奥の細道 一人歩き 10 古河宿-野木宿-間々田宿

9日目(2019123日(水))古河宿-野木宿-間々田宿

9宿 古河宿 (中田宿より一里二十町(約5.8キロ)

本陣1、脇本陣1、旅籠三十一軒、宿内人口三千八百六十五人

天保十四年(1843日光道中宿村大概帳による)

北条氏の滅亡後、古河城は徳川家康の家臣小笠原秀正の居城となった。それ以後代々譜代大名が城主となり城下町が形成された。歴代将軍日光社参の2日目の宿泊が古河城であった。

原町口木戸跡のすぐ先の稲荷神社参道口に如意輪観音像、十九夜塔等が置かれている。

その先には長谷観世音参道寺標が立っている。長谷観世音は歴代古河城主の祈願寺であった。

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続いて古河城御茶屋口門跡の碑が立っており、「御茶屋口と御成道」説明版が添えられている。

「「御茶屋口」、旧日光街道に面するこの口の名前は、かつてこの地に存在したとされる「御茶屋」に由来している。それは日光社参(徳川将軍が、神君徳川家康を祀る日光山へ参詣する行事のこと)に伴い将軍の休憩所として設けられたとされるが、江戸初期のごくわずかな期間に存在したと推定されるこの建造物について、今のところ、記録として残る略図以外にその詳細はわからない。 ところで、徳川将軍の日光社参は江戸時代を通じて19回おこなわれているが、古河城は、道中における将軍の宿城となることが通例であった。将軍の古河入城に利用された「御成」の入り口がこの御茶屋口である。 そして、「御茶屋口」から続く将軍御成の道は、諏訪郭(現歴史博物館)を北側に迂回、その後、幅180メートルに及ぶ「百間掘」を渡す「御成道」を経由して城内に至る。杉並木で飾られた「御成道」と城内との接点には、石垣で堅牢に守られていた「御成門」が将軍をお迎えした。 なお、将軍休憩の御殿というべき「御茶屋」破却後、その場所の一角には、「御茶屋番所」が置かれている。これは、古河城下を通行する格式の高い大名や幕府閣僚たちの挨拶に対応する役人の詰所であり、明治維新を迎えるまで存続した。」(古河市教育委員会・説明版より)

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やがて、左手に「肴町通り」通り道があり店の傍らに「古河藩使者取次所跡」と刻まれた碑が立っている。使者取次所は、大名の使者を」接待する役所で「御馳走役所」とも呼ばれたそうだ。肴町について次のような説明版が立っている。

「【肴町の由来】

その昔、元和の五年(1619)に奥平忠昌公が古河城主として移封された時代のことです。忠昌公は、お城の増築や武家屋敷の拡大のために町屋の大移動をはかり、中心部に新しいまちづくりを行いました。後の大工町や壱丁目、石町、江戸町等は皆その時に名付けられたものです。

江戸時代に古河城下を通過する諸大名は、使者を派遣し挨拶をしに参りました。古河藩からは役人が出向いて歓迎の接待をしたものです。その役所のひとつに使者取次所があり、別名を御馳走番所と言いました。現在米銀の在る処がそれで、今の中央町二丁目麻原薬局角から中央町三丁目板長本店の間、道巾三間半、長さ二十二間五尺の通りは、「肴町」と呼ばれるようになりました。

以来、この肴町通りは古河城裏木戸を経て城内にお米やお茶、お酒をはじめその他の食糧品を供給し、城内との交流の道として栄えて参りました。

今日、食糧品を扱う大きな店の構える通りとなっているのもその縁でありましょうか。

歴史の重さがしのばれます。」 (肴の会・説明版より)

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この道を左に入っていくと閑静な町並みがみられる。

古河城二の丸御殿口の「乾門」を移した法福寺の山門や江戸時代にタイムスリップしたような鷹見泉石記念館などがある。鷹見泉石は古河藩の家老を務め、四代藩主・土井利位(どいとしひつら)が老中の時に「大塩平八郎の乱」の鎮圧に功があったのだという。

乾門については、次のような説明版がある。

「旧古河城内の二の丸御殿の入口にあって、乾門(いぬいもん)と呼ばれてきた門である。明治6(1873)、古河城取り壊しに際して檀家が払い下げを受け、寺に寄進した。この門の構造は平唐門(ひらからもん)という形式で両側には袖塀が付き、向かって右側にくぐり戸がある。かつての古河城の姿を現在に伝える数少ない遺構として貴重である。」(古河市教育委員会・説明版より)

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「ぬた屋」という川魚の甘露煮の店であゆの甘露煮を購入。

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街道に戻り、すぐ先の本町二丁目の交差点の所に本陣跡の碑が立っている。道路を挟んで向かいには高札場跡の碑があり、説明版が添えられている。(説明版の文字が剥げていてよく読めない。以下は、古河市教育委員会HPのもの)

「高札場と本陣
日光街道の宿場町としての古河宿の中心は、もと二丁目とよんだこの辺であった。文化4(1807)の古地図によると、高札場がこの場所にあり、斜め向かいに本陣と、問屋のうちの一軒があり、またその向かい側に脇本陣が二軒並んで描かれている。
高札場は、親を大切にとか、商いは正直にとか、キリシタンは禁止だとかいった幕府の法令や犯人の罪状などを掲げたところである。
本陣と、その補助をする脇本陣は、合戦のとき大将の陣どるところに由来して、大名・旗本をはじめ幕府機関の高級役人・公卿・僧侶などの宿泊・休憩所で、古河の本陣は1175(400平方メートル)もあった。どこの宿でも最高の格式を誇っていたが、経営は大変であったといい、古河の脇本陣はのち他家に移っている。
問屋は、人足25人、馬25匹を常備し、不足の場合は近村の応援を得たり人馬を雇ったりして、この宿を通行する旅人や荷物の運搬一切をとりしきった宿場役人のことで、他にも34軒あって、交代で事にあたっていた。
街道沿いの宿町は、南から原町、台町、一丁目、二丁目(曲の手二丁目)、横町(野木町)と続き、道巾は54(10メートル)ほど、延長1755(1850メートル)余あり、旅籠や茶店が軒を並べ、飯盛女(遊女の一種)がことのほか多い町だったという。」(古河市教育委員会・説明版より)

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少し歩くと街道は直角に右に曲がっていて角に常夜灯を兼ねた日光街道古河宿道標が立っている。「左日光道」「右江戸道」と刻まれている。足元には「左日光道」ご刻まれた標柱もある。日光道と筑波道の追分である。

寛永十三年(一六三六)に徳川家康によって日光東照宮が完成し、江戸と日光を結ぶ日光街道が整備された。その途中にある古河宿は、日光社参の旅人などの往来でひときわ賑わうようになった。日光街道は、江戸から古河に至り、二丁目で突き当り、左が日光道、右が筑波道と分岐するように作られた(絵図を参照)。その分岐点に、人々の往来の助けにと建てられたのがこの道標である。この道標は文久元年(一八六一)に太田屋源六が願主となり、八百屋儀左衛門ほか11名によって建てられたもので、常夜灯形式の道標として貴重なものである。文字は小山霞外(おやまかがい)・梧岡(ごこう)・遜堂(そんどう)という父・子・孫三人の書家の揮毫(きごう)である。」(古河市教育委員会・説明版より)

現代のように情報が発達していない当時は、旅人にとって道標や一里塚がどれほどありがたいものかが実感できる。

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少し歩き今度は直角に右に曲がると「よこまち柳通り」の碑が立っている。「武蔵屋」という鰻料理店があるが、このあたりは当時遊廓であったのだそうだ。

向かい側には、「古河提灯竿もみ祭り発祥の地」と刻まれた碑が置かれている。長い竹竿の先に提灯をつけ、大勢で激しく揉み合いながら提灯の火を消すという奇祭だという。

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15分程歩くと再び「よこまち柳通り」の碑が立っている。よこまち柳通りはここで終わりという事か。その先15分程歩くと再び古河宿灯籠のモニュメントが立っている。このあたりが古河宿の日光口なのであろう。

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古河宿を後にしてすぐに「史跡栗橋道道標」が立っている。この道は栗橋に続いているのだろうか。その先10分程の所には「塩滑地蔵菩薩」がある。地蔵尊に自分の幹部と同じところに塩を塗ると霊験があらたかであるという言い伝えがある。

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時間は午後1時前、空腹を感じた所で左手にイートインのあるスーパーがあったのでそこで昼食を取ることにする。街道歩きをしているとトイレと昼食を取る場所に困ることが多い。イートインのあるスーパーやコンビニはとてもありがたいのである。

食事を終えて先へ行くと野木神社の鳥居が見える。野木神社は、延歴二年(783)時の征夷代将軍坂上田村麻呂が社殿を造営、下野の国寒川郡七郷の鎮守であり、古河藩の鎮守祈願所であった。15分程先には馬頭観音が置かれている。旧道は、ここで4号線に合流する。

4号線をあるくと馬頭観音と並んで野木宿入り口の標識があり「この場所に木戸が設置されていた。」と記されている。ここは野木宿の江戸口で土塁と矢来棚があった。

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10宿 野木宿 (古河宿より二十五町に十間(約2.8キロ)

本陣1、脇本陣1、旅籠二十五軒、宿内人口五百に十七人

天保十四年(1843日光道中宿村大概帳による)

野木宿の西に流れる思川には野渡(のわた)河岸、友沼河岸があり江戸との舟運が盛んであった。

木戸口を入るとすぐに熊倉本陣跡で野木宿の説明版が立っている。

本陣は熊倉七郎右衛門が務め、問屋も兼ねていた。

日光道中野木宿
江戸時代の野木宿は、古河宿より2520間(約2.8㎞)、間々田宿へ127町(約6.9㎞)にあった宿場町である。
野木宿の成立は、野木神社の周りに住居したのがはじまりで、その後文禄年中(159295)に街道筋へ出て、馬継ぎが開始され、新野木村が成立した。まもなく野木村も街道筋へ移動して町並みとした(「野木宮要談記」)ようである。慶長7年(1602)には本野木・新野木村を併せ、野木宿として成立した(「日光道中略記」)。こうして日光道中東海道中山道と前後して、慶長期(15961614)ころから、宿駅の設定や街道の整備が進められたとされる。
宿の規模は天保14年(1843)では下記の通りである。
宿の長さ 2227間 家数 126軒 宿の町並み 1055間 御定人馬 2525疋 高札場1ヶ所 本陣 1軒 脇本陣 1軒 問屋場 4ヶ所 旅籠 25軒(大0,2,23) 人口 527人(男271人 女256人)・・・
野木宿は小さな宿場だったので、街道が整備され、通行量が増大すると、その負担に耐えられなくなっていった。そこで、宿人馬をたすける助郷の村々、23ヶ村が野木宿に割り当てられた。その多くは古河藩内の村々で、現在の野木町域(川田を除く)、小山市平和などの台地上の村々と思川西部の水田地帯の村々があてられた。」(野木町教育委員会説明版による。)

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本陣跡の道路を挟んで向かい側が脇本陣跡である。脇本陣も熊倉家(熊倉兵左衛門)が務めた。5分程歩くと野木の一里塚跡の説明版が立っている。江戸より十七番目の一里塚で塚木には榎が植えられていたのだそうだ。続いて浄明寺、境内には青面金剛庚申塔等が置かれている。

先へ行くと大平山道標があり説明版が添えられている。道標には「是より大平道」と刻まれている。大平道は、思川の渡しを越え、日光例幣使街道の栃木宿大平山神社に至る。かつては、日光への裏道であった。

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すぐ先には観音堂があり敷地内に十九夜供養塔や馬頭観音等が置かれている。

このあたりが野木宿の日光口で土塁や矢来棚があったということだ。

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観音堂から40分ばかり歩くと左手に法音寺があり、境内には、芭蕉の句碑があり、説明版が添えられている。句碑には「道ばたのむくげは馬に喰われけり」と刻まれている。

曽良日記には「廿八日、ママダに泊まる。カスカベより九里前夜ヨリ雨降ル。」と書かれている。江戸を出て2日目の宿が間々田、雨の中間々田に宿を取ったのだろう。

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法音寺の道路を挟んだ向かい側が正八幡宮である。

『友沼八幡神社「将軍御休所跡」
 元和二年(1616)、徳川家康が没すると、これを駿河久能山にいったん葬ったが、翌三年の一周忌に久能山から日光へと改葬した。
 東照大権現社が完成すると、将軍秀忠は日光参詣(社参)のため、四月十二日に江戸を出発している。さらに寛永十三年(1636)に東照宮が完成すると、徳川家最大の廟所として将軍はじめ諸大名、武家や公家、さらに庶民にいたるまで参詣するようになった。
 将軍の社参は、秀忠の第一回社参をはじめとして、天保十四年(1843)の十二代将軍家慶の社参まで一九回に及んだ。寛永十三年四月、遷宮後の第十一回社参行列の規模も拡大された。
 社参の行程は四月十三日に江戸を出発し、岩槻・古河・宇都宮で各一泊、十六日に日光に入り、十八日には帰途につく。復路もやはり三泊四日で帰るのが恒例となった。それとともに昼食・休憩の宿や寺社なども決まり、大沢宿(現今市市)のようにそのための御殿が建てられた例もあった。
 友沼の将軍御休所は、将軍が江戸を出発し、二泊めになる古河城を朝出て、最初に小休止をした場所で、八幡神社の境内にあった。次は小金井の慈眼寺で昼食をとり、石橋へという道順をとった。
 ところで、近世における八幡神社は「日光道中略記」によると、別当法音寺の支配下にあった。野木村の野木神社の場合、元和二年に別当満願寺の支配がはじまるから、八幡神社も早くはほぼこの時期かと思われるが、小祠から拝殿・本殿をそなえた神社に整備されたのは、社参の規模が拡大する寛永十三年以降のようである。将軍御休所の建物は境内にあり、西運庵と呼ばれた。日光社参と八幡神社の整備が深くかかわっているとすれば西運庵の成立もこの時期かもしれない。なお文化期(180417)の宿駅のようすを描いたといわれる「日光道中分間延絵図」では、はるかに丸林村、潤島村の林が、さらに遠方には若林村の森が見え、正面には筑波山を眺望できる景勝の地と記されている。
 肥前国平戸藩松浦静山は寛政十一年(1799)八月、四十才のとき、日光参詣の途中、友沼の「石の神門建てたる八幡の神祠のまえにしばし輿をとめ」、休憩している。
 天保十四年四月、「続徳川実紀」によると、一二代将軍家慶の社参では、享保(第十七回)、安永(十八回)の社参では設けなかった幕張りが小休止の場所でまで行われた。友沼の御休所でも幕が張られ、一行は疲れをいやしたとある。平成三年三月二十五日』(説明版より)

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5分程歩くと小山市に入り、すぐに馬頭観音道標が置かれている。

これは乙女河岸、網戸河岸(あじとがし)への道標で「是より左 乙女河岸 あしと とちき さのみち」と刻まれている。

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その先には乙女の一里塚がある。江戸から十八番目の一里塚で榎の大木の根方には鳥居、石灯籠があり石の祠が祀られている。

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一里塚から700メートルほど歩くと十九夜塔があり如意輪観音像が刻まれている。

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先へ進むと「乙女」の交差点があり交差点から左に延びる道が乙女河岸に至る乙女河岸道である。

乙女河岸は思川流域にあり、徳川家康が上杉討伐に際して軍勢や武器・兵糧の陸揚げ地として利用された。慶長五年(一六〇〇)七月二十五日、上杉討伐の途中、石田三成の挙兵を知った家康は天下分け目の軍議「小山評定」の結果一転して三成討伐のため、上方へ向かうことになる。家康は慶長五年(一六〇〇)八月四日の早朝乙女河岸から舟に乗り、古河を経てよく五日に江戸城に帰り着いた。徳川家康の天下取りはこの乙女河岸から始まったとも言えよう。

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今日はここまで。

JR間々田駅から帰宅。

 

奥の細道 一人歩き 9 栗橋宿-中田宿-古河宿

8日目(2019123日(水))栗橋宿-中田宿-古河宿

宇都宮線栗橋駅から日光街道へ戻る途中に「静御前」の墓がある。

静御前

磯禅師(いそのぜんじ)の娘として生まれた静は、6歳で父を亡くし、母と共に京へ上った後、当代随一の白拍子と称されるほどに成長した。室町時代初頭に書かれたとされる「義経記」には後白河法皇が京の神泉苑で雨乞いの儀式を行った時、100番目の静の舞が黒雲を呼び3日間雨が降り続いたという。その後、大坂の住吉神社で舞をしていた静は、源義経と出会い恋に落ちる。義経の愛妾となった静御前は幸せな日々を送っていたが、やがて頼朝に追われた義経と奈良の吉野山で別れ、山中をさまよう中、僧兵に捕らえられ、鎌倉の頼朝のもとへと送られる。

吾妻鏡によれば、

静御前が鎌倉へ送られてきたのは文治二年(1186)三月一日。

頼朝は義経の行方を厳しく聞くが静御前は答えない。

同年四月六日に静御前は、鶴岡八幡宮で頼朝や北条政子の前で舞を舞った。その時、静御前は子供を身ごもっていたという。静御前は、舞を舞う前に

- 吉野山 みねの白雪踏み分けて 入りにし人の 跡や恋しき -

吉野山の白い雪を踏み分けて隠れ入った人の跡がなんて恋しきことでしょう)

- しずやしず しずのおだまき 繰り返し むかしをいまに なすよしもがな -

(しず、しずと義経様に呼ばれていたころに戻れたらどんなにいいことでしょう)

と詠んだ。この二つの歌には本歌がある。

-み吉野の山の白雪踏み分けて入りにしひとのおとずれもせぬ-(古今集三二五 壬生忠岑

(白雪を踏み分けて吉野の山に入った人が便りもくれないのはどうしたことだろう)

-古のしずのおだまきくり返し昔を今になすよしもがな-(伊勢物語第三十二段)

(昔の織物の糸を紡いで巻き取った糸玉から糸を繰り出すように昔を今にしたいものだ)

同年七月二十九日、静御前男児を出産するが頼朝の家臣・安達新三郎により由比ヶ浜に捨てられる。

同年九月十六日、静御前は許されて京へ帰る。

やがて義経を慕って奥州への旅に出た静御前は、栗橋のこの地で非業の死を遂げたといわれている。(もっとも静御前の終焉の地は諸説ありどれがどうとも言えないのだが・・・・)

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下の写真左「坐泉の歌碑」(江戸時代の歌人、坐泉はこの地にきて静御前を偲んで読んだ句)

― 舞ふ蝶の 果てや夢見る 塚のかげ -

中「静女塚碑」、右「義経招魂碑」と「静女所生御曹司供養塔」

 

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 境内には桜の木があり「静桜」と書かれた説明版が添えられている。

静御前義経を追って奥州に向かう途中、義経の討死にを知り、涙にくれた静は、一本の桜を野沢の地に植え、義経の菩堤を弔ったのが静桜の名の起こりといわれています。」(説明版より)静桜は、「御前桜」ともいわれ義経終焉の地とされる「衣川」とこの地に伝えられている。土産に静御前最中とまんじゅうを買ってみた。

 

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静御前巴御前木曽義仲の愛妾)、常盤御前義経の母)いずれもその美貌は薄幸が故に輝きを増しているのである。

ところで源頼朝だが、この人物はあまり有能な武将とは言えない。宿敵平家を滅ぼしたのは木曽義仲であり、源義経である。つまり頼朝は何もしていない。義仲や義経の武勇で天下がわが手に転がり込んできたのである。無能な権力者にとって有能な身内である義仲や義経は生かしておけない脅威なのである。「織田がつき羽柴がこねし天下餅、座りしままに食らうは徳川」という戯れ歌があるが「木曽がつき九郎がこねし天下餅座りしままに食らうは頼朝」といったところか。

間もなく鎌倉幕府は北条一族に乗っ取られ、幕府は腐敗の一途を辿ることになる。

後年、木曽義仲は粗暴な田舎武将として描かれることが多いが、それは北条一族が義仲を悪者に仕立て上げたからであろう。徳川が石田三成を徹底的に悪者にしたのと同じパターンである。時の為政者は、歴史を何とでも書き換えることができるのである。

芭蕉は大坂で亡くなっているが、自分の亡骸は大津・膳所の義仲寺に埋葬するようにと言い残している。なぜ故郷の伊賀上野ではなかったのかそれは知る由もないが芭蕉は、義仲や義経に限りない哀惜の情を抱いていたことは確かであろう。

- 木曽殿と背中合わせの寒さかな - 芭蕉の弟子・又玄(ゆうげん)の句である。

句碑は、滋賀県大津市の義仲寺に置かれている。

余談が長くなってしまった。街道へ戻ろう。

 

7宿 栗橋宿 (幸手宿より二里三町(約8.3キロ)

本陣1、脇本陣1、旅籠二十五軒、宿内家数四百四軒、宿内人口千七百四十一人

天保十四年(1843日光道中宿村大概帳による)

栗橋宿は利根川の舟運で栄えた。この地は関東平野の北辺に位置し、関所が置かれ「入り鉄砲と出女」が厳しく警備された。利根川対岸の中田宿は合宿の形態をとっており、両宿を合わせて一宿とする記述も有る。

街道に戻ると土手下に「関所跡」の碑と説明版が立っている。

芭蕉随行した曽良の日記(曽良日記)には「廿八日、ママダに泊ル。カスカベヨリ九里。前夜ヨリ雨降ル。辰上剋止ムニ依リ宿出。間モナク降ル。午の下刻止。此日栗橋ノ関所通ル。手形モ断モ不入(いらず)。」と記されている。

栗橋の関所は、江戸幕府にとって重要な関所の一つで「入り鉄砲と出女」を警備した。

「手形モ断モ不入」ということは芭蕉曽良は何のお咎めもなく無事に関所を越えたという事だろう。

 

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続いて八坂神社がある。ここは、栗橋宿の総鎮守で狛犬が鯉になっている。利根川の洪水の際に鯉が「御神体」を運んできたことに由来する。

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すぐそばに「関署番士屋敷跡」があったそうだが今は工事中で確認できない。

そういえば本陣も脇本陣も見つけられなかった。

利根川に架かる利根川橋を渡れば中田宿で橋の真ん中が埼玉県と茨城県の県境である。

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橋の渡り詰めを左に入ると旧道である。旧道の入口には「房川の渡し」の説明版があるが字が剥げていてよく読めない。

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8宿 中田宿 (栗橋宿より十八町(約1.6キロ)

本陣1、脇本陣1、旅籠六九軒、宿内人口四百三人

天保十四年(1843日光道中宿村大概帳による)

中田宿は、房川の渡しを控え元和十年(1624)に創設された宿場町で「鮒の甘露煮」が名物であった。栗橋宿とは合宿で問屋業務は半月交代で務めた。

旧道を歩くと中田宿の説明版が立っている。

「江戸時代の中田宿は、現在の利根川橋下、利根川に面して、現在は河川敷となってしまっている場所にあった。再三の移転を経て、現在のような中田町の町並となったのは、大正時代から昭和時代にかけての利根川の改修工事によってである。

中田宿の出発は、江戸幕府日光街道を整備する過程で、以前の上中田・下中田・上伊坂など、複数の村人を集め、対岸の栗橋宿と一体的に造成されたことにあり、宿場として、隣の古河宿や杉戸宿への継ぎ立て業務も毎月を十五日ずつ半分に割り、中田・栗橋が交代であたるという、いわゆる合宿であった。

本陣・問屋や旅籠・茶店などの商家が、水辺から北へ、船戸、山の内、仲宿(中町)、上宿(上町)と、途中で西へ曲の手に折れながら現在の堤防下まで、延長五三〇メートルほど続いて軒を並べていたが、ほとんどは農家との兼業であった。

天保十四年(1843)の調査では、栗橋宿四〇四軒に対し、中田宿六九軒となっている。ただし、一一八軒とする記録もある。 平成十九年一月 古河市教育委員会」(説明版より)

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街道を行くと「鶴峰八幡宮」がある。ここで御朱印をもらうと共に一休みしよう。

境内には「日光街道・旅の神」と「「水神社」「八坂神社」「浅間神社」「道祖神社」「琴平神社」が祀られており、「足踏み祈願、健康・安全・病気平癒・災除」の五柱の神等の御前で祈願 江戸時代より皆立ち寄りお参りし旅立った。左、右、左の足踏みを三回繰り返す。」と記された木札が立っている。横には「住吉神社」等が祀られている。

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「鶴峰八幡宮」の隣には「光了寺」がある。

ここは、静御前を葬ったという栗橋の「高柳寺(光了寺)」が移転したもので静御前後鳥羽上皇から賜ったという「蛙蜊龍(あまりりゅう)の舞衣」、義経肩身の懐剣・鐙(あぶみ)等が保存されている。境内には芭蕉の句碑が置かれている。

- いかめしき音や霰の檜木笠 -

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「光了寺」から10分ばかり歩くと「中田の松原」と書かれた説明版が立っている。

日光街道の踏切辺りから原町入り口にかけて古河藩二代藩主永井信濃守が植栽した松並木があった。「東海道にもこれほどきれいな松並木はない。」と言われたほどであったという。

先には「立場茶屋」があったそうで当時は旅人で賑わったことだろう。

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原町に入ると「十九夜塔」があり、「関宿境道」と刻まれた道標を兼ねている」。

道路を挟んだ古河第二高等学校の校庭に「原町の一里塚」が復元されている。江戸・日本橋から十六番目(十六里目)の一里塚である。(受付の先生にお願いし中へ入れてもらった。)

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すぐ先には、「左にっこう 右みちのく」と刻まれた道標が民家の玄関先に置かれている。

原町自治会館の先には、「祭禮道道標」がある。祭禮道は古賀の産土神・雀神社祭禮の際に旅人の迂回路になったのだそうだ。

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しばらく行くと古河宿「原町口木戸跡」で三叉路に古河宿の灯籠モニュメントが立っている。古河宿の江戸側の入口である。

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本日はここまで。JR宇都宮線古河駅から帰宅。

奥の細道 一人歩き 8 幸手宿-栗橋宿

7日目(2019122日(火))幸手宿-栗橋宿

東部日光線幸手高野台駅から日光街道(国道4号線)に戻り先へ進む。上高野小入口の信号から旧道に入る。しばらく行くと幸手市南公民館の玄関先に上高野村道路元票が置かれている。彫られている文字が読めないので公民館の方に聞いてみたが「勉強不足でごめんなさい。」という事だった。

説明版によれば、元は御成街道沿いにあったものだが平成に入って旧日光街道のこの場所に移転したとのこと。

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道路元票から15分ぐらい歩くと「日光道中日光御成道合流地点」の説明版が立っている。

日光道中日光御成道合流地点 幸手市南二-十‐三十地先

 日光道中は宇都宮まで奥州街道を兼ね。千住から草加・春日部を通り幸手へと至り、ここで日光街道に合流します。川口・鳩ケ谷・岩槻を抜けて幸手に至る御成道は家光の時代に整備され、徳川家康を祀る東照宮に参詣する代々の将軍が通行しました。

また、地元で羽生道と呼ばれている道も合流しており、ここを多くの旅人が行きかったと思われます。」幸手市教育委員会・説明版より

当時は、随分賑わったことだろう。

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すぐ先の道の傍らには石仏や石塔が集められている。

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すぐ先には「太子堂」がある。中には聖徳太子が祀られているのだろう。

その先には「神宮寺」がある。ここは源頼朝が奥州征伐の途中に戦勝を祈願した寺だそうだ。

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しばらく行くと東部日光線に出会い、踏切を越えた志手橋交差点で再び国道4号線に合流する。信号の先に「神明神社」がある。ここは、伊勢神宮の分霊を祀った神社で境内には「螺不動(たにしふどう)」がある。螺を描いた絵馬を奉納して祈願すれば眼病に霊験あらたかだそうだ。参道の入口には高札場があったそうだが今はその跡は見受けられない。

このあたりが幸手宿の入口であろう。

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6宿 幸手宿 (杉戸宿より一里二十五町(約5.8キロ)

本陣1、旅籠二十七軒、宿内家数九百六十二軒、宿内人口三千九百三十七人

天保十四年(1843日光道中宿村大概帳による)

古くは田宮町とも呼ばれた幸手の中心部は、江戸幕府による街道整備の結果、日光道中6番目の宿場である幸手宿として発展した。徳川将軍が日光社参で通る日光御成道が上高野村で合流、また宿内で日光社参の迂回路である日光御廻り道、更に外国府村で筑波道が分岐し、陸上交通の要衝として大いに栄えた。(日光街道幸手宿 説明版より)

神明神社のすぐ先には「明治天皇行在所跡碑が説明版と共に立っている。

しばらく行くと、「日光街道幸手宿」の説明版が立っている。

 

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1丁目(南)の交差点の右手のポケットパークに「問屋場跡」の説明版があり、右手の「うなぎ義語屋」は「本陣・知久家跡」である。

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本陣跡から10分ばかり先を左手に入ると「聖福寺」である。聖福寺は、浄土宗の寺で本尊は阿弥陀如来である。徳川三代将軍家光が日光社参の時に休憩所として使用した。また、天皇の例幣使や歴代将軍の休憩所となった。

入口には芭蕉曽良の句碑が置かれていて、

- 幸手を行くかば栗橋の関 - 蕉

- 松風をはさみ揃ゆる寺の門 - 良

と刻まれている。

奥の細道の旅を終えた芭蕉4年後の元禄六年九月十三日に江戸・深川の芭蕉庵で句会を催したときにみちのくの旅を想い曽良と共に詠んだ句だということである。

(山門の勅使門や句碑の写真を撮ったのだが保存されていない。消去しまったのかもしれない。残念!! どうも撮影した写真の取扱いが良くない。)

さて、街道に戻ったすぐ先が「幸手の一里塚」があった所で「幸手の一里塚跡」の説明版が立っている。江戸・日本橋から12番目(十二里目)の一里塚である。

 

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街道はその先で国道4号線と分かれ旧道に入り、内国府間(うちごうま)交差点で再び国道4線に合流する。内国府間交差点から30分ばかり行くと権現堂川の堤が散策コースになっていて水仙の群生地には水仙が咲き乱れていた。権現堂堤は、江戸を洪水から守るために寛永十八年(1641)に築堤されたのだそうだ。

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権現堂堤が街道と交差するところに「明治天皇権現堂堤御野立所」と刻まれた碑が立っている。

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明治天皇が奥州巡幸の際に立ち寄ったことから命名された「行幸橋」を渡りきると左手が旧道である。しばらく行くと「筑波道追分道標」が置かれている。道標には「左・日光道」「右・つくば道」「東・かわつま前ばやし」と刻まれている。「かわつま」は現在の茨城県五霞(ごか)村字川妻、「前ばやし」は茨城県総和町前林の事である。道標は、安政四年(1775)の建立。(幸手市教育委員会の説明版より)

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追分道標から5分程歩くと「雷電社湯殿社」があり境内には馬頭観音青面金剛庚申塔如意輪観音崎像十九夜塔等が置かれている。ここは、内国府間村の鎮守である。

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ここから先は国道4号線の下道を進み小さな円形のトンネルをくぐることになるがこのトンネルの辺りが幸手市久喜市の境である。

しばらく行くと左手に一里塚の説明版が立っている。江戸・日本橋から13番目(十三里目)の「小右衛門の一里塚」である。

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国道4号線は、やがて東北新幹線の高架をくぐり、川通神社の所で旧道は国道と分かれる。

河通神社の鳥居には「香取宮八幡宮」と刻まれている。境内の常夜灯は文化十一年(1814)の建立だそうだ。

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5分ばかり先には「会津見送り稲荷」がある。久喜市HPによるとこの稲荷神社は狐に乗る茶吉尼天を埼信とした稲荷社だそうで、以下のような記載がある。

「江戸時代、会津藩主の参勤交代による江戸参向に先立ち、藩士が江戸へ書面を届けるためにこの街道を先遣隊として進んでいました。ところが、栗橋宿下河原まで来ると地水のために通行できず、街道がどこかさえも分からなくなってしまいました。大変困っているところへ突然、白髪の老人が現われ、道案内をしてくれたといいます。そのお陰で、藩士は無事に江戸へ着き、大事な役目をはたせたといいます。

また、道が通行できず、茶店でお茶をご馳走になっている時に、大事な物を忘れてきたことに気づき、そのために死を決意した際、この老人が現われ、藩士に死を思い止らせたともいわれています。後になってこの老人は狐の化身と分かり、稲荷様として祀ったとされています。」(久喜市HPより)

 

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稲荷社から15分ばかり歩いて左に入ると「深廣寺」がある。境内には「南無阿弥陀仏」と刻まれた高さ3.5メートルの六角名号塔が21基並んでいる。

 

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旧道に戻り、先の栗橋駅入口の交差点から栗橋駅hへ、JR宇都宮線で帰宅。

街道脇には悲劇のヒーロー源義経の愛妾・静御前の墓への参道の碑が置かれている。

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奥の細道 一人歩き 7 杉戸宿

6日目(201914日(金))杉戸宿

前回はあまりに疲れて馬頭院からわき目もふらず東武動物公園駅にたどり着いたという感じであったため、今日は馬頭院まで戻っての再開である。

馬頭院は本尊の「馬頭観世音菩薩」とともに杉戸七福神の「大黒天」が祀られている。

境内には「馬の事悪と厄とを食い尽くす 旅おも守馬頭観音」と刻まれた碑が置かれている。

先へ進もう。10分ばかり行くと旧道と並行して散策道が通っているが旧道を歩くことにする。

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更に10分ばかり歩くと「三本木の一里塚」の説明版が立っている。江戸日本橋から十里目(10番目)の一里塚である。このあたりが宿場町の入口であろうか。

5宿 杉戸宿 (粕壁宿より一里二十一町(約6.6キロ)

本陣1、脇本陣2、旅籠四十六軒、宿内家数三百六十五軒、宿内人口千六百六十三人

天保十四年(1843日光道中宿村大概帳による)

元和二年(1616)近郊の村を集めて宿場町を作った。五と十のつく日に六斎市が立ち近郊の商業の中心地であったのであろう。

一里塚跡の先、清池二丁目の信号の所に文政五年(1822)創業の銘酒「杉戸宿」の蔵元である関口酒造がある。旧屋号は「豊島屋」。入り口に酒粕540円のはりがみがしてあったのでこれを購入。寒い日には粕汁でも作ってみよう。

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関口酒造を右手に入ると来迎院(らいこういん)がある。本尊は不動明王でその像は運慶の作と伝えられている。奥州・藤原三代の守護仏であったという。ここには杉戸七福神の恵比寿も祀られている。

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街道に戻るとすぐ先に「高札場」が再現されている。

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そのすぐ先を右に入ると「近津神社(ちかつじんじゃ)」がある。ここは、清地村の鎮守で貞享元年(1684)の創建で社殿には見事な彫刻が施されていたそうだが平成13年に焼失してしまったのだそうだ。境内には元治元年(1864)建立の「見返り狛犬」がある。

そのすぐ先には杉戸宿新町北側の鎮守「神明神社」がある。

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先の本陣跡地前の信号の手前に明治天皇御小休所跡の碑が置かれている。ここは杉戸宿の問屋場跡である。

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信号を左折し、しばらく行くと旧道(日光街道)と並行して「みなみがわ散策道」が通っている。杉戸町の宿場めぐりマップには「旧日光街道」と記されている。

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散策道の南には「大落古利根川」が流れており川沿いを歩くと「富士浅間神社」がある。境内の富士塚の自然石の一つに芭蕉の句、「八九間空で雨降る柳哉(はっくけんそらであめふるやなぎかな) はせ越(はせお)(松尾芭蕉)」と刻まれているそうだがほとんど読めない。

句の意味は「春雨は降ったりやんだりだけど八・九間(15メートル前後)もある柳の大木の下だけは雨が降っている。」だそうだ。

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川沿いを先へ行くと「河原の渡し」があった所で今は「河原橋」が架かっている。

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「本陣跡地前」信号の交差点まで戻り再び旧道を歩く。信号の先には、脇本陣・蔦屋権左衛門跡、長瀬本陣跡、脇本陣・酒屋伝右衛門跡が並んで言うということだが、いずれも確認出来なかった。

すぐ先の「愛宕神社前」の交差点を北に延びる道が「関宿道」である。傍らには道標があり

「久喜方面」(関宿道)「幸手方面」(日光街道)と刻まれている。

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街道沿いには、昔ながらの家屋と蔵を残した小島定右衛門邸(角穀屋跡)がある。

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左手には、永禄三年(1562幸手城主・一色義直が開山した「宝性院」がある。胎蔵界大日如来で杉戸七福神毘沙門天も祀られている。境内には「不動明王像」「青面金剛庚申塔」などが置かれており文化七年(1810)建立の馬頭観音像があり「日光道中」と刻まれている。

御朱印をもらうため、住職の家へ立ち寄ったところ、奥さんがお茶とお茶菓子を出してくれたのでつい話し込んでしまった。これも街道歩きの楽しみである。

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斜め向かいには、旧家・渡部勘左衛門邸がある。当時は多数の小作人を抱えていたという。

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先の街道沿いにも古民家が目にはいる。このあたりはもう宿場はずれなのだろう。

10分ばかりで旧道は国道4号線に合流する。30分ほど歩くと「山田うどん」の駐車場内に「荻島の一里塚跡」の説明版が立っている。江戸・日本橋から十一里目(11番目)の一里塚である。

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5分ばかり行くと「幸手団地入口」の交差点がある。このあたりが杉戸市と幸手市の境だろう。

そろそろ午後4時である。今日は、朝が遅かったうえに来迎院、宝性院の住職の奥さん?と話し込んでしまったので随分時間がかかってしまった。今日はここまで、東武日光線杉戸高野台駅より帰宅。

 

奥の細道 一人歩き 6 粕壁宿-杉戸宿

5日目(2018924日(土))粕壁宿-杉戸宿

4宿 粕壁宿 (越谷宿より二里三十町(約10.0キロ)

本陣1、脇本陣1、旅籠四十五軒、宿内家数七百七十三軒、宿内人口三千七百一人

天保十四年(1843日光道中宿村大概帳による)

粕壁宿は古利根川の舟の便により江戸と結ばれ、物資の集散地として栄え、四と九の付く日に六斎市が立ち大いに賑わった。

今日も武蔵野線、東部スカイツリーラインを乗り継いで一ノ割駅から街道(国道4号線)に戻り、街道を右に入ると古利根川に藤塚橋が架かっている。ここは「三蔵渡し」と呼ばれた渡船場があったのだそうだ。川には水鳥が遊んでいた。

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国道4号線を先に行くと一宮の交差点に八坂神社があり、ここで国道と分かれ再び旧道を歩くことになる。この八坂神社は粕壁宿の市神として信仰され牛頭天王社と呼ばれていたそうである。このあたりが粕壁宿の入口であろう。

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旧道に入る前に東八幡神社を訪ねて見た。この神社は粕壁宿の鎮守で新田義貞の鎌倉攻めに功があった春日部時賢が鎌倉鶴岡八幡宮を勧請したものである。境内の大ケヤキは御神木で樹齢六百年だとのこと。また「三之宮卯之助の力石」なるものがあり「卯之助は、江戸時代の文化四年(西暦一八〇七年)越谷市在の三之宮に生まれ江戸時代の見世物興行の力持ちとして日本一になったこともあり、牛一頭を乗せた小舟を持ち上げるのが売り物だったと言う。この百貫目(三七五kg)の力石は、卯之助が八幡神社で興行したさいに、持ち上げた記念に奉納されたものである。-東八幡神社―」と記された説明版がたれられている。

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一宮の交差点に戻り、八坂神社の向かいにある東陽寺には伝芭蕉宿泊の寺碑「廿七にち夜カスカベニ泊ル江戸ヨ九里余」が置かれている。

奥の細道には「弥生も末の七日、あけぼのの空朧々として、月は有明にて光をさまれるものから・・・・」「千じゅと云う所にて舟を上がれば・・・・」とあるから芭蕉327日早朝、深川を舟で出発、千住で舟を下りて粕壁宿にその日(327日)の夜に着いてたことになる。

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芭蕉1日目の宿泊地は、芭蕉奥の細道に「其日漸(そのひようよう)早加と云宿にたどり着にけり。」と書いているため草加という説もあるようだが、同行の曽良は「カスカベ」と書いている。次の宿泊地が間々田(栃木県小山市)であるから草加からは遠すぎる。やはり、粕壁宿であろうかと思うがここでも説が2つある。この「東陽寺」説と宿場はずれの「小淵山観音院」説である。私は、「東陽寺」説に1票を投じたい。なぜなら深川を早朝に立ち、すでに夜になっているのに宿場を抜けた先の「観音院」に泊まるとは思えないからである。後ほど「観音院」も訪ねてみよう。

旧道に入ると雰囲気が一転する。絶え間なく車が走る国道の騒音から解放されるからだ。

旧道を5分ぐらい歩くと現在の金子歯科医院辺りに「脇本陣跡」の標柱が立っている。「天保元年(1803)この地で旅籠屋を営んでいた高砂屋・竹内家が務め嘉永二年(1849)から幕末までは本陣となった。」と左側面に書かれている。

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さらに5分ぐらい先の群馬銀行の辺りに「本陣跡」の標柱が立っていて左側面に「本陣は大名や高層が宿泊・休憩した公用の施設である。古くは、関根次郎兵衛家が務め、その後、現在地の関根助右衛門家、見川家、小沢家、竹内家の順に四度移転した。日光山法会など公用の通行者が多い時には、最勝院・成就院が宿泊施設として利用されることもあった。」と記されている。関根次郎兵衛家は仲町郵便局辺り(確認できず)で年代は不明、関根助右衛門家はこの地でこれも年代は不明、見川家は埼玉りそな銀行の向かい辺りで宝暦四年(1754)~、小沢家は群馬銀行あたりで文化六年(1809)~、竹内家は先ほど述べたように金子歯科医院辺りで、嘉永二年(1849)本陣を務めた。

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以前に中山道を歩いたが、本陣の変遷をこれほど詳しく説明しているのはこの粕壁宿ぐらいであろう。

さて小沢家本陣跡のすぐ先、「田村」の表札がでている旧家の前に道標が立っている。非常に読みにくいがどうやら「東 江戸」「西南 いハつき」、裏側に「北 日光」と刻まれている。

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5分ばかり歩くと問屋場跡と並んで慶長年間創業の「永島庄兵衛商店」があろ。屋根に鍾馗様が乗っているのだが写真には入っていない。(残念)

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10程歩くと黒い土蔵「佐渡屋跡」がある。これは、明治時代前期築の土蔵で国登録有形文化財だそうだ。道路を挟んで向かい側が高札場跡である。

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旧道はここを右折し、古利根川に架かる新町橋を渡る。「新町橋・上喜蔵河岸」の標柱が立っている。

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旧道は、橋を渡り切ると左折である。すぐに「八坂香取稲荷合社」があり隣の「仲蔵院」の境内には寛政四年(1792)建立の青面金剛庚申塔が置かれている。

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先へ進もう。10分ばかり先に「史跡小渕一里塚跡」の碑が置かれている。江戸・日本橋から九番目(九里目)の一里塚である。傍らに天保三年(1832)建立の庚申塔が立っている。

すぐ先には追分道標が置かれている。宝暦四年(1754)建立の道標には「青面金剛、左日光道」、宝永六年(1709)建立の道標

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旧道は、先の小淵の交差点で再び国道4号線に合流する。しばらく行って左手に入れば「観音院」である。本尊の聖観音は、「こぶとり観音」とも呼ばれイボ、コブ、アザにご利益があるといわれている。桜門(仁王門)は市の有形文化財に指定されている。境内には「毛のいえば(ものいえば)唇寒し秋の風」と刻まれた芭蕉の句碑が置かれている。奥の細道紀行で芭蕉はこの寺に宿泊したという説がある。

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日光街道の道しるべ」の説明版がっている。この寺の本尊は阿弥陀如来で道標には「左日光」「右江戸」と刻まれている。道しるべには以下の説明文が記されている。
この道しるべ は、天明四年(一七八四)堤根付の農民四十二人が協力して、新川村(春日部市)の石工・星野常久に作らせ、江戸と日光方面を知らせた。また、この道路の向い側の高野家が、立場を営み、馬で荷物を運ぶ人・駕籠をかつぐ人・旅人・馬などが休む場所となっていたので、この道しるべを多くの人々が見ながら旅を続けたと思われる。
この石塔は、庚申の夜、人間の身体にあって人を短命にするという三尸を除いて、青面金剛 に疫病の予防治療と長生きができるように祈る庚申信仰 を表すものであり、道しるべを兼ねたものである。
なお、見ざる・聞かざる・言わざるは、三尸 になぞらえ、眼や耳や口をふさいで悪事を天の神に報告させないという意味がある。」 杉戸町教育委員会

寺の向かい辺りが高野家が茶屋を営んだとされる「堤根立場跡」である。

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15分程歩くと堤根(南)の交差点で旧道が復活する。途中、昔の風情を残した旧家も見受けられた。交差点のすぐ先が「馬頭院」で本尊は伝教大師策の馬頭観音である。

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今日は、かなり疲れたので東部スカイツリーライン・東部動物公園駅から帰宅。

奥の細道 一人歩き 5 草加宿-粕壁宿

4日目(2018923日(土))越谷宿-粕壁宿

3宿 越谷宿 (草加宿より一里二十八町(約9.0キロ)

本陣1、脇本陣4、旅籠五十二軒、宿内家数千五軒、宿内人口四千六百三人

天保十四年(1843日光道中宿村大概帳による)

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ひざと腰を痛めたのと猛暑のため、長らく休んでいたので久々の街道歩きである。

芭蕉は、「奥の細道」で草加から先の道中については何も書いていない。草加の次は、いきなり「室の八嶋」(栃木市惣社町)に記述が飛んでいる。

この先は芭蕉が歩いたであろう日光道中の街道歩きを楽しみながら先へ進むことにする。

さて、JR武蔵野線、東部スカイツリーラインを乗り継いで越谷駅から日光街道に戻り街道歩きの再開である。

新町八幡神社を左手に見て先へ進むと越谷二丁目の交差点である。江戸・日本橋から六番目(六里目)の「越谷の一里塚」がこのあたりにあったというのだが今は何の形跡もない。

先へ進むと「タブノキの家」があり黒板塀内にある「タブノキ」は樹齢四百年以上で市の天然記念物に指定されているのだという。

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すぐその先には脇本陣四ツ目屋跡がある。当時は浜野家が務めたが今は「木下半助商店」になっている。シャッターに描かれているイラストが脇本陣のイメージとは重ならないのだが・・・・。

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ここを左に入ると「浅間神社」があり、市の文化財に指定されている樹齢約六百年と推定されるケヤキがそびえている。説明版によれば幹回り7メートル、樹高23メートル、幹は地上6メートルの所で6本に分岐し、更に上方で多数の枝を広げている。幹の西側に幅1.5メートル、高さ2.3メートルにわたって洞穴状の枯損部があるが、樹勢は極めて旺盛であるとのことである。

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街道に戻ると、向かい側に「塗師屋(ぬしや)」、「鍛冶忠」と蔵造りの商家を残している旧家が続く。このあたりに問屋場跡があるというのだが形跡を見つけることが出来なかった。

塗師屋」は太物荒物店塗師屋市右衛門跡で漆を扱い、後に太物(綿、麻織物)を商ったのだそうだ。

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さらに先には、「市神社」があり、ここは村の鎮守で二と七のつく日は「六斎市」が立った。

六斎市とは室町時代から江戸時代にかけて月に6回開かれた定期市である。

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元荒川(明暦年間は荒川の本流であった。)に架かる大橋を渡ると大沢と呼ばれる集落で「きどころ」の看板が掛かっているパン屋のビルがある。ここが大松本陣跡(大松屋福井権右衛門跡)である。

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1ブロックほど先に「虎屋脇本陣跡」と「玉屋脇本陣跡」が向かい合っている。

虎屋脇本陣は、現「三枡屋」というそば屋辺りで山崎次兵衛が務めた。玉屋脇本陣は、今は「深野造園」になっている。この脇本陣深谷彦右衛門が務めた。玉屋脇本陣跡のすぐ横が問屋場跡で現在は「若松印刷」になっており当時は江沢太郎兵衛が務めた。大松本陣から問屋場までわずか100メートル足らずの間に本陣、脇本陣2軒、問屋場が集まっている。当時は越谷宿の中心地であったのだろう。それにしても本陣がパン屋に、脇本陣がそば屋や造園に、問屋場が印刷屋に変わっているのを見ると時代の流れを感じざるを得ない。時の流れと共に街の様子も人のこころも変わっていく。これから先は今までの数倍の速さで時代が変わっていくのだろう。ただ、どんな時代になろうとも昔の人が育んだ日本のこころは大切にしたいものである。

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少し歩くと左手に「照光院」という寺がある。ここは真言宗の寺で梵鐘は安永八年(1779)の鋳造だそうだ。さらにその先を右に入ると「香取神社」がある。香取神社は、大沢の総鎮守で越谷市の㏋には、「創建は、「明細帳」に応永年間(13941428)と記載されています。中世はこの辺りは下総国に属していたことから、下総国一宮香取神社を村の鎮守として

勧請(かんじょう)し、鷺後の地に社殿が建立されましたが、後に奥州街道の整備に伴い、寛永の頃(16241644)に今の地に移築したといわれています。」と記されている。

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ところで越谷の地名の由来だが、このあたりは武蔵野台地の麓(腰)あたる低地(谷)であるところから「腰谷」となり、転訛して「越谷」となったのだそうだ。

大沢の集落を過ぎ、越谷宿に別れを告げてしばらく行くと「青面金剛庚申塔」が置かれている。この庚申塔は古奥州道道標を兼ねていて「右じおんじ のじまど道」と刻まれている。

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旧道を行くと右手の祠の中に宝永七年(1710)建立の青面金剛庚申塔が置かれている。

その先には馬頭観音地蔵尊などが集められており、さらに先の墓地の片隅に青面金剛庚申塔などが置かれている。

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このあたりから下間九里という集落である。江戸・日本橋から七番目の一里塚、下間九里の一里塚があったようだが今は、その存在も場所もわからない。

しばらく行くと、「下間九里香取神社」がある。ここは、下間久里村の総鎮守で例大祭に奉納される獅子舞は太夫獅子、中獅子、女獅子の三頭一組で舞う「祈祷獅子」の形態を保っていて埼玉県の無形民俗文化財に指定されているのだという。

 

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神社から1キロばかり行った辺りには「間久里の立場」があった。八軒の茶屋が軒を連ねており、中でも秋田屋には参勤の佐竹候が必ず立ち寄り名物の鰻の蒲焼を食したのだそうだ。秋田屋には藩主専用の座敷「秋田炉(しゅうでんろ)」があったのだという。

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旧道は、この先国道4号線に合流し、さして見るものもなく歩いていくとせんげん台の先で新方川に架かる戸井橋を渡る。新方川は、元は千間堀と呼ばれ越谷市春日部市の境である。

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春日部市に入り、さらに4号線を行くと備後東四丁目辺りに地蔵立像二体が安置されている地蔵祠がある。さらに約1キロ先に「史跡備後一里塚碑」と刻まれた碑が置かれている。江戸・日本橋から八番目(八里目)の一里塚である。

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本日は、ここまでとし、東部スカイツリーライン・一ノ割駅から帰宅。

 

寄り道 上州・沼田

201893日(月)

猛烈な暑さと自然災害に苦しめられた今年の夏もやっとその勢いを弱めたようである。

青春18きっぷが1回分残っていたので日帰りで沼田へ行ってみることにした。

沼田・・・・豊臣秀吉の北条征伐の後、真田信之真田昌幸の長男・幸村の兄)が沼田城主となり沼田を支配したことでもう一つの真田の里といわれている。

さて、浦和から高崎線上越線を乗り継いで沼田へ。全く事前の準備をしていなかったので

沼田駅の待合室にあるパンフレットがありがたい。特に「天空の城下町 真田の里沼田 城下町散策MAP with 沼田女子高校」がいい。早速、女子高生手作りのMAPを片手に城下町を散策することにした。

沼田駅前には、天狗の像があり、六文銭の家紋と共に「真田の里 上州沼田」と書かれたのぼりがはためいている。月曜日の早朝とあって静かな空気が漂っている。

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駅前通りを歩き清水町の交差点で左折、まずは「榛名神社」で今日1日の安全を祈願。

境内には「心洗岩」なるものが置かれている。

榛名神社、御祭神は埴安姫命(はにやすひんめのみこと)、日本武尊(やまとたけるのみこと)、菅原道真公(すがわらみちざね)。

由緒書きには、「鎌倉時代榛名山御師の活動により榛名神社の信仰が広められた。(中略)戦国時代となり、沼田万鬼顕泰は武尊様の社地にあらたに倉内城を建てること を決め享禄二年(一五二九年)武尊様、榛名様、天神様を合せ祀り、現在の地に 社殿を建立、そして元和元年(一六一五)真田信之公が改築、現在に至る。(後略)」とある。

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清水町の交差点まで戻り、「滝坂」と名付けられた坂を上る。この坂は急で息が切れ、汗が噴き出す。とどめは、アーケードになっている急階段である。上り切るとしばらく休まないと歩きだせない。

休憩の後、左へ歩くと真田城址である。入り口には冠木門があり「日本の歴史公園百選 沼田」と書かれた碑が立っている。

 

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沼田城

沼田城は、利根川と薄根川の合流点の北東、河岸段丘の台地上に位置する丘城。二つの川は約70mの崖となっており、典型的な崖城でもある。

沼田は北関東の要衝であり、軍事上の重要拠点として上杉氏・後北条氏・武田氏といった諸勢力の争奪戦の的となった。天正十八年(1590)秀吉の北条征伐後沼田城は、真田昌幸に与えられ長男の真田信幸の支配城となった。

城址公園には、鐘楼、信之・小松姫の石像、天守跡の碑、本丸堀跡などがある。

 

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ここからの眺めは素晴らしく、名胡桃方面や日本百名山の一つ谷川岳、三峰山が見渡せる。

名胡桃城は、沼田城の有力な支城で真田の家臣・鈴木重則が城代であったが北条の家臣・猪俣邦憲の姦計により北条に占領された。その後信幸が沼田城を支配するとともに廃城となった。

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沼田城は、利根沼田の台地上に位置するが河岸段丘とは「平坦な部分と崖が交互に現れる地形の事で利根沼田の河岸段丘は日本一の美しさを誇る。この特殊な地形に目をつけた真田氏によって「天空の城下町」は生まれた。」~城下町散策MAP with 沼田女子高校より~

沼田市HPの写真を見れば、確かに「天空の城下町」である。

 

f:id:tyoyxf1:20180920153837j:plain(沼田市HPより)

ここで、真田信幸(信之)について少し。

昌幸の長男で幼名は源三郎。文禄三年(1594)、従四位下・伊豆守に叙任される。

信之は、信濃の小国でありながら知略を尽くして存在感を示した知将・父昌幸や大坂の陣で華々しい活躍を見せ「真田日本一の兵」と称賛された弟・幸村(信繁)ほど語られてはいない。

しかし、二度の上田合戦や大坂の陣で徳川を苦しめた「徳川の天敵」ともいえる真田家を守り抜いたその器量は「名将」にして「名君」と言えるであろう。

戦上手は、昌幸や幸村に引けを取らない。第一次上田合戦では、昌幸に従い大いに勝利に貢献した。家康は、信幸の才能を高く評価し徳川四天王の一人・本田忠勝の娘「稲姫、(後の小松殿)」を養女としたのち信幸に嫁がせた。

1600年、上杉征伐に向かう途中、石田三成の決起を知った昌幸と幸村は大坂方に味方することを決意するが、戦乱の世を終わらせるのは、家康しかいないと信じて疑わなかった信幸は、犬伏の陣で昌幸、幸村と袂を分かち家康に従う。

「親子、兄弟が敵味方に分かれて戦うのもあながち悪う(あしゅう)はござるりますまい。上田が立ち行かなければ沼田が・・・・」(幸村)「沼田が立ち行かなくなった時は上田があるという事か」(信幸)~NHKドラマ真田太平記の名場面が目に浮かぶ。~

関ケ原」の後、義父・本田忠勝と共に昌幸、幸村の助命嘆願を続けると共に徳川家への忠誠の意思を示すため「幸」の字を「之」と改め「信之」とした。「大坂の陣」後、家康により沼田を安堵されるが、秀忠により松代への国替えを命じられる。

その後、信幸はひたすら真田家を守り、徳川三代将軍・家光に、「豆州(伊豆守)は、天下の宝よ」と言わしめ、諸将からは、老いてなお「信濃の獅子」と評された。

徳川頼宣(よりのぶ)」(徳川八代将軍・吉宗の祖父で紀州徳川家の祖とされる人物)は、信之を尊敬し、たびたび自邸に信之を招き、武辺話を聞いたという逸話が残っている。

信之は、九十三歳の長寿を全うし、辞世の句、「何事も移れば変わる世の中を夢なりけりと思いざりけり」を残して世を去った。(時代は移り世の中は変わり愛する人たちもいなくなってしまった。この世は夢であったのだろうか。とでも読み解けばいいのだろうか)信之の死を家臣のみならず百姓までもが大いに嘆き、出家する者が相次いだという逸話は、信之が家臣や領民にいかに慕われた名君であったかうを物語っている。

また晩年、信之はしばしば幕府に隠居を願い出ているがその度に慰留され、91歳になるまで隠居できなかった。隠居にあたり時の将軍・家綱は信之を「天下の飾り」と表現したといわれている。

公園内の観光案内所で「沼田城の古地図」と「切り絵・沼田かるた」を購入し、正覚寺へ。

正覚寺には信之の正室・小松殿の墓がある。

大蓮院殿(小松殿)の墓は総高271センチの宝篋印塔で、塔身に「阿弥陀三尊(梵字) 大蓮院殿 英誉皓月 元和六年庚申二月廿四日 施主敬白」の刻銘があり、江戸時代初期の宝篋印塔の特徴を良く表し、沼田市重要文化財に指定されている。

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小松殿について少し。

真田信幸(信之)の正室・小松殿は、天正元年(1573)に徳川四天王の筆頭・本田忠勝第一子(長女)として生まれる。幼名は稲姫(いなひめ)

第一次上田合戦で徳川勢7000の大軍をわずか1200の手勢で撃退した真田父子(昌幸、信幸、幸村)の名は、一躍天下に轟くことになる。

真田の軍略を恐れた本田忠勝は真田家の取り込みを図り、娘・稲姫を家康の養女として真田家の長男・信幸に嫁がせた。(孫・松代藩三代藩主・真田幸道の由緒書きでは、小松殿は徳川秀忠の養女とされているのだが・・・・)稲姫(小松殿)は14歳、信幸は24歳であった。

1600年上杉征伐に向かう途中、下野(栃木県佐野市)の犬伏の陣に石田三成の密書が昌幸に届く。親子会議の結果、昌幸、幸村は西軍へ、信幸は東軍へ与することになる。

昌幸と幸村は上田に引き返す途中、沼田に寄って孫(真田信幸の子)の顔見たいと、夜半に沼田城に使者を送り入城を申し入れたが、城を守る小松殿は自ら武装して出迎え「例え義父であっても今は敵味方の間柄。主人の留守を預かる者として城の中に入れることはできませぬ。」と入城を拒否。昌幸は、あわよくば、沼田城を占拠しようとも考えていたとされるが「さすがは本多の娘だ。武士の妻女たる者、ああでなければならん。」と、城に入る事を諦め、近くの正覚寺で一泊した。
翌日、そこに小松殿が子供を連れて訪れ、祖父と孫の対面を果たせたと言う。

関ケ原の合戦後、小松殿は九度山に配流された義父・昌幸と義弟・幸村に、自費から仕送りをする一方、真田家の倹約に努め、献身的に夫を支えたと言う。

こういった逸話などから、小松姫は戦国時代における女傑の一人に数えられ、良妻賢母としても誉れ高い。

また、小松姫は、徳川家康徳川秀忠に対して直に意見をする程の才色兼備の女性だったと伝えられている。また、小松姫の遺品の中には『史記』の「鴻門の会」の場面を描いた枕屏風があるが、こうした点からも「男勝り」と評されている所以であろう。

小松殿は元和六年(1620)二月二十四日、江戸から草津温泉へ湯治に向かう途中、武蔵国鴻巣で亡くなった。享年四十八歳。

遺骸は沼田城近くの正覚寺に運ばれて、荼毘にふされ埋葬された。

信之は「我が家から光が消えた」と大いに落胆したという。

戒名は大蓮院殿英誉皓月大禅定尼。
墓は鴻巣市勝願寺、沼田市正覚寺上田市芳泉寺の三つの寺に分骨されている。

正覚寺を出て、沼田市街の中心に位置する辺りに天狗プラザという所があり、中には沼田まつりで担がれる長さ4.3mm幅2.3m、花の高さ2.9mの天狗面が展示されている。

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天狗プラザから歩くこと約10分、沼田藩第二代藩主真田信吉の墓がある天桂寺に着いた。天桂寺の傍らの水路にきれいな水が流れている。城堀川はかつて沼田の町の生命線だった。天桂寺の水路お石垣の一部は当時のまま、残っている。

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ちょうど12時を過ぎたので「城下町散策MAP」に書かれている「姫本」という店で「だんご汁」を昼食にいただいた。

まだまだ訪れたいところはあるが、今日は日帰りなのでここまで。

割田屋さんで沼田名物みそ饅頭を土産に購入。

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榛名神社」で願解き(がんほどき)をし、御朱印をもらって帰宅。