奥の細道一人歩き 22 黒羽 3

20日目(2020年3月17日(火))

那須塩原駅・始発のバスに乗り篠原公民館前のバス停で降り、田んぼ道を15分余り歩いて「玉藻稲荷神社」へ。

芭蕉は、桃雪の案内で「犬追物跡」、「玉藻稲荷神社」を訪れている。「奥の細道」に「那須の篠原を分けて、玉藻の前の古墳を訪う。」と書いているように、今では田園風景が開けているが、当時は篠をかき分け、かき分け歩いたのであろう。

「篠原玉藻稲荷

ここは、お稲荷さんと称される作神さまと玉藻の前(九尾の狐)の心霊とを祭った由深い社である。宝前の社伝改建記念碑と石の鳥居の柱にいわれなどが記してある。 建久四年(一一九三)源頼朝那須遊猟のとき、この社に参詣したという伝えがある。また元禄二年四月十二日(陽暦五月三十日(一六八九)松尾芭蕉は、この篠原の地を訪れている。『おくのほそ道』に「ひとひ郊外に逍遥して、犬追物の跡を一見し那須の篠原をわけて、玉藻の前の古墳を訪う。」とある。 境内に芭蕉の句碑「秣(まぐさ)おふ・・・・」源実朝の歌碑「武士(もののふ)の矢並つくろふ・・・・」がある。また九尾の狐退治の伝承地としての「鏡が池」と狐塚の霊を移したという祠がある。なお狐塚跡は、ここより北東の地の県道沿いにある。 芭蕉の里 黒羽)(説明版)

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説明版の通り、すぐ前に朱の鳥居をくぐると、その先に石の鳥居があり、傍らに芭蕉の句碑と源の実朝の歌碑及び説明版がある。

「秣(まぐさ)おふ 人を枝折の 夏野かな」(芭蕉句碑)

「武士(もののふ)の矢並み(やなみ)つくろふ小手の上に 霰たばしる那須の篠原」

源実朝歌碑)
「鎌倉第三代の征夷大将軍、右大臣源実朝は承久元年正月(1219)拝賀の礼を鶴岡八幡宮に行い、帰途公暁(くぎょう)に殺され、28歳にして劇的な死を遂げる。後世の人々は将軍右大臣実朝としてよりも、悲劇の歌人実朝として不朽の名を称える。実朝は、14歳のときより歌を詠み、万葉集古今集新古今集を愛読した。特に万葉集は重宝として賞翫(※しょうがん:そのもののよさを楽しむこと。珍重すること。)また、中央歌壇の巨匠藤原定家に教えを受け、歌を愛する武士との結びつきも、不朽の業をなす基となった。実朝の歌は各種の歌集にのせてあるが、「金槐和歌集」は実朝の歌集として名がある。この歌集に「霰(あられ)」と題して、
もののふの矢並み(やなみ)つくろふ小手の上に 霰たばしる那須の篠原(しのはら)
が入集している。これは歌枕「那須の篠原」を詠んだ歌で、万葉調でしかも実朝の歌境がよく表現されている。賀茂真渕も「人麿のよめらん勢ひなり」と称えている。
芭蕉の里 黒羽」(説明版)

説明版にあるように、「那須の篠原」は歌枕の地である。

実朝の他に藤原信実も歌を詠んでいる。

「みち多き那須野のみ狩りの矢さけびにのがれぬ鹿の声ぞ聞こゆる    藤原信実

この地は、古来は狩場として、武士の世になってからは武術や馬術の鍛錬する場所として知られたのだが、細い道が多く草むらが広がっていたのだそうだ。。

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石の鳥居の奥には、狐塚の霊を移したという祠がある。また、右横には、九尾の狐退治の伝承地としての「鏡が池」があり、説明版が添えられている。

「八溝県立自然公園 鏡が池
三浦介義明が九尾の狐を追跡中、姿を見失ってしまったが、この池のほとりに立ってあたりを見まわしたところ、池の面近くに伸びた桜の木の枝に蝉の姿に化けている狐の正体が池にうつったので、三浦介は難なく九尾の狐を狩ったと伝えられ、これが鏡が池と呼ばれるようになったという。」(説明版)残念ながら池の水は枯れていました。

玉藻の前伝説

平安時代の後期、鳥羽上皇の時代に玉藻の前という才色兼備の美女が条項に仕えていた。上皇は玉藻の前を寵愛し、やがて病に伏せるようになる。公卿たちは玉藻の前に原因があると怪しみ陰陽師に占わせたところ、玉藻の前は、むかし中国の周の幽王の妃・褒姒(ほうじ)となって周を滅ぼし、殷王朝末期の紂王の妃・妲己(だっき)となって殷を滅ぼすなど悪事を重ねた金毛白面の九尾の狐の化身であることがわかった。正体を見破られた九尾の狐は逃亡し、行方をくらませる。その後、那須野で発見され、武士の三浦介義明、千葉介常胤、上総の介広常により討伐される。
九尾の狐の怨霊は殺生石となり、近づく人間や動物等の命を奪い、人々を恐れさせた。
玄翁和尚が殺生石となった玉藻前の怨霊を鎮めたという後日談が謡曲となっている。

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玉藻稲荷神社を後に45分ばかり歩くと「犬追物跡」である。(芭蕉とは逆ルートになってしまった。)

「近衛帝の中寿年中、勅を奉じて三浦介義明、千葉介常胤、上総の介広常が、玉藻の前が狐と化したて逃げて那須野に隠れ棲んでいるのを退治するために犬を狐にみたてて追い射る武技を行った跡という。俗に「犬追物跡」または「犬射の築地(いぬしゃのついじ)」の名があり、側に「犬追馬場跡」とか「犬射馬場」と称せられているところがある。

松尾芭蕉は元禄二年四月十二日(陽暦五月三十日一六八九年)浄法寺桃雪の案内で「犬追物跡」を一見した。おそらく、犬追物の史話より謡曲殺生石」に興味を覚えたからであろう。

曲によれば「三浦の介、上総の介に綸旨をなされつつ、那須野の化生の者を退治せよとの勅を受けて、野干(やかん)は犬に似たれば犬にて稽古あるべしと百日犬をぞ射たりける。これ犬追物の初めとかや」とある。」(説明版)

昔、那須野は草原で狩りに適した土地であったので、弓が発達し、土塁を築いて囲いを設け、その中に犬を放して、馬上から矢を射って射止める犬追物がさかんに行われたのであろう。

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謡曲殺生石

玄翁という高僧が下野国那須野の原(今の栃木県那須郡那須町)を通りかかる。ある石の周囲を飛ぶ鳥が落ちるのを見て、玄翁が不審に思っていると、ひとりの女が現れ、その石は殺生石といって近づく生き物を殺してしまうから近寄ってはいけないと教える。玄翁の問いに、女は殺生石の由来を語りだす。

「昔、鳥羽の院の時代に、玉藻の前という宮廷女官がいた。才色兼備の玉藻の前は鳥羽の院の寵愛を受けたが、狐の化け物であることを陰陽師の安倍泰成に見破られ、正体を現して那須野の原まで逃げたが、ついに討たれてしまう。その魂が残って巨石に取り憑き、殺生石となった」、そう語り終えると女は玉藻の前の亡霊であることを知らせて消えていく。

玄翁は、石魂を仏道に導いてやろうと法事を執り行う。すると石が割れて、野干(やかん)(狐のこと)の精霊が姿を現します。野干の精霊は、「天竺(インド)、唐(中国)、日本をまたにかけて、世に乱れをもたらしてきたが、安倍泰成に調伏され、那須野の原に逃げてきたところを、三浦の介(みうらのすけ)、上総の介(かずさのずけ)の二人が指揮する狩人たちに追われ、ついに射伏せられて那須野の原の露と消えた。以来、殺生石となって人を殺して何年も過ごしてきた」と、これまでを振り返る。そして今、有難い仏法を授けられたからには、もはや悪事はいたしませんと、固い約束を結んだ石となって、鬼神、すなわち野干の精霊は消えていく。

さて、次は「狐塚跡」へ。途中東山道との追分に「奥の細道」の道標と馬頭観音が置かれていた。

狐塚跡は、玉藻稲荷神社の説明版の通り県道沿い、「篠原堺」のバス停の近くにあった。

この塚は、「元々は「古塚」だったのを、九尾の狐の伝説の篠原にあるから狐塚と書くようになり、隣村との境界論に大岡裁きで篠原の勝訴となった。」(那須郡誌より)

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昔は、現実の中にフィクションが溶け込んでいたという事なのだろう。

さて、追分まで戻り田園風景の中を行くと道は西野間で奥州街道に出会う。奥州街道をしばらく行くと樋沢神社があり、境内には葛籠石(つづらいし)なるものが置かれていて説明版が添えられている。

「葛籠石・八幡太郎義家愛馬蹄跡

ここ葛籠石・八幡太郎義家愛馬蹄跡にまつわる言い伝えは、樋沢に古くから残っている。

後三年の役(一〇八三~一〇八七)で陸奥に向かう八幡太郎義家(源義家)が樋沢村にさしかかったとき、ふと小高い丘にお宮があるのを見て軍勢を止めた。よく見るとそれは源氏の氏神である八幡神社であった。義家は戦勝祈願にと、馬で一気に丘を駆け上がった。あまりの勢いに、境内にあった巨石の上に馬の前脚が乗ってしまい、蹄の後がくっきりと刻みつけられたという。また、このときすぐ脇にあるもう一つの巨石が葛籠(「づづらふじ」で編んだ着物を入れる箱型のかご)似ていることから、義家の葛籠石と名付けられたと伝えられる。以後、巨石信仰の場、伝説の地として今日まで大切に守られてきた樋沢村の文化財である。」(説明版)

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5分程先にある愛宕神社(鍋掛神社)の境内に鍋掛の一里塚の碑があり、横に説明版が立っている。

奥州街道(奥州道中)の鍋掛愛宕峠(なべかけあたごとうげ)に築かれた一里塚で、江戸日本橋から41里(約161キロメートル)、41番目の一里塚である。この塚は平成6年(1994)3月まで往時のものが現存していたが、街道整備のため現在地に移築された。かつては東側にもう一基、対となる塚が存在したが、昭和40年代に赤土採取のため消失した。 この奥州街道鍋掛の一里塚は、野間大野家文書(のまおおのけもんじょ)によれば、慶長9年(1604)に樋沢(ひざわ)村と鍋掛村の間の愛宕峠に築かれたという記述がある。当時は峠道であったために、現在は道路から高い所に位置している。」(那須塩原市HP)

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一里塚から30分程歩くと「清澄地蔵」がある。

この地蔵の建立は延宝七年(1679)。当時の宿場の生活は決して楽ではなかったと思われるが人々の信仰の強さを物語る大きな地蔵である。清川地蔵は、子育て地蔵として地元民の信仰が厚かった。(説明版より)

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5分程歩くと」八坂神社の境内に芭蕉の句碑があり説明版が添えられている。

猿田彦」「初市神」も祀られている。

芭蕉の句碑

松尾芭蕉が元禄2年(1689)3月に「奥の細道」行に旅立ち、4月16日黒羽(大田原市)から高久(那須町)に向かう途上、手綱(たづな)をとる馬子(まご)が一句を所望(しょもう)したことから詠んだ句を碑にしたものである。

「野を横に 馬牽(うまひき)きむけよ ほととぎす」

この句はどこで詠んだかは不明だが、余瀬(大田原市)と野間(那須塩原市)の間の原野であろうといわれる。

句碑は、文化5年(1808)10月に鍋掛宿の俳人菊池某ほか数名が建てたもので、台石にその建立者名が刻まれている。初めは鍋掛宿南方の愛宕神社にあったが、後に湯街道沿いに移され、さらに現在地に移された。昭和43年(1968)に中央の破損箇所が修理された。平成5年(1993)3月、街道景観形成事業により句碑の位置が少し変わり、句碑の景観も現在のようになった。」(那須塩原HPより)

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また、「鍋掛宿から各宿の里程」がガラスのケースに収められている。

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先の那珂川に架かる昭明橋を渡り5分程行くと「浄泉寺」がある。

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浄泉寺の境内に説明版と共に黒羽領境界石が置かれている。

奥州街道黒羽領の隣の鍋掛宿は幕府領であったため、黒羽藩主大関増業(おおぜきますなり)が領地の境を明確にするため境界石を建立した。

境界石には「従此川中東黒羽領」と刻まれている。背面には「於摂州大坂作之西堀小島屋石工半兵衛」と刻まれている。これらは大関増業が大阪城勤務の頃に大坂で作り黒羽藩に運ばれたと伝えられている。

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この後は黒磯まで歩き帰宅。

奥の細道 一人歩き 21 黒羽 2

常念寺から堂川プロムナードと名付けられた道を歩き那珂川を渡って対岸をしばらく行くと大雄寺である。

黒羽山 大雄寺

室町期の様式を今に伝える総萱葺き屋根の禅寺で600年以上の歴史を持ち本堂・庫裡・禅堂・回廊・総門・鐘楼堂・経蔵などの伽藍は、国重要文化財指定を受けている。

草創は、今から600年前、応永十一年(1404)余瀬白旗城内に創建されたが、戦乱の中、大雄寺焼失、その後文安五年(1448)黒羽藩主第 10代大関忠増により再建、その後、大田原藩大田原資清との争いで第13代大関増次が敗死、大関家の後継第14代高増(大田原資清の子)により、天正四年 (1576)に本拠黒羽城を余瀬白旗城から現在の地に移築した。(太田原市観光案内より)

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庭園には「石佛十六羅漢像」が奉安されている。

また、写経・一石一字経の納経所、石仏合掌観音像がある。毎年12月18日観音祈願会の法要を行い、一年間の写経・一石一字経を納めるのだそうだ。

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大雄寺の隣が浄法寺桃雪(浄法寺図書高勝)邸跡である。芭蕉曽良は元禄二年四月四日に浄法寺図書に招かれ数日この屋敷に逗留した。

曽良の「俳諧書留」には、

「秋鴉主人の佳景に対す

 - 山も庭にうごきいるゝや夏座敷 -

 浄法寺何がしは、那須の郡黒羽のみたちをものし預り侍りて、其私の住ける方もつきづきしういやしからず。
地は山の頂にささへて、亭は東南のむかひて立り。奇峰乱山かたちをあらそひ、一髪寸碧絵にかきたるようになん。水の音・鳥の声、松杉のみどりもこまやかに、美景たくみを尽す。造化の功のおほひなる事、またたのしからずや。

 しら河の関やいづことおもふにも、先、秋風の心にうごきて、苗みどりにむぎあからみて、粒々にからきめをする賤がしわざもめにちかく、すべて春秋のあはれ・月雪のながめより、この時はやゝ卯月のはじめになん侍れば、百景一ツをだに見ことあたはず。たゞ声をのみて、黙して筆を捨るのみなりけらし。」

と記されている。(秋鴉は図書高勝の号)

屋敷跡には、芭蕉の句碑連句碑が置かれている。

句碑には

- 山も庭にうごきいるゝや夏座敷 -

歌仙碑には

芭蕉翁、みちのくに下らんとして、我蓬戸を音信て、猶白河のあなたすか川という所に

とどまり待ると聞て申つかはしける。

- 雨晴れて栗の花咲跡見哉(あめはれてくりのはなさく あとみかな - 桃雪

- いづれの草に啼おつる蝉(いずれのくさに なきおつるせみ) - 等躬

- 夕食くふ賤が外図に月出て(ゆうげくう しずがそとにも つきいでて)- 芭蕉

- 秋来にけりと布たぐる也 (あききにけりと ぬのたぐるなり) - 曽良

と刻まれている。

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浄法寺桃雪邸跡から芭蕉公園・芭蕉の広場へ続く道は竹林の遊歩道となっている。

その入り口に「行く春や鳥啼魚の目は泪」の句碑が置かれている。

すぐ先には「史跡 黒羽城跡 黒門跡」の碑が立っていて奥に芭蕉の句碑が置かれている。「田や麦や 中にも夏の ほととぎす 芭蕉桃青翁」の句が刻まれている。

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芭蕉の広場には「奥の細道」の-那須の黒ばねと云所に知人あれば、是より野越にかかりて、直道をゆかんとす。~独(ひとり)は小姫にて、名をかさねと云。聞きなれぬ名のやさしかりければ、 - かさねとは八重撫子の名成べし - 曽良 

頓て(やがて)人里に至れば、あたひを鞍つぼに結び付て、馬を返しぬ。-の文学碑があり、「鶴鳴くや 其(その)声に芭蕉 やれぬべし 芭蕉翁」の句碑が置かれている。

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正面には、馬に乗った芭蕉と共の曽良の像が置かれていてその横には

那須の黒羽という所に知人あれば」とて松尾芭蕉は「おくの細道」行脚の途次黒羽を訪れた。元禄二年四月三日のことである。途中那須野路にさしかかった折、草刈る男の馬を借りた。その跡慕う小姫を曽良は-かさねとは八重撫子の名成るべし-と呼んでいる。

翁は浄法寺図書、鹿子畑翠桃兄弟の厚遇を受け、十三泊十四日の長期逗留の間に、郊外に逍遥しては歴史・傳統の地を訪ね寺社に詣でて句を残し、あるいは地元の俳人たちと歌仙の興行があるなどして、心楽しい日々を過ごした。そうして黒羽を立った日に

- 野を横に 馬牽むけよ ほととぎす -の馬上吟があった。これらのことにちなみ、ここに馬上姿の芭蕉翁と曽良の像を建立し、千歳お形見として敬仰する者である。

平成元年十月二十一日 黒羽町 芭蕉像をつくる会」と刻まれた文学碑が置かれている。

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芭蕉の館」は新型コロナウィルス感染拡大防止のため休館で残念ながら中へは入れなかった。この後、黒羽神社下から雲巌寺まではバスに乗ることにする。

バス停へ行く途中、せせらぎに「道と川百選 芭蕉の里大宿街道」の碑が立っている。

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雲巌寺

平安時代後期の大治年間(1126年-1131)に初叟元(しょ そうげん)和尚によって開山され、後に後嵯峨天皇の皇子、高峰顕日(仏国国師)により復興せれ、弘安六年(1283)鎌倉時代の執権・北条時宗の後援を受け寺運は大いに栄えた。筑前の聖徳寺、越前の永平寺紀州興福寺と共に禅宗の四大道場に数えられていた。

芭蕉は四月五日、この地を訪れている。

           奥の細道 九 雲岩寺

当国雲岸(岩)寺のおくに、佛頂和尚山居跡有。

- たて横の五尺にたらぬ草の庵 むすぶもくやし 雨なかりせば -
と、松の炭して岩に書付侍りと、いつぞや聞え給ふ。其跡みんと雲岸寺に杖を曳ば、人々すゝむで共にいざなひ、若き人おほく道のほど打さはぎて、おぼえず彼麓に到る。山はおくあるけしきにて、谷道遙に、松杉黒く苔したゞりて、卯月の天今猶寒し。十景尽る所、橋をわたつて山門に入。さて、かの跡はいづくのほどにやと、後の山によぢのぼれば、石上(せきじょう)の小庵岩窟にむすびかけたり。妙禅師の死関、法雲法師の石室(せきしつ)をみるがごとし。

- 木啄も庵はやぶらず夏木立 - と、とりあえぬ一句を柱に残侍し。

芭蕉は、この寺に庵を結ぶ佛頂和尚と親交があった。「このような縦横五尺にも足りない庵でも雨さえ降らなければ必要ない。住まいに縛られずに生きたいと思っているのに残念なことだ。という歌を炭で岩に書いた。」と便りをもらっていたのでその跡を見たいと思い雲巌寺を訪れたという。

「松の炭して」は、「夜やうやうに明けなんとするほどに、女がたよりいだす盃のさらに、歌を書きいだしたり。とりて見れば、- かの人の渡れど濡れぬえにしあれば -と書きて末はなし。その盃のさらに続松の炭して、歌の末を書きつぐ。- またあう坂(逢坂)の関はこえなむ -とて、明くれば尾張の国へこえにけり。」(伊勢物語第六十九段より)の引用ということだが・・・・。

さて、雲巌寺の左手に、奥の細道「雲岩寺」の項を刻んだ碑が置かれており、武茂川に係る朱塗りの橋を渡って山門を入ると左手に、

- たて横の五尺にたらぬ草の庵 むすぶもくやし あめなかりせば - 仏頂禅師
- 木つつきもいほはやぶらず夏こだち - 芭蕉

と刻まれた仏頂和尚と芭蕉の句碑が置かれている。

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16時20分のバスに乗り那須塩原経由で宇都宮へ、今日は宇都宮・リッチモンドホテルに宿泊。

雲巌寺は、小雪が舞う寒さであった。そこで一句、

- 雲巌寺 冬の名残か 風の花 - お粗末。

奥の細道 一人歩き 20 黒羽 1

19日目(2020年3月16日(月))黒羽 1

JR西那須野駅からバスに乗り八幡神社前バス停で下車。

しばらく歩き余瀬入口の交差点を左折すると左右に田園風景が広がる。

15分ばかり歩くと「おくのほそ道」の碑が置かれていて「松尾芭蕉と余瀬地区」と書かれた説明版が添えられている。

松尾芭蕉と余瀬地区

 元禄二年(1689)に江戸を発った俳聖松尾芭蕉は、弟子の曽良とともに『おくのほそ道』の旅の途中、黒羽の地を訪れた。ここ旅程最も長い14日間滞在し、知人や多くの史跡を訪ね、次に向かう「みちのく」の地への準備期間として過ごした。宿泊先は、江戸において芭蕉の門人であった黒羽藩城代家老浄法寺高勝(じょうほうじたかかつ)(号・桃雪)宅と、その弟鹿子畑豊明(かのこはたとよあき)(号・翠桃)宅であった。(後略)」(説明版より)

余瀬は、むかし源頼義、義家父子が奥州遠征の途中、この辺りで白旗を翻して軍勢を集めたことことで「よせ」という地名が付いたのだそうだ。

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                                 奥の細道 八 黒 羽

黒羽の館代浄法寺何がしの方に音信る(おとるづる)。思ひがけぬあるじの悦び、日夜語りつづけて、其弟桃翠(翠桃?)など云うが朝雄勤とふらひ、自らの家にも伴ひて、新属の方にもまねかれ、日をふるままに、日とひ郊外に逍遥して、犬追物(いぬおふもの)の跡を一見し、那須の篠原をわけて、玉藻の前の古墳をとふ。よれより八幡宮に詣。与市(与一)扇の真とを射し時、「別しては我國氏神正八まん」とちかひしも、此神社にて侍と聞ば感応殊(ことに)しきりに覚えらる。暮れば桃翠宅に帰る。

修験光明寺と云有。そこにまねかれて、行者堂を拝す

- 夏山に足駄を拝む首途哉 - なつやまにあしだをおがむかどでかな

光明寺には役の行者のものと伝えられる下駄が安置されている。芭蕉はその下駄を拝みみちのくへの旅の無事をも祈った。)

(黒羽の城代家老、浄坊寺何某を訪ねる。突然の来訪ではあったが、主人の喜びは大変なもので、日夜語り続け、その弟・桃翠という者が朝な夕なに、なにかと面倒を見てくれ、また、自分の家にも招いてくれたり、親戚の家にも招かれたりといった具合で幾日かを過ごした。ある日、郊外に散策し、昔の犬追物の跡を見学し、那須の篠原を分け入り、玉藻の前の古墳を訪ねた。                             そそのあとは八幡宮に参詣し、「那須与一が、壇ノ浦で平家の扇の的を射た時、『わけてもわが生国の氏神正八幡よ』と祈ったのが、この神社です」と聞き、感嘆することしきりであった。                                     やがて日が暮れたので、その日は桃翠宅へ戻った。修験光明寺という寺があり、そこに招かれ、行者堂を拝んだ。)

 

                                      曽良日記

同三日(四月三日) 

快晴 。辰上尅、玉入ヲ立。鷹内ヘ二リ八丁。鷹内ヨリヤイタヘ壱リニ近シ。

ヤイタヨリ沢村ヘ壱リ。沢村ヨリ太田原ヘ二リ八丁。太田原ヨリ黒羽根ヘ三リト云

ドモ二リ余也。翠桃宅、ヨゼト云所也トテ、弐十丁程アトヘモドル也。

黒羽滞在

四日 浄法寺図書へ被招(まぬかる)。

五日 雲岩寺見物。

六日ヨリ九日迄、雨不止(あめやまず)。九日、光明寺へ被招。昼ヨリ夜五ツ過迄ニシテ返ル。

十日 雨止。日久シテ(ひさしくして)照。

十一日 小雨降ル。余瀬翠桃へ帰ル。晩方強雨ス(ごううす)。

十二日 雨止。図書被見廻(みまわられ)、篠原被誘引(しのはらへゆういんせらる)。

十三日 天気吉。津久井氏被見廻而(みまわられもって)、八幡へ参詣被誘引。

十四日 雨降リ、図書被見廻終日。 重之内持参。

十五日 雨止。昼過、翁と鹿助右同道ニテ図書ヘ被参(まいらる)。是ハ昨日約束之故也。予ハ少々持病気故不参。

十六日 天気能(よし)。翁、館ヨリ余瀬ヘ被立越(たちこえらる)。則、同道ニテ余瀬ヲ立。及昼、図書・弾蔵ヨリ馬人ニテ 被送ル(おくらる)。馬ハ野間ト云所ヨリ戻ス。此間弐里余。高久ニ至ル。 雨降リ出ニ依、滞ル。此間壱里半余。宿角左衛門、図書ヨリ状被添。

(4月3日:玉入を立ち余瀬の翠桃宅に到着、宿泊。4月4日:浄法寺図書に招かれる。浄法寺屋敷宿泊。4月5日:雲岩寺見物。浄法寺屋敷宿泊。4月6日~8日:浄法寺屋敷宿泊。4月9日:光明寺に招かれる。浄法寺宿屋敷宿泊。4月10日:浄法寺屋敷宿泊。4月11日:余瀬の翠桃宅に戻り、宿泊。4月12日:浄法寺図書が訪れ、一緒に篠原を見物。翠桃宅宿泊。4月13日:津久井氏が訪れ、八幡へ参詣。翠桃宅宿泊。4月14日:浄法寺図書が訪れ、終日滞在。翠桃宅宿泊。4月15日:昼過ぎ、芭蕉は鹿子畑助右衛門と一緒に浄法寺図書を訪ねる。浄法寺屋敷宿泊。曾良は持病のため不参。4月16日:芭蕉が浄法寺館より翠桃宅に戻る。一緒に浄法寺図書の差し向けた馬で余瀬を出立。馬は野間という所で戻す。浄法寺図書の紹介で高久の角左衛門方に宿泊。)

さて、30分ばかり歩くと西教寺があり、境内に曽良の句碑が置かれている。

- かさねとは 八重撫子の 名成るべし - 曽良

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西教寺を後にしばらく行くと「鹿子畑翠桃邸跡」の道標が立っている。道標に従って歩くと「史跡・鹿子畑翠桃墓地」の碑が立っている。翠桃邸跡といっても田んぼの中に鹿子畑家の墓地があるだけで屋敷の面影は全くない。

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翠桃の墓碑には辞世の「消ゆるとは我はおもはじ露の球色こそかはれ花ともみゆ覧」

が刻まれているということだが古くて字はほとんど読めない。

翠桃の墓碑の傍らに「奈(那)須 余瀬 翠桃を尋ねて」と書かれた曽良俳諧書留」が立てられている。

曽良の「俳諧書留」に収録されている「翠桃を尋ねて」と前書きした、芭蕉の句を発句とする歌仙は、最初、翠桃・曽良との三吟で始まり、途中から翅輪(津久井氏)・桃里(蓮見氏)・二寸(森田氏)・匂いの花(名残の花)を秋鴉(しゅうあ=浄法寺図書高勝)が詠んでいる。

    「奈須余瀬 翠桃を尋ねて」

発句 秣おふ人を枝折の夏野哉      芭蕉

脇句 青き覆盆子(を)こぼす椎の葉   翠桃

第三 村雨に市のかりやを吹とりて    曾良

四  町中を行川音の月        はせを

五  箸鷹を手に居ながら夕涼      翠挑

六  秋草ゑがく帷子はたそ       ソラ

七  ものいへば扇子に貌をかくされて はせを

八  寝みだす髪のつらき乗合      翅輪

九  尋ルに火を焼付る家もなし     曾良

十  盗人こはき廿六の里        翠挑

十一 松の根に笈をならべて年とらん  はせを

十二 雪かきわけて連歌始る       翠挑

十三 名どころのおかしき小野ゝ炭俵   翅輪(陸奥鵆・むつちどり)

十四 碪うたるゝ尼達の家        曾良

十五 あの月も恋ゆへにこそ悲しけれ   翠挑

十六 露とも消ね胸のいたきに       翁

十七 錦繍に時めく花の憎かりし     曾良

十八 をのが羽に乗蝶の小車       翠挑

十九 日がささす子ども誘て春の庭    翅輪

二十 ころもを捨てかろき世の中     桃里

二一 酒呑ば谷の朽木も仏也        翁

二二 狩人かへる岨の松明        曾良

二三 落武者の明日の道問草枕      翠挑

二四 森の透間に千木の片そぎ      翅輪

二五 日中の鐘つく比に成にけり     桃里

二六 一釜の茶もかすり終ぬ       曾良

二七 乞食ともしらで憂世の物語     翅輪

二八 洞の地蔵にこもる有明       翠挑

二九 蔦の葉は猿の泪や染つらん      翁

三十 流人柴刈秋風の音         桃里

三一 今日も又朝日を拝む岩の上      蕉

三二 米とぎ散す瀧の白浪        二寸

三三 籏の手の雲かと見えて翻り     曾良

三四 奥の風雅をものに書つく      翅輪

三五 珍しき行脚を花に留置て      秋鴉

挙句 彌生暮ける春の晦日        桃里

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鹿子畑翠桃邸を後に30分程歩くと「修験光明寺跡」の道標が立っている。その先には芭蕉の句碑が置かれており、説明版が添えてある。

句碑には、「夏山に足駄を拝む 首途(かどで)哉」芭蕉はここで役行者の下駄に旅の無事を祈ったと言われている。

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更に約45分先には、明王寺があり境内に芭蕉の句碑が置かれている。

- 今日も又 朝日を拝む 石の上 - 

余瀬で催された歌仙の中の31番目の句で、「石の上に立って今日も朝日を拝む行者の姿」を詠んでいる

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 芭蕉の句碑は、常念寺にも置かれている。句碑には説明版が添えられている。

句碑は「野を横に 馬牽むけよ ほととぎす(のをよこに うまひきむけよ ほととぎす)」と刻まれている。

松尾芭蕉は元禄二年四月十六日(陽暦六月三日一六八九年)に余瀬をたって殺生石に向った。曽良の『旅日記』には、「十六日天気能。翁、館ヨリ余瀬ヘ被立越。則、同道ニテ余瀬ヲ立。及 昼、図書・弾蔵ヨリ馬人ニテ被送ル。馬ハ野間ト云所ヨリ戻ス。云々」とある。『おくの細道』には「是より殺生石に行。館代より馬にて送らる。此口付のおのこ、「短冊得させよ」と乞。やさしき事を望待るものかなと、
「野を横に馬牽むけよほとゝぎす」とある この句は、余瀬を立って野間までの間で、馬子に乞われて詠まれたものであろう。夏草が茂った広漠たる那須野が原を、馬上姿で行く芭蕉が想像される
特に「馬牽むけよ」の馬子への呼びかけの言葉が、ほとゝぎすの鳴声と合って一層の俳味が感じられる。
この句碑は伝浄法寺桃雪建立であるが、年代、筆者は不詳である
 芭蕉の里 くろばね」(説明版)

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奥の細道 一人歩き 19 矢板-太田原

18日目(2020年3月15日(日))矢板-太田原

午前8時過ぎ、JR矢板駅から国道461号線(日光北街道)を黒羽へ向かって歩く。

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1時間ばかり歩くと、箒川に「かさね橋」が架かっている。橋の両端には、

「- かさねとは八重撫子の名成べし - 曽良」と浮き彫りで書かれている。

奥の細道に書かれている曽良の句である。

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40分程歩いた先、赤い鳥居の「龍電神社」の横に「なんじゃもんじゃ」と刻まれた碑が立っている。

なんだろうと思い調べてみると、なんじゃもんじゃは、ハルニレの木で推定樹齢1000年と言われ、旧西那須野町の天然記念物に指定されていたが、1980年(昭和55年)に枯死してしまった。なんじゃもんじゃの言われは、水戸光圀がこの木の下で休憩した折に、地元の人に木の名を尋ねたところ誰も知らなかったことから「なんじゃもんじゃと名付けるとよい」と言ったことによるのだそうだ。

すぐ先には、「旧日光北街道」と書かれた道標が立っている。側面には「この道は、太田原と日光(約四十二キロメートル)を結ぶ旧街道で、寛永十三年(一六三六)にひらかれたという。江戸時代の俳人松尾芭蕉が、黒羽へ行く途中通った道と言われている。(那須塩原市)」と書かれている。

日光北街道のこの区間は、「なんじゃもんじゃ通り」と名付けられている。

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30分ほど先の道端には馬頭観音、更に30分程行くと「旧日光北街道」と刻まれた碑が置かれている。

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すぐ先には、薬師堂があり、境内には「舎利塔」「七重塔」が立っている。

「本堂 3間3面(梁間7.51メートル、桁行7.51メートル) 

向拝(こうはい) 1間(梁間3.30メートル、桁行2.67メートル) 

千鳥破風(ちどりはふ)付入母屋(いりもや)造 銅板平葺

雨薬山薬師堂は、大田原城四方固めの一つ西薬師と呼ばれ、薬師如来像が祀られる小堂宇を、寛永年中(1624から1644)に大田原氏が再建したと伝えます。宝暦7年(1757)大田原宿の大火により焼失、寛政5年(1793)に大田原庸清(つねきよ)により再建されたものが現在の建物で、修復を重ね現在に至っています。

斗拱(ときょう)は三斗組(みつとぐみ)、三手先(みてさき)の詰組(つめぐみ)となっており、二段の尾垂木(おだるき)を用いた化粧垂木は扇垂木(おうぎだるき)の二重垂木となって、深い「軒の出」を構成しています。向拝(こうはい)柱は角柱で四面に細かな彫刻があります。外壁は貫(ぬき)を用いず、欅(けやき)幅広板を柱間に落とし込み横張とし、長押(なげし)付きです。

和様、唐様の様式が混然一体に融合した江戸時代の自由な手法が現れており、江戸中期の寺院建築として特筆されます。」(説明版)

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5分程先の太田原信用金庫本店の横に「幸矢の与一像」が置かれている。

この辺りは、太田原市那須与一の里と名付けて与一の伝承を今に伝えている。

那須の与一は、治承・寿永の乱において、兄・十郎為隆と共に源頼朝方に与し、その弟・義経軍に従軍した。元暦二年(1185)の屋島の戦いにおいて、平氏方の軍船に掲げられた扇の的を射落とすなど功績を挙げた。

「ころは二月十八日の酉の刻ばかりのことなるに、をりふし北風激しくて、磯打つ波も高かりけり。舟は、揺りすゑ漂へば、扇もくしに定まらずひらめいたり。沖には平家、舟を一面に並べて見物す。陸には源氏、くつばみを並べてこれを見る。いづれいづれも晴れならずといふことぞなき。与一目をふさいで、 「南無八幡大菩薩、我が国の神明、日光の権現、宇都宮、那須の湯泉大明神、願はくは、あの扇の真ん中射させたまへ。これを射損ずるものならば、弓切り折り自害して、人に二度面を向かふべからず。いま一度本国へ迎へんとおぼしめさば、この矢はづさせたまふな。」と心のうちに祈念して、目を見開いたれば、風も少し吹き弱り、扇も射よげにぞなつたりける。与一、かぶらを取つてつがひ、よつぴいてひやうど放つ。小兵といふぢやう、十二束三伏、弓は強し、浦響くほど長鳴りして、あやまたず扇の要ぎは一寸ばかりおいて、ひいふつとぞ射切つたる。かぶらは海へ入りければ、扇は空へぞ上がりける。しばしは虚空にひらめきけるが、春風に一もみ二もみもまれて、海へさつとぞ散つたりける。夕日のかかやいたるに、みな紅の扇の日出だしたるが、白波の上に漂ひ、浮きぬ沈みぬ揺られければ、沖には平家、ふなばたをたたいて感じたり、陸には源氏、えびらをたたいてどよめきけり。」(平家物語・巻十一 那須与一

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さて、更に5分程行くと「金灯籠ポケット公園」ががあり、「金灯籠」と「旧奥州道中太田原宿」の碑が置かれている。

「町人文化の華が咲き誇った文化・文政の頃、ここ太田原宿は江戸の文化を奥州へ伝える旅人とみちのくの産物を江戸へ送る商人の行き交う宿場として栄えた。

金灯籠の初代は文政二年(1819)10月に太田原の城下の住人達が道中安全と町内安全を祈願して建立された。台座には正面に「上町」、右側には「白川」、左側には「江戸と刻まれている。」(大田原市・観光案内より)

奥州道中太田原宿の側面には、「右・那須塩原 湯道」と刻まれている。

奥には、奥の細道の書き出しと那須野の文章が刻まれた碑が石壁にはめこまれている。

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10分ほど歩くと「太田原城址」である。

「太田原城は、天文十四年(1545)太田原資清(すけきよ)によって築城され、町島水口おり移り住み、以来明治四年(1871)の廃藩置県に至る326年間太田原市の居城であった。慶長5年(1600)徳川家康関ケ原合戦の前、奥羽の情勢からこの地を重視し城の補修を命じた。更に徳川三代将軍家光は、寛永四年(1627)常時玄米千石を城中に貯蔵させ奥州の鎮護とした。」(大田原市・観光案内より)

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1時間余り行くと「那須の与一伝承館」があるが、新型コロナウィルス感染対策のため休館であった。

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その裏には「那須神社」がある。参道には「おくのほそ道風景地・八幡宮那須神社)の碑が立っている。

この神社は、那須与一屋島の戦いで扇の的を射る際に「南無八幡大菩薩・・・」と心に念じた神社だと伝えられている。

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今日はここまで。

八幡神社前のバス停からJR西那須野駅までバスに乗り帰宅。

奥の細道 一人歩き 18 玉生-矢板

17日目(2020年1月19日(日))玉生-矢板

前回は、先を急いでいたため玉生宿をよく見ることが出来なかったので今回は玉生からのスタートとする。

宇都宮駅12時5分発のバスで玉生へ。

バスを降りるとすぐに「日光北街道・玉生宿」の大きな碑が目に入る。日曜日の昼下がり、道行く人は誰もいない。

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                                                 奥の細道

                                                七 那須

那須の黒ばねと云所に知人あれば、是より野越にかかりて、直道をゆかんとす。遥に一村を見かけて行に、雨降日暮る。農夫の家に一夜をかりて、明くれば又野中を行く。そこに野飼の馬あり。草刈おのこになげきよれば、野夫といえどもさすがに情しらぬには非ず。いかがすべきや、されども此野は縦横にわかれて、うゐうゐ敷旅人の道ふみたがえんあやしう侍れば、此馬のとどまるところにて馬を返し給へと、かし侍りぬ。ちいさき者ふたり、馬の跡したひてはしる。独(ひとり)は小姫にて、名をかさねと云。聞きなれぬ名のやさしかりければ、 

- かさねとは八重撫子の名成べし - 曽良 

頓て(やがて)人里に至れば、あたひを鞍つぼに結び付て、馬を返しぬ。」

(あたひ=馬を借りた礼金

曽良日記

「船入より玉入ヘ弐リ。未ノ上尅ヨリ雷雨甚強、漸ク玉入ヘ着。

 同晩、玉入泊。宿悪故、無理ニ名主ノ家入テ宿カル。

 同三日 快晴。 辰の上尅、玉入ヲ立。鷹内ヘ二リ八丁。鷹内よりヤイタヘ壱リニ近シ。

 ヤイタヨリ沢村ヘ壱リ。沢村ヨリ太田原ヘ二リ八丁。太田原ヨリ黒羽根ヘ三リと云ドモ二リ余也、翠桃宅、ヨゼト云所也トテ、弐十丁程アトヘモドル也。」

船生から玉生まで二里。この辺りは日光連山の地形のため雷が発生しやすいところで午後1時頃(未の上刻)にやっとの思いで玉生に入ったが「宿悪」のため、頼み込んで名主の家に泊めてもらった。「宿悪」というのは宿が汚かったのではなく紹介状がなかったため泊めてもらえなかったという事だそうだ。見ず知らずのものを泊ることを禁じていたのであろう。ともあれ、芭蕉たちは、名主の家に泊めてもらうことができた。

さて、玉生宿の入口あたりに関東自動車バスの車庫があるのだが、その裏に「奥の細道芭蕉翁の遺跡・この地は今より二百七十余年前第五代将軍徳川綱吉の元禄二年俳聖芭蕉主従が東北をたずねる道すがら一泊したところです。・・・・この玉入が玉生で農夫の家すなわち当尾形医院前身代々庄屋をつとめた玉生氏であります。」と刻まれた碑と「芭蕉一宿の跡」と刻まれた碑が置かれている。

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少し先には「和気記念館」がある。古都の雅(みやび)に憧れ、“幽玄の世界”と評される和木史郎の油絵などが展示されているそうだが、今日は日曜日で休館。

道端にはここにも「芭蕉通り」と刻まれた碑が置かれている。

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玉生宿を抜けて2時間ばかり歩くと「矢板武記念館」があるが午後4時閉館でここも入館できなかった。

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 JR矢板駅から帰宅。

奥の細道 一人歩き 17 日光-船生

16日目(2020年1月10日(金))日光-船生

日光を後に黒羽へ向かう。

芭蕉曽良は、五左衛門から教わった近道を歩いたということだがどこを歩いたのかわからないので一旦今市まで戻ることにする。

「同二日(四月二日)天気快晴。辰ノ中尅、宿ヲ出。ウラ見ノ滝(一リ程西北)・ガンマンガ淵見巡、漸ク及午、鉢石ヲ立、奈須太田原ヘ趣。常ニハ今市ヘ戻リテ大渡リト云所ヘカカルト云ドモ、五左衛門、案内ヲ教ヘ、日光ヨリ廿丁程下リ、左ヘノ方へ切レ、川ヲ越、せノ尾・川室ト云村ヘカカリ、大渡リト云馬次ニ至ル。三リニ少シ遠シ。

・今市ヨリ大渡ヘ弐リ余。

・大渡ヨリ船入ヘ壱リ半ト云ドモ壱リ程有。絹川ヲカリ橋有。大形ハ船渡シ。」

曽良日記)

旧道の杉並木は、朝の木漏れ日を浴びて実にすがすがしい。

30分ばかり行くと「並木太郎」呼ばれる杉並木の中で一番大きな名木を見ることができる。

更に30分がかり行くと「砲弾打ち込み杉」の説明版が立っている。

戊辰戦争で官軍が日光に拠る幕府軍を攻撃した際の銃弾の跡が杉に残っているのだそうだ。

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さて、今市まで戻り春日町の交差点で会津西街道(国道121号線)に入る。

大谷川に架かる太谷橋からは、男体山が美しく見える。

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橋を渡り切った大谷向の交差点で日光北街道(国道461号線)に入る。

2時間ほど歩くと浅間神社の入口に大きな草鞋が奉納されていて説明版が添えられている。

「厄払い大草鞋と獅子舞

 厄払い大草鞋=富士浅間神社入口・芹沢十文字

 ・・・・この大草鞋は今から約千三百年前に定められた(養老律令)風神祭・道饗際が原点となって今日に伝えられている。

芹沼地区にはこのような大きな草鞋を履く大男が居るから悪者は立ち寄るな、そして流行病などの厄払いも込めて、昔から奉納されている。・・・・」説明版より

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すぐ先には、馬力神そしてなぜか二宮尊徳像が置かれている。

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15分程先に「轟城跡」の説明版が立っている。

「・・・・鎌倉時代畠山重忠の末子重慶の城と伝えられている。「健保元年(1213)畠山重慶が日光山麓に謀反を企てたと日光山別弁覚が鎌倉に通報し、将軍実朝は、長沼五郎宗政に逮捕を命じたが、宗政は生け捕りにせず首を持参した為、実朝は不快に嘆息した。」と吾妻鏡・巻二〇に記録されている。・・・・」

吾妻鏡・巻二十

「九月小

十九日 丙辰

未の刻、日光山の別当法眼弁覺使者を進し申して云く、故畠山の次郎重忠が末子大夫 阿闍梨重慶、当山の麓に籠居す。浪人を召し聚め、また祈祷に肝胆を砕く事有り。これ謀叛を企てるの條異儀無きかの由これを申す。仲兼朝臣弁覺が使者の申す詞を以て 御前に披露す。その間長沼の五郎宗政当座に候するの間、重慶を生虜るべきの趣これ を仰せ含めらる。仍って宗政帰宅すること能わず、家子一人・雑色男八人を具し、御 所より直に下野の国に進発せしむ。聞き及ぶ郎従等競走す。これに依って鎌倉中聊か 騒動すと。

廿六日 癸亥 天晴

晩景宗政下野の国より参着す。重慶の首を斬り持参するの由これを申す。将軍家仲兼朝臣を以て仰せられて曰く、重忠は本過無くして誅を蒙る。その末子の法師、縦え隠謀を挿むと雖も何事か有らんや。随って仰せ下さるるの旨に任せ、先ずその身を生虜らしめこれを具し参らば、犯否の左右に就いて沙汰有るべきの処、戮誅を加う。楚忽の儀、罪業の因たるの由、太だ御歎息すと。仍って宗政御気色を蒙る。而るに宗政眼を怒らし、仲兼朝臣に盟って云く、件の法師に於いては、叛逆の企てその疑い無し。 また生虜の條は掌の内に在りと雖も、直にこれを具し参らしめば、諸女性・比丘尼等が申状に就いて、定めて宥めの沙汰有らんかの由、兼ねて以て推量するの間、遮ってこれを梟罪す。奇怪に備えらるるの状如何。向後に於いて此の如き事有らば、忠節を抽んずと雖も誰か驕奢せざらんや。これ将軍家の御不可なり。凡そ右大将軍家の御時、恩賞を厚くすべきの趣、頻りに以て厳命有りと雖も、宗政諾し申さず。ただ望むらくは御引目を給い、海道十五箇国の中に於いて、民間の無礼を糺し行うべきの由啓せしむるの間、武備を重んぜらるるが故、忝なくも一の御引目を給い、今に逢屋の重宝と為す。当代は歌鞠を以て業と為し、武芸は廃るるに似たり。女性を以て宗と為し、勇士これ無きが如し。また没収の地は、勲功の族に充てられず。多く以て青女等に賜う。所謂、榛谷の四郎重朝が遺跡は五條の局に給う。中山の四郎重政が跡を以て下総の局に賜うと。この外過言勝計うべからず。仲兼一言に及ばず座を起つ。宗政また退出す。」

畠山重忠源頼朝が平家打倒の旗揚げ以来の功臣にて厚情、豪胆な武将であった。ところが平家滅亡の後、幕府機構の生成期においては勇猛な気質と高い人望を危険視され、頼朝没後に権力独占を図ろうとする執権・北条氏の姦計に嵌り1205年(元久2年)無実の罪で賊徒とされ討ち滅ぼされてしまう。これが所謂「畠山重忠の乱」で、重忠本人の他一族全てが討たれ、唯一生き延びたのが重慶であった。その重慶が出家隠棲し日々の暮らしを送っていたのが霊場日光に近いここ轟城だと伝わる。しかし重慶もまた謂れのない罪で討たれてしまったのである。実朝は「重忠は元々罪無くして誅殺され、その末子である重慶が何らの謀議を図ろうとも何事やあらんか、命に従いまずその身を生け捕りとして陰謀の如何によって処分すべきであった」と宗政の行き過ぎた行動を嘆いたと云う。

すぐ先の道端にはお地蔵様や庚申塔などが置かれている。

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1時間半ばかりあるいてやっと船生についた。「芭蕉通り」と刻まれた碑が置かれ、「子持ち地蔵尊」が祀られている。

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ここからJR矢板駅まではまだ20キロ以上はあるだろう。気を取り直して歩き始めたが2時間ほどで日はとっぷりと暮れてしまった。真っ暗闇の中でバス停を見つけ時刻表を見ると次は18時01分、1日に3本しかないバスがあと30数分で来るようだ。これはラッキーと言うべきである。バスの乗客は一人だけ、運転手さんの話では長年この道を走っているがこのバス停でしかもこの時間に客を乗せたのは初めてだとか。

奥の細道一人歩き 16 日光

15日目(2020年1月9日(木))日光

今日も前回と同じ6時5分浦和発の宇都宮線に乗り日光線に乗り継いで日光へ、日光着が8時23分。隣の東武日光駅の前は土産物屋などもありJRの駅よりも華やいでいる。

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今日1日、奥の細道序盤のクライマックス日光で世界遺産の社寺や芭蕉の足跡を辿る。

ところで、日光の地名は二荒山(ふたらさん)(男体山の別名)の「二荒」を「にこう」と読んだのが始まりだという。

奥の細道には、「往昔(そのかみ)此の御山を二荒山と書きしを、空海大師の開基の時日光と改め給う。」と書かれている。

さて、日本有数の観光地らしくきれいに整備されたゆるやかな上り坂の道路を歩いていくと日光彫、日光ゆばの店や洒落たカフェなどが左右に並んでいる。

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30分ばかり歩くと「上鉢石町」のバ ス停があるが、芭蕉曾良は、日光鉢石の佛五左衛門方に泊まっている。曽良日記には「其の夜日光上鉢石町五左衛門ト云者ノ方ニ宿。」と書かれている。鉢石は、日光社寺の門前町で当時から賑わっていたのだろう。

                                     「奥の細道

                                 五 佛五左衛門

「卅日(みそか)、日光山の梺に泊る。あるじの云けるやう、「我名を佛五左衛門と云、萬正直(よろずしょうじき)を旨とする故に、人かくは申侍(もうしはべる)まゝ、一夜の草の枕も打解て休み給へ」と云。いかなる仏の濁世塵土(じょくせじんど)に示現して、かゝる桑門の乞食順礼ごときの人をたすけ給ふにやと、あるじのなす事に心をとゞめてみるに、唯無智無分別にして、正直偏固の者也。剛毅木訥の仁に近きたぐひ、気禀の清質尤尊ぶべし。」

(三十日(三月)、日光山のふもとに宿を借りて泊まる。宿の主人が言うことには、「私の名は仏五左衛門といいます。なんにでも正直を第一としていますので、まわりの人から「仏」などと呼ばれるようになりました。そんな次第ですから今夜はゆっくりおくつろぎください」と言う。いったいどんな種類の仏がこの濁り穢れた世に御姿を現して、このように僧侶(桑門)の格好をして乞食巡礼の旅をしているようなみすぼらしい者をお助けになるのだろうかと、主人のやることに気を付けて見ていると、なまじっかな知恵や世俗的な分別はなく、正直一途な者なのだ。論語にある「剛毅朴訥(ごうきぼくとつ)は仁に近し(まっすぐで勇敢で質実な人が仁に近い)」という言葉を体現しているような人物だ。生まれつきもっている(気稟(きひん))、清らかな性質(清質)なのだろう、こういう者こそ尊ばれなければならない。)

ものの本によれば、元禄二年の三月は小の月(二十九日まで)で三十日はないはずである。芭蕉がなぜ丗日と書いたかについて学者や専門家達がいろんな説を唱えているが真意のほどは定かではない。芭蕉宿泊の遺跡がどこかにないか探してみたが見当たらない。誰かに聞いて帰りにもう一度探してみることにする。

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5分程で神橋である。天海僧正銅像が立っている。

天海大僧正 天海は比叡山天台宗の奥義をきわめたあと、徳川家康に仕え、日光山の貫主となる。当時の日光は、豊臣秀吉に寺領を没収され、荒廃の極みにあった。家康が亡くなると天海はその遺言を守り、久能山から遺骨を日光に移し、東照宮の創建に尽くした日光山中興の恩人である。」(説明版より)

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信号を渡ると左手に参道があり、参道を登ると輪王寺・三仏堂の裏手に出る。

輪王寺

日光山は天平神護二年(766)に勝道上人(しょうどうじょうにん)により開山された。 以来、平安時代には空海、円仁ら高僧の来山伝説が伝えられている。東照宮が元和三年(1617)の創建であるから輪王寺東照宮より850年も前に立てられたことになる。歴史の重さを感じる。

輪王寺・三仏堂の横には輪王寺護摩堂がある。ここは日光山随一の護摩祈願所である。毎日7時30分、11時、14時の3回護摩祈願が行われている。

参道を挟んだ向かい側には輪王寺本坊・日光さん輪王寺門跡がある。

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さて、東照宮、さぞかし観光客で混みあっているのだろうと思っていたが平日の早朝に加えて正月明けとあって海外からの観光客も少なく、人影もまばらである。拝観券はSUICAで購入、ここでもキャッシュレス。

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日光東照宮の建物のほとんどが国宝や重要文化財に指定されている。

石鳥居(いしどりい)(重要文化財

元和4年(1618)、九州筑前藩主黒田長政によって奉納された。

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表門(おもてもん)(重要文化財

東照宮最初の門で、左右に仁王像が安置されているところから仁王門とも呼ばれている。

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陽明門(ようめいもん)(国宝)

日本を代表する最も美しい門で、宮中正門の名をいただいたと伝えられている。いつまで見ていても見飽きないところから「日暮の門」ともよばれ、故事逸話や子供の遊び、聖人賢人など500以上の彫刻がほどこされている。

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廊(かいろう)(国宝)

陽明門の左右に延びる建物で、外壁には我が国最大級の花鳥の彫刻が飾られている。いずれも一枚板の透かし彫りに極彩色がほどこされている。

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五重塔(ごじゅうのとう)(重要文化財

慶安3年(1650)若狭の国(福井県小浜藩酒井忠勝によって奉納された。文化12年火災にあったが、その後文政元年(1818)に同藩主酒井忠進によって再建された。

神厩舎・三猿(しんきゅうしゃ・さんざる)(重要文化財

神厩舎は、神馬をつなぐ厩(うまや)である。昔から猿が馬を守るとされているところから、長押上には猿の彫刻が8面あり、人間の一生が風刺されている。中でも「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿の彫刻は有名。

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三神庫(さんじんこ)(重要文化財

上神庫・中神庫・下神庫を総称して三神庫と言い、この中には春秋渡御祭「百物揃千人武者行列」で使用される馬具や装束類が収められている。また、上神庫の屋根下には「想像の象」(狩野探幽下絵)の大きな彫刻がほどこされている。

唐門(からもん)(国宝)

全体が胡粉(ごふん)で白く塗られ、「許由と巣父(きょゆうとそうほ)」や「舜帝朝見の儀(しゅんていちょうけんのぎ)」など細かい彫刻がほどこされている。

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神輿舎(しんよしゃ)(重要文化財

春秋渡御祭(5月18日、10月17日)に使われる三基の神輿(みこし)が納められている。

祈祷殿(きとうでん)(重要文化財

祈祷が行われる。

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眠り猫(ねむりねこ)(国宝)

左甚五郎作と伝えられている。牡丹の花に囲まれ日の光を浴び、うたたねをしているところから「日光」に因んで彫られたとも言われている。

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門をくぐって急な階段を上って行くと奥宮である。

奥宮(おくみや)(重要文化財

拝殿・鋳抜門(いぬきもん)・御宝塔からなる御祭神(徳川家康)のお墓所である。

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東照宮は、徳川幕府の権力と財力の象徴と言っても過言ではない。

東照宮を後に輪王寺と反対側へ歩いていくと「二荒山神社」である。

二荒山神社

霊場としての日光の始まりは、下野国の僧・勝道上人(735~817)が北部山岳地に修行場を求め、大谷川北岸に天平神護2年(766)に紫雲立寺(現在の四本龍寺の前身)を建てたことに始まるとされる。そして二荒山神社の創建は、上人が神護景雲元年(767)二荒山(男体山)の神を祭る祠を建てたことに始まるとされる。この祠は現在の別宮となっている本宮神社にあたる。上人は延暦元年(782)二荒山登頂に成功し、そこに奥宮を建てて二荒修験の基礎を築いた。

二荒山神社は古来より修験道霊場として崇敬された。江戸時代になり幕府によって日光東照宮等が造営されると二荒山神社も重要視され、現在の世界遺産重要文化財指定の主な社殿が造営された。

社名は、観音菩薩が住むとされる「補陀洛山(ふだらくさん)」が訛ったものといわれ、後に弘法大師空海がこの地を訪れた際に「二荒」を「にこう」と読み、「日光」の字を当てこの地の名前にしたとする

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二荒山神社のすぐ奥には、徳川三代将軍・家光を祀った大猷院(たいゆういん)がある。

本殿への最初の門仁王門には金剛力士像が祀られている。

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次に「二天門」をくぐる。実に見事な装飾で当時の装飾技術の高さが感じられる。

正面の「大猷院」の文字は、後水尾天皇の筆によるものだという。

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次の「夜叉門」へ行く途中に「展望書」説明版があり「ここからのながめは、天上界から下界(人間の住む世界)を見下ろした風景を想像させます。」と書かれている。

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階段を上ると「夜叉門」である。

東西南北を毘陀羅(びだら)、阿跋摩羅(あばつまら)、鍵陀羅(けんだら)、烏摩勒伽(うまろきゃ)といった武器を持った色彩あざやかな夜叉が門を守っているところから、夜叉門とよばれる。牡丹の花が多く装飾されているところから牡丹門ともよばれる。

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そして「唐門」、大猷院の門のなかでは最も小さく、二脚門形式で金地板への浮彫や透彫金具などの装飾が施されている。

 

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大猷院は、家康の東照宮より目立たないようにとの家光の遺言により色の数を抑えて作られた。それが返って東照宮より落ち着きのある、おごそかな上品さを感じさせる。

大猷院を後に街道に戻る途中に勝道上人の像がそびえている。

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                                               奥の細道

                                             六 日光

「卯月遡日(ついたち)、御山(おやま)に詣拝す。往昔(そのかみ)、此御山を「二荒山(ふたらさん)」と書しを、空海大師開基の時、「日光」と改給ふ。千歳未来をさとり給ふにや、今此御光一天にかゝやきて、恩沢八荒にあふれ、四民安堵 の栖(すみか)穏(おだやか)なり。猶(なお)、憚(はばかり)多くて筆をさし置きぬ。

- あらたふと青葉若葉の日の光 -

四月一日、日光の御山に参詣した。昔この御山を「二荒山(にこうざん)」と書いたが、空海大師がここに寺を創建した時、「日光」と改められた。

それは千年先のことまでも見通してのことだろうか、今やこの日光東照宮の威光は広く天下に輝き、恵は国のすみずみまで行き届き、士農工商すべて安心して、穏やかに暮らすことができる。なお、書くべきことはあるが、畏れ多いのでこのへんで筆を置くことにする。

- あらたふと青葉若葉の日の光 -

黒髪山は霞かゝりて、雪いまだ白し。

- 剃捨(そりすて)て黒髪山に衣更(ころもがえ) - 曽良

曾良は河合氏にして惣五郎と云へり。芭蕉の下葉に軒をならべて、予が薪水の労をたすく。このたび松しま・象潟の眺共にせん事を悦(よろこ)び、且(かつ)は羈旅の難をいたはらんと、旅立暁(あかつき)髪を剃て墨染にさまをかえ、惣五を改て宗悟とす。仍て黒髪山の句有。「衣更」の二字、力ありてきこゆ。

黒髪山は春霞がかかっているのに、雪がいまだに白く残っている。

- 剃捨てて黒髪山に衣更(ころもがえ) - 曾良

曾良は河合という姓で名は惣五郎という。深川の芭蕉庵の近所に住んでいて、私の日常のことを何かと手伝ってくれていた。

今回、松島、象潟の眺めを一緒に見ることを喜びとし、また私の旅の苦労を慰めようということで、出発の日の早朝、髪をおろして墨染の衣に着替え、名前も惣五から僧侶風の「宗悟」とした。そういうわけで、この黒髪山の句は詠んだのである。「衣更」の二字には、いかにも力がこもっているようにおもわれる。)

先ほどは素通りした神橋に戻りしばし休憩。

神橋

勝道上人が日光山を開くとき、大谷川の急流に行く手を阻まれ神仏に加護を求めた際、深沙王(じんじゃおう)が現れ2匹の蛇を放ち、その背から山菅(やますげ)が生えて橋になったという伝説を持つ神聖な橋。別名、山菅橋や山菅の蛇橋(じゃばし)とも呼ばれている。

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傍らには与謝蕪村の句碑が置かれている。碑には

- 二荒や紅葉の中の朱の橋 (ふたあらや もみじのなかの あけのはし)- 

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芭蕉東照宮参詣の後裏見ノ滝を訪れている。芭蕉の跡をたどって国道を正面に男体山を見ながら中禅寺湖方面へ向かって歩く。

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30分程度行った「裏見の滝入口」のバス停の所から右へ県道195号が裏見の滝に向かってのびている。「裏見ノ滝2.5キロ」の標識が立っている。30分程歩くと道は急な遊歩道になり、遊歩道の先が裏見ノ滝である。

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昨年の台風19号で観滝台が壊れ、修理の最中で立ち入り禁止になっていた。

手前の橋から滝を見るしかない。

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廿余丁山を登つて滝有。岩洞の頂より飛流して百尺(はくせき)、千岩の碧潭(へきたん)に落ちたり。岩窟に身をひそめ入て、滝の裏よりみれば、うらみの滝と申伝え侍る也。

- 暫時(しばらく)は滝にこもるや夏の初(げのはじめ) -

(二十余丁山路を登ると滝がある。窪んだ岩の頂上から水が飛びはねて、百尺もあうかという高さを落ちて、沢山の岩が重なった真っ青な滝つぼの中へ落ち込んでいく。

岩のくぼみに身をひそめると、ちょうど滝の裏から見ることになる。これが古くから「うらみの滝」と呼ばれるゆえんなのだ。

- 暫時は滝に籠るや夏の初 -)

裏見ノ滝を後に国道に戻り安良沢小学校入口の坂を下ると「安良沢小学校」があり、校庭に芭蕉の句碑が置かれている。

- しばらくは滝にこもるや夏(げ)の初め -

と刻まれている。

「      松尾芭蕉句碑 四 

 しばらくは 滝にこもるや 夏の初 芭蕉翁 おくの細道 うらみのたき 吟

松尾芭蕉は、江戸前期の俳人伊賀上野の生まれ。名は、宗房。

桃青・泊船堂・釣具庵・風羅坊などの号を持つ。

元禄二年(一六八九年)日光浦見の滝へ立ち寄った時の句。「夏」とは、夏行・夏安居・夏籠などの略で、僧の修行のことをいう。碑は、小杉放菴の書で、昭和31年5月安良沢小学校創立記念に日光市と関係町内が建立。 日光市」と書かれた説明版が添えられている。

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更に坂を下ると「大日堂跡」の標柱が立っている。坂を下りると大日堂跡がある。

大日堂跡は輪王寺の飛び地境内で池のある美しい庭園であった。 

「    大日堂跡

往古は、この周辺を菩提が原(ぼだいがはら)と称し、大日如来の堂があった。慶安二年(一六四九)、大楽院の恵海がこれを再建。美しい池のある庭園の中に堂があり大日如来の石像が安置されていた。明治三五年九月の大洪水で総て流され現在は堂跡にいくつかの礎石を残すのみとなった。」(説明版)今は地蔵群を残すだけとなっている。

地蔵郡の一段下には芭蕉の句碑などが置かれている。

松尾芭蕉句碑 三

- あらとうと 青葉若葉の日の光里 -

大日堂詩碑

―^日の恵 そのほとほとの 花こころ - 東郷多知羅

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大谷川に架かるつり橋・大日橋を渡り、道標に従って大日川の渓谷・憾満ヶ淵(かんまんがふち)へ。

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10分程あるくと赤い帽子を被ったかぶったお地蔵様がずらりと並んでいる。憾満ヶ淵の並び地蔵である。

並び地蔵(化け地蔵)

慈眼大師天海(じげんたいしてんかい)の弟子100名が「過去万霊、自己菩提」のために寄進したもので列座の奥には親地蔵が置かれていた。霊庇閣(れいひかく)に一番近いやや大きめの石地蔵は「カンマン」の梵字を書いた山順僧正が奉納したものである。」(説明版より)

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憾満ヶ淵(かんまんがふち)

男体山から噴出した溶岩によってできた奇勝で古くから不動明王が現れる霊地といわれている。川の流れが不動明王真言を唱えるように響くので晃海大僧正が真言の最後の句の「カンマン」を取り、憾満ヶ淵と名付けたと言う。晃海大僧正は、この地に慈雲寺や霊庇閣、不動明王の大石像を建立した。往時は参詣や行楽の人で賑わった。元禄二年(1689)、俳聖「松尾芭蕉」も奥の細道行脚の途中に立ち寄っている。太谷川の対岸にある巨石の上にはかつて2メートルの不動明王の石像が置かれていたが、明治35年(1902)9月の洪水で流失した。」(説明版より)

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霊庇閣(れいひかく)

承応3年(1654)、慈雲寺総創建のとき、晃海大僧正が建立した四阿(あずまや)造りの護摩壇。

対岸の不動明王の石像に向かって天下泰平を祈って胡麻供養を行った場所である。

明治35年(1902)9月の洪水で流失した。その台座となっていた巨岩には「カンマン」の梵字が彫られていることが今も見ることができる。現在の「霊庇閣」は、昭和46年(1971)輪王寺により再建された。(説明版より)

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慈雲寺(じうんじ)

応3年(1654)、憾満ヶ淵を開いた晃海大僧正創建し、阿弥陀如来と師の慈眼大師天海を祀ったお堂。明治35年(1902)9月の洪水で流失した。現在の本堂は、昭和48年(1973)に復元された。

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憾満ヶ淵に別れを告げ日光街道に戻る。芭蕉一宿の碑についてみやげ物店の店主、輪王寺護摩堂の御朱印受付の女性などに聞いてみたが誰も知らないという。最後に日光観光協会で聞いてみたら、たった一人詳しく知っている人がいた。その人の話では個人宅の敷地内に句碑が置かれているという。芭蕉たちが泊まったのもそのお宅で当時は旅人宿を営んでいたそうだ。ご主人の了解を得て写真を撮らせていただくことにした。ご主人の話では「佛五左衛門」に関する資料は何も残っていないのだそうだ。

碑は二つあり、新しい碑は、芭蕉300年を記念して拓本を基に文字を1.5倍に拡大したものだそうだ。屋根付きの碑がオリジナル。説明版が添えられている。

「    松尾芭蕉句碑 一

日光山に詣 芭蕉桃青

 あらたうと 木の下闇も 日の光

此の真蹟大日堂の碑と異同ありて意味深長なりよって

今茲(こんじ)に彫り付けて諸君の高評をまつ 高野道文識

高野家は旧家で、道文氏は11代目、明治2年死去。奥の細道芭蕉が日光に来たときの句は、大日堂にある句碑の句だが、それと異なる句があるのに気付いた道文氏が不思議に思い、碑に刻んで残したものと思われる。芭蕉は日光の句を何回も推敲しており、その一つを手に入れたものであろう。 日光市」(説明版)

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「ふじや」さんで、湯葉をみやげに買って帰宅。

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日光線に乗るのも今日が最後になるだろう。

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