中山道旅日記 25 山科-京・三条大橋(最終回)

34日目(521日(土))山科-京・三条大橋

中山道一人歩きも山科から京の道のりを残すのみとなった。

中山道69次最後の一日である。

JR草津駅から山科駅に戻り街道に出たのが午前9時過ぎ、しばらく行くと「東海道」側面に「大津札の辻まで一里半」と彫られている道標が「車石」、「車石の説明版」と共に置かれている。その先には「五条別れ道標」が置かれていて、正面には「右ハ三条通」左側面に「左ハ五条橋ひがしにし六条大佛・今くまきよ水道」右側面に「願主 沢村道範建立」と彫られている。

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街道は三条通りに合流し、しばらく行くと「天智天皇山科陵(てんちてんのうやましなのみささぎ)」の入り口がある。

扶桑略記には「大化の改新中臣鎌足藤原鎌足)と共に蘇我入鹿(そがのいるか)を暗殺し、蘇我氏を滅ぼした中大兄皇子は、大津に都を移し天智天皇となった。天智天皇はある時、馬で山科に行ってそのまま戻らなかった。そこで沓が見つかった山科に墓を造った」との伝承が記されている。

天智天皇は病気により死亡したと日本書紀には書かれているのだが・・・・・。

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広い道路を渡り「旧東海道」の表示に従って旧道に入っていく。少し歩くと旧道は京へ入る「日ノ岡峠」越えの上り坂になっている。

坂を上ると「亀の水不動尊」がある。不動尊の入り口には亀の口から清水が湧き出ている珍しい水場がある。当時、江戸からの旅人は京を目の前にしてここで喉を潤して最後の峠を越えていったのだろう。

「亀の水不動尊は、一七三八(元文三)年、日ノ岡峠の改修に尽力した僧・木食(もくじき)正禅が結んだ庵(いおり)の名残で、峠の途中に構えた庵は休息所を兼ね、井戸水で牛馬の渇きをいやし、湯茶で旅人を接待したとされる。」(京都新聞・道ばた資料館より)

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峠道をしばらく上ると民家の前にひっそりと「旧東海道」の道標が置かれている。

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旧道はやがて三条通に合流するが交差点北側の山肌に「旧舗石・車石」の石盤がはめ込まれている。

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その先10分程の所に日向大明神の鳥居が見えてくる。

社伝によれば、第二十三代・顕宗天皇の御代に筑紫日向(ちくしひゅうが)の高千穂の峯の神蹟より神霊を移して創建されたのだそうだ。

応仁の乱で社殿は焼失したが江戸時代初期に再建され、現在は交通祈願の神社として有名になったとのことである。

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更に20分ばかり歩くと「三條通・東大津道」と彫られた道標が置かれておりすぐその先に「粟田神社」がある。

そこには「粟田焼発祥の地」と彫られた碑が立てられている。粟田焼は洛東粟田地域で生産された陶器の総称で,元来は粟田口焼という名称であったが,窯場が粟田一帯に拡大されたため粟田焼と呼ばれるようになった。

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そこから5分程歩いたところに「坂本龍馬 お龍結婚式場跡」の碑が置かれており、説明版が添えられている。

「当地は青蓮院の旧境内で、その塔頭金蔵寺跡です。元治元年(1864)8月初旬、当地本堂で、坂本龍馬と妻お龍()は「内祝言」、すなわち内々の結婚式をしました。 ・・・・・」(説明版より)

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すぐ先の白川橋の横に「是よりひだり ちおんゐん ぎおん きよ水みち」と彫られた「三条白川橋道標」が置かれている。これは延宝六年(1678)に建立された京都最古の道標なのだそうだ。

ここを左折し、川沿いをしばらく行くと路地の奥に「明智光秀の塚」がある。

山崎合戦(天王山の戦い)で秀吉に破れた光秀は、坂本城を目指して落ち延びる途中百姓に竹槍で刺されその後、自刃した。介錯をした家臣の溝尾茂朝が光秀の首を持ってこの近くまで来たが、夜が明けたためこの地に埋めた、と伝えられている。

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白川橋まで戻り歩くこと約15分「高山彦九郎皇居望拝之像」が置かれている。

高山彦九郎は江戸時代後期、勤皇を唱えて諸国を歩いた人物だそうだ。

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そしてすぐ先が鴨川に架かる三条大橋である。

鴨川は京都を代表する川で桟敷岳(さじきだけ)を源とし京都市街を流れて淀川に合流する。古くから多くの歌人が鴨川を題材にして歌を詠んでいる。

-鴨川の後瀬(のちせ)静けく 後も逢はむ 妹には我れは今ならずとも- 万葉集(二三四一)

-千鳥なく かもの河瀬の夜半の月 ひとつにみがく 山あゐのそで- 藤原定家

-みそぎする 賀茂の川風吹くらしも 涼みにゆかむ妹をともなひ- 曾禰好忠
-ちはやぶる賀茂の社の木綿襷(ゆうだすき)一日も君をかけぬ日はなし- 詠人不知(古今集

-かも河の みなそこすみて てる月を ゆきて見むとや 夏はらへする- 詠人不知(後撰和歌集

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橋の西詰に「弥次さん喜多さん」の銅像がある。横の立て札には「道中安全祈願・ふれあいの弥次喜多さん 旅は道づれ 世は情け 道中安全願いつつ ふれて楽しい 旅のはじまり」と書かれている。

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2016521日午前115分、中山道69次・百三十五里三十四町八間(約530キロ)

完全踏破。

 

エピローグ

2015521日(木)に日本橋をスタートした中山道一人歩きの旅はちょうど1年後の2016521日(土)京・三条大橋に着き、約530キロを踏破することができた。

延べ34日の旅であった。

中山道・第三宿「浦和」に住んでいるという単純な理由で軽い気持ちで始めた街道歩きであったが日を重ねるごとに面白くなり、途中からはガイドブックや「木曾路名所図会」で事前に見どころをチック、歩いた後は資料を調べるといった楽しみが加わった。

更に「太平記」、「平家物語」、「十六夜日記」や十返一九の「続膝栗毛」などの古典文学を読みながらの旅でもあった。

中山道は、東京・埼玉から群馬、長野、岐阜といった中央山岳地帯を貫いた街道で碓氷峠和田峠塩尻峠、鳥居峠馬籠峠、十三峠、摺針峠など当時は難所といわれた峠を越えなければならない。碓氷峠の頂上に立った時の感動、1日中誰にも会うことがなかった12月の和田峠越え、十三の峠を上り下りする長い峠道、琵琶湖を望める摺針峠など汗を拭き拭きの峠越えはそれぞれに趣があった。
木曽路の奈良井、福島、妻籠、馬籠など昔の風情を残す宿場町、東京をそのまま移動させたような軽井沢、温泉を楽しんだ下諏訪、山の中に取り残されたような大湫、細久手、強い雨に打たれた赤坂など思い出は尽きない。

その土地、土地に古くから語り継がれた伝説や伝承、歴史上の人物にまつわる逸話などにも触れることができた。

多くの古人が歌を詠んだ歌枕の地を訪れ、芭蕉や一茶の俳句にも出会った。

時には、関が原の合戦や壬申の乱、皇女和宮の降嫁、木曽義仲とその愛妾・巴、源義経とその母常盤御前など数々の歴史に思いをめぐらしたものである。

中山道旅日記 完