中山道旅日記 25 山科-京・三条大橋(最終回)

34日目(521日(土))山科-京・三条大橋

中山道一人歩きも山科から京の道のりを残すのみとなった。

中山道69次最後の一日である。

JR草津駅から山科駅に戻り街道に出たのが午前9時過ぎ、しばらく行くと「東海道」側面に「大津札の辻まで一里半」と彫られている道標が「車石」、「車石の説明版」と共に置かれている。その先には「五条別れ道標」が置かれていて、正面には「右ハ三条通」左側面に「左ハ五条橋ひがしにし六条大佛・今くまきよ水道」右側面に「願主 沢村道範建立」と彫られている。

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街道は三条通りに合流し、しばらく行くと「天智天皇山科陵(てんちてんのうやましなのみささぎ)」の入り口がある。

扶桑略記には「大化の改新中臣鎌足藤原鎌足)と共に蘇我入鹿(そがのいるか)を暗殺し、蘇我氏を滅ぼした中大兄皇子は、大津に都を移し天智天皇となった。天智天皇はある時、馬で山科に行ってそのまま戻らなかった。そこで沓が見つかった山科に墓を造った」との伝承が記されている。

天智天皇は病気により死亡したと日本書紀には書かれているのだが・・・・・。

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広い道路を渡り「旧東海道」の表示に従って旧道に入っていく。少し歩くと旧道は京へ入る「日ノ岡峠」越えの上り坂になっている。

坂を上ると「亀の水不動尊」がある。不動尊の入り口には亀の口から清水が湧き出ている珍しい水場がある。当時、江戸からの旅人は京を目の前にしてここで喉を潤して最後の峠を越えていったのだろう。

「亀の水不動尊は、一七三八(元文三)年、日ノ岡峠の改修に尽力した僧・木食(もくじき)正禅が結んだ庵(いおり)の名残で、峠の途中に構えた庵は休息所を兼ね、井戸水で牛馬の渇きをいやし、湯茶で旅人を接待したとされる。」(京都新聞・道ばた資料館より)

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峠道をしばらく上ると民家の前にひっそりと「旧東海道」の道標が置かれている。

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旧道はやがて三条通に合流するが交差点北側の山肌に「旧舗石・車石」の石盤がはめ込まれている。

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その先10分程の所に日向大明神の鳥居が見えてくる。

社伝によれば、第二十三代・顕宗天皇の御代に筑紫日向(ちくしひゅうが)の高千穂の峯の神蹟より神霊を移して創建されたのだそうだ。

応仁の乱で社殿は焼失したが江戸時代初期に再建され、現在は交通祈願の神社として有名になったとのことである。

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更に20分ばかり歩くと「三條通・東大津道」と彫られた道標が置かれておりすぐその先に「粟田神社」がある。

そこには「粟田焼発祥の地」と彫られた碑が立てられている。粟田焼は洛東粟田地域で生産された陶器の総称で,元来は粟田口焼という名称であったが,窯場が粟田一帯に拡大されたため粟田焼と呼ばれるようになった。

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そこから5分程歩いたところに「坂本龍馬 お龍結婚式場跡」の碑が置かれており、説明版が添えられている。

「当地は青蓮院の旧境内で、その塔頭金蔵寺跡です。元治元年(1864)8月初旬、当地本堂で、坂本龍馬と妻お龍()は「内祝言」、すなわち内々の結婚式をしました。 ・・・・・」(説明版より)

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すぐ先の白川橋の横に「是よりひだり ちおんゐん ぎおん きよ水みち」と彫られた「三条白川橋道標」が置かれている。これは延宝六年(1678)に建立された京都最古の道標なのだそうだ。

ここを左折し、川沿いをしばらく行くと路地の奥に「明智光秀の塚」がある。

山崎合戦(天王山の戦い)で秀吉に破れた光秀は、坂本城を目指して落ち延びる途中百姓に竹槍で刺されその後、自刃した。介錯をした家臣の溝尾茂朝が光秀の首を持ってこの近くまで来たが、夜が明けたためこの地に埋めた、と伝えられている。

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白川橋まで戻り歩くこと約15分「高山彦九郎皇居望拝之像」が置かれている。

高山彦九郎は江戸時代後期、勤皇を唱えて諸国を歩いた人物だそうだ。

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そしてすぐ先が鴨川に架かる三条大橋である。

鴨川は京都を代表する川で桟敷岳(さじきだけ)を源とし京都市街を流れて淀川に合流する。古くから多くの歌人が鴨川を題材にして歌を詠んでいる。

-鴨川の後瀬(のちせ)静けく 後も逢はむ 妹には我れは今ならずとも- 万葉集(二三四一)

-千鳥なく かもの河瀬の夜半の月 ひとつにみがく 山あゐのそで- 藤原定家

-みそぎする 賀茂の川風吹くらしも 涼みにゆかむ妹をともなひ- 曾禰好忠
-ちはやぶる賀茂の社の木綿襷(ゆうだすき)一日も君をかけぬ日はなし- 詠人不知(古今集

-かも河の みなそこすみて てる月を ゆきて見むとや 夏はらへする- 詠人不知(後撰和歌集

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橋の西詰に「弥次さん喜多さん」の銅像がある。横の立て札には「道中安全祈願・ふれあいの弥次喜多さん 旅は道づれ 世は情け 道中安全願いつつ ふれて楽しい 旅のはじまり」と書かれている。

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2016521日午前115分、中山道69次・百三十五里三十四町八間(約530キロ)

完全踏破。

 

エピローグ

2015521日(木)に日本橋をスタートした中山道一人歩きの旅はちょうど1年後の2016521日(土)京・三条大橋に着き、約530キロを踏破することができた。

延べ34日の旅であった。

中山道・第三宿「浦和」に住んでいるという単純な理由で軽い気持ちで始めた街道歩きであったが日を重ねるごとに面白くなり、途中からはガイドブックや「木曾路名所図会」で事前に見どころをチック、歩いた後は資料を調べるといった楽しみが加わった。

更に「太平記」、「平家物語」、「十六夜日記」や十返一九の「続膝栗毛」などの古典文学を読みながらの旅でもあった。

中山道は、東京・埼玉から群馬、長野、岐阜といった中央山岳地帯を貫いた街道で碓氷峠和田峠塩尻峠、鳥居峠馬籠峠、十三峠、摺針峠など当時は難所といわれた峠を越えなければならない。碓氷峠の頂上に立った時の感動、1日中誰にも会うことがなかった12月の和田峠越え、十三の峠を上り下りする長い峠道、琵琶湖を望める摺針峠など汗を拭き拭きの峠越えはそれぞれに趣があった。
木曽路の奈良井、福島、妻籠、馬籠など昔の風情を残す宿場町、東京をそのまま移動させたような軽井沢、温泉を楽しんだ下諏訪、山の中に取り残されたような大湫、細久手、強い雨に打たれた赤坂など思い出は尽きない。

その土地、土地に古くから語り継がれた伝説や伝承、歴史上の人物にまつわる逸話などにも触れることができた。

多くの古人が歌を詠んだ歌枕の地を訪れ、芭蕉や一茶の俳句にも出会った。

時には、関が原の合戦や壬申の乱、皇女和宮の降嫁、木曽義仲とその愛妾・巴、源義経とその母常盤御前など数々の歴史に思いをめぐらしたものである。

中山道旅日記 完

中山道旅日記 24 草津宿-大津宿

33日目(520日(金))草津宿-大津宿-山科

午前8時前にホテルを出て街道へ。

68宿 草津宿・本陣2脇本陣2、旅籠72

(日本橋より129108間 約507.7キロ・守山宿より118町 約5.9キロ)

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中山道は、草津宿東海道と合流する。中山道の第68宿・草津宿東海道の第52宿でもあり、次の大津宿は中山道69宿、東海道53宿ということになる。草津宿平安時代から東山道東海道の分岐点として大いに栄え、東山道中山道と改名されてからも交通の要所として重要な位置を占めていた。

「守山まで一里半。此駅、東海道木曽路街道・尾張道等喉口(ここう)なれば賑し。宿中に立木明神(たつきみょうじん)のやしろ、上善寺、駒井氏(こまいうじ)や活人石(かつじんせき)等あり。尋ねて見るべし。」(木曾路名所図会)

大路の交差点を渡った所からアーケードが付いた商店街だがこの道も中山道である。

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商店街をぬけてしばらく行くと中山道東海道の追分道標が立っている。文化十三年(1816)に建てられたものだそうで「左 中仙道美のぢ 右 東海道いせみち」と彫られている。昔の旅人が中山道東海道に分かれていった所で色々なドラマが繰り広げられたに違いない。江戸からの旅人は、京はもうすぐだと実感しただろう。

道標の右には高札場跡がある。ここには「右 東海道いせみち」「左 中山道みのみち」と書かれた立て札も立っている。

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マンフォールの蓋にも「東海道中山道分岐点慶長七年」と書かれ、道しるべになっている。

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先の公民館の前に「尭孝(ぎょうこう)法師歌碑」が置かれていて、歌の解説などが書かれた説明版が添えられている。
-近江路や 秋の草つは なのみして 花咲くのべぞ 何処(いずこ)ともなき- 覧富士記
「将軍のお供をして富士を見に行く途中、秋の近江路草津まで来たが、草津とは名ばかりで、秋の草花が咲いた美しい野辺を思い描いていただけに心寂しい思いをするものだよ。

堯孝法師(一三九〇~一四五五)」(説明版より)

ちなみに、将軍とは「足利幕府六代将軍義教(よしのり)」のことである。

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その先が「草津宿本陣」である。ここは現存する本陣の一つで今も当時のままの姿をとどめている。ここには、忠臣蔵の・播州赤穂の藩主・浅野内匠頭新選組土方歳三、皇女和宮シーボルトなども宿泊したのだそうだ。中には当時の貴重な資料が展示されているそうだが、早朝の為入館できなかった。

入り口には「細川越中守宿」の関札も掲げられている。

≪関札(せきふだ)宿札(やどふだ)について≫

「関札は別名、宿札ともいい、江戸時代に大名や公卿、門跡、旗本や幕府役人などが本陣に休泊する標識として、休泊する者の氏名や官職、休泊の別(宿・泊・休など)を記し、尺廻り(約30センチ)高さ3間(約5.5メートル)の青竹に取り付け、本陣の前や宿場の出入り口に立てられたものである。」

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本陣の向かいに「和食材 ベーカリー&カフェ・脇本陣跡」と表示されている店があるがここが脇本陣跡なのだろうか?傍らに「脇本陣跡」の碑が立っているのだが・・・・。

先へ行くと「草津宿街道交流会館」の札が掛かっている建物があるがここもまだオープンしていない。入り口には「右・東海道大津宿、左東海道石部宿 中山道守山宿」と書かれている。

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先へ行くと、「道灌」と記されたこも被り(こもかぶり)が置かれている建物がある。ここは造り酒屋「太田酒造」で、先祖は江戸城築城の祖、太田道館だそうだ。

(こも被り=薦(こも)でおおった四斗(約72リットル)入りの酒樽のこと)

 

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先の道路を渡ると「立木神社」がある。境内の自然公園立木の森には「石造道標」があって「みぎハたうかいとういせミち ひたりは中せんたうをた加みち」とほられている。これは文化三年(1806)に立てられた現在の追分道標以前の延宝八年(1680)に立てられたそうである。

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その先の草津川に架かる矢倉橋を渡って5分程行くと当時立場として賑わったところで瓢泉堂という瓢箪を売る店がある。この店は草津名物の「姥が餅」を売る茶店の跡だそうだ。その店先に「やばせ道」道標が立てられている。ここは 東海道と矢橋街道(やばせかいどう)の追分で、道標には「右やはせ道、これより廿五丁」と彫られている。(矢橋道は、東海道中山道の合流地点から南西に1キロ余りいった所で東海道と分かれて、琵琶湖畔矢橋(やばせ)の渡しに至る25町の道である。矢橋から大津、石橋の渡しまでの湖上をあわせ、瀬田の唐橋経由の陸路に比べて2里ほどの短縮となった。)

この道標は広重の「東海道五拾三次之内 草津」に描かれている。

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「やばせ道」道標から5分程先には稲荷神社さらにその先の上北池公園には「野路一里塚跡」の碑が置かれている。これは江戸から百三十番目の一里塚である。(百二十九番目は確認できなかった。)

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その先には、野路の玉川跡があり小さな泉が復元されており、源俊頼の歌碑が立っている。

「野路の地名はすでに平安時代の末期にみえ、平家物語をはじめ、多くの紀行文にもその名をみせている。野路の玉川は、日本六玉川の一つで歌枕の名勝である。 

-あすもこむ 野路の玉川萩こえて 色なる波に 月やどりけり- 源俊頼 (千載集)

またこの地は萩の名所として「萩の玉川」ともいわれ「近江名所図会」は歌川広重の浮世絵にも紹介されている。」(説明版より)

木曽路名所図会には「野路の篠原のこなたに玉川の跡あり。これ六ツ玉川の其の一つなり。

-さを鹿の しからむ萩に秋見へて 月も色なる 野路の玉川- 太宰権師仲光 (新拾遺集)」とある。

また阿仏尼は十六夜日記の中で

-のきしぐれ ふるさと思う 袖ぬれて 行きさき遠き 野路のしのはら-

と詠んでいる。

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さて、玉川を過ぎてしばらく行くと弁天池と呼ばれる池があり池の中ほどに弁天島が浮かんでいる。この島には弁財天が祀られているが、江戸時代の大盗賊・日本左衛門が隠れていたという伝説も残っているのだという。日本左衛門は歌舞伎十八番・白波五人男の一人である。

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弁天池を後に旧道を歩いていくと月輪寺がある。入り口には正面に「東海道」右側面に「濱道」と彫られた道標や「明治天皇御東遷駐輦之所」の碑などが置かれている。

この寺は明治天皇だけではなく徳川第十四代将軍家茂も休息を取ったという記録が残っているそうだ。

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その先には月輪池と呼ばれる池があり「東海道立場跡」の碑が立っている。このあたりも当時は立場で賑わったのだろう。10分程先へ行った交差点に一里塚跡の碑が置かれている。江戸から百三十番目の「月輪池一里塚」である。また、道標が立てられていて「上矢印・三条大橋迄で五里余り、下矢印・江戸日本橋迄で百二十里余り(東海道)、左矢印・旧朝倉道信楽より伊勢、桑名に至る、右矢印・膳所藩札場より大萱港常夜灯に至る」と

彫られている。

-くたびれたやつが見つける一里塚-という川柳がある。ここで一休みとしよう。

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ここから先はこれということもなく淡々と歩いていくことになる。一時間余り行くと「左・旧東海道」「右・瀬田唐橋」彫られた碑がある。道標通り右へ行くと5分ばかりで瀬田の唐橋である。橋の袂には常夜灯と「松風の帆にはとどかず夕霞 茶粋」と彫られた歌碑が立っている。(茶粋とは誰のことかわからない。)

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瀬田の唐橋については書くことが多い。

琵琶湖に架かる瀬田の唐橋は、「瀬田の長橋」とも呼ばれ近江八景「瀬田の夕照」で知られる日本三大名橋の一つで、古くは近淡海(ちかつあわうみ)とも鳰海(におのうみ)とも呼ばれた琵琶湖と共に多くの古人が歌を詠んだ歌枕の地である。

瀬田の唐橋

-まきの板も苔むすばかり成りにけりいくよへぬらむ瀬田の長橋- 中納言・大江 匡房(おおえ の まさふさ)(新古今集/雑中の巻)

-望月の駒ひきわたす音すなり瀬田の長道橋もとどろに- 平兼盛(麗花集)
-ひき渡す瀬田の長橋霧はれて 隈なく見ゆる望月の駒- 藤原顕季(堀河院御時百首和歌)
-五月雨に かくれぬものや 勢多の橋- 芭蕉

≪琵琶湖(近淡海(ちかつあわうみ)、鳰海(におのうみ))

-淡海の海夕波千鳥汝なが鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ- 柿本人麻呂万葉集

三 二百六十六番)
-鳰の海や霞のをちにこぐ船の まほにも春のけしきなるかな- 式子内親王

(新勅撰和歌集
-石山や鳰の海てる月かげは 明石も須磨もほかならぬ哉- 近衛政家
-鳰の海や月のひかりのうつろへば浪の花にも秋は見えけり- 藤原家隆新古今和歌集

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次に瀬田の唐橋は古くは日本書紀にも記述があり、古来より「唐橋を制する者は天下を制す」といわれ軍事・交通の要所であった。

摂政元年、香坂皇子(かごさかのみこ)と忍熊皇子(おしくまのみこ)が反乱。忍熊皇子神功皇后(じんぐうこうごう)(応神天皇の母)の家来である武内宿禰(たけうちのすくね)の軍に攻められ、瀬田で自害したという(『日本書紀』 気長足姫尊 神功皇后)。

天武天皇元年(672)に起こった古代日本最大の内乱、壬申の乱(じんしんのらん)では天智天皇の皇子・大友皇子とその叔父大海人皇子(おおあまのみこ)との間に皇位継承の戦いが起き、その最終決戦の場が瀬田の唐橋であった。結果、大海人皇子が勝利し天武天皇となる。

治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)(源平合戦)(11801185)では木曽義仲平氏源義経木曽義仲がここで戦っている。

承久三年(1221)の承久の乱(じょうきゅうのらん)では、後鳥羽上皇方と鎌倉幕府方が瀬田の唐橋を挟んでの戦闘となった。結果、幕府方勝ち幕府の権力は強くなり、後鳥羽上皇隠岐へ流罪となる。

琵琶湖から流れ出る川は瀬田川だけで、東から京へ入るには瀬田川か琵琶湖を渡るしかなく瀬田川に架かる唯一の唐橋は軍事上最も重要であった。

武田信玄は死の床にあって「瀬田橋に我が風林火山の旗を立てよ」と命じたそうである。

また、瀬田の唐橋(瀬田橋、勢多の唐橋)は「急がば回れ」の諺の由来の橋でもある。

室町時代連歌師・宋長(そうちょう)は「もののふの矢橋の舟は早けれど急がば回れ瀬田の長橋」と詠んだ。

「やばせ道標」の時にも書いたが、江戸時代、草津から京へ入るには東海道の陸路を行くか矢橋の渡しから海路琵琶湖を横断するかの二通りである。海路の方が二里ほど短縮されるが比叡山から吹き下ろす突風(比叡おろし)のため危険で遅れることが多くかったようである。急ぐ時には危険な近道より遠くても安全な本道の方が結局は早く着く。安全で着実な方法を選択すべしという戒めである。

そしてここには「俵の藤太のムカデ退治伝説」も残っている。

瀬田の唐橋 俵藤太秀郷むかで退治≫

室町時代藤原秀郷(ふじわらのひでさと)は、誰もが恐れていて近寄りもできなかった瀬田橋に横たわる六十六メートルもの大蛇の背をやすやすと踏み越えた。すると、大蛇は爺さんに姿を変えて秀郷の前に現れ、三上山の大ムカデが夜な夜な琵琶湖の魚を食いつくしてしまい、人々が大変困っているという。そこで爺さんは大蛇に姿を変えて勇気のある豪傑を待っていた。秀郷は、こころよく大ムカデ退治を引き受けた。秀郷の射た矢が見事に大ムカデの眉間を射貫き、大ムカデは消え失せた。この秀郷の武勇をたたえて爺さんが招待したところが瀬田橋の下、竜宮であった。琵琶湖に暮らす人々を守るべく一千年余の昔から瀬田橋に住むという。秀郷は一生食べきれないほどの米俵を土産に竜宮を後にした。そこから「俵藤太」の名が付けられたとされている。」(説明版より)

続膝栗毛には「ゆくほどなく、やがて瀬田の長はしにいたる。此所はたはら藤太がむかし、みかみやまのむかでをたいじせし所なりといひつたふ。

-其むかし ばなしを今もみかみ山 むかでの足ににたるはし杭-」と書かれている。

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瀬田の唐橋を渡って大津に入る。道標に従って歩いていくと「膳所城勢多口総門跡」の碑がさりげなく民家の門前に置かれている。

膳所城は徳川家康関ケ原の合戦後築城の名手といわれた藤堂高虎に造らせた城で湖水を利用して西側に天然の堀を巡らせた典型的な水城で白亜の天守閣や石垣、白壁の塀・櫓(やぐら)が湖面に浮かぶ美観は、「瀬田(せた)の唐橋(からはし)唐金擬宝珠(からかねぎぼし)、水に映るは膳所の城」と里謡(さとうた)にも謡(うた)われている。

その先には「若宮八幡神社」がありさらにその先には「膳所城中大手門」の碑が置かれている。

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15分程歩くと「和田神社」があり神社の本殿は国の重要文化財に指定されており、門は膳所藩の藩校「遵義堂(じゅんきどう)の門を移築したものだそうだ。境内には650年の樹齢を誇る「いちょう」の大木がそびえている。

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さらに10分程行くと「石坐(いわい)神社」がある。社伝によると、この神社は瀬田に設けられた近江国府の初代国造・治田連(はるたのむらじ)がその四代前の租・彦坐王命(ひこいますみのみこ)を茶臼山に葬り、その背後の御霊殿山を神体山(神奈備(かんなび))として祀ったのが創祀だとか。

神奈備(かんなび):神道において、神霊(神や御霊)が宿る御霊代(みたましろ)や依り代(よりしろ)を擁した領域のこと)

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石坐神社から約10分で「義仲寺(ぎちゅうじ)」である。近江の国・粟津の地で源頼朝の命を受けた義経軍と戦い壮絶な最期を遂げた木曽義仲を葬った寺である。この寺は後に髪を下ろして尼僧となった巴が義仲の墓所近くに草庵を結んで「われは名も無き女性(にょしょう)」と称し、日々義仲を供養したことにはじまると伝えられる。寺は別名、巴寺、無名庵、木曽塚、木曽寺とも呼ばれたという記述が鎌倉時代後期の文書にみられるという。巴の美貌は尼になっても衰えず、里人からその名を聞かれても「我は名もなき女性(にょしょう)」と答えるばかりであったという。

巴の死後、寺は荒廃したが後に近江守・佐々木氏により再興された。

江戸時代中期までは木曽義仲を葬った小さな塚であったが、周辺の美しい景観をこよなく愛した松尾芭蕉が度々この地を訪れ、死後生前の遺言によってここに墓が立てられたと言われている。

寺務所の横に巴地蔵が祀られ、境内には義仲の墓と共に芭蕉の墓、巴塚、山吹供養塔、無名庵、朝日堂、翁堂、芭蕉の歌碑などがある。

義仲寺(左)、巴地蔵(右)

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無名庵(左)、朝日堂(中)、翁堂(右)

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義仲の墓(左)、芭蕉の墓(右)

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芭蕉の句碑が一基

-木曽殿と背中合わせの寒さかな-

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≪巴塚(供養塚)≫

木曽義仲の愛妻 巴は義仲と共に討死の覚悟で此処粟津野に来たが、義仲が強いての言葉に最期の戦を行い、敵将恩田八郎を討ち取り涙ながらに落ち延びたが後鎌倉幕府に捕えられた。その後、和田義盛の妻となり義盛戦死のあとは尼僧となり各地を廻り当地に暫く止まり 亡き義仲の菩提を弔っていたという。それより何処ともなく立ち去り、信州木曽で九十歳の生涯を閉じたと云う。」(説明版)

≪山吹供養塔≫

「山吹は義仲の妻、そして妾とも云う。病身のため京に在ったが、義仲に逢わんと大津まで来た。義仲戦死の報を聞き悲嘆のあまり自害したとも捕られたとも云われるその供養塚である。元大津駅前に在ったが大津駅改築のため此の所に移されたものである」(説明版)

-木曽殿をしたひ山吹散りにけり- 

山吹地蔵がJR琵琶湖線大津駅のすぐそばにあるというのだが・・・・・。

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巴を詠んだ歌碑が二基

-かくのごとき をみなのありと かってまた おもひしことは われになかりき-

-としつきは 過ぎにしとおもふ 近江ぬの みずうみのうへを わたりゆく月-

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松尾芭蕉の歌碑が三基

-行春を おうみの人と おしみける-(左)

-古池や 蛙飛びこむ 水の音-(中)

-旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る-(右)

 

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義仲寺を出て20分ほど歩くと「京町三丁目・旧東海道」と書かれた道標が目に入る。このあたりの町並みは昔の面影を少し残している。いよいよ大津宿の入り口である。

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69宿 大津宿・本陣2脇本陣、旅籠72

(日本橋より132348間 約522.1キロ・草津宿より324町 約14.4キロ)

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大津は古く壬申の乱(じんしんのらん)の舞台となったところで、その後宿駅と琵琶湖の物資が集散する商業地として栄えた。また東海道中山道の宿駅が重なり北陸海道の起点であったので大いに賑わった。

木曽路名所図会には「京師(けいし)よりここまで三里、これより草津まで三里半六町、(光行紀行)ここはむかし天智の帝、大和国飛鳥岡本みや(やまとのくにあすかかもとのみや)より、淡海(あふみ)の志賀郡に都うつりありて、大津の宮をつくらせ給うときくにも、ふるき皇居の跡ぞかしと覚て

-ささ波や大津の宮のあれしより名のみ残れる志賀のるふ里- 光 行

此駅は都よりはじめてのところなればにや、旅舎(たびや)人馬多くこぞりて喧し(かまびすし)。浜辺のかたは、淡海国(あうみのくに)に領ぜらるる諸侯の蔵やしきならび、入船出船賑ひ、都て(すべて)大津の町の数九十六町ありとなん。」とある。」

さて、大津宿に入ると「露国皇太子遭難之地碑」が立っている。ここはロシア帝国の皇太子が大津の警察官に突然切りつけられた暗殺未遂事件(大津事件)のあった所だそうだ。

街道は路面電車が走る広い道路に出会うが交差点を渡った所が札の辻で「大津市道路元票」の碑と共に「札の辻」の道路標識が立っている。ここは高札場であったが越前敦賀へ通じる北国海道の起点でもある。すぐ先には近松別院の道標も置かれていて表面には「是より半町 京・大坂・江戸・大津講中」、側面には「蓮如上人近松御旧跡」裏面には「延享三丙寅年五月是を建つ」と刻まれています。

十返舎一九の続膝栗毛には「人の心の長旅に足曳(あしびき)の山留(やまどめ)して(足曳は山にかかる枕詞)、朝もよい木曽街道を心ざし、今や東都へ帰り道なる弥次郎兵衛きた八は、播州路よりすぐに尼ケ崎から神崎のわたしをこえて、山崎街道を伏見に寄宿し、あくればここを立出て、はやくも札の辻なる追分町にぞ出たりけり。此所は名におふ大津絵の名物、みすや針十算盤(そろばん)など、家ごとにあきなふ見えたり。

-筆勢(ひっせい)を 見世にならべて商内(あきない)も 時に大津の 得(え)ものなるべし-」(続膝栗毛・三編・上巻)と書いている。

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札の辻からは緩やかな上り坂でその先に明治天皇聖跡と刻まれた碑が立っていて「大津宿本陣跡」の説明版が立てられている。説明版によると大津宿には2軒の本陣と1軒の脇本陣があったが、ここは大塚本陣があった所だそうだ。

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さらに坂道を上っていくと、京阪電鉄の踏切の向こうに石灯籠、その横に「関蝉丸神社」と「音曲藝道祖神」の石碑が並ぶ。「蝉丸神社下社」である。

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踏切を渡り、鳥居をくぐると蝉丸の歌碑その先には紀貫之の歌碑が置かれている。

-これやこの ゆくもかえるもわかれては しるもしらぬも 逢坂の関- 蝉丸(百人一首第十番)

-逢坂の 関の清水に影見えて いまやひくらん 望月の駒- 紀貫之

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本殿の左手奥には「時雨燈籠」がある 。説明版によるとこれは鎌倉時代の様式をもつ超一級の燈籠で国の重要文化財に指定されている。

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蝉丸神社を出てしばらく行くと「逢坂」の由来が書かれた碑が立っている。

「竹内宿禰(たけのうちのすくね)がこの地で、忍熊王とばったり出会ったことに由来する」のだそうだ。

街道はその先で国道1号線に合流し、がやがて「蝉丸神社上社」が見えてくる。国道は緩やかな上り坂になっていて坂を上り切った所に「逢坂常夜灯」と「逢坂山関址碑」が置かれている。

逢坂関(おうさかのせき)は山城国近江国の国境(くにざかい)にある関所で東海道東山道(後の中山道)がこの逢坂関を越えるため、交通の要(かなめ)となる重要な関所であった。平安時代中期以後は東山道不破関東海道鈴鹿関と共に三関の一つとされている。

また、逢坂関は歌枕としても知られ、蝉丸の歌と共に清少納言、三条右大臣の歌が百人一首に選ばれている。

-夜をこめて鳥の空音ははかるとも よに逢坂の関はゆるさじー 清少納言百人一首第六十二番)

-名にし負はば逢坂山のさねかづら 人に知られでくるよしもがな- 三条右大臣(百人一首第二十五番)

(ちなみに百人一首の第一番は-秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ(天智天皇))

他にも

-逢坂の 関に流るる岩清水 言はで心に 思ひこそすれ- 読人知らず
-わきて今日あふさか山の霞めるは立ちおくれたる春や越ゆらむ- 西行

などがある。

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先へ行くとポケットパークがあり、蝉丸神社の碑や「車石」の説明版が置かれている。

≪車石≫

「大津と京都を結ぶ東海道は、米をはじめ多くの物資を運ぶ道として利用されてきた。
江戸時代中期の安永八年(1778)には牛車だけでも年間15894輌の通行があった。この区間は、大津側に逢坂峠、京都側に日ノ岡峠があり、通行の難所であった。
京都の心学者 脇坂義堂は、文化二年(1805)に一万両の工費で、大津八町筋から京都三条大橋にかけての約12kmの間に牛車専用通路として、車の轍(わだち)を刻んだ花崗岩の切石を敷き並べ牛車の通行に役立てた。これを「車石」と呼んでいる。」(説明版)

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国道1号線を下り名神高速の下を通って旧道に入る。しばらく行くと「みぎハ京ミち」「ひだりハふしミみち」と彫られた追分道標が「蓮如上人御塚」と彫られた碑と共に立っている。ここは髭茶屋追分ともいわれ、道標の左方向の道路が、伏見、淀、大坂方面への伏見街道(奈良街道)で、この道路から京都市山科区になる。

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旧道は、三条通りへ出てすぐに国道1号線を横断するが、歩道橋を渡るとすこし登り坂になり、民家の石段の端に「牛尾山」と書かれた小さな道標がひっそりと置かれている。

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旧道は再び三条通りに合流するが手前の三叉路に「小関越の道標」がある。東海道大関越えと呼んだのに対し、ここから小関峠を越えて小関町に続く道を小関越えと呼び京都から大津の町中を通らずに北陸へ行く近道(間道)として利用されたのだという。

正面に「三井寺観音」右側面に「願諸来者入玄門」左側面に「小関越」と彫られている。

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そこから30分程歩くとJR山科駅である。今日の宿泊も草津のホテル21。昨今は外国の観光客が多く京都近くの手ごろなホテルは全く取れない。草津のホテルに連泊である。

 

中山道旅日記 23 武佐宿-守山宿-草津宿

32日目(519日(木))武佐宿-守山宿-草津宿

近江鉄道近江八幡駅から武佐駅まで戻り街道へ。このあたりは桝形になっていて、桝形を抜け、近江鉄道の踏切をこえると宿外れとなりしばらく行くと「伊庭貞剛(いばさだたけ)誕生地」がある。伊庭は住友財閥が所有する別子銅山を立て直した人物だそうだ。

旧道はその先で国道に合流するが、この道路は歩道がないので極めて危険である。

六枚橋の交差点を右折し旧道に入って数分歩くと小さな公園がありその奥に「住蓮坊首洗い池」なるものがある。鎌倉時代後鳥羽上皇の怒りに触れた、住蓮坊(じゅうれんぼう)(法然上人の弟子)が処刑された時にその首を洗った池だそうだ。(法然上人は鎌倉時代の有名な僧で浄土宗開祖の人として知られている。

その先、旧道は再び国道に合流し、しばらく行くと左手奥に古墳が見える。住蓮坊古墳と呼ばれていて、千僧供古墳群(せんぞくこふんぐん)の一つである。古墳の上には住蓮坊と安楽坊の墓が並んでいる。(安楽坊遵西(あんらくぼうじゅんさい)は後鳥羽上皇の女房たちが遵西達に感化されて出家した件で罪に問われ、弟子とともに京都で斬首刑に処せられた。)

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先へ進み白鳥川に架かる千僧供橋(せんぞくばし)を渡る。(千人の僧が供養したから千僧供(せんぞく)というのだそうだ。

その先、しばらく歩いた馬淵交差点を越えたところに八幡神社がある。社伝によれば白河天皇の時代に源義家が奥州軍征の途中 この地に霊験を受けたとことにより応仁天皇の霊を勧請して武運の長久を祈願し八幡社の造営をしたとある。元亀二年(1571織田信長の兵火によって焼失したため 文禄五年(1596)に再建したものが現在の本殿であると伝えられる。

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すぐその先、右手に旧道が復活し、30分程行くと土手に出るがここが「横関川渡し跡」で当時はここから対岸へ舟で渡ったということだ。

広重が浮世絵「中山道六十九次の内・武佐」を描いた場所で、説明板が立っている。

中山道は別名「木曽海(街)道」とも呼ばれていた。その中山道六十九次の第六十七番目が武佐宿である。この絵は浮世絵師安藤広重が武佐の西にある日野川(横関川)の舟渡しの様子を描いたものである。」(説明版より)

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その先、日野川の土手を歩き国道に合流した後横関橋を渡り、再び土手を歩く。「横関川渡し跡」の対岸あたりから西横関の集落である。旧道はすぐに国道に合流し西横関の信号の所に「是よりいせみち」側面に「ミなくち道」と彫られた道標が置かれている。この先に善光寺川が流れているが当時はここから善光寺川に沿って水口(みなぐち)や伊勢に向かう人々が利用したのだろう。

さて、善光寺川を渡り、左手の旧道に入ると「鏡の里」と呼ばれる「間の宿(あいのじゅく)」で鎌倉時代はかなり大きな宿駅であった。「亀屋跡」、「京屋跡」といった旅籠屋跡が並んでいる。

旧道が国道と合流する手前に「愛宕山」と彫られた石灯籠が立っている。国道に合流するとさらに「吉野家」「吉田屋」「升屋」といった旅籠屋跡が並んでいる。

木曽路名所図会には「鏡宿(かがみの宿) むかしは駅なりしか、今は馬次なし。旅舎多し。守山よりこれまで弐里。武佐まで一里半余。」とある。

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義経宿泊の館≫

「沢弥伝と称し旧駅長で屋号を白木屋と呼んでいた。

牛若丸はこの白木屋に投宿した 義経元服の際使用した盥は代々秘蔵して居たが現在では鏡神社宮司林氏が保存している

西隣は所謂本陣で元祖を林惣右衛門則之と称し新羅三郎義光の後裔である その前方国道を隔てて脇本陣白井弥惣兵衛である」(説明版より)

「牛若丸投宿家(うしわかまるとうしゅくのいえ) 鏡宿左方にあり。沢氏といふ。屋の棟に幣(ぬさ:神に祈る時に捧げ、また祓(はら)いに使う、紙・麻などを切って垂らしたもの=ごへい。)を立てるなり。むかし牛若丸東へ下り給へし時、ここに止宿(宿を取ること)し給う。夜半の頃、強盗入りければ、牛若丸ことごとく退治し給うとなん。謡曲には赤坂の宿として、熊坂長範とす。また義経記にはこの宿とす。」(木曾路名所図会)

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源義経宿泊の館跡の隣にある民家の庭の左角に本陣跡の案内板がある。

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本陣跡から5分足らずの所に鏡神社がある。本殿は石段を登った上にあるが、街道入口から一段上がった左に、義経が烏帽子を掛けたと云われる松の幹が残っている。

源義経烏帽子掛けの松≫

「承安四年(1174)三月三日 鏡の宿で元服した牛若丸は、この松枝に烏帽子を掛け鏡神社へ参拝し源九郎義経と名乗りをあげ源氏の再興と武運長久を祈願した。」(説明版より)

謡曲「烏帽子折」と鏡神社≫

謡曲「烏帽子折」は、鞍馬山を出て奥州に向かった牛若丸が、元服の地鏡の宿と、盗賊退治をした赤坂の宿での出来事を一続きにして構成された切能物(きりのうもの)である。」(説明版より)

(切能物(きりのうもの):能において鬼・天狗・天神・雷神・龍神などがシテとなる曲で五番立においては最後の五番目に演じられることから、切能とも呼ばれる。)

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石段を上って本殿に向かう左側には、「祓戸神」がある。(祓戸神(はらいどがみ)とは神道において祓を司る神、祓戸とは祓を行う場所のことで、そこに祀られる神という意味。)

≪鏡神社由緒≫

当神社の創始年代は不詳であるが、主祭神天日槍命(あめのひぼこのみこと)は日本書紀による新羅國の王子にして垂仁天皇(すいにんてんのう)三年の御世、来朝し多くの技術集団(陶物師、医師、薬師、弓削師、鏡作師、鋳物師など)を供に近江の国へ入り集落を成し、吾国を育み文化を広めた祖神を祀る古社である。

天日槍(あめのひぼこ=朝鮮国・新羅の王子)は持ち来る神宝の日鏡をこの地に納めたことから「鏡」の地名が生まれ、書記にも「近江鏡の谷の陶人は即天日槍の従人なり」と記されている。

承安四年(1174)牛若丸こと源氏の遮那王は京都鞍馬から奥州への旅路、この鏡の宿に泊り境内宮山の岩清水を盥(たらい)に汲み自ら烏帽子をつけ元服した。鏡神社へ参拝した十六歳の若者は「吾こそは源九郎義経なり」と名乗りをあげ源氏の最高と武運長久を祈願した武将元服の地である。以後岩清水は源義経元服池と称し現在も清水を湛えている。」(説明版より)

≪鏡神社本殿≫重要文化財(明治三十四年八月二日指定) 

「神社の創立は古代にさかのぼると伝えられ、祭神は天日槍命(あめのひぼこのみこと)を祀る。現在の本殿は、室町中期に建てられたもので、滋賀県の遺構に多い前室付三間社本殿。蟇股(かえるまた=上部の荷重を支えるための、かえるの股のように下方に開いた建築部材。)を多用し、屋根勾配をゆるくみせる外観は優美である。」(説明版より)

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鏡神社を出てしばらく行くと「源義経元服の池」があり碑が置かれている。

「東下りの途、当鏡の宿にて元服加冠(げんぷくかかん=元服して初めて冠をつけること)の儀を行う。その時使いし水の池なり」(説明版)

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義経元服之池のすぐ先左手が旧道でこの辺りから野洲市に入っていくことになる。旧道はすぐに国道8号に合流するがその先に「平宗盛胴塚」と書かれた案内板が立っている。草深い細道を入っていくと平宗盛卿終焉の地と彫られた碑と石仏が二体置かれている。その横に「蛙不鳴池(かわずなかずいけ)及び首洗い池」の説明版が立っている。

≪平家終焉の地≫

「平家が滅亡した地は壇ノ浦ではなくここ野洲市である。

平家最後の最高責任者平宗盛源義経に追われて11837月一門を引きつれて都落ちした。西海を漂うこと二年、1185324壇ノ浦合戦でついに破れ、平家一門はことごとく入水戦死した。しかし一門のうち建礼門院、宗盛父子、清盛の妻の兄平時忠だけは捕えられた。宗盛父子は源義経に連れられ鎌倉近くまでくだったが、兄の頼朝に憎まれ追いかえされ、再び京都に向った。

途中、京都まであと一日程のここ篠原の地で義経は都に首を持ち帰るため平家最後の総大将宗盛とその子清宗を斬った。そして義経のせめてもの配慮で父子の胴は一つの穴に埋められ塚が建てられたのである。

現在ではかなり狭くなったが、昔、塚の前に広い池がありこの池で父子の首を洗ったといわれ「首洗い池」、またあまりにも哀れで蛙が鳴かなくなったことから「蛙不鳴池」とも呼ばれている。」(野洲市観光物産協会・説明版より)

義経元服の地とさほど遠くないこの地で義経の宿敵・平家の総大将平宗盛39年の生涯を終えた。義経元服(承安4年(1174)三月三日)からわずか11年後の元暦2年(1185)六月二十三日のことである。

平宗盛塚(たいらのむねもりのつか) 篠原のひがし、鳴海橋の左にあり。宗盛卿は八嶋の合戦に捕らえられ、鎌倉へ引かれ、切腹を勧め給へども、それも臆して存らへ、遂にここにて首を討たれ給う。」

「蛙不鳴池(かわずなかずのいけ) 鳴海村にあり。此池を宗盛首洗池といふ。」(いずれも木曾路名所図会による)

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平宗盛胴塚」を後に鏡山を左手にみながら国道を歩く。

「鏡山(かがみやま) 街道の右にあり。或人の説には、天日槍(あめのひぼこ)といへる者、日の鏡を収し(しゅうし)より名付初めし(なづけそめし)也。」(木曾路名所図会)

鏡山は古くから多くの歌人が歌に詠んだ名山である。

-うち群れて いざ我妹子が鏡山 越えてもみじの 散らむ影見む- 紀貫之後撰集

-花の色を うつしとどめよ 鏡山 春よりのちの 影や見ゆると- 坂上是則拾遺集
-くしげなる 鏡の山を越えゆかむ 我は恋しき 妹が夢見たり-  大伴家持(家持集).

-鏡山やまかきくもりしくるれと紅葉あかくそ秋はみへける-   素性法師後撰集

-鏡山 君に心やうつるらむ いそぎたゝれぬ 旅衣かな-              藤原定家

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鏡山を左に見て国道を行く光善寺川を渡ったあたりに成橋の一里塚があったとガイドブックに書いてあったが今は何も残っていない。江戸から百二十六番目の一里塚だったことになる。

先へ進み浄勝寺前の交差点から右の旧道に入るがすぐに国道に合流する。やがて左手に篠原堤と呼ばれる長い堤防が見えてくる。堤に上がると「西池」が見える。

≪西池≫

「大篠原最大の用水池で、昔、雄略天皇の御代(413頃)近江国に四十八個の池を掘らせた時の一つと言われている。

この西池の長い堤が、源平盛衰記に出てくる篠原堤であるとの説もあるが定かでない。」(説明版より)

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しばらく国道を行くと小堤のバス停がありそこから左手の旧道へ入っていくと「家棟川(やのむねがわ)」が流れている。この川は平地より川底が高くなっている天井川である。天井川は関西地方に多く見られるということである。

家棟川の手前にポケットパークがあり愛宕山の碑を挟んで常夜燈が二基立っている。

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家棟川の橋を渡り先へ行くと「子安地蔵堂」がある。説明版によれば極彩色等身大の地蔵菩薩像は平安時代末期(12世紀)の造像だそうである。

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その先には「丸山・甲山古墳群」があり「桜生(さくらばさま)史跡公園」になっている。

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桜生史跡公園から街道に戻り、先へ進むと、左側の「桜生公民館」入口には「中山道銅鐸の里桜生」と書かれた立て札が立っている。

「桜生公民館」から15分程行くと、「稲荷神社」の鳥居が見えてくる。鳥居から更に5分程歩くと「小篠原公民館」前に小篠原村庄屋苗村邸跡の石碑が置かれている。

古く東山道時代の宿駅がこのあたりにあったと思われるのだがその面影は全くない。

またガイドブックによれば、百二十七番の小篠原の一里塚もこのあたりにあったようだが今は何も残っていない。

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さて、先へいくとほどなく茅葺屋根の旧家があるがここは造り酒屋の「曙酒造」である。

曙酒造の先で新幹線のガードをくぐり、その先5分程行くと五差路の向こう側の野洲小学校正門傍に「中山道・外和木の標(しるべ)」の説明版がある。

中山道・外和木の標≫

中山道は、東海道に対し東山道と呼ばれた時期があったが、その歴史は古く大化の改新以前から存在する重要な道であったことを示す文献が残されている。

この案内板の西、約百八十メートルの所は江戸時代に朝鮮の外交使節を迎えた朝鮮人街道との分岐点に当たり歴史的に意義深い場所である。

外和木の標の名前は、この土地と朝鮮人街道との分岐点の地名が小篠原字外和木であるので名付けたものである。」(野洲町・案内板より)

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外和木の標の案内板から少し行った3差路に「朝鮮人街道」と記された道標がある。朝鮮人街道は朝鮮通信使が通った道で、ここで中山道と分かれ近江八幡を経由して鳥居本で再び中山道に合流する。

3差路からすぐ先の交差点の所に「背くらべ地蔵」と呼ばれる地蔵尊が置かれている。説明版によれば「この背くらべ地蔵は鎌倉時代のもので、東山道を行く旅人の道中を守った地蔵である。また、子を持つ親たちが「我が子もこの背の低い地蔵さんくらいになれば一人前」と背くらべさせるようになり、いつしか背くらべ地蔵と呼ばれるようになった。」とのことである。

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その先の十字路にある蓮照寺に「道標・領界石」が3本立っている。一番大きい道標は先ほどの朝鮮人街道分岐点からこの蓮照寺に移されたもので「右中山道 左八まんみち」と彫られている。(八まんみちは朝鮮人街道のこと)道標の裏面には「享保四年」と彫られている。またここには「従是北淀藩領」の境界石も移されている。

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先へ進みJRの高架をくぐると「十輪院」という小さなお堂がありその裏に芭蕉の句碑が置かれている、

― 野洲川や 身ハ安からぬ さらしうす -  芭蕉

野洲晒(やすさらし)は、麻布を白くさらす「布晒」を専門に行っていた。その一工程に、川の中にすえた臼に布を入れ、杵でつく作業がある。冬に冷たい川に入って布をつくのは、晒(さらし)の仕事のなかで最も重労働であり、その苦労がしのばれる。」(説明版)

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その先が野洲川で、川に架かる橋を渡るのだが橋からは「三上山」がよく見える。

野洲川」「三上山」も多くの歌人が歌に詠んでいる。

野洲川

-天の川 安の川原に定まりて 神の競(つど)ひは 禁(い)む時無きを- 万葉集 巻十(七夕(なぬかのよ))- 2033

―うち渡る 野洲のかわらになく千鳥 さやかにみえぬあけぐれの空- 源頼政

-はるかなるみかみのたけの目にかけていく瀬わたりぬやすの河波- 後京極摂政

十六夜日記には「いまだ月の光かすかに残りたる明(あけ)ぼのに、守山を出(い)でて行く。野洲川渡る程、先立ちで行く旅人の駒の足音ばかりさやかにて霧、いと深し。」とある。
- 旅人も皆もろととに先立ちて駒うち渡す野洲の川霧  - 阿仏尼」

≪三上山≫

-雲晴れるみかみの山の秋風にさざ波遠く出る月かげ- (続拾遺集)浄助親王

-玉椿かはらぬ色をやちよとてみかみの山ぞときはなるべき-(新後撰集民部卿経光

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野洲川橋を渡りしばらく行くと「馬路石邊(うまじいそべ)神社」の参道が本殿へと続いている。この神社は天武天皇の御代、白鳳3年(663年)に創祀され、朱鳥(しゅちょう)元年(686年)に大己貴命(おおなむちのみこと)を合祀したと伝えられている。

祭神は古事記日本書紀に登場する建速須佐之男命(たてはやすさのおのみこと)と大国主命(おおくにぬしのみこと)である。

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街道に戻るとすぐ先に「中仙道守山市吉水一丁目」の表示版が立っている。「吉見(吉水郷)」の説明版と共に「中山道高札場跡」の説明版も立っているからこのあたりが守山宿の入り口であろう。

≪吉身(吉水郷)≫

この辺り一帯を「吉身」という。古くは「吉水郷」と称し、ゆたかな森林ときれいな「水」に恵まれた天下の景勝地であった。元暦元年(1184)九月に発表された「近江国注進風土記」には、当時の近江国景勝地八十個所の一つとしてこの地が紹介されている。南側は「都賀山」の森と醴泉(こさけのいずみ)が湧く数々の池があり、東に有名な「益須寺」があった。そしてこの街道は「中山道」である。古え(いにしえ)の「東山道」にあたり、都から東国への幹線道として時代を映し出してきた。」(説明版より)

中山道高札場跡、稲妻型道路≫

帆柱観音で名高い慈眼寺から北東側へ約100mの地点は、中山道から石部道(伊勢道)が分岐する。遠見遮断のため道が屈曲する広い場所で、かつて徳川幕府が政策などを徹底させるための法度や掟書などを木札に記して掲げた高札場が設けられていた。中山道を行き交う人々にとっては重要な場所であった。

また、吉身は江戸時代、守山宿の加宿であり、美戸津川(守山川)から高札場までの街道は、本町と同じように「稲妻型道路」となっていた。」(説明版より)

稲妻街道とは街道沿いの民家が、直線ではなく一戸毎に段違いの屋敷割になっている道路のことだそうだ。

 

67宿 守山宿・本陣2脇本陣1、旅籠30

(日本橋より127288間 約501.8キロ・武佐宿より318町 約13.7キロ)

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守山は古来東山道の宿駅として栄え、江戸時代に東山道中山道に改められ江戸時代の初期寛永十九年(1642)に徳川幕府により正式に中山道の宿駅として制札が下された。中山道は板橋宿から守山宿までの六十七次で守山は最終宿駅であった。守山の地名は比叡山延暦寺の東の関門として東門院が創建されたことに由来する。江戸時代、旅人の一日の行程は八里(約31キロ)から十里(約39キロ)であった。京・三条から守山宿までが八里六町(約32キロ)でこの行程にあたり「京立ち、守山泊り」といわれ東下りの最初の宿泊地として大いに賑わった。後に東の吉見、西の今宿が加宿され更に繫栄した。

「武佐まで三里半。当宿の入り口に守山川あり。橋爪(はしづめ)に称名寺という西本願寺末の寺あり。蓮如上人建立也。金が森より此所に移しけると也。古歌に詠ず。

-しら露も時雨もいたくもる山は下葉残らず色つきにけり- (古今和歌集) 紀貫之

-守山の峯の紅葉も散りにけりはかなき色のをしくも有哉- (玉葉和歌集) 紀貫之

-なく蝉の涙しぐれてもる山のしげみに落ちる木々の夕露- (夫木和歌抄(ふぼくわかしょう) 為 相」(木曽路名所図会)

宿場に入りしばらく行くと「帆柱観世音・慈眼寺」の道標が立てられている。

説明版・縁起によれば、「傳教大師最澄桓武天皇の勅命で唐の国に留学、修行しての帰国途上、突然の海難に遭遇したが海上に観世音菩薩が現れて風雨が鎮まり無事に帰国することが出来た。帰国後、折れた船の帆柱で、十一面観世音菩薩と脇侍の持国天多聞天像を彫り、弘仁元年(810中山道に沿う吉身の地に水難の守り仏として安置したのが起源とされている。」のだそうだ。

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先の交差点に「すぐいしべ道」と彫られた道標が置かれている。正面には「高野郷新善光寺道」と彫られている。

「この道標は守山宿の東端から枝分かれして、栗太郡葉山村や東海道に向かう人々に対して案内したものである。新善光寺栗東市高野にあり、彼岸には門前に市がたつ賑わいをみせる寺院であり、守山方面からも大勢の人びとが参拝したと思われる。

この道は守山道と呼ばれ、逆に中山道から東海道へ入る道としてかなりの人々が利用したと思われる。」(説明版より)

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道標のすぐ先には「守山宿・町屋 うの屋」と書かれた立派な古民家がある。ここは「宇野本家酒造」で元総理大臣・宇野宗佑の実家である。

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宇野本家のすぐ先に天満宮があり、鳥居の前に稲妻型屋敷割りの説明板が立っている。

≪稲妻型屋敷割りの道≫

中山道守山宿は街道筋の距離が、文化十四年の記録では1053間、内民家のある町並が569間という長い街村であった。宿場の西端には市神社があり、その向かいには高札場があった。この高札場から東に約40mには宿場の防火、生活用水となった井戸跡がある。街道筋の特色は、このあたりの道が最も幅広く、高所にあることと道路に沿った民家の敷地が、一戸毎に段違いとなっていることである。段違いの長さは一定ではないが、およそ二~三尺で、間ロの幅には規定されていないことがわかる。この屋敷の並び方がいつごろから行われたかを知る史料はないが、守山宿が守山市(いち)と関連して商業的機能と宿場を兼ねたことで、問屋、庄屋、本陣、市屋敷などを管理するため、あるいは怪しい人物が隠れても反対側から容易に発見できるなど、治安維持のための町づくりであった。」(説明版)

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天満宮のすぐ先に、中山道・守山宿の案内と本陣跡と彫られた碑、井戸跡があり説明版が添えてある。説明版には「謡曲・望月」の説明も書かれている。

≪本陣跡≫

「この場所は、本陣(小宮山九右衛門)があったと推定されている場所です。江戸時代には、問屋、脇本陣、本陣などの役割を果たした。

文久元年(1861)十月二十二日、十四代将軍家茂に降嫁した皇女和宮親子内親王が御所から江戸城へ向かう旅程で、この本陣に宿泊した。」

謡曲「望月」≫

「望月」は、室町時代末期(1500年代後半)に、古来、宿駅として、貨客の往来が盛んであった木曽街道(中山道)の守山を舞台に仇討ちを題材にした創作物語である。

「望月」は、信濃の佳人・安田荘司友春の妻子が、元家臣である甲屋の主人・小沢刑部友房とともに、仇敵の望月秋長を討つというあらすじで、登場する人物はすべて架空とされています。」

≪井戸跡≫

「この井戸は、天保四年(1833)の宿場絵図に記載され、それ以前から存在したもので、他にもあったとされるが、現存しているのはこれ一基だけです。

守山宿は、野洲川の旧河道がつくった自然堤防という微高地のため、用水路がなく、宿場の防火や生活用水に使用されたと思われる。」

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本陣跡碑の一軒おいた隣に「中山道文化交流館」がある。館内には「木曽海道六十九次」の版画が全て展示されている。宇野宗佑著の本も何冊か置かれている。女性問題で汚名を残した宇野元総理も地元ではそれなりに英雄なのであろう。

ここでコーヒーを飲みながらご主人と雑談を交わしたがトイレを借りるため奥へ入ると裏庭が見事であった。

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文化交流館の先の三叉路に「道標」が立っている。

≪石造道標≫守山市指定文化財(民俗資料)

「本道標が建てられたこの地点は、かつて掟書などが掲げられた高札場の一角であった。道標は、高さ約1.55m、一辺30cm角の四角柱の花崗岩製の石造品で、中山道側の側面には、「右 中山道 并(ならびに) 美濃路」、その左側面には、「左 錦織寺四十五丁 こ乃者満ミち」の文字が刻まれている。

「右 中山道 并 美濃路」とは、右が美濃(岐阜)へと続く中山道で、「左 錦織寺四十五丁 こ乃者満ミち」は、左の道を行くと人々の信仰を集めた真宗木部派本山である錦織寺(中主町)に至る約4kmの道程(錦織寺道)であり、それに続く「こ乃者満ミち」は、琵琶湖の津として賑わっていた木浜港へも通じる道筋であることを示している。

背面に延享元年(1744年)霜月の銘があり、大津市西念寺講中によって建立されたことかうかがわれる。石造遵標としては古く、また数少ないため、昭和五十二年(1977年)四月三十日に民俗資料として守山市文化財に指定された。」(説明版)

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三叉路のすぐ先には「東門院」がある。

守山宿の冒頭にも書いたが延暦七年(788)、最澄比叡山延暦寺を建立した際、四境に門を構えたが、その東門として設けられた。その後延暦十三年九月三日に、比叡山の根本中堂開闢(かいびゃく)供養が行われ、湖上に舟橋を渡し、東門まで「善の綱(白布の綱)」を引渡して桓武天皇が、湖上を渡ってきた。このとき、桓武天皇により比叡山東門院守山寺(比叡山を守る寺)と名号され、地名も守山と賜ったと伝えられている。

東門院先に明治天皇聖跡碑が立っている。

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明治天皇聖蹟碑の隣の「守山銀座西交差点」手前には江戸時代後期の天保年間(18301843)にあった東門院の門前茶屋「堅田屋」を現代に甦らせた「門前茶屋・かたたや」がある。

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交差点を渡って少し行くと境川に「どばし」と書かれた橋が架かっている。説明版によるとこれは中山道の重要な橋として、瀬田の唐橋の古材を使って架け替えられた、公儀普請橋であったそうだ。

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このあたりから宿場はずれとなり、やがて左手に大きな木が見えてくるがこれは江戸から百二十八番目の「今宿の一里塚」である。

説明版によれば、滋賀県には中山道の他、東海道朝鮮人街道、北国街道、北国脇往還など多くの街道が通っているが、明治以降、交通形態の変化による道路拡幅や農地、宅地への転用などによりそのほとんどは消滅し、現存するものは今宿一里塚のみとなってしまったそうだ。

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一里塚を後に10分ばかり行くと「住蓮房母公墓」の碑が立っている。武佐宿外れに「住蓮坊首洗い池」があったが鎌倉時代後鳥羽上皇の怒りにふれて処刑された住蓮坊の母の墓だそうで、処刑される我が子に会うべく馬渕を目指した住蓮坊の母が、すでに処刑されたことを知り、池に身を投げて命を絶ったのがこの池だったということである。

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先の焔魔堂町交差点を越えると十王寺があり門前左に「五道山十王寺」、右に「焔魔法王小野篁(おののたかむら)御作」と彫られた石柱が立っている。中に入ると閻魔堂があり、十王堂の額が立てられている。

「五道山十王寺」の山号、五道とは仏教でいう「天・人間・畜生・餓鬼・地獄」の五の世界であり、生を受ける者は、その五の世界で生と死を続ける「輪廻転生」の世界観で、現世において善行を積むか悪行を行うかで生れ変わる場所が変わる。また、十王とは秦廣王(しんこうおう)、初江王(しょこうおう)宋帝王(そうていおう)、五官王(ごかんおう)、閻魔王(えんまおう)、変成王(へんじょうおう)、泰山王(たいざんおう)、平等王(びょうどうおう)、都市王(としおう)、五道転輪王(ごどうてんりんおう)で、死者は初七日には秦廣王、二七日には初江王、三七日は宋帝王、四七日は五官王、五七日は閻魔王、六七日は変成王、七七日は、泰山王、百か日は平等王、一周忌は都市王、三回忌は五道転輪王とそれぞれの裁きを受け、生れ変わる世界が決められるのだとか。

「偖(さて)ふた町むらを過ぎて、閻魔堂村に閻魔の像あり。小野篁(おののたかむら)の作といふ。」(木曽路名所図会)

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十王寺の先に古高俊太郎先生誕生地の碑が立っている。尊皇攘夷の志士で長州の間者の大元締めであった。

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そこから旧道を10分ばかり歩くと栗東市であるが昔は綣(へそ)と呼ばれていたそうだ。このあたりには用水が流れていて用水沿いに歩くと左手に「大宝神社」がある。祭神は「素盞鳴尊(すさのうのみこと)」。ここの木造の狛犬重要文化財に指定されているが残念ながら今は京都の国立博物館に移されたということである。

隣の公園には、芭蕉の句碑があり-へそむらの麦まだ青し春のくれ-と彫られている。

木曽路名所図会には「大宝天皇社・祭神素盞鳴尊(すさのうのみこと)。大宝年中疫時行し(えやみはやりし)時、ここに降臨し給う。此辺(このあたり)都て(すべて)二十余村の産土神(うぶすなじん)とす。例祭四月十二日。生士子(うじこ)の中五ケ村より踊りを催し、神前にて踊る。」とある。

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大宝神社を後に左手の栗東駅西口の信号を越えたあたりからはこれといって見るものもない。

30分ばかり旧道を歩き、八幡宮を左手に見て花園、笠川を過ぎると草津市である。

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やがて旧道は鉄道の線路に分断されてしまうが線路の下のトンネルをくぐって反対側へ出、さらに歩くと「伊砂砂(いささ)神社」がある。この神社の桧皮葺の本殿は室町時代の応仁二年(1468)に建立されたもので国の重要文化財に指定されている。

神社の入り口には「中山道の説明版」も立っている。

草津歴史街道 中山道

中山道木曽路とも呼ばれ、日本の脊梁(せきりょう)中部山岳地帯を貫く街道で、五街道の中でも東海道に次ぐ幹線路であった。その里程は、江戸日本橋を基点とし、上毛高崎宿を経由、碓氷峠に至り、浅間・蓼科山麓の信濃路を辿り、塩尻峠を越えて御獄・駒ヶ岳間の木曽谷を降り、美濃路を西進、関ケ原から近江柏原宿に至り、湖東の鳥居本・愛知川・武佐の各宿を経由南進し、守山宿を後に東海道草津宿に合流するもので、この間の宿駅は67宿を数えた。草津には、笠川を経て渋川に入り、葉山川を渡り、渋川・大路井の街並を通過したのち、砂川(草津)を越えて草津追分に至った。

なお、中山道分間延絵図によれば、渋川には梅木和中散出店小休所・天大大将軍之宮(伊砂砂神社)・光明寺ほか、大路井(おちのい)には一里塚・覚善寺・女体権現(小汐井神社)ほかの社寺仏閣、名所が街道沿いに存した。」(説明版)

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やがて大きな大路の交差点に出るがこのあたりが落野井村(おちのいむら)で江戸から百二九番目の「大路井(おちのい)の一里塚」があった所のようだ。

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今日はここまで。宿泊予定のホテル21へ。

中山道旅日記 22 鳥居本宿-高宮宿-愛知川宿-武佐宿

31日目(518日(水))鳥居本宿-高宮宿-愛知川宿-武佐宿

コンフォートホテル彦根を出て近江鉄道鳥居本駅へ着いたのが午前8時過ぎ。

街道に戻る手前に「藤原定家を支えた里」と書かれた立て札が立っている。

鳥居本と小野周辺は、平安時代「吉富荘」という荘園で、領主は、藤原定家一族でした。定家が、「新古今和歌集」や「百人一首」を編めた(あめた)のも、「源氏物語」を写本して、現代に伝えられたのも、鳥居本や小野の人々が定家を支えたからです。」

街道に戻り、先へ行くと「合羽所・松屋」の看板が目に付く。鳥居本の合羽の製造は1970代に終焉したが、江戸時代は木曽へ向かう旅人に大変人気があったそうである。

宿場を歩くと虫籠窓の家、卯建のある家、ベンガラ塗りの格子戸の家が並んでいて当時の宿場の面影が偲ばれる。

(ベンガラとは土から取れる成分(酸化鉄)の顔料で紅殻、弁柄とも呼ばれ、インドのベンガル地方より伝来したことからそう呼ばれた。日本の暮らしにも古くから根付いている素材で陶器や漆器、また防虫、防腐の機能性から家屋のベンガラ塗りとしても使用された。)

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「合羽所・松屋」の先には擬宝珠(ぎぼし)が乗っている桧皮葺(ひわだぶき)屋根と格子の扉が嵌められた(はめられた)常夜灯が建っている。なかなか豪華なものである。

常夜灯から数分の所に専宗寺がある。説明版によるとここは聖徳太子開祖の浄土真宗本願寺派の古寺で、かつては、佐和山城下町本町筋にあり、泉山泉寺と号していましたが、関ケ原合戦の後、寛永十七年(1640)に洞泉山専宗寺と改め、ここ西法寺村に移ってきた。本堂などの建立年代は十八世紀後半のものと推定され、山門右隣りの二階建ての太鼓門の天井は、佐和山城の遺構と伝わっている。

専宗寺から5分ほど先に「右 彦根道」「左 中山道 京・いせ道」と刻まれた道標が立っている。「ここは中山道彦根道(朝鮮人街道)との分岐点で道標は文政十年(1827)に立てられた。彦根道は二代彦根藩井伊直孝の時代に中山道と城下町を結ぶ脇街道として整備されたものである。」(説明版より)

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鳥居本宿を出ると田園風景が広がり「古宿」と書かれた立て札が立てられている。

この先の集落は小野村といい、東山道時代には宿駅(小野宿)で賑わったところである。

十六夜日記」には「十七の夜は、小野(おの)の宿といふ所にとゞまる。月出(いで)て山の峰に立続(たちつゞ)きたる松の木(こ)の間、けぢめ見えて、いと面白し。」とある。

小野の集落を行くと常夜灯と八幡神社と彫られた碑が立っている。

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その先に「小野小町塚」の碑と共に祠が祀られている。世に絶世の美女と讃えられた六歌仙の一人・小野小町は、ここ小野村が出生の地とされているが・・・・。

「小野美実が奥州に下る途中、小野に一夜を求め生後間もない女児に出会った。美実はこの女児を養子にもらい受け出羽国へ連れて行ったが、この女児が小町という」(説明版より)

 小町塚には、小野地蔵として親しまれてきた石仏がある。小野地蔵は自然石を利用して、阿弥陀如来座像が浮彫りにされている。正面だけでなく、両側面にも彫り込まれており、類例が少なく貴重なものである。」(説明版より)

木曽路名所図会には「小野村道の右の上に石仏地蔵堂あり。小町塚といふ。」とある。

古今和歌集の序文(仮名序=かなで書いた序文)で紀貫之は、

小野小町は いにしへの衣通姫(そとおりひめ)の流なり
あはれなるやうにて強からず
いはばよき女の悩めるところあるに似たり
強からぬは 女の歌なればなるべし
- 思ひつつぬればや人の見えつらむ 夢と知りせばさめざらましを -
- 色見えでうつろふものは世の中の 人の心の花にぞありける -
- わびぬれば身をうき草の根をたえて さそふ水あらばいなむとぞ思ふ -
衣通姫(そとおりひめ)の歌
- わがせこがくべきよひなりささがにのくものふるまひかねてしるしも -

衣通姫(そとおりひめ)とは、古事記日本書紀で絶世の美女と伝承される人物で、その美しさが衣を通して光り輝いたといわれている。)

紀貫之は「小野小町の歌は衣通姫の歌と同じように、嫋々(じょうじょう)たる女心を歌ったものである」といっているようだが、小野小町衣通姫と同じような美人であると解釈されているようだ。

余談ではあるが日本の三大美人とは、衣通姫(そとおりひめ)小野小町藤原道綱の母(蜻蛉日記の作者)、ちなみに中国四大美人とは、西施(春秋時代)、王昭君(漢)、貂蝉(ちょうせん:三国志演義・連環の計=実在の人物ではない)、楊貴妃(唐)とされている。

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その先新幹線のガードをくぐると森川許原と呼ばれる集落で「原・東山霊園」がありその管理事務所の横に森川許六の句碑が立っている。

- 水すじを 尋ねてみれば 柳かな - 許六

森川許六彦根藩士で、近江の松尾芭蕉の門人グループ・近江蕉門(おうみしょうもん)の一人、芭蕉十哲といわれた人物である。

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街道を先に行くと「八幡神社」で「昼寝塚」と「白髪塚」があり、説明版が立っている。

≪ひるね塚 芭蕉の句碑≫

- ひるかおに ひるねせうもの とこのやま -
「俳聖松尾芭蕉中山道を往来する旅人が夏の暑い日に、この涼しい境内地で昼寝などしている、つかのまの休息をしている「床」と「鳥籠山・とこのやま」をかけて詠われたものと思われます。」(説明版)
≪白髪塚≫

- 恥ながら 残す白髪や 秋の風 -
聖徳太子と守屋との戦い等、幾多の戦の将士達をあわれみ蕉門四世・祇川居士(陸奥の人)で芭蕉の門人が師の夏の句に対し秋を詠んだ句と思われる。」

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八幡神社の先右手に「千寧寺 五百羅漢 七丁余」の道標が「はらみち」と彫られた道標、「中山道 原町」の碑と共に立っている。

さらに先の交差点には常夜灯と共に道標が七基立っている。

金毘羅大権現 是より十一丁」、「安産観世音 是より四丁 慶光院」、「是より多賀ちかみち」あとはよく読めなかった。

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常夜灯を後に街道を行くと「芹川」に架かる「大堀橋」を渡ることになる。芹川は、かつては「不知哉川(いさやかわ)」と呼ばれ、近江の歌枕の地である。

- 淡海路(おうみじ)の鳥籠(とこ)の山なる不知哉川 日のころころは 恋つつもあらむ -  万葉集 巻四-四八七(淡海の海(おおみのうみ)は琵琶湖の古称)
- 犬上の鳥籠の山なる不知哉川(いさやかわ)不知とを聞こせ わか名告らすな -    万葉集 巻十一-二七一〇
- ひるがをに 昼寝せうもの 床の山 - 芭蕉(昼寝塚の句碑にも彫られている。)

(昼寝の床と鳥籠山を掛けている)

ところで、鳥籠山(とこのやま)は壬申の乱(じんしんのらん)の戦場になったところだそうだがどこのことなのかよくわからない。

その先には春日神社があり、石灯籠の横に「ここは地蔵町春日神社」と書かれた札が立っている。

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春日神社から10分程行き少し左へ入った所に勝満寺(しょうまんじ)があり、その鐘楼の前に「矢除地蔵尊」と書かれた祠がある。説明版を要約すると「第三十代・敏達天皇(びだつてんのう)のころ、仏教伝来に反対する物部守屋(もののべのもりや)と争った聖徳太子は、難を逃れてこの地に隠れていた。守屋の軍勢が太子を見つけ矢を射かけたところ、突如金色の地蔵菩薩が現れた。あとになって松の根方に小さな地蔵さんが右肩に矢を射こまれて血が流れた跡があった。世人はこれを尊び、お堂を建て、往来の安全を願った。」ということである。

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街道に戻るとその先に「金毘羅大権現」の道標が置かれている。10程先には「多賀神社」の道標がここにも置かれている。

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道標の右手に「石清水八幡宮」への階段があり、その途中に「扇塚」と彫られた碑が説明版と共に立っている。

≪扇塚(おおぎづか)≫

「“豊かなる時にあふぎのしるしとて ここにもきたの名を残しおく”

以前は扇塚と面塚(めんづか)とが一対になって建っていたそうだが、今は扇塚だけが残っている。井伊藩は、代々能楽の発展に力を入れてきたので、彦根には能楽を学ぶ人が多くあった。喜多古能(きたひさよし=江戸時代中期の能役者で喜多流能楽の流派)中興の祖ともいわれている)は、門人の養成に力をそそぎ、彦根をたちさるとき、扇子と面を残していった。それを埋め記念の塚がここに建てられたのである。」(説明版)

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石清水八幡宮を後に15分程行くと家の角に「右・彦根道 左すぐ中山道」と彫られた碑が残っている。ここからも彦根へ行く道があったようだ。

やがて近江鉄道の踏切があり常夜灯と「高宮宿」とかかれた大きなモニュメントが置かれている。高宮宿の入り口である。

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64宿 高宮宿・本陣1脇本陣2、旅籠23

(日本橋より119288間 約470.4キロ・鳥居本宿より118町 約5.9キロ)

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高宮宿は、中山道六十九次の江戸から六十四番目。

天保十四年の記録によれば、町の南北の長さ七町十六間 (約800m)の町並に、総戸数八百三十五・人口三千五百六十で、本庄宿に次ぐ中山道第二の大きさ、本陣一・脇本陣二・旅篭総数二十三等の宿場施設を持つ大宿であった。また、多賀神社への門前町 としてにぎわい、多賀神社第一の大鳥居がここに建っている。特産物として室町時代から全国的に有名になっていた高宮上布の集散地として、豊かな経済力を誇っていた。

中山道・高宮宿案内板)

高宮宿の特産品は麻織物で、高宮布として近江商人によって日本全国へ広まっていった。また、彦根藩から将軍家への献上品にもなっていたという。

「木曾路名所図会」にも「鳥居本まで一里半。此駅は布嶋(ぬのしま)類を商ふ(あきなう)家多し。此ほとり農家に高宮嶋細布(たかみやじまさいふ)多く織り出すなり。これを高宮布といふ。宿中に多賀鳥居あり。是より南三拾町許。」とある。

さて、近江鉄道の踏切を渡れば小さな祠があり「木之元分身地蔵」が祀られている。

説明版によれば、この地蔵菩薩はめずらしい木彫りで木之元の浄信寺にある眼病のご利益で名高い木之元地蔵の分身だそうだ。由来は定かではない。

宿場の町並みは当時の名残を残していて趣がある。

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分身地蔵から5分ほど行くと「座・楽庵」の看板を掲げた家がある。ここは高宮布の仕入れ問屋「布惣跡」である。

≪高宮布の布惣跡≫

「高宮布は高宮の周辺で産出された麻布のことで室町時代から貴族や上流階級の贈答品として珍重されていました。高宮細美とも近江上布ともよばれ江戸時代になってからも高宮はますます麻布の集散地として栄えました。

布惣では七つの蔵に一ぱい集荷された高宮布が全部出荷され、それが年に十二回繰り返さなければ平年でないといわれたと聞きます。

現在五つの蔵が残っており当時の高宮嶋の看板も現存しています。」(説明版)

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布惣跡の前が「高宮神社」である。鳥居をくぐると長い参道が続き途中に随身門(桜門)をくぐる。この随身門は嘉永二年(1849)のものだという。拝殿も立派なものである。

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随身門の右横「笠砂苑」の奥に芭蕉の句碑がある。

芭蕉句碑≫

「(庭園「笠砂苑」の左奥に建立)

- をりをりに 息吹を見てや 冬篭り - はせ越(芭蕉

この句は元禄4年、芭蕉が48歳冬の作といわれ、芭蕉門弟で千川亭 の兄弟 此筋・文鳥の家に泊まって詠んだ句。句碑の裏に建立年 「嘉永3年、庚戌林鐘」とあり、その下方に45名の名前が刻されている。 嘉永3年は1850年で林鐘は陰暦6月の異称。筆跡は桜井梅室。地元の俳人 がこの句を神門前左側(現在の祓所)に建立したもので、現在はこの庭園内に 移設されている」(説明版)

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高宮神社を後にし、古い宿場の町並みを楽しみながら歩いていると提灯の店があった。昔ながらの店のようだ。

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提灯店のすぐ先に大きな常夜灯が建っており、程なく高宮鳥居前交差点に多賀大社一の鳥居が建っている。また、鳥居の右足には「是より多賀みち三十丁」と刻まれた道標が立っている。

多賀大社鳥居(一の鳥居)は滋賀県指定有形文化財に指定されている。多賀大社から西方約四キロメートルの表参道に面して位置する石造明神鳥居は、同社の旧境界域を示している。多賀大社の創立は、奈良時代に完成した「古事記」や平安時代に編纂された「延喜式」にも見られる。」(説明版)

多賀大社は歴史のある神社のようだが約一里の道のりとのこと、今回は無理か。

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さて、大鳥居から太田川渡ったすぐ先の右手に連子格子(れんじこうし)の古民家(小林家)の前に「俳聖芭蕉翁旧跡 紙子塚」と彫られた碑があり、説明板が添えられている。

芭蕉の紙子塚(かみこづか)≫

「- たのむぞよ 寝酒なき夜の 古紙子 -

貞享元年(1684)の冬、縁あって小林家三代目の許しで一泊した芭蕉は、自分が横になっている姿の絵を描いてこの句を詠んだ。紙子とは紙で作った衣服のことで、小林家は新しい紙子羽織を芭蕉に贈り、その後、庭に塚を作り古い紙子を収めて「紙子塚」と名づけた。 高宮街づくり委員会」

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小林家の先の連子格子の古民家が「脇本陣跡」(塩谷家)で問屋場も兼ねていた。高宮宿には二軒の脇本陣があったが、もう一軒はどこにあるのかわからなかった。

続いて「本陣跡」(小林家)の門を見ることが出来る。今はこの門構えしか残っていない。

脇本陣跡≫

「江戸時代高宮宿には二軒の脇本陣があり、その一つがこの地におかれた。門構、玄関付き、間口約14m、建坪約244m²であったという。門前は領主の禁令などを掲示する高札場になっていた。

ここの脇本陣役は道中奉行の支配下にあり慶長十三年(1608)からは人馬の継立、休泊、飛脚、街道の維持管理を行う問屋を兼ねており問屋場とも呼ばれていた。

高宮街づくり委員会」(説明版)

≪本陣跡≫

江戸時代の参勤交代により大名が泊まる施設(公認旅館)を各宿場に設けたのが本陣である。

構造も武家風で、玄関・式台を構え、次座敷・次の間・奥書院・上段の間と連続した間取りであった。高宮宿の本陣は、一軒で門構え・玄関付で、間口約27m、建坪約396m²であったという。現在では表門のみが遺存されている。高宮街づくり委員会」(説明版)

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本陣跡の向かい側に「円照寺」があり、明治111111日に明治天皇が北陸東山御巡行帰途のこの円照寺に宿泊したということで「明治天皇行在聖跡」と彫られた碑が立っている。

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円照寺を後に数分行くと犬上川に「むちん橋」と呼ばれる橋が架かっている。橋の袂に「むちん橋地蔵」が祀られている。

≪むちん橋≫

「天保のはじめ、彦根藩は増水時の「川止め」で川を渡れなくなるのを解消するため、この地の富豪、藤野四郎兵衛・小林吟右衛門・馬場利左衛門らに費用を広く一般の人々から募らせ、橋をかけることを命じた。

当時、川渡しや仮橋が有料であったのに対し、この橋は渡り賃をとらなかったことから「むちんばし」と呼ばれた。 高宮街づくり委員会」(説明版)

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続膝栗毛では弥次さん、喜多さんが高宮川(犬上川)にさしかかると商人に名物の高宮嶋に晒布(さらしぬの)の類を買ってくれと頼まれる。弥次さんが金がないので買わないというと、商人「あなた、さらしはもってかいな」弥次さん「もっていやす、恥さらしというさらしを」 

- 買いもせず 名物の名の高宮に 恥をさらして とほるうき旅 - 

さて、むちん橋を渡り切ると宿外れとなり左手に「牛頭天王(ごずてんのう)道」の道標が置かれている。牛頭天皇とは神と仏を合体して信仰することで祇園精舎の守護神とされているのだそうだ。

しばらく行くと松と欅が混在した並木道になり、歩くにはまことに心地よい。

このあたりは当時、立場で栄えた「葛籠町(つづらちょう)」というところで「つづら」や「行李(こうり)」を売る店が多かったのだという。(今は「つづら」も「行李」も見かけることはほとんどない。)

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間もなく「産(うぶ)の宮」とかかれた小さな祠がある。ここは足利尊氏の子、議詮(よしあきら)の妻妾にまつわる神社で「由緒書き」を要約すると、「南北朝の争乱の頃、足利尊氏の子義詮が大垣を平定し翌五年京都へ帰ることになった。その時義詮に同行した妻妾が途中で男子を出産しが、君子は幼くして亡くなった。生母は悲しみのあまり髪を下ろして尼となりこの地に一庵(松寺)を結んで幼君を弔った。ここに土着した家臣九名が竹と藤蔓(ふじづる)でつくった葛籠を生産するようになり松寺の北方に一社を祀ってこの宮が出来た。古来「産の宮」として安産祈願に参詣する人が多い。」

産の宮を後に先へ行くとやがて「出町」の交差点がある。ここが彦根市豊郷町との境で

鳥居本の入り口で見かけた「おいでやす彦根」と同じモニュメントがあり、今度は「またおいでやす彦根」と彫られている。

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やがて街道はケヤキ並木となり、出町の集落にはいる。

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やがて四十九院(しじゅうくいん)の交差点があるがここには「縣社阿自岐神社(あじきじんじゃ)の石標と鳥居、常夜燈が立っている。

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10分程行くと「一里塚の郷 石畑」と彫られた碑が立っている。「ここは江戸時代後期には、高宮宿と愛知川宿の間の宿(あいのしゅく)として発展し、立場茶屋(たてばちゃや)が設けられ、旅人や馬の休息の場として賑わった。
ここ石畑の歴史は古く平安時代後期、文治元年(1185)源平の争乱の中、屋島の合戦で「弓矢の名手」として名を馳せた那須与一の次男石畠民部大輔宗信が、この辺りの豪族であった佐々木氏の旗頭として、那須城(城跡)を造りこの地を治めていた。 さらに、中山道の役場前交差点南(小字一里山)には、「一里塚」が設けられている。」(説明版より)これは江戸から百二十一番目の一里塚である。(醒井宿から番場宿へ向かう途中の久礼の一里塚が百十七番目だったので百十八、百十九、百二十番目の一里塚は見落としたか、それとも一里塚跡の表示さえも今は残っていないのか。)

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先へ進み豊郷町役場の交差点を越えると「伊藤長兵衛屋敷跡」の大きな碑があり、そのすぐ先の「伊藤忠兵衛旧邸」が記念館になっている。伊藤忠兵衛は「近江商人」として「近江麻布」を売り歩いていた近江商人から身を起した伊藤忠商事と丸紅の創業者である。

5分程先へ行くと「池」が復元されている。説明版によると「かつて、この地より北50mの所に金田池と称する湧水があり、との用水に使われると共に中山道を旅する人達の喉をうるおしてきたが、近年の地殻変化で埋め立てられたが永年名水として親しまれた池であるので、それを模して再現した。」のだそうだ。

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さらに数分、「又十屋敷」と記された大きな看板が掲げられている。この屋敷は、江戸末期より蝦夷と内地とを北前船を用いた交易で財を成した近江商人藤野家本宅跡である。敷地内には「逢坂山の車石」が置かれていて説明版が立っている。

「逢坂山は古来より難所として知られ江戸後期文化二年(一八〇五)脇坂義堂の発案に依り逢坂(大津)より京三条までの三里(約十二粁)に亘って車輪巾二列に花崗岩の厚板石が敷設された。総経費壱萬両もの巨費を必要とした。そこで近江商人中井源左衛門を筆頭に多くの有力者に金子の寄付を募り完成す。然し京へ上る往来の馬車多くこの様な轍(わかち)が深くなると敷替えられた。京にも店舗を持つ近江商人の活躍が伺える舗装道路のはしりと云われる。」(説明版)

また、看板の下に「一里塚址碑」が立っているが、これは以前豊郷町・石畑にあった碑を保存しているだけでここが一里塚跡ではない。

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又十屋敷の数分先、千樹寺門前の石碑は「江州音頭発祥地碑」。天正14年(1586)から続くという「江州音頭発祥の地」で江州音頭は観音堂竣工式の余興であったのだそうだ。

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ほどなく宇曽川に架かる「歌詰橋」を渡ることになるのだが、ここには「平将門」を打った藤原秀郷の伝説が残っている。

「天慶三年(960藤原秀郷は、東国で平将門の首級をあげた。秀郷が京に上るために、中山道をこの橋まできたとき、目を開いた将門の首が追いかけてきた。秀郷は将門の首に「歌を一首」と言うと、将門の首は歌に詰まり、この土橋の上に落ちたという。

以来、村人はこの橋を歌詰橋と呼ぶようになったのである。」(説明版より)

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歌詰橋から10程行くと「沓掛の三叉路」になり、直進が中山道、左は「豊満(とよみつ)神社」への道の道標が立っている。

三叉路から数分行くと「愛知川宿」と書かれた鏑木門をくぐり、さらに先へ行くと「愛知川宿北入口」の碑が立っていて傍らに多数の地蔵様が置かれている。「愛知川(えちがわ)宿」である。

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65宿 愛知川宿・本陣1脇本陣1、旅籠28

(日本橋より121288間 約478.3キロ・鳥居本宿より2里 約7.8キロ)

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愛知川宿も古く東山道の時代から栄えた宿駅で近江商人などの行き来で賑わった。

木曽路名所図会には「高宮まで弐里八町。此宿は煎茶の名産にして、能水(よくすい)に遭うなり。銘を一渓茶といふ。此辺はみな布嶋(ぬのじま)を織る。これを高宮嶋というふ。

 - えち川や 岩こす浪の瀬をはやみ くたす筏の いちはやの世や - 俊頼朝臣

とある。

宿場に入ってしばらく行くと大きな交差点に出るが、ここは「ポケットパーク」になっていて広重の愛知川宿の絵や道標が置かれている。道標の正面には「中山道 愛知川宿」、左側面には「左 高宮宿 二里」と彫られている。さらに明治初期に使われた黒い郵便ポストが置かれている。この珍しい黒いポストは実際に使われていたものだそうだ。

≪書状集箱≫

「このポスト(書状集箱)は、明治4年(西暦1871年)郵便創業当時使用していたものと同じ型のものであり、「ポケットパーク」が、町のシンボルとして、愛知川町は、かっての「木曽海道」六十九次の六十六番目の宿場町として栄えたことを記念されたところから、その景観等に合わせて設置したものです。

なお、このポストは、他のポスト同様に取り集めを行いますので、ご利用下さい。平成五年四月二十二日 愛知川郵便局長」(説明版)

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交差点を越えた右手に「親鸞聖人御旧跡」の標柱が立っている。ここは「豊満寺」参道の入り口で、建歴2年(12128月、親鸞が流罪の地、越後から京都へ帰る道すがら、愛知川が氾濫して川を渡ることが出来なかった時にここに宿を取ったと伝えられている。寺には親鸞が植えた紅梅や直筆の掛け軸も残っているそうだが先を急ぐので立ち寄ることが出来なかった。

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先へ行くと日本生命の営業所があるがここが本陣のあった所だそうだが「源町・本陣跡」の表示板のみが掲げられているだけで当時を偲ぶものは何もない。

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すぐその先には「八幡神社」があり、脇に「高札場跡」の碑が立っている。その隣に立派な旧家があるが土地の人の話ではその家が「脇本陣」だったという。以前は脇本陣跡の碑が立てられていたのだそうだが今は取り払われてしまったようだ。

そこから15分ほど歩くと「問屋場跡」の碑が立てられている。

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すぐその先には「竹平楼」という立派な料亭があるが、ここは当時の旅籠屋で屋号を「竹の子屋」といったそうだ。左手に「明治天皇御聖跡」の碑が立てられており明治天皇もここで休息を取ったとのことである。

それはそうと、ここから見る町並みはどことなく風情がある。

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すぐその先に「不飲川(のまずがわ)」と呼ばれる小さな川が流れているのだがその名の由来は、この川の水は平将門の首を洗ったといわれる上流の「不飲池(のまずいけ)」から流れ出ていて、川の水も将門の血で染まって飲めなくなったという伝説からだそうだ。(これは後で分かったことでその時は気にも留めなかったので写真も撮っていない。)

さてその先には「一里塚跡」の碑が立てられている。江戸から百二十二番目の「愛知川西の一里塚である。

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10分程行くと愛知川に「御幸橋」と呼ばれる橋が架かっている。この橋は明治11年、明治天皇巡幸の際に架け替えられてそのように呼ぶようになったのだが以前は「むちん橋」と呼ばれていたそうで、その説明版が立てられている。

「無賃橋」は高宮宿にもあったが、ここは出水のたびに旅人や村人までも困らせたので、商人の寄付で橋が架けられ、誰もが無賃で渡れるようになったのだそうだ。広重の「恵智川」の絵にも「はし銭いらす・むちんはし」と書かれた柱が描かれている。

すぐ傍には祇園神社がある。

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御幸橋を渡り交差点を左折すると近江鉄道の踏切をこえるがそこに常夜灯が立っている。先へ進み再び近江鉄道の踏切を渡ると「東嶺禅師御誕生地」の碑が置かれている。東嶺禅師とは「臨済宗中興の祖」といわれているそうである。

このあたりの町並みもなかなかいい。

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5分ほど行くと虫籠窓の家がみられる。(前にも書いたが、虫籠窓とは町家の二階部分に、縦に格子状に開口部を設けた固定窓のことである。)さらに歩くと「御代参街道道標」が置かれている。道標には「左・いせ ひの 八日市みち」「右・京みち」と彫られている。この街道は公卿達の代参が伊勢神宮多賀大社へ参詣するために通った街道であったことから「御代参街道」と言われるようになったのだという。

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 御代参街道道標を過ぎると、ポケットパークがあり「太神宮」と彫られた常夜灯が立っている。四阿もあり休憩を取るのにちょうどいい。一休みとしよう。

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その先15分ばかりの所に地蔵堂があり、さらに15分ばかり歩くと大きな常夜灯が立っている。常夜灯の台座には「左 いせひの 八日市」、「右 京道」と彫られている。

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常夜灯から5分程行くと再びポケットパークがあり、「明治天皇北町屋小休所」の碑が立っている。その先に地蔵堂さらに「京町屋風商家」が並んでいる。

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先へ進み県道を越えると金毘羅大権現と彫られた常夜灯の横に藁葺屋根の古民家がある。ここは立場本陣であった「旧片山家住宅」である。

10分程歩くと旧道は国道8号に合流し、そこには「てんびんの里」側面に「旧中山道」と彫られた碑があり、天秤棒を担いだ「近江商人」が上に乗っている。(おいでやす彦根と同じ発想のようだ。)

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旧道は、いったん国道に合流するがすぐその先で右手に復活する。旧道に入ると数分で四阿の中に清水の湧き出す井戸があるが、ここは「清水鼻の名水」と呼ばれて当時は立場があった所である。名水は今もなお滾々と湧き出ている。

「続膝栗毛」には「かくて守山、武佐をうち過ぎて、相の宿(間の宿)清水がはなというところに、いたりし頃ははや日暮れて、行くさき覚束なく(おぼつなかく)・・・・」と書かれている。

名水から10分ばかり行ったところに「中山道・六十八番宿跡」の碑が置かれているが六十八番目は草津、武佐宿は六十六番目の宿駅のはずだが?

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30分ほど歩くと「中山道・東老蘇」の碑が立っていて、すぐ先に「奥石神社(おいそ)神社」がある。この神社は織田信長が寄進したもので今は重要文化財に指定されている。

木曽路名所図会」には「≪老蘇杜(おいそのもり)≫西生来(にしょうらい)のひがしに西老蘇・東老蘇の二カ村あり。南老蘇は街道の南にあり。」とある。

≪老蘇の森≫

「古来老蘇の森一帯は蒲生野(かもうの)と讃えられ老蘇・武佐・平田・市辺の四ヶ村周辺からなる大森林があった。(中略)奥石神社本紀によれば昔此の地一帯は地裂け水湧いて人住めず七代孝霊天皇の御宇石辺大連翁等住人がこの地裂けるを止めんとして神助を仰ぎ多くの松・杉・桧の苗を植えしところ不思議なる哉忽ちのうちに大森林になったと云われている。この大連翁は齢百数十才を数えて尚矍鑠(かくしゃく)と壮者を凌ぐ程であったので人呼んで「老蘇」と云ひこの森を老蘇の森と唱えはじめたとある。又大連はこの事を悦び社壇を築いたのが奥石神社の始めと傳えられている。」(説明場版)

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「老蘇の森」は歌枕の地でここでも多くの歌人が歌を残している。

- 東路の 思い出にせ むほととぎす 老蘇の森の夜半の一声 - 大江公資
- のがれえぬ 老蘇の杜の 紅葉ばは ちりかひくもる かひなかりけり - 兼好法師

- 世やはうき 霜より霜に 結びおく おいその杜の もとのくち葉は - 藤原定家
- いとせめて なを憂きものは 春をへて 老曽の森の 鶯のこゑ - 藤原為家

- みのよそに いつまでか見ん 東路の 老蘇の森に ふれる白雪 - 加茂真淵

街道に戻り数分先へ行くと陣屋小路と彫られた道標があり、それに従って路地に入っていくと「根来陣屋跡」の碑が立っている。説明版によれば「ここは江戸時代鉄砲の根来衆で有名な根来家の陣屋があった所だという。

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さらにその先の轟川に架かる轟橋の袂に「轟地蔵跡」と彫られた碑が立っている。

ここには常夜灯も残っている。

≪轟地蔵旧跡と轟橋≫(説明版)

現在福生寺に祭祀されている轟地蔵は中山道分間延絵図(重文1806年)には、この場所に画かれている。平安時代の俗謡「梁塵秘抄」のなかに「近江におかしき歌枕 老蘇轟 蒲生野布施の池‥‥」と歌われ、その轟にあやかって名付けられた。轟地蔵は小幡人形の可愛いい千体仏で安産祈願のお地蔵さんである。(中略)

近江輿地志略に掲載された轟橋の歌三首

 堀川百首  わきも子に近江なりせばさりと我文も見てまし轟の橋  兼昌

 夫木集   旅人も立川霧に音ばかり聞渡るかなとどろきのはし    覚盛

 古 歌   あられふり玉ゆりすえて見る計り暫しな踏みそ轟の橋  読人不知

轟橋を渡ると杉原氏庭園の説明板と「名勝 緑苔園」の立札が立っていて「県指定文化財」と書かれている。茅葺屋根の古民家が杉原家でその庭園のようだが個人の庭園なので中は見られそうもない。

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23分先に「中山道:大連寺橋」右側面に「右観音正寺・左十三仏」左側面に「右八日市・左安土」と彫られ道標が置かれている。さらに5分ほど先に「鎌若宮神社」がある。これが「木曽路名所図会」に書かれている西老蘇の「奥石神社」だという。

さらに「東光寺」という寺「中山道・西老蘇」の碑がありその先、小さな川のほとりに「泡子延命地蔵尊遺跡」と彫られた碑が立っている。 説明板によると「昔この地にあった茶店の娘がこの茶店で休んでいる一人の僧に恋をした。僧が立ち去った後、飲み残した茶を飲むと不思議にも懐妊し、男の子を産み落とした。

三年後その僧が再び現れ、娘がその話をすると僧が男の子にフッと息を吹きかけた。 するとその子は泡となり消えてしまったと言う。」

醒井宿にも同じような「泡子塚」の伝説があったようだが・・・。

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午後5時半を過ぎた。夕方忙しい時間だがこの静かな町並みは何とも心地よい。

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先へいくと「西福寺」があり「西生来(にしょうらい)」の集落には一里塚跡の碑が立っている。江戸から百二十四番目の「西生来一里塚」である。

(百二十三番目の一里塚は「清水鼻」の手前石塚の集落にあったというだが今は目印になるものは何も残っていない。)

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66宿 武佐宿・本陣1脇本陣1、旅籠28

(日本橋より124108間 約488.1キロ・鳥居本宿より218町 約9.8キロ)

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武佐宿の西50町ばかりのところに近江商人の町「近江八幡」があり商業が盛んであった。中山道の宿駅として旅人で賑わったのが武佐宿で近江商人の商いで賑わったのが近江八幡ということになる。

木曽路名所図会には、「愛知川まで弐里半。これより西の方によりて、八幡の町へ行く。道法(みちのり)五十町許あり。八幡:此辺の都会の地にして、商人多し。産物は蚊帳地及び布嶋・畳表(たたみおもて)・円座(わらなどでひらたく丸くあんで作った敷物。すわる時に使う。)・灯心(あんどんなどの芯(しん)・蒟蒻等なり。」とある。

さて、「西生来一里塚跡」から10分弱の所に「武佐宿・大門跡」の立て札がありすぐに「牟佐(武佐)神社」がある。

「武佐は古へ牟佐村主の古地なれば牟佐上下の両社は平安朝の時代神威高く貞観元慶二度神位階を授けられし事三代実録に見ゆ。当社はその牟佐下神なりといふ。近江蒲生郡志巻六より」(由緒書きより)

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牟佐神社を過ぎると左手に「明治天皇聖蹟」と彫られた碑が立っている。その先右手に鏑木門があり、左の柱に「武佐町会館」右の柱に「脇本陣跡」と書かれている。現在の武蔵会館が脇本陣跡であったことがわかる。

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すぐ先の交差点にポケットパークがあり、東屋、新しい灯籠、武佐宿の案内板が立っている。灯籠には、正面に「中山道六拾七番宿場武佐宿」「右 東京 約460KM」、左面に「右 いせ 約120KM」と彫られている。

「ここは中山道 第六十七番 (?)宿場 武佐宿です。武佐は昔「牟佐」又は「身狭」の字を使ったが江戸時代頃よりこの「武佐」をつかう。蒲生郡第一の賑わいをみせ 中山道の大きな驛として 人馬の継立は人夫五十人 馬五十駄を常設、本陣、脇本陣各々一、問屋二軒を有し旅籠は二十三軒あったと言われる。」(説明版より)

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その先は古い町並みになり「下川家・本陣跡」があるが現在は本陣門のみが残っている。

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先の十字路に八風街道道標が立っていて、「いせ ミな口 ひの 八日市 道」と彫られている。八風街道は武佐宿を起点として鈴鹿山脈の八風峠を越えて伊勢に至る街道で、近江地方に海産物を運んでいたのだという。

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すぐ先にある民家は松平周防守陣屋跡で家の右側に立派な石灯籠と愛宕山の石碑が立っている。この辺りは川越藩の飛び領地だったことから、管理のために藩主松平周防守がここに陣屋を置いた。

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屋跡から5分程の所に、石碑と愛宕山常夜燈が立っており、ここが西の高札場跡であった。その先に「武佐寺三丁」と彫られた道標が置かれている。

「武佐寺:本尊千手観音。上宮太子の寺念仏なり。平家没落の時、平重衡(たいらのしげひら)東下りのとき、此寺に憩う事、源平盛衰記に見えたり。」(木曾路名所図会)

そろそろ午後6時半、武佐寺まで足を延ばすのは無理のようだ。

すぐ先の近江鉄道武佐駅から今日の宿泊地「ベストイン近江八幡」へ行くことにする。

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中山道旅日記 21 関ケ原宿-今須宿-柏原宿-醒井宿-番場宿-鳥居本宿

 若宮八幡神社から街道に戻りしばらく歩くと国道21号に歩道橋が架かっている。歩道橋を渡たってさらに行くと街道の下に川が流れていて「黒血川」の説明版が立っている。

≪黒血川≫

壬申の乱672)で、ここ山中の地では両軍初の衝突が起きています。

七月初め大友軍は精鋭を放って、玉倉部邑(たまくらべのむら)(関ヶ原町玉)を経て大海人軍の側面を衝く急襲戦法に出てきました。しかし、大海人軍はこれを撃退、その後この不破道を通って近江へ出撃して行ったのです。

この激戦で、両軍の兵士の流血が川底の岩石を黒く染めたことから、この名が付き、その時の凄い(すざまじい)様子を今に伝えています。この川は、青野ケ原や関ケ原の戦い等、古来軍事上屡々利用されてきました。関ヶ原町」(説明版)

木曽路名所図会」には「黒血川・今須の東、山中村の北の方の流れをいふ。川幅いと狭し。

- 立よりて 見れば名のみそ黒血川 黒き筋なき滝の糸かな -(富士紀行・堯孝)

とある。

また、黒血川は太平記にも出てくる。

太平記 巻第十九(その二)」

「青野原軍事付嚢沙(のうしゃ)背水事」

(青野原の合戦のことと、 韓信が土嚢を使って背水の陣を布いたこと)

「さらば時刻をうつさず向へ。」とて、大将軍(足利尊氏)には高越後守師泰・同播磨守師冬・細川刑部大輔頼春・佐々木大夫判官氏頼・佐々木佐渡判官入道々誉・子息近江守秀綱、此外諸国の大名五十三人都合其勢一万余騎、二月四日都を立、同六日の早旦に、近江と美濃との堺なる黒地河に著にけり。奥勢も垂井・赤坂に著ぬと聞へければ、こゝにて相まつべしとて、前には関の藤川を隔、後には黒地川をあてゝ、其際に陣をぞ取たりける。」(「決まった以上、早急に進発しよう」と言って、大将軍には高越後守師泰、同じく播磨守師冬、細川刑部大輔頼春、佐々木大夫判官氏頼、佐々木佐渡判官入道道誉、その子息、近江守秀綱らと、それ以外に諸国の大名五十三人を加え、総勢一万余騎が延元三年(暦応元年:1338年)二月四日、都を出発して、同じく六日の早朝に近江と美濃の国境、黒地川に着いた。奥州勢も垂井、赤坂に到着したらしいと聞くと、ここで待ち受けることにして、関の藤川を前に、後ろは黒地川を背に陣を構えた。)(中国の楚韓戦争(項羽と劉邦の戦い=紀元前206202)で項羽軍四十万余の兵に追われた時、大河を背にして陣を構えた劉邦の将軍・韓信の戦法に習ったもの。)

さて、黒血川の先には「鶯の滝」と呼ばれる江戸時代の名所がある。「この滝は、今須峠を上り下りする旅人の心を癒してくれる格好な場所でした。」と説明版に書かれている。

山中村は東山道の宿駅として栄えた所でこのあたりも立場として大いに賑わったそうである。

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 すぐ先の二股道を右に入ると「常盤御前の墓」がある。

「都一の美女と言われ、十六歳で義朝(源義朝)の側室となった常盤御前。義朝が平治の乱で敗退すると、敵将清盛の威嚇で常盤は今若、乙若、牛若の三児と別れ一時期は清盛の愛妾にもなります。伝説では、東国に走った牛若の行方を案じ、乳母の千草と後を追って来た常盤は、土賊に襲われて息を引き取ります。哀れに思った山中の里人が、ここに葬り塚を築いたと伝えられています。 関ヶ原町」(説明版)

常盤御前の墓の後ろに句碑が二基置かれている。

碑(左・表)「義ともの心耳 似多里秋乃 可世」者世越翁(はせをおう)

      「義ともの心に似たり秋の風」 芭蕉

碑(左・裏)「希尓風の 音も春み介李 阿支乃松」 春香園

      「げに風の音も澄みけり秋の松」 春香園

碑(右)  「その幹尓牛も かくれて佐くら哉」 七十六叟(おきな) 化月坊

      「その幹に牛もかくれてさくらかな」 化月坊

「寛政六年(1794)二月、垂井町岩手生まれの化月坊(本名国井義睦・通称喜忠太)は、旗本竹中氏の家臣であった。文武両道にすぐれ、晩年は俳諧の道に進出した。安政四年(1857)獅子門(翁の高弟各務支考を祖とする一派=美濃国が支考の生国で、活動の中心地だったため美濃派ともいう)十五世を継承、時に六十四歳。化月坊は美濃派再興のため、芭蕉ゆかりの各地に、芭蕉の句碑を建てた。文久二年(1862)、ここ山中集落常盤塚の傍らにも翁の句碑を建てたが、自作の句も碑裏に刻んでいる。」(説明版より)

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そこから5分程行くと小さな祠があり「常盤地蔵」の説明版が立っている。

この地で不幸に見舞われた常盤は、「義経がきっとこの地を通って都へ上る筈、その折には道端から見守ってやりたい。」と、宿の主人に形見の品を手渡し、息を引き取った。時に常盤四十三歳。宿の主人は、常盤の願いが叶うように街道脇に塚を築き手厚く葬った。後に常盤を哀れに思った村人は、無念の悲しみを伝える「常盤地蔵」を塚近くに安置し末永く供養した。寿永二年(一一八三)義経上洛の時、母の塚と地蔵前でしばし母・常盤の冥福を祈ったという。

常盤御前といえば、個人的にはNHK大河ドラマ「新・平家物語」の若尾文子のイメージが強いのだが。

「木曽名所図会」には、「常盤御前墓・今須の東、山中村の北側、民家の傍らにあり。」とある。

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先へ進もう。街道はやがて今須峠にさしかかる。約1キロほど上ると峠の頂上で、

一条兼良室町時代の古典学者)はその旅日記「藤川の記」でこの峠を「堅城と見えたり、一夫関(いっぷかん)に当たれば万夫(ばんぷ)すぎがたき所というべし」と書いている。

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峠を下ると街道は国道21号線に合流し、左側に一里塚跡が見えてくる。「今須の一里塚」である。

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中山道は一里塚の先から国道脇を下っていくことになる。「これより中山道今須宿」の道標が立っている。「今須宿」の入り口である。

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59宿 今須宿・本陣1脇本陣2、旅籠13

(日本橋より113278間 約446.7キロ・関ケ原宿より1里 約3.9キロ)

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今須宿は美濃路16宿最後の宿場で、歴史的にはこの地方の守護代として勢力を持っていた長江重景が母、妙応尼の菩提を弔うために妙応寺が建てられ、それ以来門前町として発展し、江戸時代宿場としては美濃国近江国の境の宿として栄えた。

宿場に入りすぐ今須宿の碑と本陣跡・脇本陣跡の説明板が立っている。石碑の正面には「中山道 今須宿」、右面に「右 柏原宿一里」、左面に「左 関ヶ原宿一里」と彫られていたる。

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右奥には国道とJRの線路をくぐるトンネルが見え、トンネルをくぐると妙応寺がある。

寺の境内には珍しい「さざれ石」がある。国歌「君が代」の~千代に八千代にさざれ~のさざれ石である。

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すぐ先、左手に中学校と併設になった小学校がありこのあたりが説明版に書かれている「本陣」があった所のようだ。続いて「問屋場・山崎家」がある。ここは美濃十六宿で当時のまゝ現存している唯一の問屋場だそうでさらに常夜灯が並んでいる。説明版によると京都の問屋河内屋は、大名の荷物を運ぶ途中ここ今須宿付近で、その荷物を紛失し途方に暮れて金毘羅様に願掛けをしたところ荷物が出てきた。河内屋はそのお礼にとこの常夜灯を建立したとのことである。

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常夜灯から十分あまり行くと「車返・美濃国不破郡今須村」と彫られた碑が立っていてその先が坂になっている。「車返しの坂」の説明版が立てられておりその内容を要約すると「南北朝の時代、公卿の二条良基不破関屋の荒庇(ひさし)から漏れる月の光が面白いと聞き、都から牛車に乗ってやって来たのだがこの地で、屋根は直してしまったと聞き「なんだ面白くない」と引き返してしまったという伝説から車返しの坂と呼ばれるようになった。」そうである。坂を上がると「車返し地蔵」が祀られている。

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この先、国道21号を横切りしばらく行くと「野ざらし紀行」の帰りに芭蕉が詠んだ句の「句碑」が置かれている。

- 年暮れぬ 笠着て草履 履きながら -
- 正月も 美濃と近江や 閏月 -

その横には「おくのほそ道 芭蕉道」と彫られた碑と「奥の細道」書き出しを彫った碑が置かれている。

「月日は百代の過客にして、行き交ふ年もまた旅人なり。船の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老いを迎ふる者は、日々旅にして旅を栖(すみか)とす。古人も多く旅に死せるあり。・・・・・」

- 行春や 鳥啼魚の 目は泪 -  

- 蛤の ふたみにわかれ 行く秋ぞ -

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芭蕉句碑のすぐ先に、「寝物語・美濃国不破郡今須村」の碑が立っている。その横に細い溝があるが、ここが「岐阜県」と「滋賀県」の県境であり、かつては「美濃国」と「近江国」の国境でもあった。県境の隣に美濃国近江国の「国境碑」が立っている。

ここで美濃路に別れを告げ、近江路へと入っていくことになる。

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国境を越えてすぐの所に「寝物語の里」の碑があり由来碑が添えてある。

「近江と美濃の国境は、この碑の東十メートル余にある細い溝でした。この溝を挟んで両国の番所や旅篭があり、壁越しに「寝ながら他国の人と話し合えた」ので寝物語の名が生まれたと言われています。また、平治の乱(1159)後、源義朝を追って来た常盤御前が「夜ふけに隣り宿の話声から家来の江田行義と気付き奇遇を喜んだ」所とも、「源義経を追って来た静御前が江田源蔵と巡り会った」所とも伝えられています。

寝物語は中山道の古跡として名高く、古歌等にもこの名が出ていますし、広重の浮世絵にもここが描かれています。

- ひとり行く 旅ならなくに 秋の夜の 寝物語も しのぶばかりに - 太田道潅

平成四年一月 滋賀県米原市」(由来碑)

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「寝物語の里」は、「続膝栗毛」にも書かれている。

「弥次郎兵衛、喜多八は、東海道を行きがけの元気には似もつかず、ふところの内淋しければ、今こそ旅はうき美濃と近江の境、寝ものがたり村にいたり、茶店にいたり休みたるに夫婦と見えて茶たばこ盆持出(もちいで)、挨拶しければ、かかる身にも取あえず、

- 夫婦して 寝ものがたりは両国も さぞやひとつに 夜のたのしみ -」

すぐその先に「ここは中山道 寝物語の里」の標識と「ここは長久寺です」の立て札が立っている。

≪ここは長久寺です≫

「江濃のくにもしたしき柏はらなる岩佐女史に物し侍りぬ

 啼よむし 寝もの語りの 栞りとも  化月坊 (芭蕉十哲各務支考、美濃派十五世)」

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その先には「弘法大師御陀仏(おだぶつ=阿弥陀仏を唱えて往生する意)」の石碑が置かれている。

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その先の「神明神社」の横に「旧東山道」の道標が立っていて道が僅かに残っているだけで先へは行けない。

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中山道を進み、JRの踏切を越えて右に曲がると柏原宿である。

 

60宿 柏原宿・本陣1脇本陣1、旅籠22

(日本橋より114278間 約450.66キロ・今須宿より1里 約3.9キロ)

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柏原宿は江戸から近江路へ入って最初の宿場で、江戸より約百十四里、京までは約二十一里のところにある。 江戸時代には艾(もぐさ) の産地として有名で「伊吹もぐさ」の老舗、伊吹堂の建物は今でもそのまま残っている。宿場の規模は大きく、宿場の長さ十三丁(1420メートル)、戸数人口もこの辺りでは東の加納(岐阜市)、西の高宮(彦根市)に次ぐものである。 旅籠屋は、隣宿との距離が近かったにもかかわらず二十二軒もあった。 本陣、脇本陣は、それぞれ一軒、問屋は、六軒、問屋を補佐する年寄(村役人)は八軒あり、造り酒屋も一時は四軒もあった。

木曾路名所図会には、「柏原宿・今須まで一里。駅は伊吹山の麓にして、名産には伊吹艾(もぐさ)の店多し。」と紹介されている。

伊吹山近江国の歌枕で多くの人がこの地で歌を詠んでいる。

- かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを -(藤原実方後拾遺集
- 名に高き 越の白山 ゆきなれて伊吹の嶽を なにとこそ見ね -(紫式部集・紫式部

- 今日もまた かくや伊吹のさしも草 さらば我のみ燃えやわたらん -(和泉式部新古今和歌集
- 思いだに かからぬ山のさせも草 誰か伊吹の里は告げしぞ -(清少納言枕草子

- そのままよ 月もたのまじ 伊吹山 -(松尾芭蕉奥の細道

さて、宿場の入り口に柏原宿の碑に中山道分間延絵図がはめ込まれている。

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すぐ先に「照手姫笠懸地蔵堂」がある。背の低い方が照手姫地蔵だそうである。説明版が添えてある。小栗判官・照手姫にまつわる伝説の地蔵なのだそうだ。

内容を要約すると「常陸国(茨城県)小栗の城主、小栗判官助重が毒酒を盛られ落命の危機に逢いながらも、餓鬼阿弥となり一命を取止める。これを悲しんだ愛妾照手姫は夫助重を箱車に乗せ、懸命に車を引張ってここ野瀬まで辿りついた。そして野ざらしで路傍に佇む石地蔵を見つけ、自分の笠を掛けて一心に祈りを捧げたところ、地蔵は次のお告げをしたと聞く。- 立ちかへり 見てだにゆかば 法の舟に のせ野が原の 契り朽ちせじ -勇気を得た照手姫は喜んで熊野に行き、療養の甲斐あって夫・助重は全快したことから、再びこの地に来り、お礼にお寺を建て、石地蔵を本尊として祀った。」

照手姫の伝説については赤坂宿と関ケ原宿の間にある「青墓」にも伝えられている。

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地蔵堂からほどなく八幡神社があり境内に芭蕉句碑が置かれている。

芭蕉(桃青)の句文碑

「戸を開けはにしに やま有りいふきといふ花にも よらす雪にもよらす只 これ弧山の徳あり

 - 其まゝよ 月もたのまし 伊吹山 -   桃青」

芭蕉は、元禄二年(1689敦賀から「奥の細道結びの地・大垣」(芭蕉は大垣で「奥の細道」の紀行を終えている。)へ、伊吹山を左手に見ながら北国脇往還を歩いた。そのあと、大垣の門人高岡斜嶺邸の句会で、この句を残している。

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 八幡神社から先は古い町並みで昔の面影を残している。家々には屋号書いた看板が掲げられており、奈良井宿妻籠・馬籠宿ほどではないが宿場の保存に気を配っているように思える。

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宿場を歩くと「東の荷蔵跡」(立て札のみ)「問屋場跡」「旅籠・白木屋藤兵衛」「脇本陣跡」と続く。

≪東の荷蔵跡≫

「運送荷物の両隣宿への継立(駅伝運送)が、当日中に出来ない場合、荷物を蔵に保管した。この蔵は東蔵と呼ばれ、藩年貢米集荷の郷蔵でもあった。荷蔵は宿西部にもあった。」(説明版)

脇本陣跡≫

脇本陣は、大名・幕府役人・宮家・公家・高僧他貴人が、本陣を利用できないときの、公的休泊施設である。柏原宿は南部本陣の別家が本陣同様江戸時代を通じて勤めた。

間口はこの家と隣の郵便局を合せた広さで、屋敷は二百三十八坪、建坪は七十三坪あった。当家は問屋役を兼務していた。」(説明版)

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脇本陣跡の向かいには「旅籠屋 京丸五兵衛」看板が掲げられてあり、説明版が添えられている。

≪旅篭屋跡≫

「天保十四年、柏原宿では東部のここ市場町・東隣り宿村町と西部の御茶屋御殿辺りとに二十二軒の旅篭屋(宿屋)が集まっていた。

 同じ年の宿内職業記録には、

もぐさ屋 九軒(屋号の頭は、どこもみな亀屋)

造り酒屋 三  請負酒屋 十

炭売茶屋 十二 豆腐屋  九

(煮売屋)他商人  二十八

大工   十  鍛冶屋 一

諸職人  十三 医師  一

とある。」(説明版)

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さらに「柏原宿の説明版」復元図と共に立っている。

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そのすぐ先に「本陣跡」がある。

≪柏原宿本陣跡≫

「本陣は、大名・幕府役人・宮家・公家・高僧他貴人が利用する公的休泊施設である。柏原宿は江戸時代を通し南部家が本陣役を務めている。間口はこの家の両隣を合せた広さで、屋敷は五百二十六坪、建坪は百三十八坪あった。建物は皇女和宮宿泊の時、新築されてと云われる。」(説明版)

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その先には市場川に架かる市場橋があり、橋の手前に「葉山常夜灯」が立っていて当時は高札場があったのだという。

≪高札場(辻の札)跡≫

「高札場とは、幕府のお触書を板札にして、高く掲げた場所を云う。

高札は江戸中期以降幕末まで、正徳大高札六枚・明和高札一枚・その時の両隣宿までの運賃添高札一枚、計八枚が懸かっていた。

高札場は、道沿いの長さ4.8m、高さ0.91mの石垣を築き、その上に高さ3.33mの高札懸けの建物があった。」(説明版)

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橋を渡った左手の大きな古民家が見えるが、ここは寛文元年(1661)創業の艾(もぐさ)店・伊吹堂である。屋号には「艾屋 亀屋 七兵衛左京」を書かれている。

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伊吹屋の向かいに「巌佐九兵衛」の屋号を掲げた造り酒屋がある。

「柏原宿は水量水質に恵まれ、酒株は宿内合せ百五十石が許可され、数軒の店が酒造りに励んだ。当家は慶長年間の酒造り記録が残る代表的な店であった。江戸後期に一時醤油醸造に転業したが、明治初めに造り酒屋に戻った」(説明版)。

「泰助分家・山根庄太郎」の屋号を掲げた造り酒屋もある。

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中山道六拾番 柏原宿」の看板と共に柏原宿に碑が立っている。

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10分ほど歩くと「中山道 柏原宿」の大きな標柱があり「日枝神社」「造り酒屋・亀屋左京分家 松浦作佐衛門」の旧家が並んでいる。日枝神社の本殿や茅葺屋根である。

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少し先に「西の荷蔵跡」がある。「運送荷物の東西両隣宿への継立(駅伝運送)が、当日中処理出来ない場合、荷物を蔵に預かった。この蔵は西蔵と呼ばれ、藩年貢米集荷の郷蔵でもあった。」(説明版より)

その先には「従是明星山薬師道」と彫られた道標が立っている。「最澄が創立したと云う明星山明星輪寺泉明院への道しるべである。宿内東に、同じ薬師仏を本尊とする長福寺があったので、明星山薬師道、西やくし道とも呼んだ。

この道標は享保二年(1717)と古く、正面が漢文、横に面が平仮名・変体仮名を使った二つの和文体で刻まれている。」(説明版より)

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道標の先の交差点を越えると向こう側の公園に「御茶屋御殿跡」がある。

≪柏原御茶屋御殿跡≫

「江戸初め、将軍上洛下向(京都・江戸間の通行)の際の宿泊・休憩の目的で、街道の各所に設けられた館で、近江では、柏原御殿と野洲の永原御殿、水口の水口御殿を合せて「近江三御殿」と称されてきた。

天正十六年(1588)、徳川家康が上洛の際、当地の西村家で休息。以後、中山道通過の際の恒例となっていたが、通過が頻繁になったため、元和九年(1623)、二代将軍秀忠が殿舎を新築。以後御殿番を置いて守備してきた。」(説明版より)

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その先に「郷宿・加藤家」がある。郷宿とは、脇本陣と旅籠屋の中間、武士や公用で旅する庄屋などの休泊に使用されてきたという。

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中井川橋、丸山橋を渡って先に進むと、左手に「一里塚」が復元されている。江戸から数えて百十五番目の「柏原の一里塚」である。

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一里塚から5分程行くと「西見附跡」の説明版が立っている。

「柏原宿西の入口で、道の両側に喰い違いの土手(土塁)がある。見付の語源は城門で、宿場用語になった。(中略)

柏原宿は、東見付まで十三町(1.4Km)。長く高地の町並が続く。」(説明版より)

その先は、松並木で「中山道分間延絵図」が埋め込まれた中山道の碑が置かれている。

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さらに、「東山道と九里半街道」の説明版が立っている。

≪古道東山道の道筋≫

東山道は、横河駅があった梓を中山道と同じ道で東へ進み、長沢を過ぎ、ここ北畠具行卿参道入口のある谷間で、中山道と分かれ山越えをする。徳源院のある清滝へ降り、右へ折れ、成菩堤院裏山の北側を東進する。JR野瀬(山)の踏切に至り、再び中山道と合流して、県境長久寺へと向う。」

≪九里半街道≫

中山道関ヶ原宿と番場宿の間は、九里半街道とも呼ばれた。

木曽・長良・揖斐三川の水運荷物は、牧田川養老三湊に陸揚げされ、関ヶ原から中山道に入り番場宿で、船積みの米原湊道へ進む。牧田から米原湊までの行程は九里半あった。関が原・今須・柏原・醒ヶ井・番場の五宿は。この積荷で、六、七軒と問屋が多かった。」

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ここで道は二つに分かれ、右の道を5分程行くと「鶯が原」の説明版が立っている。

木曽路名所図会」(文化二年(1805))に、長沢(ながそ)村を過て、鶯が原に至り、柏原の宿に着く。

また、太田道灌、江戸から京都への旅日記「平安紀行」(文明十二年〈1480〉)に、鶯の原といふ所にて

- 聞まゝに かすみし春そ しのはるゝ 名さえなつかし 鶯の原 -」(説明版より)

その先には、「掃除丁場と並び松」の案内板がある。

「掃除丁場とは、街道掃除の持場・受付区域のこと。

貴人の通行に備え、街道の路面整備・道路敷の除草と松並木の枯木・倒木の処置・補植に、柏原宿では江戸後期二十一ケ村が夫役として従事した。

丁場の小さい所は、伊吹上平等村で15m、大きい所では、柏原宿を除き長浜の加田村で488mもあった。

江戸時代の柏原宿では、松並木のことを「並び松」と呼んでいた。」(案内板)

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道は先ほど別れた道に合流するがその先に「従是明星山薬師道」の道標が立っている。

ほどなく道が二つに分かれるが、旧道は右の道を行くことになる。この道はかつての東山道でもあった。
しばらく行くと「小川(こがわ)の関跡」がある。不破関壬申の乱後に設けられたが
この関屋はそれ以前からあったのだそうだ。

続いて「天の川源流 菖蒲池跡」の碑が置かれている。

君がながしき例(ため)しに長沢の 池のあやめは今日ぞ引かるゝ  大納言俊光

「此の池の芹、名産なり、相伝う。古昔二町(218m)四方の池なりと。今は多く田地となりて、漸く方二十間(36m)計りの池となれり。」 享保十九年(1734)『近江與地志略』。その後、天保十四年(1843)には、「菖蒲ケ池と申し伝へ候旧地これ有り。」と 『中山道宿村大概帳』。江戸後期には消滅したようである。

『近江坂田郡志』は、この池が天野川の水源だったと述べている。」(菖蒲池跡・説明版)

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小川の関跡の横にある「左中山道・柏原宿枝郷 長沢(ながそ)・右旧中山道」の道標に従って右の旧道へ入ると見事な杉並木である。

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しばらく行くと「東山道横河駅跡 梓 柏原宿 江戸後期大和郡山領 」の道標が置かれている。道標に従って旧道を行き梓川を渡ると東山道時代の横川駅があった梓集落で、道標から10分程行くと今度は松並木である。旧道はやがて国道21号に合流し、その先に大きな「中山道碑」が立っている。

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中山道碑の先で国道と分かれ再び旧道に入っていくと「八幡神社」がありそこから数分行くと「一里塚跡碑」が置かれている。江戸から百十六番目の一里塚があった所である。

さらに5分程行くと「佛心水」と書かれた井戸がある。

「佛教用語で「仏心」とは、仏のこころ、大慈悲(心)のことをいいます。

中山道馬頭観音の近くにあり、街道を往来する馬の息災を祈願し、江戸時代後期に建立された馬頭観音に対して、この井戸は、旅人の喉を潤すだけでなく御仏の慈悲のもとで旅の安全を祈願したような意味があると考えられます。他に事例が見当たらないこと、中山道の要所にあることから非常に貴重なものだと思われます。地緑団体・一式区」(説明版)む~!中山道を歩いてたくさんの馬頭観音を見てきたが「佛心水」を見たのはこれが初めてである。今はもうなくなってしまったのだろう。それとも見落としたか?

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鶯が原の説明版にもあったが「木曽路名所図会」にこのあたりのことが書かれている。

「醒井の清水に憩いて一色むら・安佐川(あんざがわ)、あなたこなたと幾瀬もわたり、あんざ村を過ぎぬ。ある人、梓山・あずさの杣(そま)はここなりといへり。曽丹集(そたんしゅう)に、梓山美濃の中道と詠まれしなれば、美濃国也。契沖(けいちゅう)の吐懐編(とくはいへん」にも此訳を出されたり。長沢村を過ぎて、鶯が原に到り、柏原の宿に着く。

(「木曽路名所図会」は、京から江戸への名所案内であるから逆方向となる。)

(曽丹集=平安末期の曽禰好忠 (そねのよしただ) 作の私家集で毎月集と百首および源順 (みなもとのしたごう) の答歌百首などからなる。)

(契沖=江戸時代中期(寛永から元禄)の真言宗の僧、古典学者)

この先は坂道で坂を下れば「醒井宿」であるが、坂の途中に「鶯が端」の説明版がフェンスにかけられている。

「ここからは、特に西方の眺めがよく、はるか山間には京都の空が望めるというので有名で、旅人はみな足をとめて休息したという。平安時代歌人で、中古三十六歌仙の一人、能因法師も- 旅やどり ゆめ醒井(さめがい)の かたほとり 初音のたかし 鶯ヶ端 -と詠んでいる」(説明版)

坂を下り切ると今度は「見附跡、桝形」の説明版がある

「醒井宿の東西には、見附(番所)が設けられ、東の見附から西の見附まで八町二間(876m)が醒井宿であった。東の見附のすぐ西には、道が直角に右に曲がり、少し行くと左に曲がる、枡形になっている。枡形は、城郭や城下町にあり、城では、一の門と二の門との間に設けられ、敵の進む勢いを鈍らせたという。」(説明版)

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61宿 醒井宿・本陣1脇本陣1、旅籠11

(日本橋より11698間 約456.55キロ・柏原宿より118町 約5.9キロ)

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醒井宿(さめがい)は古く東山道の時代から宿駅として栄え「三水四石」と呼ばれる名所がある。ここは日本武尊(やまとたけるのみこと)にまつわる伝説が多く残っておりその名も名水が湧き出る泉で日本武尊が目を覚ましたところからきているという。

また、多くの旅人がこの地で歌を詠んだ歌枕でもある。

- 水上は 清き流れの醒井に 浮世の垢を すすぎてやみん -   西行
- わくらばに 行きて見てしか 醒が井の 古き清水に やどる月影 -   源実朝
- 旅やどり 夢醒ヶ井の かたほとり 初音も高し 鶯が端 -   能因法師

「さめが井という水、夏ならば、うちすぎまじやと思ふに、かち人はなをたちよりてくむめり。- むすふ手に にこる心をすすきなは 浮世の夢や さめか井の水 - 阿 仏」(十六夜日記)

音に聞きし醒井を見れば、かげたかき木の枝、岩根より流れいづる清水、あまりすずしきまですみわたりて、まことに身にしむばかり也。

- 道のへの 木陰の清水むすふとて しばしすすまぬ 旅人ぞなき - 光 行 (光行紀行)

「木曾路名所図会」には「柏原まで一理半。此駅に三水四石の名所あり。町中(まちなか)に流れありて、至りて清し。寒暑にも増減なし。(中略)此清水の前には茶店ありて、常に茶を入れ、醒井餅とて名産を商う。夏は心太(こころぶと=ところてん))・素麺(そうめん)を冷やして旅客に出す。みな此清泉の潤ひなるべしとしられける。」と紹介されている。

さらに十返舎一九の続膝栗毛には「六はら山をひだりに見て、ひぐち村いしうちをすぎて、さめがいのしゅくにいたる。ここにさめが井の清水というあり。

- 両の手に結ぶ清水の涼しくて こころの酔いも 醒が井の宿 -」と書かれている。

さて、宿場に入ると「中山道 醒井宿」と「中山道分間延絵図」が埋め込まれた碑が置かれている。

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先へ進むと「加茂神社」の鳥居が見えてくる。加茂神社は醒井宿の氏神として古くから信仰されてきた。神社の入り口から清水がこんこんと湧き出ているのが「居醒の清水(いさめのしみず)」で醒井宿三水の一つである。

景行天皇の時代に、伊吹山に大蛇が住みついて旅人を困らせていた。天皇は、日本武尊にこの大蛇を退治するよう命じた。尊は大蛇を切り伏せ多くの人の心配を除いたが大蛇の毒に犯されてしまった。やっとのことで醒井の地にたどり着き体をこの清水で冷やすと、不思議にも高熱の苦しみも取れ、体の調子もさわやかになった。それでこの水を「居醒の清水」と呼ぶようになった。」という伝説が残っている。

「居醒の清水」の立て札の横には「蟹石」が、さらに日本武尊が腰掛けたという「腰掛石と鞍懸石」がある。醒井宿四石のうち三石がここで見られるがもう一つはどこにあるのかわからなかった。

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加茂神社の隣には「延命地蔵堂」がある。

弘仁八年(西暦817年)百日を越える旱魃(かんばつ)を心配した嵯峨天皇の命により、伝教大師最澄)は比叡山の根本中堂に祭壇を設け、降雨を祈ると、薬師如来が夢の中に現れ、「ここより東へ数十里行ったところに清浄な泉がある。そこへ行って雨を求めよ。」と告げた。伝教大師が泉を尋ねてこの醒井の里にくると、白髪の老翁が忽然と現れ「わたしはこの水の守護神である。ここに衆生済度・寿福円満の地蔵尊の像を刻み安置せよ、そうすれば雨が降り草木も生き返るであろう。」と言い終ると水の中へ消えていった。大師は早速石工を集め、一丈二尺(3.6メートル)の地蔵菩薩の坐像を刻み、祈念すると、大雨が三日間降り続いた。

本尊の地蔵菩薩は、はじめ水中に安置されていたので、「尻冷し地蔵」と唱えられていとのだそうだ。」(醒井延命地蔵尊縁起より)

地蔵堂の前には雨森芳州(あめのもりほうしゅう)の歌が書かれた看板が建てれれている。 (雨森芳州=江戸時代中期の儒学者

- 水清き 人の心を さめが井や 底のさざれも 玉とみるまで - 芳州(古今集

地蔵堂の側の川中に「紫石灯籠」と書かれた立て札と共に石灯篭が立っている。

「木曾路名所図会」には、「紫石灯籠・地蔵堂の傍ら、水上にあり。此石名物也。いずれの所か出所しれず。」とある。

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居醒の清水から流れ出た湧水は「地蔵川」となって宿場を流れている。地蔵川に沿って歩くと「本陣跡」(今は樋口山という日本料理屋になっているようだ。)、その先地蔵川の向こうに「問屋場跡」が修復されて今は資料館になっている。

≪醒井宿問屋場(旧川口家住宅)米原町指定文化財

「この建物は中山道醒井宿で問屋を営んでいた川口家住宅です。問屋とは、宿場を通行する大名や役人に人足・馬を提供する事務を行っていたところです。現在、宿場に問屋が残されているところはほとんどありません。また、建築年代が十七世紀中から後半と推定される貴重な建物です。」(説明版)

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地蔵川に沿って趣のある古い町並みが続いているがその中に「ヤマキ醤油」の看板を見かけた。明治時代後半の創業ということで、醒井の清水で仕込んだ味噌と醤油は深い味わいがあるのだそうだ。その先には「江龍家表門」明治天皇御駐輦所と刻まれた碑が立っている。庄屋を務めていた江龍家の屋敷は本陣並の規模であったという。

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先に行くと醒井大橋の手前地蔵川の中に十王と刻まれた灯籠が立っている。これも醒井宿三水の一つ「十王水」である。

「平安中期の天台宗の高僧・浄蔵法師が諸国遍歴の途中、この水源を開き、仏縁を結ばれたと伝えられる。もとより浄蔵水と称すべきところを、近くに十王堂があったことから「十王水」と呼ばれるようになったという。」(説明版)

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その先、醒井大橋を渡ると「西行水」がある。西行水の上に泡子塚(あわこづか)と呼ばれている小さな五輪塔があり、西行にまつわる伝説が残されている。

「岩の上には、仁安三戌子年(にんあんさんねん、つちのえねどしのこと)秋建立の五輪塔があり、「一煎一服一期終即今端的雲脚泡」の十四文字が刻まれてあります。伝説では、西行法師東遊のとき、この泉の畔で休憩されたところ、茶店の娘が西行に恋をし、西行の立った後に飲み残しの茶の泡を飲むと不思議にも懐妊し、男の子を出産しました。その後西行法師が関東からの帰途またこの茶店で休憩したとき、娘よりことの一部始終を聞いた法師は、児を熟視して「今一滴の泡変じてこれ児をなる、もし我が子ならば元の泡に帰れ」と祈り、

- 水上は 清き流れの 醒井に 浮世の垢を すすぎてやみん -

と詠むと、児は忽ち消えて、元の泡になりました、西行は実に我が子なりと、この所に石塔を建てたということです。今もこの辺の小字名を児醒井といいます。」(説明版)

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このあたりから宿場はずれとなりすぐ先に「柏原宿へ一理半 中山道醒井宿 番場宿へ一理」の道標が立っている。その先5分程行くと「六軒茶屋跡」の碑が立っている。

≪六軒茶屋≫

「幕府の天領(直轄地)であった醒井宿は、享保九年(1724大和郡山藩の飛地領となった。藩主・柳沢候は、彦根藩・枝折との境界を明示するため、中山道の北側に、同じ形の茶屋六軒を建てた。この「六軒茶屋」は、中山道の名所となり、安藤広重の浮世絵にも描かれている。」(説明版)

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さらに5分程行くと「一類狐魂等衆」の碑が立っていて説明版が添えられている。

「江戸時代後期のある日、東の見附の石垣にもたれて、一人の旅の老人が、「母親の乳がのみたい・・・」とつぶやいていた。人々は相手にしなかったが、乳飲み子を抱いた一人の母親が気の毒に思い「私の乳でよかったら」と、自分の乳房をふくませてやりました。老人は、二口三口おいしそうに飲むと、目に涙を浮かべ「有り難うこざいました、本当の母親に会えたような気がします。懐に七〇両の金があるので、貴女に差し上げます」と言い終わると、母親に抱かれて眠る子のように、安らかに往生をとげました。この母親は、お金は頂くことは出来ないと、老人が埋葬された墓地の傍らに、「一類狐魂等衆」何と読むのかわからないが・・・)の碑を建て、供養したと伝えられています。」(説明版)

すぐ先に「中山道・阿南」の道標が立っている

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先へ進むこと56分、「茶屋道館」の看板を掲げた旧家があり、説明版が添えられている。

≪茶屋道館の由来≫

「この家屋は一見平屋つくりのように見えるが二階建てになっている。その理由として考えられることは、明治以降生活の洋風化の中で従来のかや葺きの屋根をこわし瓦葺きに変えた際、旧来の柱組みを利用したため低い二階造りとなったと思われる。裏側には土蔵が二棟ある。当時は財産として、米、骨董品、諸道具などを保管する金庫のような考え方であったものが二棟も現存するのは近隣では例が少なく、この家の主はかなりの財産家であったことが伺える。この家屋は永らく空き家になっていたものを当自治会が買いとり、この地の小字名「茶屋道」をとって「茶屋道館」と名付け歴史的資料を集めると共に中山道醒ヶ井宿と番場宿の中間に位置することから中山道散策者の一時の「憩」と「いっぷく場」として利用されることを期し中山道四百周年事業を記念して開館した。 平成十四年十一月二十三日 米原町河南区自治会」

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そこから30分ばかり歩くと小さな公園があり「中山道 一里塚の跡」の碑が置かれている。江戸から百十七番目の一里塚「久禮(くれ)の一里塚」があった所である。

「江戸へ約百十七里(459.5キロメートル)

京三条へ約十九里(74.6キロメートル)

 江戸時代には、三十六町を一里とし、一里毎道の両側に盛土して塚が築かれていました。川柳に、「くたびれた やつが見付ける 一里塚」とありますが、旅人は腰を下ろして一息し憩いの場にしたことでしょう。

久禮の一里塚には右側には「とねり木」、左側には「榎」が植えられていました。

 平成七年七月 米原町史談会」(説明版)

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一里塚を後に街道を行くと「中山道 問屋場跡」と彫られた碑が置かれている。

このあたりが番場宿の入り口であろう。そのすぐ先には「中山道番場宿」の大きな碑が「中山道分間絵図」と共に置かれている。その先に「米原 汽車汽船 道」と彫られた道標が立っている。湖東線(現東海道線)が開通した明治22年以降に建てられたものだそうである

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62宿 番場宿・本陣1脇本陣1、旅籠10

(日本橋より11798間 約460.5キロ・醒井宿より1里 約3.9キロ)

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番場宿は古く東山道の頃からの宿駅で、その名は全国的に知られていた。東山道時代は宿場は西番場にあったのだが、慶長年間になって米原へ出る道が開かれると、宿場機能は現在の東番場に移った。米原は番場宿から一理ほどで江戸時代は琵琶湖湖岸にあったことから物資輸送の基地として栄えた。

木曽路名所図会には「醒井まで三十町。長浜より米原まで帰り、これより東山道をたどる。磨針峠をこえて坂路を歩めば、程なく番場の駅にいたる。此宿は山家なれば農家あるは樵夫(しょうふ)ありて、旅舎もそなり。まず名にしおふ太平記に見えたる辻堂といふに詣ず。」と書かれている。

ところでJR東海道線が、大垣から垂井、関ケ原、柏原、近江長岡、醒井そして米原中山道沿いに走っているのもおもしろい。

さて、交差点を渡ると「脇本陣跡碑」、その先に「問屋場跡碑」、さらにその先にあるのは「本陣跡碑」が置かれている。その隣に同「問屋場跡」と「明治天皇番場御小休所」の碑が立っており、そのまた隣に「問屋場跡」が並んでいる。

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本陣跡碑の先に「南北朝の古戦場跡 蓮華寺 」「 瞼の母 番場忠太郎地蔵尊」 と記された標柱があり、続いて「史跡・蓮華寺」の標柱が立っている。

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参道を通って蓮華寺へ。境内には「血の川」、「斎藤茂吉の歌碑」、「北条仲時以下四百三十余名の墓」、「忠太郎地蔵尊」などがある。

≪蓮華寺≫

「寺伝によれば聖徳太子の建立で、もと法隆寺と称したが、鎌倉時代一向上人が土地の豪族土肥元頼の帰依を受けて再興し時宗一向派の本山となり、幾多の変遷を経て現在では浄土宗となっている。

北条仲時以下430余名自刃にまつわる過去帳や墳墓に悲哀を物語り、あるいは長谷川伸の「瞼の母」で有名な番場の忠太郎や、斎藤茂吉ゆかりの寺としてその歴史にふさわしい数々の逸話を秘めている。」(説明版)

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≪血の川≫

「元弘三年五月、京都合戦に敗れた六波羅探題北条仲時公は、北朝の天子光厳天皇及び二上皇・皇族等を奉じ、東国へ落ちのびるために中山道を下る途中当地にて南朝軍の重囲に陥り、奮戦したるも戦運味方せず戦いに敗れ、本堂前庭にて四百三十余名自刃す。鮮血滴り流れて川の如し。故に「血の川」と称す。時に元弘三年五月九日のことである。」(説明版)

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斎藤茂吉の歌碑≫

- 松風のおと聴く時はいにしえの 聖のごとく我は寂しむ -  茂吉

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北条仲時公並に四百三十余名の墓≫

「元弘三年五月七日京都合戦で足利尊氏に敗れた六波羅探題北条仲時公は北朝の天子光厳天皇後伏見華園二上皇を奉じて中山道を下り番場の宿に辿りつたが佐々木道誉に行く手を阻まれ、蓮華寺で仲時以下430余名が自刃して果てた。

時の住職は、その姓名と年令法名を一巻の過去帳に留め、墓を建立してその冥福を祈った。」

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≪忠太郎地蔵尊

瞼の母・番場の忠太郎」の作者、長谷川伸が親をたづねる子には親を、子をたづねる親には子をめぐり合わせ給えと悲願をこめて建立した地蔵尊だそうだ。

沓掛宿の長倉神社には、同じ長谷川伸が生み出した沓掛時次郎の碑があったがここでは、小説の主人公が地蔵尊として祀られていた。

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蓮華寺を出て街道に戻り先へ行くと東山道時代に宿駅だった西番場である。「中山道・西番場/古代東山道・江洲番場駅」の碑が置かれている。

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西番場を過ぎると街道は上り坂になり坂を上り切ったところは高速道路のトンネルになっているが昔は「小磨針峠」と呼ばれていたのだという。

そこから右の側道を少し下ると小さな地蔵堂があり、その傍らに湧き水が出ている。昔の旅人はここで喉を潤したのだろう。

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しばらく行くと左側に2本の道標が立っている。一方は古い道標と思われるが正面に「摺針峠 彦根」、左側面に「番場 醒井」、右側面に「中山 鳥居本」と刻まれている。もう一方には右も左も「中山道」と刻まれていた。

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中山道はこの道標から右手に入り「磨針峠(すりはりとおげ)」へ向かう。街道は急な上り坂になりすぐに磨針峠頂上に出る。のちにわかったことだが昔はこの上り坂の途中に一里塚があったのだそうだ。さしずめ「磨針の一里塚」江戸から百十八番目の一里塚ということか。

峠には当時、「望湖堂」と呼ばれていた茶店があり、説明版が立っている。

≪望湖堂跡≫

「江戸時代、摺針峠に望湖堂という大きな茶屋が設けられていた。峠を行き交う旅人は、ここで絶景を楽しみながら「するはり餅」に舌鼓を打った。参勤交代の大名や朝鮮通信使の使節、また幕末の和宮降嫁の際も当所に立ち寄っており、茶屋とは言いながらも建物は本陣構えで、「御小休御本陣」を自称するほどであった。その繁栄ぶりは、近隣の鳥居本宿と番場宿の本陣が、寛政七年(1795)八月、奉行宛に連署で、望湖堂に本陣まがいの営業を慎むように訴えていることからも推測される。

この望湖堂は、往時の姿をよく留め、参勤交代や朝鮮通信使の資料なども多数保管していたが、近年の火災で焼失したのが惜しまれる。」(説明版)

望湖堂跡から眺めは今も絶景だそうだが何分夕方であったため薄暗くかすんでいた。望湖堂跡の傍らに「明治天皇小休止跡碑」が立ち、家があったが、これは望湖堂を復元したものではない。

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磨針峠の望湖堂の碑に弘法大師縁の地と彫られている。

調べてみると以下のような伝説が残っていた。

昔、諸国を修行する若き僧がこの峠にたどり着いたとき、老婆が斧を石で磨いていた。「何をしているのか」と尋ねると老婆は「大切な針を折ってしまったので、斧を磨いて針を作っている。」と言う。若き僧は その言葉に目覚め、自分の意志の弱さを知って修行に励んだ。後の弘法大師である。

「磨針峠」の名もここからきたのであろう。

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続膝栗毛で弥次さん、喜多さんも磨針峠をこえていく。「それよりほどなく、すりはりたうげ(磨針峠)にいたり、ちゃ屋に入てこの所のめいぶつ、さたうもち(砂糖餅)にはらをこやし、目の下に見ゆる水うみのけしきに見とれて、こいつは気がはれてとんだいいところだ。

- 遠眼鏡(とおめがね)よりもまさらん摺針(すりはり)の穴よりや見る湖(うみ)の景色(けいしょく) - (摺針峠(磨針峠)に掛けて、針の穴より天をのぞくという諺を引用している。)」

ふたりのそばに金持ちらしいご隠居が感心して「あい、あっちもひとつやらかしやせうか

- 名物のさたうもち(砂糖餅)より唐崎に雨気(あまけ)もなくて はれわたる湖(うみ) -(砂糖に辛いと唐崎、甘いと雨気(あまけ)が語呂合わせになっている。近江八景の一つに唐崎の夜雨(やう)があるのをも詠みこんでいる。)

この後、弥次さん、喜多さんはご隠居の家へ招かれるのだが行ってみれば脇本陣の大邸宅であった。

近江八景

上・左から石山秋月(いしやまのしゅうげつ)・勢多の夕輝(せたのせきしょう)

粟津晴(あわづのせいらん)・矢橋帰帆 (やばせのきはん)

下・左から三井晩鐘(みついのばんしょう)・唐崎夜雨 (からさきのやう)

     堅田落雁(かたたのらくがん)・比良暮雪(ひらのぼせつ)

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 さて、峠の下りは草深い旧道を下って行くことになり、旧道はやがて国道8号に合流する。

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橋を渡って再び旧道に入っていくと左手に「おいでやす彦根へ」と彫られたモニュメントが立っていて、そのすぐ先に「中山道鳥居本町」の碑が置かれている。

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63宿 鳥居本宿・本陣1脇本陣2、旅籠35

(日本橋より118108間 約464.5キロ・醒井宿より11町 約4.0キロ)

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鳥居本が宿駅に制定されたのは寛永年間(16241623)で比較的遅く東山道時代は隣の「小野の集落」が宿場として機能していた。鳥居本の名の由来は隣の宿場高宮にある「多賀大社」の一の鳥居があったからだという。

「番場まで一理六町。むかし多賀神社の鳥居、此駅にありしより名づくる。今はなし。

彦根まで一理、八幡へ六里。此駅の名物神教丸(しんきょうがん)、俗に鳥居本赤玉ともいふ。此店多し」(木曽路名所図会)

石田三成が築いた巨城「佐和山城」の大手門は、この鳥居本にあった。

さて、宿場に入ると道は桝形になっており右に曲がると大きな旧家・有川家があり立派な門の前には「明治天皇鳥居本御小休所」の碑が立っている。

「万治元年(1658)創業の赤玉神教丸本舗は、今も昔ながらの製法を伝えています。

有川家の先祖は磯野丹波守に仕え、鵜川氏を名乗っていましたが、有栖川宮家への出入りを許されたことが縁で有川姓を名乗るようになりました。

近江名所図会に描かれたように店頭販売を主とし、中山道を往来する旅人は競って赤玉神教丸を買い求めました。

現在の建物は宝暦年間(17511764)に建てられたもので、右手の建物は明治十一年(1878明治天皇北陸巡幸の時に増築され、ご休憩所となりました。彦根市指定文化財」(赤玉神教丸有川家説明版)

続膝栗毛にも「此所の神教丸名物なり。

- もろもろの病の毒を消すとかやこの赤玉も珊瑚珠(さんごじゅ)の色 -」とある。

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鳥居本宿の名産は合羽であった。「本家 合羽所 木綿屋 嘉右衛門」と書かれた当時の看板が今も家の前に吊り下げられている。

「享保五年(1720)馬場弥五郎が創業したことに始まる鳥居本合羽は、雨の多い木曽路に向う旅人が雨具として多く買い求め、文化・文政年間(180430) には十五軒の合羽所がありました。天保三年(1932)創業の木綿屋は鳥居本宿の一番北に位置する合羽屋で、東京や伊勢方面に販路を持ち、大名家や寺院、商家を得意先として大八車などに覆いかぶせるシート状の合羽を主に製造していましたので、合羽に刷り込んださまざまな型紙が当家に現存します。」(説明版)

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木綿屋のすぐ先には「本陣跡」、「脇本陣跡」と続く。

鳥居本本宿の本陣を代々務めた寺村家は、観音寺城六角氏の配下にありましたが、六角氏滅亡後、小野宿の本陣役を務めました。佐和山城落城後、小野宿は廃止され、慶長八年(1603鳥居本に宿場が移るとともに鳥居本宿本陣役となりました。

本陣屋敷は合計二〇一帖もある広い屋敷でしたが、明治になって大名の宿舎に利用した部分は売り払われ、住居部分が、昭和十年頃ヴォーリズの設計による洋館に建て直されました。倉庫に転用された本陣の門が現存しています。」(旧本陣・寺村家 説明版)

鳥居本宿には脇本陣が二軒ありましたが、本陣前の脇本陣は早くに消滅し、問屋を兼ねた高橋家のようすは、上田道三氏の絵画に残されています。それによると、間口のうち左三分の一ほどに塀があり、その中央の棟門は脇本陣の施設で、奥には大名の寝室がありました。そして屋敷の南半分が人馬継立を行う施設である問屋場です。人馬継立とは当時の輸送システムで、中山道では宿ごとに五十人の人足と五十疋の馬を常備するよう定められていて、次の宿まで常備した人や馬を使って荷物を運んでいました。」(脇本陣問屋場 説明版)

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時計は午後5時半を過ぎている。本日はここまで。

近江鉄道鳥居本駅から本日の宿泊地コンフォートホテル彦根へ。

鳥居本駅は趣のある駅舎である。

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中山道旅日記 20 赤坂宿-垂井宿-関ケ原宿 2/2

中山道に戻ろう。

「これより中山道」の道標を過ぎてしばらく行くと野上といわれている集落になり「野上の七つ井戸」と呼ばれて旅人に親しまれていた井戸がある。説明版が添えられていて「ここ野上は、中山道垂井宿と関ケ原宿の間の宿(あいのじゅく)でした。江戸時代から、僅少の地下水を取水して多目的(防火用・生活用・農業用)に利用されてきました。街道筋の井戸は「野上の七つ井戸」として親しまれ、旅人には喉を潤し、疲れを癒す格好の飲料水だったでしょう。・・・・・・」

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この地は、古くから「東山道の宿駅」として知られていた。「更級日記」にも「三河尾張となる尾張の国、鳴海浦を過くるに夕汐ただみちみちて、今宵宿からむも、ちうげん(中程)に汐みち来なばここをも過ぎじとあるかぎり走り惑ひ過ぎぬ。美濃国なる境に、すのまたといふ渡して、野上という所につきぬ。そこに遊びどもい出で来て、夜ひと夜うたふに、足柄なりしおもひ出でられて、哀れに恋しきこと限りなし。雪ふりあれ惑ふに物の興もなくて、不破の関、あつみの山など越えて、近江の国おきなかという人の家にやどりて、四五日あり。みつさか山の麓に、よるひる、時雨、霰(あられ)降りみだりて、日の光もさやかならず、いみじう物むつかし。」とある。

また「木曽路名所図会」には「野上の里 関ケ原と垂井との間にあり。いにしへは駅なり」と書かれている。

七つ井戸から10分程行くと「山之内一豊陣跡」の説明版が立っている。

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その先は松並木で「旧中仙道松並木」の説明版が立っている。また、松並木の途中に「六部地蔵」が祀られている。

「旧中山道松並木 町指定天然記念物・江戸時代には、一里塚をつなぐ街道の両側に、松・杉・楓などの並木があって、その木蔭は旅人のしばしの憩いの場所となっていました。しかし、近年虫害や台風などによる松並木の減少が目立ってきました。

そのため町では、天然記念物に指定し、防虫対策や補植により、その保護につとめています。 関ヶ原町」(説明版)

「六部地蔵・六部とは「六十六部」の略で、全国の社寺などを巡礼して、旅をしながら修業している「人」ということで、厨子(ずし)を背負って読経しつつ行脚中の行者が「宝暦十一年頃」(1761年)この地で亡くなられたので里人が祠を建てお祀りされたといわれております。この六部地蔵さんは、「六部地蔵 歯痛なおりて 礼参り」と読まれているように、痛みのひどい病気をなおすことで名を知られています。 関ヶ原町」(説明版)

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松並木は国道に合流し、5分程行くと左手に関ケ原の合戦において徳川家康が最初に布陣した「桃配山(ももくばりやま)」への登り口が見えてくる。

桃配山は六七二年の壬申の乱(じんしんのらん)の時、大海人皇子(おおあまのみこ・後の天武天皇)が野上からこの不破に出陣したとき山桃を全兵士に配り戦に勝利した。

家康がその故事に習いこの桃配山に最初の陣を構えたとされている。

木曽路名所図会」には「天武天皇の行宮(あんきゅう)野上村の西往還右の方、山間の平地をいふ。また慶長五年九月十五日御本陣なり」とある。

坂を上ると家康の陣跡の碑と三つ葉葵ののぼりが立っている。

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街道に戻ると「若宮八幡神社」があり、このあたりが「関ケ原宿」の入り口であろう。

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58宿 関ケ原宿・本陣1脇本陣1、旅籠33

(日本橋より112278間 約442.8キロ・垂井宿より114町 5.45キロ)

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関ケ原宿は北国街道・木之本宿へ通じる「北国脇往還」(北国街道のバイパスルート)の起点で「伊勢街道」との分岐点でもあり美濃十六宿の中では一番賑わった宿場である。

また「天下分け目の合戦」の地としてあまりにも有名で「壬申の乱」の舞台でもあった。六七二年に起こった「壬申の乱」では「大海人皇子」と「弘文天皇」が東西に分かれて戦い東軍の大海人皇子が勝利を収めている。

伊吹山」と「鈴鹿山脈」に囲まれた関ケ原は、自然の隘路(あいろ)ともいえる地形で古くから東西を分ける重要な地点であったといえる。

宿場に入りしばらく行くと右手に「脇本陣跡」の門だけが残っている。

そのすぐ先に八幡神社がある。後で分かったことだが本陣はこのあたりにあり宿場の中心だったようである。

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ここで中山道をそれ「関ケ原古戦場」、石田三成が陣を構えた「笹尾山」を訪ねてみることにする。

脇本陣跡のすぐ先を右折し東海道線を越えたところの広場に松平忠吉井伊直政の陣跡の説明版が立っている。

「慶長五年九月十五日の合戦の役に中山道の敵を目標とする福島,藤堂、京極隊、北国街道を黒田、竹中、細川等の隊、その中央にあたるこの地に家康の四男、松平忠吉、後の彦根城主井伊直正が約六千の兵で陣を構えた。

 午前八時頃、軍監・本多忠勝より開戦を促され、直正は忠吉を擁して前進し宇喜多秀家の前面に出たが、先鋒は福島正則であると咎められ、方向を転じて島津義弘の隊に攻撃し開戦の火ぶたが切られた。」(説明版)

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その少し下がったところに「東首塚」「首洗いの古井戸」がある。

「東首塚国史跡(昭和6330日指定)

この塚は関ヶ原の戦い直後に、この地の領主竹中家が築いたもので、家康によって実検された将士の首が、ここに眠っています。

文部省の史跡指定時に、標柱や石柵が建てられた後、昭和十七年には、徳風会によって、名古屋から山王権現社本殿・唐門が塚の脇に移築されて、東西両軍の戦没者供養堂となりました。 関ヶ原町 」(説明版)

「首洗いの古井戸・合戦で討ち取られた西軍将士の首は、家康によって首実検され、その後塚を造ってねんごろに葬られました。

首実検に先立ち、首装束のため、この井戸水を使って首級の血や土などが洗い落とされたと伝えられています。

戦国期の戦場では、首実検後は敵味方の戦死者を弔い、供養塚を築くというのがならわしだったのです。 関ヶ原町」(説明版)

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先へ行くと「徳川家康最後の陣跡」があり「床几場 徳川家康進旗驗馘處」の碑も立っている。

徳川家康最後陣地・国史跡(昭和6330日指定)

戦がたけなわとなると、家康は本営を桃配山から笹尾山の南東1キロのこの地点に進出させました。ここで、家康は陣頭指揮に当るとともに、戦いが終わると、部下の取ってきた首を実検しています。周囲の土塁や中央の高台は、天保十二年(1841)に幕府の命により、この地の領主竹中家が築いたものです。 関ヶ原町」(説明版)

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最後の陣跡のすぐそばに「歴史民俗資料館」があり関ケ原の合戦の資料が多数展示されている。ここで荷物を預かってもらって先の笹尾山まで足を延ばすことにする。

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歴史民俗資料館から15分ほど歩くと「関ケ原古戦場・決戦地」と刻まれた碑が石田三成徳川家康ののぼりと共に立っている。

(のぼりのはためきを見ればわかるが今日は風が強い。)

「決戦地 国史跡(昭和6330日指定)

西軍有利な陣形で臨んだ戦いでしたが、小早川と脇坂ら四隊の裏切りは、たちまちにして戦況を一変させました。

小早川勢の大谷隊への突入と同時に、西軍の敗色が濃くなり、各軍の兵士の浮足立つなか、石田隊は集中攻撃を受けながらも、最後まで頑強に戦いました。笹尾山を前にしたこの辺りは、最大の激戦のあったところです。関ヶ原町」(説明版)

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その先に三成が陣を構えた「笹尾山」で「島左近(勝猛)陣跡」の説明版立ち、矢来(やらい)の上が「石田三成陣跡」である。

島左近(勝猛)陣跡

三成が家禄の半分を与えてまでも仕官させたといわれる左近です。

前日の杭瀬川の戦で中村隊を破り、本戦では石田隊の先手として布陣。黒田・田中らと奮戦後、家康本陣に迫ろうとしましたが、銃弾を受けて討ち死にしたともいいます。鬼の左近と称され、謎に満ちた猛将像は諸書に様々な姿で描かれています。関ヶ原町」(説明版)

三成陣跡には四阿(あずまや)もあり一息入れることが出来る。

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ここで、関ケ原の合戦のイベントを時系列で並べてみよう。

★「石田三成 暗殺未遂事件」

秀吉子飼いの武断派の武将7名(加藤清正福島正則黒田長政藤堂高虎細川忠興加藤嘉明、浅野幸長)が石田屋敷の襲撃を企てるが、石田三成は事前にそれを察知し屋敷を脱出、徳川家康の仲裁により事なきを得るが三成はこの事件により謹慎処分となる。

★「直江状」

慶長五年四月、会津上杉家家老・直江兼続は、「直江状」なる挑戦状を家康に送りつける。石田三成直江兼続が連携して家康を挑発したのである。

★「上杉征伐」

慶長五年六月、徳川家康、上杉征伐のため大坂を出陣。

★「石田三成、挙兵」

慶長五年七月十一日、石田三成徳川家康の悪行を13ヵ条にまとめた告発文「内府ちかひ(違い)の条々」を公表し諸国の大名の集結を呼びかる。

豊臣五大老毛利輝元を総大将とする。

★「伏見城の戦い(関ケ原の合戦の前哨戦)」

慶長五年七月十九日、総大将・宇喜多秀家、副将・小早川秀秋らが率いる西軍約4万の軍勢が徳川家の家臣鳥居元忠2千人足らずで守る伏見城を攻撃、81日、20日間あまりの激しい攻防の末伏見城は落城し元忠をはじめとする380名あまりが自刃して果てた。京都・大原の「宝泉院」は自刃した武将の血がべっとりとつきやがて黒ずんだ床を廊下の天井に祀り、供養としている。(宝泉院の血天井

(京都・大原、三千院の近くにある宝泉院は紅葉と客殿の柱と柱の間を額縁に見立てて観賞する額縁庭園が有名で庭園は竹林の前に梅や桜、松、楓などの木々が植えられ、季節、時間ごとに趣の異なる景色が楽しめる。

山崎豊子の小説「不毛地帯」に宝泉院が登場する。「夕日がかげり、さながら幽玄の世界を眼のあたりにするようであった。やがて霞のような夕靄(ゆうもや)が流れ、金色に輝いた竹の葉は紫色に変り、薄墨色の夕闇の中に溶け込むように昏れなずんで(くれなずんで)行った。」)(二度この寺を訪問したが夕日を見るには冬至の頃がいいように思う。)

★「犬伏の陣」

慶長五年七月二十一日、家康が発した「会津征伐」の号令に応じて真田昌幸は上田を、信幸は沼田を、そして幸村は大坂を出発する。途中、幸村は父・昌幸に合流し犬伏(栃木県佐野市)に陣を構える。犬伏の陣に密使が着き、直江兼続との連携により石田三成が挙兵したこと、太谷吉嗣が三成の味方についたことなどが知らされる。昌幸、幸村に信幸が加わり三者が対応を協議し、激論の末、昌幸、幸村は石田方へ、信幸は家康方に味方することになる。幸村「父子、兄弟が敵味方に分かれて戦うのもあながち悪う(あしゅう)はござりますまい。沼田が立ち行かぬ時は上田が」信幸「上田が立ち行かぬ時は沼田がということか」幸村「いかにも」(NHKドラマ・真田太平記「第22回・決裂 犬伏の陣」の名場面である)

★「小山評定

慶長五年七月二十五日、伏見城、落城の報告を受けた家康は下野国・小山(栃木県小山市)で軍議を開き上杉討伐は中止、西へ返し石田三成を討つことを決定する。(ここに徳川家康の東軍、石田三成の西軍という図式が出来上がる。)

★「北の情勢」

出羽・最上と陸奥(奥州)・伊達は家康派、常陸・佐竹は中立的立場にある。

家康は実子・結城秀康に佐竹の押さえを命じ、最上と伊達に上杉への攻撃を依頼する。

徳川軍の反転は上杉軍にとって千載一遇のチャンスだったが、上杉景勝は「謙信公(上杉謙信)は敵の背後を襲うことはなかった」と追撃を許さなかった。

景勝の「律儀さ」と「頑固さ」は上杉にとってラッキーであったというべきである。

この時、上杉は北には出羽の最上、陸奥の伊達、西には越後の堀と完全に包囲されていたからである。もし家康を追撃していたら壊滅的な打撃を受けていたに違いない。
慶長五年九月八日、直江兼続率いる上杉軍は米沢と荘内の二方面から、最上領へ侵攻を開始し、直江兼続上杉景勝)と最上義光伊達政宗の合戦が始まった。「東の関ケ原」とも「もう一つの関ケ原」ともいわれている「慶長出羽合戦」である。

★「東軍西上」

 徳川秀忠率いる徳川譜代を中心とする主力37千が中山道を、福島正則をはじめとする豊臣恩顧の大名勢は東海道を西上。

★「東軍清洲城入城」
慶長五年八月十四日、東海道を西上した東軍は、福島正則の居城・尾張国清洲城に入城。

★「東軍、美濃へ進攻」
慶長五年八月二十二日、福島正則細川忠興16千は、清洲城から美濃路を進み、木曽川を渡り美濃国へ進攻、西軍の竹ヶ鼻城、開城。

池田輝政、浅野幸長、山内一豊18千は岐阜城主・織田秀信軍を破り木曽川・中洲の小屋場島まで進軍。(河田木曽川渡の戦)

八月二十三日、岐阜城落城。(岐阜城の戦)

★「家康出陣」

慶長五年九月一日、徳川家康岐阜城落城の知らせを受け3万の軍勢で江戸城出陣。
慶長五年九月十四日、美濃国赤坂に着陣。

★「大垣城
慶長五年九月十日、石田三成大垣城入城。大垣城は、赤坂の南東にあるため、西軍は赤坂に陣を構える家康の旗印を見て動揺し、逃亡する兵士も相次いだ。

慶長五年九月十四日、兵たちの動揺を鎮めるため、島左近500の手勢で、東軍に戦を仕掛け快勝。西軍の動揺は鎮まり、士気も上がった。(杭瀬川の戦)

夜になり、西軍の島津義弘宇喜多秀家島左近は、家康陣営への夜討ちを主張するが、三成はこれを許さず。島津義弘は、石田三成の指揮には従わないことを決意する。

★「秀忠遅参」

中山道を進む徳川秀忠の主力部隊は、信濃国上田城真田昌幸、幸村父子を攻めるが大苦戦を強いられ合戦に遅参(第二次上田合戦)。これにより秀忠は生涯真田を恨み続けることになる。

★「関ケ原の合戦布陣」

西軍は、北の笹尾山に石田三成、その南に島津義弘小西行長、天満山に宇喜多秀家、その南に大谷吉継、西軍主力を見下ろす松尾山に小早川秀秋中山道の東軍を南から見下ろす南宮山に吉川広家、毛利秀元、安国寺恵瓊の毛利勢が布陣した。西軍は、北、西、南から東軍を囲み込む陣を敷いていたのである。
一方、東軍は三成の笹尾山に対して黒田長政、その南に加藤嘉明細川忠興、宇喜多直盛、田中吉政、筒井定次、左翼に福島正則、総大将の徳川家康は後方の桃配山に陣を構えた。桃配山の右後方・南宮山には家康の陣を見下ろす形で西軍の毛利勢が布陣している。この時、毛利勢が家康を攻めたなら確実に西軍が勝利を収めていたに違いない。しかしそうはならなかった。吉川広家は家康と密約を交わしていたのである。

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関ケ原は「伊吹山」と「鈴鹿山脈」に囲まれた自然の隘路(あいろ)である。両軍の布陣をみると狭い窪地の東軍を、山の上の西軍が完全に包囲しているのがわかる。

ドイツの軍事家「クレメンス・メッケル」がこの布陣を見て即座に「西軍の勝」と言ったそうだが、軍事家でなくても誰もが「西軍有利」と言うに違いない。

★「合戦」

 慶長五年(一六〇〇)九月十五日、濃霧の朝である。

 戦は、宇喜多秀家福島正則の銃撃戦で始まった。

(この前に榊原隊が島津隊に鉄砲を仕掛けるという小競り合いはあったが)

 宇喜多秀家 17000 X 福島正則 6000

その後、石田三成の本隊に、東軍の「黒田長政」「細川忠興」「加藤嘉明」などの部隊が攻撃を仕掛ける。

石田三成 4000     黒田長政 5400

島左近  1000     細川忠興 5000

蒲生郷舎 1000     加藤嘉明 3000

その他  2000     その他  6000
西軍は善戦し、やや押し気味に戦をしていた。ところが西軍諸将のそれぞれの事情が西軍優位を覆してしまう。

石田三成は戦況をさらに有利にするために島津義弘に攻撃を依頼するが「夜討ち」を受け入れられなかった島津は動かず。

南宮山・毛利勢の吉川広家は「所領安堵」を条件に家康と裏切りの密約を交わしている。

四国・土佐の長宗我部は、会津征伐に参戦するはずであったが関所の閉鎖で西軍に加わっただけでこの戦にはあまり積極的ではない。

昼頃になり、裏切りを約していた松尾山の小早川秀秋に東軍が威嚇射撃を行い、驚いた秀秋は太谷吉嗣軍を攻撃し形勢は一気に東軍に傾いた。

太谷吉嗣は自害、宇喜多秀家小西行長は敗走、島左近は討死、そして石田三成は戦場を離脱、島津義弘は敵中を突破し薩摩へ帰還。

天下分け目の大戦は、わずか7時間ほどで夕刻前には決着した。

一般的には関ケ原の合戦での一番の裏切り者は小早川秀秋とされているが吉川広家の裏切りは小早川秀秋の比ではない。総大将・毛利輝元の身内でありながら戦の前から敵方と密約を交わし味方を裏切った張本人がいたことは西軍にとって痛恨の極みであろう。それも戦国武将の一つの生き方かもしれないが。

徳川秀忠の主力37千の参戦なく合戦は終わりを告げた。関ケ原で戦ったのは主に豊臣恩顧の武将たちである。つまり豊臣恩顧の武将たちが敵味方に分かれて戦い、家康に天下をプレゼントしたことになる。

★戦後処理
西軍総大将・毛利輝元は、大坂城を退去。
石田三成小西行長安国寺恵瓊は捕らえられて京都六条河原で斬首。

岐阜城主・織田秀信13万石を没収され、高野山へ追放。
毛利家は、長門国周防国の二か国、29万石だけが安堵。(吉川広家の密約通り全所領安堵とはならなかった。因みにこの恨みが二百数十年の後、倒幕の急先鋒につながったという説もあるがにわかには信じがたい。)
宇喜多秀家は改易となり、島津家にかくまわれていたが自首し、後年八丈島へ流罪。
島津義弘薩摩国に戻り交渉の末、本領を安堵。
上杉景勝は、出羽米沢30万石に減封。

真田昌幸真田幸村父子は、真田信幸(信之に改名)とその岳父・本多忠勝の嘆願により高野山九度山へ配流。
長宗我部盛親土佐国へ逃げ戻ったが後に改易。

といったところか。

本日はこの後、JR関ケ原駅に戻り帰宅。駅のフェンスには関ケ原の合戦に参加した武将の家紋が貼られている。

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30日目(517日(火)) 浦和-関ケ原宿

今回は大垣駅前のコンフォートホテルに前泊、朝813大垣駅発の電車で関ケ原へ。

中山道に戻り先へ行くと黒田長政陣跡・竹中重門陣跡の標識が立っている。東軍は中山道を西進したので関ケ原宿手前から東軍諸将の陣跡がそこかしこに見られる。

標識のすぐ先には毘沙門天が祀られている。

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このあたりは古い町並みで常夜灯も置かれている。

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その先へ行くと「西の首塚」があり右の祠に十一面観音、左の祠に馬頭観音が祀られている。この塚は関ヶ原合戦、戦死者数千の首級を葬った塚である。

木曽路名所図会には「首塚 関ケ原宿の西、往還の左にあり。又若宮八幡宮の傍(かたわら)、越前街道にもあり。慶長戦死の塚なり。

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先へ行くと「松尾山・小早川陣跡」の道標が立っているが。陣跡まで2.4キロもあるというので時間の関係で先へ進むことにする。しばらく行くと「月見の宮福島陣址一丁」と刻まれた碑が立っている。

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そこを左へ入ると「福島正則陣跡」の道標がありそれに従っていくと春日神社がある。この神社は月見の宮とも呼ばれ月見の名所であったそうである。福島正則はここに陣を構えた。ここには樹齢800年の大杉があり、説明版が添えられている。福島正則陣跡の説明版も立っている。

「月見宮大杉・町天然記念物(昭和3685日指定)

この杉の巨木は、関ヶ原合戦図屏風にも描かれていて、樹齢は八百年余りと推定されています。平安の御世より、長く時代の変遷を見つめてきたとは驚嘆に値します。その記録は幹の年輪に刻まれています。目通り約5.80m、高さ約25mと貝戸大神宮大杉に次ぐ、正に杉の横綱です。 関ヶ原町」(説明版)

この場所は、西軍・宇喜多秀家と東軍・福島正則が激しく戦ったところである。

福島正則陣跡・東軍の先鋒となった福祉正則(約六千人)は、ここで南天満山の宇喜多隊と対陣しています。一番鉄砲の功名を井伊隊に横取りされるや、正則自ら鉄砲隊を指揮して、宇喜多隊に一斉射撃を浴びせるなか、一進一退の攻防戦が続きました。首取りで手柄を立てた可児(かに)才蔵が、家康の賞賛を受けたとされています。関ヶ原町」(説明版)

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街道に戻ると「美濃不破関東山道と東城門跡」の説明版が立っている。

「美濃不破関のほぼ中央部を東西に東山道が通り抜けていた。関のここ東端と西端には城門や楼が設けられ、兵士が守りを固めていた。日の出とともに開門、日の入りとともに閉門された。また、奈良の都での事変や天皇崩御など、国家的な大事件が起きると、中央政府からの指令によって固関(こげん)がおこなわれ、すべての通行が停止された。関ヶ原町」(説明版)

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そこから数分行くと「不破関の庁舎跡/大海人皇子・兜掛石・沓脱石」の道標があり、壬申の乱の時、大海人皇子(おおあまのみこ)が兜を掛けたと言われている石が祀られていて説明版が添えられている。

不破関 関庁跡と兜掛石 町・県史跡 

この辺りを中心に建物があったとされ、関内の中央を東西に東山道が通り、その北側に瓦屋根の塀で囲まれた約一町(一〇八米)四方の関庁が設けられ、内部には庁舎・官舎・雑舎等が建ち並び、周辺土塁内には兵舎・食料庫・兵庫・望楼等々が建っていました。

ここに祀られている石は、壬申の乱の時、大海人皇子(おおあまのみこ)が兜を掛けた石と伝えられ、左斜めうしろには同皇子使用の沓脱石があります。 関ヶ原町」(説明版)

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その先数分の所に「不破の関跡」がある。美濃・不破の関壬申の乱(六七二)後に天武天皇が設けた「越前・愛発の関(あらちのせき)愛知とも書く、伊勢・鈴鹿の関とともに三関の一つである。しかし桓武天皇の時代、争いも少なったことから七八九年に廃止となった。今は代々関守を務めた「三輪家」の庭になっている。

庭には不破の関跡の碑や芭蕉の句碑、大田蜀山人狂歌碑が置かれている。

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- 秋風や藪も畑も不破の関 - 芭蕉

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- 大友の 王子の王に 点うちて つぶす玉子の ふわふわの関 - 大田蜀山人

(大田蜀山人(おおたしょくさんじん)=江戸時代の御家人天明期を代表する文人狂歌師。)

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不破関は美濃の歌枕である。

- 人住まぬ不破の関屋の板庇(いたひさし)荒れにしのちはただ秋の風 - 藤原良経

は「新古今和歌集」に収められている。芭蕉はこの歌を意識したのだろうか。

その他

- 不破の関 朝こえゆけば霞たつ 野上のかなたに鶯ぞなく- 藤原隆信

- あられふる不破の関屋に旅寝して夢をもえこそ遠さかりけり - 大中臣親守

などがある。

また、「十六夜日記」には「不破の関屋の板びさしは、いまもかわらざりけり。」とある。

不破の関跡の先は道が2方向に分かれていて「左 旧中仙道」の道標が立っている。その通り左の下り坂の途中に説明版が立っている。

不破関西城門と藤古川・不破関は藤古川を西限として利用し、左岸の河岸段丘上に主要施設が築造されていました。川面と段丘上との高度差は約十~二十米の急な崖になっており、またこの辺一帯は伊吹と養老・南宮山系に挟まれた狭隘な地で、自然の要害を巧みに利用したものでした。ここには大木戸という地名も残っており、「西城門」があったとされています。関ヶ原町」(説明版)

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坂を下った所に藤古川が流れていて川に「藤古橋」が架かっている。説明版によると藤古川は古くは「関の藤川」と呼ばれ、壬申の乱では川を挟んで東側に大海人皇子(おおあまのみこ)軍、西側には弘文天皇軍が布陣した。そのためここより東を「関東」西を「関西」と呼ぶようになったという。関ヶ原合戦では大谷吉継が布陣するなど「関の藤川」は軍事上の要害の地であった。

木曽路名所図会」には「関の藤川 松尾村西にあり。水源、伊吹山の麓より流て、北国街道藤川の宿の東を行、松尾村の西、不破の関の下を流れ、多良川と落合て、栗笠より勢州桑名に入る。俗にこれを藤子川といふ。土橋かかる。」と書かれている。

木曽路名所図会」には、

- 美濃の国 関の藤川たえずして 君につかへん 万代(よろつよ)までに -(古今和歌集

- 神代より みちある国につかへける ちぎりもたえぬ関の藤川 - (風雅和歌集)

などの歌が記されている。

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橋を渡ると「大谷吉隆(大谷吉嗣)の墓七丁」の碑が立っている。

木曽路名所図会」には「太谷刑部少輔吉隆塚 山中村、左の方の山下にあり。慶長乱後、藤堂家これを建てる。」とある

吉嗣の墓への途中に「矢尻の池(井)」の道標があったので寄り道をしてみると説明版があり「矢尻の池(井)・関ヶ原宿から今須宿に向かう中山道のうちでも、不破関・藤川と続くこの辺りは、「木曽名所図会」にも描かれ、歌枕となっていました。この窪みは壬申の乱672)のとき、水を求めて大海人皇子軍の兵士が矢尻で掘ったものと伝えられています。長い年月を経た今では、その名残を僅かに留めているに過ぎません」と書かれている。

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先へ進みと「若宮八幡神社」があり、「宮上 太谷吉隆陣地」の碑が立っている。「太谷吉隆」は「太谷吉嗣」の異名で一般的には「吉嗣」で通っている。

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吉嗣の陣跡は若宮八幡神社の上にあり、道標に従って山道を上って行くことになる。

「太谷吉隆(吉嗣)陣跡 親友三成の懇請(こんせい)を受けた吉隆は、死に装束でここ宮上に出陣してきました。松尾山に面し、東山道を見下ろせるこの辺りは、古来山中城といわれるくらいの要害の地でした。九月三日の到着後、山中村郷士の地案内と村の衆の支援で宇喜多隊ら友軍の陣造りも進め、十五日未明の三成ら主力の着陣を待っていたといいます。 関ケ原町」(説明版)

 

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さらに上ると吉嗣の墓があり、さらに上ると小早川秀秋が布陣した松尾山眺望地に出る。

「松尾山眺望地 正面一・五キロに望む標高二九三米の山が松尾山である。関ケ原合戦において小早川秀秋が布陣したことで有名である。当時の遺構がほぼそのまま残っており、山頂に軍記が翻っているのが確認できる。吉嗣は予て(かねて)から秀秋の二心(ふたごころ)を疑っていたので、自ら二千の兵を率いて下方山中村の沿道に出て、専ら(もっぱら)秀秋に備えていた。案の定秀秋の兵一万三千が山を下り突撃してきたが、その大軍を麓まで撃退すること三度。ついに総崩れとなり吉嗣は自刃(じじん)した。こうして眼下で数倍の敵と互角以上の死闘を展開した太谷吉嗣の雄姿が偲ばれる。 関ケ原町」(説明版)道標によると一キロ先に宇喜多秀家の陣跡があるというのだが今回は無理か。

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大谷吉嗣

豊臣秀吉の家臣で越前敦賀の城主である。

秀吉は生前「大谷紀之介(吉継)に100万の軍勢を与えて、自由に軍配を指揮させてみたい」と言っている。それほどまでに大谷吉嗣の武勇、采配は見事なものであったという。

吉嗣は、三成を介して秀吉の家臣になったといわれていて、その為か三成との友情は深い。

「古今武家盛衰記」では巻第二 大谷刑部少輔吉隆として石田三成の次に登場する。

「時に吉隆十六歳、平馬と號す(ごうす=名づける)。太閤播半州を領し、姫路城主たる時、故ありて石田三成此時左吉といふが取持にて召出され、頓て(やがて)元服させられ、初めて百五十石を賜ふ。屢(たびたび)軍忠を盡し(つくし=戦の時には忠節を尽くし)、後太閤天下の主将となりて、終に越前敦賀城五萬石を賜はり、且(かつ)五奉行に列す。是より嚮(きょう=先)、従五位下刑部少輔と敍任し、諱(いみな)の字を賜はり吉継と稱し(しょうし=名乗り)、後四品に進む。」(古今武家盛衰記)、続いてその人となりを「大谷其性(そのさが)仁智深く、勇ありて猛からず、徳を隠し、信ありて僞(いつわり)なく、禮ありて驕らず(おごらず)。人擧つて(こぞって)賢と稱す(しょうす)。」(古今武将盛衰記)

また、「名将言行録」には「人となり、才智聡頴、勤労倦(う)まず、能く(よく)秀吉の心に叶へり」「吉継汎く(あまねく)衆を愛し、智勇を兼ね、能く邪正を弁ず、世人称して賢人と言ひしとぞ」とある

大谷吉継は、尾張派とは仲が悪いと言われている近江派ではあるが、尾張派との関係は悪いものではなかったようである。
尾張検地や財政、兵糧の調達や輸送の手配など内政面を得意とする一方、武術も秀でていため加藤清正福島正則などの武闘派(尾張派)からも一目置かれていたのであろう。
また、家康もその有能さを愛していたといわれている。

大谷吉継は、関ケ原以前はあまり表舞台には出てこないが関ケ原の合戦で一躍脚光を浴びることになる。

吉継が「義に厚い名将」として名を高めた理由は関ヶ原における壮烈な活躍にある。西軍は日和見や裏切りが相次いだのに対し、吉継とその軍のみは寡兵ながらも最後まで奮戦した。関ヶ原における大谷軍の奮戦を「名将言行録」は、「士卒皆其恵に懐き(しそつみなそのめぐみをいただき)、敢て(あえて)離反する者なし、其(その)敗るるに及びて、決然として自屠(自害)し、陵辱を受けず、人皆其智勇に服せり(ひとみなそのちゆうにふくせり)」と書いている。

大谷吉嗣は、家康の実力を高く評価し天下人にふさわしい人物としていた。家康の上杉征伐にも参加するはずであったが途中で三成の居城・三和山城に立ち寄り、家康打倒の決意と理由を聞いた時、三成の人望のなさを指摘し勝ち目のない挙兵を思い止まるよう説得した。「古今武将盛衰記」は、次のように書いている。

「大谷曰く、此言理に當るといへども、(三成の言っていることはもっともであるが)彼を知つて己を知らず。今武家の高位なる、家康に過ぎたるなし。三徳備はり勲功優れたる、是に過ぎたるなし。勇士餘多(あまた)持てる(あまりにも多くの勇士を持っているのは)、家康に過ぎたるなし。慈悲深く家臣能く懐(なつ)きたる、是に過ぎたるなし。俸禄の多き、是に過ぎたるなし。此五の者、一つとして御邊の身に及ばず(これら五つの一つとしてあなたは持っていない)。是れ勝利なきの謂(いわれ)なり。」

しかしながら三成の決意は固く、翻意(ほんい)は難しいと判断した吉嗣は三成への味方を決意する。難病を患っていたにもかかわらず厚い温情を受けた秀吉への恩義と、三成への友情が吉嗣をそうさせたのであろう。

「大谷癩病(ライ病=ハンセン病)を受け、五體(五体)苦み雙眼(そうがん=両目)盲す。太閤憐んで恩顧厚し。殊に秀頼の後見なれば、諸事家康公へ窺ふ(うかがう)。(武古今武家盛衰記)

吉継が西軍に与した(くみした)ことを知った家康は非常に驚き狼狽したという逸話が残っている。

吉嗣の関ヶ原での戦いぶりは凄まじいものがあったという。宇喜多勢を主力に合戦当初は東軍を押しまくった。しかし、小早川秀秋が裏切り大谷軍に襲いかかった。小早川秀秋13,000人の襲撃を吉嗣は兵600の兵で迎撃したという。

しかし、これに動じることなく、小早川軍を一度は押し返した大谷隊であったが大谷隊に属していた、脇坂・朽木・小川・赤座の四氏らも裏切るにおよんで、ついに大谷軍は壊滅し、吉継は自害して果てた。

「自害する際、小早川秀秋の陣に向かって「人面獣心なり。三年の間に祟りをなさん」と言って切腹したが、この祟りによって秀秋は狂乱して死亡に至ったという噂がある。秀秋は関ヶ原の戦いの二年後に死亡した。」(関東軍記大成)

不治の病を得て、両目が見えなくなってしまった吉嗣は、関ケ原に死に場所を求めていたのかもしれない。

大谷吉嗣は、

- 契りあらば 六の巷で待てしばし 遅れ先立つことはありとも -

(約束通り来世の入り口(六道の巷)で待っていてくれ。どちらが先に行くことになっても。)

と辞世の歌を詠んでいる。これは共に戦った「平塚為広」の辞世の歌

- 名のために棄つる命は 惜しからじ 終にとまらぬ浮き世と思えば -

(人は永遠に生きることはできない。君のために捨てる命は惜しくはない。)

に対する返歌と言われている。

「名将という言葉を、この戦場の敵味方の諸将のなかで求めるとすれば、大谷吉嗣こそそうであろう。」と司馬遼太郎は「小説・関ケ原」の中で言っている。

中山道旅日記 19 美濃・関ケ原(INTERMEDIATE)

日本史上最大のイベントといえる関ケ原の合戦は、徳川家康の「野望」と石田三成+直江兼続の「義」の戦(いくさ)であったというべきである。

しかしながら「絶対的な力」と「正義」の戦いは「絶対的な力」が勝つ。

司馬遼太郎は、小説「関ケ原」において「正義などというものは秩序が整っていれば秩序維持のために必要だが乱世においては人も世間も時勢も利害と恐怖に駆り立てられて動く。幼君秀頼につくのが利か、第一の実力者である家康につくのが利か、それのみを考えて動いているのである。自家を存続させたいという欲望が恐怖につながる。判断を誤れば自家は滅んでしまうという恐怖の前には正義など何の力ももたない。つまり特に乱世において人は強弱で動く、善悪では動かない。」と書いている。

謀反の疑いをかけられた前田利長前田利家)の嫡男・五大老の一人)は、家康の力に屈し、五奉行の中で最も親徳川であった浅野長政までも同じ嫌疑をかけられ引退に追い込まれている。つまり、家康はあらぬ難ぐせをつけ、豊臣政権の中枢にある五大老五奉行の一人一人を力で屈服させていったのである。

当然のことながら利を見るに敏な武将たちはこぞって家康に媚びた。

さらに家康は、高台院(秀吉の正室・ねね(北政所))を抱き込み、「三成憎し」に凝り固まる秀吉子飼いの武闘派諸将を味方にすることに成功した。

竹中半兵衛と共に秀吉の軍師を務めた黒田如水黒田官兵衛)の嫡男・黒田長政は小早川調略に動き、西軍の総大将・毛利輝元一門の吉川広家は、黒田長政を通じて家康に内通し、毛利領安堵の密約を取り付けている。

さて、福島正則宇喜多秀家の銃撃戦で幕をあけた関ケ原の合戦は最初、西軍が優位に立っていた。しかし小早川秀秋の裏切りで一気に形勢は逆転し、家康が勝利を収めた。そして薩摩・島津義弘の敵中突破で幕を下ろす。

司馬遼太郎の小説をドラマ化したTBSドラマ「関ケ原」の終盤で「歴史は時として最もふさわしくない者に重要な鍵を預けるものである」といったようなナレーションがあったように思うが「最もふさわしい者に重要な鍵を預けた」というべきである。

なぜなら、この戦で西軍が勝利を収めていれば世は再び乱世へと逆戻りしたに違いない。西軍には「絶対的な実力者」がいなかったからである。

ともあれ、「応仁の乱14671477)」以降100年以上続いた乱世はここに終わりを告げる。

日夜、戦に明け暮れた時代を「戦のない世」に導いた家康の功績は大きいと言わざるを得ない。

ただ、いわば主家である豊臣から権力を奪い取った後ろめたさは、家康を正当化するために三成を徹底して「悪人」にする必要があった。

徳川氏は、その治世二世紀あまりを通じて石田三成を肝心(かんじん)とし続けた。(中略)ただひとり、水戸黄門で知られている徳川光圀のみが、その言行録「桃源遺事」の中で「石田治部少輔三成は憎からざる者である。人おのおのその主人の為にはかるというのは当然なことで、徳川の敵であるといっても憎むべきでない。君臣共に心得るべきである」と語っているのが唯一の例外と言っていい。(中略)ただ、三成とともにその朋友知古家臣としてこの一挙に加わった三人の人物については、徳川幕府の禁忌(きんき)はおよんでいない。三人とは太谷刑部少輔吉嗣、島左近勝猛、それに直江山城守兼続である。この三人男は、いわば快男児の典型として江戸時代の武士たちに愛され、その逸話がさまざまの随筆に書かれ続けた。」(司馬遼太郎・小説「関ケ原」より)

徳川幕府下において幕府はもちろん諸藩も三成を「肝人」以外の評価をしなかった。

史実が勝者の都合のいいように書かれるのは世の常である。

直江山城守兼続

上杉は直接、関ケ原の合戦に参加してはいないが、上杉家の家老・直江兼続石田三成は以前から連携していて、家康が上杉討伐軍を東へ進めたことにより三成挙兵が実現した。

上杉討伐に向かう家康を三成と兼続が西と東から挟撃するという逸話もあるようだが真偽のほどは定かではない。ただ三成が真田昌幸にあてた書状には家康との戦について兼続と密接に連絡を取り合っていたことが明白に受け取れる。

家康に会津上杉討伐を決意させ「関ケ原の合戦」の引き金になったのが世にいう「直江状」である。「直江状」は、家康が直江兼続と親交があった禅宗の高僧・西笑承兌(さいしょうじょうたい)に、書かせた詰問状に対する返書である。

詰問の内容は「上杉とトラブルを抱えていた越後の後任領主である堀秀治による上杉謀叛の讒言を契機に家康は「上杉に謀反のうわさがある。武器を集めているのは謀反の証、会津領内の新城の築城、道や橋の整備は謀叛の準備である。上洛して叛意が無いという誓紙(起請文)を差し出せ」ざっとこんなところである。

これに対して、兼続は「直江状」で以下のように答えている。

会津謀反の噂について内府殿(家康)が不審に思うのは勝手だが、京と伏見くらいの距離でさえも噂は立つもの。ましてやここは遠国(おんごく)、堀秀治などの讒言を信じて調べようともしないのは内府殿(家康)こそ表裏のある人間である。」

「誓詞(起請文)を出せというが昨年から数回出している。提出した起請文が反故になってしまうので重ねて起請文は差し出さない。」
「北国越前殿(前田利長)に謀反の疑いをかけ、思い通りになったということだが、あなたのご威光はさすがである。(上杉はそうはいかないぞとも読み解ける)」
「武具を集めていることは、上方の武士が茶道具を集めるのと同じく田舎武士の風習であり、ご不審には及ばない。景勝に似合わないものを集めているわけではない。そんなことを気にするとは天下を治めるにふさわしくない。」

「道を作っているのは、越後口だけではない。堀監物(秀治)のみが恐れて騒ぐのは弓矢の道を知らない無分別者のようだ。もし景勝が謀反を起こす気があれば、道を開くよりも国を閉じて道を防ぐはず。堀秀治は是非に及ばざるうつけ者である。それでもご不審あれば、使者を送って検分すればいい。」

この返書に家康は激怒し、上杉討伐を決意したといわれている。

関ケ原の合戦後、上杉に対する処分は会津百二十万石から米沢三十万石への減封であった。

百二十一万石から三十七万石へ減封になった毛利輝元とほぼ同等の厳しい処分といえる。

島左近勝猛

島左近島清興)は大和城主・筒井順慶を支える筆頭家老で合戦の天才であった松倉右近と共に「筒井の左近・右近」と呼ばれた名将である。しかし順慶の死後、家督を継いだ定次に疎まれ筒井家を去る。その後、蒲生氏郷豊臣秀長に仕えるが長続きはせず、浪人として放浪した後、近江・江南の高宮の近くに草案を結んだ。

その噂を耳にした石田三成は自ら草案を訪れ自分の知行の半分(約一万五千石)を差し出して家臣とした。三成は左近を召し抱えることにより、自らの弱点を補うことに成功したのである。

その後三成は佐和山城十九万四千石の大名になった時、左近は自らの加増の代わりにより多くの兵を雇い入れることを三成に進言した。石田軍の強化を望んだのである。

関ヶ原では、三成は敗れ左近は命を張って三成を逃亡させた。自ら先頭に立って田中吉政黒田長政勢と戦い、一時はこれを退け家康の旗本近くまで迫ったが黒田勢の鉄砲を全身に浴び、壮絶な討ち死にを遂げた。

石田治部少輔三成

彦根・長浜(201699日)

慶長五年(1600年)の関ケ原の合戦における主役は紛れもなく石田三成である。

豊臣時代「三成に過ぎたるものが二つある 島の左近と佐和山の城」とうたわれた。

佐和山城は、五層の天守閣がそびえる堂々たる巨城であった。

島左近は、上述のように当代きっての名士である。

佐和山城島左近も小碌の三成には分不相応ということだろう。

さて、彦根駅から案内に従って行くと「佐和山城跡上り口1.3キロ」の表示が立っている。

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矢印の方向へ歩いていくと清凉寺の案内が出ている交差点を右折してしばらく行くと「龍譚寺」があるが途中の「佐和山会館」の駐車場の横に佐和山城を復元したデプリカが置かれている。

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その先に「龍譚寺」がある。山門をくぐった所が「佐和山城跡」への上り口である。寺の境内には石田三成の像が置かれている。城跡への急坂を上り始めると「佐和山城跡に最近、野猿の群れが出没いたします。十分ご注意ください」の立て札が立てられていた。ここは野猿か!

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急な坂道を、汗を拭き拭き息をきらせながら上って行くと「西の丸・本丸」「鳥居本」の道標があり本丸を目指してさらに上って行くとすぐに「西の丸(塩櫓)」の看板が目に入る。

佐和山城の大手門は中山道鳥居本にあった。彦根側は「搦め手(城の裏側)」である。

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急坂を上り切った所が「本丸跡」である。佐和山城跡からの見晴らしは非常に素晴らしく彦根の町と琵琶湖が見渡せる。鳥居本側は山が深い。

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龍譚寺の横が「清凉寺」で、ここは徳川家の家臣・井伊家の菩提寺である。

滋賀県百科事典」によると佐和山城をほろぼした井伊直政がこの地に封じられ、死後この地を墓所として法名の文字をとり、祥寿山清涼寺と称して開基とした。

尚、庫裡(くり)のあたりは佐和山時代、三成の名家老といわれた島左近の邸跡といわれている。

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彦根駅に戻り、米原経由で北陸本線長浜駅へ。

三成「三献の茶」で知られる「観音寺」へ行くべく駅の観光案内所立ち寄った。案内所の方の話では駅から56キロの所だという。時間の関係で駅のレンタルサイクルを借りることにした。

駅前ロータリーには、いきなり「秀吉公と石田三成公 出会いの像」が立っている。

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長浜駅から県道509号線を行くとすぐに「従是東長濱領」の碑が道路の左わきに置かれている。さらに先20分ぐらいで「石田」というバス停があり「石田治部少輔三成屋敷跡」の碑が立っている。

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そこを右に入ると石田会館があり三成にまつわる資料が展示されているそうだが休館日で入館できなかった。(事前の調査不足のためこのようなことが多々ある。)

会館前には三成の銅像吉川英治の句碑、西郷隆盛の石碑などが置かれている。

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吉川英治の句碑
吉川英治がこの地に来た時に詠んだ句だそうである。
- 治部殿も 今日冥すらむ(くらすらむ) 蝉時雨 -

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西郷隆盛の石碑には、
関ケ原軍記を読む 西郷隆盛
東西一決 関ケ原に戦う鬢髪(びんぱつ) 冠を衝き(つき)烈士憤る成敗存亡 

君問う勿れ(なかれ) 水藩の先哲 公論あり」

と彫られている。

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石田会館の東側に石田神社があり三成直筆の歌碑や三成の辞世の碑が置かれている。

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「残紅葉」

- 散り残る 紅葉はことにいとおしき 秋の名残は こればかりとぞ -

(おおかた散ってしまってわずかに残っているもみじ葉が秋の名残をわずかに残していていとおしいことだ)自分の身の上を重ね合わせているのだろうか。

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石田三成辞世の歌」

- 筑摩江(ちくまえ)や 芦間に灯すかがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり -

筑摩は現米原市、芦は琵琶湖のヨシだとのこと。

(芦の間に灯っているかがり火と共に我が身の命もがやがて燃え尽きてしまうのだな-)

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石田神社をあとに県道508号の緩やかの坂を上って行く。自転車なので結構きつい。

左手に「石田三成公出生地」の碑がある。その先のトンネルをくぐりヘアピンのようになっている道を行きすぐに右手に入れば「観音寺」である。

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山門をくぐって案内通りに行くと「石田三成水汲みの井戸」があり説明版が添えられている。

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山門に戻り階段を上がっていくと「本堂」である。

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三成については様々な逸話が残っている。ここに二つ挙げておこう。

「三杯の茶(三献の茶)」

石田三成はある寺の童子也。秀吉一日放鷹に出て喉乾く。其の寺に至りて「誰かある。茶を点じてきたれ」所望あり。石田、大なる茶碗に七八分に、ぬるくたてて持ちまゐる。秀吉之を飲み、舌を鳴らし、「気味よし。今一服」とあれば、又たてて之を捧ぐ。前よりは少し熱くして茶碗半にたらず。秀吉之を飲み、又試みに「今一服」とある時、石田此の度は小茶碗に少し許なる程熱くたてて出る。(今度は小さな茶碗に熱く煮立てて出した。)秀吉之を飲み其の気の働きを感じ、住持にこひ、近侍に之を使うに才あり。次第に取り立て奉行職を授けられぬと云えり。」(武将感状記・巻八)

(この話は、子供のころ何度か聞いたものである。)

「葭の運上銭」

「秀吉が三成に五百石を与えると言ったとき、三成はその代わりに、宇治川や淀川に生えている荻や葭の刈り取りに運上(税金)を取り立てる権利をほしいと申し出ました。

三成はその権利をいただければ、一万石の軍役をつとめると約束しました。
果たして、秀吉が織田信長の先手大将として波多野右衛門太夫秀治(丹波、丹後、但馬三州の守護職)追討の時、団扇(うちわ)九曜に金の吹貫をつけた旌旗を真先に持たせ、武具、馬具、華やかに鎧(よろ)うた武者数百騎がやって来た、それを見た秀吉が「見なれぬ旗じるしよ」などと言って使番を走らせてみると、河原の雑草の運上で人数をそろえた石田佐吉の隊であった。」(古今武家盛衰記より)

古今武家盛衰記の巻第一が「石田三成」そして巻第二が「太谷刑部少輔吉隆(太谷吉嗣)」である。

さて、観音寺を後に来た道を帰る途中に「やくし堂道」の碑が立っていて祠の横に「宇喜多秀家」についての説明版が置かれている。

「もう一人の西軍首脳(宇喜多秀家)・備前・美作を統一して城下町岡山を建設した宇喜多尚家の嫡子。早くから秀吉の毛利攻めに協力し、その後も秀吉の天下統一戦に参加した。秀吉晩年には五大老として、政権重鎮の一人であり、秀吉没後は前田利家と共に反家康の中心人物であった。関ケ原合戦では、三成に並ぶ西軍首脳と目された。戦後は島津義弘を頼って薩摩に逃れた後、八丈島に流され、半世紀余りに及ぶ流人生活のまま没した。」(説明版)

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関ケ原の合戦以前に「石田三成襲撃事件」がある。加藤清正をはじめとする武闘派七人は朝鮮・蔚山(うるさん)の戦いなどの評価を不服として文治派、特に三成に深い憎しみを持っていた。特に清正の憎しみは人一倍深い。第一次朝鮮出兵の時、小西行長との「京城」への一番乗り争いで清正は遅れをとったが「京城に入った」旨の秀吉への報告は行長より先んじた。秀吉は、清正が「一番手柄」と勘違いし清正に感状を与えた。三成はその間違いを正すと共に手柄争いに走り統率を乱していると清正を糾弾した。秀吉は激怒し清正に処分を下す。この時以来清正は三成を憎み続けることになる。

司馬遼太郎は、「小説・関ケ原」の中で「三成の異常な正義心と弾劾癖(だんがいへき)が、ここでもしつこくあらわれている。」と書いている。

さて、武闘派諸将(加藤清正福島正則細川忠興、浅野幸長(長政の嫡子)、黒田長政(官兵衛の嫡子)、蜂須賀家正、藤堂高虎)の七人は、三成屋敷襲撃を企てるが秀頼の侍従・桑島治右衛門の通報で屋敷を脱出し事なきを得る。この時、三成は家康の屋敷へ逃げ込んだとドラマに描かれることが多いがその真意は定かではない。(確かにドラマチックではある。)

この事件は、家康が仲裁に入り三成は隠居、蔚山城の戦いの評価の見直しという裁定で収まった。石田三成失脚の時である。

しかしこの事件で豊臣政権の武闘派と文治派の対立は表面化し、その対立を家康に利用される結果となる。

もっとも豊臣政権の武闘派=尾張派=高台院(寧々=北政所)派対文治派=近江派=淀派の対立の構図は遅かれ早かれ豊臣政権を自滅へ向かわせたに違いない。

石田三成をはじめとする文治派と加藤清正達武闘派が文武両面から秀頼を支えていたら事態は違ったであろうがそうはならなかった。時間は前にのみ進む。舞台は真田幸村が主役の大坂の陣へと移っていくのである。