中山道旅日記 18 赤坂宿-垂井宿-関ケ原宿 1/2

 29日目(4月22日(金)) 赤坂宿-垂井宿-関ケ原宿

岐阜駅7時20分発、大垣経由で美濃赤坂へ。今日は昨日とうって変わっていい天気になった。

第56宿 赤坂宿・本陣1、脇本陣1、旅籠17

(日本橋より110里1町8間 約432.1キロ・美江寺宿より2里8町 8.7キロ)

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4月21日付で書き忘れたのだが、赤坂宿入り口に東の「赤坂宿御使者場跡」の碑が立っている。「御使者場」とは、大名や公家など偉い人物が通る時、宿役人や名主が出迎えに来た場所のことである。

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さて、JR美濃赤坂駅からすぐのところに「御茶屋跡」がある。慶長十年(1605)関ケ原の合戦で勝利した徳川家康は天下統一を果たすと東海道中山道に将軍専用の宿泊施設「御茶屋屋敷」を造った。ここは現在残っている数少ない「御茶屋跡」だそうだ。

「史跡 お茶屋敷跡・ここは慶長九年(1604)徳川家康織田信長の造営した岐阜城御殿を移築させた将軍専用の休泊所跡である。
お茶屋屋敷は中仙道の道中四里毎に造営され、周囲には土塁、空濠をめぐらしその内廓を本丸といい厳然とした城郭の構えであった。現在ここが唯一の遺構でその一部を偲ぶことができる交通史上重要な遺跡である。 大垣市教育委員会)(説明版)

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御茶屋跡を出て、赤坂宿入り口まで戻る。美江寺宿からくると「杭瀬川」を渡り赤坂宿に入る。昨日、雨の中を急ぎ足で通り過ぎた所だ。杭瀬川は、古くは平治の乱に敗れた源義朝が柴舟でこの川を下ったのだそうだ。

杭瀬川を渡ると常夜灯があり「赤坂港跡」の碑が立っている。その横には「赤坂港会館」と呼ばれる資料館がある。

赤坂港は、杭瀬川の水利を利用して物資などを輸送する目的で設けられた。

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先に進み、線路を越えた左手に「本陣跡」の公園がある。皇女和宮もこの本陣に泊まったそうで、約二百四十坪の立派な本陣であったそうだが残念ながら今は残っていない。

公園には、和宮の「碑文」も置かれている。

「本陣跡・当所は、江戸時代、大名・貴族の旅館として設置された中山道赤坂宿の本陣であった。間口二十四間四尺、邸の敷地は二反六畝二十九歩、建物の坪数は、およそ二百三十九坪あり、玄関・門構えの豪勢なものであった。寛永以降、馬渕太郎左ヱ門に次いで、平田又左ヱ門が代々本陣役を継ぎ、天明、寛政のころ暫く谷小兵衛が替ったが以後、矢橋広助が二代に及んで明治維新となり廃絶した。

文久元年十月二十五日、皇女和宮が、ここに泊した事は余りにも有名である。

昭和六十年八月 大垣市赤坂商工会観光部会」(説明文)

「碑文・和宮は弘化3年仁孝天皇の皇女として誕生された。万延元年幕府は公武合体により朝幕の融和を図ろうと皇女和宮の降嫁を請願した。孝明天皇は憂慮され、殊に和宮は、有栖川宮熾仁に親王との婚約があり、近く婚儀が実現されることになっていたので、その奏請を却下されたが、時局の困難が相次ぐので、やむなく許可されることになった。
かくて翌文久元年10月20日京都出発、道を中山道にとり25日、ここ赤坂本陣に宿泊され、11月15日江戸に到着、十四代将軍家茂の夫人となられた。時に家茂は和宮と同年の16才であった。
- 惜しまじな君と民との為ならば身は武蔵野の露と消ゆとも -
和宮は、江戸城大奥の生活に耐え、よく夫君家茂に仕えられたが、長州征伐の陣中で、夫君は不帰の客となった。その時和宮は21才、悲涙に咽ばせられながら詠まれた歌に
- 空蝉の唐織ごろもなにかせむ綾も錦も君ありてこそ -
明けて慶応3年の大政奉還、鳥羽伏見の戦い、江戸城攻撃と相つぐ動乱の中で婚家のため世のため民のため心魂を砕かれた生きざまは、まさに女性の鑑である。
その遺徳を偲び、降嫁の折り宿泊されたこの地に碑を建立し、永くその生涯を語り継ぐも

のである。 日比野仙三 識 平成元年10月25日 皇女和宮保存会」(皇女和宮碑文)

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本陣跡公園の先は少し「桝形」になっていて交差点には「たにくみ道道標」が置かれている。ここには、西国三十三カ所「谷汲山華厳寺」へ向かう「谷汲街道」、伊勢に向かう「養老街道」そして中山道の追分である。華厳寺は、江戸時代から西国三十三カ所の「満願成就の寺」として信仰があつくここから多くの信者が寺へ向かったのだという。

ここには「中山道赤坂宿」の碑や「谷汲観音常夜灯」も置かれている。

「東 美江寺へ二里八町 西 垂井へ一里十二町

近世江戸時代、五街道の一つである中山道は、江戸から京都へ百三十一里の道程に六十九次の宿場があり、美濃赤坂宿は五十七番目に当たる。大名行列や多くの旅人が往来し、また荷物の輸送で交通は盛んであった。町の中心にあるこの四ッ辻は北に向う谷汲巡礼街道と、南は伊勢に通ずる養老街道の起点である。東西に連なる道筋には、本陣、脇本陣をはじめ旅籠屋十七軒と商家が軒を並べて繁盛していた。

昭和五十八年三月 史跡赤坂宿環境整委員会 大垣市赤坂商工会 大垣市」(赤坂宿・説明版)

交差点の向こう左角に立派な古民家があるが、ここは最後の本陣を務めた「矢橋家」で「有形文化財」に指定されている。

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矢橋家のすぐ先が「脇本陣跡」である。今は「榎屋」屋号を掲げ旅館を営んでいるが当時は「問屋」も兼ねていて本陣の予備的役割を果たしていたのだという。

「江戸時代、中山道赤坂宿の脇本陣は、当家一ヶ所であった。大名や、貴族の宿舎である本陣の予備に設立されたもので、本陣同様に処遇され屋敷は免税地であり、領主の監督を受けて経営されていた。当所は宝暦年間以後、飯沼家が代々に亘り脇本陣を勤め、また問屋、年寄役を兼務して明治維新に及び、その制度が廃止後は独立し、榎屋の家号を用いて旅館を営み今日に至っている。昭和六十年八月 大垣市赤坂商工会観光部会」(脇本陣・説明版)

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脇本陣の一軒先には「五七」と大きな看板を掲げた休憩所があるが営業時間は11時からでまだ開店前であった。(今は9時15分)

「五七」の隣が「嫁入り普請探訪館」と呼ばれる建物である。和宮降嫁(こうか)の際、平屋だけの宿場を見て随分田舎に来てしまったと嘆くのではないかと急遽二階建て風に普請したのだそうだ。和宮の降嫁は中山道のあらゆる宿場に多かれ、少なかれ(たぶん大きな)影響を与えたようである。

「お嫁入り普請とは、文久元年(1861)の和宮降嫁のとき、大行列一行が宿泊しましたが、赤坂宿ではそのために54軒もの家が建て直されました。それを「お嫁入り普請」と言います。短期間での建築工事であったため、街道沿いの表側だけが二階建てという珍しい家であり、数は少なくなりましたが、現在も残っている家があります。」(中山道赤坂宿まちづくりの会・説明版より)

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「五七」からしばらく行くと西の「赤坂宿御使者場跡」の碑があり横に「兜塚」の説明版が立っている。このあたりが赤坂宿の出口である。

「兜塚・この墳丘は、関ヶ原決戦の前日(一六〇〇年九月十四日)、杭瀬川の戦に笠木村で戦死した東軍、中村隊の武将の一色頼母を葬り、その鎧兜を埋めたと伝えられている。以後、この古墳は兜塚と呼ばれている。 大垣市教育委員会」(兜塚・説明版)

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「続膝栗毛」では、赤坂宿の茶店で弥次喜多は、旅の男に銅銭と二朱銀の交換を頼まれる。茶店のおやじの話ではこのあたりの相場は、二朱銀は銅銭で八百七十文だという。(当時、金、銀、銭の交換率は相場でかなり変動する。)男が二朱銀を九百五十文で買うというので二朱銀を渡してやると「これは、銅脈(地銀を銅で作って金や銀で鍍金したもの)の偽銀貨だという。弥次さんは別の二朱銀を男に渡すと、男は九百五十を置いてそそくさと立ち去った。喜多さんが先に渡した本物の二朱銀を偽銀貨とすり替えられたことに気付いて男の後を追うがもう影もかたちも見えなかった。

― 一貫の銭おば棒にふりもせで われに動脈かつがせにけり -

赤坂宿を出て15分程行くと「昼飯町」と呼ばれるところがある。「昼飯」とは変わった地名だと思っていると先にある「如来寺」の入り口にその由来の説明版が立っていた。

「昼飯町の由来・むかし、善光寺如来という仏像が大阪の海から拾いあげられ、長野の善光寺へ納められることになりました。
その仏像をはこぶ人々が、青墓(あおはか)の近くまで来た時は五月の中頃でした。近くの山々は新緑におおわれ、つつじの花が咲き乱れ、すばらしい景色です。善光寺如来を運ぶ一行も、小さな池のそばで、ゆっくり休み、美しい景色にみとれました。一行はここで昼飯(ひるめし)をとりました。
それからこの付近を昼飯(ひるめし)と言うようになりましたが、その名が下品であると言うので、その後、飯の字を「いい」と音読みにして、「ひるいい」と呼ばれるようになりましたが、「いい」は言いにくいので、一字を略して「ひるい」と呼ばれるようになりました。又、ここの池は一行が手を洗ったので、「善光寺井戸」と言われ、記念に植えた三尊杉の木も最近まで残っていたということです。(大垣市史 青墓篇より)」

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如来寺」からJRの高架をくぐり10分ばかり行き案内通りに左手少し行くと「照手姫水汲井戸と刻まれた碑が立っている。その後ろに井戸があり説明版も添えられている。

伝承地 照手姫の水汲み井戸
「伝説 照手姫・昔、武蔵・相模の郡代の娘で照手姫という絶世の美人がいました。この姫と相思相愛の小栗判官正清は郡代の家来に毒酒を飲まされ殺されてしまいました。照手姫は、深く悲しみ家を出て放浪して、青墓の大炊長者のところまで売られて来ました。
長者は、その美貌で客を取らせようとしますが、姫は拒み通しました。怒った長者は一度に百頭の馬にえさをやれとか、籠で水を汲めなどと無理な仕事を言いつけました。
一方、毒酒に倒れた正清は、霊泉につかりよみがえり、照手姫が忘れられず、姫を探して妻にむかえました。この井戸の跡は、照手姫が籠で水を汲んだと伝えられるところです。大垣市教育委員会」(説明版)

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街道に戻ると右手に「小篠竹(こざさだけ)の塚」と呼ばれる塚がある。

「青墓にむかし照手姫という遊女あり。この墓なりとぞ。

照手姫は東海道藤沢にも出せり。その頃両人ありし候や詳ならず。(木曽路名所図会より)

また、「青墓」は美濃路の歌枕でもある。

- 一夜見し人の情にたちかえる 心に残る青墓の里 -  慈円

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また、ここには傘をかぶったお地蔵さまが祀られており、横に「青墓の芦竹庵(よしたけあん)」の説明版が立っている。さらに源義経が詠んだという歌碑が置かれている。

- 挿しおくも(さしおくも)形見となれや後の世に 源氏栄えば芦竹(よしたけ)となれ -

「青墓の芦竹庵(よしたけあん)

 牛若丸(後の義経)が、京都の鞍馬山で修業を終え金売吉次をお供にし、奥州(今の東北地方)へ落ちのびる時、円願寺(円興寺の末寺)で休み、なくなった父や兄の霊を供養し、源氏が再び栄えるように祈りました。その時江州(今の滋賀県)から杖にしてきたあしの杖を地面につきさし、「さしおくも 形見となれや 後の世に 源氏栄えば、よし竹となれ」の歌を詠み東国へ出発しました。
 その願いが仏様に通じたのか、その後、杖にしてきたよしが、大地から芽をふき根をはりました。そしてみごとな枝に竹の葉が茂りましたが、しかし根や幹はもとのままのよしでした。このめずらしい竹はその後もぐんぐんと成長し続けました。それでこのめずらしい竹を「よし竹」と呼び、この寺をよしたけあんと呼ぶようになりました。(青墓伝説より)」

「圓願時・芦竹庵」の碑の横に置かれている碑には以下のように彫られている。

美濃國青墓里長者屋敷

照手姫の汲給ひし清水

 源義経の挿給ひし芦竹

 照手姫守本尊千手観音

    昭和五年木山書

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「芦竹庵」のすぐ先の橋のたもとに「中山道・青墓宿」と書かれた碑が立っている。

これは、古く平安の時代から東山道の宿場があった所で「保元物語」や「平治物語」にもその記述がある。この碑は東山道時代の名残である。

さらに10程行くと右手に「国分寺道」「薬師如来御寶前」と彫られた道標が立てられている。その先10分程の処に常夜灯があり「中山道一里塚跡」の碑が立っている。百十九番目の「青野の一里塚跡」である。

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一里塚跡をあとにしてしばらく行くと「平尾御坊道」と彫られた碑が置かれている。そこから15分ほど先には「喜久一九稲荷神社」がある。そのすぐ先が中山道美濃路を通って東海道へ抜ける追分で「中山道」「美濃路」と彫られた木の碑の後ろに「是より右東海道大垣みち 左木曽海道たにぐみみち」と彫られた道標が立っており説明版が添えられている。

「「垂井追分道標」垂井宿は中山道東海道を結ぶ美濃路の分岐点にあたり、たいへんにぎわう宿場でした。追分は宿場の東にあり、旅人が道に迷わないように自然石の道標が建てられた。道標は高さ⒈2m、幅40cm、表に『是より 右東海道大垣みち 左木曽海道たに ぐみみち』とあり、裏に『宝永六年己丑十月 願主奥山氏末平』と刻まれている。

この道標は宝永六年(1709)垂井宿の問屋奥山文左衛門が建てたもので、中山道にある道標の中で七番目ほどの古さである。また、ここには高さ2mの享保三年(1718)の角柱の道標もあった。 平成二十一年一月 垂井町教育委員会」(説明版)

追分には、表に「追分庵」と書かれた店があるが今も営業しているのだろうか。

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中山道から美濃路に入り「美濃路の松並木」を30分程歩くと「小学校」の道標が目に入る。そこを左にはいると「東小学校」がありその横が古墳時代の末期の円墳といわれる「綾戸古墳」である。この古墳は、「日本書紀」や「古事記」その他古記に書かれている大和朝廷初期に活躍した「武内宿禰」の墓であると伝えられているようだが真偽のほどは定かではない。

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芭蕉や谷木因(たに・ぼくいん=芭蕉の友人)の句碑も置かれている。

- わるあつく ふくやひと木の 松の音 - 芭蕉

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- 大切の 名をぬすまるゝ ゆきの松 - 谷木因

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さらに、ここは平安時代の大盗賊「熊坂長範・物見の松伝説」の場所でもある。

平安時代に熊坂長範という大盗賊がいて、この古墳の松の木から、東山道鎌倉街道を行き交う獲物の旅人を狙っていたことから、「物見の松」と呼ばれていたのだそうだ。

この熊坂長範は、鞍馬から奥州へ下る金売吉次一行を襲い、同行していた牛若丸(のちの義経)に返り討ちにあったという伝説が残っていて「謡曲「熊坂」と長範物見の松」の説明版が立てられている。

「熊坂長範(張範とも)は平安末期の大盗といわれ美濃国赤坂で、鞍馬から欧州へ下る金売吉次一行を襲い、同行していた牛若丸(のちの義経)にかえって討たれたという伝説的な人物ですが、これを脚色したのが謡曲「熊坂」です。牛若丸が強盗を切ったことは「義経記」などにも書かれていますがこれ等を参考にしてえがかれたのが謡曲でしょう。

その長範がめぼしい旅人を物色するため様子をうかがっていたというのが、この一本松で「物見の松」といわれています。松のある所は中仙道と東海道が左右に走る中間にあり、昔は草ぼうぼうの青野ヶ原だったといわれていますが、今も当時の面影を残しています。付近は古墳で、かって濠があったといいます。」(説明版)

説明版の「中仙道と東海道が左右に走る中間」は「中仙道と東山道」の間違いか?

熊坂長範は続膝栗毛にも登場する。垂井宿を早立ちした弥次喜多は道の辻堂で夜を明かそうとする。その後で逢引の男女がこの辻堂に入ってきて弥次喜多に気付き一目散に逃げていく。

「ここ(辻堂)をすぎて、青のがはらにいたる。ここにくまさかがもの見のまつのあとあり。」

- 熊坂は名のみ残れり松枝を さしてのぼれる月の輪の照る -

この狂歌は、熊坂長範と虎視眈々と獲物を狙う月の輪熊をかけている。

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中山道に戻り、追分を後にして相川に架かる「相川橋」を渡れば「垂井宿」だが橋を渡った所に「相川の人足渡し跡」の説明版が立てられている。

「相川は、昔から暴れ川で、たびたび洪水がありました。そのため、江戸時代初期には人足渡しによる渡川が主でした。川越人足は垂井宿の百姓がつとめ、渡川時の水量によって渡賃が決められていました。一方、姫宮や朝鮮通信使など特別の大通行のときには木橋がかけられました。 垂井町」(説明版)

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第57宿 垂井宿・本陣1、脇本陣1、旅籠27

(日本橋より111里13町8間 約437.3キロ・赤坂宿より1里12町 5.2キロ)

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「垂井宿」は、中山道美濃路の分岐点であり、古くから交通の要衝として栄えた。

宿場は、西町・中町・東町の3町からなり、本陣は中町にあった。問屋場は3か所で、毎月5と9の日に南宮神社鳥居付近で開かれた六斎市は大いに賑わったそうである。文化年間に建てられた油屋宇吉家跡などの旧家が現在もその姿をとどめ、宿場町の趣を感じることができる。

木曽路名所図会」には「駅中東西六十七町許相対して巷をなす。其余散在す。此辺都会の地にして、商人(あきんど)多し。宿中に南宮の大鳥居あり。」と記されている。

宿場に入ると垂井宿案内マップ、垂井宿碑、東の見附説明版が立っている。

「東の見付・垂井宿は中山道の始点、江戸日本橋から約四四〇キロメートル、五八番目の宿になります。

見付は宿場の入口に置かれ、宿の役人はここで大名などの行列を迎えたり、非常時には閉鎖したりしました。

この東の見付から約七六六メートルにわたり垂井宿が広がり、広重が描いたことで知られる西の見付に至ります。垂井町」(東の見附説明版)

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宿場に入りしばらく行くと「紙屋塚」があるということで案内に沿って左の路地を入ってみたが路地の奥でなかなかわかりにくいところにあった。

「古来紙は貴重品であり奈良時代には紙の重要な生産地を特に指定して国に出させた。国においては、戸籍の原簿作成に重要な役割をはたした。ここの紙屋も府中に国府がおかれた当時から存在し、室町頃まで存続したと考えられる。

 又当初は国営の紙すき場と美濃の国一帯からあつめられた紙の検査所の役割をはたしてものと考えられる。一説には美濃紙の発症地とも言われている。垂井町教育委員会」(説明版)

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その先は桝形になっており右手に「旧旅館・亀丸屋」があり、説明版が立っている。

「亀丸屋西村家は、垂井宿の旅籠として、二百年ほど続き、今なお、当時の姿を残して営業している貴重な旅館である。

 安永六年(1777)に建てられた間口五間・奥行六.五間の母屋と離れに上段の間を含む八畳間が三つあり、浪花講、文明講の指定旅館であった。当時は南側に入口があり、二階には鉄砲窓が残る珍しい造りである。 垂井町」(説明版)

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すぐ先が「問屋場跡」向かいが「海渡屋」「本陣跡」が並んでいる。

「本陣は、宿場ごとに置かれた大名や公家など重要な人物の休泊施設です。

 ここは中山道垂井宿の本陣があったところで、寛政十二年(1800)の記録によると、建物の坪数は一七八坪で、玄関や門、上段の間を備える広大なものでした。垂井宿の本陣職をつとめた栗田家は、酒造業も営んでいました。

 本陣の建物は焼失しましたが後に再建され、明治時代には学習義校(現在の垂井小学校)の校舎に利用されました。 垂井町教育委員会」(本陣跡・説明版)

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さらに、美濃国一宮「南宮大社」の大鳥居が左手にある。

「寛永十九年(1642)徳川家光将軍の寄進により南宮大社が再建された中で、明神型鳥居は約四〇〇両の金で、石屋権兵衛が建てた。横幅(内側)454.5cm、頂上までの高さ715cm、柱の周り227cm。一位中山金山彦大神の額は、延暦寺天台座主青蓮院尊純親王の筆蹟である。垂井町」(南宮大社大鳥居・説明版)

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大鳥居をくぐり左手に行くとそこには「垂井の泉」と呼ばれるところがある。

ここは、美濃国の歌枕でもある。

木曽路名所図会に「この清水は特(こと)に清冷にして味ひ甘く、寒暑の増減なし。ゆききの人、渇をしのぐに足れり。浅々(せんせん)たる清泉鏡(せいせんかがみ)に似るという梅聖愈(ばいせいゆ)が詩のこころに近し」と記されている。

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「垂井の泉」を題材にした歌には、以下のようなものがある。

- あさはかに 心なかけそ 玉すたれ たる井の水に袖もぬれなむ - 一条兼良
- 昔見し たる井の水はかわらねど うつれる影ぞ 年をへにける - 藤原隆経朝臣
- 我が袖の しずくにいかがくらべ見む まれにたる井の 水の少なさ - 参議為相卿

- 小夜風のつもる木の葉の下くぐる 水のたる井の うす氷かな - 尊海僧正

- 里人もくみてしらずやけふ爰(ここ)に たる井の水の 深き恵みを -飛鳥井雅世

芭蕉もここで一句詠んでおり句碑が置かれている。

- 白く(ねぎしろく) 洗いあげたる 寒さかな - 松尾芭蕉

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ここには、大ケヤキがあり説明版が添えられている。

「垂井の泉と大ケヤキ・この泉は、県指定の天然記念物である。大ケヤキの根元から湧き出し、「垂井」の地名の起こりとされる。「続日本紀天平十二年(740)十二月条に見える、美濃行幸中の聖武天皇が立ち寄った「曳常泉」もこの場所と考えられており、古くからの由緒がある。近燐の住民たちに親しまれる泉であっただけでなく、歌枕としても知られ、はやく藤原隆経は

   昔見し たる井の水は かはらねど うつれる影ぞ 年をへにける 『詞花集』

と詠んでいる。のちには芭蕉

   「葱白く 洗ひあげたる 寒さかな」

という一句を残している。岐阜県名水五十選(昭和61年)に選ばれている。

 この大ケヤキは、樹齢約八百年で、高さ約20メートル、目通り約8.2メートル。このようなケヤキの巨木は県下では珍しい。この木にちなんで、木が堅くて若葉の美しいケヤキを垂井の「木」とした。」(説明版)

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街道にもどるとすぐ先に旧旅館「長浜屋」がある。ここはお休み処になっている。

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その先には「本龍寺」がある。この寺の山門は西町にあった脇本陣門を玄関と共に明治初期に移したものだそうだが脇本陣自体は、今は残っていない。また、高札場跡は山門左前にあり、人馬賃、キリシタン禁止などの告知板がかけられていた。

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松尾芭蕉はこの寺の住職「玄潭」と親交が深く、住職の招きにより元禄四年にこの寺に冬籠りをした。境内には芭蕉の句碑を初めいくつかお句碑が置かれている。

- 作り木の庭をいさめるしぐれ哉 - 芭蕉

- 木嵐に手をあてて見む一重壁 - 規外(玄潭の俳号)

- いささらば 雪見のころぶ処まで - 翁

句碑群の横には芭蕉の木造が収められている「時雨庵」があるが、これは獅子門美濃派の俳人・国井化月坊が江戸時代末期に建立したもので芭蕉が冬籠りをしていた場所ではない。

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本龍寺の向かいには、「江戸時代の商家・油屋」がある。

「この商家は、文化末年(1817年頃)建てられた間口5.5間、奥行6間の油屋卯吉(宇吉)の家で、当時は多くの人を雇い、油商売を営んでいた。明治以後、小林家が部屋を改造し亀屋と稱して(しょうして)旅人宿を営んだ。

 土蔵造りに格子を入れ、軒下にはぬれ蓆をかける釘をつけ、宿場時代の代表的商家の面影を残す貴重な建物である。 垂井町」(説明版)

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この先は緩やかな上り坂となり、坂を上ると「西の見附跡」がある。

「垂井宿 西の見付と広重の絵

一、西の見付
  垂井宿の西の入口で大名行列を迎えた。非常事態発生の時、閉鎖した。

二、安藤広重の垂井宿の絵

  広重がこの付近から西を見て、雨の降る中山道松並木の中を、大名が行列をつくり、西より垂井宿の西の見付へ入ってくる様子や本陣からの出迎え、茶店の様子も左右対称的によく描いた版画の傑作である。 垂井町」(説明版による)

その横に地蔵堂があり「八尺堂地蔵尊道」の碑が立っている。

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西の見付を後にして前川橋を渡り、5分程行くと「松島稲荷神社」がある。

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先の東海道本線の踏切を渡り、国道21号線の歩道橋で越えて旧道に入り少し行くと道の傍らに「南宮近道八丁」の碑が置かれている。

その先に日守の茶所があり説明板が添えられている。

「日守の茶所・江戸末期に、岩手の美濃獅子門化月坊が、中山道関ヶ原山中の芭蕉ゆかりの地(常盤御前墓所)に秋風庵を建てた。それを明治になって、一里塚の隣りに移し、中山道を通る人々の休み場として、昭和の初めまで盛んに利用された。

 また、大垣新四国八十八ヶ所弘法の札所とし、句詠の場としても利用された貴重な建物である。 垂井町」(説明版)(ここでいう岩手は垂井町岩手)

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茶所の隣には見事な一里塚が残っている。「垂井の一里塚」と呼ばれる百十二番目の一里塚で説明版が添えられている。説明版には「浅野幸長陣後」の説明も併記されている。

「垂井一里塚・徳川家康は、街道整備のため、慶長九年(1604)に主要街道に一里塚の設置を命じた。これにより、江戸日本橋を基点として一里(四キロ弱)ごとに、五間(約九メートル)四方、高さ一丈(約三メートル)、頂に榎を植栽した塚が道を挟んで二基ずつ築かれた。垂井一里塚は、南側の一基だけがほぼ完全に残っている。

 旅人にとっては、人夫や馬を借りる里程を知り、駄賃を定める目安となり、その木陰は格好の休所となった。

 国の史跡に指定された一里塚は、中山道では東京都板橋区志村のそれと二か所だけであり、交通史上の重要な遺跡である。」

「浅野幸長陣所跡 関ヶ原の戦い

 幸長(よしなが)は、五奉行の一人であった浅野長政の嫡男で、甲斐府中十六万石の領主であった。

 関ヶ原の戦いでは、豊臣秀吉恩顧でありながら石田三成と確執があったため東軍に属し、その先鋒を務め、岐阜城を攻略。本戦ではこのあたりに陣を構え、南宮山に拠る毛利秀元ら西軍勢に備えた。戦後、紀伊国和歌山三十七万六千石を与えられた。

平成十八年十一月 垂井町教育委員会」(説明版)

浅野幸長の父・浅野長政織田信長の弓衆で叔父の浅野長勝の婿養子。既に長勝の養女になっていた、ねね(寧々)(秀吉の正室・のちの北政所、高台院)の義弟である。

関ヶ原後、論功行賞により清洲より安芸・備後二ヵ国を有していた豊臣恩顧の大名・福島正則の失脚により紀州藩より入封したのが長政の次男・浅野長晟(あさのながあきら)で江戸・元禄時代のビッグイベント「忠臣蔵」の播州赤穂・浅野はその分家に当たる。

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一里塚を後に後に国道21号を横切って歩いていくと「ここは中山道垂井宿」の立て札と続いて「ここは中山道 関ケ原」の碑が立っている。

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その後、関ケ原宿に入り古戦場、「石田三成の陣跡・笹尾山」へ行ったが、関ケ原については次回とする。

昨日の雨と古戦場、笹尾山などでかなりの時間を使ってしまったので当初の予定を変更し、JR関ヶ原駅から帰宅した。(柏原宿まで行きたかったのだが)

 

番外 (2016年9月2日)

ところで垂井と言えば、秀吉の軍師「竹中半兵衛」ゆかりの地である。

9月2日(金)に垂井を再訪し、竹中半兵衛ゆかりの地を訪ねてみた。

秀吉が三顧の礼を以て迎え入れた竹中半兵衛は、戦国時代を代表する軍師で、中国・三国志の蜀の軍師・諸葛孔明を連想させる。羽柴秀吉旗下では黒田官兵衛とともに「両兵衛」「二兵衛」と称された。外見は「その容貌、婦人の如し」と史料に書かれているほどの美男子であったという。そのためか智略に長けた文の武将というイメージが強いが武術においても非凡な才能を持っていた美丈夫というべきである。

竹中半兵衛は、稲葉山城主斎藤竜興に仕えていた永禄7(1564)年,竜興の酒と女におぼれた政治にたまりかね、わずか十数名で稲葉山城を乗っ取ったことは有名な話である。

その後、城は竜興に返したがそのまま蟄居し,隠棲しているところを秀吉に迎えられる。

竹中半兵衛に関しては、軍功に関する逸話が多く残っている。

中山道・垂井宿の北、菩提山城の南に「五明稲荷神社」がある。

天正六年(一五七八年)岩手城主、竹中半兵衛公が三木城攻略中、摂津有岡城主、荒木村重織田信長に反旗を翻した。半兵衛公の親友である黒田官兵衛が説得にあたったが、かえって石牢に幽閉されてしまった。主君である織田信長は官兵衛も寝返ったかと思いこみ人質にしていた官兵衛の嫡男・松寿丸を殺すように命じた。半兵衛公は官兵衛に二心はないと信じて松寿丸を五明にかくまった。その後、有岡城から官兵衛が助け出されると、松寿丸も許され岩手を去るとき、境内に銀杏の木を植えたと伝えられている。
現在もここには銀杏の巨木があります。言い伝え通り樹齢は420年以上だと思います。」
と説明版に記されている。これは「秀吉」を扱った物語、ドラマには必ず出てくるエピソードである。

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垂井駅前にある観光協会でもらった地図に従い20分程あるくと「菁莪記念館(せいがきねんかん)がある。ここは、竹中半兵衛に関する資料等が展示されている。(入館は無料)入り口には「国井化月坊」の句碑が置かれている。

美濃派一五世 - 月の後 残した藪の梅白し - 春香園(化月坊の号)

(国井化月坊は竹中家の家臣だそうである。)

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菁莪記念館の隣が岩手公民館で入り口に珍しい「さざれ石」が置かれている。

国家・君が代の「千代に八千代にさざれ」のさざれ石である。

公民館のすぐ先には、「竹中氏陣屋跡」がある。

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そこから5分弱あるくと「竹中氏菩提所 禅幢寺」がある。寺の裏には竹中半兵衛の墓がある。」説明版が立っており「豊臣秀吉公の軍師として活躍した竹中半兵衛重治公は、天生七年(一五七九)播州三木の陣で病没。当時の重治公の墓は、天生十五年(一五八七)父の菩提を弔うため長男重門公が三木から移葬したものである。」と書かれている。

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今回は、ここまで。