中山道旅日記 12 馬籠宿-落合宿-中津川宿-大井宿

23日目(3月26日(土))妻籠宿-落合宿-中津川宿-大井宿

「但馬屋」さんの朝食時間の関係で8時過ぎの出発となった。宿を出てしばらく行くと「車屋坂」の碑とともに「中山道・桝形」の説明版が立っている。桝形は、敵の攻撃を少しでも遅らせるために造られた直角に曲がる道であるが、江戸幕府の政権が安定した後は盗賊対策にも効果的であったと思われる。道路を挟み「中山道馬籠宿 江戸八十二里 京と十二里」の道標が立っており、常夜灯もある。このあたりが馬籠宿の出口であろう。

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歩を進めると、「左・中津新道」の道標がありすぐ先に「丸山の坂」の碑とともに「馬籠城跡」の説明版が立っている。説明版には「この辺りの地名を「丸山」とも「城山」ともいい、ここには今から500年ほど前の室町時代から「馬籠城(砦)」があったことが記されている。戦国動乱の時代、馬籠は武田信玄の領地となるが、武田氏滅亡後、織田信長の時代を経て、豊臣秀吉傘下の木曽義昌の治めるところとなる。天正12年(1584年)3月、豊臣秀吉徳川家康の両軍は小牧山に対峙した。秀吉は徳川軍の攻め上がることを防ぐため、木曽義昌木曽路防衛を命じた。義昌は兵300を送って、山村良勝に妻籠城を固めさせた。馬籠城は島崎重通(島崎藤村の祖)が警備した。天正12年9月、徳川家康は飯田の菅沼定利・高遠の保科正直・諏訪の諏訪頼忠らに木曽攻略を命じた。三軍は妻籠城を攻め、その一部は馬籠に攻め入り馬籠の北に陣地を構えた。馬籠を守っていた島崎重通はあまりの大軍襲来に恐れをなし、夜陰に紛れて木曽川沿いに妻籠城へ逃れた。このため馬籠の集落は戦火から免れることができた。今、三軍の陣地を敷いた馬籠集落の北の辺りを「陣場」という。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで天下を制した家康は、木曽を直轄領としていたが、元和元年(1615年)尾州徳川義直の領地となり、以後戦火のないまま馬籠城は姿を消した。」と書かれている。

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すぐ先、右手に庚申塔があり、さらに行くと左手に「島崎正樹」の碑が置かれている。正樹は、馬籠宿・本陣第十七代当主で、藤村は正樹の四男である。

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 その先は、下り坂が続き、やがて展望台があり「正岡子規の句碑」が置かれており「桑の実の木曽路出れば稲穂かな」と刻まれている。景色が素晴らしい。

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坂をさらに下っていくと「新茶屋」の集落があり、「芭蕉の句碑」も置かれている。

-送られつ送りつ果ては木曽の秋― その意味を調べてみると「もうこの旅寝もだいぶ日数を重ねたが、その間、ここで人を送りかしこで人々に送られ、というふうに離合送迎を繰り返し、いよいよ木曽の山中に行き暮れることになった。ことに時は万物の凋落の秋であり、思えば惜別の情ひとしお切なるものがある。」という意味だそうだが、そこまで読み解くのは難しい。「句碑」のすぐ先に「是より北 木曽路」の道標が置かれている。

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このあたりが、信濃の国と美濃の国の国境、この先は美濃路である。

中山道美濃路には、東の信濃国境から西の近江国境まで、「落合宿」「中津川宿」「大井宿」「大湫宿」「細久手宿」「御嵩宿」「伏見宿」「太田宿」「鵜沼宿」「加納宿」「河渡宿」「美江寺宿」「赤坂宿」「垂井宿」「関ケ原宿」「今須宿」の16宿がある。このうち落合宿から鵜沼宿までを「東美濃9宿」、加納宿から今須宿までを「西美濃7宿」といい、合わせて「美濃16宿」と呼ぶ。
さて、このあたりは「新茶屋」と呼ばれていた地域である。先の難所、「十曲峠(つづらおれとおげ)」を前にした立場茶屋がこの地に移ったための「新」なのだろうと勝手に解釈している。ここには一里塚(八十一番目・新茶屋の一里塚)があり「一里塚古跡」の碑が置かれており、説明版が添えられている。説明版には「新茶屋の一里塚・一里塚とは慶長九年(一六〇四)二月、徳川秀忠が諸街道を改修する際、日本橋を起点に東海道中山道甲州道中などの各街道の一里ごと(約三・九km)に築かせた塚のことです。 これは街道の左右に「方五間」(約九・一m四方)の塚を築き、榎か松を植え、旅人に距離を知らせ、また休息の場でもありました。 新茶屋の一里塚は天保~安政時代(一八三〇~一八六〇)には立木は右(江戸より京)に松、左は無しでしたが、今回、整備にあたり右に松、左に榎を復元しまた。」と記されている。

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先は、「十曲峠」と呼ばれる難所で石畳の道が残っている。石畳の入り口には、説明版が立てられており、木曽六十九次の名前も記されている。「落合の石畳」については、次のような説明がなされている。「この石畳は、中山道の宿場落合と馬籠との間にある十曲峠の坂道を歩き易いように石を敷き並べたものです。江戸時代の主な街道は一里塚をつくり並木を多く植え制度化して、その保護にはたえず注意をはらいましたが、石畳については何も考えた様子がありません。このため壊れたまま放置されることが多く、ここの石畳も一時は荒れるにまかせていましたが、地元の人たちの勤労奉仕で原形に復元しました。いま往時の姿をとどめているのはここと東海道の箱根のふたつにすぎず、貴重な史跡です。

中山道ができたのは寛永年間ですが、石畳が敷かれたのはいつ頃か不明です。文久元年皇女和宮の通行と明治天皇行幸のとき修理しましたが、このとき石畳に砂をまいて馬がすべらないようにしたことが記録に残っています。」

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石畳を出て十曲峠を下り切ると山中薬師として親しまれた医王寺」がある。

医王寺は、嘉永六年(一八五三)の建立で薬師如来行基(ぎょうぎ)の作と伝えられている。医王寺は、虫封じの薬師として、三河鳳来寺御嵩の蟹薬師とともに日本三薬師の1つとして広く信仰を集めている。また、この寺には、十返舎一九の『木曽街道続膝栗毛六編』にも登場する、狐のお告げによる切り傷薬の「狐膏薬」伝説が伝わっている。

山中薬師の狐膏薬伝説

「昔々、山中の医王寺にズイトンさんという和尚がすんでいた。庭掃除をしていたズイトン和尚は、狐が苦しそうにしているのを見つけ抱き上げてみると、その狐の足に大きなとげが刺さっていた。ズイトンさんがそれを抜いてやると、狐は嬉しそうに山の中へ帰っていった。ある晩のこと、狐が訪ねてきて助けてもらったお礼にとよく効く膏薬の作り方を教えてくれた。教わった通りに膏薬を作り、腰に貼ってみると和尚の腰痛はすっかり良くなった。この膏薬は特に傷に効くと評判になり、街道の名物となった。」という。「狐の恩返し」である。医王寺には、県下随一といわれる枝垂れ桜がある。

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さて、先へ進もう。落合川に架かる下桁橋の先に「御嵩道・飯田道」と彫られた道標があり、「白木番所跡・下馬庚申堂跡」の小さな碑が立っている。さらにしばらく行くと「高札場跡」の碑が立っている交差点に出る。「落合宿」の入り口である。

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第44宿 落合宿・本陣1、脇本陣1、旅籠14

(日本橋より84里12町8間 約331.2キロ・馬籠宿より1里五町21間約4.5キロ)

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宿場の入り口は、桝形(東の桝形)に曲がっていて上町・秋葉様の「常夜灯」が残っている。その先、左手に「脇本陣跡」の碑があり、右手が「本陣跡」である。「落合宿本陣は、江戸期から代々井口家が本陣、庄屋、問屋を務めた。化元年(1804)と文化12年(1815)の二度にわたって大火に見舞われ、本陣も焼失したが、3年後の文化15年(1818)に復興された。その際に当家を常宿としていた加賀前田家から門が寄進されたと井口家では伝えている。「上段の間」も、往時を偲ぶ形で保存されている。翌明治14年(1881)の改築の際に、現在のような土蔵造(一部2階建)、桟瓦葺屋根となった。」(中津川市・資料による)

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「本陣」の向かいには「落合宿助け合い大釜」と呼ばれる大釜が展示されており、以下のような説明版が添えられている。「文久元年(1861)、皇女和宮の大通行時には、四日間で述べ約二万六千人余が落合宿を通りました。当時、暖かいおもてなしをするため、各家の竃は引きも切らず焚きつづけられたといわれてきました。ここに展示してある「大釜」は「寒天」の原料(天草)を煮る時に使用されたもので、容量は1,000リットルを超えます(口径約1.5m)。・・・・」

旧道は、このあたりから下り坂になり坂の途中に「善昌寺」があり「門冠松」と呼ばれる松が街道にせり出している。名前の由来は、創建当時の山門をこの松が覆っていたからだそうだ。ここは、落合宿の西の「桝形」左折すると「右至中仙道中津川町一理」の道標が立っている。

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落合宿を出てしばらく行くと「秋葉神社」があり、その横に「落合五郎の館跡」の碑が立っている。落合五郎は、「中原兼遠」の三男で「木曽義仲」を育てた人物である。木曽義仲の「四天王」のひとりといわれ、美濃の勢力に備えてこの地に館を構えたとされている。

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先へ行くと、旧道は急な上り坂を上っていくことになるが息が切れるほどの厳しさであった。やがて「東・木曽東京方面 西・美濃京都方面」と彫られた「横手橋」を渡って15分ほど行くと「与板立場跡」の碑が立っている。当時は旅人で賑わったのだろう。

ここには「与板番所」が置かれており木曽檜の流出を監視していたのだそうだ。その先には、「弘法大師三十六番札所」の碑と「地蔵堂」がある。

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与板立場を過ぎると今度は急な下り坂である。坂を下っていくと左手に一里塚がある。「子野の一里塚」呼ばれる八十四番目の一里塚である。

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一里塚を過ぎると右手にあるのが「覚明神社」で、御嶽山で修行をした者が石を打ち鳴らすと鐘の音がしたという「一命石」が置かれている。さらにしばらく行くと庚申塔などが集められている「小野の地蔵堂石仏群」がある。地蔵堂の枝垂れ桜が見事である。

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先へ進み、地蔵堂川に架かる地蔵堂橋を渡ると国道に出会うが旧道は国道の地下道をくぐって行くことになる。しばらく行くと「中山道上金かいわい」と書かれた説明版があり、さらに5-6分行くと「尾州白木改め番所跡」の碑が立っている。木曽路を過ぎてこんなところまで来ても番所があったとは、木曽檜の監視の厳しさが伺える。

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番所跡を過ぎてしばらく行くと「旭が丘公園」の所に四阿がある。ありがたい!ホット一息である。右手には芭蕉の句碑が説明版とともに立っている。

-山路きて何やらゆかしすみれ草-(芭蕉句碑)

眼下には、中津川宿が広がっている芭蕉の句碑の先の階段を下り、歩道橋を渡れば中津川宿の入り口である。

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第45宿 中津川宿・本陣1、脇本陣1、旅籠29

(日本橋より85里12町8間 約335.14キロ・落合宿より1里 3.92キロ)

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中津川宿は江戸日本橋から数えて四十六番目の宿駅で、本陣、脇本陣、庄屋、二軒の問屋場が置かれていた。本陣は武家が常に軍旅にあるとの考えから、主人が休泊するところを本陣といい、家臣が宿泊する場を下宿(したやど)といった。本陣が置かれていたところは、中津川宿でも最も高い場所にあり、水害などの災害にあうことはなかった。大名などが休泊する場合は、常に敵の攻撃に対する防御や退却方法が考えられており、町々には自身番も置かれていた。桝形はこのために人為的に造られたもので、本陣や脇本陣のある宿場の中心部が直線的に見通すことができないように造られていた。横町の角を曲がり、下町へ通じる角を曲がるという鉤形の道の造りを桝形という。(中津川宿と桝形 説明版より)

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宿場に入るとすぐのところに「高札場跡」や「常夜灯」などが残っている。

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高札場跡から10分弱の所に創業・元禄年間と伝わる「すや」という栗きんとんで有名な店がある。ここの栗菓子は絶大な人気があり遠くから多くの人がわざわざ買いに来たのだそうだ。ところで、なぜ栗菓子の屋号が「すや」なのか調べてみたところ初代が「酢」の醸造をしていたとのことである。

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商店街になっている旧道を行くと「中山道 中津川宿」「往来庭」の大きな札がかかっている小路がある。ベンチもあるのでここで一休みとする。

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すぐ先に、「本町」の立て札、「本陣跡」の碑が説明版とともに立っている。

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5分ほど先には、脇本陣跡、庄屋跡が並んでいる。

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そのすぐ先が桝形になっており、古い家が並んでいる。

右手に「川上屋(菓子屋)」、「十八屋(間家)」、左手に「天満屋」、「卯建のある家」である。卯建とは「卯建は隣家からの類焼を避けるために設けられた防火壁で、隣家との境に高い壁をつくり、その上端に小屋根を置いた。「うだつがあがらない」という言葉は、裕福な家でなければ卯建を上げることができなかったことから転じたもので、富裕者のシンボルであった。・・・・」のだそうだ。

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ところで、午後1時近くになったので昼食といきたいところだがコンビニも食堂らしきものもない。惣菜屋さんに入り、おにぎりはないのかと聞いたところわざわざにぎってくれるというので食料(おにぎりと煮物)を確保することが出来た。

さて、桝形を過ぎて下町を通り抜け、しばらく行くと中津川に架かる中津川橋を渡ることになる。このあたりは、もう宿外れなのだろう。

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緩やかな上り坂を上ると「津島神社」道標、常夜灯があり、そこを左折し「馬頭観音」などが置かれている広い道路を横切ると駒場村と呼ばれる集落があり、「駒場村の高札場跡」の碑が建てられている。すぐ先には「東山道坂本駅 右阿智駅 左大井駅」の新しい道標が置かれている。「中山道駒場村 右大井宿 左中津川宿」の道標も置かれている。

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正面には「小手ノ木坂」の碑があり、「ここから上宿の一里塚にいたる坂道は「こでの木坂」といい、市内の中山道の中でも急峻な道です。・・・・・」と書かれた説明版がある。階段を上ると「右中山道 左苗木道」の道標が置かれている。苗木道は、遠山一万三千石の城へ行く道だそうだ。「こでの木坂 左ひだみち」と彫られた道標が並んでいる。

さらに、身体が一つで頭が二つの珍しい道祖神があり、「双頭一身道祖神」と呼ばれている。

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すぐ先が、「上宿の一里塚」(八十五番目)である。どうやら階段を上って近道をしたようだ。ここは、明治天皇が休息をしたところで記念の碑も立っている。

一里塚跡を過ぎると、国道に出会うが左手前に「小石塚の立場跡」の碑が立っている。当時は、このあたりも立場で賑わっていたのだろう。

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しばらくすると「六地蔵石憧」があり、以下のような説明版が添えられている。

「寺院や墓地の入口に置かれる石佛がこの六地蔵であり、ここでは南へ百米程参道を入った処に大林寺(現中洗井)が寛永十年(1632)に創立しています。この石幢は大林寺の入口として寺の創立二四年後、明暦三年(1657)に造立されています。中山道から寺の分岐点に立てられたのは、その入口としての役割と共に、当時しばしば見舞われていた水害を佛にすがって避けることと、極楽往生を願うものでした。その上中山道を行き交う旅人が道中の安全を祈り、心の安らぎを得ていく為でもありました。・・・・・」その先は、緩やかな下り坂でやがて「千旦林の高札場跡」が残っている。高札場を後に淡々と歩いていくとやがて「三ツ家の一里塚跡」の碑が見える。

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先に進み、広い道路を渡ると「坂本立場跡」の碑が立っている。この立場は、鎌倉時代から栄えていたのだそうだ。坂本坂を下っていくと左手に石仏が集められている。やがて「茄子川村の高札場跡」の碑が立っており、先に「尾州白木改番所跡」がある。説明版には「この番所がいつ設けられたか詳しい記録はないが、尾張藩が享保16年(1731年)茄子川下新井に「川並番所」を設置した記録があるので、これに対応して設けられたものであると思われる。寛政元年(1789年)の「中山道筋道之記」には「番所錦織役所支配」とある。尾張藩の直轄地であった木曽山から採伐した材木の輸送は、重量材(丸太類)は木曽川を利用して流送し、軽量材の榑木(くれ)、土居等白木類は牛、馬による駄送の方法がとられていた。木曽川筋には各所に「川番所」が、中山道には「白木改番所」が設けられ、抜け荷の監視と量目の点検など厳しい取締りが行われていた。
これ等の施設は明治4年(1871年)廃藩置県によって廃止された。」とある。

ここでも、尾州藩の木曽五木の抜け荷取り締まりの厳しさをうかがい知ることが出来る。

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番所跡からしばらく歩くと、街道沿いに「明治天皇茄子川御小休所御膳水」の碑が立てられている古民家がある。ここは、「茶屋本陣」でもあった「篠原家」で和宮明治天皇が休憩した部屋や表門などは当時のまま保存されているとのことである。また、遠州秋葉山道」の入り口でもあり「秋葉大権現」と彫られた常夜灯も残っている。

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茶屋本陣跡を過ぎて10分ほど行くと、「中仙道」の碑とともに「茄子川焼き」の説明版が立っている。要約すれば「茄子川焼は天正六年(1587)の頃、瀬戸の加藤吉右衛門が諏訪の前窯場に来て、施釉(ゆう)陶器を焼いたのがはじめで、天保三年(1832)広久手の丹羽九右衛門が陶器作りの改良を図り、磁器製造を起こした。茄子川焼が発展したのは弘化二年(1845)篠原利平治が越中富山県)から来た水野粂造と共同で五室の連房式登り窯を築いてからで、人気があったのは陶土になまこ釉をかけて焼成した、独特の風雅な味をつくった奥州の相馬焼に似た「茄子川相馬」であった。」とのこと。その先左手には、「中山道」碑が置かれており、茄子川村と大井宿の境である。

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馬頭観音」、「広久手坂」や「岡瀬坂」の碑も見かけられる。

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先の交差点をこえたところに「永代燈」と「岡瀬沢の永代燈とあきば道」の説明版が立っている。当時は、中山道から秋葉山への道筋でもあり、牛宿などもあってかなり賑わっていたのではないかと想像できる。説明版には、「岡瀬澤の永代燈とあきば道(牛道)・この永代燈は中山道と野道の分岐点で岡瀬沢大組が安心、安全を祈って建立されました。この野道は岡瀬澤から東野へ向かう古い道で途中の坂には「妻神(さいのかみ)」と刻まれた大きな道祖神もあり、岩村から遠州秋葉山(現静岡県秋葉神社)に参詣する道筋にもなり、灯篭には「ひだりあきばみち」と刻まれています。また東野、岩村の方からは村人の普通一般の物資輸送の道であり、これを「うしみち」(中山道へ向かう道のこと)とよんでいました。この「うし」関係の人が休む「うしやど」が岡瀬澤にありました。・・」と書かれている。その先には「中山道 岡瀬澤」と彫られた碑が置かれている。

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濁川に架かる筋違橋を渡ったところに「岡瀬沢と濁川」の説明版がいる。説明版には、

「わたしたちの岡瀬沢は恵那市大井町の東部一帯をしめる農業と住宅の多い地域です。この岡瀬沢が一つの集落として成立したのは江戸時代のはじめ頃といわれています。

それ以来、岡瀬沢を東西につらぬく中山道と、保古山山系から流下する濁川によって、生活と生産を維持し、発展させていました。・・・・」と書かれている。

 

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先へ行くと、庚申塔が置かれていてすぐに公園があり「広重大井宿」のモニュメントや「初蛙広重の絵の峠かな」と彫られた歌碑が置かれている。

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公園で一休みし、街道に戻ると「中山道 犬塚」と彫られた小さな碑があり、「馬坂と犬塚」の説明版が添えられている。「むかしの信濃国の桔梗が原に八重羽のきじという化け鳥がいた。口ばしは槍のようにとがり、羽根は刃のように鋭く、羽風にあたると災いが起きるといい、里人や旅人のうちで命をうばわれる人が多かった。困った鎌倉幕府は根津甚平に化け鳥退治を命じた。甚平は馬に乗り、犬と鷹を連れ、多くの家臣と背子をひきつれてきじを追った。きじは羽音高く飛び立って西の空に姿を消したが、数日ののちにこの坂に追いつめた。しかし、馬はここで倒れ、犬と鷹はなおも追い続けたが、犬は日吉(現瑞浪市)で力尽きてしまった。そこで里人はこの坂に馬と犬のなきがらを葬ったとう。」(説明版より)先へ行くと、「根津神社」の道標がある。さらに行くと一里塚が見える。これは、「関戸の一里塚」と呼ばれ、「江戸日本橋より八十七里」と刻まれている。

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一里塚を後に先へ行くと、県道401号に合流し、すぐに「長石塔」と呼ばれる石碑がある。やがて「菅原神社」があり県道と別れて階段を下っていくと「中山道大井村内の図」の説明版があり、「馬頭観音」、「寺坂」と彫られた小さな碑とともに「中山道大井宿神町石仏群」が並んでいる。先の電車の線路を越え、橋を渡れば大井宿である。

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今回は、ここまで。JR恵那駅から帰宅。

中山道旅日記 11 妻籠宿-馬籠宿

22日目(3月25日(金))妻籠宿-馬籠宿

今日は、休養日とし妻籠から馬籠まで「馬籠峠越え」の二里(約7.8キロ)の行程を古い町並みを楽しみながらゆっくりと歩くことにする。

第42宿 妻籠宿・本陣1、脇本陣1、旅籠31

(日本橋より81里6町47間 約318.84キロ・三留野宿より1里15町 約5.6キロ)

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妻籠宿は、慶長六年(一六〇一)、江戸幕府によって「宿駅」が定められ、江戸から42番目の宿場として整備された。明治以降は宿場としての機能を失い、衰退の一途をたどっていたが、昭和43年から歴史的町並みの保存事業により宿場の景観を蘇らせた。昭和51年には、隣の馬籠とともに国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。電柱なども見えないように工夫されているので、奈良井宿同様江戸時代にタイムスリップしたような町並みは、見事である。

高札場跡まで戻り、宿場を歩くと右手に「元脇本陣」が見えてくる。妻籠脇本陣は、屋号を「奥谷」といい代々「林家」が務めてきた。現在の建物は、木曽五木の禁制が解かれた後の明治10年に総檜造りで建て替えられたものだそうだ。平成13年に国の重要文化財に指定されている。裏の土蔵には、脇本陣関係資料や、藤村文学関係資料が豊富に展示されている。この資料館は、有料だが入場すれば囲炉裏を囲んで妻籠宿の詳しい話を聞くことができる。

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脇本陣の向かいには、妻籠本陣がある。本陣は、代々島崎氏が勤めていた。島崎氏は藤村の姉の実家である。明治20年に最後の当主広助(藤村の実兄)が東京へ出て、建物は取り壊されてしまったが平成7年に江戸時代後期の間取り図を基に忠実に復元されたのがこの建物で往時のままの豪壮な姿を楽しむことができる。

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本陣のすぐ先右手には、「妻籠郵便局」があり、妻籠の郵便資料館になっている。

現在の建物は、昭和53年に復元され、同時に局前のポストも全国で唯一黒いポストが復元された。『夜明け前』にも開局当時の様子が描かれている。

 

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古い町並みを楽しみながら行くと「桝形」に曲がっていて道順と桝形の説明版が立っている。

説明版には、「ここは桝形 徳川家康が慶長6年(1601)に宿場を制定した際、西国大名の謀反に備え、江戸への侵攻を少しでも遅らせるために設けられたものです。」と記されている。

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桝形を曲がると「上丁子屋」、「下丁子屋」の看板がかかった家がある。「上丁子屋」は、十返舎一九が「続膝栗毛」を書きあげた旅籠屋だそうだ。

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上丁子屋を過ぎると「桝形を経て中町の町並みへ」「中山道 京へ五十四里二十七町二十一間」の道標が立っていて「寺下地区」と呼ばれ、江戸時代そのままといった風景が楽しめる。

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木賃宿の雰囲気をうかがうことが出来る「上嵯峨屋」は有形文化財に指定されている。

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しばらく行くと「尾又(おまた)」「おしゃごじさま」の説明版があり、以下のような説明が記されている。

「尾又(おまた)木曽路中山道)から伊奈(飯田)道が分岐(分去れ、追分)していた処である。右手の沢沿いの竹やぶの中に、今もその道跡をたどることができる。宝暦年間(一七六〇頃)に、飯田道がつけ替えられ、ここから約六百米南の橋場に追分が移動した。

おしゃごじさま 御左口(ミサグチ)神を祀る。古代から土俗信仰の神様で「土地精霊神」「土地丈量神様」「酒神」等の諸説がある謎の神様と言われている。」(むー、謎の神様か~)

その先には「諸人御宿 八起」の看板が出ている旅籠があり「妻籠宿」の大きな看板が見える。京方面からは、宿場の入り口、江戸方面からは、出口ということであろう。このあたりまで来ると旅籠もまばらである。

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宿場のはずれあたりからは右手に蘭川(あららぎがわ)の流れを見ながら歩く。やがて旧道は、国道256号に出会うが、国道を横切って進むことになる。交差点には、中山道碑「右・志ん道 左・旧道」とともに「馬篭宿6.9k 妻籠0.8k」の道標が立っている。

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しばらく行くと、「飯田道・中山道」の道標があり、飯田道と中山道の分岐点で橋場の追分とも呼ばれ賑わったところである。道標には「中山道 西京五十四里 東京七十八里」と彫られている。

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蘭川を右手にみながら進むと再び国道に出会い、しばらく国道を歩くことになる。

蘭川に架かる大妻橋を渡ると「馬篭宿6.5k 妻籠1.2k」の道標を右手に入ると再び旧道で、「中山道大島村 右・旧道 左・志ん道」の碑が置かれている。

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先へ行くと「明神茶屋」がある。当時の旅人はこのあたりで一息入れたのだろう。

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やがて、「中山道 大妻籠」の灯籠が立っていて大妻籠の入り口である。

妻籠は、妻籠宿の奥座敷で立場として賑わったのだという。「大妻籠」は、「奥妻籠」が訛ったものだそうだ。旧道は、広い道路に出会いさらにしばらく行くと「金剛屋」の屋号を掲げた旅籠がある。その隣は、旅籠屋「波奈屋」である。

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すぐ先に、「大妻籠」の大きな看板があり、「中山道妻籠 右・旧道」の碑を右折し旧道に入ると水車小屋、「近江屋」「つたむらや」などの旅籠屋がある大妻籠集落である。

水車小屋には、きれいなトイレがありとてもありがたい。

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旧道は、再度広い道に出会うが合流地点に庚申塚があり「庚申の日は六十日毎に巡って来るので年内には六回ある。また庚申を「三猿」などであらはし念仏を唱えて徹夜で世間話などして朝になって解散する風習があった。庚申という名称は道祖神と同様仏教伝来のものであるが「猿田彦命」と解しているむきもある。猿田彦は道しるべの神であったという説話で中国渡来の「道祖神説」とを混同して「妻之神」を祀っている(木曽地方は凡そ其類である)。人は誰でも「三尸(さんし)の虫」という霊虫が腹中に住んでいて其の人の悪事や追失を天界に昇って天帝に告げ口するという事が「道教」にあって江戸時代信仰されていた。其処でこの日は寝ずの番で三尸の虫が天界に昇るのを防いだ。是が庚申の祭りの所因である。」と説明版が添えられている。また、このあたりに「大妻籠の一里塚」があったそうだが案内も説明書きもないためどれがそうなのかわからない。写真の右手に見える小山がそうなのだろうか。

広い道を進み、左手に「とうがめ滝 とうがめ澤下り谷を経て馬籠峠へ」の碑が置かれているところを左折、石畳の道が旧道である。

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旧道を行くと、左手に「倉科祖霊社」というお堂がある。「ここには、松本城主小笠原貞慶の重臣倉科七郎左衛門朝軌の霊が祀られている。伝説では、七郎左衛門は京都へ宝競べに行く途中、この地で盗賊のために殺されたとされているが、史実は次のようである。七郎左衛門は、主人貞慶の命をうけて大阪の豊臣秀吉のもとに使いに行き、その帰りに馬籠峠でこの地の土豪たちの襲撃にあい、奮戦したがついに下り谷で、従者三十余名とともに討死してしまった。時に天正十四年三月四日のことであった。当時、木曽氏と小笠原氏は、何度も兵戈を交えており、こうした因縁からこの争いも起きたと思われる。」と説明版に記されている。

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しばらく歩くと右手が急な下り坂になっており、下っていくと「男滝」「女滝」という滝がみえる。「この滝は、木曽に街道が開かれて以来、旅人に名所として親しまれ、憩いの場であった。滝及び滝壺は、洪水や蛇抜けなどで高さや深さが減じているが、なお往時の姿をとどめている。この滝には、滝壺に金の鶏が舞い込んだという倉科様伝説が伝わっている。また吉川英治著『宮本武蔵』の舞台にもとりあげられている。

 滝に向かって左が男滝、右が女滝である。

滝周辺は険阻なため、道はしばしばつけかえられ、幕末頃までの中山道は滝の下を通っていたものと思われる。現在滝上を通っている道が歴史の道である。」と説明版に書かれている。ここは、宮本武蔵の修行の場、またお通との出会いの場である。

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中山道に戻った所は、「滝見茶屋」と呼ばれているようで当時は茶屋があったのだろうが今は残っていない。広い道を少し歩くと右手に旧道入り口があり、旧道をしばらく歩くと「中山道」の道標が置かれている。更にその先に「中山道 一石栃口 左・旧道」の道標もある。

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旧道は、上り坂になり坂を上っていくと「白木番所跡」がある。贄川番所同様、木曽五木の無断伐採を厳しく監視したのであろう。木一本を無断で伐採すれば首が飛ぶ。「木一本首一つ」である。番所跡のすぐ先に「立場茶屋跡」があり、当時は七軒ほど茶屋があったそうである。江戸時代後期に建てられた「いちこく栃茶屋」は今、無料休憩所になっておりお茶をふるまってくれる。中には、若い外国人女性が休んでおり、しばし雑談を楽しんだ。

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立場茶屋跡からしばらく急な上り坂を上ると標高801メートルの馬籠峠である。峠には「正岡子規」の句碑があり、「白雲や青葉若葉の三十里」と彫られている。馬籠峠から国道を歩くとすぐに旧道入り口が見える。ここからは、下り坂で「熊野神社」があり入り口に「明治天皇御膳水碑」が置かれている。

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熊野神社の先に「間の宿・峠」の集落があり、旅籠「桔梗屋」は、昔の面影を残している。集落の出口に「峠之御頭頌徳」の碑が立っている。これは「安政3年、峠集落の牛方(牛を使って荷物を運ぶ人)が中津川の問屋と運賃の配分を巡って争い牛方が勝利し牛方頭の今井を讃えた碑で藤村の「夜明け前」にも書かれている話である。」

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急な坂を下ると「十返舎一九狂歌」碑が置かれており「渋皮のむけし女は見えねども栗のこわめしここの名物」と彫られている。先へ進み、さらに、10分ばかり「梨子ノ木坂」の石畳を下り切ると水車がある小屋につく。「峠の集落・水車塚の碑・名物栗こわめし」の説明版が立てられている。

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中山道の道標に従って、石段を上がっていくと「馬籠上陣屋跡」に着く。説明版によれば「ここらあたり一帯の地名を「陣場」という。天正十二年(1584)に徳川家康豊臣秀吉が戦った小牧山の決戦のとき、木曽路を防衛する豊臣方は、馬籠城を島崎重通に固めさせていた。家康方は兵七千をもって木曽に攻め入り、その一部は馬籠城を攻略すべくこの地に陣を敷いた。故にここを「陣場」と呼ぶようになった。」のだそうだ。

恵那山が綺麗だ。

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「お民、来て御覧、きょうは恵那山がよく見えますよ。妻籠の方はどうかねえ、木曽川の音が聞こえるかねえ」藤村・夜明け前の一説である。

さて、陣場跡から街道に戻り下り坂を行くと旧道は一度、県道に合流する。そして再び右手の旧道に入り「陣場坂」と呼ばれていた坂を上り切れば馬篭宿である。

第43宿 馬籠宿・本陣1、脇本陣1、旅籠18

(日本橋より83里6町47間 約326.7キロ・妻籠宿より2里 約7.8キロ)

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馬籠宿は木曽十一宿の最南端、美濃との国境にあり、江戸・板橋宿から数えて四十三番目の宿駅で、全国でも珍しい「坂に開けた宿場」であった。そのため、それ程大きな宿場町ではなかったが、島崎藤村の小説で一躍有名になり「妻籠宿」とともに江戸時代そのままの素晴らしい景観を保つ観光地となった。ここまで昔の雰囲気を残すことが出来たのは、藤村のおかげと言わざるを得ない。馬籠宿は、水利が悪くまた吹き上げる風が強いことからしばしば大火に見舞われ、とりわけ明治28年と大正4年の大火により江戸時代の民家はことごとく消失してしまったのだそうだ。現在の町並みは、明治になってからのものがほとんどだそうである。

さて、宿場の入り口手前に「高札場」が復元されており、入り口付近の「上但馬屋」の前に「中山道馬籠宿 京・五十二里半 江戸・八十里半」の碑が立っている。また、「中山道 陣場 高札場」の説明版も設置だれている。

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しばらく行くと、右手に「脇本陣資料館」があり、脇本陣の最高位の部屋である「上段の間」を当時の場所に復元されている。また、明治の大火で消失を免れた貴重な汁器や衣服など興味深い資料が数多く展示されている。

土産に芭蕉、一茶、蕪村、去来の俳句をかるたにした「俳聖かるた」なるものを購入。

脇本陣跡の横には「山口誓子の句碑」が置かれており「街道の坂に熟柿灯を点す」と彫られている。さらに「大黒屋」を挟んで「藤村記念館」=「馬籠宿本陣跡」が観光案内書の向かいにある。ここは、藤村の生家「馬籠本陣・島崎家」があった場所で、中には「夜明け前」の初版本などが展示されているそうだが、すでに閉館時間を過ぎているため中に入ることはできなかった。明日は、早立ちの予定なので入館はあきらめよう。

「大黒屋」は、藤村の初恋の人・おゆうさんの実家である。(「初恋」まだあげ初めし前髪の の彼女である。)ちなみに、おゆうさんは、妻籠脇本陣・林家に嫁いでいる。

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昔そのままの町並みを楽しみながら、今日の泊り「但馬屋」さんへ向かことにする。

「但馬屋」は外国人客で満員、夕食後はご主人が「木曽節」をお客に教えていた。

囲炉裏を囲んで彼らと雑談をしたが「馬籠宿」は外国人に非常に人気のスポットのようである。

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中山道旅日記10 須原宿-野尻宿-三留野宿-妻籠宿

21日目(3月24日(木))須原宿-野尻宿-三留野宿-妻籠

第39宿 須原宿・本陣1、脇本陣1、旅籠35

(日本橋より75里12町24間 約295.89キロ・上松宿より3里9町 約12.8キロ)

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昨日は、疲れていたので素通りしてしまったので宿場の手前まで戻り旧道を歩くことにする。そこには、「左中山道 須原宿へ」の道標や「水舟の里 須原宿」の看板、江戸から七十五番目の「須原の一里塚」がある。

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駅前まで来ると、幸田露伴の文学碑が建てられている。幸田露伴は、須原宿に滞在し「風流仏」を書きあげた。文学碑には「ご覧くだされ是は当所の名誉花漬、今年の夏のあいさつをも越して今降る雪の真最中、色もあせずに居りまする。」と記されている。

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須原宿は、清水がいたる所に湧き出ていて「水舟」(丸太をくりぬいた水汲み場)と呼ばれる水飲み場があちこちに置かれている。

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本陣・木村家と脇本陣・西尾家が向かい合っておりその先左手に水舟と須原宿碑があり、碑には正岡子規の歌-寝ぬ夜半をいかにあかさん山里は月出づるほとの空たにもなし-が刻まれている。碑に添えられている立て札には「須原に至りし頃は、夜に入りて空こめたる山霧深く、朧々の月は水汲む人の影を照らし寂寬たる古駅の趣、いう計りなく 静かなるに道の中央には石に囲いし古風の井戸ありて、淡島神社の灯籠其の傍に寂しく立てり。(日本名勝写生紀行)」黄昏せまる山間の宿場町のもの悲しい情景を想像させる文章である。朝8時過ぎの今も人影が全くなく静寂が宿場に広がっている。

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さて、その先には島崎藤村の小説「ある女の生涯」の舞台となった「清水(蜂谷)医院跡」があり「聴けます 須原ばねそ よいこれ」なるものがありボタンを押すと「よいこれ」が流れてくる。

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この宿場町は、大火があったにもかかわらず趣のある昔ながらの町並みが残っている。

水舟についての立て札が立っている水汲み場もある。ペットボトルに水をいただいた。

今のようにどこにでも自動販売機があり簡単に水を買うことが出来る時代と違って当時の旅人にとってこのような水場は、本当に有り難い存在だったに違いない。

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宿場を進んで、左手には「三都講」の看板を挙げている古い旅籠「かしわ屋」が残っている。「三都講」とは「御嶽山参拝」の講元(講を作って神仏に詣でたり、祭りに参加したりする信仰者達の世話人)と言われている。

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このあたりが宿場に出口であろう。「桝形」の案内板があり、右手へ下りていくと旧道である。「桝形」に入らずまっすぐ行くと左手に「浄戒山定勝禅師」がある。この寺は桃山時代の建築様式を今に残すもので「山門」「本堂」「庫裡」はどれも重要文化財に指定されている。「鶴亀蓬莱庭園」とよばれる庭園も素晴らしい。

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当時は、「定勝禅師」で行き止まりであったそうだが現在は、県道になっていてそのまま歩いて行ける。ここは、桝形に戻って旧道を行くことにする。

しばらく行くと、「須原宿 右 中山道野尻宿」の道標がある。

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のどかな農道を歩いていくと道は直角に右折し、急な下り坂を下ったところに「天長禅院」がある。特徴のある石仏が入り口に並んでいる。

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天長禅院を出てさらに坂を下っていくと右手にJR大桑駅、左手に大桑役場があるが線路を越えて国道を横切ったところに「弓矢の一里塚」がある。

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旧道に戻って先を進むと国道に合流する。国道を進み再び旧道に入ってJRの線路を渡ってしばらく行くと野尻宿である。「野尻宿 東のはずれ」のも木版が掛っている。

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第40宿 野尻宿・本陣1、脇本陣1、旅籠19

(日本橋より77里6町47間 約303.13キロ・須原宿より1里30町23間 約7.2キロ)

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 宿場に入ってしばらく行くと本陣跡の説明版、明治天皇御小休所跡がありすぐ先に「脇本陣跡」の碑が置かれている。

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その先、JR野尻駅付近は、道が曲がりくねっている。敵を防ぐための「桝形」が随所に設けられており「野尻の七曲り」と呼ばれ、野尻宿の特徴になっている。これは、現在かわらず、わずかに昔の面影を残している。

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もう午後1時を過ぎているが食事をとれるような店はなく、かろうじて小さな店でカップラーメンとパンを買いお湯をもらって野尻駅の待合室で食事とした。

さて、旧道を先にすすむと「西のはずれ」の木版が立てられている。

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 宿場を出てしばらく行くと「下庄郷」と呼ばれる集落に出て「下庄郷の一里塚」があり、その先に「左野尻宿 右三留野宿」の道標が立っている。

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先へ進むと旧道はやがて国道19号に出会うが少し国道を歩き、すぐ先で旧道に入る。少し行くと「八人石の二十三夜様」と呼ばれる石仏群が祀られている。

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旧道を行くと左手にJR十二兼駅があり、駅を越えた国道19号沿いに「十二兼の一里塚」がある。

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旧道は、やがて国道19号ご合流し、そこからは右手に木曽川を見ながら国道を歩くことになる。県道264号と出会ったところで県道(旧道)に入っていく。中央線のトンネルをくぐり下り坂を下っていくとやがて「三留野宿」入り口である。

第41宿 三留野宿・本陣1、脇本陣1、旅籠32

(日本橋より79里27町47間 約313.48キロ・野尻宿より2里21町 約10.1キロ)

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宿場に入り、しばらく行くと「脇本陣」(宮川家)、その右手に「本陣跡」の説明版が立てられている。また、「明治天皇」行在所」碑、「明治天皇御膳水」の説明版さらに「枝垂梅」も残っている。

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先へ行くと「園原先生の碑」があり説明版が添えられている。園原氏の住宅跡で、三留野天神社の神官であった園原氏は「木曽名物記」や「木曽古道記」などを残している人物だそうである。先へ行くと「桃介橋」がある。

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さらに、「和合の枝垂梅」や「馬の水桶」などもある。枝垂梅は、江戸時代、木曽谷有数の酒造家・遠山氏の庭木として愛育されてきた古木で町の天然記念物に指定されている。

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旧道を先に行くと左手に「ふりそで松」右手に「かぶと観音」が見える。

かぶと観音は、木曽義仲が北陸路を京に向かう際、木曽谷の南の抑えとして妻籠城を築き、鬼門の神戸の祠に兜の「八幡座の観音」を祀ったのが始まりと伝えられている。ふりそで松は、義仲が弓を引くのに邪魔になる松を巴御前が袖を振って倒したところからその名がついたと言い伝えられている。

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先へ進むと、一里塚が残っている。「上久保の一里塚」と呼ばれ、日本橋から八十番目の一里塚である。

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先の坂を少し下ると「良寛の歌碑」が置かれている。(良寛は、江戸時代後期の曹洞宗の僧侶で歌人漢詩人。)

「木曽路にて -この暮れの もの悲しきに 若草の妻呼びたくて 小牝鹿鳴くも-」。

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その少し先には「くぼはち茶屋」の碑がひっそりと建っている。茶屋碑の後ろに水車小屋が見え、なかなか風情のある眺めである。

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旧道は、この先桧林の坂を上ることになり、坂を上り切ったところに「中山道蛇道」の道標が建てられており、「左下り道 志ん道(新道) 中山道蛇石 右つまご宿」と刻まれている。

少し先には、蛇石があり、「名石 蛇石 中世の中山道はここから沢沿いに上がっていた。元禄16年(1703)道の付け替え工事が行われて妻籠城総堀を通る現在の道となった」と説明版が添えられている。

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さらに先へ行くと、「妻籠城跡」の碑があり、「妻籠城は、いつ誰によって築かれたか明らかでないが、室町中期には築城されていたと推察される。妻籠城は、天正十二年(一五八四)の小牧・長久手の戦いの折、ここも戦場となり、木曽義昌の家臣山村甚右衛門良勝(たかかつ)が籠って徳川家康配下の菅沼・保科らの軍勢を退けている。また慶長五年(一六〇〇)の関ケ原の戦いのときも、軍勢が入ってここを固めたが、元和二年(一六一六)には廃城となった。妻籠城は典型的な山城で、空堀・帯曲輪、さらには南木曽岳にのびる妻(さい)の神土塁という土塁も備えており、規模の大きな構えであったことが知られる。」と説明版に書かれている。(木曽義仲が北陸路を京に向かう際、木曽谷の南の抑えとして築いたとされているが・・・・)

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 この先急こう配の坂を下っていくと古い町並みが見えてくる。いよいよ妻籠宿である。

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宿場に入るとすぐに「こいが岩」の碑を見かける。これは、その形が鯉に似ていたところから「鯉岩」とも呼ばれていたが明治時代の地震で頭の部分が落ちて今はただの石にしか見えない。その右手に熊谷家住宅があり、中を見ることが出来る。

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すぐ先の「地蔵橋」を渡ると「口留番所跡」があり江戸時代初期、中山道を行く旅人を監視していたのだという。その先右手に高札場跡、左手に水車小屋がある。

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古い町並みが昔の情緒を醸し出している。

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今日はここまで、旅籠「さかもとや」で旅の疲れを落とそう。

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中山道旅日記 9 福島宿-上松宿-須原宿

20日目(3月23日(水))福島宿-上松宿-須原宿

第37宿 福島宿・本陣1、脇本陣1、旅籠14

(日本橋より69里24町44間 約273.67キロ・宮ノ越宿より1里28町30間 約7.0キロ)

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江戸時代、幕府は江戸防衛のため何十か所か関所を設けた。中でも東海道の「箱根」、「今切」、中山道の「碓氷」そしてここ「福島」を、「四大関所」と呼び最重要視した。関所の目的は「入り鉄砲と出女」、つまり鉄砲などの武器の江戸への持ち込みと、人質としている大名の妻女の逃亡を防ぐため厳しく監視したのである。

さて、鏑木門をくぐると左手に「福島関所跡」があり当時の様子が復元されている。上番所に座って当時の様子に思いを巡らすのもなかなか面白い。

中には、「女改めの実際」や「木曽路を通った参勤交代の大名や著名人」の資料もある。

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管理人の方と少し雑談をしたが、ここでも和宮が話題になった。和宮中山道を下った理由は、当時の多くの女性がそうであったように「川越」を嫌ったことであろう。和宮は、「公武合体」のために早く(予定通りに)江戸につく必要があった。「川止め」の不安があり、到着の日取りが読めない東海道よりも、山の中を通る険しい道ではあるが大きな日程の狂いもなく確実に江戸へ到着できる「中山道」を選んだのであろう。そこには、政治的要素が多分にかかわっているように思われる。ちなみに九州薩摩藩・島津家から13代将軍・徳川家定に嫁いだ「篤姫」は、東海道を下っている。

島崎藤村は、「夜明け前」の中で馬籠を通る和宮の行列の様子を以下のように書いている。

「九つ半時に、姫君を乗せた御輿は旅軍の如きいでたちの面々に前後を護られながら、雨中の街道を通った。厳しい鉄砲、纏、馬簾の陣立ては、殆んど戦時に異ならならなかった。供奉の御同勢はいずれも陣笠、腰弁当で供男一人ずつ連れながら、その後に随った。御迎えとして江戸から上京した若年寄加納遠江守、それに老女等も御供した。これらの御行列が動いて行った時は、馬籠の宿場も暗くなるほどで、その日の夜に入るまで駅路に人の動きも絶えることもなかった。」

さて、「福島関所跡」の隣にあるのが「高瀬資料館」である。「高瀬家」は、藤原氏の出で四代目高瀬四郎兵衛が大阪冬の陣のころ、この福島にきてその子八右衛門が、福島の代官山村氏に仕えたのが木曽での初代であり、以来「御側役」「鉄砲指南役」「勘定役」として幕末まで山村氏に仕えた。明治の文豪・島崎藤村とのかかわりは、藤村が深く敬愛した姉・「園」が高瀬十四代「薫」に嫁いだことにあり、「園」は、小説「家」のモデルになっている。

高瀬資料館には、藤村の手紙、掛け軸、遺品や高瀬家に伝わった兵法書類他、江戸時代の木曽谷の諸資料が展示されている。この日は、ひな祭りが近いということから「ひな壇」が飾られていた。(この地方のひな祭りは、一か月遅れの四月三日である。)

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今は、商店街になっている宿場通りに戻ってしばらく行くと藤村の詩「初恋」が刻まれた碑が置かれている。

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木曽川を渡ると昨日泊まった「三河屋」の前に「山村代官所跡」がある。

山村氏は鎌倉幕府の大学頭大江一族の流れを祖とし、木曽義元の食客となったことに始まり、木曽氏の重臣として活躍した。後に関ヶ原に向かう徳川秀忠の先陣として活躍したことから木曽谷の徳川直轄支配をまかされる木曽代官となり、以降、明治2年に至るまで274年間木曽谷を支配し関所を守っていた。

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入り口の門をくぐって、すぐ左手に「稲荷の祠」がある。説明版によれば、「この祠は、八代代官山村良啓(たかひら)公のときに建立されたもので、それ以降山村家の護り神として、代々丁重に奉られてきました。・・・・」また、屋敷内には狐のミイラが祀られており、管理人の方に申し出れば見ることが出来る。「祟りがあるといけないから」ということで写真には撮れなかったが。

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屋敷内には、興味のある資料が数多く展示されており、下屋敷の庭も見事なものである。

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ところで、木曽には「木一本、首一つ」という言葉がある。江戸時代、各地に伐採を禁止していた樹木があり木曽では「ひのき」「さわら」「ねずこ」「ひば」「こうやまき」を「木曽五木」といい無断で伐採すると討ち首になったということである。

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山村代官屋敷跡から少し歩き、左手の坂を下ったところに「木曽教育会館」があり島崎藤村の記念碑がある。「夜明け前」の書き出しの原稿が銅板に刻まれている。

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そのすぐ横に松尾芭蕉の句碑が置かれている。

- さざれ蟹足這ひのぼる清水哉 -

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街道に戻って、左の狭い坂を上っていくと「高札場跡」がある。

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坂を上り切ると「上の段」と呼ばれる地区があり、古い町並みや桝形、上の段用水と呼ばれる水場も残っている。

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また、江戸時代に造られたという井戸も残っている。

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さて、旧道に戻って「木曽福島」駅を過ぎると緩やかな下り坂になっている。道路が複雑でどの道を行けばいいのか迷ってしまう。旧国道だった道を歩くことにしてしばらく行くと「塩渕」のバス停があり左に入ると一里塚がある。「塩渕の一里塚」、江戸から七十番目の一里塚で碑には江戸へ七十里 京へ六十七里と刻まれている。

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旧道は、国道19号と合流したり旧道が復活したりしながらただただ淡々と歩いていくと「木曽の桟500m」の道標の所に江戸から七十一番目の一里塚「沓掛の一里塚」がある。江戸へ七十一里、京へ六十六里である。

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一里塚から5-6分行くと木曽の桟である。

木曽の桟は、「木曽の桟、大田の渡し、碓氷峠がなくばいい」と言われたように中山道三大難所の一つであった。ただの架け橋をイメージすればなぜ難所なのかと疑問に思うが、当時は木曽川の切り立った崖などに沿って、木材で棚のように張り出して造った道で、木曽川に渡した橋のことではない。のちに尾張藩により石垣と三つの木橋が架けられている。

今は、赤い鉄橋が架かっている。

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また、木曽の桟は歌枕としても知られている。

傍らには、馬頭観音があり、芭蕉正岡子規の句碑が馬頭観音とともに置かれている。

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- 桟やいのちをからむ蔦かづら - 松尾芭蕉

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- かけはしや あぶない処に山つつじ - 子規
- 桟や 水にとどかず五月雨 - 子規
- むかしたれ雲のゆききのあとつけてわたしそめけん木曽のかけはし - 子規

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他に以下の歌も詠まれ

- 波とみゆる雪を分けてぞこぎ渡る木曽のかけはし底もみえねば - 西行

- わけくらす木曽のかけはしたえだえに行末深き峰の白雪 - 藤原良経

- なかなかに言ひもはなたで信濃なる木曽路のはしのかけたるやなそ - 源頼光

この先、国道を歩き線路を越えるとトンネルがありここから旧道に入る。坂を下ると「十王橋」があり「中山道上松宿入り口」の碑が立っており、地蔵尊が置かれている。当時は、このあたりに高札場もあったようで、説明版が添えられている。

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第38宿 上松宿・本陣1、脇本陣1、旅籠35

(日本橋より72里3町24間 約273.67キロ・福島宿より2里14町40間 約9.5キロ)

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上松宿は、旅籠の数が35と木曽十一宿の中では一番大きかったそうである。

宿場に入るとわずかに当時の面影を残している。

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先に進むと、左手に江戸から七十二番目の一里塚「上松一里塚跡」の碑がある。

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一里塚を過ぎると国道に出会い、国道をしばらく歩く。JR上松駅を通り過ぎ「下町」の信号で左手の旧道に入る。しばらく行くと左手に諏訪神社が見えてくるがその入り口に「上松材木役所御陣屋敷跡」の碑が立てられている。ここは、「尾州陣屋」といわれ尾州藩直属の役所である。先ほども書いたが無断で樹木を伐採すると首が飛ぶ。

「木一本、首一つ」である。

先へ行くと左手に「庚申塔」が置かれている。

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さらに歩を進めていくと、「公会堂下」のバス停の先が「寝覚」と言われた立場で当時はかなりの賑わいだったらしい。名物「寿命そば」が人気で「越後屋」というそば屋が有名だったそうだ。

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越後屋」の向いが「臨川寺」でここには「浦島伝説」が残っている。「臨川寺」奥の眼下に広がるのが浦島太郎が目覚めたといわれている「寝覚の床」である。

浦島太郎伝説

「竜宮城から戻った浦島太郎は、諸国を旅して廻り、木曽川の風景の美しい里にたどり着いた。この地で竜宮の美しさを思い出し、乙姫にもらった玉手箱をあけてしまう。玉手箱からは白煙が出て、白髪の翁になってしまった浦島太郎は、今までの出来事がまるで「夢」であったかのように思われ、目が覚めたかのように思われた。このことから、この里を「寝覚め」、岩が床のようであったことから「床」、すなわち「寝覚の床」と呼ぶようになったという。浦島太郎は、しばらくは村人に薬を授けたりしていたが、いつの間にかどこかへ立ち去ってしまい、後には「弁財天」の像だけが残っていたという。」

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また、「謡曲と木曽路の寝覚の床」の説明版があり、以下のようにことが書かれている。

「木曽路随一の景勝地「寝覚の床」は、昔役の行者が修行した地で、不老長寿の霊薬が採れたとの伝承から、浦島太郎や三帰(みかえり)の翁の不老長寿の伝説が生まれた。
謡曲「寝覚」では、長寿の薬を三度飲んで三度若返り千年生きたという三帰の翁のところに、霊薬を貰いに勅使が遣わされる。三帰の翁は実は医王仏の仮の姿で、喜んで霊薬を天子に捧げる。
謡曲「飛雲」では、羽黒山の山伏が木曽路を旅して老いに疲れた老人に逢う。夜が更けると老人は鬼神と化し、盤石を砕いて襲いかかり、山伏は必死に経を読み、役の行者に祈って鬼神を退ける。」

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寝覚の床は信濃の国の歌枕でもある。

- ひる顔にひる寝せふもの床の山 - 芭蕉

- 谷川の音には藤も結ばじを目覚めの床と誰が名つくらん - 近衛摂政家照公

ー 岩の松ひびきは波にたちはかり旅の寝覚めの床ぞ淋しき - 貝原益軒 

正岡子規は、「誠やここは天然の庭園にて・・・・・仙人の住処とも覚えて尊し」と感じ入ったということである。

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寝覚の床を後に旧道を行くとやがてJRの線路をまたいだ先で国道19号に合流する。合流の手前に「中山道69次の上松宿」で広重が描いた「小野の滝」がある。

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小野の滝を後に国道19号を歩いていくと左手に旧道の入り口があり一里塚跡の碑が置かれており、説明版が添えられている。「荻原の一里塚」である。

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旧道は、すぐにまた国道に合流するがその手前に二十三夜塔が置かれている。

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ここから先は、国道19号を歩いていく。特に何があるわけでもなく淡々と歩くのみである。

やがて、JR須原駅に着き、民宿に電話を入れると民宿のおばあさんが迎えに来てくれた。

今日は、かなり疲れていたのでとてもありがたい。

中山道旅日記 8 奈良井宿-鳥居峠-藪原宿-宮ノ越宿-福島宿

19日目(3月22日(火))奈良井宿-鳥居峠-藪原宿-宮ノ越宿-福島宿

第34宿 奈良井宿・本陣1、脇本陣1、旅籠5

(日本橋より64里22町14間 約253.77キロ・贄川宿より1里31町約7.3キロ)

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奈良井宿は、木曽路の難所「鳥居峠」の北に位置し、交通の要となる宿場町として繁栄した。

当時その様は、「奈良井千軒」と謳われ、木曽一番の賑わいであったという。

また、奈良井宿は、木曽路「十一宿」の中で一番標高の高い位置にある。宿場は、江戸方面から「下町」「中町」「上町」に分かれていて現在は、町全体が「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されており、宿場に入るや否やテレビの時代劇の宿場風景が目の前に現れ、いきなり江戸時代にタイムスリップしたような感じになる。

さて、民宿・津ち川さんの温かいおもてなしと心遣いに感謝しつつ、まず「八幡宮」、「二百地蔵」を訪れることにする。昨日、贄川宿からJR奈良井駅の前を通って宿場町に入ったのだが江戸時代の初期は駅の上にある「八幡神社」の裏を抜けてきたのだそうだ。

八幡宮、二百地蔵、杉並木の道標のある石段を登っていくと「八幡神社」があり、その先が樹齢数百年と永い年輪を重ねた杉の大樹が続く並木道である。当時、幾多の旅人がその足跡を刻んできたのだろう。杉並木を抜けると、静かにたたずむ石仏群がある。昔、旅人が途中で死を向かえ、無縁仏になっていた石仏を1ケ所に集めたものとされている。整然と並ぶおよそ二百体の石仏の風雪に洗われた素朴で豊かな表情は心を和ませてくれる。

八幡神社」は、案内板によると「奈良井宿下町の氏神で、祭神は誉田別尊。奈良井宿の丑寅の方角にあたり、鬼門除けの守護神として崇敬された。」のだそうだ。

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中山道に戻ろう。奈良井宿を下町から中町、上町へと歩いて行く。

水場や当時、脇本陣であった「とくりや」、右手奥に「本陣跡」の碑、「上問屋資料館」などが左右に並び「鍵の手」(水場もある)から上町に入っていく。

「鍵の手」は、防衛の手段として、敵が一気に攻め込みにくくする為に、また、敵を追い詰め易くするために宿の入り口や通りを直角に曲げたもので宿場防備のための町造りの手法である。城下町では、この手法が多く用いられ「桝形」と呼ばれている。徳川家康真田昌幸上田城を攻めた、「第一次上田合戦」では徳川軍がこの「桝形」に大いに悩まされた。

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上町に入り、左手に「駒屋」、右手に有形文化財「中村邸(中村屋資料館)」があるが早朝のため資料館はすべて閉まっていた。

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その先が、「高札場跡」でここにも「水場」がある。

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そのすぐ先あるのが「鎮(しずめ)神社」である。

鎮神社は、経津主命(ふつぬしのみこと)を祀り、「由緒書」によれば、寿永から文治(十二世紀後期)のころ中原兼造が鳥居峠に建立したと伝えている。疫病流行を鎮めるため下総国香取神社を勧請したことから鎮(しずめ)神社と呼ばれるようになったという。

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鎮神社が、奈良井宿の出口で「奈良井宿の案内版」があり「楢川歴史資料館」の横が「鳥居峠」の登り口である。「中山道 上り鳥居峠 下り奈良井宿」の碑がある。

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いよいよ鳥居峠越えである。急な坂を上っていくとやがて「中の茶屋」があり、「葬沢」の説明版がある。それによると、「天正十年(一五八二)二月、木曽義昌が武田勝頼の二千余兵を迎撃し、大勝利を収めた鳥居峠の古戦場である。この時、武田方の戦死者五百余名でこの谷が埋もれたといわれ、戦死者を葬った場として、葬沢(ほうむりさわ)と呼ばれる。

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中の茶屋で一息入れ、急な坂を上る。「塩尻峠」同様倒木が峠道をふさぎ、歩くのには難儀である。倒木の理由は、「塩尻峠」と同じだろう。

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さて、しばらく行くと「鳥居峠一里塚」がある。

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一里塚を過ぎ、約1キロ急な上り坂を進むと峠に到着。「峰の茶屋」と書かれた休憩所があるが、季節外れのこととて中に入ることはできなかった。峠にはまだ雪が残っている。「峰の茶屋」の前には石碑があり右手には、奈良井宿を眼下に見下ろせる場所がある。当時、藪原宿から上ってきた旅人が眼下に広がる風景を見て千軒もの家あるように思えたのだろう。「奈良井千軒」と言われる所以なのかもしれない。

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さて、ここからは下りである。すぐ下に「熊除けの鐘」が置かれていて「熊も人が怖いのです。鐘で知らせてあげよう・・・・」と添え書きがかかっている。更に「お六櫛原木ミネバリ」という看板が掲げてある。木曽の名物は「お六櫛に五平餅」というイメージであるがお六櫛は「ミネバリ」という木から作られるのだ。

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栃の木が群生している峠道を行くと「子産みの栃」というものがあり「昔、この穴の中に捨て子があり子宝に恵まれない村人が、育てて幸福になったことから、この実を煎じて飲めば、子宝に恵まれると言い伝えられている。」と説明版が添えられている。

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さらに下っていくと「右義仲硯水」と書かれた碑の横に水鉢が置かれている。水鉢は文化元年建立で正面に御嶽山と刻まれている。昔、木曽義仲が平家討伐の旗揚げをした折、この頂上で御岳山へ奉納する願書を書くのに使ったとの言い伝えがある。その隣の「丸山公園」には「木祖村史跡鳥居峠」の碑や松尾芭蕉の句碑などが置かれている。

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句碑

- 雲雀よりうえにやすらふ峯かな - 芭蕉

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- 木曽の栃うき世の人の土産かな - 芭蕉

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- 嶺は今朝 ことしの雪や 木曽の秋 - (詠み人はわからない)

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標高1,197メートルの峠を下りきると「藪原宿」である。「原町清水」の水場があり「この水は峠を越える旅人が喉をうるおしたもので今も飲み水として使用されています。」と説明版に書かれている。ありがたい!! 厳しい峠越えで水をきらしたところである。この水で喉をうるおし、ペットボトルにもたっぷり補給させていただいた。

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水場を後に急な下り坂を歩いていくと「尾張藩藪原御鷹匠役所跡」の碑が立っている。

鷹匠役所は、江戸時代、鷹狩り用の子鷹を捕獲するため、木曽の山に「巣山」と言われる鷹の巣を保護する山林を定めていた。尾張藩の役人が木曽代官・山村家の家来の助けを借りて巣山の監視を行い、巣から下ろしてきた子鷹を飼育・調教して尾張藩に送り届け、その一部は将軍家にも献上されていたとのことである。

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第35宿 藪原宿・本陣1、脇本陣1、旅籠10

(日本橋より65里35町14間 約259.11キロ・奈良井宿より1里13町約5.3キロ)

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宿場に入ると、「防火高塀跡」の碑が右手に見える。

木祖村誌には、「元禄八年(1695)七月十四日夕方、下町西側のお寺門屋敷あたりから火事が起こり、夜中までに藪原宿全宿が焼失してしまった。藪原宿では、このような宿全体にかかわるような大火は四回も発生している。この元禄の大火の後、二度とこのような参事に遭わないためにもと、火除地として広小路を設け、防火のための石塁・高塀を設けた。」とある。その先には、水場も見受けられる。

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さらに先へ行くと、お六櫛問屋「萬寿屋」がある。

お六櫛にまつわる伝説

妻籠の旅籠屋に「お六」という美しい娘がいた。お六はいつも頭痛に悩まされていた。ある時、御嶽大権現に願掛けをしたところ「ミネバリという木で作ったすき櫛で、朝夕髪を梳かせば必ずや治る」というお告げがあった。 お六はさっそくお告げのとおり、ミネバリの櫛を作り、朝夕髪を梳かしていると、お六の頭痛はすっかり直ってしまった。それ以来、妻籠宿ではミネバリで作った櫛を「お六櫛」と名付けて旅人に売り出したところ大変な評判となり街道の名物となった。享保のころになって鳥居峠の近くに材料となるミネバリの木があることから薮原でもお六櫛を産するようになったと言われている。」

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しばらく行くと「高札場跡」の碑が立っている。藪原宿の出口であろう。

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藪原宿を出てしばらく行くと旧道は国道と合流する。更に行くと一里塚(藪原の一里塚)がある。日本橋から六十八番目の一里塚である。

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国道沿いに「宮ノ越宿」の大きな看板が立っている。

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さらに歩いていくと「山吹橋」(橋の名は、義仲の愛妾・山吹から来ているのだろうか)が見えてくる。橋を渡って右手に入り、しばらく行くと「巴が淵」というところに出る。その名の通り木曽義仲の妻(愛妾?)にまつわる場所である。淵を見下ろすところに四阿があり旅のノートが置かれている。ノートには「巴御前のように美しくなれますように」といったような女性の書き込みが多くみられた。美しく、強い女性への憧れであろうか。四阿の「一句いかがですか」の張り紙につられ、一句作ってみた。

「一休み巴が淵の浅き春」 お粗末!

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ここで巴御前について少し。

巴は、信濃国の豪族・中原兼遠の娘と伝えられている。常に義仲のそばに付き従いその生涯は謎に包まれており「平家物語・巻第九・木曽最期」の段にのみ登場する。

平家物語には、「木曾殿は信濃より、巴・山吹とて、二人の便女を具せられたり。山吹はいたはりあって(病気で)、都にとどまりぬ。中にも巴は色白く髪長く、容顔まことに優れたり。強弓精兵、一人当千の兵者(つわもの)なり」と記され、宇治川の戦い義経軍に敗れ落ち延びる義仲に従い、最後の7騎、5騎になっても討たれなかったという。義仲は「お前は女であるからどこへでも逃れて行け。自分は討ち死にする覚悟だから、最後に女を連れていたなどと言われるのはよろしくない」と巴を落ち延びさせようとする。巴はなおも落ちようとしなかったが、再三の義仲の言葉に「最後のいくさしてみせ奉らん」と言い、大力と評判の敵将・御田(恩田)八郎師重が現れると、馬を押し並べて引き落とし、首を切った。その後巴は鎧・甲を脱ぎ捨てて東国へ落ち延びた所で平家物語の舞台から退場する。

源平盛衰記」では、倶利伽羅峠の戦いにも大将の一人として登場しており、横田河原の合戦でも七騎を討ち取って高名を上げたとされている。宇治川の戦いでは畠山重忠との戦いも描かれ、重忠から「あの女武者は何者か」と問われた半沢六郎は「木曽殿の御乳母、中三権頭が娘巴といふ女なり。強弓の手練れ、荒馬乗りの上手。軍には一方の大将軍として、更に不覚の名を取らず。今井・樋口と兄弟にて、怖しき者にて候」と答えている。敵将との組合いや義仲との別れが「平家物語」より詳しく描写され、義仲に「我去年の春信濃国を出しとき妻子を捨て置き、また再び見ずして、永き別れの道に入らん事こそ悲しけれ。されば無らん跡までも、このことを知らせて後の世を弔はばやと思へば、最後の伴よりもしかるべきと存ずるなり。疾く疾く忍び落ちて信濃へ下り、この有様を人々に語れ」と、自らの最後の有様を人々に語り伝えることでその後世を弔うよう言われ、巴は戦場を去っていく。落ち延びた後に源頼朝から鎌倉へ召され、和田義盛の妻となって朝比奈義秀を生んだ。和田合戦の後に、越中国、石黒氏の元に身を寄せ、出家して主・親・子の菩提を弔う日々を送り、九十一歳で生涯を終えたという後日談が語られる。

「巴が淵伝説」
歴史が漂うこの淵は、巴状にうずまき巴が淵と名づけられた。
伝説には、この淵に龍神が住み、化身して権の守中原兼遠の娘として生まれ、名を巴御前と云った。義仲と戦場にはせた麗将巴御前の武勇は、痛ましくも切切と燃えた愛の証しでもあった。巴御前の尊霊は再びこの淵に帰住したと云う。法号を龍神院殿と称えられ、義仲の菩提所徳音寺に墓が苔むして並ぶ。絶世の美女巴は、ここで水浴をし、また泳いでは武技を錬ったと云う。そのつややかな黒髪のしたたりと、乙女の白い肌元には、義仲への恋慕の情がひたに燃えていた。岩をかみ蒼くうずまく巴が淵、四季の風情が魅する巴が淵・木曽川の悠久の流れ共に、この巴が淵の余情はみつみつとして、今も世の人の胸にひびき伝わる。
 - 蒼蒼と巴が淵は岩をかみ黒髪愛しほととぎす啼く - (日義村観光協会による)

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謡曲・巴」あらすじ

木曽の僧が都に上る途上、琵琶湖のほとりの粟津が原というところに差し掛かる。そこで神前に参拝に来た女と出会うが、女が涙を流しているので不審に思い、理由を尋ねる。女は古歌を引き、神前で涙を流すのは不思議なことではないと述べ、僧が木曽の出だと知るや、粟津が原の祭神は、木曽義仲であると教えて供養を勧める。そして、自分が亡者であることを明かし、消えてしまう。僧はお参りにきた近在の里の人から、義仲と巴の物語を聞き出し、先の女の亡者が巴だと確信を深める。夜になり、僧が経を読み、亡くなった人の供養をしていると、先ほどの女が武者姿で現れる。女は巴の霊であることを知らせ、主君の義仲と最期を共に出来なかった恨みが執心に残っていると訴える。そして義仲との合戦の日々や、義仲の最期と自らの身の振り方を克明に描き、執心を弔うよう僧に願って去って行く。 

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四阿の横に千村翁が詠んだ歌が刻まれている。

- 粟津野に討たれし公の霊を抱き巴の慕情淵に渦まく -

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芭蕉の弟子・許六も、このあたりで次の句を詠んでいる。

- 山吹も巴もいでて田植えかな -

一騎当千の美貌の女武者「巴」にまつわる話は、昔も今も絶えることがない。

さて、木曽川に架かる「巴橋」を渡ってしばらくゆくと「手洗水」と呼ばれているところがある。ここは、木曽義仲が南宮神社に参拝する際、この清水で手を清めたということである。

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「手洗水」を左に曲がり木曽川に沿って下っていくと宮ノ越宿である。

第36宿 宮ノ越宿・本陣1、脇本陣1、旅籠21

(日本橋より67里32町14間 約266.64キロ・藪原宿より1里33町約7.5キロ)

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宿場に入って歩を進めると右手に義仲橋があり、その橋を渡れば「義仲館」がある。

残念ながらこの日は休館日で中に入ることはできなかった。

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宮ノ越は、木曽義仲旗揚げの地である。

木曽義仲は、河内源氏の一門、源義賢の次男として生まれる。幼名は駒王丸。

平家物語」や「源平盛衰記」によれば、父・義賢はその兄・義朝との対立により大蔵合戦で義朝の長男・義平に討たれる。義平は、当時2歳の駒王丸の殺害を命じるが、畠山重能・斎藤実盛らの計らいにより信濃国へ逃れる。「吾妻鏡」によれば、駒王丸は乳父である中原兼遠の腕に抱かれて信濃国木曽谷に逃れ、兼遠の庇護下に育ち、通称を木曽次郎と名乗った。

義仲は、以仁王の令旨によって挙兵、倶利伽羅峠の戦い平氏の大軍を破って入京する。入京後は、「朝日(旭)将軍」と讃えられたが連年の飢饉平氏の狼藉によって荒廃した都の治安回復に失敗し、また大軍が都に居座ったことによる食糧事情の悪化、皇位継承への介入などにより後白河法皇と不和となる。法住寺合戦に及んで法皇後鳥羽天皇を幽閉して征東大将軍となるが、源頼朝が送った義経らの軍に敗れ、宇治川の戦い義経に敗れ、近江の国・粟津ヶ原で討たれた。31歳の若さで散った悲運の武将である。

中山道に戻り、先へ進むと「本陣」が残っているが工事中のため中には入れなかった。

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さらに、「明治天皇宮ノ越御膳水」の井戸が復元されている。

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宿場を出ると田園風景が広がっており、「一里塚跡」の碑が置かれている。日本橋から六十九番目「宮ノ越の一里塚」である。

これから先はこれということもなく淡々と歩きて行くことになるが「JR原野」駅を過ぎてしばらく行くと「中山道中間地点」の碑が立っており左側面に「京へ六十七里二十八町」右側面に「江戸へ六十七里二十八町」と彫られている。

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この先、旧道は国道19号に合流したり、分かれたりしながらさしてこれということもなくただひたすらに歩いていく。やがて正面に大きな鏑木門が見えてくる。

福島宿の入り口である。

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本日の宿は「木曽三河屋」。

 

中山道旅日記 7 塩尻宿-洗馬宿-本山宿-贄川宿-奈良井宿

18日目(3月21日(月))塩尻宿-洗馬宿-本山宿-贄川宿-奈良井宿-民宿・津ち川

奈良井駅発8時6分の電車で塩尻へ戻る。

電車は、ワンマンで一番前の車両からしか乗ることはできず整理券を取って一番前の扉から整理券と乗車料金を箱に入れて降りる。路線バスの要領である。

さて、塩尻駅から下大門の交差点へ戻り中山道へ入っていく。

この下大門の交差点は、中山道と松本街道(善光寺西街道)の分岐点であった。

中山道をゆくと、まず右手に「大門神社」が、続いて「耳塚」がある。

説明版の伝説によれば、「耳塚は、耳塚様と呼ばれ昔は澪身の病気の直ることを祈った。桔梗が原の戦いとか安曇族王に関係ありともいわれる。明治29年先祖が野ざらしになっていた塚に祠を建て2本の件を御神体として祀った。耳の形に似た素焼きの皿やおわんに穴を開けて奉納すると耳の聞こえが良くなると評判になり伊那地方からなど多方面から半紙を聞きつけて参拝した。祠は2度立て替えられ現存する祠は昭和53年建立。」

この耳塚は、天文17年(1548)5月武田信玄小笠原長時の桔梗が原の合戦の時、討ち死にした将兵の耳を葬った所と言われている。(長野県・武田信玄伝説による)

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中山道は、やがてJRの高架を越え、「昭和電工」の工場に沿って進んでゆくことになる。

そして、その先に「平出の一里塚」(日本橋から五十九番目の一里塚)が対で残っている。旧道沿い左手にあるのが「南塚」で右手の民家の奥に「北塚」がある。このように見事に対で残っている「一里塚」は珍しい。

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(写真 左「南塚」、右「北塚」)

やがて、左手50メートル程入ったところに平出史跡公園があり縄文時代の竪穴式住居から平安時代の集落まで復元されている。

「発掘によって、平出遺跡に人々が生活していた時期は、縄文時代から平安時代までに及ぶことが解った。」とパンフレットに記されている。

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平出史跡公園から、北アルプスの山並みがきれいに見える。

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北アルプスの山並みを見ながら歩くとやがて旧道は、国道19号に出会いそこからは国道を歩くことになる。そして、平出の信号から再び旧道が復活する。

旧道に入ってしばらく行くと「細川幽斎肘懸松碑」と呼ばれる松が右手に見える。説明版では、「洗馬の肘松日出塩の青木お江戸屏風の絵にござる。」と歌われた赤松のお名木。

細川幽斎が-肘懸けてしばし憩える松影にたもと涼しく通う河風-と詠んだと伝えられている。また、江戸二代将軍秀忠上洛の時、肘を懸けて休んだとの説もある。」とのこと。

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そこから、緩い坂道を下りきると三叉路になっている。「洗馬宿」と「善光寺道」の追分である。当時、ここは「信濃の分か去れ」とも呼ばれていた。道標には「右中山道」「左北国往還 善光寺道」と彫られている。「中山道善光寺道のさわかれ」は左50メートルの所にあったのだが「洗馬の大火」以後、ここへ移されたとのこと。(説明版)

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この追分から先が洗馬宿のようだ。

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第31宿 洗馬宿・本陣1、脇本陣1、旅籠29 

(日本橋より59里33町14間 約235.33キロ・塩尻宿より1里30町 約7.2キロ)

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宿場に入って右手に「あふたの清水」の立て看板があり、階段を下ってゆくと清水が湧き出ている。白梅が美しい。

奈良井川河岸段丘の下から湧き出ている。伝説では、今井兼平が木曽義仲の挙兵に馳せ参じ、この清水で出会ったとき、兼平が馬の脚をこの泉の水で洗ったところ、たちまち元気を取り戻した。ということである。

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旧道に戻りしばらく行くと本陣跡、明治天皇御駐輦碑、脇本陣跡があり、その先に「荷物貫目改所跡」の説明版が置かれており、これは江戸幕府が、街道往来の荷物の重量を検査するためにおいた役所で東海道の品川・駿府草津中山道の板橋・追分・洗馬に設置されていた。

規定の重量を越えた荷物に増賃金を徴収し、伝馬役に過重な負担がかからないようにしたのだそうだ。

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その先の「洗馬公園」に中山道碑、高札場跡の説明版があり隣に松尾芭蕉の歌碑には

- つゆばれのわたくし雨や句もちぎれ -

と彫られている。

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洗馬宿を後に緩やかな坂を上っていくと「一里塚」が朽ち果てそうになりながら残っている。

これが「牧野の一里塚」(江戸から六十番目)である。

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先を行くと牧野の信号で国道に合流し、国道を歩くことになり、再び右手旧道に入ると「本山宿」である。

第32宿 本山宿・本陣1、脇本陣1、旅籠34 

(日本橋より60里27町14間 約238.6キロ・洗馬宿より30町 約3.3キロ)

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旧道を行くと宿場の入り口に石塔群が置かれている。

「これらは宿場北端の下木戸にあったもので、秋葉神社は火除けの神様として信仰されていて今でも年に1度の代参が行われている」と説明書きが添えられている。

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宿場を進んでいくと左手に本陣跡(明治天皇本山行在所跡)があり、本山宿の説明版も置かれている。

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説明版の向い側には、「川口屋」、「池田屋」、「若松屋」と重要文化財の旧家が並んでいる。

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先には、脇本陣跡、問屋場跡の碑が中山道碑とともに置かれている。

その先が、高札場跡である。

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やがて、本山宿の大きな看板が見えてくる。本山宿のはずれである。

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旧道は、一旦国道19号に合流し再び旧道に入る。第二中仙道の踏切を渡り旧国道に合流した地点に「一里塚跡」が残っている。「日出塩の一里塚」(江戸から六十一番目)である。

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ここ先は、JR中央線が平行して走っている旧国道を歩く。「道祖神」、「秋葉大権現」、「初期中山道」の説明版などを見ることが出来る。

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しばらく行くと旧道は、旧国道と別れるがすぐに国道に合流し今度は国道を歩くことになる。国道と別れ再び旧道に入るところに四阿があり「是より南 木曽路」の碑が置かれている。いよいよ「木曽路」である。

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中山道六十九次」は、「木曽街道六十九次」とも呼ばれる。それは、贄川宿から馬篭宿までの約二十里の間に十一もの宿場があり、山の中の険しい道は中山道を象徴する街道であったからではなかろうか。

さて、ここから左手の旧道に入るがすぐに国道19号に合流してしまう。その先は、これということもなく淡々と国道を歩いていくと右手に「若神子の一里塚跡」がある。

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一里塚の少し先、JR贄川駅1.7k これより南木曽路1.8kの道標のところから旧道が復活。先へ行くと二十三夜塔、庚申塔道祖神が置かれている。旧道は、また国道と合流し中央線」「贄川駅」を過ぎ、線路を横断すると贄川関所跡である。

途中に「贄川宿」の大きな看板があり、線路の横断歩道には「木曽節」の歌詞が貼られている。」

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第33宿 贄川宿・本陣1、脇本陣1、旅籠25 

(日本橋より62里27町14間 約246.5キロ・本山宿より2里 約7.85キロ)

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贄川の関所は、京方面から来た旅人にとって必ず通らなければ宿場に入れなかった。当時は、福島関所の予備的なものであったが江戸方面からの旅人にとっては「木曽十一宿」最初の宿場であったため、やがて関所の役目を果たすようになったのだそうだ。

島崎藤村の「夜明け前」には、「木曽十一宿」は、「贄川」「奈良井」「藪原」「宮ノ越」の上四宿、「福島」「上松」「須原」の中三宿、「野尻」「三留野」「妻籠」「馬篭」の下四宿に分けられると書かれている。

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宿場に入ってすぐに、「秋葉神社」、「島津神社」があるが本陣、脇本陣など、当時の面影を残すものはほとんどない。「まるはち漆器」店、重要文化財「深澤家住宅」がわずかに当時をしのばせる。調べてみると昭和5年の大火で多くの家が消失してしまったようである。

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贄川宿を後に旧道を行くと、国道19号に合流するがその手前に「押込の一里塚跡」がある。江戸から六十三番目の一里塚である。

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国道を少し行くと奈良井川を渡ることになる。

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奈良井川を渡りJRの下をくぐると左手に旧道が復活するがその先で再び国道を歩くことになる。先に進み右手の旧道に入っていくと「木曽平沢」の道標、その先には「吉久屋」の看板がかかった旧家がある。

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奈良井川を渡りJRの下をくぐると左手に旧道が復活するがその先で再び国道を歩くことになる。先に進み右手の旧道に入っていくと「木曽平沢」の道標、その先には「吉久屋」の看板がかかった旧家がある。

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この平沢は、木曽漆器の町であるがその町並みはとても趣がある。

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その先には、二十三夜塔があり、以下のようなことが説明版に記されている。

「神に願かけ叶わぬならば二十三夜さまお立ちまち

と云う民謡があるように下弦(二十二日、二十三日)のおそい月の出を待ってこれを拝む風習があり宿(当番の家)に参集して飲酒談笑して月の出るまで待つのであるが特に「お立ち待ち」といって月の上がるまで腰をおろさず立ちつづけているという願かけをする者がありうっかりして座ってしまったり立っているだけでは苦痛なのでこの晩集まっているものが踊りをおどってまぎらわすということがあったという.....」

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さらに、JR平沢駅を左手にみて先へ進むと旧道はJRの線路を横切って国道に合流する。国道をしばらく行くと「左奈良井宿 中仙道 右漆器町平沢?」の碑が置かれており、奈良井駅1.7kの道標がある。

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ここを左(旧道)に入り奈良井大橋を渡っていくと「奈良井宿」である。

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今日の泊りも「民宿・津ち川」さん(連泊)。奥さんのおもてなしと心づかいがとてもうれしい民宿である。部屋から見る月がきれいだ。

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中山道 旅日記 6 浦和-下諏訪宿-塩尻宿-民宿津ち川(奈良井宿)

17日目(3月20日(日))浦和-下諏訪宿塩尻宿-民宿・津ち川(奈良井宿

春はその訪れをまだためらっているようであるが、中山道・一人歩きを再開することにする。

青春18切符を利用して武蔵野線、中央線を乗り継いで下諏訪へ。

午前4時39分浦和発、お江戸日本橋ならぬ浦和「七つ立ち」である。

中央線の車窓から甲斐駒ヶ岳が見事な姿を見せていた。

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下諏訪駅着午前9時、中山道に戻り、諏訪大社・春宮へ。

今年は、7年毎、寅と申の年に行われる「御柱祭り」の年で4月8日からの下社の祭りに向けて町中が活気にあふれていた。

諏訪大社

諏訪大社は、日本最古の神社の一つに数えられ、信濃国四十八社の第一にあり、「信濃国一之宮」と言われていた。

諏訪大社は、諏訪湖を挟んで上社(本宮、前宮)、下社(春宮、秋宮)の二社、四宮がある。上社の最寄り駅は、上諏訪駅であるため今回は、下社のみの参詣となる。

御祭神は、上社・本宮は建御名方神 (たけみなかたのかみ)、前宮は八坂刀売神 (やさかとめのかみ)、下社:春宮は建御名方神 (たけみなかたのかみ)、秋宮は坂刀売神 (やさかとめのかみ)とされている。

戦国時代、武田信玄は、天文11年(1542年)同盟関係にあった諏訪氏と手切れになるや諏訪地方に侵攻し制圧した。信玄は、諏訪大社を強く崇敬し、戦時には「南無諏訪南宮法性上下大明神」の旗印を先頭に諏訪法性兜をかぶって出陣したと伝えられている。

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余談ではあるが、武田信玄は、自らが滅ぼした敵将・諏訪頼重の娘を側室とした(諏訪御寮人)。その側室との子が武田勝頼である。のちに勝頼は、武田家を滅亡へと向かわせることとなる。

諏訪湖(諏訪海)は、信濃の国の歌枕である。

冬の始めに諏訪湖が凍るとき、湖を横断する氷の堤ができる。

これを御神渡りといい平安の昔から多くの歌に詠まれてきた。

-諏訪の海の氷の上の通い路は神の渡りて解くるなりけり- 源顕仲

-春をまつすわのわたりもあるものをいつをかきりにすへきつららそ 西行

春宮の左手奥に「万治の石仏」と呼ばれる石仏がある。

伝説によれば「明暦3年(1657年)、諏訪高島三代藩主忠晴が、諏訪大社下社春宮に遺石の大鳥居を奉納しようとした時、命を受けた石工がこの地にあった大きな石を用いようとノミを打ち入れた時、その石から血が流れ出た。驚き恐れた石工は大鳥居の造作を止め、あらためてこの不思議な石に阿弥陀様を刻み、霊を納めながら建立された」とのことである。

石仏の「万治」は、この石仏を建立した願主が、万治3年(西暦1660年)と刻まれているところによるものだそうである。

万治の石仏の参拝の仕方は、

  1. 正面で一礼し、合掌し「よろず治まりますように」と心で念じる。
  2. 願い事を心で唱えながら石仏の周りを時計回りに三回周る。
  3. 正面に戻り「よろず治めました」と唱えて一礼する。

この通りにやってみたが、いかが相成ることやら。

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春宮を出て中山道に戻り、しばらく行くと「左諏訪宮」「右中山道」の道標を見ることができる。

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さらに行くと左手に「慈雲寺」という寺が見えてくる。この寺の入り口に「滝の口」と呼ばれる湧き水が流れ落ちている。狭い急な石段の参道を登ってゆくと右手に「矢余石」なるものがある。説明版によれば

武田信玄は、慈雲寺中興の祖と言われる天桂和尚を師とも仰いでおり、戦場へ赴く時に慈雲寺へ立ち寄り戦勝の教えを請いました。

和尚は境内の大きな石の上に立って「私を弓で射てみよ」と至近の距離から矢を射かけさせたところ矢はすべて岩ではねかえされて和尚には一本の矢もあたりません。

不思議に思った信玄が尋ねてみると「この石には矢除けの霊力がある」とのことでした。

信玄は、この念力がこもった矢除札を受け勇躍戦場に向かったとの言い伝えのある石です。」

とのことである。

長い急な階段を登り切ったところが「慈雲寺」である。境内が広くえらく立派な寺で屋根にも本堂前の石灯篭にも武田菱が刻まれており武田家に縁のある寺であることが解る。

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「慈雲寺」からしばらく行くと右手の民家の前に「一里塚跡」の碑が置かれている。

これは、下諏訪の一里塚と呼ばれていた江戸から五十五番目の一里塚である。

(このくだりは、前回も記した。)

このあたりから少し先に行ったところが下諏訪宿の入り口である。

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第29宿 下諏訪宿・本陣1、脇本陣2、旅籠40 

(日本橋より55里6町14間 約216.67キロ・和田宿より5里18町 約21.6キロ)

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下諏訪宿は、江戸方面には和田峠、京方面には塩尻峠と難所が控えているため当時の旅人には、人気の宿場であったに違いない。

街道をゆくと左手に諏訪大社末社「御作田神社」があり、さらに行くと右手に中山道・茶屋「松屋」(今井邦子文学館)がある。

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ここから急な坂を上ってゆくと国道に出会うが国道の左である「来迎寺」の境内に「和泉式部伝説」が残っている。

銕焼(かなやき)地蔵と和泉式部伝説

和泉式部守り本尊 銕焼地蔵とかね」の説明版によると

「今から千年あまり語りつがれてきた伝説です。下諏訪の湯屋別当に「かね」という幼い娘が奉公していました。畑に行くときは、いつも道端のお地蔵様に自分の弁当の一部をお供えする心のやさしい娘でした。
あるとき「かね」」を嫉んでいた仲間が、告げ口をしたことから別当の妻は怒り、焼け火箸で「かね」の額をうちすえました。痛さに耐えかねた「かね」は、日頃信心のお地蔵様のもとに走り、ひざまづいて泣きながら祈り仰ぐと、お地蔵様の額から血が流れ出ており、自分の痛みは消え傷はなくなり美しい顔にかわっていました。
この話は瞬く間に拡がって、誰言うことなく「かなやきさまは霊験あらたかなお地蔵様」と遠近に聞こえ、お参りする人で賑わいました。たまたま都からこの地を訪れた大江雅致がこの話を聞き、「かね」を是非にと都に伴い養女にしました。
雅致夫妻のもとで書道・歌道などを学んだ「かね」」は宮中に仕えるようになりましたが、歌人として群をぬき、やがて和泉守橘道貞と結婚、和泉式部と呼ばれるようになりました。
  あらざらむ この世のほかの おもひでに いまひとたびの あふこともがな
和泉式部は出自も定かでなく、出生地といわれるところも各地にあるようですね。また晩年もはっきりしていないようですね。中山道美濃路を歩いていて、細久手宿から御嵩宿の間の御嵩宿よりに「和泉式部の墓(供養塔)」がありましたし、和泉式部の晩年にまつわる話も残っていました。」ということである。

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先へ行くと本陣・岩波家が残っている。入場料を払えば中に入ることが出来、当時の大名の宿泊の様子がうかがえる。関札も本陣の中に残っている。受付をしていたのが「私が27代目の岩波家の嫁です」というおばあさんであった。

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本陣のすぐ先が「綿の湯」である。

下諏訪宿は、温泉場として広く知られており江戸側から「和田峠」京側から「塩尻峠」と難所を超えてきた旅人がくつろげる宿場であったようだ。

当時の下諏訪宿には、三か所の湯があったそうだが旅人に解放されていたのは「綿の湯」だけで、それ以外は地元の人しか入れなかったそうである。

伝説の湯
上社前宮、下社秋宮の祭神、八坂刀売神(やさかとめのかみ)が、下社に渡られるおりに、上社から湯を含ませた化粧用の真綿を桶に入れて湖水を渡られた。ところが途中でお湯が湖水にこぼれてしまい、そのため湖中から湯が湧くようになり、それが上諏訪温泉のはじまりだという。
また、下社につくころには、真綿に含ませた湯がほとんどなくなってしまったので、神社のそばに真綿を捨てると、そこから湯が湧き出したという。これが綿の湯の名の由来とされている。
神の湯の信仰
また、不浄な者が入ると湯口が濁るともいわれた。
現在諏訪大社上社の神宝となっている、武田晴信(信玄)定書十一軸というものがある。これは一般には信玄十一軸とよばれ、長い戦乱の中で途絶えていた諏訪大社の祭祀や社殿の復興を指示する書である。この中で、綿の湯にまつわる神事を、以前と同じように復興させよとの指示を出している。
享保3年(1718)4月に、下諏訪宿に大火があり、綿の湯も子湯も焼けてしまったが、その年の月に復興された。
当時は上湯、下湯に分かれていたそうである。上湯は特別に何か資格か身分のある人の湯で、こちらは女湯、男湯の区別があった。下湯は一般庶民の湯で、混浴で誰でも入ることができたという。

伝説の多い土地ではある。

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この「綿の湯」の場所は、中山道甲州街道の追分でもあり、「下諏訪宿 甲州道中 中山道合流之地」の碑があり、その脇に「旧甲州道 (右矢印)江戸五十三里十一丁」「旧中山道 (下矢印)京都七十七里三丁 (左矢印)江戸五十五里七丁」の碑がある。

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ここから、甲州街道方面へ行くとすぐのところが「諏訪大社・秋宮」である。

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「綿の湯」の向いが「脇本陣・まるや」である。

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脇本陣の前の道が旧道ですぐその先に「民俗資料館」があり、「右甲州道 左中山道」の道標が置かれている。

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さらに歩を進めると「高札場跡」が見えてくる。

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旧道は、この先右に曲がって下諏訪駅前を過ぎることになるが、今朝、駅についてから下諏訪宿をぐるりと回ってきたことになる。

下諏訪駅前あたりが宿場の出口と思われる。旧道は、その先を左に入っていくことになる。

旧道に入るとすぐに「魁塚」が見える。これは、赤報隊の人たちの塚で赤報隊とは、明治維新の魁をした人たちだそうである。

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旧道を先へ進むと「中山道案内版」が見える。

やがて「永池・東堀」の交差点に出るがここを渡った処に「中山道・いなみち」と彫られた道標がある。この交差点を左折すると「伊奈街道」でる。

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旧道を先へ進むとしよう。

道端には、道祖神がありその先にも道祖神天満宮、石塔群が置かれている。

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やがて、「今井番所跡」がありその先が「茶屋本陣・今井家」である。

この辺りは、「今井立場」で当時は塩尻峠を前にして大いに賑わったであろうことは想像に難くない。

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さらに旧道をゆくと、「左 しほじり峠 中山道 右 しもすは」の道標が置かれている。

やがて、道路の右手に細い階段がありそこを上がると「石船馬頭観音」がある。

ここには、多くのわらじが供えられており、当時は足腰にご利益がある神社として多くの旅人がお参りしたのだそうだ。塩尻峠を前に足腰の無事を祈ったのであろう。

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「石船馬頭観音」のところを右手に行くといよいよ塩尻峠の急な坂が待っている。

急坂を上っていくと左手に「大岩」呼ばれる岩がある。この岩は、昔から有名であったのだそうだ。

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この峠道は、いたるところに倒木が横たわっている。

途中で道連れになった年配の女性の話だと、今年は気候が不順で雨が降って枝が凍りその上に雪が積もってその重さで木が倒れたのだという。にわかに想像出来ないが、それが事実なのだろう。

この女性は、峠頂上の「アブラチャン」や「こぶし」の花の状態を見に行くのだという。

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塩尻峠への坂は、急ではあるが距離としてはそれほど長くない。

曲がりくねった坂を上り切ると塩尻峠頂上である。

塩尻

「江戸初期の中山道は、下諏訪から三沢を経て小野峠小野盆地に入り牛首峠を越え桜沢に抜ける小野街道を利用していたが、15年ほどで塩尻峠越えの道に変更された。塩尻峠には、一里余り人家がなく、参勤交代も難渋したので、諏訪側の今井村と塩尻側の柿沢村とに御小休所(茶屋本陣)が置かれた。峠から諏訪方面は、中山道有数の絶景で、渓斎英泉は「木曽街道六十九次」にここからの眺めを描いている。」(塩尻市HPより)」

峠の奥には「展望台」があるのだが登り口には鍵がかかっており上ることはできなかった。

展望台からは諏訪湖が一望できさぞかし素晴らしい眺めであろう。(残念!)

それでも峠からは、下諏訪宿諏訪湖を眺めることが出来る。

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また大きな岩に「大帝の龍駕の峠さくらそう?」と読むのだろうか、句が刻まれている。

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ところで、道連れになった女性が気にしていた「アブラチャン」や「こぶし」は、枝が折れてひどい状態になっていた。(とてもがっかりされていた。)

さて、ここからは、塩尻宿への下りである。少し下るとすぐ「明治天皇塩尻嶺御膳水」の案内板があり、右側に井戸と左側に茶屋本陣がある。

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そのすぐ先右側に享和元年(1801)建立の親子地蔵があり、そばに「伝説 夜通道」の木柱があった。いつの頃か片丘辺のある美しい娘が岡谷の男と親しい仲になり男に会うため毎夜この道を通ったのだそうだ。 

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やがて、下り坂は平坦な道に代わり「一里塚」が見えてくる。東山一里塚(五十七番目)である。

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やがて、旧道は一旦国道20号に合流するがすぐ右に再び旧道への入り口がある。

旧道に入り緩やかな坂を下り高速道路を横切ると柿沢と呼ばれる集落である。

ここに「首塚」なるものがあり、これは天文17年(1548)武田信玄小笠原長時が戦った「塩尻の合戦」の死者を葬った塚だそうである。

旧道には、「本棟民家」も見受けられる。

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やがて、本柿沢の交差点を越えるとすぐに「永福寺」がある。

永福寺

宗派:高野山真言宗。本尊:大日如来

永福寺の創建は元禄15年(1702)、木曽義仲縁の地である現在地に木曽義仲信仰の馬頭観世音を本尊として朝日観音を建立したのが始まりと伝えられている。その後、朝日観音は焼失し一時衰退しましたが安政2年(1855)に現在の観音堂が再建された。

やがて、本柿沢の交差点を越えるとすぐに「永福寺」がある。

永福寺

宗派:高野山真言宗。本尊:大日如来

永福寺の創建は元禄15年(1702)、木曽義仲縁の地である現在地に木曽義仲信仰の馬頭観世音を本尊として朝日観音を建立したのが始まりと伝えられている。その後、朝日観音は焼失し一時衰退しましたが安政2年(1855)に現在の観音堂が再建された。

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旧道はやがて国道153号線に出会い、しばらく国道を歩くことになる。

永福寺の先に「是より西 塩尻宿」の案内版があり裏面に案内図が示されている。

このあたりが塩尻宿の入り口なのだろう。

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第30宿 塩尻宿・本陣1、脇本陣1、旅籠75 

(日本橋より58里3町14間 約228.13キロ・下諏訪宿より2里33町 約11.5キロ)

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宿場に入ってすぐのところに「一里塚跡」(五十八番目)がある。これが柿沢一里塚である。

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やがて、左手に重要文化財に指定されている「小野家」、屋号は「いてふや」なのだろう、看板が掲げられている。

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右手には、「上問屋跡」、「明治天皇行在所」、「本陣跡」、「脇本陣跡」、「陣屋跡」と続いていく。当時は、このあたりが塩尻宿では一番にぎわったところであろう。

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その先右手に「駕籠立場跡」「塩尻村役場跡」の碑が並んでいる。

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ここから、旧道は国道と別れ右へ入っていく。

旧道に入ると、「阿礼神社」が右手に見える。

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その先に双胎道祖神重要文化財「堀内家」があるが堀内家は残念ながら改築中であった。

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やがて。旧道は大小屋(おごや)の交差点で再び国道153号線に合流するが合流地点に道祖神、石塔群が置かれている。

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今日は、ここまでとし、宿泊地・奈良井宿へ行くため塩尻駅へ急いだが、わずかな違いで午後5時5分の電車に乗り遅れた。次の電車は、なんと6時50分だという。

民宿に電話してその旨を連絡したら、塩尻駅前から奈良井駅へ5時40分発の地域振興バスがあると教えていただいたのでそれに乗り、無事、奈良井宿の民宿「津ち川」さんにつくことが出来た。