奥の細道 一人歩き 5 草加宿-粕壁宿

4日目(2018923日(土))越谷宿-粕壁宿

3宿 越谷宿 (草加宿より一里二十八町(約9.0キロ)

本陣1、脇本陣4、旅籠五十二軒、宿内家数千五軒、宿内人口四千六百三人

天保十四年(1843日光道中宿村大概帳による)

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ひざと腰を痛めたのと猛暑のため、長らく休んでいたので久々の街道歩きである。

芭蕉は、「奥の細道」で草加から先の道中については何も書いていない。草加の次は、いきなり「室の八嶋」(栃木市惣社町)に記述が飛んでいる。

この先は芭蕉が歩いたであろう日光道中の街道歩きを楽しみながら先へ進むことにする。

さて、JR武蔵野線、東部スカイツリーラインを乗り継いで越谷駅から日光街道に戻り街道歩きの再開である。

新町八幡神社を左手に見て先へ進むと越谷二丁目の交差点である。江戸・日本橋から六番目(六里目)の「越谷の一里塚」がこのあたりにあったというのだが今は何の形跡もない。

先へ進むと「タブノキの家」があり黒板塀内にある「タブノキ」は樹齢四百年以上で市の天然記念物に指定されているのだという。

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すぐその先には脇本陣四ツ目屋跡がある。当時は浜野家が務めたが今は「木下半助商店」になっている。シャッターに描かれているイラストが脇本陣のイメージとは重ならないのだが・・・・。

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ここを左に入ると「浅間神社」があり、市の文化財に指定されている樹齢約六百年と推定されるケヤキがそびえている。説明版によれば幹回り7メートル、樹高23メートル、幹は地上6メートルの所で6本に分岐し、更に上方で多数の枝を広げている。幹の西側に幅1.5メートル、高さ2.3メートルにわたって洞穴状の枯損部があるが、樹勢は極めて旺盛であるとのことである。

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街道に戻ると、向かい側に「塗師屋(ぬしや)」、「鍛冶忠」と蔵造りの商家を残している旧家が続く。このあたりに問屋場跡があるというのだが形跡を見つけることが出来なかった。

塗師屋」は太物荒物店塗師屋市右衛門跡で漆を扱い、後に太物(綿、麻織物)を商ったのだそうだ。

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さらに先には、「市神社」があり、ここは村の鎮守で二と七のつく日は「六斎市」が立った。

六斎市とは室町時代から江戸時代にかけて月に6回開かれた定期市である。

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元荒川(明暦年間は荒川の本流であった。)に架かる大橋を渡ると大沢と呼ばれる集落で「きどころ」の看板が掛かっているパン屋のビルがある。ここが大松本陣跡(大松屋福井権右衛門跡)である。

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1ブロックほど先に「虎屋脇本陣跡」と「玉屋脇本陣跡」が向かい合っている。

虎屋脇本陣は、現「三枡屋」というそば屋辺りで山崎次兵衛が務めた。玉屋脇本陣は、今は「深野造園」になっている。この脇本陣深谷彦右衛門が務めた。玉屋脇本陣跡のすぐ横が問屋場跡で現在は「若松印刷」になっており当時は江沢太郎兵衛が務めた。大松本陣から問屋場までわずか100メートル足らずの間に本陣、脇本陣2軒、問屋場が集まっている。当時は越谷宿の中心地であったのだろう。それにしても本陣がパン屋に、脇本陣がそば屋や造園に、問屋場が印刷屋に変わっているのを見ると時代の流れを感じざるを得ない。時の流れと共に街の様子も人のこころも変わっていく。これから先は今までの数倍の速さで時代が変わっていくのだろう。ただ、どんな時代になろうとも昔の人が育んだ日本のこころは大切にしたいものである。

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少し歩くと左手に「照光院」という寺がある。ここは真言宗の寺で梵鐘は安永八年(1779)の鋳造だそうだ。さらにその先を右に入ると「香取神社」がある。香取神社は、大沢の総鎮守で越谷市の㏋には、「創建は、「明細帳」に応永年間(13941428)と記載されています。中世はこの辺りは下総国に属していたことから、下総国一宮香取神社を村の鎮守として

勧請(かんじょう)し、鷺後の地に社殿が建立されましたが、後に奥州街道の整備に伴い、寛永の頃(16241644)に今の地に移築したといわれています。」と記されている。

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ところで越谷の地名の由来だが、このあたりは武蔵野台地の麓(腰)あたる低地(谷)であるところから「腰谷」となり、転訛して「越谷」となったのだそうだ。

大沢の集落を過ぎ、越谷宿に別れを告げてしばらく行くと「青面金剛庚申塔」が置かれている。この庚申塔は古奥州道道標を兼ねていて「右じおんじ のじまど道」と刻まれている。

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旧道を行くと右手の祠の中に宝永七年(1710)建立の青面金剛庚申塔が置かれている。

その先には馬頭観音地蔵尊などが集められており、さらに先の墓地の片隅に青面金剛庚申塔などが置かれている。

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このあたりから下間九里という集落である。江戸・日本橋から七番目の一里塚、下間九里の一里塚があったようだが今は、その存在も場所もわからない。

しばらく行くと、「下間九里香取神社」がある。ここは、下間久里村の総鎮守で例大祭に奉納される獅子舞は太夫獅子、中獅子、女獅子の三頭一組で舞う「祈祷獅子」の形態を保っていて埼玉県の無形民俗文化財に指定されているのだという。

 

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神社から1キロばかり行った辺りには「間久里の立場」があった。八軒の茶屋が軒を連ねており、中でも秋田屋には参勤の佐竹候が必ず立ち寄り名物の鰻の蒲焼を食したのだそうだ。秋田屋には藩主専用の座敷「秋田炉(しゅうでんろ)」があったのだという。

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旧道は、この先国道4号線に合流し、さして見るものもなく歩いていくとせんげん台の先で新方川に架かる戸井橋を渡る。新方川は、元は千間堀と呼ばれ越谷市春日部市の境である。

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春日部市に入り、さらに4号線を行くと備後東四丁目辺りに地蔵立像二体が安置されている地蔵祠がある。さらに約1キロ先に「史跡備後一里塚碑」と刻まれた碑が置かれている。江戸・日本橋から八番目(八里目)の一里塚である。

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本日は、ここまでとし、東部スカイツリーライン・一ノ割駅から帰宅。