奥の細道一人歩き 15 文挟宿-日光
14日目(2019年12月28日(土))文挟宿-日光
6時5分、浦和発の宇都宮線に乗り日光線・文挟に着いたのが8時23分。
例幣使街道に戻り歩きは始めるとすぐに「追分道標」があり「右・鹿沼 出流 岩船 左・大谷 田下 宇都宮 道」と刻まれている。
すぐ先の祠に「延命地蔵」が赤いセーターを着て座っている。
その先、街道は文挟の市街地に入るが早朝のことでもあり人影はない。以前は宿場町だったはずだがその面影もない。
10分程歩くと「文挟町・二荒山神社」がある。横には「文挟宿郷蔵」があり説明版が立っている。「有形文化財(建造物)文挟宿郷蔵 江戸時代の元禄、天明、天保等の大飢饉で日光神領の村々は、餓死者や倒産の家が多発した。このため、村民は共同で郷蔵を建て、不作の時に困らないように貯穀した。この文挟宿郷蔵は、江戸末期に栗材でしっかり建てられたもので、当時の稗(ひえ)も発見されている。農民共済の実をあげたこの郷蔵は、わずかに残っている貴重な建物である。(日光市教育委員会・説明版)
ここから先は、杉並木(車道)の側道(歩道)を歩くことになる。
10分程先には「聖徳太子」と刻まれた碑が立っている。その横に「岩見重蔵之碑」がある。剣豪、岩見重太郎の兄で父の仇討を果たそうとしたが返討ちにあってしまったというのだが・・・・。雪化粧をした日光連山が美しい。
更に30分ぐらい歩くと如意観音が祀られた祠があり、「板橋の一里塚」と書かれた標柱が倒れていた。台風19号の被害を受けたのだろう。江戸・日本橋から30番目の一里塚である。この辺りから例幣使街道最後の宿場町板橋宿に入る。ここも旧宿場町の面影はない。
5分程先の板橋の交差点の所に「栖克神社」がある。これは、正元(1504)年日光山の遊城坊綱清が板橋城を築城するとともに、城の鎮 守として建立したものだという。境内には本多正盛の墓がある。本多正盛は、同僚と争論になり、同僚は自害、本人も自刃したという。(説明版より)
板橋の交差点から旧道に入っていくのだが、杉並木保護のため車両の乗り入れが禁止されている。非常にありがたい。
旧道に入って30分ばかり行くと「地震坂」と書かれた立て札他目に入る。
「昭和24年12月の今市を中心にした大地震による地すべりで杉並木が移動してしまった。 本来の街道はここより上を通っていた。」(説明版より)
15分程先へ行くと「例幣使街道 室瀬一里塚」の標柱が立っている。江戸・日本橋から32番目、壬生街道(日光西街道)最後の一里塚である。
一里塚から歩くこと約2時間、例幣使街道(壬生街道・日光西街道)は今市宿で日光街道に合流する。合流地点の追分には「追分地蔵尊」が祀られている。
境内には、「お地蔵さまとおサンヤサマ」と題した説明版がある。
「お地蔵さまは、大地に人間の力ではとうてい計り知れない力と知恵の倉を持っていると云われ、子育てや旅立ちの安全を願っておまいりされ、大勢の人から慕われてきました。地蔵盆日が月の二十四日です。
おサンヤサマは、二十三夜講と云われ、月待ち信仰の一つです。満月を中心に月の形がちょうど半分になる夜だからともお大師讃仰のためともいわれているが、娯楽機関の少なかった頃、信仰をかねて部落の女性が御馳走を持ち寄って集まり団らんにふけった日を言います。お地蔵さまもおサンヤサマも安産子育ての信仰であり供え物と線香を供え祈願しました。」(説明版より)
また、この追分地蔵には、つぎのような「伝説」がある。 「むかし大谷川の川原で石切職人が仕事をしていると、血に染まった地蔵尊を見つけた。驚いた石切職人は人々をよんで一先ず地蔵尊を小倉町の追分に安置したが、野天にさらしておくのは恐れ多いということで如来寺に移した。 町の人たちの参詣は昼も夜も絶えなかったが、そのうち夜遅く地蔵尊の前を通るとすすり泣きの声がきこえるという妙な噂たたった。「あの地蔵尊はにっこう憾満ヶ淵の親地蔵様が大水で流されて来たのだ。それで日光が恋しくてきっといろいろの不思議を起こすに違いない。元のように、小倉町の日光が見える所に安置したらよかろう」ということに決定し、さっそく地蔵尊は小倉町の追分に移されることになった。この伝説は「下野伝説集」取り上げられた。」(説明版より引用)
追分地蔵から30分程歩くと右手に「報徳二宮神社」がある。二宮尊徳(二宮金次郎)を祀った神社で神社の奥には二宮尊徳の墓もある。当然のことながら学業成就(合格)の神様である。
小山・喜沢追分で別れた日光街道を再び歩く。15分ぐらい歩いた辺りが今市宿の中心のようである。明治元年創業の栃木県産味噌・醤油を販売する「日野為商店」なんかもある。
15分程歩くと右手に「今市総鎮守 瀧尾神社」がある。ここは、天応二年(782)勝道上人が日光二荒山上男体山に二荒山大神を祀ると同時にこの神社にも二荒山大神を祀ったのが始まりだそうだ。
今市宿を抜けると杉並木を歩くことになる。日光に至るまでには、旧江連家が復元されている。
杉並木を歩くこと1時間余り、やっとJR日光駅にたどり着いた。
奥の細道一人歩き 14 鹿沼宿-文挟宿
13日目(2019年12月24日(火))鹿沼宿-文挟宿
東武・新鹿沼駅から壬生街道(日光西街道)に戻ると道は三叉路になっている。三叉路の真ん中に「二荒山神社」の小さな祠があり「鳥居跡(-とりいど-と読む)」の説明版が添えられている。
史跡・鳥居跡
「奈良時代に勝道大上人が日光開山後、この地に四本の榎を植えたと伝えられ、鎌倉時代に源頼朝が日光神領として寄進したとされる押原六十六郷の由緒あるこの地に、日光山の遠鳥居が建てられたと言われている。のち、その跡が地名となって鳥居跡(とりいど)となった。江戸時代の初め、鹿沼宿をつくる際、鳥居跡から分岐造成された新道が今の大通りである。」(説明版)
すぐ先には、この地・蓬莱町の氏神、イザナギ、イザナミを御祭神とした「白山神社」がある。内町通りを数分行くと雲竜寺で、山門を入ると胡麻堂があり、説明版によると縁日の旧一月十六日と七月十六日には随分賑わったのだそうだ。本尊の阿弥陀如来は鎌倉時代の武将・宇都宮頼綱も崇拝したのだという。
5分ばかり先には「薬王寺」があり山門を入ると徳川三代将軍家光の鎧塔が立て札と共に置かれている。この寺は徳川ゆかりの寺で「薬王寺縁起碑」には次のように書かれている。
「当山は、医王山阿弥陀院薬王寺と称して真言宗智山派の寺院です。
鎌倉時代 亀山天皇の御代 弘長年間(今を去る700余年前)の創立で、御本尊は薬師瑠璃光如来です。伝教大師の御作で、昔時より、霊験あらたかな御本尊として 33年に1度 開扉されます。 江戸時代 後水尾天皇 元和3年(今を去る250有余年前) 僧正俊賀の時、徳川家康公の遺軆を 日光山に移埋する途次、4日間 滞在せられ、また、天海僧正 3代将軍家光公入柩の際も、その止宿となりました。~後略~」
また、境内には、七福神が祀られていて「招福・鹿沼七福神 七難即滅、七福即生」の説明版が添えられている。
少し先の中町屋台公園に「中町屋台会館」があり、見事な彫刻が施された屋台が展示されているそうだが、まだ開館時間前で残念ながら入館はできなかった。
ところが、街道を右へ5分程入った所の中央公園に「彫刻屋台展示館」があり、市の文化財に指定されている見事な彫刻屋台が3台展示されている。
管理人さんの話では、日光東照宮建築に当たり全国から腕のいい彫刻師が集められ、東照宮完成後は一家の次男、三男が東照宮のメンテナンスのため日光近くの町に住みついて彫刻の技術を後世に伝えたのだという。鹿沼の屋台はそういった彫刻師が作り上げたものだそうだ。
屋台展示館の横にある「掬翠園」は、明治末期から大正初期にかけて造営され、当時「鹿沼の三名園」の一つと言われた日本庭園である。庭園内には茶室があり芭蕉の句碑が置かれている。句碑には
- 入あひのかねもきこへすはるのくれ - 風羅坊 と刻まれている。
(入逢の鐘もきこえず春の暮)
「俳聖松尾芭蕉が「奥の細道」の途上、元禄二年(一六八九)鹿沼に1泊した折の吟句とされ、碑銘は芭蕉の真蹟詠草(しんせきえいそう)で、風羅坊は芭蕉の別号でる。」と説明版に記されている。
先へ進むと「今宮神社」がある。社歴によれば延暦元年(782)の創立で日光二荒山神社の分社的性格をもち、日光山鹿沼今宮権現と称した。 天文三年(1535)日光神領惣政所の地位にあった壬生綱房が、鹿沼築城と共に現在地に遷し、今宮権現と称して城の鎮守とした。 天正十八年(1590)豊臣秀吉の関東平定に伴い壬生氏滅亡後鹿沼宿の氏神となる。 徳川幕府から五十石の朱印地を拝領し、慶長13年(1608)3月今宮権現が現在見られるような優美な権現作りの社殿(県文化財指定)と整備された。
秋祭りには鹿沼の屋台がこの神社に集まり、夕方には町を練り歩くのだそうだ。
今宮神社の前の道を30分ばかり行った雄山寺に「壬生義勇の墓」がある。
鹿沼城主(壬生家五代城主)、壬生上総介義雄(みぶかずさのすけよしたけ)は、豊臣秀吉の小田原を攻めるに際して、北條氏方に味方し、小田原城に入城するため進軍したが、天正十八年(1590)七月八日、酒匂川(さかわがわ)の陣中で、病死した。その後、家臣が当地に建てたのがこの墓である。
街道に戻ってしばらく行くと戸張町に星宮神社がある。この神社は、古くから「虚空蔵尊(こくぞうさん)」として親しまれているこの土地の氏神である。本殿は一間社(いっけんしゃ)流造(ながれづくり:日本の社殿造り様式の一つ)で、本殿全体にはめこまれている彫刻は総欅(けやき)造りで見事なものである。(説明版から引用)
星宮神社の交差点を右に入ってしばらく行くと右手に「川上澄夫美術館」がある。有名な「初夏の風」は、今は冬なので展示していないとのこと。タイトルの通り夏だけの展示だそうだ。(残念)
先へ進もう。街道に戻りしばらく行くと「延命 塩なめ地蔵」の看板が目に入る塩をそなえて願をかけるのだろうか。
街道を進むと黒川に架かる「御成橋」を渡ることになる。例幣使街道は「お成り道」ともいうがこの橋もそこから名づけられたのだろう。
御成橋を渡り切ると左手に成田山参道と書かれた標柱が立っている。階段を上ると不動尊が祀られている。「下野の国 成田不動尊」である。
先へ進むと左手にうっすらと雪化粧をした「男体山」が見える。
30分ばかり歩くと杉並木が始まる。「日光杉並木街道」と刻まれた石碑に説明版が添えられている。
「並木寄進碑 今市市小倉 松平正綱公が杉並木を植栽して東照宮に寄進したことが記された石碑である。並木の起点となる神橋畔および各街道の切れる今市市山口(日光街道)同小倉(例幣使街道)、同大桑(会津西街道)の4カ所に立っている。この碑は日光神領の境界に立てられているので境石と呼ばれている。」(説明版)
遊歩道を30分ほど歩くと道路を挟んだ反対側に「小倉の一里塚」がある。江戸・日本橋から29番目の一里塚である。
更に15分程行くとJR文挟駅である。
芭蕉は鹿沼宿に宿泊している。随行者の曽良は鹿沼から鉢石(東照宮手前の宿場)までの行程を曽良日記に次のように書いている。
「昼過ヨリ曇。同晩、鹿沼(より火バサミ(文バサミ)ヘ弐リ八丁)ニ泊ル。(火バサミヨリ板橋ヘ廿八丁、板橋より今市ヘ弐リ、今市ヨリ鉢石ヘ弐リ)
1日の行程を曽良日記から計算すると八里、32キロということになる。こちらは1日に20キロも歩ければいいところなのだが・・・・。
今日はここまで。文挟から宇都宮経由で帰宅。
奥の細道 一人歩き 13 壬生宿-鹿沼宿
12日目(2019年11月18日(月))壬生宿-鹿沼宿
ひざを痛めたり、腰痛に悩まされたり、猛暑だったりで「奥の細道一人歩き」の再開は11月になってしまった。
JR宇都宮線、東武日光線、東武宇都宮線を乗り継いで壬生駅へ。
壬生街道へ戻る前に駅から10程の所にある「縄解地蔵」に行ってみた。
「お堂に安置されているお地蔵さまは、縄解地蔵と呼ばれ日本三体地蔵尊の一つといわれている。言い伝えによれば、正歴年間(九九〇~九九四年)京都壬生寺を開山した快賢僧都が、霊夢を感じ一本の木で三体の地蔵尊を仏師定朝に彫刻させた。
その三体とは、
当初は、三体とも京都壬生寺に安置されていたが、壬生に初めて城を築いた小槻彦五郎胤業(おつきのひこごろうたねなり)が、この地に下向する際、夢枕にお地蔵さまが立ち「我は、縄解地蔵という縄解とは、人の生をこの世にうけ、母胎より生ずるときへその緒をやすやすときり赤子を出産させることをいう。出産の後、罪を犯し縄目の辱めを受けるとも前非を悔い改め、我を信心すればたちどころに罪障消滅して仏果(成仏という結果)得さしめるものなり。汝もし我を伴いて壬生に至り、小槻改め壬生氏を名乗らば開運疑いなし」とお告げがあった。信心深い胤業は、この夢に従って縄解地蔵尊を奉じて下野の国壬生にやってきた。
以後、壬生氏を名乗るようになり厚く信仰した。名称にある「縄解」から、無実の罪を晴らしてくれると古来より庶民の信仰をうけ子授、安産、子育て、開運、冤罪、特に子供の守護仏として霊験あらたかなりと近郷、近在の信仰を集めている。~後略~」(日本三体縄解地蔵尊由来より)
壬生氏を名乗った小槻彦五郎胤業(おつきのひこごろうたねなり)は、後にこの地壬生に城を築いている。
さて、壬生街道に戻り、しばらく行くと「蘭学通り」である。
「壬生町の大通り(正式名:日光道中壬生通)は、実学を奨励した壬生藩主鳥居忠挙がこの地に蘭学を導入し、多くの蘭学者を輩出したことにちなんで「蘭学通り」と命名したものです。」と書かれた説明版が立っている。
数分歩くと「松本脇本陣」の門が見える。ここは今でも住居となっているようだ。その先には「本陣」の門が残されているという事であったが自転車屋さんのご主人の話では今は取り壊されてしまったそうである。先に行くと「壬生宿本陣・松本家」の説明版が立っている。
先へ進み、足利銀行を左に入って数分行くと「壬生城址公園」である。
この城は、文明年間(1469~1487)壬生氏第二代・壬生綱重によりに築城されたものであって、小槻彦五郎胤業が壬生氏を名乗って築城した城(壬生古城)ではない。壬生城は約100年間壬生氏の居城であったが後に北条氏に味方していたため、天正十八年(1590)の豊臣秀吉による小田原征伐で、北条氏とともに滅亡した。
壬生城址の左奥には精忠神社がある。この神社は代々壬生藩主であった鳥居家の先祖・鳥居元忠を祀った神社である。元忠は、関ケ原の合戦の前哨戦として知られる「伏見城の戦い」で孤軍奮闘の末自刃した強者である。神社の奥には元忠自刃の際に血の付いた畳を埋めた「畳塚」がある。神社の傍には「従是 南 下野の国都賀」の碑が置かれている。
「鳥居元忠は、1600年の関ヶ原の戦いに先立ち、徳川家康の命により伏見城を守った。石田三成方の大軍を引き受けてよく戦ったが、約1ヶ月の攻防戦の末、元忠は伏見城にて自刃した。この元忠の忠義を称賛した家康は、自刃の際に血に染まった畳を、江戸城の伏見櫓の階上に置き、登城する大名に元忠の忠義を偲ばせたと言われている。 その後、明治になって江戸城が明け渡されると、ゆかりの深い現在の地に納められ、「畳塚」と称えてその上に記念碑が建立された。」畳塚説明版より
ちなみに「伏見城の戦い」で戦死した元忠軍・兵士の血の付いた床が「京都大原・宝泉院」の天井に張られ「宝泉院の血天井」といわれている。
街道に戻り、すぐ先に代々藩医として仕えた石崎家の「長屋門」がある。この門は嘉永六年(1853)の伊勢屋火事で母屋と共に焼失したが万延元年(1860)に立てなおされたと説明版に記されている。
すぐ先には興光寺がある。ここは慶安四年(1651)三代将軍徳川家光の遺骨を日光山に送納する際、この寺に安置され通夜が行われた。この時、幕府から葵の紋が贈られ、家光の位牌もある。
その先には標柱があり「脇本陣並びに通町問屋場跡」と記されている。道路の向かい側には天然痘予防の為種痘を行った壬生藩・藩医「齋藤玄昌宅跡」の碑が立っている。
さらにその先の「常楽寺」には「壬生家歴代の墓」「鳥居家累代の墓」がある。
更にその先には壬生寺があり「慈覚大師産湯井」がある。産湯に使われた井戸からの水は1200年を経た今も清水が湧き出ている。境内の大イチョウも見事である。
「当山は古来より 慈覚大師円仁の誕生した聖跡 として広く世に知られている。 江戸時代の貞享三年(1686)日光山輪王寺の 門跡天真親王が日光への道すがら、慈覚大師の旧蹟が荒 廃しているのを嘆き、時の壬生城主三浦壱岐守直次に 命じて、大師堂を建立し、飯塚(現小山市)の台林寺を その側に移建して別当とした。
幕末の文久二年(1862) 大師一千年遠忌 に当り 日光 山輪王寺 慈性法親王 により、大師堂の改修が行われた。~後略~」(紫雲寺 壬生寺の由来より)
しばらく行くと県道との交差点があり、ここからは左右に田園風景を見ながらののんびりとした街道歩きとなる。道の左側にせせらぎが流れ、道の傍らには馬力神などもある。
50分ばかり歩くと田んぼの中に祠があり「金売り吉次の墓」と記された説明版が添えられている。文字が薄くなっているが微かに読みれた。
「吉次は奥州・平泉へ逃れる義経の伴をしてここ稲葉まできたが、病に倒れこの地で生涯を終えた。」(説明版より)
金売り吉次
「平家物語」「平治物語」「源平盛衰記」「義経記」に金商人として描かれているが実在の人物であるかは定かではない。鞍馬山で義経と出会った吉次は、奥州藤原氏の当主・藤原秀衡との間を取り持つ極めて重要な役割を果たす。
1966年のNHK大河ドラマの第4作「源義経」(原作:村上元三)では、加藤大介という俳優さんが演じていた。ちなみに源義経は尾上菊之助(現七代目尾上菊五郎)、静御前は藤純子(現富司純子)、武蔵坊弁慶は緒形拳・・・・結構懐かしい。
曽良日記には「壬生ヨリ楡木ヘ二リ。ミブヨリ半道バカリ行テ、吉次ガ塚、右ノ方廿間バカリ畠中ニ有。」と書かれている。芭蕉も曽良と共にこの墓を見たのだろう。
しばらく歩くと一里塚が目に入る。江戸・日本橋から24番目「稲葉の一里塚」である。
一里塚を後に路傍の馬力神や梅林天満宮、金毘羅離宮を左右に見ながら街道を歩く。
40~50分歩くと古墳が左の田んぼの中に見えてくる。「判官塚古墳」呼ばれる前方後円墳の古墳である。
「この古墳は、源九郎判官義経が奥州へ向かう途中に冠を埋めたので冠塚とも呼ばれるなど、幾つかの伝説を秘めています。」(鹿沼市教育委員会 説明版より)
この先、平泉までの奥州路には源義経にまつわる伝説、逸話などと度々出会うことになるだろう。
さらに10分ぐらい先にあるのが江戸・日本橋から25番目の「北赤塚の一里塚」である。
ここからほんのわずかだが杉並木を歩く。「名残の杉並木」である。
10分程先の小学校を左に入った所に「磯山神社」がある。この神社は、三代将軍徳川家光より御朱印地を附せられてより、代々の将軍からも同待遇を受けた。寛文二年(1662)建立の本殿が県指定重要文化財に指定されている。
20分程歩くと壬生街道(日光西街道)(国道352号)は、中山道・倉賀野宿を起点とする例幣使街道(国道293号)と合流する。楡木追分である。追分の交差点には「追分道標」が置かれている。
例幣使街道(れいへいしかいどう)は、江戸時代の脇街道の一つで、東照宮に幣帛を奉献するための勅使(日光例幣使)が通った道のことである。中山道・倉賀野宿を起点とし、太田宿、栃木宿を経て、楡木宿で壬生街道(日光西街道)と合流して日光へ至る。楡木から今市までは壬生街道(日光西街道)と重複する。
少し行くと右手に成就院があり、栃木県県指定天然記念物の枝垂赤西手(しだれあかしで)という変わった木が植わっている。この木は楡木の東にある長沼で発見され、ここに納められたものだそうだ。
500メートル程先へ行くとバス停に「奈佐原」と書かれている。この辺りが壬生宿と鹿沼宿の間の宿「奈佐原宿」なのであろう。
少し先に「奈佐原文楽の収納庫」があり3人遣いの人形が収められている。
説明版には「栃木県に現存する唯一の3人遣い人形浄瑠璃です。」と書かれている。
寄り道 岐阜城、美濃路・墨俣宿
2019年3月3日(日)寄り道 岐阜城
中山道を歩いた時、岐阜駅前のホテルに宿泊した。
それ以来、実家の宝塚へ向かう途中岐阜駅を通過するたびにいつか岐阜城へ行ってみようと思っていたので、今回それを実現することにした。その前に知立に住む50年来の友人夫婦とランチでもと思い連絡してみると、なんと宿泊まで付き合ってくれることになり、3日の夜は旧交を温め、ゆっくりと酒を酌み交わした。今も昔もこの酒汲めば心地よしである。
さて、岐阜城。織田信長が斉藤道三の居城であった稲葉山城を「稲葉山城の戦い」でその孫、斎藤龍興から攻め取って稲葉山城を岐阜城とあらため、「天下布武」の朱印を用いるようになった。
稲葉山城と言えば、即座に竹中半兵衛が妻の父・安藤守就(あんどうもりなり)、弟久作と共にわずか16名の手勢で稲葉山城を占領したというエピソードを思い出す。稲葉山城は、自然の要塞ともいわれ、織田信長が8年の歳月をかけても落とせなかった堅城である。21歳の若さでわずか16名の手勢を引き連れ、いとも簡単に城を占領した竹中半兵衛に信長は美濃半国を与えることを条件に稲葉山城の明け渡しを求めるが、半兵衛は断り6カ月後に斎藤龍興に城を返している。
竹中半兵衛は1544年9月、美濃斎藤氏の家臣竹中重元の子として生まれる。
1556年斉藤道三とその子義龍が戦った「長良川の戦い」が初陣、父重元が死去すると19歳で家督を継ぎ菩提山城主となって斎藤義龍に仕え、義龍の死後その子龍興に仕えた。半兵衛のクーデターは、酒色におぼれる龍興を戒めるためのものであったと言われているのだが。
竹中半兵衛は、戦国時代1・2を争う軍師で黒田官兵衛と共に「両兵衛」とも「二兵衛」ともいわれている。
織田信長は、竹中半兵衛を家臣にするため半兵衛が隠棲している松尾山に木下藤吉郎を遣わす。
三顧の礼を尽くす秀吉に将の素質を見出した半兵衛は、織田の家臣になることを断り、秀吉の家臣になる。ここで「三顧の礼」の言葉が使われるのは、中国の三国時代、蜀の劉備玄徳が三顧の礼を以て諸葛孔明を軍師に迎える下りによく似ているからであろう。
2019年3月4日(月)美濃路・墨俣宿
友人夫婦が大垣・墨俣町の「しだれ梅」を見に行くというので同行することにした。
堤防脇の常夜灯がある坂を下墨俣宿である。
光受寺を後に街歩きをすると、家の玄関先には「つるし雛」が飾られている。その他、「みんなで百人一首」と題した人形なども飾られていて何やら趣のある宿場町である。
墨俣は、揖斐川と長良川の洲股(墨俣)で水陸交通の要衝であると共に戦略上の要地で、戦国時代以前からしばしば合戦の舞台なった。織田信長の美濃攻めにおいては、木下藤吉郎がわずかな期間でこの地に城を築いたことから墨俣一夜城といわれているが事実のほどは定かではない。
堤防沿いに歩き「太閤・出世橋」を渡れば墨俣城である。あいにく定休日で中には入れなかった。
敷地内には、
・春くればうぐいすのまた梅に来てみのなりはじめ花のおわり 西行法師
の歌碑が置かれている。調べてみたが西行がこの歌を詠んだのかは明らかではない。
・かりの世のゆききとみるもはかなしや身をうき舟の浮き橋にして 阿仏尼
の歌碑も置かれている。(写真なし)
奥の細道一人歩き 12 飯塚宿-「室の八嶋」-壬生
11日目(2019年2月7日(木))飯塚宿ー室の八嶋-壬生
さて、両毛線・思川駅から冬枯れの田園風景を左右に見ながら壬生道へ。
壬生道へ戻ると飯塚宿であるが今は宿場町の面影はない。右手に七面大明神の祠をみてしばらく行くと「飯塚の一里塚」がある。江戸・日本橋から二十二番目の一里塚である。
「飯塚一里塚(史跡)「一里塚」は江戸幕府によって一里(約四キロメートル)ごとに築かれ、榎などを植えて旅行者の目安とされた。「飯塚一里塚」は、江戸日本橋を起点とし、日光に至る日光西街道(壬生通り)の飯塚宿と壬生宿の間に設けられた。
この街道は、日光東昭宮参詣を中心に開かれた街道で将軍や幕府の使者、日光輪王寺門跡などの用人も多く利用した。特に東照宮例祭が催された四月中には通行人でにぎわった。
明治に入り、鉄道の普及にともなって、交通手段も変わり、「一里塚」の必要性もうすれ、消滅するものが多かった。現在、この地から約四キロメートル南へ進んだ地点には、「喜沢一里塚」も残されている。江戸時代の主要街道の様子を今に伝える貴重な史跡である。」(説明版)
少し歩くと「天平の丘公園」があり、「伝・紫式部の墓」などがある。
公園の中の「防人街道」と呼ばれる小道があり、万葉集の歌が書かれた木札が木にとめられている。
「防人街道について・防人とは古代、唐、新羅などの備えとして九州北辺に配備された兵士のことで、下野国など東国から多くの兵士がその任につきました。防人街道は「下国分尼寺跡」から「紫式部の墓」までの細道で万葉集の中に、下野の防人が詠んだ「松の木の竝(な)みたる見れば家人のわれを見送るとたたりしもころ」の風景に似ているところから、名付けられました。環境庁・栃木県」(説明版)
紫式部の墓については、姿川沿いにあった五輪塔がこの地に移された時、この付近は「紫」という地名であることから源氏物語の作者である紫式部の墓といわれるようになったと思われる。(環境庁・栃木県の説明版より)
つまり、紫式部の墓ではないということのようだ。
木札に書かれている万葉集をいくつか。
- 筑波嶺(つくはね)の、さ百合の花の、夜床(ゆとこ)にも、愛(かな)しけ妹(いも)ぞ、昼も愛(かな)しけ -
防人として旅立つ男が残した妻への思いを歌った歌
- 防人に行くは誰が背と問ふ人を見るがともしさ物思ひもせず -
防人として夫を送り出す妻の思いを歌った歌
- 今日よりは顧みなくて大君の醜(しこ)の御盾(みたて)と出で立つ我は -
父母と別れて防人として旅立つ子が歌った歌
いつの世も、兵役のために夫婦、親子が別れ別れになるのは辛く悲しいことである。
さて、これから「奥の細道、室の八嶋」へ行くのだが(当たり前のことではあるが)芭蕉が実際に歩いた道がよくわからない。曽良日記には「此間姿川越ル。飯塚ヨリ壬生へ一リ半。飯塚ノ宿ハズレヨリ左ヘキレ、(小クラ川)川原ヲ通リ、川ヲ越、ソウシヤガシト云船ツキノ上ヘカカリ、室の八嶋へ行(乾ノ方五町バカリ)。」と書かれているのだが・・・・。
iPadの地図を頼りに、花見が丘交差点を越え、壬生乙三叉路を左折、黒川を渡り県道2号線の思川を渡ると室野八嶋交差点がありそこを右折してやっと「室の八嶋」にたどり着いた。
芭蕉と曽良が江戸・深川を立ったのが元禄二年三月二十七日早朝、粕壁、間々田に宿泊し、室の八嶋を訪れたのは三月二十九日,深川を立って3日目、それに比べると随分ゆっくると時間をかけたものである。
鳥居をくぐり、長い杉木立の参道を歩くとその奥に大神神社(おおみわじんじゃ)がある。
大神神社は下野惣社大明神とも呼ばれ、境内にその説明版が立っている。
「下野惣社(室の八嶋)大神神社は、今から千八百年前、大和の大三輪神社の分霊を奉祀し創立したと伝えられ、祭神は大物主命です。
惣社は、平安時代、国府の長官が下野国中の神々にお参りするために大神神社の地に神々を勧請し祀ったものです。
また、この地は、けぶりたつ「室の八島」と呼ばれ、平安時代以来東国の歌枕として都まで聞えた名所でした。幾多の歌人によって多くの歌が、残されています。」(説明版)
「奥の細道・四 室の八嶋」には、以下のように書かれている。
「室の八嶋に詣(けい)す。同行(どうぎょう)曽良が曰(いわく)此神は、木の花さくや姫の神と申して、富士一躰也。無戸室(うつむろ)に入りて焼給ふちかひのみ中に、火々出見(ほほでみ)のみこと生れ給ひしより、室の八嶋と申す。又煙(けぶり)を讀習し(よみならわし)侍(はべる)もこの謂也(いわれなり)将(はた)このしろといふ魚(うお)禁ず。縁記(起)(えんぎ)の旨世に傳(つた)ふ事も侍りし。」
(室の八嶋に参詣した。同行の曽良が言うには「ここの祭神は木花開耶姫(このはなのさくやびめ)と申して、富士の浅間神社と同じ神である。この姫が戸の無い塗りごめの室に入って、火をつけてお焼きになりながら無事に御曹司を産もうとなされた誓いの中から、彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)がお生まれになったので室の八嶋と申します。またここを歌によむ時には、煙に因んだ歌をよむ習わしになっているのも、この木花開耶姫のもいい伝えによるのです。またここでは「このしろ」という魚を食べることを禁じています。この神社のこういう由来を語る話も、すでに世に伝わっています。」
「室の八嶋」は大神神社(おおみわじんじゃ)の境内にあり主祭神は倭大物主櫛𤭖玉命 (やまとおおものぬしくしみかたまのみこと)、配祭神は、木花咲耶姫命 (このはなさくやひめのみこと)、瓊々杵命 (ににぎのみこと)(木花咲耶姫命の夫神)大山祇命 (おおやまつみのみこと)(木花咲耶姫命の父)、彦火々出見命 (ひこほほでみのみこと)(木花咲耶姫命の子)
木花咲耶姫命 (このはなさくやひめのみこと)は絶世の美女で日向に降臨した天照大御神(あまてらすおおみかみ)の孫・邇邇芸命(ににぎのみこと)は,笠沙(かささ)の岬で木花咲耶姫命に出会う。その美しさに一目ぼれした邇邇芸命は木花咲耶姫命と一夜の契りを交わす。木花咲耶姫命は一夜で身篭るが、邇邇芸命は「自分の子ではない」と疑った。怒った木花咲耶姫命は無戸室に入り疑いを晴らすため、「天津神である邇邇芸命の本当の子なら何があっても無事に産めるはず」と、産屋に火を放ってその中で火照命(ほでりのみこと)・火須勢理命(ほすいせりのみこと)・火遠理命(おおりのみこと)を産んだ。
曽良が火々出見(ほほでみ)のみことと言っているのは、火遠理命(おおりのみこと)でその孫が初代天皇の神武天皇である。
また、火照命(ほでりのみこと)は海幸彦となって海で漁をし、火遠理命(おおりのみこと)は山幸彦といって山で狩りをするといった「海幸彦、山幸彦」の神話も生まれている。
境内には芭蕉の句碑が置かれていて「芭蕉と室の八嶋」の説明版が添えられている。
「松尾芭蕉は元禄2年(1689)「奥の細道」への旅に出発した。途中、間々田、小山を経て飯塚から左に折れて川を渡り室の八嶋に立ち寄っている。その時詠んだというのが「糸遊(いとゆう)に結びつきたるけぶりかな」の句である。むかし、このあたりからは不思議なけむりが立ちのぼっていたといわれ、「室の八嶋に立つけぶり」は京の歌人たちにしばしば歌われている。(説明版)
「糸遊」はかげろうのことで「糸」と「結ぶ」が縁語になっている。「室の八嶋の煙は、春の陽炎と結び合って立ち上っていく」といったような意味合いか。
芭蕉はここでこの句も含め五つの句を詠んでいる。
- 糸遊に 結びつきたる けぶりかな - (句碑に刻まれている)
- あらたふと 木の下暗も 日の光 -
- 入りかかる 日も糸遊の 名残かな -
- 鐘つかぬ 里は何をか 春の暮れ -
- 入逢(いりあい)の 鐘もきこえず 春の暮れ -
が、いずれも「奥の細道」には書かれていない。
「室の八嶋」は、説明版にもあるように歌枕の地で、平安の昔から多くの歌が詠まれている。
- いかでかは 思ひありとも 知らすべき 室の八嶋の 煙ならでは - 藤原実方
‐ 人を思ふ 思ひを何に たとへまし 室の八島も 名のみ也けり - 源重之女
- 煙たつ 室の八嶋に あらぬ身は こがれしことぞ くやしかりける - 大江匡房
- いかにせん 室の八島に 宿もがな 恋の煙を 空にまがへん - 藤原俊成
- 暮るる夜は 衛士のたく火を それと見よ 室の八島も 都ならねば - 藤原定家
- 下野や室の八島に立つ煙思ひありとも今日こそは知れ - 大江朝綱
- いかにせん室の八島に宿もがな恋の煙を空にまがへん - 藤原俊成
- 恋ひ死なば室の八島にあらずとも思ひの程は煙にも見よ - 藤原忠定
室の八嶋を後に壬生道に戻って先へ行くと「壬生町」である。黒川に架かる御成橋を渡って10分程行くと「壬生の一里塚」が見えてくる。江戸・日本橋から二十三番目の一里塚である。
この辺りが壬生宿の入口であろうか。
寄り道 下野・犬伏
2019年2月7日(木)
壬生道に戻る前に、真田昌幸、信幸(信之)、幸村親子兄弟が敵味方になる話し合いが行われた犬伏・新町薬師堂へ行ってみることにする。
犬伏は、日光例幣使街道の宿場町で旅籠は四十軒を超え、当時はかなり賑わったようだが今はその面影はない。
例幣使街道は、江戸時代の脇街道の一つで、日光東照宮に幣帛(幣帛)を奉献するための勅使(日光例幣使)が通った道である。中山道・倉賀野宿を起点とし、太田宿、栃木宿を経て、楡木宿にて壬生道(日光西街道)と合流して日光へと至る。楡木より今市までは壬生道(日光西街道)と重複区間である。
例幣使街道は、内米町の交差点で141号に出会う。
さて、佐野駅前でレンタルサイクルを借りて141号線を15分ばかり走ると「新町・薬師堂」である。中には、昌幸、信幸、信繁(幸村)の人形などが置かれている。
慶長5年(1600)7月24日、上杉征伐のため会津に向かう途上、下野国小山で「三成挙兵」の報を受けた家康は、翌7月25日に軍議(小山評定)を開いた。
その前、徳川家康の上杉征伐の号令に従うべく、真田昌幸は上田を信幸は沼田を発し、家康に合流するべく宇都宮城を目指していた。そして家康と共に大坂を出た幸村は途中昌幸に合流している。目指す宇都宮城を目前に昌幸、幸村は下野・犬伏に陣を張った。その犬伏の陣に石田三成の密書が届いたのが7月21日、家康に「三成挙兵」の報が届く3日前のことである。昌幸、幸村に信幸が加わって家康に就くか、三成に就くかの話し合いがもたれたのがこの「新町薬師堂」と言われている。
話し合いの結果、昌幸、幸村は三成に味方し、信幸は家康に就くことになった。
理由はいくつかある。
昌幸は三成とは姻戚関係(義兄弟)にあり(三成・昌幸とも宇田頼忠の娘を娶っている)、幸村の妻は豊臣恩顧の大谷刑部小輔吉継の娘である。
信幸の妻は、徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられる本田忠勝の娘・稲姫(小松姫)である。その稲姫が家康の養女となって信幸に嫁いでいる。
また、信幸は、戦国の乱世を終わらせるのは家康以内にないとの強い信念を持っている。
もう一つの理由は、昌幸は上杉景勝に多大な恩義を感じていて上杉征伐には参戦したくなかったに違いない。本能寺の変で信長が討たれた後、昌幸は自領を守るため上杉景勝に従属したが情勢が変わるたびに北条、徳川転じ、景勝は幾度となく昌幸に煮え湯を飲まされている。にもかかわらず真田と北条の間に沼田問題が発生し、家康と手切れになった昌幸は上杉景勝を頼った。景勝は、過去は過去とし、昌幸の申し出を受け入れ、人質の幸村を客分として取り立てた。
更には、親子兄弟が敵味方に分かれて戦えば、どちらが負けても真田家を存続することができるという思いがあったともいわれている。
「親子・兄弟が敵味方に分かれて戦うのもあながち悪うはござりますまい。沼田が立ち行かぬ時は上田が・・・・」幸村「上田が立ち行かぬ時は沼田があるという事か」信之。
真田太平記・第21回「決裂 犬伏の陣」の名場面である。
徳川家創業期の歴史書「改正三河後風土記」第三十五巻「真田親子分手の事」には、次のように書かれている。
「真田安房守昌幸・嫡子伊豆守信之・次男左衛門佐幸村、ともに会津の御陣触(ごじんぶれ)に応じて小山に参戦せし所、石田より密書を以て「上方義兵を挙げる。真田太閤の旧恩を忘れず、秀頼公の御味方して忠勤を励めば、天下統一の後信州一円に恩補せらるべし」との事也。依て昌幸は小山より三町程脇の野原に父子三人会集し、安房守申しけるに「吾つらつら世の有様察するところ、上杉景勝秀頼公へ対し、謀反を企てるにあらざる事は文明なり。其上に今度大谷・石田が申し送る所を見るに、全く景勝と奉行の人々申し合わせ、前後より義兵を起こし、国家の大害を除かん為の忠謀、真田が家運を開く時至れり。(後略)」
話し合いは決裂し昌幸、幸村は上田へ、信幸は小山へ立ち返ることになる。
新町薬師堂の脇を流れていた川に橋が架かっていた橋は「真田父子の別れ橋」と後々までも語り継がれているという。
犬伏で信幸と袂を別った昌幸は居城の上田城に戻る途中、沼田城に立ち寄り城に入ろうとした。その目的が今や敵となった信幸の居城・沼田城の乗っ取りにあったのか、単に孫の顔が見たかっただけなのかはわかりようがないが、留守を預かる小松姫が昌幸の沼田城乗っ取りの計略を見抜いて開門を拒み、女丈夫と謳われたエピソードは有名である。
「沼田日記」には、「昌幸の将兵が門を破ろうとすると「力ずくで開門とは何事じゃ。殿(信幸)御出陣の留守中に狼藉に及ぶとは曲者に違いない。女なれどもわらわは伊豆守(信幸)の妻、本田中務(本田忠勝)が女(むすめ)。内府御女の称号を許されている。この城に手をかけるものあらば、一人も漏らさず打ち取れ。」と緋縅の鎧をつけ薙刀を掲げて城より一括した。昌幸は孫の顔を一目見たいと言うが小松姫は頑として聞き入れなかった。
昌幸は「頼もしきかな、武士の妻はかくありたいものじゃ。」と言い残し上田に向かった。
昌幸・幸村は沼田を経て鳥居峠・真田郷を経て大笹の関所にさしかかった時、秀忠の命を受けた地侍の襲撃を受けたが幸村が防ぎ、無事に上田にたどり着いた。」と記されている。
また、真田氏の家記・「滋野世記」には、「昌幸は信繁同道にて犬伏の宿を打立て、夜中沼田に著たまい。城中へ按内ありければ、信幸の室家使者を以て、夜中の御皈陣不審に候なり、此の城は豆州の城にて、自を預居候事なれば、御父子の間にて候え共、卒尓に城中へ入申事成難く候と仰ける(中略)。暫有て城中より門を開きけるに、信幸の室家甲冑を著し、旗を取り、腰掛に居り、城中留守居の家人等其外諸士の妻女に至るまで、皆甲冑を著し、あるいは長刀を持ち、あるいは弓槍を取り列座せり。時に信幸の室家大音に宣うは、殿には内府御供にて御出陣有し御留守を伺い、父君の名を偽り来るは曲者なり、皆打向って彼等を討ち取るべし(中略)、一人も打ち洩らさず打ち捕べしと下知したまう。昌幸その勢いを御覧ありて大いに感じたまい、流石武士の妻なりと称美あり。御家人等を制し止められ、夫より我妻かかり、上田城へ籠城なり。」と書かれている。
更に「改正三河後風土記」第三十五巻「真田親子分手の事」の後半には、「安房守・左衛門佐は直ちに小山より赤坂にかかり上州沼田に立寄、此程の疲れをも休息せんと、伊豆守が妻のもとへ使いを立て「昌幸は内府公に年頃恨ある故、石田治部に一味致し、本国へ立返り籠城せん覚悟に候。今生の暇乞の為対面し、孫共をも一見せばやと存候。」と申し送る。伊豆守の妻是を聞「夫伊豆守は元より内府方に候えば、いかに父君にても敵を城内へ入る事叶うべからず。城下の町屋に御宿を申付置候へば御休息し給へ。」と、侍女共多数旅宿に遣はし、饗応丁寧にもてなしける。其間に城中には家老共に下知し、侍共に手配し弓鉄砲を狭間にならべ、唯今敵の寄来るを待如くなり。安房守此体を見て涙にむせび、家人等に向かひ「あれ見候へ。日本一の本田忠勝が女程あるぞ。弓取りの妻は誰もかくこそ有べけれ。わが抽き石田が微運にひかれ、空しく戦死する共あの新婦あるからは、真田が家は盤石なり。」と悦びて、早々其所を立去りて、須川へ至り、大頭越をさわたりへ出て、高間越して横屋に趣き、信州上田へ帰城せり。」と書かれている。
「真田氏史料集」の「真田信之夫人大蓮院」の中で、「賢夫人で女丈夫の聞こえが高かった。関ヶ原の役のおり、西軍に加わるため信之と別れた昌幸は、上田城へ引き上げる途中、沼田城へ立ち寄ろうとした。そのとき城主信之の留守を守っていた彼女はそれを拒絶、昌幸を城内に入れなかった、という話は有名」と記されています。
小松姫の遺品の中には「史記」の「鴻門之会」の場面を描いた枕屏風があるが、こうした戦を表す勇壮な絵を所持していた点からも「男勝り」と評されている。
奥の細道 一人歩き 11 間々田宿-小山宿
10日目(2019年2月5日(火))間々田宿-小山宿
第11宿 間々田宿 (野木宿より一里二十七町(約6.7キロ)
本陣1、脇本陣1、旅籠五十三軒、宿内人口九百四十七人
間々田宿は、元和四年(1618)に宿駅となり、思川の乙女河岸を控え物資の集積地として賑わった。宿駅の管理は、寛永10年(1633年)以降は古河藩、正徳2年(1712年)以降は幕府、安永3年(1774年)以降は宇都宮藩が担った。
また、間々田宿は江戸、日光からそれぞれ11番目の宿場にあたり、距離も18里の中間地点に位置していたので、「間の宿(あいのじゅく)」と呼ばれていた。
浦和から宇都宮線で間々田へ。街道に戻り少し行くと右手に小川家住宅がある。今は、小山市立車屋美術館で、明治末期の小川家住宅(国有形登録文化財)が公開されているが早朝(8時30分)なので中には入れなかった。
5分程歩くと「逢の榎」の碑がある。榎は「間(あい)の榎」と呼ばれていたが、いつしか「逢の榎」と呼ばれるようになり、縁結びの木として信仰を集めるようになった。
碑には、逢の榎、江戸へ拾八里、日光へ拾八里と刻まれている。
日光街道中間点 逢の榎
「元和三年(1617)、徳川家康が日光に祀られると、日光街道は社参の道として整備されていき、二十一の宿場が設けられました。
宇都宮までは奥州街道と重なっていたため、諸大名の参勤交代や物資の輸送、一般の旅人などにも利用された道でもありました。
間々田宿では、翌年には宿駅に指定され、江戸および日光から、それぞれ十一番目の宿場にあたり、距離もほぼ十八里(約七十二キロ)の中間点に位置していました。
天保十四年(1843)、間々田宿には本陣一軒、脇本陣一軒、旅籠が五十軒ほどあり、旅人が多く宿泊し、賑わっていました。松尾芭蕉などの文化人も宿泊しています。
また、中田宿から小金井宿付近までの街道沿いには、松並木が続き、一里塚には杉・榎などが植えられ、旅人の手助けとなっていました。
間々田宿の入口にあった榎は、毎年、街道を通った例幣使が江戸と日光の中間に、この榎を植えて、旅の道のりを知ったのだという伝承が残されています。榎は「間の榎」とよばれ、旅人の目印となっていました。
この榎は、いつの頃からか「逢の榎」とよばれるようになり、縁結びの木として人々の信仰を集めるようになりました。祖師堂も建てられ、お参りする男女が多かったと伝えられています。」説明版より
先には、間々田紐を製造・販売をしている家がある。間々田紐は組紐で江戸時代には刀の下げ緒や甲冑に用いられ、真田紐と並んで武家社会に浸透した。間々田紐は、県指定の無形文化財になっている。
5分程歩くと、間々田の交差点の先に問屋場跡、続いて間々田本陣跡の説明版が立っている。
間々田宿問屋場跡
「間々田宿は、江戸時代に、五街道の一つ、日光街道(道中)の宿駅として栄えていました。江戸日本橋から十一番目の宿駅(宿場)であり、江戸と日光の丁度中間に位置していました。天保十四年(1843)の記録によると当宿は石高九四四石 家数一七五軒 人口九四七人 旅籠五〇軒 本陣一 脇本陣一 と記されており、幕府の定めにより、常備の人足二十五人、馬二十五疋を備え、幕府の公用に応じたり、一般の輸送も引受けていました。日光社参・参勤交代など特別の場合は、近隣の農村から助郷と称して、人馬を臨時に集めました。それらの人馬継立業務の一切を取扱うのが宿役人で、問屋・年寄・帳付・馬差・人足差などと呼ばれ、その詰所に当たる場所が問屋場です。ここ間々田宿の上中町の上原家が、名主職を兼ね、代々世襲で幕末まで問屋を勤めていました。 間々田商工会 小山歴史研究会」説明版より
間々田宿本陣跡
「本陣は江戸時代に主な街道に設けられた宿泊施設で、本来は幕府公用の大名・勅使・公家・問跡(僧)上級武士の便をはかるためのものでした。大名などが宿泊休けいする時は宿場や本陣の入口に「関札」を掲げ、誰が宿泊休憩しているか知らせました。また本陣には定紋入りの提灯を掲げ、門や玄関には幕を張りました。
本陣主人は名字帯刀を許され、他の宿役人と共に、大名などを宿の入口まで出迎えました。江戸時代の初めから江戸時代を通して青木家が代々、この地で本陣を維持し、明治の世となって明治天皇が休けいの一時を過されました。 間々田商工会 小山歴史研究会」 説明版より
少し先の浄光院の境内には、青面金剛像庚申塔や壱拾九夜塔等がい置かれている。向かい側には行泉寺があるが、この辺りが間々田宿の日光(北)口で土塁と矢来柵があった。
先の道を左に入ると間々田八幡宮である。八幡宮の瓢箪池には芭蕉の句碑「古池や蛙飛び込む水の音」が置かれている。
先へ行くと間々田郵便局があるがこの辺りに間々田の一里塚があったと思われる。江戸日本橋から十九番目の一里塚である。今は跡形もないが。
さて、先へ進むと西堀酒造がある。若盛・門外不出などと書いてあるので土産に買おうと思ったが営業は12時から。ここも早すぎたようである。
先の粟宮の信号を左に入ると安房神社がある。ここは、粟宮村の鎮守で天慶二年(939)藤原秀郷が平将門討伐に際し、戦勝を祈願し守護神とした。後に、小山氏の篤い信仰を受けたのだという。
安房神社から1時間余り歩くと国道50号の高架をくぐる交差点が神鳥谷(東)である。
神鳥谷については、この辺りに「鶯城」と呼ばれる出城があった。鶯は神鳥「しとと」とも呼ばれこのあたりの谷と相まって「神鳥谷」となったのだという。
少し歩くと天満宮がある。この辺りが小山宿の江戸(南)口で土塁や矢来柵があった。
梅がきれいな花を咲かせている。
その先に永島鋼鉄店がある。この辺りが小山の一里塚(江戸日本橋から二十番目の一里塚)があった所だというが今はその面影は何もない。
その先が須賀神社の参道口で長い参道は、欅や銀杏並木で百基の朱塗り灯籠が並んでいる。
須賀神社の社伝によれば「平将門の乱」を平定した小山氏の祖、藤原秀郷が天慶三年(940)に小山市中久喜に京都・八坂神社を勧請し、小山城の鎮守とした。元は小山城内にあったとされ、江戸時代の初期に小山藩主・本田正純によりこの地に移された。
小山城は別名祇園城と呼ばれ京都・祇園に由来して祇園社と呼ばれたこの神社からきているのだという。徳川家康は、石田三成との戦を前にこの神社で戦勝を祈願した。
須賀神社の傍のちゃみせ「茶るん」で抹茶を一服いただいた。
街道に戻り、しばらく行くと左手に「明治天皇行在所」の碑がある。その奥に唐破風の玄関を残している家があるがここが若松脇本陣跡である。道路を挟んだ向かい側の「きもの・あまのや」辺りが控え本陣(本陣、脇本陣の控え)跡である。
駅前上町の交差点を左手に入ると小山市役所があるのだが、その敷地内に「史跡小山評定碑」が置かれている。
徳川家康は、慶長5年(1600)7月24日、上杉征伐のため会津に向かう途上、下野国小山に着陣した。その時、石田三成挙兵の報が入り、翌25日、急遽家康は本陣に諸将を招集して軍議を開き、三成打倒で評議は一決し、大返しとなった。これが世に言う「小山評定」である。
軍議は、豊臣秀吉子飼いの福島正則の「内府殿にお見方致す。」の一声で決まった。
会議は、常に声の大きなものに支配される。福島正則の一声で三成打倒の評議が一決したのである。また、堀尾忠氏のアイデアを盗んで自身の居城である遠江・掛川城を家康に差し出すと言明した山内一豊がその後出世の一途を辿ることになる。
小山評定は小山城内の須賀神社の境内で行われ、現在の須賀神社の境内には「徳川家康公・小山評定之碑」が置かれている。
街道に戻り、先へ行くと「元須賀神社」がある。須賀神社は、当初ここに祀られていた。
参道口辺りが小山宿の日光(北)口で土塁と矢来柵があった。
先へ進もう。20分ばかり歩くと「薬師堂」がある。境内には道標を兼ねた念仏供養地蔵があり、「右江奥州海道」「左江日光海道」と刻まれている。以前は、喜沢追分にあった追分道標だそうだ。
先の喜沢分岐点で、日光街道に別れを告げ芭蕉が歩いた壬生道を行くのだが日光街道の江戸日本橋より二十一番目の「喜沢の一里塚」まで足を延ばしここに戻ることにする。
西塚、東塚とも痕跡を残している。
喜沢追分には男體山碑が置かれていて追分道標になっている。碑には「男體山碑 左日光 右奥州」と刻まれている。
さて、壬生道は日光西街道とも呼ばれ日光街道の脇往還の一つで小山宿から壬生宿、鹿沼宿を経て日光街道の今市宿に至る道である。楡木宿から日光今市宿までは、中山道・倉賀野宿から延びる例幣使街道を兼ねる。壬生道は宇都宮廻りの日光街道より近道なので日光参詣にはよく使われた道である。芭蕉も壬生道を通って日光へ向かっている。
曽良日記には「小山ヨリ飯塚ヘ一リ半。木沢ト云所ヨリ左ヘ切ル。」と書かれている。
追分から15分ぐらい歩くと日光街道西一里塚(史跡)の説明版がたっている。
一里塚から数分先のゴルフ場の敷地内には古墳群に説明版が添えられている。
10分ほど歩くと左側に子育て地蔵すぐ先の右側に4体の地蔵尊が祀られている。
そろそろ午後4時、ここから一番近い駅はJR両毛線の思川駅のようである。
かなり距離がありそうだ。1時間以上はかかるだろう。
街道の先の羽川の交差点を左折し、姿川、思川を渡ってやっとの思いで思川駅にたどり着いた。