寄り道 上州・沼田

201893日(月)

猛烈な暑さと自然災害に苦しめられた今年の夏もやっとその勢いを弱めたようである。

青春18きっぷが1回分残っていたので日帰りで沼田へ行ってみることにした。

沼田・・・・豊臣秀吉の北条征伐の後、真田信之真田昌幸の長男・幸村の兄)が沼田城主となり沼田を支配したことでもう一つの真田の里といわれている。

さて、浦和から高崎線上越線を乗り継いで沼田へ。全く事前の準備をしていなかったので

沼田駅の待合室にあるパンフレットがありがたい。特に「天空の城下町 真田の里沼田 城下町散策MAP with 沼田女子高校」がいい。早速、女子高生手作りのMAPを片手に城下町を散策することにした。

沼田駅前には、天狗の像があり、六文銭の家紋と共に「真田の里 上州沼田」と書かれたのぼりがはためいている。月曜日の早朝とあって静かな空気が漂っている。

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駅前通りを歩き清水町の交差点で左折、まずは「榛名神社」で今日1日の安全を祈願。

境内には「心洗岩」なるものが置かれている。

榛名神社、御祭神は埴安姫命(はにやすひんめのみこと)、日本武尊(やまとたけるのみこと)、菅原道真公(すがわらみちざね)。

由緒書きには、「鎌倉時代榛名山御師の活動により榛名神社の信仰が広められた。(中略)戦国時代となり、沼田万鬼顕泰は武尊様の社地にあらたに倉内城を建てること を決め享禄二年(一五二九年)武尊様、榛名様、天神様を合せ祀り、現在の地に 社殿を建立、そして元和元年(一六一五)真田信之公が改築、現在に至る。(後略)」とある。

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清水町の交差点まで戻り、「滝坂」と名付けられた坂を上る。この坂は急で息が切れ、汗が噴き出す。とどめは、アーケードになっている急階段である。上り切るとしばらく休まないと歩きだせない。

休憩の後、左へ歩くと真田城址である。入り口には冠木門があり「日本の歴史公園百選 沼田」と書かれた碑が立っている。

 

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沼田城

沼田城は、利根川と薄根川の合流点の北東、河岸段丘の台地上に位置する丘城。二つの川は約70mの崖となっており、典型的な崖城でもある。

沼田は北関東の要衝であり、軍事上の重要拠点として上杉氏・後北条氏・武田氏といった諸勢力の争奪戦の的となった。天正十八年(1590)秀吉の北条征伐後沼田城は、真田昌幸に与えられ長男の真田信幸の支配城となった。

城址公園には、鐘楼、信之・小松姫の石像、天守跡の碑、本丸堀跡などがある。

 

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ここからの眺めは素晴らしく、名胡桃方面や日本百名山の一つ谷川岳、三峰山が見渡せる。

名胡桃城は、沼田城の有力な支城で真田の家臣・鈴木重則が城代であったが北条の家臣・猪俣邦憲の姦計により北条に占領された。その後信幸が沼田城を支配するとともに廃城となった。

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沼田城は、利根沼田の台地上に位置するが河岸段丘とは「平坦な部分と崖が交互に現れる地形の事で利根沼田の河岸段丘は日本一の美しさを誇る。この特殊な地形に目をつけた真田氏によって「天空の城下町」は生まれた。」~城下町散策MAP with 沼田女子高校より~

沼田市HPの写真を見れば、確かに「天空の城下町」である。

 

f:id:tyoyxf1:20180920153837j:plain(沼田市HPより)

ここで、真田信幸(信之)について少し。

昌幸の長男で幼名は源三郎。文禄三年(1594)、従四位下・伊豆守に叙任される。

信之は、信濃の小国でありながら知略を尽くして存在感を示した知将・父昌幸や大坂の陣で華々しい活躍を見せ「真田日本一の兵」と称賛された弟・幸村(信繁)ほど語られてはいない。

しかし、二度の上田合戦や大坂の陣で徳川を苦しめた「徳川の天敵」ともいえる真田家を守り抜いたその器量は「名将」にして「名君」と言えるであろう。

戦上手は、昌幸や幸村に引けを取らない。第一次上田合戦では、昌幸に従い大いに勝利に貢献した。家康は、信幸の才能を高く評価し徳川四天王の一人・本田忠勝の娘「稲姫、(後の小松殿)」を養女としたのち信幸に嫁がせた。

1600年、上杉征伐に向かう途中、石田三成の決起を知った昌幸と幸村は大坂方に味方することを決意するが、戦乱の世を終わらせるのは、家康しかいないと信じて疑わなかった信幸は、犬伏の陣で昌幸、幸村と袂を分かち家康に従う。

「親子、兄弟が敵味方に分かれて戦うのもあながち悪う(あしゅう)はござるりますまい。上田が立ち行かなければ沼田が・・・・」(幸村)「沼田が立ち行かなくなった時は上田があるという事か」(信幸)~NHKドラマ真田太平記の名場面が目に浮かぶ。~

関ケ原」の後、義父・本田忠勝と共に昌幸、幸村の助命嘆願を続けると共に徳川家への忠誠の意思を示すため「幸」の字を「之」と改め「信之」とした。「大坂の陣」後、家康により沼田を安堵されるが、秀忠により松代への国替えを命じられる。

その後、信幸はひたすら真田家を守り、徳川三代将軍・家光に、「豆州(伊豆守)は、天下の宝よ」と言わしめ、諸将からは、老いてなお「信濃の獅子」と評された。

徳川頼宣(よりのぶ)」(徳川八代将軍・吉宗の祖父で紀州徳川家の祖とされる人物)は、信之を尊敬し、たびたび自邸に信之を招き、武辺話を聞いたという逸話が残っている。

信之は、九十三歳の長寿を全うし、辞世の句、「何事も移れば変わる世の中を夢なりけりと思いざりけり」を残して世を去った。(時代は移り世の中は変わり愛する人たちもいなくなってしまった。この世は夢であったのだろうか。とでも読み解けばいいのだろうか)信之の死を家臣のみならず百姓までもが大いに嘆き、出家する者が相次いだという逸話は、信之が家臣や領民にいかに慕われた名君であったかうを物語っている。

また晩年、信之はしばしば幕府に隠居を願い出ているがその度に慰留され、91歳になるまで隠居できなかった。隠居にあたり時の将軍・家綱は信之を「天下の飾り」と表現したといわれている。

公園内の観光案内所で「沼田城の古地図」と「切り絵・沼田かるた」を購入し、正覚寺へ。

正覚寺には信之の正室・小松殿の墓がある。

大蓮院殿(小松殿)の墓は総高271センチの宝篋印塔で、塔身に「阿弥陀三尊(梵字) 大蓮院殿 英誉皓月 元和六年庚申二月廿四日 施主敬白」の刻銘があり、江戸時代初期の宝篋印塔の特徴を良く表し、沼田市重要文化財に指定されている。

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小松殿について少し。

真田信幸(信之)の正室・小松殿は、天正元年(1573)に徳川四天王の筆頭・本田忠勝第一子(長女)として生まれる。幼名は稲姫(いなひめ)

第一次上田合戦で徳川勢7000の大軍をわずか1200の手勢で撃退した真田父子(昌幸、信幸、幸村)の名は、一躍天下に轟くことになる。

真田の軍略を恐れた本田忠勝は真田家の取り込みを図り、娘・稲姫を家康の養女として真田家の長男・信幸に嫁がせた。(孫・松代藩三代藩主・真田幸道の由緒書きでは、小松殿は徳川秀忠の養女とされているのだが・・・・)稲姫(小松殿)は14歳、信幸は24歳であった。

1600年上杉征伐に向かう途中、下野(栃木県佐野市)の犬伏の陣に石田三成の密書が昌幸に届く。親子会議の結果、昌幸、幸村は西軍へ、信幸は東軍へ与することになる。

昌幸と幸村は上田に引き返す途中、沼田に寄って孫(真田信幸の子)の顔見たいと、夜半に沼田城に使者を送り入城を申し入れたが、城を守る小松殿は自ら武装して出迎え「例え義父であっても今は敵味方の間柄。主人の留守を預かる者として城の中に入れることはできませぬ。」と入城を拒否。昌幸は、あわよくば、沼田城を占拠しようとも考えていたとされるが「さすがは本多の娘だ。武士の妻女たる者、ああでなければならん。」と、城に入る事を諦め、近くの正覚寺で一泊した。
翌日、そこに小松殿が子供を連れて訪れ、祖父と孫の対面を果たせたと言う。

関ケ原の合戦後、小松殿は九度山に配流された義父・昌幸と義弟・幸村に、自費から仕送りをする一方、真田家の倹約に努め、献身的に夫を支えたと言う。

こういった逸話などから、小松姫は戦国時代における女傑の一人に数えられ、良妻賢母としても誉れ高い。

また、小松姫は、徳川家康徳川秀忠に対して直に意見をする程の才色兼備の女性だったと伝えられている。また、小松姫の遺品の中には『史記』の「鴻門の会」の場面を描いた枕屏風があるが、こうした点からも「男勝り」と評されている所以であろう。

小松殿は元和六年(1620)二月二十四日、江戸から草津温泉へ湯治に向かう途中、武蔵国鴻巣で亡くなった。享年四十八歳。

遺骸は沼田城近くの正覚寺に運ばれて、荼毘にふされ埋葬された。

信之は「我が家から光が消えた」と大いに落胆したという。

戒名は大蓮院殿英誉皓月大禅定尼。
墓は鴻巣市勝願寺、沼田市正覚寺上田市芳泉寺の三つの寺に分骨されている。

正覚寺を出て、沼田市街の中心に位置する辺りに天狗プラザという所があり、中には沼田まつりで担がれる長さ4.3mm幅2.3m、花の高さ2.9mの天狗面が展示されている。

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天狗プラザから歩くこと約10分、沼田藩第二代藩主真田信吉の墓がある天桂寺に着いた。天桂寺の傍らの水路にきれいな水が流れている。城堀川はかつて沼田の町の生命線だった。天桂寺の水路お石垣の一部は当時のまま、残っている。

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ちょうど12時を過ぎたので「城下町散策MAP」に書かれている「姫本」という店で「だんご汁」を昼食にいただいた。

まだまだ訪れたいところはあるが、今日は日帰りなのでここまで。

割田屋さんで沼田名物みそ饅頭を土産に購入。

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榛名神社」で願解き(がんほどき)をし、御朱印をもらって帰宅。

奥の細道 一人歩き 4 草加宿-越谷宿

3日目(2018421日(土))草加宿-越谷宿

2宿 草加宿 (千住宿より二里八町(約8.8キロ)

本陣1、脇本陣1、旅籠七百二十三軒、宿内家数二千三百七十軒、宿内人口三千六百十九人

天保十四年(1843日光道中宿村大概帳による)

- ことし元禄二とせにや、奥羽長途の行脚只かりそめに思ひたちて、呉天に白髪の恨を重ぬといへ共、耳にふれていまだめに見ぬさかひ、若(もし)生て帰らばと、定なき頼の末をかけ、其日漸(そのひようよう)早加と云宿にたどり着にけり。-(奥の細道草加

(ことし、元禄二年、奥羽への長旅をただなんとなく思い立ち、遠い辺境の空のもとで辛苦のために白髪になってしまうようなことが度重なろうとも、話に聞くまだ見ぬ土地を訪ね、もし生きて帰ることができればと、かすかな望みをかけて歩を進め、その日、ようやく早加(草加)という宿にたどり着いた。)

さて、421日早朝に家を出「草加駅」に着いたのが7時半過ぎ、日光街道へ戻ると八幡神社がある。ここは草加宿下三町の鎮守で獅子頭雌雄一対は市の指定有形文化財になっている。

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八幡神社の隣に藤代家住宅がある。この住宅は明治初期建築の町屋造りで国登録の有形文化財に指定されている。その先が問屋場跡で明治44年建立の道路元票が立っている。元票の表には「千住町へ貮里拾七町五三間三尺・越谷町へ壱里三拾三町三拾間三尺」、左側面には「距 浦和町元帳四里貮拾町拾三間三尺・距 栗橋官かつ境拾里拾三間五尺」、右側面には「谷塚村官かつ境貮拾四町貮間三尺」と彫られている。道路を挟んだ向かいには「三丁目橋」と刻まれた標石置かれている。

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先へ行くと、道路の左手に「大川本陣跡」右手に「清水本陣跡」の碑が立っている。添えられている説明書きによると「草加宿の本陣・「江戸時代に、奥州・日光道中参勤交代の大名休泊宿として、草加宿の本陣がここに置かれました。

大川本陣(~宝暦年間)

清水本陣(宝暦年間~明治初期)
この本陣には、会津藩の松平容頌、仙台藩伊達綱村盛岡藩の南部利視、米沢藩の上杉治憲(鷹山)らが休泊した記録があります。
近くに脇本陣も置かれ、参勤交代の往復にその役割を発揮しました。
本陣は、門、玄関、上段の間がある所が一般の旅籠と異なり、昭和初期にはまだ塀の一部が残っていたと伝えられています。当主は、名主や宿役人などを兼帯していました。」(「今様・草加宿」市民推進会議)とある。

宝暦四年(1754年)まで大川家が本陣職を務めその後清水家が本陣職を譲り受けた。

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しばらく行くと道路の左に氷川神社、右に「おせん茶屋」と名付けられた公園があり、「日光街道」の碑が置かれている。氷川神社は、慶長十一年(1606草加宿の開祖・大川図書の創建だという。おせんさんは、草加せんべいの生みの親で茶屋を営むおせんさんが売れ残った団子をつぶして天日に干し、焼くといいと教えたのが「草加せんべい」の由来だそうだ。

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その先には草加宿明神庵(久野家住宅)がある。この町屋は安政二年(1855年)の大地震に耐えた建物だという。近くに「成田山」の碑が置かれている。

「元祖・源兵衛せんべい」というせんべい屋さんがあったがまだ店が開いていなかった土産を買うことはできなかった。

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その先が神明町交差点の小さな公園があり、草加松原遊歩道の起点になっている。

芭蕉の門人で奥の細道随行し「曽良旅日記」の著者である河合曽良の像、草加せんべい発祥の地と彫られた碑、芭蕉奥の細道と彫られた碑などが置かれており、馬頭観音が祀られている。

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綾瀬川に出会う伝右川に架かる橋を渡って左折すると草加松原遊歩道の入口である。そこには「札場河岸跡」がある。ここは、札場屋・野口甚左衛門の個人所有の河岸で江戸との舟便が盛んであった。傍らに正岡子規高浜虚子草加を訪れた時に詠んだ句碑が置かれている。(写真は逆光で字が読めないが碑には次のように彫られている。)

- 梅を見てのを見て行きぬ草加まで  子規 -

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綾瀬川に沿った遊歩道を歩きだすとすぐに芭蕉像と高浜虚子の句碑が並んでいる。

- 巡礼や草加辺りを帰る雁 虚子 -

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すぐ先には「矢立橋」とかかれた太鼓橋がある。これは「奥の細道」の一説「-行く春や鳥啼き魚の目は泪―是を矢立の初めとして、行く道なをすすまず。」に因んで命名された。

日本の道百選・日光街道と彫られた大きな石碑も置かれている。

遊歩道に沿って流れる綾瀬川は大雨の旅に川筋を変える所から「あやし川」と呼ばれていたが伊能忠次によって堤が整備され川筋が安定した。綾瀬川は、やがて隅田川に出会い江戸に通じる重要な水路であった。

遊歩道の松並木は天和三年(1683関東郡代・伊部半右衛門が植栽したもので当時は「千本松原」と呼ばれた名所であった。

 

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矢立橋を越えると「奥の細道の風景地・草加松原」と彫られた名勝碑が置かれている。

その先には、「百代橋」と名付けられた「矢立橋」と同じような太鼓橋がある。

その手前に「橋名由来・月日は百代の過客にして行きかふ年も又旅人也」と芭蕉奥の細道碑が置かれている。

 

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続いて「松尾芭蕉文学碑・ことし元禄二とせにや・・・・其日漸(その日ようよう早加(草加)と云う宿にたどり着きにけり。」と奥の細道の一説が彫られた碑が置かれている。

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15分ばかり歩くと、東京外環自動車道の高架ガードをくぐることになるがこのあたりが草加松原の北端だろうか。やっとの思いで草加宿にたどり着いた芭蕉曽良の旅姿が壁に描かれている。

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このあたりには「出茶屋」と呼ばれた立場があり当時は賑わったのだろう。

その先左手に「金明愛宕神社」がありさらに先へ行くと綾瀬川に架かる蒲生大橋を渡ることになる。橋の袂には以下のように書かれた碑が置かれている。

蒲生大橋

日光道中分間延絵図(文化三年(1806年)完成)」によると、この橋は、大橋土橋と記されており、長さ124尺、幅2間①尺、綾瀬川に架けられた土橋で御普請場。足立郡埼玉郡の境と解説されている。・・・・」

橋の親柱には、結城家の家老で文人であった水野織部長福(おりべながふく)の句

- 道ぞ永き 日にやき米を 加茂蒲生 -と彫られている。

反対側の親柱には、高浜虚子の句

- 舟遊綾瀬の月を領しけり -が彫られている。

 

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橋を渡ると「蒲生の一里塚跡」がある。江戸から5番目の一里塚である。

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一里塚から先はこれということもないが蒲生郵便局の辺りに当時立場あり焼き米が名物であったどうだ。

しばらく行くと享保十三年(1728)建立の不動明王が祀られている。台座には「是よりさがミ道」と刻まれた大聖寺(大相模不動)への道標を兼ねている。並んで正徳三年(1713)建立の笠付青面金剛庚申塔が祀られている。

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不動明王道標から15分ばかり行くと照蓮院がある。墓所には「千徳丸供養五輪塔」がある。武田勝頼が自刃したとき家臣が遺児の千徳丸を家臣が埼玉県越谷の瓦曽根村連れ帰ったが千徳丸は、早世してしまった。照蓮院のホームページには次のような説明文がある。

「瓦曽根秋山家の祖は、甲斐国武田家の重臣秋山伯耆守信藤であることを伝えています。天正10年(1582)武田家滅亡のとき、信藤とその二男長慶は武田勝頼の遺児千徳丸を奉じて瓦曽根村におちのび潜居しましたが、千徳丸は間もなく病死しました。長慶はこれを悲しみ、瓦曽根村照蓮院の住職となってその菩提を弔りましたが、寛永14年(1637)秋山家墓所五輪塔による供養墓石を造塔しました。これには、「御湯殿山千徳丸」と刻まれてます。」

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すぐ先の三叉路には里程標があり

表里程・東京雷門五里(二十粁)、浦和三里半(十四粁)、大宮五里(二十粁)、川口四里(十六粁)、鳩ケ谷三里(十二粁)、草加一里半、吉川一里、野田二里半、粕壁二里半、岩槻三里

と刻まれている。

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本日はここまで。

東部スカイツリーライン越谷駅からJR武蔵野線南越谷経由で帰宅。

奥の細道 一人歩き 3 千住宿-草加宿

2日目(2018420日(金))千住宿草加宿

一か月ぶりの街道歩きである。

仕事や所用でなかなか街道歩きを再開できない。この分では、岐阜・大垣に着くまで何年かかることやら。

さて浦和から上野経由で北千住に着いたのは午前9時半ごろ、旧道に戻り先へ進むと、千住本町公園内に「千住高札場・由来説明版」が立っている。

「千住が宿場となって栄えたのは、慶長二年(1597)人馬引継駅となって以来のことだといわれている。江戸時代の足立は、千住宿を中心に始まったといっても過言ではない。

特に寛永二年(1625日光東照宮建立により、日光道中発駅として、また江戸4宿の一つとして繁栄し、約400年を経て今日に至っている。

このような高札場は、明治の初期まで宿場の掟(きまり)などを掲示して、人々に周知してもらうため、千住宿の入口・出口の所に設置されていた。(千住の町並景観を考える会・説明版より)

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千住本町公園内の先には、横山家住宅がある。ここは当時地漉き(じすき)紙問屋で今も傳馬屋敷の面影を残している。

「横山家住宅(よこやまけじゅうたく)
宿場町 の名残として、伝馬屋敷 の面影を今に伝える商家である。伝馬屋敷は、街道に面して間口が広く、奥行が深い。戸口は、一段下げて造るのが特徴である。それは、お客様をお迎えする心がけの現れという。
敷地は、間口が十三間、奥行が五十六間で鰻の寝床のように長い。
横山家は、屋号を「松屋」といい、江戸時代から続く商家で、戦前までは手広く地漉紙問屋 を営んでいた。
現在の母屋は、江戸時代後期の建造であるが、昭和十一年に改修が行われている。間口が九間、奥行が十五間あり、大きくてどっしりとした桟瓦葺 (さんがわらぶき)の二階建である。 広い土間、商家の書院造りと言われる帳場二階の大きな格子窓 などに、一種独特の風格を感じる。( 東京都足立区教育委員会・説明版より)

横山住宅の向かいが千住絵馬屋・吉田家で、絵馬をはじめ地口行燈や凧などを描いてきた際物(きわもの)問屋である。

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すぐ先には、旧水戸街道の追分道標が置かれており「北へ旧日光道中・東へ旧水戸佐倉道」と彫られている。先へ進むと旧下妻道・道標があり「北西へ旧日光道中・北へ旧下妻道」と刻まれている。

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街道はここから大きく左に曲がり、先へ行くと荒川に架かる千住新橋を渡ることになる。

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千住新橋を渡りすぐに左折、堤防沿いを進み川田橋の信号を右へと堤防を下ると旧道である。しばらく行くと「石不動尊」と書かれた祠がある。堂内には耳の病に霊験あらたかな意思造耳不動尊像が祀られている。堂前の石標「子育弥彦尊道是より二丁行」と彫られている、これは、咳にご利益のある明王院(赤不動)への道標なのだそうだ。

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不動尊から10分ばかり歩き、左手に少し入った所に「佐竹屋敷跡」の碑と「佐竹稲荷神社」がある。ここは秋田藩主佐竹候のお抱え屋敷跡で参勤の際の休憩所であった。稲荷社は屋敷神として祀られていたのだそうだ。

さらに5分程歩くと「右日光道中・左東武鉄道旧線路跡」と刻まれた道標が立っている。

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しばらく先へ行くと「将軍家御成橋・御成道松並木跡」の標柱が立っている。

徳川二代将軍秀忠、三代将軍家光が鷹狩の際にこの先にある「安穏寺」に立ち寄ったのだという。

さらに少し先には「鷲神社」がある。この神社は文保二年(1318)の創建でこのあたり(島根村)の鎮守である。享和二年(1802)建立の明神型石鳥居は足立区の有形文化財に、神楽殿で奉納される「島根囃子」と「島根神代神楽」は同区の無形文化財に指定されている。

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島根鷲神社交差点の辺りに江戸・日本橋から三番目の一里塚「六月の一里塚」があったのだそうだが今ではその位置は不明である。交差点から15分ばかり歩くと増田橋道標があり「増田橋跡・北へ日光道中・西へ旧赤山道」と刻まれている。

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さらに15分ばかり進み、右手に入ると保木間氷川神社がある。この神社は保木間村の鎮守で淵江領を支配していた千葉氏の陣屋跡である。また、「流山道」の説明版が立っていて「本説明版の前(保木間氷川神社前)を東西に走る小道は、江戸の昔から流山道と呼ばれた古道である。保木間日光道中からわかれ、南花畑、内匠橋、六木を経て流山に向かう。この道に隣接する宝積院と保木間氷川神社は戦国時代の武士・千葉氏の陣屋があったと伝えられていることから、道の成立は戦国時代以前にさかのぼると考えられる。この道を東進すると花畑大鷲神社成田山と結んでおり、西に進むと西新井大師総持寺に通じる親交の道でもある。ここから太子堂・成田道という別称もある。なお沿道には寺院・神社や旧村地帯が分布し、保木間の旧家の多くもこの道に沿って建っており、地域の歴史を今に伝える。」(足立区教育委員会)と記されている。

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先へ進もう。30分ぐらい歩くと「法華寺」があり境内に「百度石」が置かれている。

この寺院は、小塚原刑場の刑死者の菩提を弔っていったのだという。

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旧道はやがて県道49号線に合流し水神橋を渡る。この橋が東京都と埼玉県の県境で先は草加である。しばらく行くと富士浅間神社がある。このあたり瀬崎村の総鎮守で天保十三年(1842)の再建である。

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浅間神社から10分ばかり歩くと「火あぶり地蔵尊」がある。

奉公中の娘に母危篤の知らせが届き、主(あるじ)に暇を願い出たが許されなかった。娘は、家が火事になれば店が休みになり家に帰れると思い込み放火をしてしまう。捕らえられた娘は、火あぶりの刑となった。哀れに思った村人たちは娘の供養のため地蔵を祀ったとの言い伝えがある。

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加に入ると「草加せんべい」の店や広告が目につく。

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やがて「今様草加宿」の碑が目に入り、市役所の入口に地蔵堂がある。

草加市役所の敷地は幕末から明治にかけての豪商大和屋跡である。主の浅古半兵衛全国二位の質屋で江戸にも店を出していた。

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すぐ先には、「草加神社社票」が立っている。草加神社は、南草加村の鎮守で大宮氷川神社を勧請したものである。

その先には、正面に「日光街道」側面に葛西道」と刻まれた「葛西道道標」、また「草加町道路元票」「埼玉県」と刻まれた「道路元票」が置かれている。

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本日はここまで。

東部スカイツリーライン「草加駅」から東武線、JR武蔵野線JR京浜東北線を野率で帰宅。

 

奥の細道 一人歩き 2 日本橋-千住宿

1日目(2018324日(土))日本橋千住宿

お江戸日本橋七つ立ち(午前4時)とはいかないが、浦和発6時34分発の上野・東京ラインで東京へ。永代通りを歩き日本橋に着いたのは7時過ぎ。

芭蕉は、深川から千住まで船に乗り千住から日光街道を歩いたのだが、今回も五街道の起点である日本橋からスタートすることにする。

中山道を歩いた時は、なんとなく歩き始めてしまったのだがよく見てみると日本橋にはいろいろなものがある。

日本橋交差点を左に入ると日本橋だが、その手前に「永頼堂」という扇子屋さんがあり、きれいな扇子がウィンドウに飾られている。

さて、日本橋、橋詰めに説明版などがあるがこのあたりが高札場跡、道を挟んだ反対側の滝の広場が「晒し場跡」で密通の男女や心中未遂者が晒された処だという。

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橋を渡ると右側が「日本橋魚河岸址」(乙女の広場)がある。関東大震災後、築地に移転したがそれ以前はこのあたりが東京の魚河岸だったのだそうだ。

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道路の左側には「日本国道路元票」が複製されていて(元票の広場)「里程標・千葉市三十七粁・宇都宮市一〇七粁・水戸市一一八粁・新潟市三四四粁・仙台市三五〇粁・青森市七三六・札幌市一、一五六粁」、「里程標・横浜市二十九粁・甲府市一三一粁・名古屋市三七〇粁・京都市五〇三粁・大阪市五五〇粁・下関市一、〇七六粁・鹿児島市一、四六九粁」と刻まれた碑が置かれている。

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日本橋を後に江戸通り(国道4号線を)歩き、室町三丁目南の交差点を右折してすぐに「福徳神社」がある。由来書によれば、この地は福徳村とよばれ、穀物、食物を司る稲荷神が鎮守の森に懐かれ鎮座していた。福徳村の稲荷は、往古より源義家太田道灌ら武将の尊祟を受け・・・・とある。

境内の傍らに碑があり、表には「宮戸川邊り宇賀の地上に立る一里塚より此福徳村稲荷森塚迄一里」、裏には貞観元年卯年 三つき吉祥日」と刻まれている。

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大伝馬町通りを歩くと「旧日光街道本通り」の碑がある。碑の側面には「徳川家康公江戸開府の際し御傳馬支配であった馬込勘解由が名主としてこの地に住し、以後大傳馬町と称された。」と彫られている。

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日光街道に戻り、左に行くと地下鉄・小伝馬町の駅で「江戸伝馬町牢屋敷跡」があり。

「石町時の鐘」、「傳馬町牢屋敷跡」、「吉田松陰先生終焉の地」の説明版と共に吉田松陰終焉の地の碑が置かれている。

江戸時代、罪人の処刑は「石町時の鐘」を合図に行われ、刑の執行を控えた日は刻限を意図的に遅らせたところから「情けの鐘」と呼ばれたそうである。

街道に戻り先へ進むと馬喰町、横山町問屋街である。馬喰町は当時馬市が立ち傳馬用の馬が売り買いされていた。横山町は、広重が名所江戸百景「大てんま町木綿店」でこの界隈を描いている。今も繊維衣料の問屋が軒を連ねている。

余談ではあるが、30年も前であろうか、東日本橋のオフィスに勤務していたことがあり、このあたりは馴染みがあり懐かしくもある。

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更に歩くと、神田川に架かる浅草橋である。神田川には屋形船が浮かんでいる。

橋を渡ると、「郡代屋敷跡」の説明版、「浅草見附跡」の碑がある。

郡代屋敷跡は、関東一円の幕府直轄地(天領)を支配した関東郡代の屋敷跡である。

浅草見附は江戸城外の城門で「浅草御門」と呼ばれた。明暦三年(1657)、江戸本後円山町から出火し、江戸城本丸を初め、江戸市中を焼き尽くした明暦の大火(振袖火事)の時、囚人が脱獄したとの誤報を信じた役人がこの門を閉めたためさらに多くの犠牲者を出したといわれている。幕府はよく年(1658)定火消を置いている。

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先へ進むと、JR総武線浅草橋駅である。東日本橋のオフィスに勤務していたころに使っていた駅で先ほどの郡代屋敷跡も浅草見附跡も当時は気にも留めず毎日歩いていた。

さて、総武線のガードをくぐるとすぐに「銀杏岡八幡神社」がある。由緒書によると、「源義家が永承六年に奥州出征の際、隅田川の川上から流れ着いた銀杏の枝を地面に刺し勝利を祈願した。奥州平定後、戻ってみると銀杏が大きく繁茂していた。この神恩に感謝し八幡宮を勧請した。」のだという。

すぐ先には、このあたり蔵前の総鎮守「須賀神社」がある。

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先へ進んで、蔵前一丁目の交差点に「旧町名由来案内・浅草蔵前」の説明版と共に天文台跡の説明版が並んでいる。

旧町名由来案内には、「本町は、付近の九ヵ町を整理統合して昭和九年(1934)にできた。蔵前と言う町名が初めて付けられたのは元和七年(1621)の浅草御蔵前片町である。この付近に徳川幕府米蔵があったことから付けられた。」と書かれている。天文台跡は、足掛け17年をかけて日本全土を測量し「大日本沿海輿地全図」を完成させた伊能忠敬の師匠・天文方高橋至時(たかはしよしとき)が天文観測を行ったところだそうである。

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蔵前一丁目の交差点を渡った右側には楫取神社がある。説明版には次のように書かれている。「慶長年間江戸幕府米倉造営用の石を遠く肥後熊本より運搬の途中、遠州灘の沖に於て屡々遭難あったが或る時稲荷の神の示現を得てより後は航海安全を得る事が出来た。その神徳奉賽の為め稲荷の社を浅草御蔵の中に創建、名づけて揖取稲荷と称へ爾来今日に至って居る。鎮座以来既に三百七十年氏神榊者の摂社として祭事怠る事無く奉仕。商売繁昌、火防の神として広く衆庶の尊信を集めている。」

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交差点を少し右に行ったところ、隅田川に架かる蔵前橋の手前に「浅草御蔵跡」の碑が立っている。ここは天領からの年貢米を貯蔵したところで、勘定奉行の管轄下に置かれ、主に旗本、御家人の給米に供された。「蔵前」の地名由来ともなった。道路を渡った所には「首尾の松跡」があり、説明版によれば吉原帰りの遊客が昨夜の守備を語りあったのだそうだ。川の向こうに東京スカイツリーが見渡せる。

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街道に戻り少し行くと「蔵前神社」がある。境内には、浮世絵師・歌川國安の奉納力持ちの錦絵や古典落語ゆかりの神社の札書きが立っている。

由来によれば、「当社は、五代将軍綱吉が元禄六年(1693年)85日、山城国(京都)男山の石清水八幡宮を勧請したのが始まりです。以来、江戸城鬼門除けの守護神として篤く尊崇された。」とのことである。

錦絵の説明版には、「この錦絵は、文政七年(1824年)の春に、御蔵前八幡宮で行われた「力持」の技芸の奉納を描いたものです。」と書かれている。

また、この神社は「蔵前の八幡様の境内で満願叶って人間になった真っ白い犬が奉公先で珍騒動を巻き起こす話(本犬)」や、「阿武松(おおのまつ)という江戸時代勧進大相撲で名横綱に出世した相撲取りの人情話(阿武松(おおのまつ))」といった古典落語の舞台ともなっている。

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先へ進むと、厩橋交差点でここには隅田川厩橋が架かっている。交差点を越えれば駒形である。

このあたりから旧道は隅田川と並行に走っていて川に架かる橋も厩橋、駒形橋、言問橋と続く。

さて、駒形1丁目の交差点を過ぎると信州・諏訪大社(上社)の分霊を勧請した諏訪神社がある。そしてすぐ先には「駒形どぜう」どじょう料理の老舗があり、店先には久保田万太郎の「神輿まつまのどぜう汁すすりける」と彫られた句碑が置かれている。

この店の創業は、享和元年(1801年)で文化三年(1806年)に大火にあった。それまでは「どぢやう」の四文字を使っていたが、大火以後縁起が悪いというので「どぜう」の三文字に改名したのだそうだ。浅草寺が近いせいか外国からの観光客が目立つ。

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浅草寺雷門

風袋を担いで天空を駆ける風神像と寅のふんどしを締め連鼓を打つ雷神像が祀られている。

浅草寺

本尊は、推古天皇三十六年(628年)隅田川で漁網にかかった聖観音像で天正十八年(1590年)江戸に入府した徳川家康浅草寺祈願寺とした。

今日は土曜日、雷門も仲見世も外国人観光客に日本人観光客が加わって大変な人である。

英吾、日本語、中国語、あらゆる国の言葉が飛び交っている。

そういえば、何十年か前にアメリカからの客を案内してここに来たことがある。

その時に引いたおみくじが何と「いの一番・大吉」であった。たいしていいことがあったという記憶はないが・・・・。

境内には、芭蕉の句碑も置かれており、説明版が添えられている。

-くわんをんの いらか見やりつ 花の雲- はせを

今は、桜の季節。観音の大屋根を見上げれば、あたかも雲のように桜が咲き誇っている。

そういえば信州・上田の別所温泉にある「北向き観音」の境内にも同じ句を刻んだ句碑が置かれていた。

俳諧紀行文『奥の細道』などを著した松尾芭蕉は、寛永二十一年(一六四四)伊賀上野(現、三重県上野市)に生まれました。
芭蕉という俳号は、深川の小名木川のほとりの俳諧の道場『泊船堂』に、門人が芭蕉一枚を植えたことに由来します。独自の蕉風を開き『俳聖芭蕉』の異名をとった松尾芭蕉は、元禄七年(一六九四)十月十二日、大阪の旅舎で五十一年の生涯を閉じました。
この句碑は寛政八年(一七九六)十月十二日、芭蕉の一〇三回忌に建立され、基は浅草寺本堂の北西、銭塚不動の近くにありましたが、戦後この地に移建されました。
八十三歳翁泰松堂の書に加えて、芭蕉のスケッチを得意とした佐脇嵩世雪が描いた芭蕉の座像の線刻がありますが、碑石も欠損し、碑面の判読も困難となっています。
奥山庭園にある『三匠句碑』(花の雲 鐘は上野か浅草か)と共に、奇しくも『花の雲』という季語が詠みこまれています。」(説明版)

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街道に戻ってしばらく行くと「花川戸公園」があり、「姥ヶ池之旧跡」、「助六歌碑」、「履物問屋発祥碑」などが置かれている。

姥ヶ池

「姥ヶ池は、昔、隅田川に通じていた大池で、明治二十四年に埋め立てられた。浅草寺の子院妙音院所蔵の石枕にまつわる伝説に次のようなものがある。
昔、浅茅ヶ原の一軒屋で、娘が連れ込む旅人の頭を石枕で叩き殺す老婆がおり、ある夜、娘が旅人の身代わりになって、天井から吊した大石の下敷きになって死ぬ。それを悲しんで悪行を悔やみ、老婆は池に身を投げて果てたので、里人はこれを姥ヶ池と呼んだ。」(説明版)

助六歌碑

「碑面には、

助六に ゆかりの雲の紫を 弥陀の利剣で 鬼は外なり- 団洲
の歌を刻む。九世市川団十郎が自作の歌を揮毫したもので、「団洲」は団十郎の雅号である。
 歌碑は、明治十二年(一八七九)九世団十郎が中心となり、日頃世話になっている日本橋の須永彦兵衛(通称棒彦)という人を顕彰して、彦兵衛の菩提寺仰願寺(現、清川一--)に建立した。大正十二年関東大震災で崩壊し、しばらくは土中に埋没していたが、後に発見、碑創建の際に世話役を務めた人物の子息により、この地に再建立された。台石に「花川戸鳶平治郎」、碑裏に「昭和三十三年秋再建 鳶花川戸桶田」と刻む。
 歌舞伎十八番の「助六」は、二代目市川団十郎が正徳三年(一七一三)に初演して以来代々の団十郎が伝えた。ちなみに、今日上演されている「助六所縁江戸桜」は、天保三年(一八三二)上演の台本である。助六の実像は不明だが、関東大震災まで浅草清川にあった易行院(足立区伊興町狭間八七〇)に墓がある。」(説明版)

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街道に戻り、東参道の次の信号が言問橋西である。言問橋隅田川に架かる橋で、もともとは「竹屋の渡し」があったとこでその名の由来は、在原業平伊勢物語九段「東下り」に書かれている

- 名にし負わば いざ言問わん都鳥 わが思う人は ありやなしやと -

に因んだものであるが、実際には「橋場の渡し」(現在の白髪橋付近)であるという説もあるようだ。真実のほどは定かではない。

隅田川沿いの桜がきれいだ。

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旧道はこの交差点を左折、隅田川を背に歩くことになる。

しばらく先の道を左に入ると「江戸猿若町市村座跡」の碑が置かれている。

天保十二年(1841年)時の老中水野忠邦の「天保の改革」により江戸市中の芝居小屋が猿若町に集められたのだという。

その先には「待乳山聖天」がある。

待乳山聖天(まつちやましょうでん)は、金龍山浅草寺の支院で正しくは、待乳山本龍院という。その創建は縁起によれば、推古天皇9年(601)夏、早魃のため人々が苦しみ喘いでいたとき、十二面観音が大聖尊歓喜天に化身してこの地に姿を現し、人々を救ったため、「聖天さま」として祀ったといわれる。

ここは隅田川に臨み、かつての竹屋の渡しにほど誓い小丘で、江戸時代には東都随一の眺望の名所と称され、多くの浮世絵や詩歌などの題材ともなっている。とくに、江戸初期の歌人戸田茂睡の作、
-哀れとは夕 越えて行く人も見よ 待乳の山に 残す言の葉-
の歌は著名で、境内にはその歌碑(昭和30年〔1955〕再建)のほか、石造出世観音立像、トーキー渡来の碑、浪曲双輪塔などが現存する。また、境内各所にほどこされた大根・巾着の意匠は、当寺の御利益を示すもので、大根は健康で一家和合、巾着は商売繁盛を表すという。17日大般若講大根祭には多くの信者で賑わう。」(説明版)

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その先が今戸神社

境内には、新選組一番隊隊長「沖田総司終焉之地」の碑がある。

沖田総司は、当地に居住していた松本良順の治療にも拘わらず、当地で没した。」(説明版)

享年二十五歳。

並んで「今戸焼発祥之地」の碑がある。今戸焼は江戸を代表する素焼きの陶器であった。

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今戸神社から30分ばかりあるくと路地の奥に「駿馬塚」の説明版が立っている。

「駿馬塚は、平安時代の康平年間(10581064源義家陸奥へ向かう際、この地で愛馬「青海原」が絶命し、これを葬った所と伝えている。」(説明版)

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ここで街道を外れ、右手に10分ばかり行くと「見返り柳」と彫られた碑が置かれている。

旧吉原遊廓の名所のひとつで、京都の島原遊廓の門口の柳を模したという。遊び帰りの客が、後ろ髪引かれる思いでを抱きつつ、この柳のあたりで遊廓を振り返ったということから「見返り柳」の名があり、

- きぬぎぬのうしろ髪ひくやなぎかな -

- 見返れば意見か柳顔をうち -

など、多くの川柳の題材になっている。(説明版)

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街道に戻り10分ばかり行くと泪橋の交差点である。ここは、先にある小塚原刑場に引かれていく罪人と身内の者が泪の別れをしたのだという。

先に進み、南千住駅の脇の歩道橋を越えると「小塚原刑場跡」で「首切り地蔵」が祀られている回向院がある。

「江戸のお仕置場(刑場)は、品川の鈴ヶ森と千住の小塚原の2つである。小塚原の刑場は、間口六十間余(約180メートル)、奥行三十間余(約54メートル)で、明治のはじめに刑場が廃止されるまでに、磔・斬罪・獄門などの刑が執行された。首切り地蔵は、この刑死者の菩提をとむらうため寛保元年(1741)に造立されたものである。(荒川区教育委員会

ここでは、刀の試し切りや死者の腑分け(解剖)も行われた。

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第1宿 千住宿 (日本橋より二里八町(8.8キロ)

本陣1、脇本陣1、旅籠五十五軒、宿内家数二千三百七十軒、宿内人口九千九百五十六人(天保十四年(1843日光道中村大概帳による)

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- 行く春や 鳥啼き魚の 目に涙 -

弥生も末の七日、あけぼのの空朧々として、月は有明にて光をさまれるものから、不治の峯かすかに見えて、上野・谷中の鼻の梢、またいつかはと心細し。

むつまじき限りは宵よりつどいて、船に乗りて送る。

千住という所にて船を上がれば、前途三千里の思ひ胸にふさがりて、幻の巷に別離の涙をそそぐ。

  - 行く春や鳥啼き魚の目は涙 -

これを矢立の初めとして、行く道なほ進まず。

人々は途中に立ち並びて、後ろ影の見ゆるまではと、見送るべし。

(三月も末の二十七日、あけぼのの空がおぼろに霞み、月は有明けの月でうすく照らしているので富士山の嶺がかすかに見わたすことができる。上野や谷中の桜の梢はいつまた見られるかと心細い思いにかられる。

友人たちは昨夜から集まって同じ船に乗って見送ってくれる。

千住という所で船から上がると、前途はるかな旅に出るのだという思いで胸がいっぱいになり、幻のようにはかない現世とは思っても別れの涙が流れる。

-過ぎ去ろうとしているなあ。それを惜しんで、鳥は悲しげに鳴き、

魚の目は涙で潤んでいるようだ-

これを旅先で詠む最初の句として歩き始めたが、なかなか道ははかどらない。

見送りの人々は、道に立ち並んでせめて後姿が見えなくなるまではと見送ってくれるのだろう。)

千住宿は、日光街道及び奥州街道日本橋から第一番目の宿場であり、品川宿東海道)、板橋宿(中山道)、内藤新宿甲州街道)と並んで江戸四宿の一つである。

千住の地名は、鎌倉時代の末期(1327年)、荒井図書政次という人物が荒川から千手観音を拾い上げて勝専寺に安置したことから名づけられたという説や、足利八代将軍義政愛妾・千寿がこの地に生まれたからという説がある。

さて、小塚原跡地から10分ばかり行くと旧道は南千住の交差点で国道4号線に合流し、信号を渡った所に「素戔嗚神社」がある。境内には松尾芭蕉の旅立ちを記念した碑が置かれており、「千住という所で船を上がれば・・・・」の奥の細道の一説が彫られている。また「これを矢立の初めとして・・・・」と書かれた句札が立てられている。

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素戔嗚神社を後にしばらく行くと隅田川に「千住大橋」が架かっている。

この橋は文禄三年(1594年)、隅田川に最初に架けられた橋である。

橋を渡ると「奥の細道矢立初めの地」と彫られた碑が立っている。

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また、「千住大橋と荒川の言い伝え」の木札が立っている。

千住大橋隅田川に架けられた最初の橋です。この川は以前荒川とも渡裸川(とらがわ)とも読んでいました。昔は文字の示すように荒れる川であり、トラ(虎)が暴れるような川と言われていました。こうした川に橋をかけることは難工事ですが、当時土木工事の名人と言われた伊那備前守忠次によって架けられました。千住大橋の架橋については武江年表文禄三年の条に「中流急流にして橋柱支ふることあたわず。橋柱倒れて舟を圧す。
船中の人水に漂う。伊奈氏 熊野権現に祈りて成就す」と書いてあります。
川の流れが複雑でしかも地盤に固いところがあって、橋杭を打ち込むのに苦労したようです。
そうしたことから完成時には、一部の橋脚と橋脚の間が広くなってしまいました。
ここで大亀の話が登場するのです。

大橋と大亀
千住大橋をかける工事のとき、どうしても橋杭がうちこめない場所がありました。川の主の大亀(おおかめ)がこの場所に住んでいて、亀(かめ)のこうらがあったためです。そのため千住大橋の三番目と四番目との間を少し広げたところ、くいをうつことができました。また、この場所は流れが複雑で「亀(かめ)のま」とか「亀(かめ)のます」とよびました。

大橋と大緋鯉

川の主である大緋鯉(おおひごい)が上流と下流を行ったり来たりしていました。千住大橋を作るとき、橋杭を立て始めると、この大緋鯉(おおひごい)がぶつかって橋ぐいがたおれそうになります。大緋鯉(おおひごい)をつかまえようとしましたがうまくいきません。そのため千住大橋の橋杭を1本少し広げて立てかえ、大緋鯉(おおひごい)が自由に泳ぐことができるようにしました。(説明版より)

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先へ進むと足立市場前の交差点の所に芭蕉像と道標がある。芭蕉像の横には「奥の細道・矢立初芭蕉像」と彫られた碑が、道標中央には「日光道中千住宿」左側面に「ひだり・草加」右側面に「みぎ・日本橋」と彫られている。

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道標の向かいには「此処はやっちゃ場南詰」の木札が立っている。

やっちゃ場とは青物問屋が軒を連ね、「やっちゃい」のセリ声が響いていたことに由来する。

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木の塀には

ホトトギス

- 千住出れば奥街道の嵐かな - 子規

- 永き日の古き歴史の市場かな - 虚子

- やっちゃばの主(あるじ)となりて晝寝かな - 為成 菖蒲園(やっちゃ場の俳人

と書かれていた。

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京成本線千住大橋駅のガードを越えると「千住歴史プチテラス」があり、門の所に

 - 鮎の子の しら魚送る 別れ哉 -と彫られた句碑が置かれている。

この句は、芭蕉が千住に着くまでに作られたのだが「奥の細道」千住に合わないととのことで採用されなかったのだという。

その先に、「昭和五年・千住市場・問屋配置図」が立っている。

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「此処は元やっちゃ場北詰」の木札が掛かっており、問屋街はこのあたりまでのようだ。

すぐ先には「源長寺」がある。源長寺は、将軍の鷹狩の時に休憩所として使っており脇本陣も兼ねていた。

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やがて千住高札場跡の標石があり「旧日光道中」側面に「是より西へ大師道」と彫られた道標も置かれている。西へ行くと西新井大使である。

さらに「千住の一里塚」(2番目・日本橋から二里)、「問屋場跡・貫目改所跡」の標石がある。貫目改所は、問屋場が扱う荷の重さを量った所である。

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このあたりが千住宿の中心と思われる。その先が「千住本陣跡」である。

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今日はここまで。北千住駅から上野経由で浦和へ(帰宅)。

奥の細道 一人歩き 1 深川・芭蕉庵

プロローグ

20165月に中山道69次、約135里(約530キロ)を踏破した後、武田信玄隠し湯めぐりなどを楽しんでいたが、ふと「奥の細道」を歩いてみようと無謀な計画を思い立った。

-月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老いをむかふる物(者)は、日々旅にして旅を棲家(すみか)とす。古人も多く旅に死せるあり。― 「奥の細道」書き出しである。

「月日は、永遠に旅を続ける旅客であり、暮れては明ける年もまた旅人である。舟に乗り、舟の上で生涯を終え、馬の轡を取って老いていく者は毎日の生活が旅であり、旅を自分の住み家としているのである。多くの昔の歌人も、旅の途中で死んでしまった。」

と現代語訳されている。

芭蕉は、庵を結んでいた深川から舟に乗り、大川(隅田川)を千住まで行き見送りの人々に別れを告げて日光街道草加へ向かった。

奥の細道」は、旅行記ではない。そのため、芭蕉が歩いた道の詳細は分からないが、おそらく芭蕉が歩いたであろう日光街道奥州街道、出羽街道、北陸街道の街道歩きを楽しみながら東京・深川から「むすびの地」岐阜・大垣まで芭蕉の足跡をたどってみることにする。

 

深川・芭蕉庵(2018318日(日))

- 草の戸も 住み替わる代ぞ ひなの家 - 

街道歩きの前に、芭蕉が庵を結んだ深川に行ってみた。

東京駅・日本橋口を出て呉服橋から永代通りを歩く。日本橋を左に見て茅場町TCAT(東京シティエアーターミナル)をかすめて大川(隅田川)沿いを歩き、清洲橋を渡る。

橋の上から川向こうのスカイツリーが見える。

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清洲橋を渡り、一つ目の交差点を左に行くと小名木川(こなぎがわ)に架かる萬年橋がある。芭蕉庵は橋を渡ったその先である。

橋の袂に「ここから前方に見える清洲橋は、ドイツケルン市に架けられた。ライン河の吊り橋をモデルにしている。」の説明版が置かれている。

万年橋を渡ると、橋の由来と「江戸名所図会」に描かれた芭蕉庵、北斎の「富嶽三十六景」に描かれた萬年橋の碑と「川船番所跡」の説明版がある。説明版によれば萬年橋の袂に小名木川を通る船を取り締まる番所があったのだそうだ。

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萬年橋、北詰から北へ数分歩くと「旧芭蕉庵跡20m」の道標が目に入る。

いって見ると稲荷神社の祠があり芭蕉稲荷神社・芭蕉庵史跡と書かれている。

芭蕉が好んだ石造りの蛙がこのあたりで見つかったことから芭蕉庵があった場所とされているらしい。境内とは言えないほど狭いスペースには、「史跡 芭蕉庵跡」の碑と共に

- 古池や 蛙飛び込む 水の音 - の句碑が置かれている。

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傍らに「深川芭蕉庵旧地の由来」の説明版があり

「俳聖芭蕉は、杉山杉風に草庵の提供を受け、深川芭蕉庵と称して延宝八年から元禄七年大阪で病没するまでここを本拠とし「古池や蛙飛びこむ水の音」等の名吟の数々を残し、またここより全国の旅に出て有名な「奥の細道」等の紀行文を著した。

ところが芭蕉没後、この深川芭蕉庵は武家屋敷となり幕末、明治にかけて滅失してしまった。

たまたま大正六年津波来襲のあと芭蕉が愛好したといわれる石造の蛙が発見され、故飯田源次郎氏等地元の人々の尽力によりここに芭蕉稲荷を祀り、同十年東京府は常盤一丁目を旧跡に指定した。

昭和二十年戦災のため当所が荒廃し、地元の芭蕉遺蹟保存会が昭和三十年復旧に尽した。

しかし、当所が狭隘であるので常盤北方の地に旧跡を移転し江東区において芭蕉記念館を建設した。(芭蕉遺跡保存会)」と書かれている。

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さて、元の道に戻り200mばかり北へ行くと「芭蕉記念館」がある。

冠木門を入ると庭園になっていて細い坂を登って行くと芭蕉庵と芭蕉座像が復元されている。

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庭園には句碑が3基置かれている。

写真左から

- 草の戸も 住み替わる代ぞ ひなの家 -

- 川上と この川しもや 月の夜 -

- ふる池や 蛙飛び込む 水の音 -

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本館の入場料は、500円。(深川江戸資料館、中川船番所資料館にも入場できる。)

館内には数多くの資料が展示されている。

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さて、裏木戸を出て、隅田川沿いをしばらく南へ戻ると芭蕉記念館が管理する「江東区芭蕉庵史跡展望庭園」があり芭蕉像や「小名木川五本松と芭蕉の句」の説明版などがある。

(ここは、先ほど訪れた芭蕉稲荷神社のすぐ横になる。説明版には、

松尾芭蕉は延宝年(1680年)冬より小名木川隅田川が合流する辺りにあった深川芭蕉庵に住んでいました。「奥の細道」の旅を終えた芭蕉は元禄6年(1680)、50歳の秋に小名木川五本松のほとりに舟を浮かべ、「深川の末、五本松といふところに船をさして」の前書きで「川上とこの川下や月の友」の一句を吟じました。この句は、「今宵名月の夜に私は五本松のあたりに舟を浮かべて月を眺めているが、この川上にも風雅の心を同じゅうする私の友がいて、今頃は私と同様にこの月を眺めていることであろう」の意で、老境に入った芭蕉が名月を賞しながら友の事を想う心が淡々と詠まれています。・・・・・・・」と書かれている。

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芭蕉記念館は、深川江戸資料館と共通の入場券になっているので江戸資料館にも行ってみることにする。途中には、深川七福神布袋尊を祀った「深川稲荷神社」がある。また、このあたりは両国に近いせいか相撲部屋がいくつかある。

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深川稲荷神社から清澄通りに出て門前仲町方面へ向かって歩くと15分程で江戸資料館に着いた。

都営地下鉄大江戸線清澄白河駅から3分程の所である。

中は、江戸時代の長屋の風景や大川端の船宿などが再現されている。

大川端の船宿は、NHKなどでドラマ化された平岩弓枝原作の「御宿かわせみ」のイメージである。但し「かわせみ」は旅籠でここに再現されているのは船宿である。

江戸の旦那衆が舟遊びのあとここで酒・食を楽しんだのだという。

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長屋は、ストーリー仕立てになっており美人のガイドさんが色々説明してくれる。地方から江戸へ出てきた若者、近くの米屋の奉公人、嫁ぎ先の亭主に死に別れ、三味線を教えている女性などが登場人物である。

なかなか楽しいひと時であった。

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江戸資料館を出て、清澄通り門前仲町まで歩き、「成田山深川不動堂」に参詣し、これから先の旅の安全を祈願することにする。

今日は日曜日、海外の観光客と日本人の参拝客で深川不動堂の境内は大賑わいであった。

成田山・別院 深川不動堂は、町民文化が花開いた江戸中期、元禄年間には不動尊信仰が急激に広まった。深川不動尊は、犬公方で知られる五代将軍・徳川綱吉の母、桂昌院の希望により成田山から江戸へご本尊が奉持されたのだという。

ちなみに不動明王のご真言は、「のーまく さんまんだー ばーざらだん せんだー まーかろしゃーだー そわたや うんたらたー かんまん」

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本日は、ここまで。

永代通りを東京まで歩いて上野・東京ラインで浦和へ。(帰宅)

中山道旅日記 25 山科-京・三条大橋(最終回)

34日目(521日(土))山科-京・三条大橋

中山道一人歩きも山科から京の道のりを残すのみとなった。

中山道69次最後の一日である。

JR草津駅から山科駅に戻り街道に出たのが午前9時過ぎ、しばらく行くと「東海道」側面に「大津札の辻まで一里半」と彫られている道標が「車石」、「車石の説明版」と共に置かれている。その先には「五条別れ道標」が置かれていて、正面には「右ハ三条通」左側面に「左ハ五条橋ひがしにし六条大佛・今くまきよ水道」右側面に「願主 沢村道範建立」と彫られている。

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街道は三条通りに合流し、しばらく行くと「天智天皇山科陵(てんちてんのうやましなのみささぎ)」の入り口がある。

扶桑略記には「大化の改新中臣鎌足藤原鎌足)と共に蘇我入鹿(そがのいるか)を暗殺し、蘇我氏を滅ぼした中大兄皇子は、大津に都を移し天智天皇となった。天智天皇はある時、馬で山科に行ってそのまま戻らなかった。そこで沓が見つかった山科に墓を造った」との伝承が記されている。

天智天皇は病気により死亡したと日本書紀には書かれているのだが・・・・・。

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広い道路を渡り「旧東海道」の表示に従って旧道に入っていく。少し歩くと旧道は京へ入る「日ノ岡峠」越えの上り坂になっている。

坂を上ると「亀の水不動尊」がある。不動尊の入り口には亀の口から清水が湧き出ている珍しい水場がある。当時、江戸からの旅人は京を目の前にしてここで喉を潤して最後の峠を越えていったのだろう。

「亀の水不動尊は、一七三八(元文三)年、日ノ岡峠の改修に尽力した僧・木食(もくじき)正禅が結んだ庵(いおり)の名残で、峠の途中に構えた庵は休息所を兼ね、井戸水で牛馬の渇きをいやし、湯茶で旅人を接待したとされる。」(京都新聞・道ばた資料館より)

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峠道をしばらく上ると民家の前にひっそりと「旧東海道」の道標が置かれている。

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旧道はやがて三条通に合流するが交差点北側の山肌に「旧舗石・車石」の石盤がはめ込まれている。

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その先10分程の所に日向大明神の鳥居が見えてくる。

社伝によれば、第二十三代・顕宗天皇の御代に筑紫日向(ちくしひゅうが)の高千穂の峯の神蹟より神霊を移して創建されたのだそうだ。

応仁の乱で社殿は焼失したが江戸時代初期に再建され、現在は交通祈願の神社として有名になったとのことである。

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更に20分ばかり歩くと「三條通・東大津道」と彫られた道標が置かれておりすぐその先に「粟田神社」がある。

そこには「粟田焼発祥の地」と彫られた碑が立てられている。粟田焼は洛東粟田地域で生産された陶器の総称で,元来は粟田口焼という名称であったが,窯場が粟田一帯に拡大されたため粟田焼と呼ばれるようになった。

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そこから5分程歩いたところに「坂本龍馬 お龍結婚式場跡」の碑が置かれており、説明版が添えられている。

「当地は青蓮院の旧境内で、その塔頭金蔵寺跡です。元治元年(1864)8月初旬、当地本堂で、坂本龍馬と妻お龍()は「内祝言」、すなわち内々の結婚式をしました。 ・・・・・」(説明版より)

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すぐ先の白川橋の横に「是よりひだり ちおんゐん ぎおん きよ水みち」と彫られた「三条白川橋道標」が置かれている。これは延宝六年(1678)に建立された京都最古の道標なのだそうだ。

ここを左折し、川沿いをしばらく行くと路地の奥に「明智光秀の塚」がある。

山崎合戦(天王山の戦い)で秀吉に破れた光秀は、坂本城を目指して落ち延びる途中百姓に竹槍で刺されその後、自刃した。介錯をした家臣の溝尾茂朝が光秀の首を持ってこの近くまで来たが、夜が明けたためこの地に埋めた、と伝えられている。

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白川橋まで戻り歩くこと約15分「高山彦九郎皇居望拝之像」が置かれている。

高山彦九郎は江戸時代後期、勤皇を唱えて諸国を歩いた人物だそうだ。

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そしてすぐ先が鴨川に架かる三条大橋である。

鴨川は京都を代表する川で桟敷岳(さじきだけ)を源とし京都市街を流れて淀川に合流する。古くから多くの歌人が鴨川を題材にして歌を詠んでいる。

-鴨川の後瀬(のちせ)静けく 後も逢はむ 妹には我れは今ならずとも- 万葉集(二三四一)

-千鳥なく かもの河瀬の夜半の月 ひとつにみがく 山あゐのそで- 藤原定家

-みそぎする 賀茂の川風吹くらしも 涼みにゆかむ妹をともなひ- 曾禰好忠
-ちはやぶる賀茂の社の木綿襷(ゆうだすき)一日も君をかけぬ日はなし- 詠人不知(古今集

-かも河の みなそこすみて てる月を ゆきて見むとや 夏はらへする- 詠人不知(後撰和歌集

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橋の西詰に「弥次さん喜多さん」の銅像がある。横の立て札には「道中安全祈願・ふれあいの弥次喜多さん 旅は道づれ 世は情け 道中安全願いつつ ふれて楽しい 旅のはじまり」と書かれている。

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2016521日午前115分、中山道69次・百三十五里三十四町八間(約530キロ)

完全踏破。

 

エピローグ

2015521日(木)に日本橋をスタートした中山道一人歩きの旅はちょうど1年後の2016521日(土)京・三条大橋に着き、約530キロを踏破することができた。

延べ34日の旅であった。

中山道・第三宿「浦和」に住んでいるという単純な理由で軽い気持ちで始めた街道歩きであったが日を重ねるごとに面白くなり、途中からはガイドブックや「木曾路名所図会」で事前に見どころをチック、歩いた後は資料を調べるといった楽しみが加わった。

更に「太平記」、「平家物語」、「十六夜日記」や十返一九の「続膝栗毛」などの古典文学を読みながらの旅でもあった。

中山道は、東京・埼玉から群馬、長野、岐阜といった中央山岳地帯を貫いた街道で碓氷峠和田峠塩尻峠、鳥居峠馬籠峠、十三峠、摺針峠など当時は難所といわれた峠を越えなければならない。碓氷峠の頂上に立った時の感動、1日中誰にも会うことがなかった12月の和田峠越え、十三の峠を上り下りする長い峠道、琵琶湖を望める摺針峠など汗を拭き拭きの峠越えはそれぞれに趣があった。
木曽路の奈良井、福島、妻籠、馬籠など昔の風情を残す宿場町、東京をそのまま移動させたような軽井沢、温泉を楽しんだ下諏訪、山の中に取り残されたような大湫、細久手、強い雨に打たれた赤坂など思い出は尽きない。

その土地、土地に古くから語り継がれた伝説や伝承、歴史上の人物にまつわる逸話などにも触れることができた。

多くの古人が歌を詠んだ歌枕の地を訪れ、芭蕉や一茶の俳句にも出会った。

時には、関が原の合戦や壬申の乱、皇女和宮の降嫁、木曽義仲とその愛妾・巴、源義経とその母常盤御前など数々の歴史に思いをめぐらしたものである。

中山道旅日記 完

中山道旅日記 24 草津宿-大津宿

33日目(520日(金))草津宿-大津宿-山科

午前8時前にホテルを出て街道へ。

68宿 草津宿・本陣2脇本陣2、旅籠72

(日本橋より129108間 約507.7キロ・守山宿より118町 約5.9キロ)

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中山道は、草津宿東海道と合流する。中山道の第68宿・草津宿東海道の第52宿でもあり、次の大津宿は中山道69宿、東海道53宿ということになる。草津宿平安時代から東山道東海道の分岐点として大いに栄え、東山道中山道と改名されてからも交通の要所として重要な位置を占めていた。

「守山まで一里半。此駅、東海道木曽路街道・尾張道等喉口(ここう)なれば賑し。宿中に立木明神(たつきみょうじん)のやしろ、上善寺、駒井氏(こまいうじ)や活人石(かつじんせき)等あり。尋ねて見るべし。」(木曾路名所図会)

大路の交差点を渡った所からアーケードが付いた商店街だがこの道も中山道である。

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商店街をぬけてしばらく行くと中山道東海道の追分道標が立っている。文化十三年(1816)に建てられたものだそうで「左 中仙道美のぢ 右 東海道いせみち」と彫られている。昔の旅人が中山道東海道に分かれていった所で色々なドラマが繰り広げられたに違いない。江戸からの旅人は、京はもうすぐだと実感しただろう。

道標の右には高札場跡がある。ここには「右 東海道いせみち」「左 中山道みのみち」と書かれた立て札も立っている。

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マンフォールの蓋にも「東海道中山道分岐点慶長七年」と書かれ、道しるべになっている。

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先の公民館の前に「尭孝(ぎょうこう)法師歌碑」が置かれていて、歌の解説などが書かれた説明版が添えられている。
-近江路や 秋の草つは なのみして 花咲くのべぞ 何処(いずこ)ともなき- 覧富士記
「将軍のお供をして富士を見に行く途中、秋の近江路草津まで来たが、草津とは名ばかりで、秋の草花が咲いた美しい野辺を思い描いていただけに心寂しい思いをするものだよ。

堯孝法師(一三九〇~一四五五)」(説明版より)

ちなみに、将軍とは「足利幕府六代将軍義教(よしのり)」のことである。

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その先が「草津宿本陣」である。ここは現存する本陣の一つで今も当時のままの姿をとどめている。ここには、忠臣蔵の・播州赤穂の藩主・浅野内匠頭新選組土方歳三、皇女和宮シーボルトなども宿泊したのだそうだ。中には当時の貴重な資料が展示されているそうだが、早朝の為入館できなかった。

入り口には「細川越中守宿」の関札も掲げられている。

≪関札(せきふだ)宿札(やどふだ)について≫

「関札は別名、宿札ともいい、江戸時代に大名や公卿、門跡、旗本や幕府役人などが本陣に休泊する標識として、休泊する者の氏名や官職、休泊の別(宿・泊・休など)を記し、尺廻り(約30センチ)高さ3間(約5.5メートル)の青竹に取り付け、本陣の前や宿場の出入り口に立てられたものである。」

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本陣の向かいに「和食材 ベーカリー&カフェ・脇本陣跡」と表示されている店があるがここが脇本陣跡なのだろうか?傍らに「脇本陣跡」の碑が立っているのだが・・・・。

先へ行くと「草津宿街道交流会館」の札が掛かっている建物があるがここもまだオープンしていない。入り口には「右・東海道大津宿、左東海道石部宿 中山道守山宿」と書かれている。

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先へ行くと、「道灌」と記されたこも被り(こもかぶり)が置かれている建物がある。ここは造り酒屋「太田酒造」で、先祖は江戸城築城の祖、太田道館だそうだ。

(こも被り=薦(こも)でおおった四斗(約72リットル)入りの酒樽のこと)

 

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先の道路を渡ると「立木神社」がある。境内の自然公園立木の森には「石造道標」があって「みぎハたうかいとういせミち ひたりは中せんたうをた加みち」とほられている。これは文化三年(1806)に立てられた現在の追分道標以前の延宝八年(1680)に立てられたそうである。

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その先の草津川に架かる矢倉橋を渡って5分程行くと当時立場として賑わったところで瓢泉堂という瓢箪を売る店がある。この店は草津名物の「姥が餅」を売る茶店の跡だそうだ。その店先に「やばせ道」道標が立てられている。ここは 東海道と矢橋街道(やばせかいどう)の追分で、道標には「右やはせ道、これより廿五丁」と彫られている。(矢橋道は、東海道中山道の合流地点から南西に1キロ余りいった所で東海道と分かれて、琵琶湖畔矢橋(やばせ)の渡しに至る25町の道である。矢橋から大津、石橋の渡しまでの湖上をあわせ、瀬田の唐橋経由の陸路に比べて2里ほどの短縮となった。)

この道標は広重の「東海道五拾三次之内 草津」に描かれている。

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「やばせ道」道標から5分程先には稲荷神社さらにその先の上北池公園には「野路一里塚跡」の碑が置かれている。これは江戸から百三十番目の一里塚である。(百二十九番目は確認できなかった。)

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その先には、野路の玉川跡があり小さな泉が復元されており、源俊頼の歌碑が立っている。

「野路の地名はすでに平安時代の末期にみえ、平家物語をはじめ、多くの紀行文にもその名をみせている。野路の玉川は、日本六玉川の一つで歌枕の名勝である。 

-あすもこむ 野路の玉川萩こえて 色なる波に 月やどりけり- 源俊頼 (千載集)

またこの地は萩の名所として「萩の玉川」ともいわれ「近江名所図会」は歌川広重の浮世絵にも紹介されている。」(説明版より)

木曽路名所図会には「野路の篠原のこなたに玉川の跡あり。これ六ツ玉川の其の一つなり。

-さを鹿の しからむ萩に秋見へて 月も色なる 野路の玉川- 太宰権師仲光 (新拾遺集)」とある。

また阿仏尼は十六夜日記の中で

-のきしぐれ ふるさと思う 袖ぬれて 行きさき遠き 野路のしのはら-

と詠んでいる。

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さて、玉川を過ぎてしばらく行くと弁天池と呼ばれる池があり池の中ほどに弁天島が浮かんでいる。この島には弁財天が祀られているが、江戸時代の大盗賊・日本左衛門が隠れていたという伝説も残っているのだという。日本左衛門は歌舞伎十八番・白波五人男の一人である。

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弁天池を後に旧道を歩いていくと月輪寺がある。入り口には正面に「東海道」右側面に「濱道」と彫られた道標や「明治天皇御東遷駐輦之所」の碑などが置かれている。

この寺は明治天皇だけではなく徳川第十四代将軍家茂も休息を取ったという記録が残っているそうだ。

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その先には月輪池と呼ばれる池があり「東海道立場跡」の碑が立っている。このあたりも当時は立場で賑わったのだろう。10分程先へ行った交差点に一里塚跡の碑が置かれている。江戸から百三十番目の「月輪池一里塚」である。また、道標が立てられていて「上矢印・三条大橋迄で五里余り、下矢印・江戸日本橋迄で百二十里余り(東海道)、左矢印・旧朝倉道信楽より伊勢、桑名に至る、右矢印・膳所藩札場より大萱港常夜灯に至る」と

彫られている。

-くたびれたやつが見つける一里塚-という川柳がある。ここで一休みとしよう。

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ここから先はこれということもなく淡々と歩いていくことになる。一時間余り行くと「左・旧東海道」「右・瀬田唐橋」彫られた碑がある。道標通り右へ行くと5分ばかりで瀬田の唐橋である。橋の袂には常夜灯と「松風の帆にはとどかず夕霞 茶粋」と彫られた歌碑が立っている。(茶粋とは誰のことかわからない。)

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瀬田の唐橋については書くことが多い。

琵琶湖に架かる瀬田の唐橋は、「瀬田の長橋」とも呼ばれ近江八景「瀬田の夕照」で知られる日本三大名橋の一つで、古くは近淡海(ちかつあわうみ)とも鳰海(におのうみ)とも呼ばれた琵琶湖と共に多くの古人が歌を詠んだ歌枕の地である。

瀬田の唐橋

-まきの板も苔むすばかり成りにけりいくよへぬらむ瀬田の長橋- 中納言・大江 匡房(おおえ の まさふさ)(新古今集/雑中の巻)

-望月の駒ひきわたす音すなり瀬田の長道橋もとどろに- 平兼盛(麗花集)
-ひき渡す瀬田の長橋霧はれて 隈なく見ゆる望月の駒- 藤原顕季(堀河院御時百首和歌)
-五月雨に かくれぬものや 勢多の橋- 芭蕉

≪琵琶湖(近淡海(ちかつあわうみ)、鳰海(におのうみ))

-淡海の海夕波千鳥汝なが鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ- 柿本人麻呂万葉集

三 二百六十六番)
-鳰の海や霞のをちにこぐ船の まほにも春のけしきなるかな- 式子内親王

(新勅撰和歌集
-石山や鳰の海てる月かげは 明石も須磨もほかならぬ哉- 近衛政家
-鳰の海や月のひかりのうつろへば浪の花にも秋は見えけり- 藤原家隆新古今和歌集

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次に瀬田の唐橋は古くは日本書紀にも記述があり、古来より「唐橋を制する者は天下を制す」といわれ軍事・交通の要所であった。

摂政元年、香坂皇子(かごさかのみこ)と忍熊皇子(おしくまのみこ)が反乱。忍熊皇子神功皇后(じんぐうこうごう)(応神天皇の母)の家来である武内宿禰(たけうちのすくね)の軍に攻められ、瀬田で自害したという(『日本書紀』 気長足姫尊 神功皇后)。

天武天皇元年(672)に起こった古代日本最大の内乱、壬申の乱(じんしんのらん)では天智天皇の皇子・大友皇子とその叔父大海人皇子(おおあまのみこ)との間に皇位継承の戦いが起き、その最終決戦の場が瀬田の唐橋であった。結果、大海人皇子が勝利し天武天皇となる。

治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)(源平合戦)(11801185)では木曽義仲平氏源義経木曽義仲がここで戦っている。

承久三年(1221)の承久の乱(じょうきゅうのらん)では、後鳥羽上皇方と鎌倉幕府方が瀬田の唐橋を挟んでの戦闘となった。結果、幕府方勝ち幕府の権力は強くなり、後鳥羽上皇隠岐へ流罪となる。

琵琶湖から流れ出る川は瀬田川だけで、東から京へ入るには瀬田川か琵琶湖を渡るしかなく瀬田川に架かる唯一の唐橋は軍事上最も重要であった。

武田信玄は死の床にあって「瀬田橋に我が風林火山の旗を立てよ」と命じたそうである。

また、瀬田の唐橋(瀬田橋、勢多の唐橋)は「急がば回れ」の諺の由来の橋でもある。

室町時代連歌師・宋長(そうちょう)は「もののふの矢橋の舟は早けれど急がば回れ瀬田の長橋」と詠んだ。

「やばせ道標」の時にも書いたが、江戸時代、草津から京へ入るには東海道の陸路を行くか矢橋の渡しから海路琵琶湖を横断するかの二通りである。海路の方が二里ほど短縮されるが比叡山から吹き下ろす突風(比叡おろし)のため危険で遅れることが多くかったようである。急ぐ時には危険な近道より遠くても安全な本道の方が結局は早く着く。安全で着実な方法を選択すべしという戒めである。

そしてここには「俵の藤太のムカデ退治伝説」も残っている。

瀬田の唐橋 俵藤太秀郷むかで退治≫

室町時代藤原秀郷(ふじわらのひでさと)は、誰もが恐れていて近寄りもできなかった瀬田橋に横たわる六十六メートルもの大蛇の背をやすやすと踏み越えた。すると、大蛇は爺さんに姿を変えて秀郷の前に現れ、三上山の大ムカデが夜な夜な琵琶湖の魚を食いつくしてしまい、人々が大変困っているという。そこで爺さんは大蛇に姿を変えて勇気のある豪傑を待っていた。秀郷は、こころよく大ムカデ退治を引き受けた。秀郷の射た矢が見事に大ムカデの眉間を射貫き、大ムカデは消え失せた。この秀郷の武勇をたたえて爺さんが招待したところが瀬田橋の下、竜宮であった。琵琶湖に暮らす人々を守るべく一千年余の昔から瀬田橋に住むという。秀郷は一生食べきれないほどの米俵を土産に竜宮を後にした。そこから「俵藤太」の名が付けられたとされている。」(説明版より)

続膝栗毛には「ゆくほどなく、やがて瀬田の長はしにいたる。此所はたはら藤太がむかし、みかみやまのむかでをたいじせし所なりといひつたふ。

-其むかし ばなしを今もみかみ山 むかでの足ににたるはし杭-」と書かれている。

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瀬田の唐橋を渡って大津に入る。道標に従って歩いていくと「膳所城勢多口総門跡」の碑がさりげなく民家の門前に置かれている。

膳所城は徳川家康関ケ原の合戦後築城の名手といわれた藤堂高虎に造らせた城で湖水を利用して西側に天然の堀を巡らせた典型的な水城で白亜の天守閣や石垣、白壁の塀・櫓(やぐら)が湖面に浮かぶ美観は、「瀬田(せた)の唐橋(からはし)唐金擬宝珠(からかねぎぼし)、水に映るは膳所の城」と里謡(さとうた)にも謡(うた)われている。

その先には「若宮八幡神社」がありさらにその先には「膳所城中大手門」の碑が置かれている。

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15分程歩くと「和田神社」があり神社の本殿は国の重要文化財に指定されており、門は膳所藩の藩校「遵義堂(じゅんきどう)の門を移築したものだそうだ。境内には650年の樹齢を誇る「いちょう」の大木がそびえている。

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さらに10分程行くと「石坐(いわい)神社」がある。社伝によると、この神社は瀬田に設けられた近江国府の初代国造・治田連(はるたのむらじ)がその四代前の租・彦坐王命(ひこいますみのみこ)を茶臼山に葬り、その背後の御霊殿山を神体山(神奈備(かんなび))として祀ったのが創祀だとか。

神奈備(かんなび):神道において、神霊(神や御霊)が宿る御霊代(みたましろ)や依り代(よりしろ)を擁した領域のこと)

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石坐神社から約10分で「義仲寺(ぎちゅうじ)」である。近江の国・粟津の地で源頼朝の命を受けた義経軍と戦い壮絶な最期を遂げた木曽義仲を葬った寺である。この寺は後に髪を下ろして尼僧となった巴が義仲の墓所近くに草庵を結んで「われは名も無き女性(にょしょう)」と称し、日々義仲を供養したことにはじまると伝えられる。寺は別名、巴寺、無名庵、木曽塚、木曽寺とも呼ばれたという記述が鎌倉時代後期の文書にみられるという。巴の美貌は尼になっても衰えず、里人からその名を聞かれても「我は名もなき女性(にょしょう)」と答えるばかりであったという。

巴の死後、寺は荒廃したが後に近江守・佐々木氏により再興された。

江戸時代中期までは木曽義仲を葬った小さな塚であったが、周辺の美しい景観をこよなく愛した松尾芭蕉が度々この地を訪れ、死後生前の遺言によってここに墓が立てられたと言われている。

寺務所の横に巴地蔵が祀られ、境内には義仲の墓と共に芭蕉の墓、巴塚、山吹供養塔、無名庵、朝日堂、翁堂、芭蕉の歌碑などがある。

義仲寺(左)、巴地蔵(右)

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無名庵(左)、朝日堂(中)、翁堂(右)

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義仲の墓(左)、芭蕉の墓(右)

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芭蕉の句碑が一基

-木曽殿と背中合わせの寒さかな-

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≪巴塚(供養塚)≫

木曽義仲の愛妻 巴は義仲と共に討死の覚悟で此処粟津野に来たが、義仲が強いての言葉に最期の戦を行い、敵将恩田八郎を討ち取り涙ながらに落ち延びたが後鎌倉幕府に捕えられた。その後、和田義盛の妻となり義盛戦死のあとは尼僧となり各地を廻り当地に暫く止まり 亡き義仲の菩提を弔っていたという。それより何処ともなく立ち去り、信州木曽で九十歳の生涯を閉じたと云う。」(説明版)

≪山吹供養塔≫

「山吹は義仲の妻、そして妾とも云う。病身のため京に在ったが、義仲に逢わんと大津まで来た。義仲戦死の報を聞き悲嘆のあまり自害したとも捕られたとも云われるその供養塚である。元大津駅前に在ったが大津駅改築のため此の所に移されたものである」(説明版)

-木曽殿をしたひ山吹散りにけり- 

山吹地蔵がJR琵琶湖線大津駅のすぐそばにあるというのだが・・・・・。

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巴を詠んだ歌碑が二基

-かくのごとき をみなのありと かってまた おもひしことは われになかりき-

-としつきは 過ぎにしとおもふ 近江ぬの みずうみのうへを わたりゆく月-

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松尾芭蕉の歌碑が三基

-行春を おうみの人と おしみける-(左)

-古池や 蛙飛びこむ 水の音-(中)

-旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る-(右)

 

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義仲寺を出て20分ほど歩くと「京町三丁目・旧東海道」と書かれた道標が目に入る。このあたりの町並みは昔の面影を少し残している。いよいよ大津宿の入り口である。

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69宿 大津宿・本陣2脇本陣、旅籠72

(日本橋より132348間 約522.1キロ・草津宿より324町 約14.4キロ)

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大津は古く壬申の乱(じんしんのらん)の舞台となったところで、その後宿駅と琵琶湖の物資が集散する商業地として栄えた。また東海道中山道の宿駅が重なり北陸海道の起点であったので大いに賑わった。

木曽路名所図会には「京師(けいし)よりここまで三里、これより草津まで三里半六町、(光行紀行)ここはむかし天智の帝、大和国飛鳥岡本みや(やまとのくにあすかかもとのみや)より、淡海(あふみ)の志賀郡に都うつりありて、大津の宮をつくらせ給うときくにも、ふるき皇居の跡ぞかしと覚て

-ささ波や大津の宮のあれしより名のみ残れる志賀のるふ里- 光 行

此駅は都よりはじめてのところなればにや、旅舎(たびや)人馬多くこぞりて喧し(かまびすし)。浜辺のかたは、淡海国(あうみのくに)に領ぜらるる諸侯の蔵やしきならび、入船出船賑ひ、都て(すべて)大津の町の数九十六町ありとなん。」とある。」

さて、大津宿に入ると「露国皇太子遭難之地碑」が立っている。ここはロシア帝国の皇太子が大津の警察官に突然切りつけられた暗殺未遂事件(大津事件)のあった所だそうだ。

街道は路面電車が走る広い道路に出会うが交差点を渡った所が札の辻で「大津市道路元票」の碑と共に「札の辻」の道路標識が立っている。ここは高札場であったが越前敦賀へ通じる北国海道の起点でもある。すぐ先には近松別院の道標も置かれていて表面には「是より半町 京・大坂・江戸・大津講中」、側面には「蓮如上人近松御旧跡」裏面には「延享三丙寅年五月是を建つ」と刻まれています。

十返舎一九の続膝栗毛には「人の心の長旅に足曳(あしびき)の山留(やまどめ)して(足曳は山にかかる枕詞)、朝もよい木曽街道を心ざし、今や東都へ帰り道なる弥次郎兵衛きた八は、播州路よりすぐに尼ケ崎から神崎のわたしをこえて、山崎街道を伏見に寄宿し、あくればここを立出て、はやくも札の辻なる追分町にぞ出たりけり。此所は名におふ大津絵の名物、みすや針十算盤(そろばん)など、家ごとにあきなふ見えたり。

-筆勢(ひっせい)を 見世にならべて商内(あきない)も 時に大津の 得(え)ものなるべし-」(続膝栗毛・三編・上巻)と書いている。

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札の辻からは緩やかな上り坂でその先に明治天皇聖跡と刻まれた碑が立っていて「大津宿本陣跡」の説明版が立てられている。説明版によると大津宿には2軒の本陣と1軒の脇本陣があったが、ここは大塚本陣があった所だそうだ。

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さらに坂道を上っていくと、京阪電鉄の踏切の向こうに石灯籠、その横に「関蝉丸神社」と「音曲藝道祖神」の石碑が並ぶ。「蝉丸神社下社」である。

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踏切を渡り、鳥居をくぐると蝉丸の歌碑その先には紀貫之の歌碑が置かれている。

-これやこの ゆくもかえるもわかれては しるもしらぬも 逢坂の関- 蝉丸(百人一首第十番)

-逢坂の 関の清水に影見えて いまやひくらん 望月の駒- 紀貫之

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本殿の左手奥には「時雨燈籠」がある 。説明版によるとこれは鎌倉時代の様式をもつ超一級の燈籠で国の重要文化財に指定されている。

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蝉丸神社を出てしばらく行くと「逢坂」の由来が書かれた碑が立っている。

「竹内宿禰(たけのうちのすくね)がこの地で、忍熊王とばったり出会ったことに由来する」のだそうだ。

街道はその先で国道1号線に合流し、がやがて「蝉丸神社上社」が見えてくる。国道は緩やかな上り坂になっていて坂を上り切った所に「逢坂常夜灯」と「逢坂山関址碑」が置かれている。

逢坂関(おうさかのせき)は山城国近江国の国境(くにざかい)にある関所で東海道東山道(後の中山道)がこの逢坂関を越えるため、交通の要(かなめ)となる重要な関所であった。平安時代中期以後は東山道不破関東海道鈴鹿関と共に三関の一つとされている。

また、逢坂関は歌枕としても知られ、蝉丸の歌と共に清少納言、三条右大臣の歌が百人一首に選ばれている。

-夜をこめて鳥の空音ははかるとも よに逢坂の関はゆるさじー 清少納言百人一首第六十二番)

-名にし負はば逢坂山のさねかづら 人に知られでくるよしもがな- 三条右大臣(百人一首第二十五番)

(ちなみに百人一首の第一番は-秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ(天智天皇))

他にも

-逢坂の 関に流るる岩清水 言はで心に 思ひこそすれ- 読人知らず
-わきて今日あふさか山の霞めるは立ちおくれたる春や越ゆらむ- 西行

などがある。

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先へ行くとポケットパークがあり、蝉丸神社の碑や「車石」の説明版が置かれている。

≪車石≫

「大津と京都を結ぶ東海道は、米をはじめ多くの物資を運ぶ道として利用されてきた。
江戸時代中期の安永八年(1778)には牛車だけでも年間15894輌の通行があった。この区間は、大津側に逢坂峠、京都側に日ノ岡峠があり、通行の難所であった。
京都の心学者 脇坂義堂は、文化二年(1805)に一万両の工費で、大津八町筋から京都三条大橋にかけての約12kmの間に牛車専用通路として、車の轍(わだち)を刻んだ花崗岩の切石を敷き並べ牛車の通行に役立てた。これを「車石」と呼んでいる。」(説明版)

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国道1号線を下り名神高速の下を通って旧道に入る。しばらく行くと「みぎハ京ミち」「ひだりハふしミみち」と彫られた追分道標が「蓮如上人御塚」と彫られた碑と共に立っている。ここは髭茶屋追分ともいわれ、道標の左方向の道路が、伏見、淀、大坂方面への伏見街道(奈良街道)で、この道路から京都市山科区になる。

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旧道は、三条通りへ出てすぐに国道1号線を横断するが、歩道橋を渡るとすこし登り坂になり、民家の石段の端に「牛尾山」と書かれた小さな道標がひっそりと置かれている。

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旧道は再び三条通りに合流するが手前の三叉路に「小関越の道標」がある。東海道大関越えと呼んだのに対し、ここから小関峠を越えて小関町に続く道を小関越えと呼び京都から大津の町中を通らずに北陸へ行く近道(間道)として利用されたのだという。

正面に「三井寺観音」右側面に「願諸来者入玄門」左側面に「小関越」と彫られている。

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そこから30分程歩くとJR山科駅である。今日の宿泊も草津のホテル21。昨今は外国の観光客が多く京都近くの手ごろなホテルは全く取れない。草津のホテルに連泊である。