中山道旅日記 22 鳥居本宿-高宮宿-愛知川宿-武佐宿

31日目(518日(水))鳥居本宿-高宮宿-愛知川宿-武佐宿

コンフォートホテル彦根を出て近江鉄道鳥居本駅へ着いたのが午前8時過ぎ。

街道に戻る手前に「藤原定家を支えた里」と書かれた立て札が立っている。

鳥居本と小野周辺は、平安時代「吉富荘」という荘園で、領主は、藤原定家一族でした。定家が、「新古今和歌集」や「百人一首」を編めた(あめた)のも、「源氏物語」を写本して、現代に伝えられたのも、鳥居本や小野の人々が定家を支えたからです。」

街道に戻り、先へ行くと「合羽所・松屋」の看板が目に付く。鳥居本の合羽の製造は1970代に終焉したが、江戸時代は木曽へ向かう旅人に大変人気があったそうである。

宿場を歩くと虫籠窓の家、卯建のある家、ベンガラ塗りの格子戸の家が並んでいて当時の宿場の面影が偲ばれる。

(ベンガラとは土から取れる成分(酸化鉄)の顔料で紅殻、弁柄とも呼ばれ、インドのベンガル地方より伝来したことからそう呼ばれた。日本の暮らしにも古くから根付いている素材で陶器や漆器、また防虫、防腐の機能性から家屋のベンガラ塗りとしても使用された。)

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「合羽所・松屋」の先には擬宝珠(ぎぼし)が乗っている桧皮葺(ひわだぶき)屋根と格子の扉が嵌められた(はめられた)常夜灯が建っている。なかなか豪華なものである。

常夜灯から数分の所に専宗寺がある。説明版によるとここは聖徳太子開祖の浄土真宗本願寺派の古寺で、かつては、佐和山城下町本町筋にあり、泉山泉寺と号していましたが、関ケ原合戦の後、寛永十七年(1640)に洞泉山専宗寺と改め、ここ西法寺村に移ってきた。本堂などの建立年代は十八世紀後半のものと推定され、山門右隣りの二階建ての太鼓門の天井は、佐和山城の遺構と伝わっている。

専宗寺から5分ほど先に「右 彦根道」「左 中山道 京・いせ道」と刻まれた道標が立っている。「ここは中山道彦根道(朝鮮人街道)との分岐点で道標は文政十年(1827)に立てられた。彦根道は二代彦根藩井伊直孝の時代に中山道と城下町を結ぶ脇街道として整備されたものである。」(説明版より)

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鳥居本宿を出ると田園風景が広がり「古宿」と書かれた立て札が立てられている。

この先の集落は小野村といい、東山道時代には宿駅(小野宿)で賑わったところである。

十六夜日記」には「十七の夜は、小野(おの)の宿といふ所にとゞまる。月出(いで)て山の峰に立続(たちつゞ)きたる松の木(こ)の間、けぢめ見えて、いと面白し。」とある。

小野の集落を行くと常夜灯と八幡神社と彫られた碑が立っている。

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その先に「小野小町塚」の碑と共に祠が祀られている。世に絶世の美女と讃えられた六歌仙の一人・小野小町は、ここ小野村が出生の地とされているが・・・・。

「小野美実が奥州に下る途中、小野に一夜を求め生後間もない女児に出会った。美実はこの女児を養子にもらい受け出羽国へ連れて行ったが、この女児が小町という」(説明版より)

 小町塚には、小野地蔵として親しまれてきた石仏がある。小野地蔵は自然石を利用して、阿弥陀如来座像が浮彫りにされている。正面だけでなく、両側面にも彫り込まれており、類例が少なく貴重なものである。」(説明版より)

木曽路名所図会には「小野村道の右の上に石仏地蔵堂あり。小町塚といふ。」とある。

古今和歌集の序文(仮名序=かなで書いた序文)で紀貫之は、

小野小町は いにしへの衣通姫(そとおりひめ)の流なり
あはれなるやうにて強からず
いはばよき女の悩めるところあるに似たり
強からぬは 女の歌なればなるべし
- 思ひつつぬればや人の見えつらむ 夢と知りせばさめざらましを -
- 色見えでうつろふものは世の中の 人の心の花にぞありける -
- わびぬれば身をうき草の根をたえて さそふ水あらばいなむとぞ思ふ -
衣通姫(そとおりひめ)の歌
- わがせこがくべきよひなりささがにのくものふるまひかねてしるしも -

衣通姫(そとおりひめ)とは、古事記日本書紀で絶世の美女と伝承される人物で、その美しさが衣を通して光り輝いたといわれている。)

紀貫之は「小野小町の歌は衣通姫の歌と同じように、嫋々(じょうじょう)たる女心を歌ったものである」といっているようだが、小野小町衣通姫と同じような美人であると解釈されているようだ。

余談ではあるが日本の三大美人とは、衣通姫(そとおりひめ)小野小町藤原道綱の母(蜻蛉日記の作者)、ちなみに中国四大美人とは、西施(春秋時代)、王昭君(漢)、貂蝉(ちょうせん:三国志演義・連環の計=実在の人物ではない)、楊貴妃(唐)とされている。

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その先新幹線のガードをくぐると森川許原と呼ばれる集落で「原・東山霊園」がありその管理事務所の横に森川許六の句碑が立っている。

- 水すじを 尋ねてみれば 柳かな - 許六

森川許六彦根藩士で、近江の松尾芭蕉の門人グループ・近江蕉門(おうみしょうもん)の一人、芭蕉十哲といわれた人物である。

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街道を先に行くと「八幡神社」で「昼寝塚」と「白髪塚」があり、説明版が立っている。

≪ひるね塚 芭蕉の句碑≫

- ひるかおに ひるねせうもの とこのやま -
「俳聖松尾芭蕉中山道を往来する旅人が夏の暑い日に、この涼しい境内地で昼寝などしている、つかのまの休息をしている「床」と「鳥籠山・とこのやま」をかけて詠われたものと思われます。」(説明版)
≪白髪塚≫

- 恥ながら 残す白髪や 秋の風 -
聖徳太子と守屋との戦い等、幾多の戦の将士達をあわれみ蕉門四世・祇川居士(陸奥の人)で芭蕉の門人が師の夏の句に対し秋を詠んだ句と思われる。」

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八幡神社の先右手に「千寧寺 五百羅漢 七丁余」の道標が「はらみち」と彫られた道標、「中山道 原町」の碑と共に立っている。

さらに先の交差点には常夜灯と共に道標が七基立っている。

金毘羅大権現 是より十一丁」、「安産観世音 是より四丁 慶光院」、「是より多賀ちかみち」あとはよく読めなかった。

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常夜灯を後に街道を行くと「芹川」に架かる「大堀橋」を渡ることになる。芹川は、かつては「不知哉川(いさやかわ)」と呼ばれ、近江の歌枕の地である。

- 淡海路(おうみじ)の鳥籠(とこ)の山なる不知哉川 日のころころは 恋つつもあらむ -  万葉集 巻四-四八七(淡海の海(おおみのうみ)は琵琶湖の古称)
- 犬上の鳥籠の山なる不知哉川(いさやかわ)不知とを聞こせ わか名告らすな -    万葉集 巻十一-二七一〇
- ひるがをに 昼寝せうもの 床の山 - 芭蕉(昼寝塚の句碑にも彫られている。)

(昼寝の床と鳥籠山を掛けている)

ところで、鳥籠山(とこのやま)は壬申の乱(じんしんのらん)の戦場になったところだそうだがどこのことなのかよくわからない。

その先には春日神社があり、石灯籠の横に「ここは地蔵町春日神社」と書かれた札が立っている。

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春日神社から10分程行き少し左へ入った所に勝満寺(しょうまんじ)があり、その鐘楼の前に「矢除地蔵尊」と書かれた祠がある。説明版を要約すると「第三十代・敏達天皇(びだつてんのう)のころ、仏教伝来に反対する物部守屋(もののべのもりや)と争った聖徳太子は、難を逃れてこの地に隠れていた。守屋の軍勢が太子を見つけ矢を射かけたところ、突如金色の地蔵菩薩が現れた。あとになって松の根方に小さな地蔵さんが右肩に矢を射こまれて血が流れた跡があった。世人はこれを尊び、お堂を建て、往来の安全を願った。」ということである。

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街道に戻るとその先に「金毘羅大権現」の道標が置かれている。10程先には「多賀神社」の道標がここにも置かれている。

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道標の右手に「石清水八幡宮」への階段があり、その途中に「扇塚」と彫られた碑が説明版と共に立っている。

≪扇塚(おおぎづか)≫

「“豊かなる時にあふぎのしるしとて ここにもきたの名を残しおく”

以前は扇塚と面塚(めんづか)とが一対になって建っていたそうだが、今は扇塚だけが残っている。井伊藩は、代々能楽の発展に力を入れてきたので、彦根には能楽を学ぶ人が多くあった。喜多古能(きたひさよし=江戸時代中期の能役者で喜多流能楽の流派)中興の祖ともいわれている)は、門人の養成に力をそそぎ、彦根をたちさるとき、扇子と面を残していった。それを埋め記念の塚がここに建てられたのである。」(説明版)

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石清水八幡宮を後に15分程行くと家の角に「右・彦根道 左すぐ中山道」と彫られた碑が残っている。ここからも彦根へ行く道があったようだ。

やがて近江鉄道の踏切があり常夜灯と「高宮宿」とかかれた大きなモニュメントが置かれている。高宮宿の入り口である。

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64宿 高宮宿・本陣1脇本陣2、旅籠23

(日本橋より119288間 約470.4キロ・鳥居本宿より118町 約5.9キロ)

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高宮宿は、中山道六十九次の江戸から六十四番目。

天保十四年の記録によれば、町の南北の長さ七町十六間 (約800m)の町並に、総戸数八百三十五・人口三千五百六十で、本庄宿に次ぐ中山道第二の大きさ、本陣一・脇本陣二・旅篭総数二十三等の宿場施設を持つ大宿であった。また、多賀神社への門前町 としてにぎわい、多賀神社第一の大鳥居がここに建っている。特産物として室町時代から全国的に有名になっていた高宮上布の集散地として、豊かな経済力を誇っていた。

中山道・高宮宿案内板)

高宮宿の特産品は麻織物で、高宮布として近江商人によって日本全国へ広まっていった。また、彦根藩から将軍家への献上品にもなっていたという。

「木曾路名所図会」にも「鳥居本まで一里半。此駅は布嶋(ぬのしま)類を商ふ(あきなう)家多し。此ほとり農家に高宮嶋細布(たかみやじまさいふ)多く織り出すなり。これを高宮布といふ。宿中に多賀鳥居あり。是より南三拾町許。」とある。

さて、近江鉄道の踏切を渡れば小さな祠があり「木之元分身地蔵」が祀られている。

説明版によれば、この地蔵菩薩はめずらしい木彫りで木之元の浄信寺にある眼病のご利益で名高い木之元地蔵の分身だそうだ。由来は定かではない。

宿場の町並みは当時の名残を残していて趣がある。

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分身地蔵から5分ほど行くと「座・楽庵」の看板を掲げた家がある。ここは高宮布の仕入れ問屋「布惣跡」である。

≪高宮布の布惣跡≫

「高宮布は高宮の周辺で産出された麻布のことで室町時代から貴族や上流階級の贈答品として珍重されていました。高宮細美とも近江上布ともよばれ江戸時代になってからも高宮はますます麻布の集散地として栄えました。

布惣では七つの蔵に一ぱい集荷された高宮布が全部出荷され、それが年に十二回繰り返さなければ平年でないといわれたと聞きます。

現在五つの蔵が残っており当時の高宮嶋の看板も現存しています。」(説明版)

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布惣跡の前が「高宮神社」である。鳥居をくぐると長い参道が続き途中に随身門(桜門)をくぐる。この随身門は嘉永二年(1849)のものだという。拝殿も立派なものである。

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随身門の右横「笠砂苑」の奥に芭蕉の句碑がある。

芭蕉句碑≫

「(庭園「笠砂苑」の左奥に建立)

- をりをりに 息吹を見てや 冬篭り - はせ越(芭蕉

この句は元禄4年、芭蕉が48歳冬の作といわれ、芭蕉門弟で千川亭 の兄弟 此筋・文鳥の家に泊まって詠んだ句。句碑の裏に建立年 「嘉永3年、庚戌林鐘」とあり、その下方に45名の名前が刻されている。 嘉永3年は1850年で林鐘は陰暦6月の異称。筆跡は桜井梅室。地元の俳人 がこの句を神門前左側(現在の祓所)に建立したもので、現在はこの庭園内に 移設されている」(説明版)

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高宮神社を後にし、古い宿場の町並みを楽しみながら歩いていると提灯の店があった。昔ながらの店のようだ。

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提灯店のすぐ先に大きな常夜灯が建っており、程なく高宮鳥居前交差点に多賀大社一の鳥居が建っている。また、鳥居の右足には「是より多賀みち三十丁」と刻まれた道標が立っている。

多賀大社鳥居(一の鳥居)は滋賀県指定有形文化財に指定されている。多賀大社から西方約四キロメートルの表参道に面して位置する石造明神鳥居は、同社の旧境界域を示している。多賀大社の創立は、奈良時代に完成した「古事記」や平安時代に編纂された「延喜式」にも見られる。」(説明版)

多賀大社は歴史のある神社のようだが約一里の道のりとのこと、今回は無理か。

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さて、大鳥居から太田川渡ったすぐ先の右手に連子格子(れんじこうし)の古民家(小林家)の前に「俳聖芭蕉翁旧跡 紙子塚」と彫られた碑があり、説明板が添えられている。

芭蕉の紙子塚(かみこづか)≫

「- たのむぞよ 寝酒なき夜の 古紙子 -

貞享元年(1684)の冬、縁あって小林家三代目の許しで一泊した芭蕉は、自分が横になっている姿の絵を描いてこの句を詠んだ。紙子とは紙で作った衣服のことで、小林家は新しい紙子羽織を芭蕉に贈り、その後、庭に塚を作り古い紙子を収めて「紙子塚」と名づけた。 高宮街づくり委員会」

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小林家の先の連子格子の古民家が「脇本陣跡」(塩谷家)で問屋場も兼ねていた。高宮宿には二軒の脇本陣があったが、もう一軒はどこにあるのかわからなかった。

続いて「本陣跡」(小林家)の門を見ることが出来る。今はこの門構えしか残っていない。

脇本陣跡≫

「江戸時代高宮宿には二軒の脇本陣があり、その一つがこの地におかれた。門構、玄関付き、間口約14m、建坪約244m²であったという。門前は領主の禁令などを掲示する高札場になっていた。

ここの脇本陣役は道中奉行の支配下にあり慶長十三年(1608)からは人馬の継立、休泊、飛脚、街道の維持管理を行う問屋を兼ねており問屋場とも呼ばれていた。

高宮街づくり委員会」(説明版)

≪本陣跡≫

江戸時代の参勤交代により大名が泊まる施設(公認旅館)を各宿場に設けたのが本陣である。

構造も武家風で、玄関・式台を構え、次座敷・次の間・奥書院・上段の間と連続した間取りであった。高宮宿の本陣は、一軒で門構え・玄関付で、間口約27m、建坪約396m²であったという。現在では表門のみが遺存されている。高宮街づくり委員会」(説明版)

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本陣跡の向かい側に「円照寺」があり、明治111111日に明治天皇が北陸東山御巡行帰途のこの円照寺に宿泊したということで「明治天皇行在聖跡」と彫られた碑が立っている。

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円照寺を後に数分行くと犬上川に「むちん橋」と呼ばれる橋が架かっている。橋の袂に「むちん橋地蔵」が祀られている。

≪むちん橋≫

「天保のはじめ、彦根藩は増水時の「川止め」で川を渡れなくなるのを解消するため、この地の富豪、藤野四郎兵衛・小林吟右衛門・馬場利左衛門らに費用を広く一般の人々から募らせ、橋をかけることを命じた。

当時、川渡しや仮橋が有料であったのに対し、この橋は渡り賃をとらなかったことから「むちんばし」と呼ばれた。 高宮街づくり委員会」(説明版)

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続膝栗毛では弥次さん、喜多さんが高宮川(犬上川)にさしかかると商人に名物の高宮嶋に晒布(さらしぬの)の類を買ってくれと頼まれる。弥次さんが金がないので買わないというと、商人「あなた、さらしはもってかいな」弥次さん「もっていやす、恥さらしというさらしを」 

- 買いもせず 名物の名の高宮に 恥をさらして とほるうき旅 - 

さて、むちん橋を渡り切ると宿外れとなり左手に「牛頭天王(ごずてんのう)道」の道標が置かれている。牛頭天皇とは神と仏を合体して信仰することで祇園精舎の守護神とされているのだそうだ。

しばらく行くと松と欅が混在した並木道になり、歩くにはまことに心地よい。

このあたりは当時、立場で栄えた「葛籠町(つづらちょう)」というところで「つづら」や「行李(こうり)」を売る店が多かったのだという。(今は「つづら」も「行李」も見かけることはほとんどない。)

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間もなく「産(うぶ)の宮」とかかれた小さな祠がある。ここは足利尊氏の子、議詮(よしあきら)の妻妾にまつわる神社で「由緒書き」を要約すると、「南北朝の争乱の頃、足利尊氏の子義詮が大垣を平定し翌五年京都へ帰ることになった。その時義詮に同行した妻妾が途中で男子を出産しが、君子は幼くして亡くなった。生母は悲しみのあまり髪を下ろして尼となりこの地に一庵(松寺)を結んで幼君を弔った。ここに土着した家臣九名が竹と藤蔓(ふじづる)でつくった葛籠を生産するようになり松寺の北方に一社を祀ってこの宮が出来た。古来「産の宮」として安産祈願に参詣する人が多い。」

産の宮を後に先へ行くとやがて「出町」の交差点がある。ここが彦根市豊郷町との境で

鳥居本の入り口で見かけた「おいでやす彦根」と同じモニュメントがあり、今度は「またおいでやす彦根」と彫られている。

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やがて街道はケヤキ並木となり、出町の集落にはいる。

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やがて四十九院(しじゅうくいん)の交差点があるがここには「縣社阿自岐神社(あじきじんじゃ)の石標と鳥居、常夜燈が立っている。

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10分程行くと「一里塚の郷 石畑」と彫られた碑が立っている。「ここは江戸時代後期には、高宮宿と愛知川宿の間の宿(あいのしゅく)として発展し、立場茶屋(たてばちゃや)が設けられ、旅人や馬の休息の場として賑わった。
ここ石畑の歴史は古く平安時代後期、文治元年(1185)源平の争乱の中、屋島の合戦で「弓矢の名手」として名を馳せた那須与一の次男石畠民部大輔宗信が、この辺りの豪族であった佐々木氏の旗頭として、那須城(城跡)を造りこの地を治めていた。 さらに、中山道の役場前交差点南(小字一里山)には、「一里塚」が設けられている。」(説明版より)これは江戸から百二十一番目の一里塚である。(醒井宿から番場宿へ向かう途中の久礼の一里塚が百十七番目だったので百十八、百十九、百二十番目の一里塚は見落としたか、それとも一里塚跡の表示さえも今は残っていないのか。)

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先へ進み豊郷町役場の交差点を越えると「伊藤長兵衛屋敷跡」の大きな碑があり、そのすぐ先の「伊藤忠兵衛旧邸」が記念館になっている。伊藤忠兵衛は「近江商人」として「近江麻布」を売り歩いていた近江商人から身を起した伊藤忠商事と丸紅の創業者である。

5分程先へ行くと「池」が復元されている。説明版によると「かつて、この地より北50mの所に金田池と称する湧水があり、との用水に使われると共に中山道を旅する人達の喉をうるおしてきたが、近年の地殻変化で埋め立てられたが永年名水として親しまれた池であるので、それを模して再現した。」のだそうだ。

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さらに数分、「又十屋敷」と記された大きな看板が掲げられている。この屋敷は、江戸末期より蝦夷と内地とを北前船を用いた交易で財を成した近江商人藤野家本宅跡である。敷地内には「逢坂山の車石」が置かれていて説明版が立っている。

「逢坂山は古来より難所として知られ江戸後期文化二年(一八〇五)脇坂義堂の発案に依り逢坂(大津)より京三条までの三里(約十二粁)に亘って車輪巾二列に花崗岩の厚板石が敷設された。総経費壱萬両もの巨費を必要とした。そこで近江商人中井源左衛門を筆頭に多くの有力者に金子の寄付を募り完成す。然し京へ上る往来の馬車多くこの様な轍(わかち)が深くなると敷替えられた。京にも店舗を持つ近江商人の活躍が伺える舗装道路のはしりと云われる。」(説明版)

また、看板の下に「一里塚址碑」が立っているが、これは以前豊郷町・石畑にあった碑を保存しているだけでここが一里塚跡ではない。

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又十屋敷の数分先、千樹寺門前の石碑は「江州音頭発祥地碑」。天正14年(1586)から続くという「江州音頭発祥の地」で江州音頭は観音堂竣工式の余興であったのだそうだ。

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ほどなく宇曽川に架かる「歌詰橋」を渡ることになるのだが、ここには「平将門」を打った藤原秀郷の伝説が残っている。

「天慶三年(960藤原秀郷は、東国で平将門の首級をあげた。秀郷が京に上るために、中山道をこの橋まできたとき、目を開いた将門の首が追いかけてきた。秀郷は将門の首に「歌を一首」と言うと、将門の首は歌に詰まり、この土橋の上に落ちたという。

以来、村人はこの橋を歌詰橋と呼ぶようになったのである。」(説明版より)

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歌詰橋から10程行くと「沓掛の三叉路」になり、直進が中山道、左は「豊満(とよみつ)神社」への道の道標が立っている。

三叉路から数分行くと「愛知川宿」と書かれた鏑木門をくぐり、さらに先へ行くと「愛知川宿北入口」の碑が立っていて傍らに多数の地蔵様が置かれている。「愛知川(えちがわ)宿」である。

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65宿 愛知川宿・本陣1脇本陣1、旅籠28

(日本橋より121288間 約478.3キロ・鳥居本宿より2里 約7.8キロ)

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愛知川宿も古く東山道の時代から栄えた宿駅で近江商人などの行き来で賑わった。

木曽路名所図会には「高宮まで弐里八町。此宿は煎茶の名産にして、能水(よくすい)に遭うなり。銘を一渓茶といふ。此辺はみな布嶋(ぬのじま)を織る。これを高宮嶋というふ。

 - えち川や 岩こす浪の瀬をはやみ くたす筏の いちはやの世や - 俊頼朝臣

とある。

宿場に入ってしばらく行くと大きな交差点に出るが、ここは「ポケットパーク」になっていて広重の愛知川宿の絵や道標が置かれている。道標の正面には「中山道 愛知川宿」、左側面には「左 高宮宿 二里」と彫られている。さらに明治初期に使われた黒い郵便ポストが置かれている。この珍しい黒いポストは実際に使われていたものだそうだ。

≪書状集箱≫

「このポスト(書状集箱)は、明治4年(西暦1871年)郵便創業当時使用していたものと同じ型のものであり、「ポケットパーク」が、町のシンボルとして、愛知川町は、かっての「木曽海道」六十九次の六十六番目の宿場町として栄えたことを記念されたところから、その景観等に合わせて設置したものです。

なお、このポストは、他のポスト同様に取り集めを行いますので、ご利用下さい。平成五年四月二十二日 愛知川郵便局長」(説明版)

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交差点を越えた右手に「親鸞聖人御旧跡」の標柱が立っている。ここは「豊満寺」参道の入り口で、建歴2年(12128月、親鸞が流罪の地、越後から京都へ帰る道すがら、愛知川が氾濫して川を渡ることが出来なかった時にここに宿を取ったと伝えられている。寺には親鸞が植えた紅梅や直筆の掛け軸も残っているそうだが先を急ぐので立ち寄ることが出来なかった。

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先へ行くと日本生命の営業所があるがここが本陣のあった所だそうだが「源町・本陣跡」の表示板のみが掲げられているだけで当時を偲ぶものは何もない。

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すぐその先には「八幡神社」があり、脇に「高札場跡」の碑が立っている。その隣に立派な旧家があるが土地の人の話ではその家が「脇本陣」だったという。以前は脇本陣跡の碑が立てられていたのだそうだが今は取り払われてしまったようだ。

そこから15分ほど歩くと「問屋場跡」の碑が立てられている。

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すぐその先には「竹平楼」という立派な料亭があるが、ここは当時の旅籠屋で屋号を「竹の子屋」といったそうだ。左手に「明治天皇御聖跡」の碑が立てられており明治天皇もここで休息を取ったとのことである。

それはそうと、ここから見る町並みはどことなく風情がある。

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すぐその先に「不飲川(のまずがわ)」と呼ばれる小さな川が流れているのだがその名の由来は、この川の水は平将門の首を洗ったといわれる上流の「不飲池(のまずいけ)」から流れ出ていて、川の水も将門の血で染まって飲めなくなったという伝説からだそうだ。(これは後で分かったことでその時は気にも留めなかったので写真も撮っていない。)

さてその先には「一里塚跡」の碑が立てられている。江戸から百二十二番目の「愛知川西の一里塚である。

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10分程行くと愛知川に「御幸橋」と呼ばれる橋が架かっている。この橋は明治11年、明治天皇巡幸の際に架け替えられてそのように呼ぶようになったのだが以前は「むちん橋」と呼ばれていたそうで、その説明版が立てられている。

「無賃橋」は高宮宿にもあったが、ここは出水のたびに旅人や村人までも困らせたので、商人の寄付で橋が架けられ、誰もが無賃で渡れるようになったのだそうだ。広重の「恵智川」の絵にも「はし銭いらす・むちんはし」と書かれた柱が描かれている。

すぐ傍には祇園神社がある。

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御幸橋を渡り交差点を左折すると近江鉄道の踏切をこえるがそこに常夜灯が立っている。先へ進み再び近江鉄道の踏切を渡ると「東嶺禅師御誕生地」の碑が置かれている。東嶺禅師とは「臨済宗中興の祖」といわれているそうである。

このあたりの町並みもなかなかいい。

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5分ほど行くと虫籠窓の家がみられる。(前にも書いたが、虫籠窓とは町家の二階部分に、縦に格子状に開口部を設けた固定窓のことである。)さらに歩くと「御代参街道道標」が置かれている。道標には「左・いせ ひの 八日市みち」「右・京みち」と彫られている。この街道は公卿達の代参が伊勢神宮多賀大社へ参詣するために通った街道であったことから「御代参街道」と言われるようになったのだという。

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 御代参街道道標を過ぎると、ポケットパークがあり「太神宮」と彫られた常夜灯が立っている。四阿もあり休憩を取るのにちょうどいい。一休みとしよう。

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その先15分ばかりの所に地蔵堂があり、さらに15分ばかり歩くと大きな常夜灯が立っている。常夜灯の台座には「左 いせひの 八日市」、「右 京道」と彫られている。

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常夜灯から5分程行くと再びポケットパークがあり、「明治天皇北町屋小休所」の碑が立っている。その先に地蔵堂さらに「京町屋風商家」が並んでいる。

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先へ進み県道を越えると金毘羅大権現と彫られた常夜灯の横に藁葺屋根の古民家がある。ここは立場本陣であった「旧片山家住宅」である。

10分程歩くと旧道は国道8号に合流し、そこには「てんびんの里」側面に「旧中山道」と彫られた碑があり、天秤棒を担いだ「近江商人」が上に乗っている。(おいでやす彦根と同じ発想のようだ。)

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旧道は、いったん国道に合流するがすぐその先で右手に復活する。旧道に入ると数分で四阿の中に清水の湧き出す井戸があるが、ここは「清水鼻の名水」と呼ばれて当時は立場があった所である。名水は今もなお滾々と湧き出ている。

「続膝栗毛」には「かくて守山、武佐をうち過ぎて、相の宿(間の宿)清水がはなというところに、いたりし頃ははや日暮れて、行くさき覚束なく(おぼつなかく)・・・・」と書かれている。

名水から10分ばかり行ったところに「中山道・六十八番宿跡」の碑が置かれているが六十八番目は草津、武佐宿は六十六番目の宿駅のはずだが?

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30分ほど歩くと「中山道・東老蘇」の碑が立っていて、すぐ先に「奥石神社(おいそ)神社」がある。この神社は織田信長が寄進したもので今は重要文化財に指定されている。

木曽路名所図会」には「≪老蘇杜(おいそのもり)≫西生来(にしょうらい)のひがしに西老蘇・東老蘇の二カ村あり。南老蘇は街道の南にあり。」とある。

≪老蘇の森≫

「古来老蘇の森一帯は蒲生野(かもうの)と讃えられ老蘇・武佐・平田・市辺の四ヶ村周辺からなる大森林があった。(中略)奥石神社本紀によれば昔此の地一帯は地裂け水湧いて人住めず七代孝霊天皇の御宇石辺大連翁等住人がこの地裂けるを止めんとして神助を仰ぎ多くの松・杉・桧の苗を植えしところ不思議なる哉忽ちのうちに大森林になったと云われている。この大連翁は齢百数十才を数えて尚矍鑠(かくしゃく)と壮者を凌ぐ程であったので人呼んで「老蘇」と云ひこの森を老蘇の森と唱えはじめたとある。又大連はこの事を悦び社壇を築いたのが奥石神社の始めと傳えられている。」(説明場版)

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「老蘇の森」は歌枕の地でここでも多くの歌人が歌を残している。

- 東路の 思い出にせ むほととぎす 老蘇の森の夜半の一声 - 大江公資
- のがれえぬ 老蘇の杜の 紅葉ばは ちりかひくもる かひなかりけり - 兼好法師

- 世やはうき 霜より霜に 結びおく おいその杜の もとのくち葉は - 藤原定家
- いとせめて なを憂きものは 春をへて 老曽の森の 鶯のこゑ - 藤原為家

- みのよそに いつまでか見ん 東路の 老蘇の森に ふれる白雪 - 加茂真淵

街道に戻り数分先へ行くと陣屋小路と彫られた道標があり、それに従って路地に入っていくと「根来陣屋跡」の碑が立っている。説明版によれば「ここは江戸時代鉄砲の根来衆で有名な根来家の陣屋があった所だという。

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さらにその先の轟川に架かる轟橋の袂に「轟地蔵跡」と彫られた碑が立っている。

ここには常夜灯も残っている。

≪轟地蔵旧跡と轟橋≫(説明版)

現在福生寺に祭祀されている轟地蔵は中山道分間延絵図(重文1806年)には、この場所に画かれている。平安時代の俗謡「梁塵秘抄」のなかに「近江におかしき歌枕 老蘇轟 蒲生野布施の池‥‥」と歌われ、その轟にあやかって名付けられた。轟地蔵は小幡人形の可愛いい千体仏で安産祈願のお地蔵さんである。(中略)

近江輿地志略に掲載された轟橋の歌三首

 堀川百首  わきも子に近江なりせばさりと我文も見てまし轟の橋  兼昌

 夫木集   旅人も立川霧に音ばかり聞渡るかなとどろきのはし    覚盛

 古 歌   あられふり玉ゆりすえて見る計り暫しな踏みそ轟の橋  読人不知

轟橋を渡ると杉原氏庭園の説明板と「名勝 緑苔園」の立札が立っていて「県指定文化財」と書かれている。茅葺屋根の古民家が杉原家でその庭園のようだが個人の庭園なので中は見られそうもない。

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23分先に「中山道:大連寺橋」右側面に「右観音正寺・左十三仏」左側面に「右八日市・左安土」と彫られ道標が置かれている。さらに5分ほど先に「鎌若宮神社」がある。これが「木曽路名所図会」に書かれている西老蘇の「奥石神社」だという。

さらに「東光寺」という寺「中山道・西老蘇」の碑がありその先、小さな川のほとりに「泡子延命地蔵尊遺跡」と彫られた碑が立っている。 説明板によると「昔この地にあった茶店の娘がこの茶店で休んでいる一人の僧に恋をした。僧が立ち去った後、飲み残した茶を飲むと不思議にも懐妊し、男の子を産み落とした。

三年後その僧が再び現れ、娘がその話をすると僧が男の子にフッと息を吹きかけた。 するとその子は泡となり消えてしまったと言う。」

醒井宿にも同じような「泡子塚」の伝説があったようだが・・・。

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午後5時半を過ぎた。夕方忙しい時間だがこの静かな町並みは何とも心地よい。

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先へいくと「西福寺」があり「西生来(にしょうらい)」の集落には一里塚跡の碑が立っている。江戸から百二十四番目の「西生来一里塚」である。

(百二十三番目の一里塚は「清水鼻」の手前石塚の集落にあったというだが今は目印になるものは何も残っていない。)

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66宿 武佐宿・本陣1脇本陣1、旅籠28

(日本橋より124108間 約488.1キロ・鳥居本宿より218町 約9.8キロ)

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武佐宿の西50町ばかりのところに近江商人の町「近江八幡」があり商業が盛んであった。中山道の宿駅として旅人で賑わったのが武佐宿で近江商人の商いで賑わったのが近江八幡ということになる。

木曽路名所図会には、「愛知川まで弐里半。これより西の方によりて、八幡の町へ行く。道法(みちのり)五十町許あり。八幡:此辺の都会の地にして、商人多し。産物は蚊帳地及び布嶋・畳表(たたみおもて)・円座(わらなどでひらたく丸くあんで作った敷物。すわる時に使う。)・灯心(あんどんなどの芯(しん)・蒟蒻等なり。」とある。

さて、「西生来一里塚跡」から10分弱の所に「武佐宿・大門跡」の立て札がありすぐに「牟佐(武佐)神社」がある。

「武佐は古へ牟佐村主の古地なれば牟佐上下の両社は平安朝の時代神威高く貞観元慶二度神位階を授けられし事三代実録に見ゆ。当社はその牟佐下神なりといふ。近江蒲生郡志巻六より」(由緒書きより)

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牟佐神社を過ぎると左手に「明治天皇聖蹟」と彫られた碑が立っている。その先右手に鏑木門があり、左の柱に「武佐町会館」右の柱に「脇本陣跡」と書かれている。現在の武蔵会館が脇本陣跡であったことがわかる。

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すぐ先の交差点にポケットパークがあり、東屋、新しい灯籠、武佐宿の案内板が立っている。灯籠には、正面に「中山道六拾七番宿場武佐宿」「右 東京 約460KM」、左面に「右 いせ 約120KM」と彫られている。

「ここは中山道 第六十七番 (?)宿場 武佐宿です。武佐は昔「牟佐」又は「身狭」の字を使ったが江戸時代頃よりこの「武佐」をつかう。蒲生郡第一の賑わいをみせ 中山道の大きな驛として 人馬の継立は人夫五十人 馬五十駄を常設、本陣、脇本陣各々一、問屋二軒を有し旅籠は二十三軒あったと言われる。」(説明版より)

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その先は古い町並みになり「下川家・本陣跡」があるが現在は本陣門のみが残っている。

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先の十字路に八風街道道標が立っていて、「いせ ミな口 ひの 八日市 道」と彫られている。八風街道は武佐宿を起点として鈴鹿山脈の八風峠を越えて伊勢に至る街道で、近江地方に海産物を運んでいたのだという。

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すぐ先にある民家は松平周防守陣屋跡で家の右側に立派な石灯籠と愛宕山の石碑が立っている。この辺りは川越藩の飛び領地だったことから、管理のために藩主松平周防守がここに陣屋を置いた。

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屋跡から5分程の所に、石碑と愛宕山常夜燈が立っており、ここが西の高札場跡であった。その先に「武佐寺三丁」と彫られた道標が置かれている。

「武佐寺:本尊千手観音。上宮太子の寺念仏なり。平家没落の時、平重衡(たいらのしげひら)東下りのとき、此寺に憩う事、源平盛衰記に見えたり。」(木曾路名所図会)

そろそろ午後6時半、武佐寺まで足を延ばすのは無理のようだ。

すぐ先の近江鉄道武佐駅から今日の宿泊地「ベストイン近江八幡」へ行くことにする。

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