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中山道旅日記 21 関ケ原宿-今須宿-柏原宿-醒井宿-番場宿-鳥居本宿

 若宮八幡神社から街道に戻りしばらく歩くと国道21号に歩道橋が架かっている。歩道橋を渡たってさらに行くと街道の下に川が流れていて「黒血川」の説明版が立っている。

≪黒血川≫

壬申の乱672)で、ここ山中の地では両軍初の衝突が起きています。

七月初め大友軍は精鋭を放って、玉倉部邑(たまくらべのむら)(関ヶ原町玉)を経て大海人軍の側面を衝く急襲戦法に出てきました。しかし、大海人軍はこれを撃退、その後この不破道を通って近江へ出撃して行ったのです。

この激戦で、両軍の兵士の流血が川底の岩石を黒く染めたことから、この名が付き、その時の凄い(すざまじい)様子を今に伝えています。この川は、青野ケ原や関ケ原の戦い等、古来軍事上屡々利用されてきました。関ヶ原町」(説明版)

木曽路名所図会」には「黒血川・今須の東、山中村の北の方の流れをいふ。川幅いと狭し。

- 立よりて 見れば名のみそ黒血川 黒き筋なき滝の糸かな -(富士紀行・堯孝)

とある。

また、黒血川は太平記にも出てくる。

太平記 巻第十九(その二)」

「青野原軍事付嚢沙(のうしゃ)背水事」

(青野原の合戦のことと、 韓信が土嚢を使って背水の陣を布いたこと)

「さらば時刻をうつさず向へ。」とて、大将軍(足利尊氏)には高越後守師泰・同播磨守師冬・細川刑部大輔頼春・佐々木大夫判官氏頼・佐々木佐渡判官入道々誉・子息近江守秀綱、此外諸国の大名五十三人都合其勢一万余騎、二月四日都を立、同六日の早旦に、近江と美濃との堺なる黒地河に著にけり。奥勢も垂井・赤坂に著ぬと聞へければ、こゝにて相まつべしとて、前には関の藤川を隔、後には黒地川をあてゝ、其際に陣をぞ取たりける。」(「決まった以上、早急に進発しよう」と言って、大将軍には高越後守師泰、同じく播磨守師冬、細川刑部大輔頼春、佐々木大夫判官氏頼、佐々木佐渡判官入道道誉、その子息、近江守秀綱らと、それ以外に諸国の大名五十三人を加え、総勢一万余騎が延元三年(暦応元年:1338年)二月四日、都を出発して、同じく六日の早朝に近江と美濃の国境、黒地川に着いた。奥州勢も垂井、赤坂に到着したらしいと聞くと、ここで待ち受けることにして、関の藤川を前に、後ろは黒地川を背に陣を構えた。)(中国の楚韓戦争(項羽と劉邦の戦い=紀元前206202)で項羽軍四十万余の兵に追われた時、大河を背にして陣を構えた劉邦の将軍・韓信の戦法に習ったもの。)

さて、黒血川の先には「鶯の滝」と呼ばれる江戸時代の名所がある。「この滝は、今須峠を上り下りする旅人の心を癒してくれる格好な場所でした。」と説明版に書かれている。

山中村は東山道の宿駅として栄えた所でこのあたりも立場として大いに賑わったそうである。

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 すぐ先の二股道を右に入ると「常盤御前の墓」がある。

「都一の美女と言われ、十六歳で義朝(源義朝)の側室となった常盤御前。義朝が平治の乱で敗退すると、敵将清盛の威嚇で常盤は今若、乙若、牛若の三児と別れ一時期は清盛の愛妾にもなります。伝説では、東国に走った牛若の行方を案じ、乳母の千草と後を追って来た常盤は、土賊に襲われて息を引き取ります。哀れに思った山中の里人が、ここに葬り塚を築いたと伝えられています。 関ヶ原町」(説明版)

常盤御前の墓の後ろに句碑が二基置かれている。

碑(左・表)「義ともの心耳 似多里秋乃 可世」者世越翁(はせをおう)

      「義ともの心に似たり秋の風」 芭蕉

碑(左・裏)「希尓風の 音も春み介李 阿支乃松」 春香園

      「げに風の音も澄みけり秋の松」 春香園

碑(右)  「その幹尓牛も かくれて佐くら哉」 七十六叟(おきな) 化月坊

      「その幹に牛もかくれてさくらかな」 化月坊

「寛政六年(1794)二月、垂井町岩手生まれの化月坊(本名国井義睦・通称喜忠太)は、旗本竹中氏の家臣であった。文武両道にすぐれ、晩年は俳諧の道に進出した。安政四年(1857)獅子門(翁の高弟各務支考を祖とする一派=美濃国が支考の生国で、活動の中心地だったため美濃派ともいう)十五世を継承、時に六十四歳。化月坊は美濃派再興のため、芭蕉ゆかりの各地に、芭蕉の句碑を建てた。文久二年(1862)、ここ山中集落常盤塚の傍らにも翁の句碑を建てたが、自作の句も碑裏に刻んでいる。」(説明版より)

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そこから5分程行くと小さな祠があり「常盤地蔵」の説明版が立っている。

この地で不幸に見舞われた常盤は、「義経がきっとこの地を通って都へ上る筈、その折には道端から見守ってやりたい。」と、宿の主人に形見の品を手渡し、息を引き取った。時に常盤四十三歳。宿の主人は、常盤の願いが叶うように街道脇に塚を築き手厚く葬った。後に常盤を哀れに思った村人は、無念の悲しみを伝える「常盤地蔵」を塚近くに安置し末永く供養した。寿永二年(一一八三)義経上洛の時、母の塚と地蔵前でしばし母・常盤の冥福を祈ったという。

常盤御前といえば、個人的にはNHK大河ドラマ「新・平家物語」の若尾文子のイメージが強いのだが。

「木曽名所図会」には、「常盤御前墓・今須の東、山中村の北側、民家の傍らにあり。」とある。

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先へ進もう。街道はやがて今須峠にさしかかる。約1キロほど上ると峠の頂上で、

一条兼良室町時代の古典学者)はその旅日記「藤川の記」でこの峠を「堅城と見えたり、一夫関(いっぷかん)に当たれば万夫(ばんぷ)すぎがたき所というべし」と書いている。

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峠を下ると街道は国道21号線に合流し、左側に一里塚跡が見えてくる。「今須の一里塚」である。

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中山道は一里塚の先から国道脇を下っていくことになる。「これより中山道今須宿」の道標が立っている。「今須宿」の入り口である。

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59宿 今須宿・本陣1脇本陣2、旅籠13

(日本橋より113278間 約446.7キロ・関ケ原宿より1里 約3.9キロ)

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今須宿は美濃路16宿最後の宿場で、歴史的にはこの地方の守護代として勢力を持っていた長江重景が母、妙応尼の菩提を弔うために妙応寺が建てられ、それ以来門前町として発展し、江戸時代宿場としては美濃国近江国の境の宿として栄えた。

宿場に入りすぐ今須宿の碑と本陣跡・脇本陣跡の説明板が立っている。石碑の正面には「中山道 今須宿」、右面に「右 柏原宿一里」、左面に「左 関ヶ原宿一里」と彫られていたる。

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右奥には国道とJRの線路をくぐるトンネルが見え、トンネルをくぐると妙応寺がある。

寺の境内には珍しい「さざれ石」がある。国歌「君が代」の~千代に八千代にさざれ~のさざれ石である。

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すぐ先、左手に中学校と併設になった小学校がありこのあたりが説明版に書かれている「本陣」があった所のようだ。続いて「問屋場・山崎家」がある。ここは美濃十六宿で当時のまゝ現存している唯一の問屋場だそうでさらに常夜灯が並んでいる。説明版によると京都の問屋河内屋は、大名の荷物を運ぶ途中ここ今須宿付近で、その荷物を紛失し途方に暮れて金毘羅様に願掛けをしたところ荷物が出てきた。河内屋はそのお礼にとこの常夜灯を建立したとのことである。

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常夜灯から十分あまり行くと「車返・美濃国不破郡今須村」と彫られた碑が立っていてその先が坂になっている。「車返しの坂」の説明版が立てられておりその内容を要約すると「南北朝の時代、公卿の二条良基不破関屋の荒庇(ひさし)から漏れる月の光が面白いと聞き、都から牛車に乗ってやって来たのだがこの地で、屋根は直してしまったと聞き「なんだ面白くない」と引き返してしまったという伝説から車返しの坂と呼ばれるようになった。」そうである。坂を上がると「車返し地蔵」が祀られている。

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この先、国道21号を横切りしばらく行くと「野ざらし紀行」の帰りに芭蕉が詠んだ句の「句碑」が置かれている。

- 年暮れぬ 笠着て草履 履きながら -
- 正月も 美濃と近江や 閏月 -

その横には「おくのほそ道 芭蕉道」と彫られた碑と「奥の細道」書き出しを彫った碑が置かれている。

「月日は百代の過客にして、行き交ふ年もまた旅人なり。船の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老いを迎ふる者は、日々旅にして旅を栖(すみか)とす。古人も多く旅に死せるあり。・・・・・」

- 行春や 鳥啼魚の 目は泪 -  

- 蛤の ふたみにわかれ 行く秋ぞ -

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芭蕉句碑のすぐ先に、「寝物語・美濃国不破郡今須村」の碑が立っている。その横に細い溝があるが、ここが「岐阜県」と「滋賀県」の県境であり、かつては「美濃国」と「近江国」の国境でもあった。県境の隣に美濃国近江国の「国境碑」が立っている。

ここで美濃路に別れを告げ、近江路へと入っていくことになる。

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国境を越えてすぐの所に「寝物語の里」の碑があり由来碑が添えてある。

「近江と美濃の国境は、この碑の東十メートル余にある細い溝でした。この溝を挟んで両国の番所や旅篭があり、壁越しに「寝ながら他国の人と話し合えた」ので寝物語の名が生まれたと言われています。また、平治の乱(1159)後、源義朝を追って来た常盤御前が「夜ふけに隣り宿の話声から家来の江田行義と気付き奇遇を喜んだ」所とも、「源義経を追って来た静御前が江田源蔵と巡り会った」所とも伝えられています。

寝物語は中山道の古跡として名高く、古歌等にもこの名が出ていますし、広重の浮世絵にもここが描かれています。

- ひとり行く 旅ならなくに 秋の夜の 寝物語も しのぶばかりに - 太田道潅

平成四年一月 滋賀県米原市」(由来碑)

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「寝物語の里」は、「続膝栗毛」にも書かれている。

「弥次郎兵衛、喜多八は、東海道を行きがけの元気には似もつかず、ふところの内淋しければ、今こそ旅はうき美濃と近江の境、寝ものがたり村にいたり、茶店にいたり休みたるに夫婦と見えて茶たばこ盆持出(もちいで)、挨拶しければ、かかる身にも取あえず、

- 夫婦して 寝ものがたりは両国も さぞやひとつに 夜のたのしみ -」

すぐその先に「ここは中山道 寝物語の里」の標識と「ここは長久寺です」の立て札が立っている。

≪ここは長久寺です≫

「江濃のくにもしたしき柏はらなる岩佐女史に物し侍りぬ

 啼よむし 寝もの語りの 栞りとも  化月坊 (芭蕉十哲各務支考、美濃派十五世)」

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その先には「弘法大師御陀仏(おだぶつ=阿弥陀仏を唱えて往生する意)」の石碑が置かれている。

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その先の「神明神社」の横に「旧東山道」の道標が立っていて道が僅かに残っているだけで先へは行けない。

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中山道を進み、JRの踏切を越えて右に曲がると柏原宿である。

 

60宿 柏原宿・本陣1脇本陣1、旅籠22

(日本橋より114278間 約450.66キロ・今須宿より1里 約3.9キロ)

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柏原宿は江戸から近江路へ入って最初の宿場で、江戸より約百十四里、京までは約二十一里のところにある。 江戸時代には艾(もぐさ) の産地として有名で「伊吹もぐさ」の老舗、伊吹堂の建物は今でもそのまま残っている。宿場の規模は大きく、宿場の長さ十三丁(1420メートル)、戸数人口もこの辺りでは東の加納(岐阜市)、西の高宮(彦根市)に次ぐものである。 旅籠屋は、隣宿との距離が近かったにもかかわらず二十二軒もあった。 本陣、脇本陣は、それぞれ一軒、問屋は、六軒、問屋を補佐する年寄(村役人)は八軒あり、造り酒屋も一時は四軒もあった。

木曾路名所図会には、「柏原宿・今須まで一里。駅は伊吹山の麓にして、名産には伊吹艾(もぐさ)の店多し。」と紹介されている。

伊吹山近江国の歌枕で多くの人がこの地で歌を詠んでいる。

- かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを -(藤原実方後拾遺集
- 名に高き 越の白山 ゆきなれて伊吹の嶽を なにとこそ見ね -(紫式部集・紫式部

- 今日もまた かくや伊吹のさしも草 さらば我のみ燃えやわたらん -(和泉式部新古今和歌集
- 思いだに かからぬ山のさせも草 誰か伊吹の里は告げしぞ -(清少納言枕草子

- そのままよ 月もたのまじ 伊吹山 -(松尾芭蕉奥の細道

さて、宿場の入り口に柏原宿の碑に中山道分間延絵図がはめ込まれている。

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すぐ先に「照手姫笠懸地蔵堂」がある。背の低い方が照手姫地蔵だそうである。説明版が添えてある。小栗判官・照手姫にまつわる伝説の地蔵なのだそうだ。

内容を要約すると「常陸国(茨城県)小栗の城主、小栗判官助重が毒酒を盛られ落命の危機に逢いながらも、餓鬼阿弥となり一命を取止める。これを悲しんだ愛妾照手姫は夫助重を箱車に乗せ、懸命に車を引張ってここ野瀬まで辿りついた。そして野ざらしで路傍に佇む石地蔵を見つけ、自分の笠を掛けて一心に祈りを捧げたところ、地蔵は次のお告げをしたと聞く。- 立ちかへり 見てだにゆかば 法の舟に のせ野が原の 契り朽ちせじ -勇気を得た照手姫は喜んで熊野に行き、療養の甲斐あって夫・助重は全快したことから、再びこの地に来り、お礼にお寺を建て、石地蔵を本尊として祀った。」

照手姫の伝説については赤坂宿と関ケ原宿の間にある「青墓」にも伝えられている。

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地蔵堂からほどなく八幡神社があり境内に芭蕉句碑が置かれている。

芭蕉(桃青)の句文碑

「戸を開けはにしに やま有りいふきといふ花にも よらす雪にもよらす只 これ弧山の徳あり

 - 其まゝよ 月もたのまし 伊吹山 -   桃青」

芭蕉は、元禄二年(1689敦賀から「奥の細道結びの地・大垣」(芭蕉は大垣で「奥の細道」の紀行を終えている。)へ、伊吹山を左手に見ながら北国脇往還を歩いた。そのあと、大垣の門人高岡斜嶺邸の句会で、この句を残している。

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 八幡神社から先は古い町並みで昔の面影を残している。家々には屋号書いた看板が掲げられており、奈良井宿妻籠・馬籠宿ほどではないが宿場の保存に気を配っているように思える。

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宿場を歩くと「東の荷蔵跡」(立て札のみ)「問屋場跡」「旅籠・白木屋藤兵衛」「脇本陣跡」と続く。

≪東の荷蔵跡≫

「運送荷物の両隣宿への継立(駅伝運送)が、当日中に出来ない場合、荷物を蔵に保管した。この蔵は東蔵と呼ばれ、藩年貢米集荷の郷蔵でもあった。荷蔵は宿西部にもあった。」(説明版)

脇本陣跡≫

脇本陣は、大名・幕府役人・宮家・公家・高僧他貴人が、本陣を利用できないときの、公的休泊施設である。柏原宿は南部本陣の別家が本陣同様江戸時代を通じて勤めた。

間口はこの家と隣の郵便局を合せた広さで、屋敷は二百三十八坪、建坪は七十三坪あった。当家は問屋役を兼務していた。」(説明版)

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脇本陣跡の向かいには「旅籠屋 京丸五兵衛」看板が掲げられてあり、説明版が添えられている。

≪旅篭屋跡≫

「天保十四年、柏原宿では東部のここ市場町・東隣り宿村町と西部の御茶屋御殿辺りとに二十二軒の旅篭屋(宿屋)が集まっていた。

 同じ年の宿内職業記録には、

もぐさ屋 九軒(屋号の頭は、どこもみな亀屋)

造り酒屋 三  請負酒屋 十

炭売茶屋 十二 豆腐屋  九

(煮売屋)他商人  二十八

大工   十  鍛冶屋 一

諸職人  十三 医師  一

とある。」(説明版)

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さらに「柏原宿の説明版」復元図と共に立っている。

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そのすぐ先に「本陣跡」がある。

≪柏原宿本陣跡≫

「本陣は、大名・幕府役人・宮家・公家・高僧他貴人が利用する公的休泊施設である。柏原宿は江戸時代を通し南部家が本陣役を務めている。間口はこの家の両隣を合せた広さで、屋敷は五百二十六坪、建坪は百三十八坪あった。建物は皇女和宮宿泊の時、新築されてと云われる。」(説明版)

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その先には市場川に架かる市場橋があり、橋の手前に「葉山常夜灯」が立っていて当時は高札場があったのだという。

≪高札場(辻の札)跡≫

「高札場とは、幕府のお触書を板札にして、高く掲げた場所を云う。

高札は江戸中期以降幕末まで、正徳大高札六枚・明和高札一枚・その時の両隣宿までの運賃添高札一枚、計八枚が懸かっていた。

高札場は、道沿いの長さ4.8m、高さ0.91mの石垣を築き、その上に高さ3.33mの高札懸けの建物があった。」(説明版)

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橋を渡った左手の大きな古民家が見えるが、ここは寛文元年(1661)創業の艾(もぐさ)店・伊吹堂である。屋号には「艾屋 亀屋 七兵衛左京」を書かれている。

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伊吹屋の向かいに「巌佐九兵衛」の屋号を掲げた造り酒屋がある。

「柏原宿は水量水質に恵まれ、酒株は宿内合せ百五十石が許可され、数軒の店が酒造りに励んだ。当家は慶長年間の酒造り記録が残る代表的な店であった。江戸後期に一時醤油醸造に転業したが、明治初めに造り酒屋に戻った」(説明版)。

「泰助分家・山根庄太郎」の屋号を掲げた造り酒屋もある。

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中山道六拾番 柏原宿」の看板と共に柏原宿に碑が立っている。

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10分ほど歩くと「中山道 柏原宿」の大きな標柱があり「日枝神社」「造り酒屋・亀屋左京分家 松浦作佐衛門」の旧家が並んでいる。日枝神社の本殿や茅葺屋根である。

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少し先に「西の荷蔵跡」がある。「運送荷物の東西両隣宿への継立(駅伝運送)が、当日中処理出来ない場合、荷物を蔵に預かった。この蔵は西蔵と呼ばれ、藩年貢米集荷の郷蔵でもあった。」(説明版より)

その先には「従是明星山薬師道」と彫られた道標が立っている。「最澄が創立したと云う明星山明星輪寺泉明院への道しるべである。宿内東に、同じ薬師仏を本尊とする長福寺があったので、明星山薬師道、西やくし道とも呼んだ。

この道標は享保二年(1717)と古く、正面が漢文、横に面が平仮名・変体仮名を使った二つの和文体で刻まれている。」(説明版より)

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道標の先の交差点を越えると向こう側の公園に「御茶屋御殿跡」がある。

≪柏原御茶屋御殿跡≫

「江戸初め、将軍上洛下向(京都・江戸間の通行)の際の宿泊・休憩の目的で、街道の各所に設けられた館で、近江では、柏原御殿と野洲の永原御殿、水口の水口御殿を合せて「近江三御殿」と称されてきた。

天正十六年(1588)、徳川家康が上洛の際、当地の西村家で休息。以後、中山道通過の際の恒例となっていたが、通過が頻繁になったため、元和九年(1623)、二代将軍秀忠が殿舎を新築。以後御殿番を置いて守備してきた。」(説明版より)

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その先に「郷宿・加藤家」がある。郷宿とは、脇本陣と旅籠屋の中間、武士や公用で旅する庄屋などの休泊に使用されてきたという。

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中井川橋、丸山橋を渡って先に進むと、左手に「一里塚」が復元されている。江戸から数えて百十五番目の「柏原の一里塚」である。

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一里塚から5分程行くと「西見附跡」の説明版が立っている。

「柏原宿西の入口で、道の両側に喰い違いの土手(土塁)がある。見付の語源は城門で、宿場用語になった。(中略)

柏原宿は、東見付まで十三町(1.4Km)。長く高地の町並が続く。」(説明版より)

その先は、松並木で「中山道分間延絵図」が埋め込まれた中山道の碑が置かれている。

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さらに、「東山道と九里半街道」の説明版が立っている。

≪古道東山道の道筋≫

東山道は、横河駅があった梓を中山道と同じ道で東へ進み、長沢を過ぎ、ここ北畠具行卿参道入口のある谷間で、中山道と分かれ山越えをする。徳源院のある清滝へ降り、右へ折れ、成菩堤院裏山の北側を東進する。JR野瀬(山)の踏切に至り、再び中山道と合流して、県境長久寺へと向う。」

≪九里半街道≫

中山道関ヶ原宿と番場宿の間は、九里半街道とも呼ばれた。

木曽・長良・揖斐三川の水運荷物は、牧田川養老三湊に陸揚げされ、関ヶ原から中山道に入り番場宿で、船積みの米原湊道へ進む。牧田から米原湊までの行程は九里半あった。関が原・今須・柏原・醒ヶ井・番場の五宿は。この積荷で、六、七軒と問屋が多かった。」

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ここで道は二つに分かれ、右の道を5分程行くと「鶯が原」の説明版が立っている。

木曽路名所図会」(文化二年(1805))に、長沢(ながそ)村を過て、鶯が原に至り、柏原の宿に着く。

また、太田道灌、江戸から京都への旅日記「平安紀行」(文明十二年〈1480〉)に、鶯の原といふ所にて

- 聞まゝに かすみし春そ しのはるゝ 名さえなつかし 鶯の原 -」(説明版より)

その先には、「掃除丁場と並び松」の案内板がある。

「掃除丁場とは、街道掃除の持場・受付区域のこと。

貴人の通行に備え、街道の路面整備・道路敷の除草と松並木の枯木・倒木の処置・補植に、柏原宿では江戸後期二十一ケ村が夫役として従事した。

丁場の小さい所は、伊吹上平等村で15m、大きい所では、柏原宿を除き長浜の加田村で488mもあった。

江戸時代の柏原宿では、松並木のことを「並び松」と呼んでいた。」(案内板)

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道は先ほど別れた道に合流するがその先に「従是明星山薬師道」の道標が立っている。

ほどなく道が二つに分かれるが、旧道は右の道を行くことになる。この道はかつての東山道でもあった。
しばらく行くと「小川(こがわ)の関跡」がある。不破関壬申の乱後に設けられたが
この関屋はそれ以前からあったのだそうだ。

続いて「天の川源流 菖蒲池跡」の碑が置かれている。

君がながしき例(ため)しに長沢の 池のあやめは今日ぞ引かるゝ  大納言俊光

「此の池の芹、名産なり、相伝う。古昔二町(218m)四方の池なりと。今は多く田地となりて、漸く方二十間(36m)計りの池となれり。」 享保十九年(1734)『近江與地志略』。その後、天保十四年(1843)には、「菖蒲ケ池と申し伝へ候旧地これ有り。」と 『中山道宿村大概帳』。江戸後期には消滅したようである。

『近江坂田郡志』は、この池が天野川の水源だったと述べている。」(菖蒲池跡・説明版)

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小川の関跡の横にある「左中山道・柏原宿枝郷 長沢(ながそ)・右旧中山道」の道標に従って右の旧道へ入ると見事な杉並木である。

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しばらく行くと「東山道横河駅跡 梓 柏原宿 江戸後期大和郡山領 」の道標が置かれている。道標に従って旧道を行き梓川を渡ると東山道時代の横川駅があった梓集落で、道標から10分程行くと今度は松並木である。旧道はやがて国道21号に合流し、その先に大きな「中山道碑」が立っている。

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中山道碑の先で国道と分かれ再び旧道に入っていくと「八幡神社」がありそこから数分行くと「一里塚跡碑」が置かれている。江戸から百十六番目の一里塚があった所である。

さらに5分程行くと「佛心水」と書かれた井戸がある。

「佛教用語で「仏心」とは、仏のこころ、大慈悲(心)のことをいいます。

中山道馬頭観音の近くにあり、街道を往来する馬の息災を祈願し、江戸時代後期に建立された馬頭観音に対して、この井戸は、旅人の喉を潤すだけでなく御仏の慈悲のもとで旅の安全を祈願したような意味があると考えられます。他に事例が見当たらないこと、中山道の要所にあることから非常に貴重なものだと思われます。地緑団体・一式区」(説明版)む~!中山道を歩いてたくさんの馬頭観音を見てきたが「佛心水」を見たのはこれが初めてである。今はもうなくなってしまったのだろう。それとも見落としたか?

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鶯が原の説明版にもあったが「木曽路名所図会」にこのあたりのことが書かれている。

「醒井の清水に憩いて一色むら・安佐川(あんざがわ)、あなたこなたと幾瀬もわたり、あんざ村を過ぎぬ。ある人、梓山・あずさの杣(そま)はここなりといへり。曽丹集(そたんしゅう)に、梓山美濃の中道と詠まれしなれば、美濃国也。契沖(けいちゅう)の吐懐編(とくはいへん」にも此訳を出されたり。長沢村を過ぎて、鶯が原に到り、柏原の宿に着く。

(「木曽路名所図会」は、京から江戸への名所案内であるから逆方向となる。)

(曽丹集=平安末期の曽禰好忠 (そねのよしただ) 作の私家集で毎月集と百首および源順 (みなもとのしたごう) の答歌百首などからなる。)

(契沖=江戸時代中期(寛永から元禄)の真言宗の僧、古典学者)

この先は坂道で坂を下れば「醒井宿」であるが、坂の途中に「鶯が端」の説明版がフェンスにかけられている。

「ここからは、特に西方の眺めがよく、はるか山間には京都の空が望めるというので有名で、旅人はみな足をとめて休息したという。平安時代歌人で、中古三十六歌仙の一人、能因法師も- 旅やどり ゆめ醒井(さめがい)の かたほとり 初音のたかし 鶯ヶ端 -と詠んでいる」(説明版)

坂を下り切ると今度は「見附跡、桝形」の説明版がある

「醒井宿の東西には、見附(番所)が設けられ、東の見附から西の見附まで八町二間(876m)が醒井宿であった。東の見附のすぐ西には、道が直角に右に曲がり、少し行くと左に曲がる、枡形になっている。枡形は、城郭や城下町にあり、城では、一の門と二の門との間に設けられ、敵の進む勢いを鈍らせたという。」(説明版)

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61宿 醒井宿・本陣1脇本陣1、旅籠11

(日本橋より11698間 約456.55キロ・柏原宿より118町 約5.9キロ)

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醒井宿(さめがい)は古く東山道の時代から宿駅として栄え「三水四石」と呼ばれる名所がある。ここは日本武尊(やまとたけるのみこと)にまつわる伝説が多く残っておりその名も名水が湧き出る泉で日本武尊が目を覚ましたところからきているという。

また、多くの旅人がこの地で歌を詠んだ歌枕でもある。

- 水上は 清き流れの醒井に 浮世の垢を すすぎてやみん -   西行
- わくらばに 行きて見てしか 醒が井の 古き清水に やどる月影 -   源実朝
- 旅やどり 夢醒ヶ井の かたほとり 初音も高し 鶯が端 -   能因法師

「さめが井という水、夏ならば、うちすぎまじやと思ふに、かち人はなをたちよりてくむめり。- むすふ手に にこる心をすすきなは 浮世の夢や さめか井の水 - 阿 仏」(十六夜日記)

音に聞きし醒井を見れば、かげたかき木の枝、岩根より流れいづる清水、あまりすずしきまですみわたりて、まことに身にしむばかり也。

- 道のへの 木陰の清水むすふとて しばしすすまぬ 旅人ぞなき - 光 行 (光行紀行)

「木曾路名所図会」には「柏原まで一理半。此駅に三水四石の名所あり。町中(まちなか)に流れありて、至りて清し。寒暑にも増減なし。(中略)此清水の前には茶店ありて、常に茶を入れ、醒井餅とて名産を商う。夏は心太(こころぶと=ところてん))・素麺(そうめん)を冷やして旅客に出す。みな此清泉の潤ひなるべしとしられける。」と紹介されている。

さらに十返舎一九の続膝栗毛には「六はら山をひだりに見て、ひぐち村いしうちをすぎて、さめがいのしゅくにいたる。ここにさめが井の清水というあり。

- 両の手に結ぶ清水の涼しくて こころの酔いも 醒が井の宿 -」と書かれている。

さて、宿場に入ると「中山道 醒井宿」と「中山道分間延絵図」が埋め込まれた碑が置かれている。

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先へ進むと「加茂神社」の鳥居が見えてくる。加茂神社は醒井宿の氏神として古くから信仰されてきた。神社の入り口から清水がこんこんと湧き出ているのが「居醒の清水(いさめのしみず)」で醒井宿三水の一つである。

景行天皇の時代に、伊吹山に大蛇が住みついて旅人を困らせていた。天皇は、日本武尊にこの大蛇を退治するよう命じた。尊は大蛇を切り伏せ多くの人の心配を除いたが大蛇の毒に犯されてしまった。やっとのことで醒井の地にたどり着き体をこの清水で冷やすと、不思議にも高熱の苦しみも取れ、体の調子もさわやかになった。それでこの水を「居醒の清水」と呼ぶようになった。」という伝説が残っている。

「居醒の清水」の立て札の横には「蟹石」が、さらに日本武尊が腰掛けたという「腰掛石と鞍懸石」がある。醒井宿四石のうち三石がここで見られるがもう一つはどこにあるのかわからなかった。

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加茂神社の隣には「延命地蔵堂」がある。

弘仁八年(西暦817年)百日を越える旱魃(かんばつ)を心配した嵯峨天皇の命により、伝教大師最澄)は比叡山の根本中堂に祭壇を設け、降雨を祈ると、薬師如来が夢の中に現れ、「ここより東へ数十里行ったところに清浄な泉がある。そこへ行って雨を求めよ。」と告げた。伝教大師が泉を尋ねてこの醒井の里にくると、白髪の老翁が忽然と現れ「わたしはこの水の守護神である。ここに衆生済度・寿福円満の地蔵尊の像を刻み安置せよ、そうすれば雨が降り草木も生き返るであろう。」と言い終ると水の中へ消えていった。大師は早速石工を集め、一丈二尺(3.6メートル)の地蔵菩薩の坐像を刻み、祈念すると、大雨が三日間降り続いた。

本尊の地蔵菩薩は、はじめ水中に安置されていたので、「尻冷し地蔵」と唱えられていとのだそうだ。」(醒井延命地蔵尊縁起より)

地蔵堂の前には雨森芳州(あめのもりほうしゅう)の歌が書かれた看板が建てれれている。 (雨森芳州=江戸時代中期の儒学者

- 水清き 人の心を さめが井や 底のさざれも 玉とみるまで - 芳州(古今集

地蔵堂の側の川中に「紫石灯籠」と書かれた立て札と共に石灯篭が立っている。

「木曾路名所図会」には、「紫石灯籠・地蔵堂の傍ら、水上にあり。此石名物也。いずれの所か出所しれず。」とある。

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居醒の清水から流れ出た湧水は「地蔵川」となって宿場を流れている。地蔵川に沿って歩くと「本陣跡」(今は樋口山という日本料理屋になっているようだ。)、その先地蔵川の向こうに「問屋場跡」が修復されて今は資料館になっている。

≪醒井宿問屋場(旧川口家住宅)米原町指定文化財

「この建物は中山道醒井宿で問屋を営んでいた川口家住宅です。問屋とは、宿場を通行する大名や役人に人足・馬を提供する事務を行っていたところです。現在、宿場に問屋が残されているところはほとんどありません。また、建築年代が十七世紀中から後半と推定される貴重な建物です。」(説明版)

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地蔵川に沿って趣のある古い町並みが続いているがその中に「ヤマキ醤油」の看板を見かけた。明治時代後半の創業ということで、醒井の清水で仕込んだ味噌と醤油は深い味わいがあるのだそうだ。その先には「江龍家表門」明治天皇御駐輦所と刻まれた碑が立っている。庄屋を務めていた江龍家の屋敷は本陣並の規模であったという。

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先に行くと醒井大橋の手前地蔵川の中に十王と刻まれた灯籠が立っている。これも醒井宿三水の一つ「十王水」である。

「平安中期の天台宗の高僧・浄蔵法師が諸国遍歴の途中、この水源を開き、仏縁を結ばれたと伝えられる。もとより浄蔵水と称すべきところを、近くに十王堂があったことから「十王水」と呼ばれるようになったという。」(説明版)

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その先、醒井大橋を渡ると「西行水」がある。西行水の上に泡子塚(あわこづか)と呼ばれている小さな五輪塔があり、西行にまつわる伝説が残されている。

「岩の上には、仁安三戌子年(にんあんさんねん、つちのえねどしのこと)秋建立の五輪塔があり、「一煎一服一期終即今端的雲脚泡」の十四文字が刻まれてあります。伝説では、西行法師東遊のとき、この泉の畔で休憩されたところ、茶店の娘が西行に恋をし、西行の立った後に飲み残しの茶の泡を飲むと不思議にも懐妊し、男の子を出産しました。その後西行法師が関東からの帰途またこの茶店で休憩したとき、娘よりことの一部始終を聞いた法師は、児を熟視して「今一滴の泡変じてこれ児をなる、もし我が子ならば元の泡に帰れ」と祈り、

- 水上は 清き流れの 醒井に 浮世の垢を すすぎてやみん -

と詠むと、児は忽ち消えて、元の泡になりました、西行は実に我が子なりと、この所に石塔を建てたということです。今もこの辺の小字名を児醒井といいます。」(説明版)

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このあたりから宿場はずれとなりすぐ先に「柏原宿へ一理半 中山道醒井宿 番場宿へ一理」の道標が立っている。その先5分程行くと「六軒茶屋跡」の碑が立っている。

≪六軒茶屋≫

「幕府の天領(直轄地)であった醒井宿は、享保九年(1724大和郡山藩の飛地領となった。藩主・柳沢候は、彦根藩・枝折との境界を明示するため、中山道の北側に、同じ形の茶屋六軒を建てた。この「六軒茶屋」は、中山道の名所となり、安藤広重の浮世絵にも描かれている。」(説明版)

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さらに5分程行くと「一類狐魂等衆」の碑が立っていて説明版が添えられている。

「江戸時代後期のある日、東の見附の石垣にもたれて、一人の旅の老人が、「母親の乳がのみたい・・・」とつぶやいていた。人々は相手にしなかったが、乳飲み子を抱いた一人の母親が気の毒に思い「私の乳でよかったら」と、自分の乳房をふくませてやりました。老人は、二口三口おいしそうに飲むと、目に涙を浮かべ「有り難うこざいました、本当の母親に会えたような気がします。懐に七〇両の金があるので、貴女に差し上げます」と言い終わると、母親に抱かれて眠る子のように、安らかに往生をとげました。この母親は、お金は頂くことは出来ないと、老人が埋葬された墓地の傍らに、「一類狐魂等衆」何と読むのかわからないが・・・)の碑を建て、供養したと伝えられています。」(説明版)

すぐ先に「中山道・阿南」の道標が立っている

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先へ進むこと56分、「茶屋道館」の看板を掲げた旧家があり、説明版が添えられている。

≪茶屋道館の由来≫

「この家屋は一見平屋つくりのように見えるが二階建てになっている。その理由として考えられることは、明治以降生活の洋風化の中で従来のかや葺きの屋根をこわし瓦葺きに変えた際、旧来の柱組みを利用したため低い二階造りとなったと思われる。裏側には土蔵が二棟ある。当時は財産として、米、骨董品、諸道具などを保管する金庫のような考え方であったものが二棟も現存するのは近隣では例が少なく、この家の主はかなりの財産家であったことが伺える。この家屋は永らく空き家になっていたものを当自治会が買いとり、この地の小字名「茶屋道」をとって「茶屋道館」と名付け歴史的資料を集めると共に中山道醒ヶ井宿と番場宿の中間に位置することから中山道散策者の一時の「憩」と「いっぷく場」として利用されることを期し中山道四百周年事業を記念して開館した。 平成十四年十一月二十三日 米原町河南区自治会」

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そこから30分ばかり歩くと小さな公園があり「中山道 一里塚の跡」の碑が置かれている。江戸から百十七番目の一里塚「久禮(くれ)の一里塚」があった所である。

「江戸へ約百十七里(459.5キロメートル)

京三条へ約十九里(74.6キロメートル)

 江戸時代には、三十六町を一里とし、一里毎道の両側に盛土して塚が築かれていました。川柳に、「くたびれた やつが見付ける 一里塚」とありますが、旅人は腰を下ろして一息し憩いの場にしたことでしょう。

久禮の一里塚には右側には「とねり木」、左側には「榎」が植えられていました。

 平成七年七月 米原町史談会」(説明版)

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一里塚を後に街道を行くと「中山道 問屋場跡」と彫られた碑が置かれている。

このあたりが番場宿の入り口であろう。そのすぐ先には「中山道番場宿」の大きな碑が「中山道分間絵図」と共に置かれている。その先に「米原 汽車汽船 道」と彫られた道標が立っている。湖東線(現東海道線)が開通した明治22年以降に建てられたものだそうである

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62宿 番場宿・本陣1脇本陣1、旅籠10

(日本橋より11798間 約460.5キロ・醒井宿より1里 約3.9キロ)

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番場宿は古く東山道の頃からの宿駅で、その名は全国的に知られていた。東山道時代は宿場は西番場にあったのだが、慶長年間になって米原へ出る道が開かれると、宿場機能は現在の東番場に移った。米原は番場宿から一理ほどで江戸時代は琵琶湖湖岸にあったことから物資輸送の基地として栄えた。

木曽路名所図会には「醒井まで三十町。長浜より米原まで帰り、これより東山道をたどる。磨針峠をこえて坂路を歩めば、程なく番場の駅にいたる。此宿は山家なれば農家あるは樵夫(しょうふ)ありて、旅舎もそなり。まず名にしおふ太平記に見えたる辻堂といふに詣ず。」と書かれている。

ところでJR東海道線が、大垣から垂井、関ケ原、柏原、近江長岡、醒井そして米原中山道沿いに走っているのもおもしろい。

さて、交差点を渡ると「脇本陣跡碑」、その先に「問屋場跡碑」、さらにその先にあるのは「本陣跡碑」が置かれている。その隣に同「問屋場跡」と「明治天皇番場御小休所」の碑が立っており、そのまた隣に「問屋場跡」が並んでいる。

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本陣跡碑の先に「南北朝の古戦場跡 蓮華寺 」「 瞼の母 番場忠太郎地蔵尊」 と記された標柱があり、続いて「史跡・蓮華寺」の標柱が立っている。

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参道を通って蓮華寺へ。境内には「血の川」、「斎藤茂吉の歌碑」、「北条仲時以下四百三十余名の墓」、「忠太郎地蔵尊」などがある。

≪蓮華寺≫

「寺伝によれば聖徳太子の建立で、もと法隆寺と称したが、鎌倉時代一向上人が土地の豪族土肥元頼の帰依を受けて再興し時宗一向派の本山となり、幾多の変遷を経て現在では浄土宗となっている。

北条仲時以下430余名自刃にまつわる過去帳や墳墓に悲哀を物語り、あるいは長谷川伸の「瞼の母」で有名な番場の忠太郎や、斎藤茂吉ゆかりの寺としてその歴史にふさわしい数々の逸話を秘めている。」(説明版)

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≪血の川≫

「元弘三年五月、京都合戦に敗れた六波羅探題北条仲時公は、北朝の天子光厳天皇及び二上皇・皇族等を奉じ、東国へ落ちのびるために中山道を下る途中当地にて南朝軍の重囲に陥り、奮戦したるも戦運味方せず戦いに敗れ、本堂前庭にて四百三十余名自刃す。鮮血滴り流れて川の如し。故に「血の川」と称す。時に元弘三年五月九日のことである。」(説明版)

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斎藤茂吉の歌碑≫

- 松風のおと聴く時はいにしえの 聖のごとく我は寂しむ -  茂吉

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北条仲時公並に四百三十余名の墓≫

「元弘三年五月七日京都合戦で足利尊氏に敗れた六波羅探題北条仲時公は北朝の天子光厳天皇後伏見華園二上皇を奉じて中山道を下り番場の宿に辿りつたが佐々木道誉に行く手を阻まれ、蓮華寺で仲時以下430余名が自刃して果てた。

時の住職は、その姓名と年令法名を一巻の過去帳に留め、墓を建立してその冥福を祈った。」

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≪忠太郎地蔵尊

瞼の母・番場の忠太郎」の作者、長谷川伸が親をたづねる子には親を、子をたづねる親には子をめぐり合わせ給えと悲願をこめて建立した地蔵尊だそうだ。

沓掛宿の長倉神社には、同じ長谷川伸が生み出した沓掛時次郎の碑があったがここでは、小説の主人公が地蔵尊として祀られていた。

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蓮華寺を出て街道に戻り先へ行くと東山道時代に宿駅だった西番場である。「中山道・西番場/古代東山道・江洲番場駅」の碑が置かれている。

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西番場を過ぎると街道は上り坂になり坂を上り切ったところは高速道路のトンネルになっているが昔は「小磨針峠」と呼ばれていたのだという。

そこから右の側道を少し下ると小さな地蔵堂があり、その傍らに湧き水が出ている。昔の旅人はここで喉を潤したのだろう。

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しばらく行くと左側に2本の道標が立っている。一方は古い道標と思われるが正面に「摺針峠 彦根」、左側面に「番場 醒井」、右側面に「中山 鳥居本」と刻まれている。もう一方には右も左も「中山道」と刻まれていた。

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中山道はこの道標から右手に入り「磨針峠(すりはりとおげ)」へ向かう。街道は急な上り坂になりすぐに磨針峠頂上に出る。のちにわかったことだが昔はこの上り坂の途中に一里塚があったのだそうだ。さしずめ「磨針の一里塚」江戸から百十八番目の一里塚ということか。

峠には当時、「望湖堂」と呼ばれていた茶店があり、説明版が立っている。

≪望湖堂跡≫

「江戸時代、摺針峠に望湖堂という大きな茶屋が設けられていた。峠を行き交う旅人は、ここで絶景を楽しみながら「するはり餅」に舌鼓を打った。参勤交代の大名や朝鮮通信使の使節、また幕末の和宮降嫁の際も当所に立ち寄っており、茶屋とは言いながらも建物は本陣構えで、「御小休御本陣」を自称するほどであった。その繁栄ぶりは、近隣の鳥居本宿と番場宿の本陣が、寛政七年(1795)八月、奉行宛に連署で、望湖堂に本陣まがいの営業を慎むように訴えていることからも推測される。

この望湖堂は、往時の姿をよく留め、参勤交代や朝鮮通信使の資料なども多数保管していたが、近年の火災で焼失したのが惜しまれる。」(説明版)

望湖堂跡から眺めは今も絶景だそうだが何分夕方であったため薄暗くかすんでいた。望湖堂跡の傍らに「明治天皇小休止跡碑」が立ち、家があったが、これは望湖堂を復元したものではない。

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磨針峠の望湖堂の碑に弘法大師縁の地と彫られている。

調べてみると以下のような伝説が残っていた。

昔、諸国を修行する若き僧がこの峠にたどり着いたとき、老婆が斧を石で磨いていた。「何をしているのか」と尋ねると老婆は「大切な針を折ってしまったので、斧を磨いて針を作っている。」と言う。若き僧は その言葉に目覚め、自分の意志の弱さを知って修行に励んだ。後の弘法大師である。

「磨針峠」の名もここからきたのであろう。

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続膝栗毛で弥次さん、喜多さんも磨針峠をこえていく。「それよりほどなく、すりはりたうげ(磨針峠)にいたり、ちゃ屋に入てこの所のめいぶつ、さたうもち(砂糖餅)にはらをこやし、目の下に見ゆる水うみのけしきに見とれて、こいつは気がはれてとんだいいところだ。

- 遠眼鏡(とおめがね)よりもまさらん摺針(すりはり)の穴よりや見る湖(うみ)の景色(けいしょく) - (摺針峠(磨針峠)に掛けて、針の穴より天をのぞくという諺を引用している。)」

ふたりのそばに金持ちらしいご隠居が感心して「あい、あっちもひとつやらかしやせうか

- 名物のさたうもち(砂糖餅)より唐崎に雨気(あまけ)もなくて はれわたる湖(うみ) -(砂糖に辛いと唐崎、甘いと雨気(あまけ)が語呂合わせになっている。近江八景の一つに唐崎の夜雨(やう)があるのをも詠みこんでいる。)

この後、弥次さん、喜多さんはご隠居の家へ招かれるのだが行ってみれば脇本陣の大邸宅であった。

近江八景

上・左から石山秋月(いしやまのしゅうげつ)・勢多の夕輝(せたのせきしょう)

粟津晴(あわづのせいらん)・矢橋帰帆 (やばせのきはん)

下・左から三井晩鐘(みついのばんしょう)・唐崎夜雨 (からさきのやう)

     堅田落雁(かたたのらくがん)・比良暮雪(ひらのぼせつ)

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 さて、峠の下りは草深い旧道を下って行くことになり、旧道はやがて国道8号に合流する。

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橋を渡って再び旧道に入っていくと左手に「おいでやす彦根へ」と彫られたモニュメントが立っていて、そのすぐ先に「中山道鳥居本町」の碑が置かれている。

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63宿 鳥居本宿・本陣1脇本陣2、旅籠35

(日本橋より118108間 約464.5キロ・醒井宿より11町 約4.0キロ)

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鳥居本が宿駅に制定されたのは寛永年間(16241623)で比較的遅く東山道時代は隣の「小野の集落」が宿場として機能していた。鳥居本の名の由来は隣の宿場高宮にある「多賀大社」の一の鳥居があったからだという。

「番場まで一理六町。むかし多賀神社の鳥居、此駅にありしより名づくる。今はなし。

彦根まで一理、八幡へ六里。此駅の名物神教丸(しんきょうがん)、俗に鳥居本赤玉ともいふ。此店多し」(木曽路名所図会)

石田三成が築いた巨城「佐和山城」の大手門は、この鳥居本にあった。

さて、宿場に入ると道は桝形になっており右に曲がると大きな旧家・有川家があり立派な門の前には「明治天皇鳥居本御小休所」の碑が立っている。

「万治元年(1658)創業の赤玉神教丸本舗は、今も昔ながらの製法を伝えています。

有川家の先祖は磯野丹波守に仕え、鵜川氏を名乗っていましたが、有栖川宮家への出入りを許されたことが縁で有川姓を名乗るようになりました。

近江名所図会に描かれたように店頭販売を主とし、中山道を往来する旅人は競って赤玉神教丸を買い求めました。

現在の建物は宝暦年間(17511764)に建てられたもので、右手の建物は明治十一年(1878明治天皇北陸巡幸の時に増築され、ご休憩所となりました。彦根市指定文化財」(赤玉神教丸有川家説明版)

続膝栗毛にも「此所の神教丸名物なり。

- もろもろの病の毒を消すとかやこの赤玉も珊瑚珠(さんごじゅ)の色 -」とある。

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鳥居本宿の名産は合羽であった。「本家 合羽所 木綿屋 嘉右衛門」と書かれた当時の看板が今も家の前に吊り下げられている。

「享保五年(1720)馬場弥五郎が創業したことに始まる鳥居本合羽は、雨の多い木曽路に向う旅人が雨具として多く買い求め、文化・文政年間(180430) には十五軒の合羽所がありました。天保三年(1932)創業の木綿屋は鳥居本宿の一番北に位置する合羽屋で、東京や伊勢方面に販路を持ち、大名家や寺院、商家を得意先として大八車などに覆いかぶせるシート状の合羽を主に製造していましたので、合羽に刷り込んださまざまな型紙が当家に現存します。」(説明版)

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木綿屋のすぐ先には「本陣跡」、「脇本陣跡」と続く。

鳥居本本宿の本陣を代々務めた寺村家は、観音寺城六角氏の配下にありましたが、六角氏滅亡後、小野宿の本陣役を務めました。佐和山城落城後、小野宿は廃止され、慶長八年(1603鳥居本に宿場が移るとともに鳥居本宿本陣役となりました。

本陣屋敷は合計二〇一帖もある広い屋敷でしたが、明治になって大名の宿舎に利用した部分は売り払われ、住居部分が、昭和十年頃ヴォーリズの設計による洋館に建て直されました。倉庫に転用された本陣の門が現存しています。」(旧本陣・寺村家 説明版)

鳥居本宿には脇本陣が二軒ありましたが、本陣前の脇本陣は早くに消滅し、問屋を兼ねた高橋家のようすは、上田道三氏の絵画に残されています。それによると、間口のうち左三分の一ほどに塀があり、その中央の棟門は脇本陣の施設で、奥には大名の寝室がありました。そして屋敷の南半分が人馬継立を行う施設である問屋場です。人馬継立とは当時の輸送システムで、中山道では宿ごとに五十人の人足と五十疋の馬を常備するよう定められていて、次の宿まで常備した人や馬を使って荷物を運んでいました。」(脇本陣問屋場 説明版)

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時計は午後5時半を過ぎている。本日はここまで。

近江鉄道鳥居本駅から本日の宿泊地コンフォートホテル彦根へ。

鳥居本駅は趣のある駅舎である。

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