奥の細道 一人歩き 7 杉戸宿
6日目(2019年1月4日(金))杉戸宿
前回はあまりに疲れて馬頭院からわき目もふらず東武動物公園駅にたどり着いたという感じであったため、今日は馬頭院まで戻っての再開である。
馬頭院は本尊の「馬頭観世音菩薩」とともに杉戸七福神の「大黒天」が祀られている。
境内には「馬の事悪と厄とを食い尽くす 旅おも守馬頭観音」と刻まれた碑が置かれている。
先へ進もう。10分ばかり行くと旧道と並行して散策道が通っているが旧道を歩くことにする。
更に10分ばかり歩くと「三本木の一里塚」の説明版が立っている。江戸日本橋から十里目(10番目)の一里塚である。このあたりが宿場町の入口であろうか。
第5宿 杉戸宿 (粕壁宿より一里二十一町(約6.6キロ)
本陣1、脇本陣2、旅籠四十六軒、宿内家数三百六十五軒、宿内人口千六百六十三人
元和二年(1616)近郊の村を集めて宿場町を作った。五と十のつく日に六斎市が立ち近郊の商業の中心地であったのであろう。
一里塚跡の先、清池二丁目の信号の所に文政五年(1822)創業の銘酒「杉戸宿」の蔵元である関口酒造がある。旧屋号は「豊島屋」。入り口に酒粕540円のはりがみがしてあったのでこれを購入。寒い日には粕汁でも作ってみよう。
関口酒造を右手に入ると来迎院(らいこういん)がある。本尊は不動明王でその像は運慶の作と伝えられている。奥州・藤原三代の守護仏であったという。ここには杉戸七福神の恵比寿も祀られている。
街道に戻るとすぐ先に「高札場」が再現されている。
そのすぐ先を右に入ると「近津神社(ちかつじんじゃ)」がある。ここは、清地村の鎮守で貞享元年(1684)の創建で社殿には見事な彫刻が施されていたそうだが平成13年に焼失してしまったのだそうだ。境内には元治元年(1864)建立の「見返り狛犬」がある。
そのすぐ先には杉戸宿新町北側の鎮守「神明神社」がある。
先の本陣跡地前の信号の手前に明治天皇御小休所跡の碑が置かれている。ここは杉戸宿の問屋場跡である。
信号を左折し、しばらく行くと旧道(日光街道)と並行して「みなみがわ散策道」が通っている。杉戸町の宿場めぐりマップには「旧日光街道」と記されている。
散策道の南には「大落古利根川」が流れており川沿いを歩くと「富士浅間神社」がある。境内の富士塚の自然石の一つに芭蕉の句、「八九間空で雨降る柳哉(はっくけんそらであめふるやなぎかな) はせ越(はせお)(松尾芭蕉)」と刻まれているそうだがほとんど読めない。
句の意味は「春雨は降ったりやんだりだけど八・九間(15メートル前後)もある柳の大木の下だけは雨が降っている。」だそうだ。
川沿いを先へ行くと「河原の渡し」があった所で今は「河原橋」が架かっている。
「本陣跡地前」信号の交差点まで戻り再び旧道を歩く。信号の先には、脇本陣・蔦屋権左衛門跡、長瀬本陣跡、脇本陣・酒屋伝右衛門跡が並んで言うということだが、いずれも確認出来なかった。
すぐ先の「愛宕神社前」の交差点を北に延びる道が「関宿道」である。傍らには道標があり
「久喜方面」(関宿道)「幸手方面」(日光街道)と刻まれている。
街道沿いには、昔ながらの家屋と蔵を残した小島定右衛門邸(角穀屋跡)がある。
左手には、永禄三年(1562)幸手城主・一色義直が開山した「宝性院」がある。胎蔵界大日如来で杉戸七福神の毘沙門天も祀られている。境内には「不動明王像」「青面金剛庚申塔」などが置かれており文化七年(1810)建立の馬頭観音像があり「日光道中」と刻まれている。
御朱印をもらうため、住職の家へ立ち寄ったところ、奥さんがお茶とお茶菓子を出してくれたのでつい話し込んでしまった。これも街道歩きの楽しみである。
斜め向かいには、旧家・渡部勘左衛門邸がある。当時は多数の小作人を抱えていたという。
先の街道沿いにも古民家が目にはいる。このあたりはもう宿場はずれなのだろう。
10分ばかりで旧道は国道4号線に合流する。30分ほど歩くと「山田うどん」の駐車場内に「荻島の一里塚跡」の説明版が立っている。江戸・日本橋から十一里目(11番目)の一里塚である。
5分ばかり行くと「幸手団地入口」の交差点がある。このあたりが杉戸市と幸手市の境だろう。
そろそろ午後4時である。今日は、朝が遅かったうえに来迎院、宝性院の住職の奥さん?と話し込んでしまったので随分時間がかかってしまった。今日はここまで、東武日光線・杉戸高野台駅より帰宅。