奥の細道 一人歩き 3 千住宿-草加宿

2日目(2018420日(金))千住宿草加宿

一か月ぶりの街道歩きである。

仕事や所用でなかなか街道歩きを再開できない。この分では、岐阜・大垣に着くまで何年かかることやら。

さて浦和から上野経由で北千住に着いたのは午前9時半ごろ、旧道に戻り先へ進むと、千住本町公園内に「千住高札場・由来説明版」が立っている。

「千住が宿場となって栄えたのは、慶長二年(1597)人馬引継駅となって以来のことだといわれている。江戸時代の足立は、千住宿を中心に始まったといっても過言ではない。

特に寛永二年(1625日光東照宮建立により、日光道中発駅として、また江戸4宿の一つとして繁栄し、約400年を経て今日に至っている。

このような高札場は、明治の初期まで宿場の掟(きまり)などを掲示して、人々に周知してもらうため、千住宿の入口・出口の所に設置されていた。(千住の町並景観を考える会・説明版より)

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千住本町公園内の先には、横山家住宅がある。ここは当時地漉き(じすき)紙問屋で今も傳馬屋敷の面影を残している。

「横山家住宅(よこやまけじゅうたく)
宿場町 の名残として、伝馬屋敷 の面影を今に伝える商家である。伝馬屋敷は、街道に面して間口が広く、奥行が深い。戸口は、一段下げて造るのが特徴である。それは、お客様をお迎えする心がけの現れという。
敷地は、間口が十三間、奥行が五十六間で鰻の寝床のように長い。
横山家は、屋号を「松屋」といい、江戸時代から続く商家で、戦前までは手広く地漉紙問屋 を営んでいた。
現在の母屋は、江戸時代後期の建造であるが、昭和十一年に改修が行われている。間口が九間、奥行が十五間あり、大きくてどっしりとした桟瓦葺 (さんがわらぶき)の二階建である。 広い土間、商家の書院造りと言われる帳場二階の大きな格子窓 などに、一種独特の風格を感じる。( 東京都足立区教育委員会・説明版より)

横山住宅の向かいが千住絵馬屋・吉田家で、絵馬をはじめ地口行燈や凧などを描いてきた際物(きわもの)問屋である。

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すぐ先には、旧水戸街道の追分道標が置かれており「北へ旧日光道中・東へ旧水戸佐倉道」と彫られている。先へ進むと旧下妻道・道標があり「北西へ旧日光道中・北へ旧下妻道」と刻まれている。

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街道はここから大きく左に曲がり、先へ行くと荒川に架かる千住新橋を渡ることになる。

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千住新橋を渡りすぐに左折、堤防沿いを進み川田橋の信号を右へと堤防を下ると旧道である。しばらく行くと「石不動尊」と書かれた祠がある。堂内には耳の病に霊験あらたかな意思造耳不動尊像が祀られている。堂前の石標「子育弥彦尊道是より二丁行」と彫られている、これは、咳にご利益のある明王院(赤不動)への道標なのだそうだ。

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不動尊から10分ばかり歩き、左手に少し入った所に「佐竹屋敷跡」の碑と「佐竹稲荷神社」がある。ここは秋田藩主佐竹候のお抱え屋敷跡で参勤の際の休憩所であった。稲荷社は屋敷神として祀られていたのだそうだ。

さらに5分程歩くと「右日光道中・左東武鉄道旧線路跡」と刻まれた道標が立っている。

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しばらく先へ行くと「将軍家御成橋・御成道松並木跡」の標柱が立っている。

徳川二代将軍秀忠、三代将軍家光が鷹狩の際にこの先にある「安穏寺」に立ち寄ったのだという。

さらに少し先には「鷲神社」がある。この神社は文保二年(1318)の創建でこのあたり(島根村)の鎮守である。享和二年(1802)建立の明神型石鳥居は足立区の有形文化財に、神楽殿で奉納される「島根囃子」と「島根神代神楽」は同区の無形文化財に指定されている。

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島根鷲神社交差点の辺りに江戸・日本橋から三番目の一里塚「六月の一里塚」があったのだそうだが今ではその位置は不明である。交差点から15分ばかり歩くと増田橋道標があり「増田橋跡・北へ日光道中・西へ旧赤山道」と刻まれている。

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さらに15分ばかり進み、右手に入ると保木間氷川神社がある。この神社は保木間村の鎮守で淵江領を支配していた千葉氏の陣屋跡である。また、「流山道」の説明版が立っていて「本説明版の前(保木間氷川神社前)を東西に走る小道は、江戸の昔から流山道と呼ばれた古道である。保木間日光道中からわかれ、南花畑、内匠橋、六木を経て流山に向かう。この道に隣接する宝積院と保木間氷川神社は戦国時代の武士・千葉氏の陣屋があったと伝えられていることから、道の成立は戦国時代以前にさかのぼると考えられる。この道を東進すると花畑大鷲神社成田山と結んでおり、西に進むと西新井大師総持寺に通じる親交の道でもある。ここから太子堂・成田道という別称もある。なお沿道には寺院・神社や旧村地帯が分布し、保木間の旧家の多くもこの道に沿って建っており、地域の歴史を今に伝える。」(足立区教育委員会)と記されている。

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先へ進もう。30分ぐらい歩くと「法華寺」があり境内に「百度石」が置かれている。

この寺院は、小塚原刑場の刑死者の菩提を弔っていったのだという。

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旧道はやがて県道49号線に合流し水神橋を渡る。この橋が東京都と埼玉県の県境で先は草加である。しばらく行くと富士浅間神社がある。このあたり瀬崎村の総鎮守で天保十三年(1842)の再建である。

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浅間神社から10分ばかり歩くと「火あぶり地蔵尊」がある。

奉公中の娘に母危篤の知らせが届き、主(あるじ)に暇を願い出たが許されなかった。娘は、家が火事になれば店が休みになり家に帰れると思い込み放火をしてしまう。捕らえられた娘は、火あぶりの刑となった。哀れに思った村人たちは娘の供養のため地蔵を祀ったとの言い伝えがある。

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加に入ると「草加せんべい」の店や広告が目につく。

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やがて「今様草加宿」の碑が目に入り、市役所の入口に地蔵堂がある。

草加市役所の敷地は幕末から明治にかけての豪商大和屋跡である。主の浅古半兵衛全国二位の質屋で江戸にも店を出していた。

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すぐ先には、「草加神社社票」が立っている。草加神社は、南草加村の鎮守で大宮氷川神社を勧請したものである。

その先には、正面に「日光街道」側面に葛西道」と刻まれた「葛西道道標」、また「草加町道路元票」「埼玉県」と刻まれた「道路元票」が置かれている。

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本日はここまで。

東部スカイツリーライン「草加駅」から東武線、JR武蔵野線JR京浜東北線を野率で帰宅。