中山道旅日記13 浦和駅-恵那駅 (大井宿)

24日目(4月17日(日)) 浦和-大井宿

朝8時39分浦和駅発、隣の南浦和から武蔵野線、中央線、中央西線を経由して恵那へ。新幹線が北海道まで行き、世の中がせかせかと慌ただしく回っている昨今、これはちょっとした贅沢なことなのかもしれない。ふとそんなことを考えているうち午後5時6分恵那駅に到着。

第46宿 大井宿・本陣1、脇本陣1、旅籠41

(日本橋より87里30町8間 約344.95キロ・中津川宿より2里18町 9.82キロ)

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JR恵那駅から高札場跡あたりまで戻り「街道歩き」を再開することとする。電車の線路をくぐると「南無阿弥陀仏」と彫られた碑が立っており、その先は「五妙坂」と呼ばれる急な下り坂になっている。「中山道五妙坂」の碑とともに「高札場跡」が残っている。説明版があり「高札は制札ともいい徳川幕府が、農民や商人を取り締まる基本的なきまりを公示したものである。高札場は村のうち人通りの多い目につきやすい場所に建て、幕府の権威を誇るように石垣や土盛りを築き、ときには矢来で囲むこともあった。そして管理の責任を藩に命じ、村人にきまりを厳しく守らせ、付近の掃除や手入れもさせた。

高札の書き換えは、きまりの改正や老中の交替、年号の変わるたびに行われたが、あまりに頻繁であったため、8代将軍吉宗以後は書き換えず、正徳元年(1711)5月付の高札が幕末まで維持された。そして慶応4年(1868)明治新政府は新しい高札に掛け替えたが、明治3年に高札制度を廃止した。大井宿の高札場はこの坂の上にあり、高さ2間(3.6m)巾2間半(4.5m)の大型のものであった。(この高札場は原寸を3/4に縮小したものである。)」と書かれている。

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道は、坂を下り横町川を渡ったところで桝形になっていて「延壽院横薬師」で直角に曲がり、その先で再び右に直角に曲がる角が「本陣」跡である。「大井宿は中山道46番目の宿場で、整然とした6箇所の桝形のある独特の町並みをしていました。最盛期には45軒余の旅篭があったといわれています。本陣とは大名や公家、幕府の公用役人などが休泊するところで門構えや玄関、式台があり他の旅篭屋とは大きく違っていました。本陣は各街道の宿場に1軒あるところや2軒あるところなどがありました。本陣が満員の時は本陣に準じた施設である脇本陣に休泊しました。大井宿本陣は、残念ながら昭和22年に母屋部分は火災で焼失してしまいましたが、幸いにも本陣の表門周辺は焼け残り、安土桃山様式を伝えるこの門を今に見ることができます。表門は他の本陣に比べるとやや小ぶりですが、屋根は反りをもたせた瓦葺で破風板や小屋組みの細工や彫刻も丁寧に仕上げられています。門の傍らに立つ松は樹齢300年を越すと思われる老松で幾多の大名や公家の姫君達がこの門をくぐったのを見ていた事でしょう。」(説明版による)

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本陣で右折すると右手に「竹矢来」の民家があり、左手に「大井村庄屋の古山家」がある。「古谷家は江戸時代に屋号を「菱屋」といい、酒造と商売をしていました。そして享保年間から幕末まで約一五〇年間、大井村の庄屋を勤めた旧家である。屋敷は間口一〇間半(約19m)・奥行三五間(約63m)の敷地の中に、一四畳・一〇畳・八畳の部屋など合計八室、それに土蔵をもち広大な建物であった。今の建物は明治初年に上宿より移築したもので、前面に太い格子をはめ、はねあげ式の大戸が付き、奥座敷には床の間・違い棚・書院・入側廊下のある一〇畳二間が続き、江戸時代の雰囲気を色濃く残している。」(説明版による)

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宿場町を歩いていくと「宿役人の家(林家)」がある。「林家は文化二年(1805)に本陣家より分家して以来、明治に至るまでの六〇余年間、代々大井宿役人の問屋役を務め、名字帯刀を許された家柄である。当家は間口七間半奥行二五間あり、一一・一〇・八・六・四畳などの部屋が一四室もある大型旅籠屋であった。そのうち東側二間は土壁で境をして、土間に続いて式台付の八畳の部屋三室が特別室となっていた。尚宿役人は問屋(最高責任者)・年寄(問屋の補助役)、その下役人に人足指(人足の指図をする役)・馬指(馬の指図をする役)・書役などがあり、幕府道中奉行の命をうけ道中の荷物や人の輸送・飛脚などの継立事務を行う、宿場の最も重要な役人であった。」(説明版による)、左手に「大井宿下問屋場跡」の説明版に「脇本陣高木家跡」の札がかけられている。「大井宿問屋場は本町上(上問屋)とここ(下問屋)の二か所にあった。問屋場は人や荷物の継立事務を行うところで、宿役人(問屋・年寄)や下役人(人足指・馬指・書役など)が月を半分にして、上問屋と下問屋に交代して勤務していた。宿役人は、大井宿が幕府の命により毎日用意している人足五〇名と馬五〇頭を使い、これでも不足するときは助郷村の人馬を集めて、隣宿の中津川宿や大湫宿まで、主として公用荷客の輸送にあたっていた。

 (大井宿助郷村=東野村・正家村・中野村・永田村・姫栗村・毛呂窪村・蛭川村・ほかに恵那郡内七か村)」(説明版による)。

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その先には、「明治天皇大井行在所跡」「行在所お休み処」がある。

「大井村庄屋の古山家」は有料、「行在所お休み処」は無料で入場できるが今日はすでに閉館していた。

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この先、道はまた桝形になっていて角が「いち川」という旅館で「旅籠屋と木賃宿」の説明版が掛っている。「食事付きで泊まるのは旅籠屋だが食事無しの宿泊は木賃宿である。(説明版)今でいうと1泊2食付きと素泊まりの違いである。すぐ先左手が「大井村庄屋古谷家」で「古谷家」の本家で先ほどの資料館になっていたところは、分家ということだろう。正面に「市神神社」があり、そこを直角に曲がと白木番所跡の説明版置かれている。尾張藩の木曽材木の監視の厳しさを改めて思い知らされる。

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桝形を出て阿木川に架かる大井橋を渡ると商店街になっていて「JR恵那駅」の前の広い道路を左折、今日の泊り「シティホテル・ミチ」へ。大井橋の欄干には、「木曽街道六十九次続き絵」の複製が並んでいる。

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