はこの木のそばに社を造り、この社を鴻の宮と呼び、この地を鴻巣というようになった。
さらに、道を進むと氷川八幡神社がある。
「氷川神社と箕田源氏」
氷川八幡社は明治6年、箕田郷二十七ヶ村の鎮守として崇敬されていた現在地の八幡社に、宇龍泉寺にあった八幡社を合祀した神社である。
八幡社は源仕(つこう)が藤原純友の乱の鎮定後、男山八幡大神を戴いて帰り箕田の地に鎮祀したものであり、宇八幡田は源任の孫、渡辺綱が八幡社のために奉納した神田の地とされている。また氷川社は承平元年(966)六孫王源経基が勧請したものだと言われる。ここ箕田の地は嵯峨源氏の流れをくむ箕田源氏発祥の地であり、源任、源宛(あつる)、渡辺綱三代がこの地を拠点として活発な活動を展開した土地であった。
箕田碑
箕田は、武蔵武士発祥の地で、先年年程前の平安時代に多くのすぐれた武人が住んでこの地方を開発経営した。源経基(六孫王清和源氏)は文武両道に秀で、武蔵介として当地方納治め源氏繁栄の礎を築いた。その館跡は大間の城山にあったと伝えられ、土塁・物見台跡などが見られる(県指定)。源仕(嵯峨源氏)は箕田にすんだので箕田氏と称し、知勇兼備よく経基を助けて大功があった。その孫綱(渡辺綱)は頼光四天王の随一として剛勇の誉れが高かった。箕田氏三代(仕・宛・綱)の館跡は満願寺の南側の地と伝えられている。
箕田碑はこの歴史を長く伝えようとしたものであり、指月の撰文、維硯の筆による碑文がある。裏の碑文は約20年後、安永7年(1778)に刻まれた和文草体の碑文である。
初めに渡辺綱の辞世
「世を経ても わけこし草のゆかりあらば、あとをたづねよ むさしのはら」を掲げ、
次に芭蕉・鳥酔の句を記して、源経基・源仕・渡辺綱の文武の誉れをしのんでいる。
鳥酔の門人が加舎白雄(志良雄坊)であり、白雄の門人が当地の桃源庵文郷である。
たまたま白雄が文郷を訪ねて滞在した折りに刻んだものと思われる。
箕田追分
武蔵水路を過ぎ、道は二手に分かれる。行田への追分けになっている。右方向は行田、忍道で行田を経て日光へ行く道。この道は行田へ入り、有名な埼玉古墳群の横を通り、石田三成の水攻めに耐えた《のぼうの城》で描かれた行田の忍城へつながっている。途中石田三成の忍城水攻めのために築いた石田堤も残っている。追分真ん中には平成の道標が立ち、中山道の解説が書いてある。街道は左を行く。その左手に地蔵堂がある。やがて立場(茶店がある場所)である吹上へ入っていく。
箕田追分から荊原へ旧道を進み踏切を渡ってJR吹上駅を左手に見ながら行くと左折してすぐに吹上神社がある。
祭神は大山咋命、倉稲魂命、大物主命、菅原道真で、前身は近江国大津の日枝大社(山王社)を奉奏する日枝社である。
吹上神社の先は、JR高崎線に線路が分断されているため歩道橋を渡らなければならない。
歩道橋の下に「中山道 間の宿 吹上」の石碑と間の宿の説明版がある。
「吹上 間の宿」
中山道の街道筋にあたる吹上は、鴻巣と熊谷の「間の宿」として発展した街ですが、江戸期、幕府公認の宿場ではなかった。
しかし、それにもかかわらず重要視されたのは、日光東照宮を警護する武士たちの「日光火の番道」と、中山道が町の中央部で交差すること。また鴻巣宿と熊谷宿の距離が長かったため、その中間に休憩する場所として「お休み本陣」や馬次ぎの「立場」を設置する必要があったからです。
年に30家もの大名が江戸や国元へと行列を飾り、多くの文人や墨客たちも足をとどめた「吹上宿」。中でも信濃の俳人小林一茶や加舎白雄、狂言師で戯作者でもあった太田南畝、浮世絵師の池田英泉などはそれぞれ特異な作品を残している。そして江戸以来、吹上の名物は「忍のさし足袋」と荒川の「うなぎ」、「榎戸の目薬」も街道の名品にかぞえられていた。
この場所は、かっての中山道が鉄道の開通によって分断された地点にあたっています。
中山道 榎戸村、 熊谷まで2里、鴻巣まで2里5町の石碑がある。
さらに道を進めていくと、熊谷堤へ上がる手前に「権八地蔵堂」がある。
「権八地蔵とその物語」
権八は、性を平井といい鳥取藩氏であったが同僚を殺害したため脱藩し江戸へ逃れた。その途中金に困り、久下の長土手で絹商人を殺害し大金を奪いとった。
あたりを見回すと地蔵様を祀った祠があった。
良心が咎め己の罪の深さにいくばくかの賽銭をあげ、「今、私が犯した悪行を見ていたようですがどうか見逃してください。また、誰にも言わないでください。」と手を合わせると地蔵が「吾は言わぬが汝言うな。」と口をきいたと伝えられている。
この話から、この地蔵は「物言い地蔵」と呼ばれるようになった。
権八は、その後捕らえられ延宝八年(1680年)、鈴が森の刑場で磔の刑に処せられた。
ここから熊谷堤へ上がり、熊谷宿を目指して延々と歩く。
6月の日差しはすでに強く、かなり参ってしまった。
熊谷市久下で堤を降りると「みかりや跡」の説明版を発見。
中山道を往来する旅人相手の茶店で「しがらぎごぼうに久下ゆべし」の言葉がある通り「柚餅子(ゆべし)」が名物だったのだろう。
また忍藩の殿様が鷹狩りに来ると、ここで休んだので「御狩屋(みかりや)」と呼ばれたという。
中山道をさらに進んでゆくと左手に東竹院がある。
寺の前に安政五年の庚申塔、馬頭観音の碑、石仏が2体祀られていた。寺は、脇から入るようになっている。由来などの説明版も見当たらなかった。
さらに歩を進めていくと右手に「曙万平町自治会館」があり、その隣の公園に
一里塚跡の説明版がある。ここは、「戸田八丁一里塚」と呼ばれていたそうである。
さらに先へ進めば、秩父鉄道、」JRの線路、新幹線の高架を超えると旧道は、国道17号と合流する。熊谷宿の入り口である。
本日は、ここまで。JR熊谷駅から帰宅。