奥の細道一人歩き 15 文挟宿-日光

14日目(2019年12月28日(土))文挟宿-日光

6時5分、浦和発の宇都宮線に乗り日光線・文挟に着いたのが8時23分。

例幣使街道に戻り歩きは始めるとすぐに「追分道標」があり「右・鹿沼 出流 岩船 左・大谷 田下 宇都宮 道」と刻まれている。

すぐ先の祠に「延命地蔵」が赤いセーターを着て座っている。

その先、街道は文挟の市街地に入るが早朝のことでもあり人影はない。以前は宿場町だったはずだがその面影もない。

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10分程歩くと「文挟町・二荒山神社」がある。横には「文挟宿郷蔵」があり説明版が立っている。「有形文化財(建造物)文挟宿郷蔵 江戸時代の元禄、天明天保等の大飢饉で日光神領の村々は、餓死者や倒産の家が多発した。このため、村民は共同で郷蔵を建て、不作の時に困らないように貯穀した。この文挟宿郷蔵は、江戸末期に栗材でしっかり建てられたもので、当時の稗(ひえ)も発見されている。農民共済の実をあげたこの郷蔵は、わずかに残っている貴重な建物である。(日光市教育委員会・説明版)

 

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ここから先は、杉並木(車道)の側道(歩道)を歩くことになる。

 

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10分程先には「聖徳太子」と刻まれた碑が立っている。その横に「岩見重蔵之碑」がある。剣豪、岩見重太郎の兄で父の仇討を果たそうとしたが返討ちにあってしまったというのだが・・・・。雪化粧をした日光連山が美しい。

 

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更に30分ぐらい歩くと如意観音が祀られた祠があり、「板橋の一里塚」と書かれた標柱が倒れていた。台風19号の被害を受けたのだろう。江戸・日本橋から30番目の一里塚である。この辺りから例幣使街道最後の宿場町板橋宿に入る。ここも旧宿場町の面影はない。

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5分程先の板橋の交差点の所に「栖克神社」がある。これは、正元(1504)年日光山の遊城坊綱清が板橋城を築城するとともに、城の鎮 守として建立したものだという。境内には本多正盛の墓がある。本多正盛は、同僚と争論になり、同僚は自害、本人も自刃したという。(説明版より)

 

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板橋の交差点から旧道に入っていくのだが、杉並木保護のため車両の乗り入れが禁止されている。非常にありがたい。

旧道に入って30分ばかり行くと「地震坂」と書かれた立て札他目に入る。

「昭和24年12月の今市を中心にした大地震による地すべりで杉並木が移動してしまった。  本来の街道はここより上を通っていた。」(説明版より)

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15分程先へ行くと「例幣使街道 室瀬一里塚」の標柱が立っている。江戸・日本橋から32番目、壬生街道(日光西街道)最後の一里塚である。

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一里塚から歩くこと約2時間、例幣使街道(壬生街道・日光西街道)は今市宿で日光街道に合流する。合流地点の追分には「追分地蔵尊」が祀られている。

境内には、「お地蔵さまとおサンヤサマ」と題した説明版がある。

「お地蔵さまは、大地に人間の力ではとうてい計り知れない力と知恵の倉を持っていると云われ、子育てや旅立ちの安全を願っておまいりされ、大勢の人から慕われてきました。地蔵盆日が月の二十四日です。

おサンヤサマは、二十三夜講と云われ、月待ち信仰の一つです。満月を中心に月の形がちょうど半分になる夜だからともお大師讃仰のためともいわれているが、娯楽機関の少なかった頃、信仰をかねて部落の女性が御馳走を持ち寄って集まり団らんにふけった日を言います。お地蔵さまもおサンヤサマも安産子育ての信仰であり供え物と線香を供え祈願しました。」(説明版より)

また、この追分地蔵には、つぎのような「伝説」がある。 「むかし大谷川の川原で石切職人が仕事をしていると、血に染まった地蔵尊を見つけた。驚いた石切職人は人々をよんで一先ず地蔵尊を小倉町の追分に安置したが、野天にさらしておくのは恐れ多いということで如来寺に移した。 町の人たちの参詣は昼も夜も絶えなかったが、そのうち夜遅く地蔵尊の前を通るとすすり泣きの声がきこえるという妙な噂たたった。「あの地蔵尊はにっこう憾満ヶ淵の親地蔵様が大水で流されて来たのだ。それで日光が恋しくてきっといろいろの不思議を起こすに違いない。元のように、小倉町の日光が見える所に安置したらよかろう」ということに決定し、さっそく地蔵尊は小倉町の追分に移されることになった。この伝説は「下野伝説集」取り上げられた。」(説明版より引用)

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追分地蔵から30分程歩くと右手に「報徳二宮神社」がある。二宮尊徳二宮金次郎)を祀った神社で神社の奥には二宮尊徳の墓もある。当然のことながら学業成就(合格)の神様である。

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小山・喜沢追分で別れた日光街道を再び歩く。15分ぐらい歩いた辺りが今市宿の中心のようである。明治元年創業の栃木県産味噌・醤油を販売する「日野為商店」なんかもある。

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15分程歩くと右手に「今市総鎮守 瀧尾神社」がある。ここは、天応二年(782)勝道上人が日光二荒山上男体山二荒山大神を祀ると同時にこの神社にも二荒山大神を祀ったのが始まりだそうだ。

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今市宿を抜けると杉並木を歩くことになる。日光に至るまでには、旧江連家が復元されている。

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杉並木を歩くこと1時間余り、やっとJR日光駅にたどり着いた。

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今日はここまで、JR日光線宇都宮線を乗り継いで帰宅。