奥の細道 一人歩き 9 栗橋宿-中田宿-古河宿

8日目(2019123日(水))栗橋宿-中田宿-古河宿

宇都宮線栗橋駅から日光街道へ戻る途中に「静御前」の墓がある。

静御前

磯禅師(いそのぜんじ)の娘として生まれた静は、6歳で父を亡くし、母と共に京へ上った後、当代随一の白拍子と称されるほどに成長した。室町時代初頭に書かれたとされる「義経記」には後白河法皇が京の神泉苑で雨乞いの儀式を行った時、100番目の静の舞が黒雲を呼び3日間雨が降り続いたという。その後、大坂の住吉神社で舞をしていた静は、源義経と出会い恋に落ちる。義経の愛妾となった静御前は幸せな日々を送っていたが、やがて頼朝に追われた義経と奈良の吉野山で別れ、山中をさまよう中、僧兵に捕らえられ、鎌倉の頼朝のもとへと送られる。

吾妻鏡によれば、

静御前が鎌倉へ送られてきたのは文治二年(1186)三月一日。

頼朝は義経の行方を厳しく聞くが静御前は答えない。

同年四月六日に静御前は、鶴岡八幡宮で頼朝や北条政子の前で舞を舞った。その時、静御前は子供を身ごもっていたという。静御前は、舞を舞う前に

- 吉野山 みねの白雪踏み分けて 入りにし人の 跡や恋しき -

吉野山の白い雪を踏み分けて隠れ入った人の跡がなんて恋しきことでしょう)

- しずやしず しずのおだまき 繰り返し むかしをいまに なすよしもがな -

(しず、しずと義経様に呼ばれていたころに戻れたらどんなにいいことでしょう)

と詠んだ。この二つの歌には本歌がある。

-み吉野の山の白雪踏み分けて入りにしひとのおとずれもせぬ-(古今集三二五 壬生忠岑

(白雪を踏み分けて吉野の山に入った人が便りもくれないのはどうしたことだろう)

-古のしずのおだまきくり返し昔を今になすよしもがな-(伊勢物語第三十二段)

(昔の織物の糸を紡いで巻き取った糸玉から糸を繰り出すように昔を今にしたいものだ)

同年七月二十九日、静御前男児を出産するが頼朝の家臣・安達新三郎により由比ヶ浜に捨てられる。

同年九月十六日、静御前は許されて京へ帰る。

やがて義経を慕って奥州への旅に出た静御前は、栗橋のこの地で非業の死を遂げたといわれている。(もっとも静御前の終焉の地は諸説ありどれがどうとも言えないのだが・・・・)

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下の写真左「坐泉の歌碑」(江戸時代の歌人、坐泉はこの地にきて静御前を偲んで読んだ句)

― 舞ふ蝶の 果てや夢見る 塚のかげ -

中「静女塚碑」、右「義経招魂碑」と「静女所生御曹司供養塔」

 

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 境内には桜の木があり「静桜」と書かれた説明版が添えられている。

静御前義経を追って奥州に向かう途中、義経の討死にを知り、涙にくれた静は、一本の桜を野沢の地に植え、義経の菩堤を弔ったのが静桜の名の起こりといわれています。」(説明版より)静桜は、「御前桜」ともいわれ義経終焉の地とされる「衣川」とこの地に伝えられている。土産に静御前最中とまんじゅうを買ってみた。

 

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静御前巴御前木曽義仲の愛妾)、常盤御前義経の母)いずれもその美貌は薄幸が故に輝きを増しているのである。

ところで源頼朝だが、この人物はあまり有能な武将とは言えない。宿敵平家を滅ぼしたのは木曽義仲であり、源義経である。つまり頼朝は何もしていない。義仲や義経の武勇で天下がわが手に転がり込んできたのである。無能な権力者にとって有能な身内である義仲や義経は生かしておけない脅威なのである。「織田がつき羽柴がこねし天下餅、座りしままに食らうは徳川」という戯れ歌があるが「木曽がつき九郎がこねし天下餅座りしままに食らうは頼朝」といったところか。

間もなく鎌倉幕府は北条一族に乗っ取られ、幕府は腐敗の一途を辿ることになる。

後年、木曽義仲は粗暴な田舎武将として描かれることが多いが、それは北条一族が義仲を悪者に仕立て上げたからであろう。徳川が石田三成を徹底的に悪者にしたのと同じパターンである。時の為政者は、歴史を何とでも書き換えることができるのである。

芭蕉は大坂で亡くなっているが、自分の亡骸は大津・膳所の義仲寺に埋葬するようにと言い残している。なぜ故郷の伊賀上野ではなかったのかそれは知る由もないが芭蕉は、義仲や義経に限りない哀惜の情を抱いていたことは確かであろう。

- 木曽殿と背中合わせの寒さかな - 芭蕉の弟子・又玄(ゆうげん)の句である。

句碑は、滋賀県大津市の義仲寺に置かれている。

余談が長くなってしまった。街道へ戻ろう。

 

7宿 栗橋宿 (幸手宿より二里三町(約8.3キロ)

本陣1、脇本陣1、旅籠二十五軒、宿内家数四百四軒、宿内人口千七百四十一人

天保十四年(1843日光道中宿村大概帳による)

栗橋宿は利根川の舟運で栄えた。この地は関東平野の北辺に位置し、関所が置かれ「入り鉄砲と出女」が厳しく警備された。利根川対岸の中田宿は合宿の形態をとっており、両宿を合わせて一宿とする記述も有る。

街道に戻ると土手下に「関所跡」の碑と説明版が立っている。

芭蕉随行した曽良の日記(曽良日記)には「廿八日、ママダに泊ル。カスカベヨリ九里。前夜ヨリ雨降ル。辰上剋止ムニ依リ宿出。間モナク降ル。午の下刻止。此日栗橋ノ関所通ル。手形モ断モ不入(いらず)。」と記されている。

栗橋の関所は、江戸幕府にとって重要な関所の一つで「入り鉄砲と出女」を警備した。

「手形モ断モ不入」ということは芭蕉曽良は何のお咎めもなく無事に関所を越えたという事だろう。

 

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続いて八坂神社がある。ここは、栗橋宿の総鎮守で狛犬が鯉になっている。利根川の洪水の際に鯉が「御神体」を運んできたことに由来する。

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すぐそばに「関署番士屋敷跡」があったそうだが今は工事中で確認できない。

そういえば本陣も脇本陣も見つけられなかった。

利根川に架かる利根川橋を渡れば中田宿で橋の真ん中が埼玉県と茨城県の県境である。

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橋の渡り詰めを左に入ると旧道である。旧道の入口には「房川の渡し」の説明版があるが字が剥げていてよく読めない。

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8宿 中田宿 (栗橋宿より十八町(約1.6キロ)

本陣1、脇本陣1、旅籠六九軒、宿内人口四百三人

天保十四年(1843日光道中宿村大概帳による)

中田宿は、房川の渡しを控え元和十年(1624)に創設された宿場町で「鮒の甘露煮」が名物であった。栗橋宿とは合宿で問屋業務は半月交代で務めた。

旧道を歩くと中田宿の説明版が立っている。

「江戸時代の中田宿は、現在の利根川橋下、利根川に面して、現在は河川敷となってしまっている場所にあった。再三の移転を経て、現在のような中田町の町並となったのは、大正時代から昭和時代にかけての利根川の改修工事によってである。

中田宿の出発は、江戸幕府日光街道を整備する過程で、以前の上中田・下中田・上伊坂など、複数の村人を集め、対岸の栗橋宿と一体的に造成されたことにあり、宿場として、隣の古河宿や杉戸宿への継ぎ立て業務も毎月を十五日ずつ半分に割り、中田・栗橋が交代であたるという、いわゆる合宿であった。

本陣・問屋や旅籠・茶店などの商家が、水辺から北へ、船戸、山の内、仲宿(中町)、上宿(上町)と、途中で西へ曲の手に折れながら現在の堤防下まで、延長五三〇メートルほど続いて軒を並べていたが、ほとんどは農家との兼業であった。

天保十四年(1843)の調査では、栗橋宿四〇四軒に対し、中田宿六九軒となっている。ただし、一一八軒とする記録もある。 平成十九年一月 古河市教育委員会」(説明版より)

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街道を行くと「鶴峰八幡宮」がある。ここで御朱印をもらうと共に一休みしよう。

境内には「日光街道・旅の神」と「「水神社」「八坂神社」「浅間神社」「道祖神社」「琴平神社」が祀られており、「足踏み祈願、健康・安全・病気平癒・災除」の五柱の神等の御前で祈願 江戸時代より皆立ち寄りお参りし旅立った。左、右、左の足踏みを三回繰り返す。」と記された木札が立っている。横には「住吉神社」等が祀られている。

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「鶴峰八幡宮」の隣には「光了寺」がある。

ここは、静御前を葬ったという栗橋の「高柳寺(光了寺)」が移転したもので静御前後鳥羽上皇から賜ったという「蛙蜊龍(あまりりゅう)の舞衣」、義経肩身の懐剣・鐙(あぶみ)等が保存されている。境内には芭蕉の句碑が置かれている。

- いかめしき音や霰の檜木笠 -

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「光了寺」から10分ばかり歩くと「中田の松原」と書かれた説明版が立っている。

日光街道の踏切辺りから原町入り口にかけて古河藩二代藩主永井信濃守が植栽した松並木があった。「東海道にもこれほどきれいな松並木はない。」と言われたほどであったという。

先には「立場茶屋」があったそうで当時は旅人で賑わったことだろう。

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原町に入ると「十九夜塔」があり、「関宿境道」と刻まれた道標を兼ねている」。

道路を挟んだ古河第二高等学校の校庭に「原町の一里塚」が復元されている。江戸・日本橋から十六番目(十六里目)の一里塚である。(受付の先生にお願いし中へ入れてもらった。)

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すぐ先には、「左にっこう 右みちのく」と刻まれた道標が民家の玄関先に置かれている。

原町自治会館の先には、「祭禮道道標」がある。祭禮道は古賀の産土神・雀神社祭禮の際に旅人の迂回路になったのだそうだ。

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しばらく行くと古河宿「原町口木戸跡」で三叉路に古河宿の灯籠モニュメントが立っている。古河宿の江戸側の入口である。

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本日はここまで。JR宇都宮線古河駅から帰宅。

奥の細道 一人歩き 8 幸手宿-栗橋宿

7日目(2019122日(火))幸手宿-栗橋宿

東部日光線幸手高野台駅から日光街道(国道4号線)に戻り先へ進む。上高野小入口の信号から旧道に入る。しばらく行くと幸手市南公民館の玄関先に上高野村道路元票が置かれている。彫られている文字が読めないので公民館の方に聞いてみたが「勉強不足でごめんなさい。」という事だった。

説明版によれば、元は御成街道沿いにあったものだが平成に入って旧日光街道のこの場所に移転したとのこと。

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道路元票から15分ぐらい歩くと「日光道中日光御成道合流地点」の説明版が立っている。

日光道中日光御成道合流地点 幸手市南二-十‐三十地先

 日光道中は宇都宮まで奥州街道を兼ね。千住から草加・春日部を通り幸手へと至り、ここで日光街道に合流します。川口・鳩ケ谷・岩槻を抜けて幸手に至る御成道は家光の時代に整備され、徳川家康を祀る東照宮に参詣する代々の将軍が通行しました。

また、地元で羽生道と呼ばれている道も合流しており、ここを多くの旅人が行きかったと思われます。」幸手市教育委員会・説明版より

当時は、随分賑わったことだろう。

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すぐ先の道の傍らには石仏や石塔が集められている。

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すぐ先には「太子堂」がある。中には聖徳太子が祀られているのだろう。

その先には「神宮寺」がある。ここは源頼朝が奥州征伐の途中に戦勝を祈願した寺だそうだ。

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しばらく行くと東部日光線に出会い、踏切を越えた志手橋交差点で再び国道4号線に合流する。信号の先に「神明神社」がある。ここは、伊勢神宮の分霊を祀った神社で境内には「螺不動(たにしふどう)」がある。螺を描いた絵馬を奉納して祈願すれば眼病に霊験あらたかだそうだ。参道の入口には高札場があったそうだが今はその跡は見受けられない。

このあたりが幸手宿の入口であろう。

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6宿 幸手宿 (杉戸宿より一里二十五町(約5.8キロ)

本陣1、旅籠二十七軒、宿内家数九百六十二軒、宿内人口三千九百三十七人

天保十四年(1843日光道中宿村大概帳による)

古くは田宮町とも呼ばれた幸手の中心部は、江戸幕府による街道整備の結果、日光道中6番目の宿場である幸手宿として発展した。徳川将軍が日光社参で通る日光御成道が上高野村で合流、また宿内で日光社参の迂回路である日光御廻り道、更に外国府村で筑波道が分岐し、陸上交通の要衝として大いに栄えた。(日光街道幸手宿 説明版より)

神明神社のすぐ先には「明治天皇行在所跡碑が説明版と共に立っている。

しばらく行くと、「日光街道幸手宿」の説明版が立っている。

 

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1丁目(南)の交差点の右手のポケットパークに「問屋場跡」の説明版があり、右手の「うなぎ義語屋」は「本陣・知久家跡」である。

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本陣跡から10分ばかり先を左手に入ると「聖福寺」である。聖福寺は、浄土宗の寺で本尊は阿弥陀如来である。徳川三代将軍家光が日光社参の時に休憩所として使用した。また、天皇の例幣使や歴代将軍の休憩所となった。

入口には芭蕉曽良の句碑が置かれていて、

- 幸手を行くかば栗橋の関 - 蕉

- 松風をはさみ揃ゆる寺の門 - 良

と刻まれている。

奥の細道の旅を終えた芭蕉4年後の元禄六年九月十三日に江戸・深川の芭蕉庵で句会を催したときにみちのくの旅を想い曽良と共に詠んだ句だということである。

(山門の勅使門や句碑の写真を撮ったのだが保存されていない。消去しまったのかもしれない。残念!! どうも撮影した写真の取扱いが良くない。)

さて、街道に戻ったすぐ先が「幸手の一里塚」があった所で「幸手の一里塚跡」の説明版が立っている。江戸・日本橋から12番目(十二里目)の一里塚である。

 

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街道はその先で国道4号線と分かれ旧道に入り、内国府間(うちごうま)交差点で再び国道4線に合流する。内国府間交差点から30分ばかり行くと権現堂川の堤が散策コースになっていて水仙の群生地には水仙が咲き乱れていた。権現堂堤は、江戸を洪水から守るために寛永十八年(1641)に築堤されたのだそうだ。

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権現堂堤が街道と交差するところに「明治天皇権現堂堤御野立所」と刻まれた碑が立っている。

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明治天皇が奥州巡幸の際に立ち寄ったことから命名された「行幸橋」を渡りきると左手が旧道である。しばらく行くと「筑波道追分道標」が置かれている。道標には「左・日光道」「右・つくば道」「東・かわつま前ばやし」と刻まれている。「かわつま」は現在の茨城県五霞(ごか)村字川妻、「前ばやし」は茨城県総和町前林の事である。道標は、安政四年(1775)の建立。(幸手市教育委員会の説明版より)

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追分道標から5分程歩くと「雷電社湯殿社」があり境内には馬頭観音青面金剛庚申塔如意輪観音崎像十九夜塔等が置かれている。ここは、内国府間村の鎮守である。

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ここから先は国道4号線の下道を進み小さな円形のトンネルをくぐることになるがこのトンネルの辺りが幸手市久喜市の境である。

しばらく行くと左手に一里塚の説明版が立っている。江戸・日本橋から13番目(十三里目)の「小右衛門の一里塚」である。

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国道4号線は、やがて東北新幹線の高架をくぐり、川通神社の所で旧道は国道と分かれる。

河通神社の鳥居には「香取宮八幡宮」と刻まれている。境内の常夜灯は文化十一年(1814)の建立だそうだ。

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5分ばかり先には「会津見送り稲荷」がある。久喜市HPによるとこの稲荷神社は狐に乗る茶吉尼天を埼信とした稲荷社だそうで、以下のような記載がある。

「江戸時代、会津藩主の参勤交代による江戸参向に先立ち、藩士が江戸へ書面を届けるためにこの街道を先遣隊として進んでいました。ところが、栗橋宿下河原まで来ると地水のために通行できず、街道がどこかさえも分からなくなってしまいました。大変困っているところへ突然、白髪の老人が現われ、道案内をしてくれたといいます。そのお陰で、藩士は無事に江戸へ着き、大事な役目をはたせたといいます。

また、道が通行できず、茶店でお茶をご馳走になっている時に、大事な物を忘れてきたことに気づき、そのために死を決意した際、この老人が現われ、藩士に死を思い止らせたともいわれています。後になってこの老人は狐の化身と分かり、稲荷様として祀ったとされています。」(久喜市HPより)

 

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稲荷社から15分ばかり歩いて左に入ると「深廣寺」がある。境内には「南無阿弥陀仏」と刻まれた高さ3.5メートルの六角名号塔が21基並んでいる。

 

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旧道に戻り、先の栗橋駅入口の交差点から栗橋駅hへ、JR宇都宮線で帰宅。

街道脇には悲劇のヒーロー源義経の愛妾・静御前の墓への参道の碑が置かれている。

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奥の細道 一人歩き 7 杉戸宿

6日目(201914日(金))杉戸宿

前回はあまりに疲れて馬頭院からわき目もふらず東武動物公園駅にたどり着いたという感じであったため、今日は馬頭院まで戻っての再開である。

馬頭院は本尊の「馬頭観世音菩薩」とともに杉戸七福神の「大黒天」が祀られている。

境内には「馬の事悪と厄とを食い尽くす 旅おも守馬頭観音」と刻まれた碑が置かれている。

先へ進もう。10分ばかり行くと旧道と並行して散策道が通っているが旧道を歩くことにする。

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更に10分ばかり歩くと「三本木の一里塚」の説明版が立っている。江戸日本橋から十里目(10番目)の一里塚である。このあたりが宿場町の入口であろうか。

5宿 杉戸宿 (粕壁宿より一里二十一町(約6.6キロ)

本陣1、脇本陣2、旅籠四十六軒、宿内家数三百六十五軒、宿内人口千六百六十三人

天保十四年(1843日光道中宿村大概帳による)

元和二年(1616)近郊の村を集めて宿場町を作った。五と十のつく日に六斎市が立ち近郊の商業の中心地であったのであろう。

一里塚跡の先、清池二丁目の信号の所に文政五年(1822)創業の銘酒「杉戸宿」の蔵元である関口酒造がある。旧屋号は「豊島屋」。入り口に酒粕540円のはりがみがしてあったのでこれを購入。寒い日には粕汁でも作ってみよう。

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関口酒造を右手に入ると来迎院(らいこういん)がある。本尊は不動明王でその像は運慶の作と伝えられている。奥州・藤原三代の守護仏であったという。ここには杉戸七福神の恵比寿も祀られている。

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街道に戻るとすぐ先に「高札場」が再現されている。

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そのすぐ先を右に入ると「近津神社(ちかつじんじゃ)」がある。ここは、清地村の鎮守で貞享元年(1684)の創建で社殿には見事な彫刻が施されていたそうだが平成13年に焼失してしまったのだそうだ。境内には元治元年(1864)建立の「見返り狛犬」がある。

そのすぐ先には杉戸宿新町北側の鎮守「神明神社」がある。

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先の本陣跡地前の信号の手前に明治天皇御小休所跡の碑が置かれている。ここは杉戸宿の問屋場跡である。

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信号を左折し、しばらく行くと旧道(日光街道)と並行して「みなみがわ散策道」が通っている。杉戸町の宿場めぐりマップには「旧日光街道」と記されている。

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散策道の南には「大落古利根川」が流れており川沿いを歩くと「富士浅間神社」がある。境内の富士塚の自然石の一つに芭蕉の句、「八九間空で雨降る柳哉(はっくけんそらであめふるやなぎかな) はせ越(はせお)(松尾芭蕉)」と刻まれているそうだがほとんど読めない。

句の意味は「春雨は降ったりやんだりだけど八・九間(15メートル前後)もある柳の大木の下だけは雨が降っている。」だそうだ。

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川沿いを先へ行くと「河原の渡し」があった所で今は「河原橋」が架かっている。

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「本陣跡地前」信号の交差点まで戻り再び旧道を歩く。信号の先には、脇本陣・蔦屋権左衛門跡、長瀬本陣跡、脇本陣・酒屋伝右衛門跡が並んで言うということだが、いずれも確認出来なかった。

すぐ先の「愛宕神社前」の交差点を北に延びる道が「関宿道」である。傍らには道標があり

「久喜方面」(関宿道)「幸手方面」(日光街道)と刻まれている。

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街道沿いには、昔ながらの家屋と蔵を残した小島定右衛門邸(角穀屋跡)がある。

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左手には、永禄三年(1562幸手城主・一色義直が開山した「宝性院」がある。胎蔵界大日如来で杉戸七福神毘沙門天も祀られている。境内には「不動明王像」「青面金剛庚申塔」などが置かれており文化七年(1810)建立の馬頭観音像があり「日光道中」と刻まれている。

御朱印をもらうため、住職の家へ立ち寄ったところ、奥さんがお茶とお茶菓子を出してくれたのでつい話し込んでしまった。これも街道歩きの楽しみである。

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斜め向かいには、旧家・渡部勘左衛門邸がある。当時は多数の小作人を抱えていたという。

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先の街道沿いにも古民家が目にはいる。このあたりはもう宿場はずれなのだろう。

10分ばかりで旧道は国道4号線に合流する。30分ほど歩くと「山田うどん」の駐車場内に「荻島の一里塚跡」の説明版が立っている。江戸・日本橋から十一里目(11番目)の一里塚である。

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5分ばかり行くと「幸手団地入口」の交差点がある。このあたりが杉戸市と幸手市の境だろう。

そろそろ午後4時である。今日は、朝が遅かったうえに来迎院、宝性院の住職の奥さん?と話し込んでしまったので随分時間がかかってしまった。今日はここまで、東武日光線杉戸高野台駅より帰宅。

 

奥の細道 一人歩き 6 粕壁宿-杉戸宿

5日目(2018924日(土))粕壁宿-杉戸宿

4宿 粕壁宿 (越谷宿より二里三十町(約10.0キロ)

本陣1、脇本陣1、旅籠四十五軒、宿内家数七百七十三軒、宿内人口三千七百一人

天保十四年(1843日光道中宿村大概帳による)

粕壁宿は古利根川の舟の便により江戸と結ばれ、物資の集散地として栄え、四と九の付く日に六斎市が立ち大いに賑わった。

今日も武蔵野線、東部スカイツリーラインを乗り継いで一ノ割駅から街道(国道4号線)に戻り、街道を右に入ると古利根川に藤塚橋が架かっている。ここは「三蔵渡し」と呼ばれた渡船場があったのだそうだ。川には水鳥が遊んでいた。

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国道4号線を先に行くと一宮の交差点に八坂神社があり、ここで国道と分かれ再び旧道を歩くことになる。この八坂神社は粕壁宿の市神として信仰され牛頭天王社と呼ばれていたそうである。このあたりが粕壁宿の入口であろう。

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旧道に入る前に東八幡神社を訪ねて見た。この神社は粕壁宿の鎮守で新田義貞の鎌倉攻めに功があった春日部時賢が鎌倉鶴岡八幡宮を勧請したものである。境内の大ケヤキは御神木で樹齢六百年だとのこと。また「三之宮卯之助の力石」なるものがあり「卯之助は、江戸時代の文化四年(西暦一八〇七年)越谷市在の三之宮に生まれ江戸時代の見世物興行の力持ちとして日本一になったこともあり、牛一頭を乗せた小舟を持ち上げるのが売り物だったと言う。この百貫目(三七五kg)の力石は、卯之助が八幡神社で興行したさいに、持ち上げた記念に奉納されたものである。-東八幡神社―」と記された説明版がたれられている。

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一宮の交差点に戻り、八坂神社の向かいにある東陽寺には伝芭蕉宿泊の寺碑「廿七にち夜カスカベニ泊ル江戸ヨ九里余」が置かれている。

奥の細道には「弥生も末の七日、あけぼのの空朧々として、月は有明にて光をさまれるものから・・・・」「千じゅと云う所にて舟を上がれば・・・・」とあるから芭蕉327日早朝、深川を舟で出発、千住で舟を下りて粕壁宿にその日(327日)の夜に着いてたことになる。

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芭蕉1日目の宿泊地は、芭蕉奥の細道に「其日漸(そのひようよう)早加と云宿にたどり着にけり。」と書いているため草加という説もあるようだが、同行の曽良は「カスカベ」と書いている。次の宿泊地が間々田(栃木県小山市)であるから草加からは遠すぎる。やはり、粕壁宿であろうかと思うがここでも説が2つある。この「東陽寺」説と宿場はずれの「小淵山観音院」説である。私は、「東陽寺」説に1票を投じたい。なぜなら深川を早朝に立ち、すでに夜になっているのに宿場を抜けた先の「観音院」に泊まるとは思えないからである。後ほど「観音院」も訪ねてみよう。

旧道に入ると雰囲気が一転する。絶え間なく車が走る国道の騒音から解放されるからだ。

旧道を5分ぐらい歩くと現在の金子歯科医院辺りに「脇本陣跡」の標柱が立っている。「天保元年(1803)この地で旅籠屋を営んでいた高砂屋・竹内家が務め嘉永二年(1849)から幕末までは本陣となった。」と左側面に書かれている。

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さらに5分ぐらい先の群馬銀行の辺りに「本陣跡」の標柱が立っていて左側面に「本陣は大名や高層が宿泊・休憩した公用の施設である。古くは、関根次郎兵衛家が務め、その後、現在地の関根助右衛門家、見川家、小沢家、竹内家の順に四度移転した。日光山法会など公用の通行者が多い時には、最勝院・成就院が宿泊施設として利用されることもあった。」と記されている。関根次郎兵衛家は仲町郵便局辺り(確認できず)で年代は不明、関根助右衛門家はこの地でこれも年代は不明、見川家は埼玉りそな銀行の向かい辺りで宝暦四年(1754)~、小沢家は群馬銀行あたりで文化六年(1809)~、竹内家は先ほど述べたように金子歯科医院辺りで、嘉永二年(1849)本陣を務めた。

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以前に中山道を歩いたが、本陣の変遷をこれほど詳しく説明しているのはこの粕壁宿ぐらいであろう。

さて小沢家本陣跡のすぐ先、「田村」の表札がでている旧家の前に道標が立っている。非常に読みにくいがどうやら「東 江戸」「西南 いハつき」、裏側に「北 日光」と刻まれている。

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5分ばかり歩くと問屋場跡と並んで慶長年間創業の「永島庄兵衛商店」があろ。屋根に鍾馗様が乗っているのだが写真には入っていない。(残念)

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10程歩くと黒い土蔵「佐渡屋跡」がある。これは、明治時代前期築の土蔵で国登録有形文化財だそうだ。道路を挟んで向かい側が高札場跡である。

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旧道はここを右折し、古利根川に架かる新町橋を渡る。「新町橋・上喜蔵河岸」の標柱が立っている。

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旧道は、橋を渡り切ると左折である。すぐに「八坂香取稲荷合社」があり隣の「仲蔵院」の境内には寛政四年(1792)建立の青面金剛庚申塔が置かれている。

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先へ進もう。10分ばかり先に「史跡小渕一里塚跡」の碑が置かれている。江戸・日本橋から九番目(九里目)の一里塚である。傍らに天保三年(1832)建立の庚申塔が立っている。

すぐ先には追分道標が置かれている。宝暦四年(1754)建立の道標には「青面金剛、左日光道」、宝永六年(1709)建立の道標

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旧道は、先の小淵の交差点で再び国道4号線に合流する。しばらく行って左手に入れば「観音院」である。本尊の聖観音は、「こぶとり観音」とも呼ばれイボ、コブ、アザにご利益があるといわれている。桜門(仁王門)は市の有形文化財に指定されている。境内には「毛のいえば(ものいえば)唇寒し秋の風」と刻まれた芭蕉の句碑が置かれている。奥の細道紀行で芭蕉はこの寺に宿泊したという説がある。

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日光街道の道しるべ」の説明版がっている。この寺の本尊は阿弥陀如来で道標には「左日光」「右江戸」と刻まれている。道しるべには以下の説明文が記されている。
この道しるべ は、天明四年(一七八四)堤根付の農民四十二人が協力して、新川村(春日部市)の石工・星野常久に作らせ、江戸と日光方面を知らせた。また、この道路の向い側の高野家が、立場を営み、馬で荷物を運ぶ人・駕籠をかつぐ人・旅人・馬などが休む場所となっていたので、この道しるべを多くの人々が見ながら旅を続けたと思われる。
この石塔は、庚申の夜、人間の身体にあって人を短命にするという三尸を除いて、青面金剛 に疫病の予防治療と長生きができるように祈る庚申信仰 を表すものであり、道しるべを兼ねたものである。
なお、見ざる・聞かざる・言わざるは、三尸 になぞらえ、眼や耳や口をふさいで悪事を天の神に報告させないという意味がある。」 杉戸町教育委員会

寺の向かい辺りが高野家が茶屋を営んだとされる「堤根立場跡」である。

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15分程歩くと堤根(南)の交差点で旧道が復活する。途中、昔の風情を残した旧家も見受けられた。交差点のすぐ先が「馬頭院」で本尊は伝教大師策の馬頭観音である。

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今日は、かなり疲れたので東部スカイツリーライン・東部動物公園駅から帰宅。

奥の細道 一人歩き 5 草加宿-粕壁宿

4日目(2018923日(土))越谷宿-粕壁宿

3宿 越谷宿 (草加宿より一里二十八町(約9.0キロ)

本陣1、脇本陣4、旅籠五十二軒、宿内家数千五軒、宿内人口四千六百三人

天保十四年(1843日光道中宿村大概帳による)

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ひざと腰を痛めたのと猛暑のため、長らく休んでいたので久々の街道歩きである。

芭蕉は、「奥の細道」で草加から先の道中については何も書いていない。草加の次は、いきなり「室の八嶋」(栃木市惣社町)に記述が飛んでいる。

この先は芭蕉が歩いたであろう日光道中の街道歩きを楽しみながら先へ進むことにする。

さて、JR武蔵野線、東部スカイツリーラインを乗り継いで越谷駅から日光街道に戻り街道歩きの再開である。

新町八幡神社を左手に見て先へ進むと越谷二丁目の交差点である。江戸・日本橋から六番目(六里目)の「越谷の一里塚」がこのあたりにあったというのだが今は何の形跡もない。

先へ進むと「タブノキの家」があり黒板塀内にある「タブノキ」は樹齢四百年以上で市の天然記念物に指定されているのだという。

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すぐその先には脇本陣四ツ目屋跡がある。当時は浜野家が務めたが今は「木下半助商店」になっている。シャッターに描かれているイラストが脇本陣のイメージとは重ならないのだが・・・・。

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ここを左に入ると「浅間神社」があり、市の文化財に指定されている樹齢約六百年と推定されるケヤキがそびえている。説明版によれば幹回り7メートル、樹高23メートル、幹は地上6メートルの所で6本に分岐し、更に上方で多数の枝を広げている。幹の西側に幅1.5メートル、高さ2.3メートルにわたって洞穴状の枯損部があるが、樹勢は極めて旺盛であるとのことである。

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街道に戻ると、向かい側に「塗師屋(ぬしや)」、「鍛冶忠」と蔵造りの商家を残している旧家が続く。このあたりに問屋場跡があるというのだが形跡を見つけることが出来なかった。

塗師屋」は太物荒物店塗師屋市右衛門跡で漆を扱い、後に太物(綿、麻織物)を商ったのだそうだ。

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さらに先には、「市神社」があり、ここは村の鎮守で二と七のつく日は「六斎市」が立った。

六斎市とは室町時代から江戸時代にかけて月に6回開かれた定期市である。

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元荒川(明暦年間は荒川の本流であった。)に架かる大橋を渡ると大沢と呼ばれる集落で「きどころ」の看板が掛かっているパン屋のビルがある。ここが大松本陣跡(大松屋福井権右衛門跡)である。

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1ブロックほど先に「虎屋脇本陣跡」と「玉屋脇本陣跡」が向かい合っている。

虎屋脇本陣は、現「三枡屋」というそば屋辺りで山崎次兵衛が務めた。玉屋脇本陣は、今は「深野造園」になっている。この脇本陣深谷彦右衛門が務めた。玉屋脇本陣跡のすぐ横が問屋場跡で現在は「若松印刷」になっており当時は江沢太郎兵衛が務めた。大松本陣から問屋場までわずか100メートル足らずの間に本陣、脇本陣2軒、問屋場が集まっている。当時は越谷宿の中心地であったのだろう。それにしても本陣がパン屋に、脇本陣がそば屋や造園に、問屋場が印刷屋に変わっているのを見ると時代の流れを感じざるを得ない。時の流れと共に街の様子も人のこころも変わっていく。これから先は今までの数倍の速さで時代が変わっていくのだろう。ただ、どんな時代になろうとも昔の人が育んだ日本のこころは大切にしたいものである。

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少し歩くと左手に「照光院」という寺がある。ここは真言宗の寺で梵鐘は安永八年(1779)の鋳造だそうだ。さらにその先を右に入ると「香取神社」がある。香取神社は、大沢の総鎮守で越谷市の㏋には、「創建は、「明細帳」に応永年間(13941428)と記載されています。中世はこの辺りは下総国に属していたことから、下総国一宮香取神社を村の鎮守として

勧請(かんじょう)し、鷺後の地に社殿が建立されましたが、後に奥州街道の整備に伴い、寛永の頃(16241644)に今の地に移築したといわれています。」と記されている。

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ところで越谷の地名の由来だが、このあたりは武蔵野台地の麓(腰)あたる低地(谷)であるところから「腰谷」となり、転訛して「越谷」となったのだそうだ。

大沢の集落を過ぎ、越谷宿に別れを告げてしばらく行くと「青面金剛庚申塔」が置かれている。この庚申塔は古奥州道道標を兼ねていて「右じおんじ のじまど道」と刻まれている。

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旧道を行くと右手の祠の中に宝永七年(1710)建立の青面金剛庚申塔が置かれている。

その先には馬頭観音地蔵尊などが集められており、さらに先の墓地の片隅に青面金剛庚申塔などが置かれている。

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このあたりから下間九里という集落である。江戸・日本橋から七番目の一里塚、下間九里の一里塚があったようだが今は、その存在も場所もわからない。

しばらく行くと、「下間九里香取神社」がある。ここは、下間久里村の総鎮守で例大祭に奉納される獅子舞は太夫獅子、中獅子、女獅子の三頭一組で舞う「祈祷獅子」の形態を保っていて埼玉県の無形民俗文化財に指定されているのだという。

 

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神社から1キロばかり行った辺りには「間久里の立場」があった。八軒の茶屋が軒を連ねており、中でも秋田屋には参勤の佐竹候が必ず立ち寄り名物の鰻の蒲焼を食したのだそうだ。秋田屋には藩主専用の座敷「秋田炉(しゅうでんろ)」があったのだという。

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旧道は、この先国道4号線に合流し、さして見るものもなく歩いていくとせんげん台の先で新方川に架かる戸井橋を渡る。新方川は、元は千間堀と呼ばれ越谷市春日部市の境である。

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春日部市に入り、さらに4号線を行くと備後東四丁目辺りに地蔵立像二体が安置されている地蔵祠がある。さらに約1キロ先に「史跡備後一里塚碑」と刻まれた碑が置かれている。江戸・日本橋から八番目(八里目)の一里塚である。

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本日は、ここまでとし、東部スカイツリーライン・一ノ割駅から帰宅。

 

寄り道 上州・沼田

201893日(月)

猛烈な暑さと自然災害に苦しめられた今年の夏もやっとその勢いを弱めたようである。

青春18きっぷが1回分残っていたので日帰りで沼田へ行ってみることにした。

沼田・・・・豊臣秀吉の北条征伐の後、真田信之真田昌幸の長男・幸村の兄)が沼田城主となり沼田を支配したことでもう一つの真田の里といわれている。

さて、浦和から高崎線上越線を乗り継いで沼田へ。全く事前の準備をしていなかったので

沼田駅の待合室にあるパンフレットがありがたい。特に「天空の城下町 真田の里沼田 城下町散策MAP with 沼田女子高校」がいい。早速、女子高生手作りのMAPを片手に城下町を散策することにした。

沼田駅前には、天狗の像があり、六文銭の家紋と共に「真田の里 上州沼田」と書かれたのぼりがはためいている。月曜日の早朝とあって静かな空気が漂っている。

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駅前通りを歩き清水町の交差点で左折、まずは「榛名神社」で今日1日の安全を祈願。

境内には「心洗岩」なるものが置かれている。

榛名神社、御祭神は埴安姫命(はにやすひんめのみこと)、日本武尊(やまとたけるのみこと)、菅原道真公(すがわらみちざね)。

由緒書きには、「鎌倉時代榛名山御師の活動により榛名神社の信仰が広められた。(中略)戦国時代となり、沼田万鬼顕泰は武尊様の社地にあらたに倉内城を建てること を決め享禄二年(一五二九年)武尊様、榛名様、天神様を合せ祀り、現在の地に 社殿を建立、そして元和元年(一六一五)真田信之公が改築、現在に至る。(後略)」とある。

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清水町の交差点まで戻り、「滝坂」と名付けられた坂を上る。この坂は急で息が切れ、汗が噴き出す。とどめは、アーケードになっている急階段である。上り切るとしばらく休まないと歩きだせない。

休憩の後、左へ歩くと真田城址である。入り口には冠木門があり「日本の歴史公園百選 沼田」と書かれた碑が立っている。

 

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沼田城

沼田城は、利根川と薄根川の合流点の北東、河岸段丘の台地上に位置する丘城。二つの川は約70mの崖となっており、典型的な崖城でもある。

沼田は北関東の要衝であり、軍事上の重要拠点として上杉氏・後北条氏・武田氏といった諸勢力の争奪戦の的となった。天正十八年(1590)秀吉の北条征伐後沼田城は、真田昌幸に与えられ長男の真田信幸の支配城となった。

城址公園には、鐘楼、信之・小松姫の石像、天守跡の碑、本丸堀跡などがある。

 

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ここからの眺めは素晴らしく、名胡桃方面や日本百名山の一つ谷川岳、三峰山が見渡せる。

名胡桃城は、沼田城の有力な支城で真田の家臣・鈴木重則が城代であったが北条の家臣・猪俣邦憲の姦計により北条に占領された。その後信幸が沼田城を支配するとともに廃城となった。

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沼田城は、利根沼田の台地上に位置するが河岸段丘とは「平坦な部分と崖が交互に現れる地形の事で利根沼田の河岸段丘は日本一の美しさを誇る。この特殊な地形に目をつけた真田氏によって「天空の城下町」は生まれた。」~城下町散策MAP with 沼田女子高校より~

沼田市HPの写真を見れば、確かに「天空の城下町」である。

 

f:id:tyoyxf1:20180920153837j:plain(沼田市HPより)

ここで、真田信幸(信之)について少し。

昌幸の長男で幼名は源三郎。文禄三年(1594)、従四位下・伊豆守に叙任される。

信之は、信濃の小国でありながら知略を尽くして存在感を示した知将・父昌幸や大坂の陣で華々しい活躍を見せ「真田日本一の兵」と称賛された弟・幸村(信繁)ほど語られてはいない。

しかし、二度の上田合戦や大坂の陣で徳川を苦しめた「徳川の天敵」ともいえる真田家を守り抜いたその器量は「名将」にして「名君」と言えるであろう。

戦上手は、昌幸や幸村に引けを取らない。第一次上田合戦では、昌幸に従い大いに勝利に貢献した。家康は、信幸の才能を高く評価し徳川四天王の一人・本田忠勝の娘「稲姫、(後の小松殿)」を養女としたのち信幸に嫁がせた。

1600年、上杉征伐に向かう途中、石田三成の決起を知った昌幸と幸村は大坂方に味方することを決意するが、戦乱の世を終わらせるのは、家康しかいないと信じて疑わなかった信幸は、犬伏の陣で昌幸、幸村と袂を分かち家康に従う。

「親子、兄弟が敵味方に分かれて戦うのもあながち悪う(あしゅう)はござるりますまい。上田が立ち行かなければ沼田が・・・・」(幸村)「沼田が立ち行かなくなった時は上田があるという事か」(信幸)~NHKドラマ真田太平記の名場面が目に浮かぶ。~

関ケ原」の後、義父・本田忠勝と共に昌幸、幸村の助命嘆願を続けると共に徳川家への忠誠の意思を示すため「幸」の字を「之」と改め「信之」とした。「大坂の陣」後、家康により沼田を安堵されるが、秀忠により松代への国替えを命じられる。

その後、信幸はひたすら真田家を守り、徳川三代将軍・家光に、「豆州(伊豆守)は、天下の宝よ」と言わしめ、諸将からは、老いてなお「信濃の獅子」と評された。

徳川頼宣(よりのぶ)」(徳川八代将軍・吉宗の祖父で紀州徳川家の祖とされる人物)は、信之を尊敬し、たびたび自邸に信之を招き、武辺話を聞いたという逸話が残っている。

信之は、九十三歳の長寿を全うし、辞世の句、「何事も移れば変わる世の中を夢なりけりと思いざりけり」を残して世を去った。(時代は移り世の中は変わり愛する人たちもいなくなってしまった。この世は夢であったのだろうか。とでも読み解けばいいのだろうか)信之の死を家臣のみならず百姓までもが大いに嘆き、出家する者が相次いだという逸話は、信之が家臣や領民にいかに慕われた名君であったかうを物語っている。

また晩年、信之はしばしば幕府に隠居を願い出ているがその度に慰留され、91歳になるまで隠居できなかった。隠居にあたり時の将軍・家綱は信之を「天下の飾り」と表現したといわれている。

公園内の観光案内所で「沼田城の古地図」と「切り絵・沼田かるた」を購入し、正覚寺へ。

正覚寺には信之の正室・小松殿の墓がある。

大蓮院殿(小松殿)の墓は総高271センチの宝篋印塔で、塔身に「阿弥陀三尊(梵字) 大蓮院殿 英誉皓月 元和六年庚申二月廿四日 施主敬白」の刻銘があり、江戸時代初期の宝篋印塔の特徴を良く表し、沼田市重要文化財に指定されている。

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小松殿について少し。

真田信幸(信之)の正室・小松殿は、天正元年(1573)に徳川四天王の筆頭・本田忠勝第一子(長女)として生まれる。幼名は稲姫(いなひめ)

第一次上田合戦で徳川勢7000の大軍をわずか1200の手勢で撃退した真田父子(昌幸、信幸、幸村)の名は、一躍天下に轟くことになる。

真田の軍略を恐れた本田忠勝は真田家の取り込みを図り、娘・稲姫を家康の養女として真田家の長男・信幸に嫁がせた。(孫・松代藩三代藩主・真田幸道の由緒書きでは、小松殿は徳川秀忠の養女とされているのだが・・・・)稲姫(小松殿)は14歳、信幸は24歳であった。

1600年上杉征伐に向かう途中、下野(栃木県佐野市)の犬伏の陣に石田三成の密書が昌幸に届く。親子会議の結果、昌幸、幸村は西軍へ、信幸は東軍へ与することになる。

昌幸と幸村は上田に引き返す途中、沼田に寄って孫(真田信幸の子)の顔見たいと、夜半に沼田城に使者を送り入城を申し入れたが、城を守る小松殿は自ら武装して出迎え「例え義父であっても今は敵味方の間柄。主人の留守を預かる者として城の中に入れることはできませぬ。」と入城を拒否。昌幸は、あわよくば、沼田城を占拠しようとも考えていたとされるが「さすがは本多の娘だ。武士の妻女たる者、ああでなければならん。」と、城に入る事を諦め、近くの正覚寺で一泊した。
翌日、そこに小松殿が子供を連れて訪れ、祖父と孫の対面を果たせたと言う。

関ケ原の合戦後、小松殿は九度山に配流された義父・昌幸と義弟・幸村に、自費から仕送りをする一方、真田家の倹約に努め、献身的に夫を支えたと言う。

こういった逸話などから、小松姫は戦国時代における女傑の一人に数えられ、良妻賢母としても誉れ高い。

また、小松姫は、徳川家康徳川秀忠に対して直に意見をする程の才色兼備の女性だったと伝えられている。また、小松姫の遺品の中には『史記』の「鴻門の会」の場面を描いた枕屏風があるが、こうした点からも「男勝り」と評されている所以であろう。

小松殿は元和六年(1620)二月二十四日、江戸から草津温泉へ湯治に向かう途中、武蔵国鴻巣で亡くなった。享年四十八歳。

遺骸は沼田城近くの正覚寺に運ばれて、荼毘にふされ埋葬された。

信之は「我が家から光が消えた」と大いに落胆したという。

戒名は大蓮院殿英誉皓月大禅定尼。
墓は鴻巣市勝願寺、沼田市正覚寺上田市芳泉寺の三つの寺に分骨されている。

正覚寺を出て、沼田市街の中心に位置する辺りに天狗プラザという所があり、中には沼田まつりで担がれる長さ4.3mm幅2.3m、花の高さ2.9mの天狗面が展示されている。

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天狗プラザから歩くこと約10分、沼田藩第二代藩主真田信吉の墓がある天桂寺に着いた。天桂寺の傍らの水路にきれいな水が流れている。城堀川はかつて沼田の町の生命線だった。天桂寺の水路お石垣の一部は当時のまま、残っている。

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ちょうど12時を過ぎたので「城下町散策MAP」に書かれている「姫本」という店で「だんご汁」を昼食にいただいた。

まだまだ訪れたいところはあるが、今日は日帰りなのでここまで。

割田屋さんで沼田名物みそ饅頭を土産に購入。

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榛名神社」で願解き(がんほどき)をし、御朱印をもらって帰宅。

奥の細道 一人歩き 4 草加宿-越谷宿

3日目(2018421日(土))草加宿-越谷宿

2宿 草加宿 (千住宿より二里八町(約8.8キロ)

本陣1、脇本陣1、旅籠六十七軒、宿内家数二千三百七十軒、宿内人口三千六百十九人

天保十四年(1843日光道中宿村大概帳による)

- ことし元禄二とせにや、奥羽長途の行脚只かりそめに思ひたちて、呉天に白髪の恨を重ぬといへ共、耳にふれていまだめに見ぬさかひ、若(もし)生て帰らばと、定なき頼の末をかけ、其日漸(そのひようよう)早加と云宿にたどり着にけり。-(奥の細道草加

(ことし、元禄二年、奥羽への長旅をただなんとなく思い立ち、遠い辺境の空のもとで辛苦のために白髪になってしまうようなことが度重なろうとも、話に聞くまだ見ぬ土地を訪ね、もし生きて帰ることができればと、かすかな望みをかけて歩を進め、その日、ようやく早加(草加)という宿にたどり着いた。)

さて、421日早朝に家を出「草加駅」に着いたのが7時半過ぎ、日光街道へ戻ると八幡神社がある。ここは草加宿下三町の鎮守で獅子頭雌雄一対は市の指定有形文化財になっている。

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八幡神社の隣に藤代家住宅がある。この住宅は明治初期建築の町屋造りで国登録の有形文化財に指定されている。その先が問屋場跡で明治44年建立の道路元票が立っている。元票の表には「千住町へ貮里拾七町五三間三尺・越谷町へ壱里三拾三町三拾間三尺」、左側面には「距 浦和町元帳四里貮拾町拾三間三尺・距 栗橋官かつ境拾里拾三間五尺」、右側面には「谷塚村官かつ境貮拾四町貮間三尺」と彫られている。道路を挟んだ向かいには「三丁目橋」と刻まれた標石置かれている。

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先へ行くと、道路の左手に「大川本陣跡」右手に「清水本陣跡」の碑が立っている。添えられている説明書きによると「草加宿の本陣・「江戸時代に、奥州・日光道中参勤交代の大名休泊宿として、草加宿の本陣がここに置かれました。

大川本陣(~宝暦年間)

清水本陣(宝暦年間~明治初期)
この本陣には、会津藩の松平容頌、仙台藩伊達綱村盛岡藩の南部利視、米沢藩の上杉治憲(鷹山)らが休泊した記録があります。
近くに脇本陣も置かれ、参勤交代の往復にその役割を発揮しました。
本陣は、門、玄関、上段の間がある所が一般の旅籠と異なり、昭和初期にはまだ塀の一部が残っていたと伝えられています。当主は、名主や宿役人などを兼帯していました。」(「今様・草加宿」市民推進会議)とある。

宝暦四年(1754年)まで大川家が本陣職を務めその後清水家が本陣職を譲り受けた。

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しばらく行くと道路の左に氷川神社、右に「おせん茶屋」と名付けられた公園があり、「日光街道」の碑が置かれている。氷川神社は、慶長十一年(1606草加宿の開祖・大川図書の創建だという。おせんさんは、草加せんべいの生みの親で茶屋を営むおせんさんが売れ残った団子をつぶして天日に干し、焼くといいと教えたのが「草加せんべい」の由来だそうだ。

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その先には草加宿明神庵(久野家住宅)がある。この町屋は安政二年(1855年)の大地震に耐えた建物だという。近くに「成田山」の碑が置かれている。

「元祖・源兵衛せんべい」というせんべい屋さんがあったがまだ店が開いていなかった土産を買うことはできなかった。

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その先が神明町交差点の小さな公園があり、草加松原遊歩道の起点になっている。

芭蕉の門人で奥の細道随行し「曽良旅日記」の著者である河合曽良の像、草加せんべい発祥の地と彫られた碑、芭蕉奥の細道と彫られた碑などが置かれており、馬頭観音が祀られている。

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綾瀬川に出会う伝右川に架かる橋を渡って左折すると草加松原遊歩道の入口である。そこには「札場河岸跡」がある。ここは、札場屋・野口甚左衛門の個人所有の河岸で江戸との舟便が盛んであった。傍らに正岡子規高浜虚子草加を訪れた時に詠んだ句碑が置かれている。(写真は逆光で字が読めないが碑には次のように彫られている。)

- 梅を見てのを見て行きぬ草加まで  子規 -

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綾瀬川に沿った遊歩道を歩きだすとすぐに芭蕉像と高浜虚子の句碑が並んでいる。

- 巡礼や草加辺りを帰る雁 虚子 -

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すぐ先には「矢立橋」とかかれた太鼓橋がある。これは「奥の細道」の一説「-行く春や鳥啼き魚の目は泪―是を矢立の初めとして、行く道なをすすまず。」に因んで命名された。

日本の道百選・日光街道と彫られた大きな石碑も置かれている。

遊歩道に沿って流れる綾瀬川は大雨の旅に川筋を変える所から「あやし川」と呼ばれていたが伊能忠次によって堤が整備され川筋が安定した。綾瀬川は、やがて隅田川に出会い江戸に通じる重要な水路であった。

遊歩道の松並木は天和三年(1683関東郡代・伊部半右衛門が植栽したもので当時は「千本松原」と呼ばれた名所であった。

 

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矢立橋を越えると「奥の細道の風景地・草加松原」と彫られた名勝碑が置かれている。

その先には、「百代橋」と名付けられた「矢立橋」と同じような太鼓橋がある。

その手前に「橋名由来・月日は百代の過客にして行きかふ年も又旅人也」と芭蕉奥の細道碑が置かれている。

 

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続いて「松尾芭蕉文学碑・ことし元禄二とせにや・・・・其日漸(その日ようよう早加(草加)と云う宿にたどり着きにけり。」と奥の細道の一説が彫られた碑が置かれている。

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15分ばかり歩くと、東京外環自動車道の高架ガードをくぐることになるがこのあたりが草加松原の北端だろうか。やっとの思いで草加宿にたどり着いた芭蕉曽良の旅姿が壁に描かれている。

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このあたりには「出茶屋」と呼ばれた立場があり当時は賑わったのだろう。

その先左手に「金明愛宕神社」がありさらに先へ行くと綾瀬川に架かる蒲生大橋を渡ることになる。橋の袂には以下のように書かれた碑が置かれている。

蒲生大橋

日光道中分間延絵図(文化三年(1806年)完成)」によると、この橋は、大橋土橋と記されており、長さ124尺、幅2間①尺、綾瀬川に架けられた土橋で御普請場。足立郡埼玉郡の境と解説されている。・・・・」

橋の親柱には、結城家の家老で文人であった水野織部長福(おりべながふく)の句

- 道ぞ永き 日にやき米を 加茂蒲生 -と彫られている。

反対側の親柱には、高浜虚子の句

- 舟遊綾瀬の月を領しけり -が彫られている。

 

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橋を渡ると「蒲生の一里塚跡」がある。江戸から5番目の一里塚である。

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一里塚から先はこれということもないが蒲生郵便局の辺りに当時立場あり焼き米が名物であったどうだ。

しばらく行くと享保十三年(1728)建立の不動明王が祀られている。台座には「是よりさがミ道」と刻まれた大聖寺(大相模不動)への道標を兼ねている。並んで正徳三年(1713)建立の笠付青面金剛庚申塔が祀られている。

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不動明王道標から15分ばかり行くと照蓮院がある。墓所には「千徳丸供養五輪塔」がある。武田勝頼が自刃したとき家臣が遺児の千徳丸を家臣が埼玉県越谷の瓦曽根村連れ帰ったが千徳丸は、早世してしまった。照蓮院のホームページには次のような説明文がある。

「瓦曽根秋山家の祖は、甲斐国武田家の重臣秋山伯耆守信藤であることを伝えています。天正10年(1582)武田家滅亡のとき、信藤とその二男長慶は武田勝頼の遺児千徳丸を奉じて瓦曽根村におちのび潜居しましたが、千徳丸は間もなく病死しました。長慶はこれを悲しみ、瓦曽根村照蓮院の住職となってその菩提を弔りましたが、寛永14年(1637)秋山家墓所五輪塔による供養墓石を造塔しました。これには、「御湯殿山千徳丸」と刻まれてます。」

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すぐ先の三叉路には里程標があり

表里程・東京雷門五里(二十粁)、浦和三里半(十四粁)、大宮五里(二十粁)、川口四里(十六粁)、鳩ケ谷三里(十二粁)、草加一里半、吉川一里、野田二里半、粕壁二里半、岩槻三里

と刻まれている。

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本日はここまで。

東部スカイツリーライン越谷駅からJR武蔵野線南越谷経由で帰宅。