奥の細道 19 矢板-太田原

18日目(2020年3月15日(日))矢板-太田原

午前8時過ぎ、JR矢板駅から国道461号線(日光北街道)を黒羽へ向かって歩く。

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1時間ばかり歩くと、箒川に「かさね橋」が架かっている。橋の両端には、

「- かさねとは八重撫子の名成べし - 曽良」と浮き彫りで書かれている。

奥の細道に書かれている曽良の句である。

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40分程歩いた先、赤い鳥居の「龍電神社」の横に「なんじゃもんじゃ」と刻まれた碑が立っている。

なんだろうと思い調べてみると、なんじゃもんじゃは、ハルニレの木で推定樹齢1000年と言われ、旧西那須野町の天然記念物に指定されていたが、1980年(昭和55年)に枯死してしまった。なんじゃもんじゃの言われは、水戸光圀がこの木の下で休憩した折に、地元の人に木の名を尋ねたところ誰も知らなかったことから「なんじゃもんじゃと名付けるとよい」と言ったことによるのだそうだ。

すぐ先には、「旧日光北街道」と書かれた道標が立っている。側面には「この道は、太田原と日光(約四十二キロメートル)を結ぶ旧街道で、寛永十三年(一六三六)にひらかれたという。江戸時代の俳人松尾芭蕉が、黒羽へ行く途中通った道と言われている。(那須塩原市)」と書かれている。

日光北街道のこの区間は、「なんじゃもんじゃ通り」と名付けられている。

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30分ほど先の道端には馬頭観音、更に30分程行くと「旧日光北街道」と刻まれた碑が置かれている。

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すぐ先には、薬師堂があり、境内には「舎利塔」「七重塔」が立っている。

「本堂 3間3面(梁間7.51メートル、桁行7.51メートル) 

向拝(こうはい) 1間(梁間3.30メートル、桁行2.67メートル) 

千鳥破風(ちどりはふ)付入母屋(いりもや)造 銅板平葺

雨薬山薬師堂は、大田原城四方固めの一つ西薬師と呼ばれ、薬師如来像が祀られる小堂宇を、寛永年中(1624から1644)に大田原氏が再建したと伝えます。宝暦7年(1757)大田原宿の大火により焼失、寛政5年(1793)に大田原庸清(つねきよ)により再建されたものが現在の建物で、修復を重ね現在に至っています。

斗拱(ときょう)は三斗組(みつとぐみ)、三手先(みてさき)の詰組(つめぐみ)となっており、二段の尾垂木(おだるき)を用いた化粧垂木は扇垂木(おうぎだるき)の二重垂木となって、深い「軒の出」を構成しています。向拝(こうはい)柱は角柱で四面に細かな彫刻があります。外壁は貫(ぬき)を用いず、欅(けやき)幅広板を柱間に落とし込み横張とし、長押(なげし)付きです。

和様、唐様の様式が混然一体に融合した江戸時代の自由な手法が現れており、江戸中期の寺院建築として特筆されます。」(説明版)

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5分程先の太田原信用金庫本店の横に「幸矢の与一像」が置かれている。

この辺りは、太田原市那須与一の里と名付けて与一の伝承を今に伝えている。

那須の与一は、治承・寿永の乱において、兄・十郎為隆と共に源頼朝方に与し、その弟・義経軍に従軍した。元暦二年(1185)の屋島の戦いにおいて、平氏方の軍船に掲げられた扇の的を射落とすなど功績を挙げた。

「ころは二月十八日の酉の刻ばかりのことなるに、をりふし北風激しくて、磯打つ波も高かりけり。舟は、揺りすゑ漂へば、扇もくしに定まらずひらめいたり。沖には平家、舟を一面に並べて見物す。陸には源氏、くつばみを並べてこれを見る。いづれいづれも晴れならずといふことぞなき。与一目をふさいで、 「南無八幡大菩薩、我が国の神明、日光の権現、宇都宮、那須の湯泉大明神、願はくは、あの扇の真ん中射させたまへ。これを射損ずるものならば、弓切り折り自害して、人に二度面を向かふべからず。いま一度本国へ迎へんとおぼしめさば、この矢はづさせたまふな。」と心のうちに祈念して、目を見開いたれば、風も少し吹き弱り、扇も射よげにぞなつたりける。与一、かぶらを取つてつがひ、よつぴいてひやうど放つ。小兵といふぢやう、十二束三伏、弓は強し、浦響くほど長鳴りして、あやまたず扇の要ぎは一寸ばかりおいて、ひいふつとぞ射切つたる。かぶらは海へ入りければ、扇は空へぞ上がりける。しばしは虚空にひらめきけるが、春風に一もみ二もみもまれて、海へさつとぞ散つたりける。夕日のかかやいたるに、みな紅の扇の日出だしたるが、白波の上に漂ひ、浮きぬ沈みぬ揺られければ、沖には平家、ふなばたをたたいて感じたり、陸には源氏、えびらをたたいてどよめきけり。」(平家物語・巻十一 那須与一

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さて、更に5分程行くと「金灯籠ポケット公園」ががあり、「金灯籠」と「旧奥州道中太田原宿」の碑が置かれている。

「町人文化の華が咲き誇った文化・文政の頃、ここ太田原宿は江戸の文化を奥州へ伝える旅人とみちのくの産物を江戸へ送る商人の行き交う宿場として栄えた。

金灯籠の初代は文政二年(1819)10月に太田原の城下の住人達が道中安全と町内安全を祈願して建立された。台座には正面に「上町」、右側には「白川」、左側には「江戸と刻まれている。」(大田原市・観光案内より)

奥州道中太田原宿の側面には、「右・那須塩原 湯道」と刻まれている。

奥には、奥の細道の書き出しと那須野の文章が刻まれた碑が石壁にはめこまれている。

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10分ほど歩くと「太田原城址」である。

「太田原城は、天文十四年(1545)太田原資清(すけきよ)によって築城され、町島水口おり移り住み、以来明治四年(1871)の廃藩置県に至る326年間太田原市の居城であった。慶長5年(1600)徳川家康関ケ原合戦の前、奥羽の情勢からこの地を重視し城の補修を命じた。更に徳川三代将軍家光は、寛永四年(1627)常時玄米千石を城中に貯蔵させ奥州の鎮護とした。」(大田原市・観光案内より)

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1時間余り行くと「那須の与一伝承館」があるが、新型コロナウィルス感染対策のため休館であった。

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その裏には「那須神社」がある。参道には「おくのほそ道風景地・八幡宮那須神社)の碑が立っている。

この神社は、那須与一屋島の戦いで扇の的を射る際に「南無八幡大菩薩・・・」と心に念じた神社だと伝えられている。

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今日はここまで。

八幡神社前のバス停からJR西那須野駅までバスに乗り帰宅。

奥の細道 18 玉生-矢板

17日目(2020年1月19日(日))玉生-矢板

前回は、先を急いでいたため玉生宿をよく見ることが出来なかったので今回は玉生からのスタートとする。

宇都宮駅12時5分発のバスで玉生へ。

バスを降りるとすぐに「日光北街道・玉生宿」の大きな碑が目に入る。日曜日の昼下がり、道行く人は誰もいない。

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                                                 奥の細道

                                                七 那須

那須の黒ばねと云所に知人あれば、是より野越にかかりて、直道をゆかんとす。遥に一村を見かけて行に、雨降日暮る。農夫の家に一夜をかりて、明くれば又野中を行く。そこに野飼の馬あり。草刈おのこになげきよれば、野夫といえどもさすがに情しらぬには非ず。いかがすべきや、されども此野は縦横にわかれて、うゐうゐ敷旅人の道ふみたがえんあやしう侍れば、此馬のとどまるところにて馬を返し給へと、かし侍りぬ。ちいさき者ふたり、馬の跡したひてはしる。独(ひとり)は小姫にて、名をかさねと云。聞きなれぬ名のやさしかりければ、 

- かさねとは八重撫子の名成べし - 曽良 

頓て(やがて)人里に至れば、あたひを鞍つぼに結び付て、馬を返しぬ。」

(あたひ=馬を借りた礼金

曽良日記

「船入より玉入ヘ弐リ。未ノ上尅ヨリ雷雨甚強、漸ク玉入ヘ着。

 同晩、玉入泊。宿悪故、無理ニ名主ノ家入テ宿カル。

 同三日 快晴。 辰の上尅、玉入ヲ立。鷹内ヘ二リ八丁。鷹内よりヤイタヘ壱リニ近シ。

 ヤイタヨリ沢村ヘ壱リ。沢村ヨリ太田原ヘ二リ八丁。太田原ヨリ黒羽根ヘ三リと云ドモ二リ余也、翠桃宅、ヨゼト云所也トテ、弐十丁程アトヘモドル也。」

船生から玉生まで二里。この辺りは日光連山の地形のため雷が発生しやすいところで午後1時頃(未の上刻)にやっとの思いで玉生に入ったが「宿悪」のため、頼み込んで名主の家に泊めてもらった。「宿悪」というのは宿が汚かったのではなく紹介状がなかったため泊めてもらえなかったという事だそうだ。見ず知らずのものを泊ることを禁じていたのであろう。ともあれ、芭蕉たちは、名主の家に泊めてもらうことができた。

さて、玉生宿の入口あたりに関東自動車バスの車庫があるのだが、その裏に「奥の細道芭蕉翁の遺跡・この地は今より二百七十余年前第五代将軍徳川綱吉の元禄二年俳聖芭蕉主従が東北をたずねる道すがら一泊したところです。・・・・この玉入が玉生で農夫の家すなわち当尾形医院前身代々庄屋をつとめた玉生氏であります。」と刻まれた碑と「芭蕉一宿の跡」と刻まれた碑が置かれている。

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少し先には「和気記念館」がある。古都の雅(みやび)に憧れ、“幽玄の世界”と評される和木史郎の油絵などが展示されているそうだが、今日は日曜日で休館。

道端にはここにも「芭蕉通り」と刻まれた碑が置かれている。

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玉生宿を抜けて2時間ばかり歩くと「矢板武記念館」があるが午後4時閉館でここも入館できなかった。

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 JR矢板駅から帰宅。

奥の細道 17 日光-船生

16日目(2020年1月10日(金))日光-船生

日光を後に黒羽へ向かう。

芭蕉曽良は、五左衛門から教わった近道を歩いたということだがどこを歩いたのかわからないので一旦今市まで戻ることにする。

「同二日(四月二日)天気快晴。辰ノ中尅、宿ヲ出。ウラ見ノ滝(一リ程西北)・ガンマンガ淵見巡、漸ク及午、鉢石ヲ立、奈須太田原ヘ趣。常ニハ今市ヘ戻リテ大渡リト云所ヘカカルト云ドモ、五左衛門、案内ヲ教ヘ、日光ヨリ廿丁程下リ、左ヘノ方へ切レ、川ヲ越、せノ尾・川室ト云村ヘカカリ、大渡リト云馬次ニ至ル。三リニ少シ遠シ。

・今市ヨリ大渡ヘ弐リ余。

・大渡ヨリ船入ヘ壱リ半ト云ドモ壱リ程有。絹川ヲカリ橋有。大形ハ船渡シ。」

曽良日記)

旧道の杉並木は、朝の木漏れ日を浴びて実にすがすがしい。

30分ばかり行くと「並木太郎」呼ばれる杉並木の中で一番大きな名木を見ることができる。

更に30分がかり行くと「砲弾打ち込み杉」の説明版が立っている。

戊辰戦争で官軍が日光に拠る幕府軍を攻撃した際の銃弾の跡が杉に残っているのだそうだ。

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さて、今市まで戻り春日町の交差点で会津西街道(国道121号線)に入る。

大谷川に架かる太谷橋からは、男体山が美しく見える。

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橋を渡り切った大谷向の交差点で日光北街道(国道461号線)に入る。

2時間ほど歩くと浅間神社の入口に大きな草鞋が奉納されていて説明版が添えられている。

「厄払い大草鞋と獅子舞

 厄払い大草鞋=富士浅間神社入口・芹沢十文字

 ・・・・この大草鞋は今から約千三百年前に定められた(養老律令)風神祭・道饗際が原点となって今日に伝えられている。

芹沼地区にはこのような大きな草鞋を履く大男が居るから悪者は立ち寄るな、そして流行病などの厄払いも込めて、昔から奉納されている。・・・・」説明版より

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すぐ先には、馬力神そしてなぜか二宮尊徳像が置かれている。

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15分程先に「轟城跡」の説明版が立っている。

「・・・・鎌倉時代畠山重忠の末子重慶の城と伝えられている。「健保元年(1213)畠山重慶が日光山麓に謀反を企てたと日光山別弁覚が鎌倉に通報し、将軍実朝は、長沼五郎宗政に逮捕を命じたが、宗政は生け捕りにせず首を持参した為、実朝は不快に嘆息した。」と吾妻鏡・巻二〇に記録されている。・・・・」

吾妻鏡・巻二十

「九月小

十九日 丙辰

未の刻、日光山の別当法眼弁覺使者を進し申して云く、故畠山の次郎重忠が末子大夫 阿闍梨重慶、当山の麓に籠居す。浪人を召し聚め、また祈祷に肝胆を砕く事有り。これ謀叛を企てるの條異儀無きかの由これを申す。仲兼朝臣弁覺が使者の申す詞を以て 御前に披露す。その間長沼の五郎宗政当座に候するの間、重慶を生虜るべきの趣これ を仰せ含めらる。仍って宗政帰宅すること能わず、家子一人・雑色男八人を具し、御 所より直に下野の国に進発せしむ。聞き及ぶ郎従等競走す。これに依って鎌倉中聊か 騒動すと。

廿六日 癸亥 天晴

晩景宗政下野の国より参着す。重慶の首を斬り持参するの由これを申す。将軍家仲兼朝臣を以て仰せられて曰く、重忠は本過無くして誅を蒙る。その末子の法師、縦え隠謀を挿むと雖も何事か有らんや。随って仰せ下さるるの旨に任せ、先ずその身を生虜らしめこれを具し参らば、犯否の左右に就いて沙汰有るべきの処、戮誅を加う。楚忽の儀、罪業の因たるの由、太だ御歎息すと。仍って宗政御気色を蒙る。而るに宗政眼を怒らし、仲兼朝臣に盟って云く、件の法師に於いては、叛逆の企てその疑い無し。 また生虜の條は掌の内に在りと雖も、直にこれを具し参らしめば、諸女性・比丘尼等が申状に就いて、定めて宥めの沙汰有らんかの由、兼ねて以て推量するの間、遮ってこれを梟罪す。奇怪に備えらるるの状如何。向後に於いて此の如き事有らば、忠節を抽んずと雖も誰か驕奢せざらんや。これ将軍家の御不可なり。凡そ右大将軍家の御時、恩賞を厚くすべきの趣、頻りに以て厳命有りと雖も、宗政諾し申さず。ただ望むらくは御引目を給い、海道十五箇国の中に於いて、民間の無礼を糺し行うべきの由啓せしむるの間、武備を重んぜらるるが故、忝なくも一の御引目を給い、今に逢屋の重宝と為す。当代は歌鞠を以て業と為し、武芸は廃るるに似たり。女性を以て宗と為し、勇士これ無きが如し。また没収の地は、勲功の族に充てられず。多く以て青女等に賜う。所謂、榛谷の四郎重朝が遺跡は五條の局に給う。中山の四郎重政が跡を以て下総の局に賜うと。この外過言勝計うべからず。仲兼一言に及ばず座を起つ。宗政また退出す。」

畠山重忠源頼朝が平家打倒の旗揚げ以来の功臣にて厚情、豪胆な武将であった。ところが平家滅亡の後、幕府機構の生成期においては勇猛な気質と高い人望を危険視され、頼朝没後に権力独占を図ろうとする執権・北条氏の姦計に嵌り1205年(元久2年)無実の罪で賊徒とされ討ち滅ぼされてしまう。これが所謂「畠山重忠の乱」で、重忠本人の他一族全てが討たれ、唯一生き延びたのが重慶であった。その重慶が出家隠棲し日々の暮らしを送っていたのが霊場日光に近いここ轟城だと伝わる。しかし重慶もまた謂れのない罪で討たれてしまったのである。実朝は「重忠は元々罪無くして誅殺され、その末子である重慶が何らの謀議を図ろうとも何事やあらんか、命に従いまずその身を生け捕りとして陰謀の如何によって処分すべきであった」と宗政の行き過ぎた行動を嘆いたと云う。

すぐ先の道端にはお地蔵様や庚申塔などが置かれている。

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1時間半ばかりあるいてやっと船生についた。「芭蕉通り」と刻まれた碑が置かれ、「子持ち地蔵尊」が祀られている。

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ここからJR矢板駅まではまだ20キロ以上はあるだろう。気を取り直して歩き始めたが2時間ほどで日はとっぷりと暮れてしまった。真っ暗闇の中でバス停を見つけ時刻表を見ると次は18時01分、1日に3本しかないバスがあと30数分で来るようだ。これはラッキーと言うべきである。バスの乗客は一人だけ、運転手さんの話では長年この道を走っているがこのバス停でしかもこの時間に客を乗せたのは初めてだとか。

奥の細道一人歩き 16 日光

15日目(2020年1月9日(木))日光

今日も前回と同じ6時5分浦和発の宇都宮線に乗り日光線に乗り継いで日光へ、日光着が8時23分。隣の東武日光駅の前は土産物屋などもありJRの駅よりも華やいでいる。

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今日1日、奥の細道序盤のクライマックス日光で世界遺産の社寺や芭蕉の足跡を辿る。

ところで、日光の地名は二荒山(ふたらさん)(男体山の別名)の「二荒」を「にこう」と読んだのが始まりだという。

奥の細道には、「往昔(そのかみ)此の御山を二荒山と書きしを、空海大師の開基の時日光と改め給う。」と書かれている。

さて、日本有数の観光地らしくきれいに整備されたゆるやかな上り坂の道路を歩いていくと日光彫、日光ゆばの店や洒落たカフェなどが左右に並んでいる。

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30分ばかり歩くと「上鉢石町」のバ ス停があるが、芭蕉曾良は、日光鉢石の佛五左衛門方に泊まっている。曽良日記には「其の夜日光上鉢石町五左衛門ト云者ノ方ニ宿。」と書かれている。鉢石は、日光社寺の門前町で当時から賑わっていたのだろう。

                                     「奥の細道

                                 五 佛五左衛門

「卅日(みそか)、日光山の梺に泊る。あるじの云けるやう、「我名を佛五左衛門と云、萬正直(よろずしょうじき)を旨とする故に、人かくは申侍(もうしはべる)まゝ、一夜の草の枕も打解て休み給へ」と云。いかなる仏の濁世塵土(じょくせじんど)に示現して、かゝる桑門の乞食順礼ごときの人をたすけ給ふにやと、あるじのなす事に心をとゞめてみるに、唯無智無分別にして、正直偏固の者也。剛毅木訥の仁に近きたぐひ、気禀の清質尤尊ぶべし。」

(三十日(三月)、日光山のふもとに宿を借りて泊まる。宿の主人が言うことには、「私の名は仏五左衛門といいます。なんにでも正直を第一としていますので、まわりの人から「仏」などと呼ばれるようになりました。そんな次第ですから今夜はゆっくりおくつろぎください」と言う。いったいどんな種類の仏がこの濁り穢れた世に御姿を現して、このように僧侶(桑門)の格好をして乞食巡礼の旅をしているようなみすぼらしい者をお助けになるのだろうかと、主人のやることに気を付けて見ていると、なまじっかな知恵や世俗的な分別はなく、正直一途な者なのだ。論語にある「剛毅朴訥(ごうきぼくとつ)は仁に近し(まっすぐで勇敢で質実な人が仁に近い)」という言葉を体現しているような人物だ。生まれつきもっている(気稟(きひん))、清らかな性質(清質)なのだろう、こういう者こそ尊ばれなければならない。)

ものの本によれば、元禄二年の三月は小の月(二十九日まで)で三十日はないはずである。芭蕉がなぜ丗日と書いたかについて学者や専門家達がいろんな説を唱えているが真意のほどは定かではない。芭蕉宿泊の遺跡がどこかにないか探してみたが見当たらない。誰かに聞いて帰りにもう一度探してみることにする。

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5分程で神橋である。天海僧正銅像が立っている。

天海大僧正 天海は比叡山天台宗の奥義をきわめたあと、徳川家康に仕え、日光山の貫主となる。当時の日光は、豊臣秀吉に寺領を没収され、荒廃の極みにあった。家康が亡くなると天海はその遺言を守り、久能山から遺骨を日光に移し、東照宮の創建に尽くした日光山中興の恩人である。」(説明版より)

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信号を渡ると左手に参道があり、参道を登ると輪王寺・三仏堂の裏手に出る。

輪王寺

日光山は天平神護二年(766)に勝道上人(しょうどうじょうにん)により開山された。 以来、平安時代には空海、円仁ら高僧の来山伝説が伝えられている。東照宮が元和三年(1617)の創建であるから輪王寺東照宮より850年も前に立てられたことになる。歴史の重さを感じる。

輪王寺・三仏堂の横には輪王寺護摩堂がある。ここは日光山随一の護摩祈願所である。毎日7時30分、11時、14時の3回護摩祈願が行われている。

参道を挟んだ向かい側には輪王寺本坊・日光さん輪王寺門跡がある。

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さて、東照宮、さぞかし観光客で混みあっているのだろうと思っていたが平日の早朝に加えて正月明けとあって海外からの観光客も少なく、人影もまばらである。拝観券はSUICAで購入、ここでもキャッシュレス。

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日光東照宮の建物のほとんどが国宝や重要文化財に指定されている。

石鳥居(いしどりい)(重要文化財

元和4年(1618)、九州筑前藩主黒田長政によって奉納された。

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表門(おもてもん)(重要文化財

東照宮最初の門で、左右に仁王像が安置されているところから仁王門とも呼ばれている。

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陽明門(ようめいもん)(国宝)

日本を代表する最も美しい門で、宮中正門の名をいただいたと伝えられている。いつまで見ていても見飽きないところから「日暮の門」ともよばれ、故事逸話や子供の遊び、聖人賢人など500以上の彫刻がほどこされている。

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廊(かいろう)(国宝)

陽明門の左右に延びる建物で、外壁には我が国最大級の花鳥の彫刻が飾られている。いずれも一枚板の透かし彫りに極彩色がほどこされている。

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五重塔(ごじゅうのとう)(重要文化財

慶安3年(1650)若狭の国(福井県小浜藩酒井忠勝によって奉納された。文化12年火災にあったが、その後文政元年(1818)に同藩主酒井忠進によって再建された。

神厩舎・三猿(しんきゅうしゃ・さんざる)(重要文化財

神厩舎は、神馬をつなぐ厩(うまや)である。昔から猿が馬を守るとされているところから、長押上には猿の彫刻が8面あり、人間の一生が風刺されている。中でも「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿の彫刻は有名。

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三神庫(さんじんこ)(重要文化財

上神庫・中神庫・下神庫を総称して三神庫と言い、この中には春秋渡御祭「百物揃千人武者行列」で使用される馬具や装束類が収められている。また、上神庫の屋根下には「想像の象」(狩野探幽下絵)の大きな彫刻がほどこされている。

唐門(からもん)(国宝)

全体が胡粉(ごふん)で白く塗られ、「許由と巣父(きょゆうとそうほ)」や「舜帝朝見の儀(しゅんていちょうけんのぎ)」など細かい彫刻がほどこされている。

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神輿舎(しんよしゃ)(重要文化財

春秋渡御祭(5月18日、10月17日)に使われる三基の神輿(みこし)が納められている。

祈祷殿(きとうでん)(重要文化財

祈祷が行われる。

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眠り猫(ねむりねこ)(国宝)

左甚五郎作と伝えられている。牡丹の花に囲まれ日の光を浴び、うたたねをしているところから「日光」に因んで彫られたとも言われている。

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門をくぐって急な階段を上って行くと奥宮である。

奥宮(おくみや)(重要文化財

拝殿・鋳抜門(いぬきもん)・御宝塔からなる御祭神(徳川家康)のお墓所である。

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東照宮は、徳川幕府の権力と財力の象徴と言っても過言ではない。

東照宮を後に輪王寺と反対側へ歩いていくと「二荒山神社」である。

二荒山神社

霊場としての日光の始まりは、下野国の僧・勝道上人(735~817)が北部山岳地に修行場を求め、大谷川北岸に天平神護2年(766)に紫雲立寺(現在の四本龍寺の前身)を建てたことに始まるとされる。そして二荒山神社の創建は、上人が神護景雲元年(767)二荒山(男体山)の神を祭る祠を建てたことに始まるとされる。この祠は現在の別宮となっている本宮神社にあたる。上人は延暦元年(782)二荒山登頂に成功し、そこに奥宮を建てて二荒修験の基礎を築いた。

二荒山神社は古来より修験道霊場として崇敬された。江戸時代になり幕府によって日光東照宮等が造営されると二荒山神社も重要視され、現在の世界遺産重要文化財指定の主な社殿が造営された。

社名は、観音菩薩が住むとされる「補陀洛山(ふだらくさん)」が訛ったものといわれ、後に弘法大師空海がこの地を訪れた際に「二荒」を「にこう」と読み、「日光」の字を当てこの地の名前にしたとする

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二荒山神社のすぐ奥には、徳川三代将軍・家光を祀った大猷院(たいゆういん)がある。

本殿への最初の門仁王門には金剛力士像が祀られている。

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次に「二天門」をくぐる。実に見事な装飾で当時の装飾技術の高さが感じられる。

正面の「大猷院」の文字は、後水尾天皇の筆によるものだという。

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次の「夜叉門」へ行く途中に「展望書」説明版があり「ここからのながめは、天上界から下界(人間の住む世界)を見下ろした風景を想像させます。」と書かれている。

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階段を上ると「夜叉門」である。

東西南北を毘陀羅(びだら)、阿跋摩羅(あばつまら)、鍵陀羅(けんだら)、烏摩勒伽(うまろきゃ)といった武器を持った色彩あざやかな夜叉が門を守っているところから、夜叉門とよばれる。牡丹の花が多く装飾されているところから牡丹門ともよばれる。

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そして「唐門」、大猷院の門のなかでは最も小さく、二脚門形式で金地板への浮彫や透彫金具などの装飾が施されている。

 

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大猷院は、家康の東照宮より目立たないようにとの家光の遺言により色の数を抑えて作られた。それが返って東照宮より落ち着きのある、おごそかな上品さを感じさせる。

大猷院を後に街道に戻る途中に勝道上人の像がそびえている。

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                                               奥の細道

                                             六 日光

「卯月遡日(ついたち)、御山(おやま)に詣拝す。往昔(そのかみ)、此御山を「二荒山(ふたらさん)」と書しを、空海大師開基の時、「日光」と改給ふ。千歳未来をさとり給ふにや、今此御光一天にかゝやきて、恩沢八荒にあふれ、四民安堵 の栖(すみか)穏(おだやか)なり。猶(なお)、憚(はばかり)多くて筆をさし置きぬ。

- あらたふと青葉若葉の日の光 -

四月一日、日光の御山に参詣した。昔この御山を「二荒山(にこうざん)」と書いたが、空海大師がここに寺を創建した時、「日光」と改められた。

それは千年先のことまでも見通してのことだろうか、今やこの日光東照宮の威光は広く天下に輝き、恵は国のすみずみまで行き届き、士農工商すべて安心して、穏やかに暮らすことができる。なお、書くべきことはあるが、畏れ多いのでこのへんで筆を置くことにする。

- あらたふと青葉若葉の日の光 -

黒髪山は霞かゝりて、雪いまだ白し。

- 剃捨(そりすて)て黒髪山に衣更(ころもがえ) - 曽良

曾良は河合氏にして惣五郎と云へり。芭蕉の下葉に軒をならべて、予が薪水の労をたすく。このたび松しま・象潟の眺共にせん事を悦(よろこ)び、且(かつ)は羈旅の難をいたはらんと、旅立暁(あかつき)髪を剃て墨染にさまをかえ、惣五を改て宗悟とす。仍て黒髪山の句有。「衣更」の二字、力ありてきこゆ。

黒髪山は春霞がかかっているのに、雪がいまだに白く残っている。

- 剃捨てて黒髪山に衣更(ころもがえ) - 曾良

曾良は河合という姓で名は惣五郎という。深川の芭蕉庵の近所に住んでいて、私の日常のことを何かと手伝ってくれていた。

今回、松島、象潟の眺めを一緒に見ることを喜びとし、また私の旅の苦労を慰めようということで、出発の日の早朝、髪をおろして墨染の衣に着替え、名前も惣五から僧侶風の「宗悟」とした。そういうわけで、この黒髪山の句は詠んだのである。「衣更」の二字には、いかにも力がこもっているようにおもわれる。)

先ほどは素通りした神橋に戻りしばし休憩。

神橋

勝道上人が日光山を開くとき、大谷川の急流に行く手を阻まれ神仏に加護を求めた際、深沙王(じんじゃおう)が現れ2匹の蛇を放ち、その背から山菅(やますげ)が生えて橋になったという伝説を持つ神聖な橋。別名、山菅橋や山菅の蛇橋(じゃばし)とも呼ばれている。

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傍らには与謝蕪村の句碑が置かれている。碑には

- 二荒や紅葉の中の朱の橋 (ふたあらや もみじのなかの あけのはし)- 

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芭蕉東照宮参詣の後裏見ノ滝を訪れている。芭蕉の跡をたどって国道を正面に男体山を見ながら中禅寺湖方面へ向かって歩く。

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30分程度行った「裏見の滝入口」のバス停の所から右へ県道195号が裏見の滝に向かってのびている。「裏見ノ滝2.5キロ」の標識が立っている。30分程歩くと道は急な遊歩道になり、遊歩道の先が裏見ノ滝である。

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昨年の台風19号で観滝台が壊れ、修理の最中で立ち入り禁止になっていた。

手前の橋から滝を見るしかない。

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廿余丁山を登つて滝有。岩洞の頂より飛流して百尺(はくせき)、千岩の碧潭(へきたん)に落ちたり。岩窟に身をひそめ入て、滝の裏よりみれば、うらみの滝と申伝え侍る也。

- 暫時(しばらく)は滝にこもるや夏の初(げのはじめ) -

(二十余丁山路を登ると滝がある。窪んだ岩の頂上から水が飛びはねて、百尺もあうかという高さを落ちて、沢山の岩が重なった真っ青な滝つぼの中へ落ち込んでいく。

岩のくぼみに身をひそめると、ちょうど滝の裏から見ることになる。これが古くから「うらみの滝」と呼ばれるゆえんなのだ。

- 暫時は滝に籠るや夏の初 -)

裏見ノ滝を後に国道に戻り安良沢小学校入口の坂を下ると「安良沢小学校」があり、校庭に芭蕉の句碑が置かれている。

- しばらくは滝にこもるや夏(げ)の初め -

と刻まれている。

「      松尾芭蕉句碑 四 

 しばらくは 滝にこもるや 夏の初 芭蕉翁 おくの細道 うらみのたき 吟

松尾芭蕉は、江戸前期の俳人伊賀上野の生まれ。名は、宗房。

桃青・泊船堂・釣具庵・風羅坊などの号を持つ。

元禄二年(一六八九年)日光浦見の滝へ立ち寄った時の句。「夏」とは、夏行・夏安居・夏籠などの略で、僧の修行のことをいう。碑は、小杉放菴の書で、昭和31年5月安良沢小学校創立記念に日光市と関係町内が建立。 日光市」と書かれた説明版が添えられている。

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更に坂を下ると「大日堂跡」の標柱が立っている。坂を下りると大日堂跡がある。

大日堂跡は輪王寺の飛び地境内で池のある美しい庭園であった。 

「    大日堂跡

往古は、この周辺を菩提が原(ぼだいがはら)と称し、大日如来の堂があった。慶安二年(一六四九)、大楽院の恵海がこれを再建。美しい池のある庭園の中に堂があり大日如来の石像が安置されていた。明治三五年九月の大洪水で総て流され現在は堂跡にいくつかの礎石を残すのみとなった。」(説明版)今は地蔵群を残すだけとなっている。

地蔵郡の一段下には芭蕉の句碑などが置かれている。

松尾芭蕉句碑 三

- あらとうと 青葉若葉の日の光里 -

大日堂詩碑

―^日の恵 そのほとほとの 花こころ - 東郷多知羅

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大谷川に架かるつり橋・大日橋を渡り、道標に従って大日川の渓谷・憾満ヶ淵(かんまんがふち)へ。

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10分程あるくと赤い帽子を被ったかぶったお地蔵様がずらりと並んでいる。憾満ヶ淵の並び地蔵である。

並び地蔵(化け地蔵)

慈眼大師天海(じげんたいしてんかい)の弟子100名が「過去万霊、自己菩提」のために寄進したもので列座の奥には親地蔵が置かれていた。霊庇閣(れいひかく)に一番近いやや大きめの石地蔵は「カンマン」の梵字を書いた山順僧正が奉納したものである。」(説明版より)

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憾満ヶ淵(かんまんがふち)

男体山から噴出した溶岩によってできた奇勝で古くから不動明王が現れる霊地といわれている。川の流れが不動明王真言を唱えるように響くので晃海大僧正が真言の最後の句の「カンマン」を取り、憾満ヶ淵と名付けたと言う。晃海大僧正は、この地に慈雲寺や霊庇閣、不動明王の大石像を建立した。往時は参詣や行楽の人で賑わった。元禄二年(1689)、俳聖「松尾芭蕉」も奥の細道行脚の途中に立ち寄っている。太谷川の対岸にある巨石の上にはかつて2メートルの不動明王の石像が置かれていたが、明治35年(1902)9月の洪水で流失した。」(説明版より)

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霊庇閣(れいひかく)

承応3年(1654)、慈雲寺総創建のとき、晃海大僧正が建立した四阿(あずまや)造りの護摩壇。

対岸の不動明王の石像に向かって天下泰平を祈って胡麻供養を行った場所である。

明治35年(1902)9月の洪水で流失した。その台座となっていた巨岩には「カンマン」の梵字が彫られていることが今も見ることができる。現在の「霊庇閣」は、昭和46年(1971)輪王寺により再建された。(説明版より)

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慈雲寺(じうんじ)

応3年(1654)、憾満ヶ淵を開いた晃海大僧正創建し、阿弥陀如来と師の慈眼大師天海を祀ったお堂。明治35年(1902)9月の洪水で流失した。現在の本堂は、昭和48年(1973)に復元された。

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憾満ヶ淵に別れを告げ日光街道に戻る。芭蕉一宿の碑についてみやげ物店の店主、輪王寺護摩堂の御朱印受付の女性などに聞いてみたが誰も知らないという。最後に日光観光協会で聞いてみたら、たった一人詳しく知っている人がいた。その人の話では個人宅の敷地内に句碑が置かれているという。芭蕉たちが泊まったのもそのお宅で当時は旅人宿を営んでいたそうだ。ご主人の了解を得て写真を撮らせていただくことにした。ご主人の話では「佛五左衛門」に関する資料は何も残っていないのだそうだ。

碑は二つあり、新しい碑は、芭蕉300年を記念して拓本を基に文字を1.5倍に拡大したものだそうだ。屋根付きの碑がオリジナル。説明版が添えられている。

「    松尾芭蕉句碑 一

日光山に詣 芭蕉桃青

 あらたうと 木の下闇も 日の光

此の真蹟大日堂の碑と異同ありて意味深長なりよって

今茲(こんじ)に彫り付けて諸君の高評をまつ 高野道文識

高野家は旧家で、道文氏は11代目、明治2年死去。奥の細道芭蕉が日光に来たときの句は、大日堂にある句碑の句だが、それと異なる句があるのに気付いた道文氏が不思議に思い、碑に刻んで残したものと思われる。芭蕉は日光の句を何回も推敲しており、その一つを手に入れたものであろう。 日光市」(説明版)

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「ふじや」さんで、湯葉をみやげに買って帰宅。

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日光線に乗るのも今日が最後になるだろう。

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奥の細道一人歩き 15 文挟宿-日光

14日目(2019年12月28日(土))文挟宿-日光

6時5分、浦和発の宇都宮線に乗り日光線・文挟に着いたのが8時23分。

例幣使街道に戻り歩きは始めるとすぐに「追分道標」があり「右・鹿沼 出流 岩船 左・大谷 田下 宇都宮 道」と刻まれている。

すぐ先の祠に「延命地蔵」が赤いセーターを着て座っている。

その先、街道は文挟の市街地に入るが早朝のことでもあり人影はない。以前は宿場町だったはずだがその面影もない。

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10分程歩くと「文挟町・二荒山神社」がある。横には「文挟宿郷蔵」があり説明版が立っている。「有形文化財(建造物)文挟宿郷蔵 江戸時代の元禄、天明天保等の大飢饉で日光神領の村々は、餓死者や倒産の家が多発した。このため、村民は共同で郷蔵を建て、不作の時に困らないように貯穀した。この文挟宿郷蔵は、江戸末期に栗材でしっかり建てられたもので、当時の稗(ひえ)も発見されている。農民共済の実をあげたこの郷蔵は、わずかに残っている貴重な建物である。(日光市教育委員会・説明版)

 

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ここから先は、杉並木(車道)の側道(歩道)を歩くことになる。

 

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10分程先には「聖徳太子」と刻まれた碑が立っている。その横に「岩見重蔵之碑」がある。剣豪、岩見重太郎の兄で父の仇討を果たそうとしたが返討ちにあってしまったというのだが・・・・。雪化粧をした日光連山が美しい。

 

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更に30分ぐらい歩くと如意観音が祀られた祠があり、「板橋の一里塚」と書かれた標柱が倒れていた。台風19号の被害を受けたのだろう。江戸・日本橋から30番目の一里塚である。この辺りから例幣使街道最後の宿場町板橋宿に入る。ここも旧宿場町の面影はない。

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5分程先の板橋の交差点の所に「栖克神社」がある。これは、正元(1504)年日光山の遊城坊綱清が板橋城を築城するとともに、城の鎮 守として建立したものだという。境内には本多正盛の墓がある。本多正盛は、同僚と争論になり、同僚は自害、本人も自刃したという。(説明版より)

 

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板橋の交差点から旧道に入っていくのだが、杉並木保護のため車両の乗り入れが禁止されている。非常にありがたい。

旧道に入って30分ばかり行くと「地震坂」と書かれた立て札他目に入る。

「昭和24年12月の今市を中心にした大地震による地すべりで杉並木が移動してしまった。  本来の街道はここより上を通っていた。」(説明版より)

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15分程先へ行くと「例幣使街道 室瀬一里塚」の標柱が立っている。江戸・日本橋から32番目、壬生街道(日光西街道)最後の一里塚である。

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一里塚から歩くこと約2時間、例幣使街道(壬生街道・日光西街道)は今市宿で日光街道に合流する。合流地点の追分には「追分地蔵尊」が祀られている。

境内には、「お地蔵さまとおサンヤサマ」と題した説明版がある。

「お地蔵さまは、大地に人間の力ではとうてい計り知れない力と知恵の倉を持っていると云われ、子育てや旅立ちの安全を願っておまいりされ、大勢の人から慕われてきました。地蔵盆日が月の二十四日です。

おサンヤサマは、二十三夜講と云われ、月待ち信仰の一つです。満月を中心に月の形がちょうど半分になる夜だからともお大師讃仰のためともいわれているが、娯楽機関の少なかった頃、信仰をかねて部落の女性が御馳走を持ち寄って集まり団らんにふけった日を言います。お地蔵さまもおサンヤサマも安産子育ての信仰であり供え物と線香を供え祈願しました。」(説明版より)

また、この追分地蔵には、つぎのような「伝説」がある。 「むかし大谷川の川原で石切職人が仕事をしていると、血に染まった地蔵尊を見つけた。驚いた石切職人は人々をよんで一先ず地蔵尊を小倉町の追分に安置したが、野天にさらしておくのは恐れ多いということで如来寺に移した。 町の人たちの参詣は昼も夜も絶えなかったが、そのうち夜遅く地蔵尊の前を通るとすすり泣きの声がきこえるという妙な噂たたった。「あの地蔵尊はにっこう憾満ヶ淵の親地蔵様が大水で流されて来たのだ。それで日光が恋しくてきっといろいろの不思議を起こすに違いない。元のように、小倉町の日光が見える所に安置したらよかろう」ということに決定し、さっそく地蔵尊は小倉町の追分に移されることになった。この伝説は「下野伝説集」取り上げられた。」(説明版より引用)

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追分地蔵から30分程歩くと右手に「報徳二宮神社」がある。二宮尊徳二宮金次郎)を祀った神社で神社の奥には二宮尊徳の墓もある。当然のことながら学業成就(合格)の神様である。

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小山・喜沢追分で別れた日光街道を再び歩く。15分ぐらい歩いた辺りが今市宿の中心のようである。明治元年創業の栃木県産味噌・醤油を販売する「日野為商店」なんかもある。

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15分程歩くと右手に「今市総鎮守 瀧尾神社」がある。ここは、天応二年(782)勝道上人が日光二荒山上男体山二荒山大神を祀ると同時にこの神社にも二荒山大神を祀ったのが始まりだそうだ。

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今市宿を抜けると杉並木を歩くことになる。日光に至るまでには、旧江連家が復元されている。

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杉並木を歩くこと1時間余り、やっとJR日光駅にたどり着いた。

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今日はここまで、JR日光線宇都宮線を乗り継いで帰宅。

奥の細道一人歩き 14 鹿沼宿-文挟宿

13日目(2019年12月24日(火))鹿沼宿-文挟宿

浦和から宇都宮線東武日光線を乗り継いで東武新鹿沼駅へ。

東武新鹿沼駅から壬生街道(日光西街道)に戻ると道は三叉路になっている。三叉路の真ん中に「二荒山神社」の小さな祠があり「鳥居跡(-とりいど-と読む)」の説明版が添えられている。

史跡・鳥居跡

奈良時代に勝道大上人が日光開山後、この地に四本の榎を植えたと伝えられ、鎌倉時代源頼朝が日光神領として寄進したとされる押原六十六郷の由緒あるこの地に、日光山の遠鳥居が建てられたと言われている。のち、その跡が地名となって鳥居跡(とりいど)となった。江戸時代の初め、鹿沼宿をつくる際、鳥居跡から分岐造成された新道が今の大通りである。」(説明版)

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すぐ先には、この地・蓬莱町の氏神イザナギイザナミを御祭神とした「白山神社」がある。内町通りを数分行くと雲竜寺で、山門を入ると胡麻堂があり、説明版によると縁日の旧一月十六日と七月十六日には随分賑わったのだそうだ。本尊の阿弥陀如来鎌倉時代の武将・宇都宮頼綱も崇拝したのだという。

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5分ばかり先には「薬王寺」があり山門を入ると徳川三代将軍家光の鎧塔が立て札と共に置かれている。この寺は徳川ゆかりの寺で「薬王寺縁起碑」には次のように書かれている。

「当山は、医王山阿弥陀薬王寺と称して真言宗智山派の寺院です。

鎌倉時代 亀山天皇の御代 弘長年間(今を去る700余年前)の創立で、御本尊は薬師瑠璃光如来です。伝教大師の御作で、昔時より、霊験あらたかな御本尊として 33年に1度 開扉されます。 江戸時代 後水尾天皇 元和3年(今を去る250有余年前) 僧正俊賀の時、徳川家康公の遺軆を 日光山に移埋する途次、4日間 滞在せられ、また、天海僧正 3代将軍家光公入柩の際も、その止宿となりました。~後略~」

また、境内には、七福神が祀られていて「招福・鹿沼七福神 七難即滅、七福即生」の説明版が添えられている。

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少し先の中町屋台公園に「中町屋台会館」があり、見事な彫刻が施された屋台が展示されているそうだが、まだ開館時間前で残念ながら入館はできなかった。

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ところが、街道を右へ5分程入った所の中央公園に「彫刻屋台展示館」があり、市の文化財に指定されている見事な彫刻屋台が3台展示されている。

管理人さんの話では、日光東照宮建築に当たり全国から腕のいい彫刻師が集められ、東照宮完成後は一家の次男、三男が東照宮のメンテナンスのため日光近くの町に住みついて彫刻の技術を後世に伝えたのだという。鹿沼の屋台はそういった彫刻師が作り上げたものだそうだ。

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屋台展示館の横にある「掬翠園」は、明治末期から大正初期にかけて造営され、当時「鹿沼の三名園」の一つと言われた日本庭園である。庭園内には茶室があり芭蕉の句碑が置かれている。句碑には

- 入あひのかねもきこへすはるのくれ - 風羅坊 と刻まれている。

(入逢の鐘もきこえず春の暮)

「俳聖松尾芭蕉が「奥の細道」の途上、元禄二年(一六八九)鹿沼に1泊した折の吟句とされ、碑銘は芭蕉の真蹟詠草(しんせきえいそう)で、風羅坊は芭蕉の別号でる。」と説明版に記されている。

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先へ進むと「今宮神社」がある。社歴によれば延暦元年(782)の創立で日光二荒山神社の分社的性格をもち、日光山鹿沼今宮権現と称した。 天文三年(1535)日光神領惣政所の地位にあった壬生綱房が、鹿沼築城と共に現在地に遷し、今宮権現と称して城の鎮守とした。 天正十八年(1590)豊臣秀吉の関東平定に伴い壬生氏滅亡後鹿沼宿の氏神となる。 徳川幕府から五十石の朱印地を拝領し、慶長13年(1608)3月今宮権現が現在見られるような優美な権現作りの社殿(県文化財指定)と整備された。

秋祭りには鹿沼の屋台がこの神社に集まり、夕方には町を練り歩くのだそうだ。

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今宮神社の前の道を30分ばかり行った雄山寺に「壬生義勇の墓」がある。

鹿沼城主(壬生家五代城主)、壬生上総介義雄(みぶかずさのすけよしたけ)は、豊臣秀吉の小田原を攻めるに際して、北條氏方に味方し、小田原城に入城するため進軍したが、天正十八年(1590)七月八日、酒匂川(さかわがわ)の陣中で、病死した。その後、家臣が当地に建てたのがこの墓である。

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街道に戻ってしばらく行くと戸張町に星宮神社がある。この神社は、古くから「虚空蔵尊(こくぞうさん)」として親しまれているこの土地の氏神である。本殿は一間社(いっけんしゃ)流造(ながれづくり:日本の社殿造り様式の一つ)で、本殿全体にはめこまれている彫刻は総欅(けやき)造りで見事なものである。(説明版から引用)

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星宮神社の交差点を右に入ってしばらく行くと右手に「川上澄夫美術館」がある。有名な「初夏の風」は、今は冬なので展示していないとのこと。タイトルの通り夏だけの展示だそうだ。(残念)

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先へ進もう。街道に戻りしばらく行くと「延命 塩なめ地蔵」の看板が目に入る塩をそなえて願をかけるのだろうか。

街道を進むと黒川に架かる「御成橋」を渡ることになる。例幣使街道は「お成り道」ともいうがこの橋もそこから名づけられたのだろう。

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御成橋を渡り切ると左手に成田山参道と書かれた標柱が立っている。階段を上ると不動尊が祀られている。「下野の国 成田不動尊」である。

先へ進むと左手にうっすらと雪化粧をした「男体山」が見える。

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30分ばかり歩くと杉並木が始まる。「日光杉並木街道」と刻まれた石碑に説明版が添えられている。

「並木寄進碑 今市市小倉 松平正綱公が杉並木を植栽して東照宮に寄進したことが記された石碑である。並木の起点となる神橋畔および各街道の切れる今市市山口(日光街道)同小倉(例幣使街道)、同大桑(会津西街道)の4カ所に立っている。この碑は日光神領の境界に立てられているので境石と呼ばれている。」(説明版)

松平正綱は、相模の国玉縄藩の初代藩主である。

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遊歩道を30分ほど歩くと道路を挟んだ反対側に「小倉の一里塚」がある。江戸・日本橋から29番目の一里塚である。

更に15分程行くとJR文挟駅である。

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芭蕉鹿沼宿に宿泊している。随行者の曽良鹿沼から鉢石(東照宮手前の宿場)までの行程を曽良日記に次のように書いている。

「昼過ヨリ曇。同晩、鹿沼(より火バサミ(文バサミ)ヘ弐リ八丁)ニ泊ル。(火バサミヨリ板橋ヘ廿八丁、板橋より今市ヘ弐リ、今市ヨリ鉢石ヘ弐リ)

1日の行程を曽良日記から計算すると八里、32キロということになる。こちらは1日に20キロも歩ければいいところなのだが・・・・。

今日はここまで。文挟から宇都宮経由で帰宅。

奥の細道 一人歩き 13 壬生宿-鹿沼宿

12日目(2019年11月18日(月))壬生宿-鹿沼宿

ひざを痛めたり、腰痛に悩まされたり、猛暑だったりで「奥の細道一人歩き」の再開は11月になってしまった。

JR宇都宮線東武日光線東武宇都宮線を乗り継いで壬生駅へ。

壬生街道へ戻る前に駅から10程の所にある「縄解地蔵」に行ってみた。

「お堂に安置されているお地蔵さまは、縄解地蔵と呼ばれ日本三体地蔵尊の一つといわれている。言い伝えによれば、正歴年間(九九〇~九九四年)京都壬生寺を開山した快賢僧都が、霊夢を感じ一本の木で三体の地蔵尊を仏師定朝に彫刻させた。

その三体とは、

当初は、三体とも京都壬生寺に安置されていたが、壬生に初めて城を築いた小槻彦五郎胤業(おつきのひこごろうたねなり)が、この地に下向する際、夢枕にお地蔵さまが立ち「我は、縄解地蔵という縄解とは、人の生をこの世にうけ、母胎より生ずるときへその緒をやすやすときり赤子を出産させることをいう。出産の後、罪を犯し縄目の辱めを受けるとも前非を悔い改め、我を信心すればたちどころに罪障消滅して仏果(成仏という結果)得さしめるものなり。汝もし我を伴いて壬生に至り、小槻改め壬生氏を名乗らば開運疑いなし」とお告げがあった。信心深い胤業は、この夢に従って縄解地蔵尊を奉じて下野の国壬生にやってきた。

以後、壬生氏を名乗るようになり厚く信仰した。名称にある「縄解」から、無実の罪を晴らしてくれると古来より庶民の信仰をうけ子授、安産、子育て、開運、冤罪、特に子供の守護仏として霊験あらたかなりと近郷、近在の信仰を集めている。~後略~」(日本三体縄解地蔵尊由来より)

壬生氏を名乗った小槻彦五郎胤業(おつきのひこごろうたねなり)は、後にこの地壬生に城を築いている。

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さて、壬生街道に戻り、しばらく行くと「蘭学通り」である。

壬生町の大通り(正式名:日光道中壬生通)は、実学を奨励した壬生藩主鳥居忠挙がこの地に蘭学を導入し、多くの蘭学者を輩出したことにちなんで「蘭学通り」と命名したものです。」と書かれた説明版が立っている。

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数分歩くと「松本脇本陣」の門が見える。ここは今でも住居となっているようだ。その先には「本陣」の門が残されているという事であったが自転車屋さんのご主人の話では今は取り壊されてしまったそうである。先に行くと「壬生宿本陣・松本家」の説明版が立っている。

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先へ進み、足利銀行を左に入って数分行くと「壬生城址公園」である。

この城は、文明年間(1469~1487)壬生氏第二代・壬生綱重によりに築城されたものであって、小槻彦五郎胤業が壬生氏を名乗って築城した城(壬生古城)ではない。壬生城は約100年間壬生氏の居城であったが後に北条氏に味方していたため、天正十八年(1590)の豊臣秀吉による小田原征伐で、北条氏とともに滅亡した。

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壬生城址の左奥には精忠神社がある。この神社は代々壬生藩主であった鳥居家の先祖・鳥居元忠を祀った神社である。元忠は、関ケ原の合戦の前哨戦として知られる「伏見城の戦い」で孤軍奮闘の末自刃した強者である。神社の奥には元忠自刃の際に血の付いた畳を埋めた「畳塚」がある。神社の傍には「従是 南 下野の国都賀」の碑が置かれている。

鳥居元忠は、1600年の関ヶ原の戦いに先立ち、徳川家康の命により伏見城を守った。石田三成方の大軍を引き受けてよく戦ったが、約1ヶ月の攻防戦の末、元忠は伏見城にて自刃した。この元忠の忠義を称賛した家康は、自刃の際に血に染まった畳を、江戸城の伏見櫓の階上に置き、登城する大名に元忠の忠義を偲ばせたと言われている。  その後、明治になって江戸城が明け渡されると、ゆかりの深い現在の地に納められ、「畳塚」と称えてその上に記念碑が建立された。」畳塚説明版より

ちなみに「伏見城の戦い」で戦死した元忠軍・兵士の血の付いた床が「京都大原・宝泉院」の天井に張られ「宝泉院の血天井」といわれている。

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街道に戻り、すぐ先に代々藩医として仕えた石崎家の「長屋門」がある。この門は嘉永六年(1853)の伊勢屋火事で母屋と共に焼失したが万延元年(1860)に立てなおされたと説明版に記されている。

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すぐ先には興光寺がある。ここは慶安四年(1651)三代将軍徳川家光の遺骨を日光山に送納する際、この寺に安置され通夜が行われた。この時、幕府から葵の紋が贈られ、家光の位牌もある。

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その先には標柱があり「脇本陣並びに通町問屋場跡」と記されている。道路の向かい側には天然痘予防の為種痘を行った壬生藩・藩医「齋藤玄昌宅跡」の碑が立っている。

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さらにその先の「常楽寺」には「壬生家歴代の墓」「鳥居家累代の墓」がある。

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更にその先には壬生寺があり「慈覚大師産湯井」がある。産湯に使われた井戸からの水は1200年を経た今も清水が湧き出ている。境内の大イチョウも見事である。

「当山は古来より 慈覚大師円仁の誕生した聖跡 として広く世に知られている。 江戸時代の貞享三年(1686)日光山輪王寺の 門跡天真親王が日光への道すがら、慈覚大師の旧蹟が荒 廃しているのを嘆き、時の壬生城主三浦壱岐守直次に 命じて、大師堂を建立し、飯塚(現小山市)の台林寺を その側に移建して別当とした。

幕末の文久二年(1862) 大師一千年遠忌 に当り 日光 山輪王寺 慈性法親王 により、大師堂の改修が行われた。~後略~」(紫雲寺 壬生寺の由来より)

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しばらく行くと県道との交差点があり、ここからは左右に田園風景を見ながらののんびりとした街道歩きとなる。道の左側にせせらぎが流れ、道の傍らには馬力神などもある。

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50分ばかり歩くと田んぼの中に祠があり「金売り吉次の墓」と記された説明版が添えられている。文字が薄くなっているが微かに読みれた。

「吉次は奥州・平泉へ逃れる義経の伴をしてここ稲葉まできたが、病に倒れこの地で生涯を終えた。」(説明版より)

金売り吉次

平家物語」「平治物語」「源平盛衰記」「義経記」に金商人として描かれているが実在の人物であるかは定かではない。鞍馬山義経と出会った吉次は、奥州藤原氏の当主・藤原秀衡との間を取り持つ極めて重要な役割を果たす。

1966年のNHK大河ドラマの第4作「源義経」(原作:村上元三)では、加藤大介という俳優さんが演じていた。ちなみに源義経尾上菊之助(現七代目尾上菊五郎)、静御前藤純子(現富司純子)、武蔵坊弁慶緒形拳・・・・結構懐かしい。

曽良日記には「壬生ヨリ楡木ヘ二リ。ミブヨリ半道バカリ行テ、吉次ガ塚、右ノ方廿間バカリ畠中ニ有。」と書かれている。芭蕉曽良と共にこの墓を見たのだろう。

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しばらく歩くと一里塚が目に入る。江戸・日本橋から24番目「稲葉の一里塚」である。

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一里塚を後に路傍の馬力神や梅林天満宮、金毘羅離宮を左右に見ながら街道を歩く。

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40~50分歩くと古墳が左の田んぼの中に見えてくる。「判官塚古墳」呼ばれる前方後円墳の古墳である。

「この古墳は、源九郎判官義経が奥州へ向かう途中に冠を埋めたので冠塚とも呼ばれるなど、幾つかの伝説を秘めています。」(鹿沼市教育委員会 説明版より)

この先、平泉までの奥州路には源義経にまつわる伝説、逸話などと度々出会うことになるだろう。

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さらに10分ぐらい先にあるのが江戸・日本橋から25番目の「北赤塚の一里塚」である。

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ここからほんのわずかだが杉並木を歩く。「名残の杉並木」である。

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10分程先の小学校を左に入った所に「磯山神社」がある。この神社は、三代将軍徳川家光より御朱印地を附せられてより、代々の将軍からも同待遇を受けた。寛文二年(1662)建立の本殿が県指定重要文化財に指定されている。

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20分程歩くと壬生街道(日光西街道)(国道352号)は、中山道倉賀野宿を起点とする例幣使街道(国道293号)と合流する。楡木追分である。追分の交差点には「追分道標」が置かれている。

例幣使街道(れいへいしかいどう)は、江戸時代の脇街道の一つで、東照宮に幣帛を奉献するための勅使(日光例幣使)が通った道のことである。中山道倉賀野宿を起点とし、太田宿、栃木宿を経て、楡木宿で壬生街道(日光西街道)と合流して日光へ至る。楡木から今市までは壬生街道(日光西街道)と重複する。

曽良日記には、「ニれ木ヨリ鹿沼へ一リ半。」と書かれている。

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少し行くと右手に成就院があり、栃木県県指定天然記念物の枝垂赤西手(しだれあかしで)という変わった木が植わっている。この木は楡木の東にある長沼で発見され、ここに納められたものだそうだ。

500メートル程先へ行くとバス停に「奈佐原」と書かれている。この辺りが壬生宿と鹿沼宿の間の宿「奈佐原宿」なのであろう。

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少し先に「奈佐原文楽の収納庫」があり3人遣いの人形が収められている。

説明版には「栃木県に現存する唯一の3人遣い人形浄瑠璃です。」と書かれている。

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ここから先、東武新鹿沼駅まで歩き帰宅。